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NHK紅白歌合戦

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NHK紅白歌合戦

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NHK-Hall.jpg
第24回1973年)から会場として使用されているNHKホール
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
放送時間 毎年12月31日 19:15 - 23:45(270分)
放送期間 1951年1月3日第1回) - (テレビ放送は第4回1953年12月31日〉 - )(67回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 NHK(テレビ放送:総合テレビ[1]
プロデューサー 柴崎哲也(CP、第64回2013年〉 - )
出演者 各回の概要参照
音声 テレビではステレオ放送[2]
字幕 テレビのみリアルタイム字幕放送
データ放送 テレビでは双方向番組
オープニング 歌の力
(番組テーマ曲)
エンディング 蛍の光
外部リンク 公式サイト

特記事項:
第1回1951年) - 第3回1953年1月)までは正月の放送。大みそか(12月31日)の放送は第4回(1953年12月)から。よって1953年は放送が2回あった。
放送時間は第62回2011年)以降のもの。20:55 - 21:00は『NHKニュース』を放送。デジタル双方向機能対応番組。
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NHK紅白歌合戦
ジャンル 音楽番組 / 特別番組
放送方式 生放送
放送期間 1951年1月3日第1回) -
放送時間 毎年12月31日19:15 - 23:45(270分)
放送回数 67
放送局 ラジオではNHKラジオ第1
出演 #各回の概要参照
テーマ曲 歌の力
プロデューサー 柴崎哲也(CP、第64回2013年) - )
公式サイト 公式サイト
特記事項:
放送時間は第62回2011年) - 。20:55 - 21:00は『NHKニュース』を放送。
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NHK紅白歌合戦』(エヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、NHK1951年から放送している対抗形式の大型音楽番組日本長寿番組の一つ。通称は『紅白』。

概要

女性アーティストを紅組(あかぐみ)、男性アーティストを白組(しろぐみ)に分け、対抗形式で歌や演奏を披露する。当初は正月のラジオ番組であったが、NHKがテレビ放送を開始した後は大晦日の夜に移動し、「1年の締めくくり」の代名詞となる。放送が延期・中止されたことは1度もない。

日本を代表する人気歌手が大勢出演し、さらに歌手以外のゲストなどもその年人気を博した人物が選出されるため、放送開始当初から高視聴率を記録、深夜に及ぶ時間帯の番組でありながら、年間視聴率の上位に食い込み、多くの年で通年の最高値を弾きだしている。そのため国民の関心は高く、年の瀬から正月にかけて、新聞雑誌から、商売敵である民放局までが紅白に関する話題を取り上げる。

上述の通り、紅白の両組対抗形をとるが、番組の進行の上ではあくまでショーとして番組を構成する要素の一つであり、決して「対抗」を前面に押し出しているわけではない。ただし、あくまで形式上は「対抗」であるため、その組み合わせの枠の中に入る歌手は、正式には「番組出演」ではなく「紅白歌合戦出場」と呼ばれる。

放送メディア

媒体 期間 備考
ラジオ 第1回1951年) - 継続中 NHKラジオ第1およびNHKワールド・ラジオ日本にて放送。
客席上のラジオ中継席(第23回1972年)以降の会場であるNHKホールでは、同ホール2階上手席にこれを設けている)から、ステージ上で行われていることの実況とともに放送。
テレビ 第4回1953年) - 継続中 1953年2月1日のNHK開局に伴い、同年末から紅白のテレビ放送が開始された。
総合テレビ 第4回1953年) - 継続中
NHKワールド・プレミアム 第15回1964年) - 継続中 海外向け。
BS2 第35回1984年) - 第61回2010年 Bモードステレオ放送。
完全デジタル化に伴うBSプレミアムへの整理統合、およびそれに伴う番組編成の見直しから終了(ただし地デジ難視対策衛星放送を除く)。
BShi 第40回1989年) - 第61回2010年 5.1chサラウンドステレオ
同上の理由により終了。

またNHK主体ではないが、海外の現地ケーブルテレビチャンネル(主として日本専門チャンネル)を通じて放送される場合がある(NHKワールド・プレミアム放送の際には字幕がないため)。

BS2・BShiでも放送されていた一時期はBSのアンテナとチューナーさえあれば山間部や島部の難視聴地帯でも生放送で視聴可能となっていた。

放送時間

第18回1967年)以降、長らく21時00分(JST、以下同じ)開始に固定されてきたが、2部制となった第40回1989年)以降は19時台から20時00分の間を推移している。1部と2部の間には、その年の最後の『NHKニュース』を放送する。

終了時刻は、総合テレビでは第13回1962年)以降、一貫して23時45分である(放送メディアによっては例外あり)。また、次の番組も『ゆく年くる年』で固定されている。

出演者

出演者や番組進行の情報もNHK側で厳重に管理され、出演の内定が出た後も、本人や事務所に対してはNHKからの正式発表まで厳重な「緘口令」が敷かれる。一部メディアでは例年、正式発表前に「関係者からのリーク」として予想が流れているが、当たり外れは一概ではない。

歌手

出場歌手は第7回1956年)以降、おおむね20組から30組の間を推移している。紅組と白組で出場歌手の数が異なるというケースもある。 その他、両組出場歌手の中から「リーダー」[4]「キャプテン」というポジションを制定(1人ずつ)する回もある。対戦に組み込まれる正規の歌手は番組への出演が「出場」と呼ばれ、「出場回数」も正式にカウントされる。

番組初期において、紅組=女性、白組=男性と厳格に分けられていた風習から、男女混成グループは女性ボーカルのみが紅組で単独出場したり、男性ボーカルのみが女性ボーカルのパートも兼ねて男性陣のみで白組に出場するなどの処置が取られていた[5][6]。男女混成グループが初めて出場したのは、第19回1968年)のピンキーとキラーズである[7]。男女混成グループの組分けや出場した組の例外については下記の通りになっている。

  • 男女混成グループの場合は、男女の人数にかかわらずメインボーカルの性別を優先する。
  • 男女のデュエットは基本的に紅組
    • 例外として、第21回1970年)、第22回(1971年)のヒデとロザンナ、第29回(1978年)の平尾昌晃畑中葉子はそれぞれ白組から出場。
    • 名目上はソロ出場であるものの実際はサポート扱いで異性パートナーが登場し、デュエットを行うケースもある。また相手組の出場歌手となっている異性歌手が参加して歌唱するケースもある。この手法は男女歌手のコラボレーションのみならず、同性同士の歌手でも取り入れられることがある。

ソロ歌手とグループ、あるいはソロ別名義・他アーティストとのコラボ等での活動を掛け持ちする歌手も多数存在するが、紅白では同じ1人・組のアーティストが同一回に複数名義で正式に出場することは、沢田研二第40回1989年)において、ソロ名義とザ・タイガースの双方で出場した事例以外はなかった。しかし、2000年代後半からは同系列のグループ絡みで複数のグループ・ユニットに参加する人物がそれらの一員として複数名義で出場となるケースも見受けられるようになっている。

また、年少の歌手の出場は、従来は開始時刻が21時00分以降であったため労働基準法の制約により事実上不可能であったが、後に開始時刻が大幅に繰り上がり19時台になったため、可能になった。幼少の歌手は19時台、年少の歌手を含む若手グループなどは22時以前に出演する。

第26回1975年)のずうとるび日本テレビ系列『笑点』出身)以後、民放番組からデビューした企画ユニット・ソロ歌手(番組内のキャラクター)あるいは民放色の強い歌手も出場しており、特に1990年代後半以降は多くの民放番組出身歌手が出場するようになった(第59回2008年)のようにメディアに「民放色が強い」と評される回も出ている)。その場合、該当番組内でそれらの人物が「紅白を狙う」と公言したり、出場が決まった際には紅白本番中やその舞台裏の模様を後日番組内で「紅白ドキュメント」などと銘打って放映したりすることがある。また、これらの歌唱時には番組共演者が応援ゲストとして登場することもある。NHKが民放番組出身グループへの出演交渉を彼らの所属事務所やレコード会社ではなく直接該当民放局に行った事例もある。また、第50回1999年]、第51回2000年)に出場したフジテレビ系列『とんねるずのみなさんのおかげでした』出身の野猿は、メンバーにフジテレビの裏方スタッフが含まれていることから、民放テレビ局の社員が出場という事例にもなっている[9]。民放局側も自局番組出身のユニット・歌手を紅白に出場させることに協力的な姿勢であるという[10]

「歌合戦」と称しているものの、演奏のみで歌わないグループの出場もある。例として第41回1990年)のG-クレフ第54回2003年)の女子十二楽坊が挙げられる。

歌手の選考

基本的には、前回の放送が終了してからの1年間にヒット曲を出した歌手を対象として、出場者の選考が行われる。本人や所属レコード会社・所属事務所に対して選考対象とされることや出場への意思の有無の確認が行われ[11]、例年11月頃に行われる選考会議で最終決定される[12]。発表と同時に記者会見が開かれ、競合関係にある民放各局も含めた各メディアの取材陣が集まり、『NHKニュース』を始め各メディアでも報道される。この記者会見には初出場者が出席することが恒例となっている[13]第61回2010年)以降、出場者発表会見はインターネットでもストリーミング配信で生中継がされている[14]。出場歌手発表は11月中旬 - 12月上旬に行われる。

選考結果は大きな話題となるが、疑問や批判の声が上がることも恒例となっている[15][16]

選考基準

番組側は基本的に選考の過程や理由などを詳らかにはしておらず、非選出者については発表記者会見の質疑応答の中で、最低限の事情を明らかにしている程度である。第65回2014年)、第66回2015年)の発表記者会見では「今年の活躍、世論の支持、番組の演出・企画に沿う」という3点が提示されている[15][17]。第65回では以下の5つのデータが出場歌手決定の参考資料とされた[15]

  1. 7歳以上の全国5000人を対象にNHKが行った『ランダムデジットダイヤリング』方式による調査の結果
  2. NHKのど自慢』の予選出場者の曲目
  3. CD・カセット・DVDの売り上げ
  4. 有線・カラオケのリクエスト等についての調査
  5. インターネットや携帯電話によるダウンロード等についての調査
その他の選考基準
  • 1:暴力団と交際していない事。
  • 2:NHKが掲げるその年のテーマに貢献している事。
  • 3:NHKに貢献している事(レギュラー番組を持っている事、オリンピックやワールドカップのテーマソングを担当した事等)。
  • 4:年間のシングル・アルバム・DVD・Blu-ray・写真集等の関連書籍のトータルセールス。
  • 5:演歌歌手は『NHKのど自慢』『うたコン』『SONGS』に出演実績が有るかどうか。
  • 6:家族や親戚が政治家では無い事。
  • 7:女性アイドルグループは女性に支持され、且つOGメンバーや家族、親戚、先輩または後輩の女性アイドルグループが不祥事を犯していない事。
  • 8:ボランティア活動をしている事。東日本大震災熊本地震の被災地で支援ライブや炊き出し、支援物資を送ったり、学校施設や福祉施設等でのボランティア活動。

出場歌手選考の参考として第23回1972年)の選考時より「ご意見を伺う会」が発足し、その会員から意見を求むという体制が第38回1987年)まで続いた。NHKが視聴者を対象に行うアンケート結果は第37回1986年)までは重視されていたが、以降は参考程度に留められているという[18][19]。原則として結果は公表されない。

紅白の出場歌手に選出されるには、第一義的には音楽業界での活躍、すなわち、音楽セールスの実績(レコード、カセット、CD、DVD、音楽配信USENカラオケなど)・実力・知名度・話題性・世論の支持・歌唱力・同回のテーマとの合致・『NHKのど自慢』出場者に自身の楽曲が選曲されることなどが重要となるが、他にも以下の条件が存在するとの指摘がある。

紅白の制作スタッフチームが『NHKのど自慢』チームか『SONGS』チームか『うたコン』チーム『シブヤノオト』チームかによって、出場歌手の選考が影響してくる。

NHKへの貢献度

NHK番組への出演・関与や番組主題歌の歌唱など、NHKに対する貢献度が選考を左右する要素として決して小さからぬ割合を占めている。特に『連続テレビ小説』や『大河ドラマ』の主題歌やオリンピックパラリンピック)・FIFAワールドカップのNHK中継テーマソング、NHK全国学校音楽コンクール課題曲(中学校の部)を担当した者については、出場しやすい面がある(またNHKタイアップ曲での出場者の歌唱場面では、このタイアップにちなんだ演出が行われることも恒例)。

そのため、大きなヒット曲や話題性がなくとも、日頃のNHK各種番組への積極的な出演やテーマソングなどの楽曲提供を評価されて選出され、紅白の舞台でNHK番組のテーマ曲や過去のヒット曲を歌う者が例年見られている。このこともあって、紅白には主に演歌系を中心に「紅白常連組」などと呼ばれる多数回出場の実績を持つ中堅・ベテラン歌手が存在している。

事務所ごとの出場枠

出場歌手については、所属する芸能事務所毎に一定の枠、数的制限が設けられる慣例があるとされる。この慣例については、番組は公式には認めていないが[20]ジャニーズ事務所の社長であるジャニー喜多川が「NHKに2枠固定と言われ意固地になっていた」と枠の存在を暴露する[21]など、公然の秘密となっている。

かつて、1部制時代の1980年代前半までは芸能事務所毎の枠という概念そのものが存在していなかった。このため第25回1974年)では、出場歌手の紅白計50組中10組を当時全盛期にあった渡辺プロダクションに所属する歌手が占めるという状況も見られた。だが、その後は一定の枠が事実上設けられる状況となったため、かつての渡辺プロほどの規模で特定の事務所が出場枠の一定割合を専有することは難しくなった。

そのため、大ヒット曲を出しながら事務所枠の関係で出場機会に恵まれない例もある。1980年代から芸能界で大きな影響力を持つようになったジャニーズ事務所に所属する歌手の出場は、第48回1997年)以降長らく、SMAPTOKIOの2組に限定されていた[22]。その後、第60回2009年)にNYCboysも出演[23]して以降、ジャニーズ事務所の枠は増えている。

大手芸能事務所の所属者については、その他の音楽番組などと同様、事務所の重役(社長など)から気に入られている者が一般的知名度に欠けていても、同じ事務所の格上者をさしおいて出場となるケースもあるとされる[24]

不祥事の有無

NHKは公共放送でありその番組は国民が払う受信料によって制作され、出演者に対して支払われるギャラもまたそれによって賄われている。そのため、すなわちイメージがクリーンであることも、出演者の選出・決定にあたって満たし、また出場当日まで守り続けなければならない重要な必要条件の1つとなっている。

これまで、暴力団関係者との不適切な関係や、金銭面のトラブルなどといったスキャンダル・不祥事の発覚により、「出場を希望したが不祥事を理由に落選」とされる前に、「内々で自主的に辞退」という名目を取って歌手側が自ら選考から降り、出演を断念するケースが幾度も繰り返されている。また、この様な出来事を巡って週刊誌などで音楽業界や芸能界の暗部を窺わせるような報道が見られることもある。

特に“黒い交際”の発覚、すなわち暴力団ヤクザなどの反社会的勢力が絡むスキャンダルが表面化することは、紅白出場を目指す人物にとっては大きなタブーで、選考にも決定的な悪影響を及ぼす。それは大物歌手・ベテラン歌手であっても例外ではなく、過去には長年紅組トリを独占していた美空ひばりが、1973年、暴力団構成員であった弟・かとう哲也の逮捕をきっかけに、三代目山口組田岡一雄との関係を問題視され、イメージが低下しアンケート支持の低さと「ご意見を伺う会」からの批判が相次いだことを理由に落選[25]となり、以後は「自発的に出場辞退」との姿勢を取り続けた。実際には紅白を事実上追われるかたちとなり、正式な出場歌手としては遂に復帰しなかった。2008年にも同様に暴力団組長が主催したゴルフコンペに複数のベテラン歌手が参加したことが発覚、この歌手らについてNHKは「当面は番組出演見合せ」という措置を取り、同年の第59回では事実上の落選となった(彼らの所属する事務所は「辞退した」と主張した)。また、第37回1986年)では、北島三郎山本譲二が暴力団主催の宴席に出席していたことがメディア報道され、本番の差し迫った12月29日に出場辞退を余儀なくされた。代役として角川博鳥羽一郎が選出されたものの、今度は鳥羽が自身も暴力団と過去に関わりがあったことを自ら暴露し、この一件に対するNHKの偽善の姿勢を批判して辞退。最終的にNHKは30日午後というギリギリの段階で、31日夜のスケジュールがたまたま空いていたシブがき隊を確保して代替出場させ、どうにか取り繕ったという事例も発生している[26][27]。「黒い関係」については、暴力団関係者の主催であることが意図的に伏せられた宴席に芸能人が招待・招聘され出席し、メディア報道によって当事者や所属事務所が初めてその事実を把握したようなケースでも、その年の紅白出場に向けては致命的なマイナスとなる[28]2011年には、暴力団の影響力排除を目的とした各都道府県の暴力団排除条例が施行され、島田紳助が暴力団との交際発覚を理由に芸能界を引退し大きな話題になったことなどもあり、NHKも暴力団排除指針を公表。同年の第62回の選考を巡って、黒い交際の情報がある人物は排除しなければならず、NHKが出場候補者の人選に通常より神経を使い、報道局など組織内の多くのリソースも投入していると各メディアで報じられた。

出場辞退

歌手側が明確な辞退理由・経緯等を公表するケースもある。また、常連歌手など功労者を落選させる場合、番組側が該当歌手に「辞退した」と公に発表することを許可する場合もあるとされる(これを該当歌手が拒み落選をそのまま公表することもある)[29]

紅白出場自体を「興味がない」「メリットがない」としたり、年末年始に元々仕事をしない(家族と過ごすため)などの方針であること、自身のカウントダウンコンサート(1980年代より。一方、2000年代以降では紅白にカウントダウン会場から中継で出演する者も見られるようになった)や海外でのレコーディングなど大みそか当日の別の仕事のために辞退する者も多く存在している。生放送での歌唱に難色を示したり、裏番組への出演や紅白に出場した場合の長時間拘束を嫌うということを名目に辞退する者もいる。

1980年代頃よりミュージシャン系の出場辞退が相次いだ。当時は「辞退をすることがステータス」、「出たら負け」という雰囲気もあり、知名度が出てきた頃に数度だけ出場する例(THE ALFEEサザンオールスターズなど)、NHKとの不和が原因で出場しない例(アリスなど)、紅白のコンセプトに賛同しない例(小田和正Mr.Childrenなど)、様々な経緯がある。

また、連続出場した歌手が「紅白卒業」を表明し、以後は基本的に選考・出場を辞退(不出場)するようになることがある[30]。なお、この際に歌手側から述べられる理由は、「引き際を大切にしたい」「後進に道を譲る」「自らの楽曲やジャンルに対する番組側の軽視への不満(同じ過去のヒット曲ばかり歌わされる、同じジャンルの有望な若手・中堅に出場機会が与えられない、など)」「毎年繰り返される落選への恐怖に耐えられない」など様々である[31][32]。ただし、中には勇退表明後に再出場する者もいる。この他、連続出場していた歌手が、落選を機に次年からの紅白出場にこだわらない方針を示した事例もある。

なお、出場が正式決定した後になってから、不祥事・スキャンダル以外の歌手側の都合で出場を辞退し、代替出場の歌手が立てられたケースは少ないものの、以下の事例がある。

サンディー・シムス、HOUND DOGはこの後も出場をしておらず、幻の出場となっている。この他、出場する予定だったグループの一部の人物が、病気・負傷・不祥事などの理由により欠場・出演辞退という事態になり、残りのメンバーで出場したケースも存在する。

司会者

通常、「紅組司会」、「白組司会」、「総合司会」の三者がいる。紅組司会と白組司会は、それぞれの組の曲紹介を、総合司会は番組全体の進行や両組司会のサポートを分担してこなす。基本的に両組司会は番組の開始から終了まで出ずっぱりで、総合司会の出番は相対的に少ない。紅組司会は数例の例外を除き女性が担当、白組司会は例外なく男性が担当する。両組司会もプレーヤーの一員との考えから、名義・名称が「キャプテン」「リーダー」となることがある。

司会担当者は、他の長時間番組や音楽番組と比べて、特定の人物が何回も続けて担当することは少ない。そのため、司会者の選定も興味を集め、正式発表と同時に記者会見が開かれる[35]。記者会見は通常NHK放送センターで行われる(例外もある)。

多くの場合、両組司会をタレントが、総合司会をNHKアナウンサー(東京アナウンス室在籍)が担当する。全員の内、アナウンサーは必ず、最低1名は入る。これは紅白生放送中に有事(重大事件・事故・災害など)が発生したり、芸能人司会者が本番直前にアクシデント(病気・負傷・不祥事など)により出演不能となった場合、または放送禁止用語発言の対応の意味合いもあるとされる。

両組司会の本業は俳優、歌手、お笑いタレントフリーアナウンサー落語家など多岐にわたる(アナウンサーの年も少なくない)。必ずしも司会慣れしているわけではなく、「紅白が初司会」という事例もある。紅白の台本は、生放送という関係上非常に細かく設定されており、進行上アドリブの必要性は少なく、あくまで「司会者」を演じる役者的性質が強いためである。「慣れ」が少ない分は、総合司会のアナウンサーがフォローするという具合である。司会が歌手の場合は、出場歌手を兼ねる場合もある[36]。出場歌手が司会を兼任する場合、該当者の歌手としての出番の曲紹介は本人自ら行ったり、共同司会者や他出演者が代理で担当するという処置が取られる。両軍ともに出場歌手兼任者同士の司会となったり[37]、司会を兼任した出場歌手がトリ(大トリ)を務めたケースも存在する。

古舘伊知郎(元テレビ朝日所属)やみのもんた(元文化放送所属)のように民放のアナウンサー出身者が司会に起用された事例もある。

両組・総合司会は通常それぞれ1人ずつだが、複数名が担当した第37回1986年)、グループが担当した第61回2010年) - 第65回2014年)、三者の枠を取り払った第56回2005年)などの例外がある。

両組司会は(特にタレントの場合)、本番までNHK関連の仕事が入る[38]

「年末に長時間拘束される」「アドリブがほぼ出せない」点から多くの芸能人は紅白の司会就任に消極的とも伝えられている[39]

ゲスト審査員

その年を代表する著名人(芸能人・スポーツ関係者・音楽関係者・文化人・メディア関係者など)が10人前後起用されることが恒例で、本番では客席の最前列に着席、番組序盤でそれぞれアナウンスされる[40]。審査への参加だけでなく放送内で随所で司会者とのトークが挟まれ、番組の進行にも関わる。第55回2004年)までは「特別審査員」と呼ばれており、またNHK番組制作局長が「審査委員長」と呼ばれていた。

ゲスト審査員の発表は一番遅く、12月下旬に行われる。一番起用される可能性が高いのは、翌年の『大河ドラマ』の主演者であり、司会や歌手に選ばれた場合を除き、ほぼ毎年審査員となっている。スポーツ関係では、プロ野球日本シリーズ優勝チームの監督や主力選手、大相撲の看板力士(その年に新横綱、新大関になった力士など)が多い。オリンピックのメダル獲得者は、競技と無関係の場への登場を良しとしない日本体育協会の意向から当初は選出されなかった。初例は第35回1984年)における江上由美ロサンゼルスオリンピック女子バレーボール・銅メダル)で、以後は選出が恒例となる(オリンピック開催前年にメダルを期待される選手・監督が起用されることもある)。ゲスト審査員の選考基準は、出場歌手の選考と同様に家族や親戚が政治家では無い事である。

その他のゲスト

上記のメイン出演者以外に、様々な著名人がゲストとして出演する[41]。ジャンルとしては、歌手や楽曲と関連する人物の応援、楽曲提供者などの演奏参加、会場外からの中継の進行役(大抵はNHKアナウンサー)等様々。また、その年ブレイクした若手のお笑いタレントがネタ見せするのも定番。主要ゲストについては、本番前に逐一出演が発表されていく。

また、大晦日の祝祭ということで、民放の現職アナウンサーのNHK出演という普段はありえないコラボも特例で実現している。

第61回2010年)からは、『紅白ウラトーク』が開始。会場座席の一部にセットを組み、放送時間中そこからのトークを副音声で放送し続ける。専属のMC(タレントとNHKアナウンサー)がおり、歌手、ゲストが入れ替わり立ち代わり出演する。

番組の流れ

本番まで

本番が迫る時期には、紅白のPR特番が多く組まれることも恒例。過去紅白の再放送や名場面放映を中心とした番組もある(いずれもBS2『思い出の紅白歌合戦』や『あなたが選ぶ思い出の紅白・感動の紅白』など)。

出場歌手の曲目や曲順は原則全て公開されており、曲目は12月中旬、曲順は12月下旬に発表される(曲順については、放送の前日前々日というギリギリのタイミングで発表となる場合もある)。そして歌唱曲や曲順の発表を以って、出場歌手側にこれが告知される格好にもなった。選ばれる曲は原則としてそのアーティストのその年のヒット曲または代表曲(過去のヒット曲など)である。その回のテーマに沿った歌が選ばれる場合もある。選曲の傾向や例外には次の事例がある。

  • 「その年の代表曲」がある人気歌手や、数年越しの出演となる大物歌手などは、メドレーが選曲されることも多い(メドレーのタイトルは一風変わったものになることもある。またメドレーを歌唱する場合、その内容は当日ないしリハーサルの段階で判明となる)[42]。特に2010年代に入ってからはメドレーを歌唱する者が増えており、これに視聴者から批判も多く出ている(また、“メドレー”や“紅白スペシャル”になっているアーティストが結局どの曲を歌うのかわからず、曲目を発表する意味があるのかと指摘する声が散見される[43])。なお、メドレーのタイトルについては当該歌手が決めることもある[44]
  • アレンジしたヴァージョンの楽曲を歌唱する者もいる[45]。その場合、タイトルも若干変わる。
  • ロングヒット曲を数年に渡って連続して歌唱するケースもある(後述の「紅白効果」によるものもある)[46]
  • 世相やその年にちなんだ楽曲が選ばれるケース、視聴者からのリクエストで歌唱曲が決まったというケースもある。
  • 大ヒット曲ながら事情(歌詞や歌い方に性的な連想をさせたり、任侠ものの楽曲ということでNHKの内部規則に抵触した、或は商業性が強いなど)で選曲できず、別曲に差し替えられるケースもある[47]
  • カバー曲のヒットや追悼などで、自身の持ち歌以外の歌を披露する例もあり、複数の出場歌手により歌唱された楽曲も存在する。
  • 2000年代以降、演歌・歌謡歌手は新曲の歌唱を敬遠されがちで、過去のヒット曲が選曲される傾向にあり、かつ同一曲が何度も歌われることも多い(2・3曲をローテーション的に歌唱する演歌歌手も存在する)。一例として、これまで9回歌唱された楽曲が存在する[48]。同一曲が何度も選曲されることに関しては、週刊誌などのメディアから批判記事が出ることがある。これは、同ジャンルにおいてヒット曲が出にくくなっているためであり、原則新曲の歌手は、一定の売上枚数を維持している五木ひろし氷川きよし水森かおり、演出の都合上使いまわしが困難な小林幸子など少数である。
  • また、選曲権は基本的に歌手側には与えられない。「名曲紅白」と題した第33回1982年)や「フレッシュ紅白」と題した第36回1985年)など、その回のテーマにも左右される。このことが歌手から反発を買うことがある。第42回1991年)では未発表曲「BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜」の歌唱を番組側に拒否されたHOUND DOGが出場を辞退した。布施明は番組勇退の理由の1つに「(自身の)歌唱曲が固定している」ことを挙げた。その一方で、選曲に歌手側の意向が汲まれた(あるいは番組側からの歌唱依頼を歌手側が断った)とされるケースも存在する。

会場のNHKホールと楽屋を結ぶ下手側の通路の角に神棚がある。リハーサル開始前には神主を呼び、スタッフ勢ぞろいで成功祈願を行なう。当日、歌手はリハの合間に無事歌唱祈願するのが習わし[49]

本番2日前には台本が完成し、リハーサルが始まる。台本は非常に厚く、番組内でのサプライズやトークもすべてト書きされており秒単位での進行が組まれている。ただし一部の演出については、詳細を台本では白紙扱いにし(出場歌手や司会者にも伏せられる場合あり)、演出開始までシークレットにするものもある。

リハーサルと並行して司会者と出場歌手で面談が行われる。その面談では、司会者側より出場歌手に本番内での曲紹介の内容について説明したり、出場歌手側より司会者に自身の曲紹介をするにあたっての依頼や自身の歌唱にあたっての思い入れ・エピソード等を語ったりするということが実施される[50][51]。この面談の際に出場歌手が話したことを司会者が本番内で語ることもある。また、メディア記者もNHKホールに詰め、リハーサル・本番の合間を縫って出演者への取材(ぶら下がり形式)が元日未明まで行われる。主に、同年の総括や翌年への抱負が述べられるのが恒例である[52]

放送の進行

番組のオープニングおよびエンディングでは、歌手全員がステージに登場する。両組司会は、オープニングは晴れ着姿で登場する。総合司会は、男性アナウンサーの場合はスーツ、女性アナウンサーの場合はドレスを着用する(以降、スーツの場合を除き数度の衣装替えがある)。総合司会による両軍司会の紹介と両軍司会のあいさつを経て、そのまま最初の歌手の曲紹介へと入る。

原則として、紅・白両軍の歌手が1組ずつ対決する形式である。稀に同組の歌手を2組ずつ連続して歌唱されるというケースもある。対決の内での両組間の順番が途中で入れ替わることがあり、「攻守交替」と呼ばれる[53]。演出上、別々に出場したソロ歌手やグループが組んで1パッケージで登場することもある。2010年代に入ってからは両軍で出場者数が異なるケースも多い。2000年代以降はこの対戦形式の原則に入らない事例も多くなり、対戦の途中に特別コーナーが入る例、対戦相手がいない例、歌唱順の対戦相手と演出上の対戦相手が異なる例[54]、正規の対戦歌手とカウントされないながらも対戦枠に組み込まれる例[55]などがある。

歌唱時間は1回につき一組3分程度が定番[56]だが、その回の目玉の歌手、楽曲においては優遇され、最長では10分近いこともある。一方で、さほどトピックスのない歌手の場合は2分弱まで短縮される。

両軍司会の定位置は舞台脇の花道部分であり、ここで曲紹介などを行う。紅組が下手、白組が上手に割り当てられており(第4回1953年〉のみ逆)、番組前期は曲紹介も両方の通路で別々に行われていたが、NHKホールは楽屋が下手側にあるため、後には白組も最初と最後の2組程度以外は下手側で行うようになった。歌手が初出場の場合などは、歌唱前に司会とのトークが行われる。最後の数組の歌唱の際には、出場歌手も両方の通路に並ぶ。

原則出演歌手は中継も含めて生放送内で歌唱するが、第62回2011年)に特別出演したレディー・ガガなど録画出演も稀に行われる。

舞台転換やステージの演出にも凝っており、時にはワンステージのために多額の費用や長時間を費やすこともある。3Dマッピングなど、最新の映像技術も駆使される。歌手側も、「豪華衣装」が目玉となった小林幸子を筆頭に、晴れの紅白のために多額の自己負担をする場合がある。

歌の間には応援合戦やアトラクション、大合唱、コーナー[57]が行われ、かつてはほとんど恒例と言うべき出し物があった。このため、バラエティ番組の要素も持っている。NHKの人気番組が取り上げられることも多いほか、オリンピックなどスポーツにちなんだ演出が行われることもある。また、正規のステージにおいても歌手間での「応援」がある。特に2010年代以降では、視聴率の都合上、人気の高いポップス歌手を随所に登場させる(演歌歌手の演出としてのバックダンサーなど)演出がなされる。その年に亡くなった著名人の追悼企画が行われることも多い。

会場の観覧者にはペンライトが配られており、照明を落として行われるステージでは会場がペンライトの発光色で染まる場面が見られる。その他、ペンライトに加え、LEDライトリアルタイムARシステムサイリューム造花、お面が配られ、演出に参加する。出場歌手にもペンライトを配って、ステージ上や司会席で使用させることもある。

その年内をもっての引退・休業を発表した歌手や解散・活動休止を決定したバンド・グループが選出された場合、「ラストステージ」として注目される[58]。歌手の側も、区切りとして「活動年内限り」とする場合が多いため、視聴率の高い紅白が最後の舞台として選択されやすい。

両軍最後に登場する歌手は「トリ」(後に登場する側は「大トリ」)として、特別に注目を集める。

  • 通常、ベテラン、大御所と呼ばれる歌手が選出される。まれに若手歌手が選出されると、「大抜擢」と表現される。
  • 番組初期は演歌が流行していたこともあり、長らくトリは演歌歌手が独占していた。初めて両軍ともにポップス歌手から起用されたのは、演歌が記録的に不作であった第29回1978年)の山口百恵沢田研二である。その後演歌の人気が低下してもこの傾向は変わらず、また演歌歌手も出演歌手中「大御所」の位置にあったため、トリを飾るには違和感がなかったこともある。ポップス歌手のトリが増えたのは、演歌歌手の出場が減った2000年代後半からである。ポップス歌手においても、DREAMS COME TRUE高橋真梨子松田聖子など、ベテラン歌手の起用が多い。
  • トリ歌手は「ソロ歌手でなくてはいけない」という慣例が存在したとされる。第43回1992年)にトリをとった由紀さおりは、例年安田祥子とのデュエットでの出場が定番だったが、この年のみソロで出場している(安田はコーラスに回る)。グループでのトリは、第54回2003年)のSMAPが最初である。
  • 第35回1984年)で引退前最後のステージとして都はるみが大トリを務めた際、歌唱後に会場からアンコールが行われ、特別にリストにはない2曲目が披露された[59]
  • 第64回2013年)ではトリが変則的で、正規のトリとして高橋真梨子SMAP(大トリ)の歌唱後に、同回で勇退の北島三郎のステージ(「究極の大トリ」と位置付けされた)となった。

勝敗はゲスト審査員と会場の観客および地上デジタルテレビ放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査とその結果の発表方式は回によって異なる。長らくは、全歌手の歌唱後のゲスト審査員と観客の投票で決まっていたが、21世紀にはいると会場外の一般視聴者からの投票も加わる(第1部終了時と合わせて2度)。一般視聴者の票は集計に時間がかかるため、第1部では残り2組(1対戦分)になったところで総合司会のアナウンサーが投票を呼び掛け、2組の歌唱中に投票と集計、ニュース直前に結果を表示する。最終投票時は、投票中に「ハイライト」として、全歌手の歌唱シーンのダイジェスト(1組数秒、トータルで3分弱)を流すか、最後に全員歌唱で1曲が入る。

優勝(勝利)チームが決定すると、テレビ画面には「○組優勝!!」の字幕スーパーが出て、天井から大量の紙吹雪がステージ一杯に降る(初期の頃はステージに紙テープを投げたり、天井から紙テープのみが降ったり、くす玉が割れて、紙吹雪・紙テープ・風船が降る演出があった。テレビ番組での先駆けである)。ただ、2000年代頃からは紙吹雪が優勝決定時には降らず、エンディングの「蛍の光」の場面で降る。そして、優勝組の司会者(キャプテン)に優勝旗が授与される(優勝旗授与を行う人物は回によって異なる、大抵はゲスト審査員のうちの一人)。なお、表彰の音楽としてヘンデル作曲の「ユダス・マカベウス」の中の「見よ、勇者は帰る」が使われることが恒例[60]。また、この優勝旗には歴代の優勝チームの色のリボンが飾られている。

フィナーレは第4回以降、一部の回を除き「蛍の光」を出演者(出場歌手・司会者・ゲスト審査員・ゲスト・合唱団など)並びに会場の観客で大合唱されることが恒例である。この場面のみに指揮者として参加する音楽家がいる。

「蛍の光」大合唱が終わると、クラッカーが客席上に打ち上げられ、そこで丁度23時45分、番組が終了する。

放送後

放送終了後にはNHK放送センターの1階食堂で出場歌手と司会者で打ち上げ会が行われる[61][62]。 。

1月2日ごろに視聴率が発表され各メディアで話題になる。併せて1分単位の視聴率も発表されるため、「最高視聴率を獲得したのは誰か?」も興味の的になる。通常、トリまたはその付近の歌手が獲得する。

歴史

開始当初 - 1960年代

  • 第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組が放送された(『紅白音楽試合』は非公開番組だった)。番組は「新時代に相応しい音楽番組を作ろう」と考えたディレクターの近藤積の発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を制作しようとした。当初は『紅白音楽合戦』の番組名で放送する予定だった[63]が、GHQが「敗戦国がバトルとは何事だ」との判断を下し、仕方がなく、バトルから試合という意味のマッチに変えたというものである。勝敗の判定はなく、審査員もなかったという。また、応援団に相当する者も存在しなかったとのこと。当時は大晦日に終夜電車はなく、終電に間に合わない歌手はNHK東京放送会館の音楽部の部屋の椅子でざこ寝をしてもらっていた[64]。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し木琴マンドリン尺八による曲を披露した(ただし先述の通り、この『NHK紅白歌合戦』でも楽器演奏者・グループの出場は可能である)。川田正子が歌った「汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤が作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」で同年の新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の『NHK紅白歌合戦』には生涯出場していない)。
  • あまりの好評となったが、当時は大晦日に同じ番組を続けるという発想はなく(当時同じ内容のものを翌年も放送するのは能なしと見做されていたという)、1946年以降の大みそか番組として『紅白音楽試合』が編成されることはなかった。しかし、スタッフは『紅白音楽試合』の反響の凄さを忘れられず、放送の約5年後の1951年、「大みそかの番組でなければいいだろう」と正月番組として『第1回NHK紅白歌合戦』を放送した[65]。なお、第1回の出場歌手は全員1950年12月31日放送のNHK『明星祭』に出演しなかった者である。
  • 第1回1951年)においては、放送前に出場歌手の曲目や曲順は公表されなかった[66](出場歌手は公表されており、放送前の1951年1月1日付の『毎日新聞』の番組紹介記事に出場歌手名の記載がある[67]。対抗戦形式を意識し、紅組キャプテンの渡辺はま子、白組キャプテンの藤山一郎がそれぞれ相手の出方を見ながら誰に何を歌わせるかを決めるというものだった[68])。
  • 第3回1953年1月2日)までは正月番組として放送されていたが、同じ1953年の12月31日には第4回が放送され、この第4回を機に『紅白音楽試合』同様となる大みそかの放送が定着した。またこれにより1953年は放送が2回あった。なお、大みそかの開催を行った理由は当時年末年始には大みそかしか大規模な会場が開いていなかったことが一因という(番組側としても大みそかの方がトップ歌手を確保しやすいと踏んでいた)。ただ番組側は大みそかに観客が集まるか不安がったという。これはそれまで大みそか夜の催し物は絶対に当たらないというジンクスがあったためで、それを打破すべく第4回では出場歌手数を前回より5組増やす処置を採った。
  • 正月開催時代、ステージ上方には「謹賀新年」のプレートが飾られていた。また正月開催時代では、岡晴夫田端義夫小畑実といった当時の人気歌手は正月公演のため、出場しなかった[69]
  • 第3回から実況アナウンサーが登場するようになる。初期ではこのポジションは「スポーツ」がコンセプトの一つであることから、一線級のスポーツアナウンサーが務めていた[70]
  • 第4回におけるテレビでの本放送開始と同時に視覚的な演出も行われるようになり、選手宣誓や優勝旗の返還や授与が開始された。同回より番組名に回数がカウントされるようになる。また初期3回は全て白組優勝となったが、同回で紅組が初めて優勝を果たした。初めて敗北を喫した白組の出場歌手は口を揃えて「テレビは怖い。今回は(紅組女性軍の)衣装に負けた」と悔しがったという[71]
  • 紅組歌手の衣装重視傾向は後のカラー放送開始後はさらに拍車がかかった[72]
  • 1953年にNHKはテレビ本放送を開始したが、一般家庭へのテレビ普及には程遠く、テレビ番組として独自に制作をするには予算的にも厳しく、NHKラジオの人気番組を中継するということがしばしば行われており、紅白もその一つだった。またしばらくはラジオが主でテレビが従という考え方で制作されていた[73]
  • 会場は初期3回までは内幸町にあった旧NHK東京放送会館だった。1953年12月・第4回のラジオ・テレビ同時中継開始以降は東京宝塚劇場日本劇場(日劇)・日比谷公会堂産経ホール新宿コマ劇場[74]などを転々としたが、第24回1973年)以降はNHKホールに固定されている。
  • 黎明期の紅白は映像はおろか音声すら現存しないとされてきた(第1回に至っては写真も現存しない)が、愛知県名古屋市在住の一般男性が第5回1954年)からラジオ中継の音声を録音していたオープンリールテープが1999年末に発見され、NHKに提供された。同回以降、ラジオ中継の音声は、全て上記の男性から提供された物かどうかは詳細不明だが、第13回1962年)までの全ての回の音声が現存する。一方、現存する写真は第2回1952年)が最古で、以後、全ての回の写真が現存する。これは放送局用ビデオテープ(2インチVTR)は非常に高価で大型であり、収録された映像は放送終了後に消去されて他番組に使い回されていたためである。そして、現存する映像は全編だと第14回1963年)が最古で、第13回1962年)はラジオ中継の音声とともに当時のニュースで極一部が紹介された映像が残っている。なお、第15回1964年)からカラー放送となったが、同回の映像はカラー・白黒とも現存せず、ラジオ中継の音声が現存する。第15回を除いた第14回以降の1960年代は全ての回の映像が現存するが、ほぼ白黒のみ(第16回1965年)は欠落部分があるがカラーVTRが、第19回1968年)は保存状態は良くないがカラーフィルムも現存する)である。第21回1970年)はカラーで現存するがフィルム映像で保存状態が良くなく、一部が欠落している。第22回1971年)はカラーのビデオ映像で現存するが保存状態の良くない部分がある。第23回1972年)からNHKがVTRで保存するようになり、同回以降の映像は全て安定したカラーのビデオ映像で現存する。
  • 初期回の音声をNHKラジオ(ラジオ第1、NHK-FM)の特集番組[75]で紹介することがある。
  • 第8回1957年)まで出場歌手はソロ歌手に限られていた。しかし、第9回1958年)に水谷良重東郷たまみ沢たまきダークダックスがグループとして初めて選出され、以後グループも多く出場するようになった。第13回(1962年)までグループは必ずグループと対戦する格好となっていた。
  • 第14回(1963年)より、全国のファンからの関心が高まってきたことから当時の芸能局内に「紅白歌合戦実施委員会」を設置。毎年秋になると同時に実施の準備が始まることになる。
  • 1950年代の紅白では、外国曲の選曲が多く行われた[76]
  • 黎明期(第7回頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、第8回1957年)を以って戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以後、回を重ねる毎に戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、第10回1959年)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)、翌第11回1960年)では御三家の筆頭として1960年代の歌謡界を牽引するスター歌手となる橋幸夫や、ロカビリーブームの第一人者である平尾昌章(現:平尾昌晃)が、第12回1961年)では当時NHKで放送中であった『夢であいましょう』内「今月の歌」コーナーから誕生した「上を向いて歩こう」のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場するなど、出場者の顔ぶれにも「世代交代」の色が年々強く反映されるようになってゆく。そして第13回1962年)では前年まで連続出場していた淡谷のり子林伊佐緒伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。
  • 第11回1960年)前後まで同じレコード会社の歌手同士を対戦させるの極力控えていたという。その後は同じレコード会社の歌手同士の対決も行われるようになったが、トリ対決についてはこの後もしばらくこの慣例が続いた。
    • 紅組トリは第1回以降、第28回1977年)まで第4回を除き[77]一貫してコロムビア所属の歌手が務めていた。この慣例により村田英雄などのコロムビア所属の男性歌手は白組トリを務めることができなかった[78]。紅白史上初めてコロムビア所属以外の歌手が白組トリを務めるのは第34回1983年)の細川たかしまで待つことになる。
  • ビデオリサーチ社によるテレビ視聴率調査が第13回(1962年)から開始される(そして、いきなり80.4%を記録)。翌第14回(1963年)において、81.4%の視聴率を記録する[79]。これは、紅白史上およびビデオリサーチ社の全統計史上最高のテレビ視聴率である[80][81]
  • 美空ひばりは第14回 - 第23回まで、一貫して紅組トリ(ほとんどの回で大トリ)を務めていた。だが先述の通り、翌1973年に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕されたことが発端となり全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の第24回も落選となった(その後、第30回1979年〉に藤山一郎とともに「30回記念特別ゲスト」扱いで1回のみ復帰、「ひばりのマドロスさん」、「リンゴ追分」、「人生一路」のメドレーを披露した)。
  • 1960年代のグループサウンズ全盛時代、長髪のグループは“不良”という意見が根強く加えて当時のNHK会長の意向もあって一切出場できなかった。第18回1967年)のザ・タイガースはその一例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルー・コメッツのみであった。時が経ち、演歌歌手やアイドルが長髪にするケースも出たため当然ながら長髪は解禁になった。
  • 沖縄県アメリカ合衆国の施政権下にあったため、第15回(1964年)まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌第16回(1965年)からテレビは沖縄テレビ、ラジオはラジオ沖縄がそれぞれスポンサーを付けるというかたちで放送を開始した。テレビは1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始すると同年の第19回から同局での放送となり、1972年の本土復帰でNHK沖縄放送局としての放送となった。ラジオは1972年にNHK沖縄放送局がラジオ放送再開すると同年の第23回から同局での放送となった。
  • 第20回1962年)よりオープニングの入場行進時に出場歌手名がテロップで流れるようになった。また1969年からTBS系列『日本レコード大賞』も同日の19時00分から21時00分に開催&テレビ生中継されるようになり、歌手の『レコード大賞』から紅白への移動が始まった(この大移動は『日本レコード大賞』の開催日変更により2005年で終了した)。この時期では、『レコード大賞』と同じ衣装で出演する歌手も存在した。
  • 1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。
  • 詳細は以下を参照。
1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年

1970年代 - 1990年代

  • 1970年代になると新三人娘新御三家花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージックロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。
  • 公共放送であるNHKは番組中で商品名の使用を規制しているが、かつてはその規制も特に厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。第24回1973年)にかぐや姫の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。第29回1978年)でも山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤なクルマ」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(ちなみに、別音楽番組『レッツゴーヤング』、『NHKヤング歌の祭典』では「真っ赤なクルマ」として歌った)。
    • 第55回2004年)にも松平健の「マツケンサンバII」で、松平を示す「マツケン」が規制の対象となった場合の歌詞の扱いについて作詞者・吉峰暁子と協議している旨が一部メディアで報じられたが、実際には規制されなかった。
  • 視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。第25回1974年)から9年間白組司会を務めた山川静夫が交代となった理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の担当回である第33回1982年)の視聴率は69.9%(関東地区・ビデオリサーチ社調べ)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった第35回1984年)の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後は視聴率が大幅に落ち込むようになった。
  • 第32回1981年)からこれまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場歌手は舞台の後ろから入場行進をするようになった。セットが見直され、大幅な舞台装置の交換が本番中にも可能となった。また応援合戦が少なくなり、歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった(応援合戦の内容も従来の対抗色が強いものから紅白歌手入り乱れての内容が中心となった)。1980年代半ば頃から応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった[82]第42回1991年)から入場行進、優勝旗返還、(両軍司会や出場歌手の代表が行う)選手宣誓[83]が省略され、さらにそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった。第53回2002年)ではオーケストラが小規模ではあるが、久々に表舞台で演奏した。その後、第63回2012年)で生演奏は廃止、バンド等を除き事前に録音した伴奏を用いたものに変更された。同回よりエンディングの演出が華やかで明るいものとなる。第31回1980年)までは、厳かで徐々に照明が暗くなっていく演出があった回もあった。
  • 第31回(1980年) - 第35回(1984年)の期間は「歌手による歌の祭典」という原点に立ち返るために原則応援ゲストを起用しなかった(全く応援ゲストが登場しなかった回もある)。
  • 第33回(1982年)より原則ほぼ全ての歌唱曲の歌詞テロップがテレビ画面上に登場するようになった。また同回では通常、出場歌手発表後に決める曲目選定を出場歌手選考中の同年9月21日から行った。各レコード会社に「今年紅白に出場させたい人たちのリストを作り、歌唱希望曲を3つ書いて提出を求めるという試みを行った(歌唱希望曲については、自身の過去のヒット曲でも他人の持ち歌でも構わない」とのものであった)。ヒット曲不足の1年を振り返り、曲目によっては出演危機の歌手にもチャンスが与えられるような印象が業界に広まり、また出場させたいリストをレコード会社が提出した時点で出演意思の判断ができるということにもなった。
  • 第34回1983年) - 第36回1985年)まで金杯・銀杯の授与が採用され、優勝チームから金杯の受賞者が、敗退チームから銀杯の受賞者が選出されることとなった。
  • 1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期に最も注目されたものの1つが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、第36回(1985年)の「夫婦しぐれ」で十二単を、翌第37回1986年)の「別離」ではクレオパトラの衣装を披露した。第42回1991年)の「冬化粧」では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林と美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる(2人が直接対決となった回もある)[84]。ちなみに、小林と美川が紅白で着用する豪華衣装は高額な予算(数億単位の場合も)をかけて本番・出場歌手発表のはるか前である時期から制作開始される[85][86]ほか、2人の着用衣装は大みそか当日のスポーツ新聞や民放の情報番組やワイドショーで本番前ながら紹介されていた。またこの2人以外にも紅白で豪華衣装を披露する歌手が登場することがある[87]
  • テレビでの実況は第38回(1987年)が最後となり、翌第39回1988年)からはラジオでの実況のみとなった。
  • 第40回1989年)から紅白は2部構成になった。同年昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。
  • 1989年以降、紅白の平均視聴率が低下したことなどを理由に、紅白の廃止が検討されたことがあるが、その都度廃止は取りやめとなっている。
  • 1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも表れ、多数の歌手が出場した。
  • 第41回1990年)において、初めてNHKホール以外から中継で歌唱するという演出が行われた(番組内で中継を挿入する企画はこれより以前からあったが、「ステージ上からパフォーマンスを届けることが紅白」との制作者側の共通認識から中継歌唱は行われてこなかった)。しかし、中継先で歌う演出はNHKホールの観客や他の紅白出場歌手達にも不評を買い、その後、中継先で歌う演出は12年後の第53回(2002年)まで行わなかった(一方、中継演出が復活してからはその演出が定着している)。また、前年は採点の対象は第2部だけだったが、同回からは第1部も採点の対象となった。その影響で、同回から放送時間の前半が『日本レコード大賞』とバッティングするようになり、歌手の奪い合いや掛け持ちによる大移動などの問題がさらに大きくなった(2005年まで)。TBSは紅白が『レコード大賞』の裏番組となることに大慌てとなったという。TBS側はNHKに苦言を呈したほか、長時間紅白の定着により毎回視聴率30%を誇っていた『レコード大賞』は視聴率を低下させていくこととなり、後の2006年での大みそか撤退(12月30日開催へ移行)に繋がった(『レコード大賞』は紅白対策でこの年より「歌謡曲・演歌部門」「ポップス・ロック部門」の2部門、すなわち2組のグランプリを輩出させるかたちに変更するなど、工夫を凝らすようになる)。
  • 第42回(1991年)以降、オープニングに趣向を凝らした大掛かりな構成・演出が行われるようになった。開会宣言を大物著名人が行うこともある。同回では、21時前のニュースによる中断までを第1部、21:00 - 22:30(森山良子アンディ・ウィリアムスの対戦カードまで)までを第2部、22:30 - 終了までを第3部とする計3部構成が採られた。ただし、第2部から第3部への移行時には中断が挿入されなかったため、ビデオリサーチ社による視聴率調査では第2部・第3部を併せて“第2部”として取り扱うかたちが採られており、後の紅白関連資料(NHKによる公式資料を含む)もこのビデオリサーチ社による区割りに則って今回の出場歌手・曲順が紹介されている。
  • 1990年代以降、オリジナルソング・テーマソングを制作し、番組内で出場歌手らによって大合唱されるという演出が行われることがある(この時は参加者が楽譜を持って歌唱となる場合もあり)。これらの曲が後にCD発売されたり、『みんなのうた』で放送される、NHK全国学校音楽コンクール課題曲に起用されるということもある。また翌年の紅白で出場歌手の歌唱曲として歌唱されるケースもある。
  • 1990年代以降、ディズニーとのコラボレーション演出が行われることが多々ある。
  • 第45回1994年) - 第48回(1997年)までその年のNHK新人歌謡コンテストの優勝者に紅白の出場権が与えられた(1998年にNHK新人歌謡コンテストは廃止)。
  • 紅白におけるNHKのロゴマークが第46回1995年)から更新された。
  • 1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPANLUNA SEAGLAYL'Arc〜en〜Cielらが出場した。
  • 第50回1999年)については、番組終了後、後座番組『ゆく年くる年』放送中の23:58(30秒)頃より画面が紅白終了直後のNHKホール内の映像に切り替わり、紅白出演者および観客による2000年に向けてのミレニアムカウントダウンの模様が放送された。その後、同回のオリジナルソングとして制作された「21世紀の君たちへ〜A song for children〜」の出演者による大合唱も行われた。通常、総合テレビの年越しの瞬間は『ゆく年くる年』内でシンプルに進行しており、様々な形式(大勢が賑やかに迎えることが通例)で新年のカウントダウンが行われる民放テレビ各局の年越し番組とは確実な差異があるが、この際は例外であった。
  • 詳細は、以下を参照。
1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年

2000年代

  • 国民の生活様態の多様化などに加えて当時行われていたBSでのサイマル放送も一因となり(先述の通り、BSサイマル放送は第61回2010年)を最後に廃止)、地上波テレビ放送の視聴率は40%前後まで徐々に低下する。また、常連の出場歌手の中には全盛期を過ぎていたり、音楽セールスや絶対的な知名度があるとはいえないような者が多くを占めるようになる。演歌歌手は紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、紅白を敬遠する人は少なく、ポップス歌手のように辞退することがほとんどないためである[88]
  • また、民放各局もかつては大晦日の番組も通常編成で、紅白の「不戦勝」状態が続いていたが、この頃から紅白に対抗する番組編成に乗り出す。特に第54回2003年)では『K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!』(TBS系列)でのボブ・サップVS曙太郎戦時の視聴率が、紅白開始時1分間の例外を除けば調査開始以来初めて瞬間視聴率を4分間逆転されるという事態が発生した(この時、紅白で出ていたのは長渕剛)。
  • そのため、製作者サイドも新しい紅白へ変えるべく、従来の紅白から外れた取り組みを行っている。
    • 第53回2002年)において、番組側は「日本音楽界の総決算」をテーマを掲げ、出場歌手・曲目の多ジャンル化を決行[89]第52回2001年)まで常連だった演歌歌手が次々に落選となり、同回以降、演歌歌手の出演数が従来の半分以下になった[90]。NHK関係者は「出場歌手別に視聴率を調査すると演歌の時が目立って下がる。止むを得ない」と語っている[91]
    • 第54回(2003年)、「世界に一つだけの花」が大ヒットしたSMAPが大トリをつとめる。以降、演歌歌手が終盤を固める従来の構図は徐々に崩されてゆく。
    • 第58回2007年)を境に、出場歌手一同で行うアトラクションが廃止され、歌重視のシンプルな構成になる。同年から第60回記念(2009年)までの3年間は通し計画「歌力(うたぢから)」を設け、その一環で2007年は『クイズ紅白検定』が放送された。以降、各年ごとにテーマが設けられる。
    • 第59回(2008年)以降、第65回2014年)を除き、エンディングにて、得点集計の間、全出場歌手登場シーンのハイライトを放送している。
    • 第60回(2009年)以降、NHKオンデマンドの「見逃し番組サービス」で翌元日から10日間前後に渡り、有料配信を行っている。ジャニーズ事務所所属タレントが出演する番組のインターネット配信はこのケースが史上初となる[92][93]
  • 第53回(2002年)において、安室奈美恵が同年に彫った刺青ノースリーブ姿で露出させて歌ったところ、視聴者から抗議が殺到した。これを受けて、翌第54回(2003年)以降、刺青のある出演者は刺青が露出しない服装にするか、化粧などで刺青箇所を塗り隠さなくてはならなくなった。この年最後の出場となった安室は、刺青をファンデーションで塗り隠している。
  • 2004年には、紅白も担当したNHKプロデューサーが5000万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、NHKは激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、同年の第55回では出場歌手選考の透明感を出すことを目的に「紅白に出場してほしい歌手」と題された世論調査(7歳以上の3600人を対象に「出場してほしい男女それぞれ2組の歌手」を記入してもらう)が実施された。ただ、歌手からの反発もあり、翌年の第56回(2005年)には視聴者から紅白で聞きたい歌を募ったアンケート『スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜』が実施された。しかし、こちらも組織票が多く寄せられるなど、トラブルがあり、1年限りで廃止となった。
  • 第55回(2004年)で審査方法に対する苦情が多く寄せられた(後述)ことから、翌年の第56回以降は第57回2006年)、第64回2013年)を除き、全審査員の投票数全てをそのまま反映する方式を採用。
  • NHKホール外からの中継が復活し、毎年どこかで中継が入る。個人のスケジュールの都合や演出の都合によるものが多いが、これに和田アキ子北島三郎が苦言を述べたことがある(中継で出演することで自身の歌のステージ以外のリハーサル(オープニング・エンディング・ショーコーナーなど)への参加の必要がなくなるため)。北島は、「ホール側に穴が開く」と表現した。
  • 2006年以降の1月1日(元日)、総合テレビでは紅白終了の40分後(「ゆく年くる年」とニュースの後)にさだまさし(当時の紅白常連)司会の『年の初めはさだまさし』が生放送されている。
  • 第57回以降、組司会(第58回2007年〉のみ紅組司会、それ以外は白組司会)にジャニーズ事務所所属タレントが起用される体制となる。さらに第59回2008年)以降、両組司会は『連続テレビ小説』(上期作品。直接オファー抜擢者)か『大河ドラマ』の主演経験・予定者とジャニーズ事務所所属タレントが務める格好となっている。
  • 第59回にはMr.Childrenが、第60回2009年)には矢沢永吉がそれぞれ初出演し、以降は例年、「辞退組」の招聘に成功している。矢沢は「特別枠」での出演であり、以降の「辞退組」も、対戦の枠外、なおかつ中継での出演が多い。

2010年代

  • 2010年代に入ると、常連の演歌歌手も続々と姿を消し、常連として残ったのは、何度もトリを務めた歌手やコンスタントにヒット曲を出す一握りに絞られた(ただし返り咲きもあるため、人数が激減したわけではない)。曲順も、終盤をポップス歌手が占めるようになる。
  • 第61回 - 第65回2014年)まで両軍司会はその年の『連続テレビ小説』か『大河ドラマ』の主演者とが務めた。
  • 第61回以降、副音声での『紅白ウラトーク』放送やTwitterの紅白歌合戦公式アカウントの運用がそれぞれ開始された[94]。また、第61回 - 第63回2012年)まで紅白オリジナル・キャラクター・ウタ♪ウッキーが制定された[95]
  • 第62回2011年)以降、東日本大震災の復興支援を後押しする演出が多く行われている。
  • 第64回2013年)では、横浜赤レンガ倉庫グランフロント大阪イオンシネマ幕張新都心で8K/スーパーハイビジョンの映像でライブパブリックビューイングを実施した。また同回以降、同年の『連続テレビ小説』の特別編を放送している[96]
  • 第66回2015年)では、新たにInstagramの公式アカウントを開設、制作風景からリハーサル、本番の舞台裏を写真で逐次公開した。その他にも様々なインターネットとの連携が行われた[97]
  • 詳細は、以下を参照。
    2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年

審査方法の変遷

期間 審査方法
 ? - 第13回1962年 審査員が紅白に塗り分けた団扇の優勢だと思う方をステージ上に向けた数の多かったチームが優勝。
第14回1963年)・第15回1964年 各地方放送局のアナウンサーが地方審査員のポイントを公表。加えて、審査委員長のNHK芸能局長がステージ上で特別審査員のポイントを追加、公表し優勝チームを発表。会場の電光掲示板にも表示される。
第16回1965年) - 第19回1968年 特別審査員が宝箱にボールを入れ、両軍司会がステージ袖に向かってボールを投げ、ボールの数の多いチームが優勝。
  • 箱の中にはかごが2つ入っており、ラジオ第1『ふるさと自慢歌自慢』では、この方式で勝敗を決めている(審査員は3名。3回戦まで行なうためボールは合計9個)。
第20回1969年) - 第31回1980年 得点集計センターのオペレーターが電話で地域代表が優勢と判断したチームを聞き、両組の得点を集計する。その後、特別審査員がスイッチで1ポイントずつ点数を入れ、地域代表の審査結果と合計した点数を電光掲示板に表示し、点数の多かったチームが優勝。
  • 第23回1972年)からNHKの放送会館内の特設スタジオに電話オペレーターを置き、全国数ヶ所の一般審査員制を導入。この方式は3年後の第26回1975年)から復活し第31回まで行われた。
第32回1981年) - 第52回2001年 客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色のうちわやカード(第32回(1981年)はカード。団扇には組司会の似顔絵が描かれている)で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった(第37回1986年) - 第42回1991年)は行われず。第37回(1986年)では、中央の巨大CRTモニターに得票数を帯グラフで表示する方式だった。第42回(1991年)における観客審査の方式は、UFO型の風船につけたマイクを使い、歓声の大きさで決めるというものだった)。団扇による得票数は、その年のそろ盤日本一が暗算にて計算。第46回1995年)までは階毎に分けて発表していたが、翌第47回1996年)以降は全階一緒に発表するかたちに変更している。団扇の得票数が多かったチームにボールが加算され、ゲスト審査員のボールの数と合わせて、紅白それぞれの箱に加えられたボールを両軍の代表者(当初は両軍の歌手キャプテンが行っていたが、後に両軍司会に変更)が客席に向かって投げる。ボールの個数の多かったチームが優勝。
第53回2002年)・第54回2003年 デジタル放送(第53回からはBSデジタル放送、第54回からは地上デジタル放送でも)の双方向機能を利用したお茶の間審査員による投票が行われるようになった(リモコンで紅組の場合は赤ボタン。白組の場合は青ボタンを押して投票)。客席審査同様、お茶の間審査で優勢だったチームにボールが2個加算される。
  • 申し込みの際、デジタル総合テレビとデジタル衛星ハイビジョンが両方受信できる場合はどちらか一方のチャンネルのデータ放送で申し込みすればデジタル総合テレビ・デジタル衛星ハイビジョンのどちらでも双方向通信による投票が可能である(受信機1台に付き、1回の申し込みで可)。地上デジタル放送が受信できない地域ではデジタル衛星ハイビジョンのデータ放送からの申し込みとなる。
  • 客席審査員(前者は観客の一部、後者は観客全員)はボールを使う投票方式。これは、『爆笑オンエアバトル』の方式によるものである(詳細は爆笑オンエアバトル#審査方法を参照)。双眼鏡を使っての計測が一時姿を消すことになった[98]。その後、第64回(2013年)でこの計測が復活する。
第55回2004年 客席は審査に参加せず、特別審査員(11票)とお茶の間デジタル審査員(2票)の13個のボールで勝敗を争うかたちとなった。お茶の間審査では白組の圧勝だったが、ゲスト審査員の8人が紅組に投票したため紅組の優勝という結果となった。
第56回2005年 審査員の投票総数で勝敗を競う方式に変更された。ゲスト審査員10名と「デジタルTV審査員」と新設された「ケータイ審査員」(抽選で選ばれた10,000名)に加え、2年ぶりに復活する会場審査(3,000名程度)を加えた人数で勝敗を競う。これは前年の件や不祥事に伴う信頼回復策の一環として視聴者の意見を重視してイメージアップを図ることが目的だったという。また、「デジタルTV審査員」と「ケータイ審査員」への応募者の中から抽選で各10名、計20名が「ふるさと審査員」としてNHKホールに招待された(「ふるさと審査員」がNHKホールに赴く際にかかる費用はNHK持ちとなっていた)。会場審査はゲスト審査員・ふるさと審査員も含め、専用の紅白の団扇をステージ上のレーダーに向ける『ポップジャム』のブレイクレーダー方式が用いられた。
第57回2006年 ワンセグ放送の双方向機能による「ワンセグ審査員」がスタート。「ケータイ審査員」と同様抽選で選ばれ、同回はそれぞれ15,000名に増員、「ふるさと審査員」も30名に増員されるが、ボールを使う投票方式に戻され、特別審査員は1人1個、それ以外は得票数を数個のボールに置き換えるかたちとなった。
  • 中間審査では「ケータイ審査員」と「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各1個ずつ。
  • 最終審査では「会場審査員」、「ケータイ審査員」、「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各2個ずつとゲスト審査員10名(1名につき1個)を加え、中間審査の分を合わせるとボールの数は合計18個となった。この関係で状況によっては(従来ではこのボールが奇数になるためにありえなかった)引き分けによる両軍優勝の可能性もあった。
  • 「ケータイ審査員」は抽選となったが、「ワンセグ審査員」は対応機種が少数派のためか締め切りを過ぎても定員に達せず、放送当日まで募集を行った。
第58回2007年 「ケータイ審査員」が50,000名に増員、「ワンセグ審査員」は無制限となり、審査方法は再び審査員の投票総数で勝敗を競う方式になった。これには中間審査の票数も加算される。
  • 中間審査は前年までの1回から2回に増える(投票開始時間は20時00分頃、21時15分頃、23時35分頃。投票可能時間は約3分)。
  • 審査結果発表は東京タワーライトアップの色が紅か白に変わることで発表(通常の照明を消した後に紅か白を点灯する)。
第59回2008年) - 第61回2010年 同様の審査方式であるが中間審査は1回のみとなり、結果発表はステージ上のLEDパネルに映し出す形を採用。
第62回2011年)・第63回2012年 基本の審査方法はこれまでと同じだが、最終審査のみの得票数で競うかたちを採用。この2回ではゲスト審査員はウタ♪ウッキーのパペットを出して審査に参加した(紅組の場合はウー♪、白組の場合はター♪)。
第64回2013年 第57回以来7年ぶりにボール審査が復活した。
第65回2014年) - 団扇での投票と似ているが、ゲスト・客席ともに、ペンライトを赤か白かどちらかに点灯させて審査を行った(計測は麻布大学野鳥研究部が担当)。

各回の概要

これまでの通算成績は紅組30勝・白組36勝で白組がリードしている。第56回(2005年)から第61回(2010年)まで白組が6連勝しており、これが最多連勝記録である。

回数 放送日 紅組司会 白組司会 総合司会 優勝 平均視聴率
第1回 1951年1月3日 加藤道子 藤倉修一 田辺正晴 記録なし
第2回 1952年1月3日 丹下キヨ子
第3回 1953年1月2日 本田寿賀 宮田輝 志村正順
第4回 1953年12月31日 水の江瀧子 高橋圭三 北出清五郎
第5回 1954年12月31日 福士夏江 石井鐘三郎
第6回 1955年12月31日 宮田輝 紅 (5-4)
第7回 1956年12月31日
第8回 1957年12月31日 水の江瀧子 紅 (7-4)
第9回 1958年12月31日 黒柳徹子 紅 (7-4)
第10回 1959年12月31日 中村メイコ 紅 (7-4)
第11回 1960年12月31日
第12回 1961年12月31日 穂坂俊明
第13回 1962年12月31日 森光子 宮田輝 石井鐘三郎 80.4%
第14回 1963年12月31日 江利チエミ 紅 (19-8) 81.4%
第15回 1964年12月31日 72.0%
第16回 1965年12月31日 林美智子 白 (14-11) 78.1%
第17回 1966年12月31日 ペギー葉山 紅 (22-3) 74.0%
第18回 1967年12月31日 九重佑三子 76.7%
第19回 1968年12月31日 水前寺清子 坂本九 宮田輝 白 (10-7) 76.9%
第20回 1969年12月31日 伊東ゆかり 紅 (10-7) 69.7%
第21回 1970年12月31日 美空ひばり 宮田輝 北出清五郎 紅 (81-79) 77.0%
第22回 1971年12月31日 水前寺清子 鈴木文彌 白 (102-98) 78.1%
第23回 1972年12月31日 佐良直美 山川静夫 紅 (59-42) 80.6%
第24回 1973年12月31日 水前寺清子 75.8%
第25回 1974年12月31日 佐良直美 山川静夫 土門正夫
中江陽三
74.8%
第26回 1975年12月31日 相川浩 72.0%
第27回 1976年12月31日 74.6%
第28回 1977年12月31日 77.0%
第29回 1978年12月31日 森光子 72.2%
第30回 1979年12月31日 水前寺清子 中江陽三 77.0%
第31回 1980年12月31日 黒柳徹子 71.1%
第32回 1981年12月31日 生方惠一 白 (22-11) 74.9%
第33回 1982年12月31日 紅 (19-16) 69.9%
第34回 1983年12月31日 鈴木健二 タモリ 白 (19-10) 74.2%
第35回 1984年12月31日 森光子 生方惠一 紅 (31-2) 78.1%
第36回 1985年12月31日 森昌子 千田正穂 紅 (22-11) 66.0%
第37回 1986年12月31日 目加田賴子
斉藤由貴
千田正穂
加山雄三
吉川精一 59.4%
第38回 1987年12月31日 和田アキ子 加山雄三 紅 (18-9) 55.2%
第39回 1988年12月31日 杉浦圭子 白 (19-8) 53.9%
第40回 1989年12月31日 三田佳子 武田鉄矢 松平定知 紅 (20-7) 1部 38.5%
2部 47.0%
第41回 1990年12月31日 西田敏行 白 (13-4) 1部 30.6%
2部 51.5%
第42回 1991年12月31日 浅野ゆう子 堺正章 山川静夫 紅 (8-7) 1部 34.9%
2部 51.5%
第43回 1992年12月31日 石田ひかり 白 (15-2) 1部 40.2%
2部 55.2%
第44回 1993年12月31日 森田美由紀 白 (18-9) 1部 42.4%
2部 50.1%
第45回 1994年12月31日 上沼恵美子 古舘伊知郎 宮川泰夫 紅 (9-8) 1部 40.1%
2部 51.5%
第46回 1995年12月31日 宮本隆治
草野満代
白 (13-4) 1部 44.9%
2部 50.4%
第47回 1996年12月31日 松たか子 白 (9-4) 1部 41.6%
2部 53.9%
第48回 1997年12月31日 和田アキ子 中居正広
SMAP
宮本隆治 白 (9-4) 1部 40.2%
2部 50.7%
第49回 1998年12月31日 久保純子 紅 (9-4) 1部 45.4%
2部 57.2%
第50回 1999年12月31日 中村勘九郎
(後の中村勘三郎
白 (7-6) 1部 45.8%
2部 50.8%
第51回 2000年12月31日 和泉元彌 紅 (9-4) 1部 39.2%
2部 48.4%
第52回 2001年12月31日 有働由美子 阿部渉 三宅民夫 白 (9-4) 1部 38.1%
2部 48.5%
第53回 2002年12月31日 紅 (9-6) 1部 37.1%
2部 47.3%
第54回 2003年12月31日 有働由美子
膳場貴子
阿部渉
高山哲哉
武内陶子 白 (15-0) 1部 35.5%
2部 45.9%
第55回 2004年12月31日 小野文惠 阿部渉 堀尾正明 紅 (8-5) 1部 30.8%
2部 39.3%
第56回 2005年12月31日 仲間由紀恵 山本耕史 みのもんた
山根基世
1部 35.4%
2部 42.9%
第57回 2006年12月31日 中居正広
(SMAP)
三宅民夫
黒崎めぐみ
白 (13-5) 前半 30.6%
後半 39.8%
第58回 2007年12月31日 中居正広
(SMAP)
笑福亭鶴瓶 松本和也
住吉美紀
前半 32.8%
後半 39.5%
第59回 2008年12月31日 仲間由紀恵 中居正広
(SMAP)
松本和也
小野文惠
前半 35.7%
後半 42.1%
第60回 2009年12月31日 阿部渉 前半 37.1%
後半 40.8%
第61回 2010年12月31日 松下奈緒 前半 35.7%
後半 41.7%
第62回 2011年12月31日 井上真央 前半 35.2%
後半 41.6%
第63回 2012年12月31日 堀北真希 有働由美子 前半 33.2%
後半 42.5%
第64回 2013年12月31日 綾瀬はるか 白(9-4) 前半 36.9%
後半 44.5%
第65回 2014年12月31日 吉高由里子 前半 35.1%
後半 42.2%
第66回 2015年12月31日 綾瀬はるか 井ノ原快彦
V6
黒柳徹子
有働由美子
前半 34.8%
後半 39.2%
第67回 2016年12月31日 有村架純 相葉雅紀
(嵐)
武田真一
※視聴率は関東地区・ビデオリサーチ調べ。第1 - 12回の視聴率はビデオリサーチ設立前のため記録なし[99]
  1. 一部の回の優勝チームに付記された括弧内の数字は、最終審査結果の票数。
  2. 藤倉、田辺、本田、宮田、志村、北出、福士、高橋、石井、穂坂、鈴木(文)、山川、土門、中江、相川、生方、鈴木(健)、千田、目加田、吉川、杉浦、松平、森田、宮川、宮本、草野、久保、有働、阿部、三宅、膳場、高山、武内、小野、堀尾、山根、黒崎、松本、住吉、武田はいずれも司会回時点は東京アナウンス室在籍者である。
  3. 総合司会のうち、第18回までと第25回の土門・中江、第34回のタモリ、第45回の宮川の名義は「進行役」。また、総合司会が正式であるものは第19回から第20回、第34回から第55回、第57回からである。
  4. 第56回については当初は紅白別の司会者は設定せず、上記の4人によるグループ司会で進行すると発表されたが、実際の放送では仲間が主に紅組歌手、山本が主に白組歌手の曲を中心に司会(エンディング時の優勝旗授与も山本が優勝旗を受け取った)、みのは実質上生放送の全ての進行を統括する総合司会的な役割、山根は進行役的役割という形式で役割分担がなされた。上記の表では実質的な役割に従って氏名を記載した。
  5. 嵐は大野智櫻井翔、相葉雅紀、二宮和也松本潤から構成されるグループである。
ラジオ実況担当
回数 アナウンサー
2000年・第51回 阿部渉
2001年・第52回 小野文惠、高市佳明
2002年・第53回 小野文惠、高市佳明
2003年・第54回 小野文惠、藤崎弘士
2004年・第55回 藤崎弘士、住吉美紀
2005年・第56回 藤崎弘士、黒崎めぐみ
2006年・第57回 小田切千島津有理子
2007年・第58回 小田切千、塚原愛
2008年・第59回 山田康弘神田愛花
2009年・第60回 山田康弘、神田愛花
2010年・第61回 小松宏司、黒崎めぐみ
2011年・第62回 小松宏司、橋本奈穂子
2012年・第63回 青井実、橋本奈穂子
2013年・第64回 吉田一貴久保田祐佳
2014年・第65回 青井実、首藤奈知子
2015年・第66回 中川緑、高山哲哉
2016年・第67回 寺門亜衣子二宮直輝

歴代トップバッター歌手とその曲目

色付きの枠が先行トップバッター(不明のケースもある)。( )は通算出場回数、[ ]は通算トップバッター回数を示す。

回数 紅組トップバッター 白組トップバッター
歌手 曲目 歌手 曲目
第1回 1951年 菅原都々子(初) [初] 憧れの住む町 鶴田六郎(初) [初] 港の恋唄
第2回 1952年 暁テル子(2) [初] メロンはいかが[100] 林伊佐緒(2) [初] 麗人草の歌[101]
第3回 1953年
1月
菊池章子(2) [初] 母の瞳 林伊佐緒(3) [2] ダイナ・ブルース
第4回 1953年
12月
赤坂小梅(2) [初] おてもやん 鈴木正夫(3) [初] 花笠音頭
第5回 1954年 宮城まり子(初) [初] 毒消しゃいらんかね 岡本敦郎(4) [初] 高原列車は行く
第6回 1955年 荒井恵子(2) [初] 希望をのせて馬車は行く 鶴田六郎(5) [2] 天下の為さん
第7回 1956年 荒井恵子(3) [2] 南の花嫁さん 岡本敦郎(6) [2] 自転車旅行
第8回 1957年 楠トシエ(初) [初] お花どん 曾根史郎(2) [初] 看板娘の花子さん
第9回 1958年 荒井恵子(4) [3] 橇は飛ぶよ 岡本敦郎(7) [3] 若人スキーヤー
第10回 1959年 荒井恵子(5) [4] 白菊の歌 曾根史郎(4) [2] 僕の東京地図
第11回 1960年 荒井恵子(6) [5] 青い月夜の散歩道 若山彰(4) [初] さいはて岬
第12回 1961年 朝丘雪路(4) [初] チャチャで飲みましょう 神戸一郎(4) [初] 東京ラプソディ
第13回 1962年 仲宗根美樹(初) [初] 川は流れる 松島アキラ(初) [初] あゝ青春に花よ咲け
第14回 1963年 弘田三枝子(2) [初] 悲しきハート 田辺靖雄(初) [初] 雲に聞いておくれよ
第15回 1964年 朝丘雪路(7) [2] 夜の八丈島 北島三郎(2) [初] そうらん仁義
第16回 1965年 三沢あけみ(2) [初] アリューシャン小唄 舟木一夫(3) [初] 高原のお嬢さん
第17回 1966年 中尾ミエ(5) [初] 蜜の味 西郷輝彦(3) [初] 星のフラメンコ
第18回 1967年 水前寺清子(3) [初] どうどうどっこの唄 舟木一夫(5) [2] 夕笛
第19回 1968年 都はるみ(4) [初] 好きになった人 三田明(5) [初] バラの涙
第20回 1969年 青江三奈(3) [初] 池袋の夜 布施明(3) [初] バラ色の月
第21回 1970年 水前寺清子(6) [2] 大勝負 村田英雄(10) [初] 闘魂
第22回 1971年 南沙織(初) [初] 17才 尾崎紀世彦(初) [初] また逢う日まで
第23回 1972年 天地真理(初) [初] ひとりじゃないの 森進一(5) [初] 放浪船
第24回 1973年 小柳ルミ子(3) [初] 漁火恋唄 布施明(7) [2] 甘い十字架
第25回 1974年 山口百恵(初) [初] ひと夏の経験 西城秀樹(初) [初] 傷だらけのローラ
第26回 1975年 岩崎宏美(初) [初] ロマンス 細川たかし(初) [初] 心のこり
第27回 1976年 山口百恵(3) [2] 横須賀ストーリー 野口五郎(5) [初] 針葉樹
第28回 1977年 桜田淳子(4) [初] 気まぐれヴィーナス 郷ひろみ(5) [初] 悲しきメモリー
第29回 1978年 榊原郁恵(初) [初] 夏のお嬢さん 郷ひろみ(6) [2] バイブレーション
第30回 1979年 石野真子(初) [初] ジュリーがライバル 郷ひろみ(7) [3] マイレディー
第31回 1980年 榊原郁恵(3) [2] ROBOT 郷ひろみ(8) [4] How many いい顔
第32回 1981年 河合奈保子(初) [初] スマイル・フォー・ミー 近藤真彦(初) [初] ギンギラギンにさりげなく
第33回 1982年 三原順子(初) [初] ホンキでLove me Good!! シブがき隊(初) [初] 100%…SOかもね!
第34回 1983年 岩崎宏美(9)[2] 家路 西城秀樹(10) [2] ギャランドゥ
第35回 1984年 早見優(2) [初] 誘惑光線☆クラッ! シブがき隊(3) [2] アッパレ! フジヤマ
第36回 1985年 石川秀美(初) [初] 愛の呪文 吉川晃司(初) [初] にくまれそうなNEWフェイス
第37回 1986年 荻野目洋子(初) [初] ダンシング・ヒーロー (Eat You Up) 少年隊(初) [初] 仮面舞踏会
第38回 1987年 八代亜紀(15) [初] 恋は火の川 森進一(20) [2] 悲しいけれど
第39回 1988年 中山美穂(初) [初] Witches 光GENJI(初) [初] 光GENJI '88メドレー[102]
第40回 1989年 織井茂子(6) [初] 君の名は 田端義夫(2) [初] かえり船
第41回 1990年 DREAMS COME TRUE(初) [初] 笑顔の行方 光GENJI(3) [2] COCORO
第42回 1991年 西田ひかる(初) [初] ときめいて バブルガム・ブラザーズ(初) [初] WON'T BE LONG
第43回 1992年 森口博子(2) [初] スピード SMAP(2) [初] 雪が降ってきた
第44回 1993年 久宝留理子(初) [初] 「男」 X JAPAN(3) [初] Tears
第45回 1994年 trf(初) [初] BOY MEETS GIRL access(初) [初] SCANDALOUS BLUE
第46回 1995年 酒井法子(初) [初] 碧いうさぎ シャ乱Q(初) [初] ズルい女
第47回 1996年 JUDY AND MARY(初) [初] そばかす ウルフルズ(初) [初] ガッツだぜ!!
第48回 1997年 SPEED(初) [初] White Love T.M.Revolution(初) [初] WHITE BREATH
第49回 1998年 SPEED(2) [2] ALL MY TRUE LOVE DA PUMP(初) [初] Rhapsody in Blue
第50回 1999年 モーニング娘。(2) [初] LOVEマシーン DA PUMP(2) [2] We can't stop the music
第51回 2000年 Whiteberry(初) [初] 夏祭り 藤井隆(初) [初] ナンダカンダ
第52回 2001年 松浦亜弥(初) [初] LOVE涙色 えなりかずき(初) [初] おいらに惚れちゃ怪我するぜ!
第53回 2002年 藤本美貴(初) [初] ロマンティック 浮かれモード w-inds.(初) [初] NEW PARADISE
第54回 2003年 BoA(2) [初] DOUBLE w-inds.(2) [2] Long Road
第55回 2004年 上戸彩(初) [初] 愛のために。 TOKIO(11) [初] 自分のために
第56回 2005年 川中美幸(18) [初] 二輪草 細川たかし (31) [2] 北酒場
第57回 2006年 mihimaru GT(初) [初] 気分上々↑↑ w-inds.(5) [3] ブギウギ66
第58回 2007年 モーニング娘。(10) [2]
Berryz工房(初) [初]
℃-ute(初) [初]
Special LOVE Mix
〜幸せの平成20周年 Ver.〜[103]
美川憲一(24) [初] さそり座の女2007
第59回 2008年 浜崎あゆみ(10) [初] Mirrorcle World 布施明(24) [3] 君は薔薇より美しい
第60回 2009年 浜崎あゆみ(11) [2] Rule EXILE(5) [初] Someday
第61回 2010年 浜崎あゆみ(12) [3] Virgin Road EXILE(6) [2] I Wish For You
第62回 2011年 浜崎あゆみ(13) [4] progress NYC(3) [初] 100%勇気NYC[104]
第63回 2012年 浜崎あゆみ(14) [5] 2012 A SPECIAL メドレー[105] NYC(4) [2] NYC紅白メドレー[106]
第64回 2013年 浜崎あゆみ(15) [6] INSPIRE Sexy Zone(初) [初] Sexy平和Zone組曲[107]
第65回 2014年 HKT48(初) [初] メロンジュース Sexy Zone(2) [2] 紅白にHITOMEBORE
第66回 2015年 大原櫻子(初) [初] 郷ひろみ (28) [5] 2億4千万の瞳 -エキゾチック・ジャパン-

歴代トリ歌手とその曲目

色付きの枠が大トリ(不明のケースもある。)。( )は通算出場回数、[ ]は通算トリ回数を示す。

回数 紅組トリ 白組トリ
歌手 曲目 歌手 曲目
第1回 1951年 渡辺はま子(初) [初] 桑港のチャイナ街 藤山一郎(初) [初] 長崎の鐘
第2回 1952年 渡辺はま子(2) [2] 火の鳥[108] 藤山一郎(2) [2] オリンピックの歌
第3回 1953年
1月
笠置シヅ子(2) [初] ホームラン・ブギ 灰田勝彦(2) [初] 野球小僧
第4回 1953年
12月
淡谷のり子[109](初) [初] アデュー 藤山一郎(4) [3] 丘は花ざかり
第5回 1954年 渡辺はま子(4) [3] 東京の薔薇 霧島昇(3) [初] 石狩エレジー
第6回 1955年 二葉あき子(6) [初] バラのルンバ 藤山一郎(6) [4] ニコライの鐘
第7回 1956年 笠置シヅ子(4) [2] ヘイ・ヘイ・ブギ 灰田勝彦(4) [2] 白銀の山小舎で
第8回 1957年 美空ひばり(2) [初] 長崎の蝶々さん 三橋美智也(2) [初] リンゴ花咲く故郷へ
第9回 1958年 美空ひばり(3) [2] 白いランチで十四ノット 三橋美智也(3) [2] おさらば東京
第10回 1959年 美空ひばり(4) [3] 御存知弁天小僧 春日八郎(5) [初] 東京の蟻
第11回 1960年 島倉千代子(4) [初] 他国の雨 三橋美智也(5) [3] 達者でナ
第12回 1961年 島倉千代子(5) [2] 襟裳岬 三波春夫(4) [初] 文左たから船
第13回 1962年 島倉千代子(6) [3] さよならとさよなら 三橋美智也(7) [4] 星屑の街
第14回 1963年 美空ひばり(8) [4] 哀愁出船 三波春夫(6) [2] 佐渡の恋唄
第15回 1964年 美空ひばり(9) [5] 三波春夫(7) [3] 俵星玄蕃
第16回 1965年 美空ひばり(10) [6] 橋幸夫(6) [初] あの娘と僕〜スイム・スイム・スイム〜
第17回 1966年 美空ひばり(11) [7] 悲しい酒 三波春夫(8) [4] 紀伊國屋分左衛門
第18回 1967年 美空ひばり(12) [8] 芸道一代 三波春夫(9) [5] 赤垣源蔵
第19回 1968年 美空ひばり(13) [9] 熱祷 橋幸夫(9) [2] 赤い夕陽の三度笠
第20回 1969年 美空ひばり(14) [10] 別れてもありがとう 森進一(2) [初] 港町ブルース
第21回 1970年 美空ひばり(15) [11] 人生将棋 森進一(3) [2] 銀座の女
第22回 1971年 美空ひばり(16) [12] この道をゆく 森進一(4) [3] おふくろさん
第23回 1972年 美空ひばり(17) [13] ある女の詩 北島三郎(10) [初] 冬の宿
第24回 1973年 島倉千代子(17) [4」 からたち日記 北島三郎(11) [2] 帰ろかな
第25回 1974年 島倉千代子(18) [5] 襟裳岬 森進一(7) [4] 襟裳岬
第26回 1975年 島倉千代子(19) [6] 悲しみの宿 五木ひろし(5) [初] 千曲川
第27回 1976年 都はるみ(12) [初] 北の宿から 五木ひろし(6) [2] 愛の始発
第28回 1977年 八代亜紀(5) [初] おんな港町 五木ひろし(7) [3] 灯りが欲しい
第29回 1978年 山口百恵(5)[初] プレイバックPart2 沢田研二(6) [初] LOVE (抱きしめたい)
第30回 1979年 八代亜紀(7) [2] 舟唄 五木ひろし(9) [4] おまえとふたり
第31回 1980年 八代亜紀(8) [3] 雨の慕情 五木ひろし(10) [5] ふたりの夜明け
第32回 1981年 森昌子(9) [初] 哀しみ本線日本海 北島三郎(19) [3] 風雪ながれ旅
第33回 1982年 都はるみ(18) [2] 涙の連絡船 森進一(15) [5] 影を慕いて
第34回 1983年 水前寺清子(19) [初] あさくさ物語 細川たかし(9) [初] 矢切の渡し
第35回 1984年 都はるみ(20) [3] 夫婦坂好きになった人[110] 森進一(17) [6] 北の螢
第36回 1985年 森昌子(13) [2] 愛傷歌 森進一(18) [7] 女もよう
第37回 1986年 石川さゆり(9) [初] 天城越え 森進一(19) [8] ゆうすげの恋
第38回 1987年 和田アキ子(11) [初] 抱擁 五木ひろし(17) [6] 追憶
第39回 1988年 小林幸子(10) [初] 雪椿 北島三郎(25) [4] 年輪
第40回 1989年 石川さゆり(12) [2] 風の盆恋歌 北島三郎(26) [5] 夜汽車
第41回 1990年 都はるみ(22) [4] 千年の古都 森進一(23) [9] おふくろさん
第42回 1991年 和田アキ子(15) [2] あの鐘を鳴らすのはあなた 谷村新司(5) [初] 昴-すばる-
第43回 1992年 由紀さおり(13) [初] 赤とんぼどこかへ帰ろう 北島三郎(29) [6] 帰ろかな
第44回 1993年 石川さゆり(16) [3] 津軽海峡・冬景色 北島三郎(30) [7] まつり
第45回 1994年 都はるみ(26) [5] 古都逍遥 五木ひろし(24) [7] 気笛
第46回 1995年 和田アキ子(19) [3] もう一度ふたりで歌いたい 細川たかし(21) [2] 望郷じょんから
第47回 1996年 坂本冬美(9) [初] 夜桜お七 北島三郎(33) [8] 風雪ながれ旅
第48回 1997年 安室奈美恵(3) [初] CAN YOU CELEBRATE? 五木ひろし(27) [8] 千曲川
第49回 1998年 和田アキ子(22) [4] 今あなたにうたいたい 五木ひろし(28) [9] 酒ひとり
第50回 1999年 和田アキ子(23) [5] あの鐘を鳴らすのはあなた 北島三郎(36) [9] まつり
第51回 2000年 天童よしみ(5) [初] 道頓堀人情 五木ひろし(30) [10] 山河
第52回 2001年 和田アキ子(25) [6] 北島三郎(38) [10]
第53回 2002年 石川さゆり(25) [4] 天城越え 五木ひろし(32) [11] おふくろの子守唄
第54回 2003年 天童よしみ(8) [2] 美しい昔 SMAP(12) [初] 世界に一つだけの花
第55回 2004年 小林幸子(26) [2] 雪椿 五木ひろし(34) [12] 雪燃えて
第56回 2005年 天童よしみ(10) [3] 川の流れのように SMAP(13) [2] Triangle
第57回 2006年 川中美幸(19) [初] ふたり酒 北島三郎(43) [11] まつり
第58回[111] 2007年 石川さゆり(30) [5] 津軽海峡・冬景色 五木ひろし(37) [13] 契り
第59回 2008年 和田アキ子(32) [7] 氷川きよし(9) [初] きよしのズンドコ節
第60回 2009年 DREAMS COME TRUE(13) [初] その先へ 〜紅白スペシャルバージョン〜[112] 北島三郎(46) [12] まつり
第61回 2010年 DREAMS COME TRUE(14) [2] 生きてゆくのです♡
feat. ザ紅白スペシャルブラスバンド
SMAP(18) [3] This is love '10 SPメドレー[113]
第62回 2011年 石川さゆり(34) [6] 津軽海峡・冬景色 SMAP(19) [4] SMAP AID 紅白SP[114]
第63回 2012年 いきものがかり(5) [初] 風が吹いている SMAP(20) [5] SMAP2012'スペシャル[115]
第64回[116] 2013年 髙橋真梨子(2) [初] for you… SMAP(21) [6] Joymap!![117]
北島三郎(50) [13] まつり
第65回 2014年 松田聖子(18) [初] あなたに会いたくて〜Missing You〜 (6) [初] 2014 Thanks Medley
第66回 2015年 松田聖子(19) [2] 赤いスイートピー 近藤真彦(10) [初] ギンギラギンにさりげなく

備考

視聴率

毎回、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる(1月2日公表)。第13回1962年)のビデオリサーチによる調査開始以降での最高視聴率は第14回1963年)の81.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯。以下略)[79]1980年代前半までは「お化け番組」「怪物番組」とも称された。最低視聴率は第55回2004年)の39.3%である[79]。ほぼ毎回、年間視聴率では民放の人気番組を抑え、上位にランクインしており、ほとんどの回で1位となっている(ビデオリサーチ社調べ)[118]。毎分視聴率も公表(1月3日前後)され、どの歌手の部分の視聴率が高かったかも話題となる。

「紅白効果」

紅白出演がアーティストの翌年初頭のCD売り上げに少なからず影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている[119]。紅白出演後に紅白で歌われた曲がオリコンシングルチャートで週間1位を獲得したケースとしては都はるみの「北の宿から」、吉幾三の「雪國」、中島みゆきの「地上の星」、SMAPの「世界に一つだけの花 (シングル・ヴァージョン)」(返り咲き)、秋川雅史の「千の風になって」、秋元順子の「愛のままで…」、植村花菜の「トイレの神様」がある。また紅白歌唱を機に注目され大ヒット・再ヒットした楽曲を翌年の紅白で連続して歌唱するというケースも見られる(その際、再度の「紅白効果」が生まれたというケースもある)。「紅白効果」はヒット曲のみならず、歌い継がれる「名曲」をも生み出すとの向きもある[120]

番組進行に際して

進行にあたっては、台本と合わせてカンペも用意される[121]。司会者に対し、スタッフから開始早々のタイミングで「巻き」(スタッフから出演者に早く進行するよう指示が入ること)が入ることも珍しくなく、放送内でアドリブを入れることも中々できないという[122]。その他、司会者が生本番内で言い間違いや失言をして話題となった事例がある(1980年代頃までは司会者の言い間違いなどのハプニングは一切許されないというほどの厳格さがあった(後にこのような演出やハプニングはある程度認められるようになった)。これに関連して総合司会経験者の宮本隆治は「NHKホールには魔物が住んでいる」「これまで多くの魔物が先輩の司会者達を苦しめて来た」と語っている[123])。ただし、これらは現代紅白のものであり、1970年代頃までは司会者によるアドリブや自由演出がごく当たり前のように行われていた。一例として、第21回1970年)では本番内において、白組司会の宮田輝が白組歌手の橋幸夫に対し、歌唱曲を当初予定の「俺たちの花」から「いつでも夢を」に変更することを持ちかけて歌唱させたという出来事があった。

第57回2006年)までは大部分を両軍司会がそれぞれ下手(紅組)、上手(白組)(第4回1953年12月〉のみ逆であった)に分かれて別々に進行するものだったが、第58回2007年)からは一部を除き下手席で両軍司会が揃って進行する形となった[124]

一方で、その「予定調和」を逆手に取り、アーティストが番組にも無断で不意打ちパフォーマンスを行うこともある。紅白でのパフォーマンスなので後に大問題になり、アーティストがNHKに出入り禁止を喰らうこともある。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下があげられる(詳しくは当該の回やアーティストの項目を参照)。

  • 第33回1982年) - サザンオールスターズ桑田佳祐三波春夫パロディ化した衣装と歌い方をした。「とにかく、受信料は払いましょう!」「裏番組(を見たい場合)はビデオで見ましょう!」という発言で、賛否両論が巻き起こった。桑田本人は後にNHKに詫び状を書かされ、「詫び状なんか書くくらいなら2度と出ない!」と、後の紅白(ひいてはNHK)との確執に繋がったことを明かしている。
  • 第36回1985年) - 吉川晃司が歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。
  • 第42回1991年) - とんねるずがパンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。
  • 第43回1992年) - 本木雅弘が首に白い液体を入れたコンドームの形をした風船をいくつも巻き付けて登場した。さらに、演奏途中では尻を露出した。
  • 第57回2006年) - DJ OZMA氣志團綾小路翔)が全身肌色のボディスーツを着て股間の部分にキノコの模型をつけた姿で舞台に登場。女性バックダンサーも同様の格好で全裸に見えたため、「公共放送で、しかもゴールデンタイムであることの配慮がない」としてNHKに苦情が殺到した。総合司会の三宅民夫が番組中に「全裸ではない」と説明した。その後、放送倫理・番組向上機構(BPO)から回答要請を受けた。この影響によりDJ OZMAは活動を一時休止を余儀なくされ、その後も活動に大きな制約が掛かるなど尾を引き続け、これが最終的には2008年の「引退」宣言にまで繋がっていく。
  • 第57回(2006年) - 川内康範作詞の「おふくろさん」を歌唱した森進一が川内に無断でセリフを入れた同曲を披露。これに川内が激怒し騒動となった(「おふくろさん騒動」を参照)。

観覧方法

  • 初期では先着入場順制であり、当日は会場を取り囲むように長蛇の列ができていたという[125]。後に観覧募集制に移行した。
  • NHKホールでの観覧(3,000人)は官製往復はがきのみで応募が受け付けられる。毎回多数の応募が集まるため、抽選となる。
  • 毎年10月中旬頃に応募要項が告知され、11月初旬頃に応募が締め切られる。その後、12月上旬頃に返信発送される。
  • 当選通知がそのまま入場整理券となる。整理券(当選はがき)1枚に付き2人分(1歳以上から入場券が必要)まで、当日にNHKホールの座席券と交換できる。座席は無作為に選ばれ、交換するまで分からない。
※最多の応募総数は第64回2013年)の142万7153通(当選倍率:約1,073倍)。第60回2009年)は約59万1274通(倍率:約437倍)であり、2010年代に入ってから、爆発的な増加傾向が見られる。ただし、1人何通応募しても当選は1通のみ、複数口の応募者が多数いるので実際の倍率はもっと低い。
NHKは入場券の転売を禁止としているが、入場券がネットオークションで出品されることが増えている(高額料金になるものも)。ただし、入場の際には整理券に加え、本人確認が実施されるので他人名義で当選したものでは入場できない。また、2014年1月には偽造した入場券を販売していた男性が逮捕される事態も発生している。

なお、第57回2006年)の募集から、応募資格が次のいずれかに制限されることになった。

  1. 「NHK受信料を支払いしている者」(銀行口座からの引き落としでも可能)
  2. 「新たにNHK受信料を支払いする者」
  3. 「NHKが定めている受信料免除者」
  4. 「上記のいずれかにあてはまる世帯家族)」
上記はいずれも銀行口座からの引き落としでも可能。

これにより、NHKの受信料を滞納、もしくは不払いの者は応募できなくなる。そのため、往信側のはがきには受信料負担者名の記入が必要となる。これは他の公開放送番組の応募(例:『NHK歌謡コンサート』)で実施されていたものと同様である。ただし、規則で禁止されている当選はがきの転売行為については全く対策がなされていない。

その他

  • 紅白の制作費は3億円程度とされる。紅白に携わる者のうち、NHKから弁当が用意されるのは司会者とスタッフのみ。出場歌手は自前で弁当を取り寄せたりする[126]
  • 国内で自粛ムードが高まった年では、紅白が中止になるかと懸念されたこともある[127][128]が、しかしながら中止となったケースはない。
  • 和田アキ子堺正章TBS系列『日本レコード大賞』(2006年以降は12月30日開催のため直接の競合はしていない)が生裏番組だった時代に、そちらの司会を兼任しながら紅白に出場した回がある(前者は1990年、後者は1999年)。他にも生裏番組や前後時間帯の生番組と掛け持ちしながら紅白に出演する者が存在している[129][130]
  • 急な出場者変更(先述)や出場歌手が本来の出番に遅刻(別の仕事と掛け持ちにより)した場合、予定していた歌唱順を入れ替えたという事例もある。
  • 客席に出場歌手の身内が招かれ、該当歌手歌唱前に身内にインタビューがされたり、歌唱中に観覧する姿が映されることがある[131]
  • 紅白初出場がテレビ・ラジオといったメディアへの初出演となったり[132]、テレビ生放送への初出演となった歌手[133]もいる。また出演歌手による紅白での歌唱がテレビ初披露もしくはNHKでの初披露となった楽曲もある。
  • 身内同士で同時出場・出演(コラボ演奏・歌唱が実現したこともある)するケースがあるほか、元夫婦が同時出場したという事例もある。また、交際者同士あるいは元交際者同士を直接対決にすることがある。このようにワイドショー好みの演出を意図的に行うこともある[134]
  • 民放が紅白の裏番組として放送するバラエティ特番(生放送)が紅白とコラボレーションを行うことがある(紅白に乱入したり、紅白裏で生放送を行っている民放局内のスタジオにテレビを持ってきて、総合テレビを映し(そちらからの放送でもカメラ越しに本紅白が一部放映)スタジオ出演者が出場歌手を応援するという姿を放映するなど)。
  • 韓国メディアは紅白、読売テレビ制作・日本テレビ系列『ベストヒット歌謡祭』、フジテレビ系列『FNS歌謡祭』の3番組を「日本三大歌謡祭」と紹介している[135]

紅白歌合戦の舞台が収められているDVD

  • 都はるみ「NHK紅白歌合戦20年の歩み」(1985年2月21日) - 20曲収録。
  • 小林幸子 vs 美川憲一「二人だけの紅白歌合戦!!」(2002年12月5日)- 25曲収録。
  • 南沙織Cynthia Premium」(2006年6月14日) - 8曲収録。
  • 河島英五「河島英五秘蔵映像集~デビュー前から最後のTV出演まで」(2007年4月18日) - 1曲収録。
  • 高橋真梨子高橋40年」(2013年6月5日) - 2曲収録。
  • 中森明菜「プレミアムBOX ルーカス〜NHK紅白歌合戦&レッツゴーヤング etc.」(2015年9月30日) - 8曲収録。

同じコンセプトを持つ企画・パロディなど

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 以前は衛星放送でもサイマル放送された。
  2. ^ デジタル放送はステレオ2音声。
  3. ^ 東日本大震災の影響で同放送期間が延長された盛岡仙台福島の3局は、第62回2011年)まで
  4. ^ 「歌手リーダー制」は第32回1981年) - 第36回1985年)まで敷かれた。
  5. ^ その他、初期は異性のコーラスも禁止されており、曲目そのものの変更や女性コーラスを少年コーラスに差し替えるなどの処置も取られていた。
  6. ^ また、初期はグループの出場そのものが禁止だった([1],J-CASTニュース,2012年12月31日)。
  7. ^ ピンキーとキラーズを初出場させる際、どちらの組とするかで番組側がもめたという。最終的に今陽子(ピンキー)が主役と判断し紅組での選出となった。ただし、初出場時のみ男性メンバーは歌手席に座れなかった(翌年の第20回1969年〉以降は座れた)。
  8. ^ 一方、2006年第57回に同じく女装スタイルでゴリエと異なり全編自身による歌唱の桜塚やっくんが(本人の強い意向により)紅組から出場すると、出場歌手発表前にメディアに報じられていた(『日刊スポーツ』2006年11月26日付)。結局、落選したため実現には至らず。ただし紅組の応援ゲストとして出演し、持ち歌「1000%SOざくね?」の一部を歌唱
  9. ^ “聖子、3年ぶり紅白復帰!郷と対決も”. SANSPO.COM. (1999年12月1日). オリジナル2001年3月16日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20010316015047/http://www.sanspo.com/enter/music/m9912/m1201.html 
  10. ^ 紅白出場歌手きょう発表! 民放発の人気者目白押し,スポーツニッポン,2008年11月25日
  11. ^ 過去には本人に対しては出場決定後の通知のみであった。そのため、江利チエミ田原俊彦などで出場決定後に本人が辞退の意志を表明するという出来事が起きている。
  12. ^ 出演者の選考・交渉が発表の直前(当日・前日の場合も)というギリギリのタイミングまで行われることもある。逆に春先の時点で出演が決まるという事例もある。また落選者について、どの回も「次点」が存在する(特に第28回)。
  13. ^ 出席せずにコメントのみを発表する者も見られる。また情報は記者会見とほぼ同時にプレスリリース・特設公式サイトなどでも並行して順次公表される。
  14. ^ 紅白の出場者発表、ネットで生中継 Twitterで速報も,ITmedia,2012年10月20日
  15. ^ a b c “紅白出演に明確な“選考基準”は必要か?”. オリコン. (2015年1月11日). http://www.oricon.co.jp/news/2046998/full/ 2016年1月15日閲覧。 
  16. ^ 桧山珠美 (2015年12月19日). “批判だらけの「NHK紅白歌合戦」はどこへ行く”. 東洋経済オンライン. http://toyokeizai.net/articles/-/97161?page=3 2016年1月15日閲覧。 
  17. ^ 【紅白】SKE48、水樹奈々、きゃりー、ももクロら落選理由は?,ORICON STYLE,2015年11月26日
  18. ^ 朝日新聞』1987年11月11日付朝刊、26頁。
  19. ^ 『朝日新聞』1987年12月6日付朝刊、6頁。
  20. ^ “嵐10周年で初出場「最高のステージに」”. デイリースポーツオンライン (デイリースポーツ社). (2009年11月24日). オリジナル2009年11月25日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091125110520/http://www.daily.co.jp/gossip/article/2009/11/24/0002536254.shtml 2009年11月24日閲覧。 
  21. ^ “NHKと相思相愛!ジャニーズ“枠固定”撤廃へ”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2010年1月1日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2010jani/KFullNormal20100101041.html 2013年9月16日閲覧。 
  22. ^ 第47回1996年)は、近藤真彦を含めて3組。
  23. ^ “嵐が初紅白「ジャニーズ2枠」の慣例突破”. 日刊スポーツ. (2009年11月23日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20091123-568721.html 2009年11月24日閲覧。 
  24. ^ 「いったい誰なの!?」知名度ゼロのNYCが『紅白』4年連続出場の深いワケ - 日刊サイゾー
  25. ^ 『読売新聞』1973年11月22日付朝刊、22頁。
  26. ^ これに関連し、同回で審査員を務めることが決定していた蜷川幸雄が「一芸能番組で道徳を振りかざすNHKの姿勢には納得できない」として出演を辞退する出来事が発生(代役は加藤芳郎)。
  27. ^ シブがき隊にとって、これが現役時代最後の紅白出場となった(1988年に解散)。
  28. ^ 1986年・第37回の事例では、鳥羽が「自分もこの様な暴力団との仕事上の付き合いはある。歌手ならこのような付き合いは避けられない」と述べており、この様な問題点があることを暗に指摘している。なお、鳥羽は代役出場を辞退するという異例のケースとなった。
  29. ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』 全音楽譜出版社、2012年。
  30. ^ 島倉千代子三波春夫都はるみ布施明北島三郎森進一細川たかしなど。
  31. ^ “ポップス軽視の紅白に疑問!布施明が突然の卒業宣言”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2009年12月30日). オリジナル2009年12月31日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091231154445/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/12/30/07.html 2009年12月30日閲覧。 
  32. ^ “紅白常連組の辞退…耐えられなかった落選への恐怖”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2009年12月30日). オリジナル2009年12月31日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091231154450/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/12/30/08.html 2009年12月30日閲覧。 
  33. ^ 実際の滞在先は当時国交と直行便がなかった韓国のソウルとも言われている。
  34. ^ 前川以外のメンバーは紅組の藤圭子のバックコーラスとして出場したものの、正式な出場者のエントリーからは外された。
  35. ^ 第60回2009年)では記者会見は行われず。詳細は同回の項目を参照。
  36. ^ 初期では歌手兼司会は認められていなかった。本業が歌手の人物が出場歌手には非選出になり司会に徹した事例もある。
  37. ^ 歌手出番で直接対決となった事例もある。
  38. ^ テレビ情報誌の年末年始号の表紙に起用されることも多い(紅白の司会を務めるにあたってのインタビューも掲載される)ほか、両組司会を表紙にしたテレホンカード図書カードも発売される。司会者は番組関係者に差し入れを行うことが恒例とされる(『女性自身』2013年1月22日号)
  39. ^ 実はタレントから敬遠されている紅白歌合戦の司会という仕事,リアルライブ,2016年11月17日
  40. ^ かつては席前にネームプレートが置かれていた。
  41. ^ 初例は、第6回1955年)のトニー谷
  42. ^ 第47回1996年)のようにメドレーを一切入れなかった回もある。
  43. ^ 紅白曲目にメドレー多いと指摘多数,web R25,2013年12月20日
  44. ^ 第64回2013年)における関ジャニ∞(同メンバーの丸山隆平の考案であることを本人が明かす)など。
  45. ^ 【紅白歌合戦】レディー・ガガ、紅白用に歌詞アレンジ,ORICON STYLE,2011年12月31日
  46. ^ 連続同一曲記録は夏川りみ涙そうそう」、美川憲一さそり座の女」、ゴールデンボンバー女々しくて」の4回。
  47. ^ NHKスキャンダル紅白 迷シーンを誌上再放送(5)アサ芸プラス(2011年12月10日)
  48. ^ 石川さゆりの「天城越え」「津軽海峡・冬景色」。この2曲は第57回2007年)以降交互に歌われるようになっている。
  49. ^ 【紅白歌合戦トリビア】「打ち上げ」はNHKの食堂で行なわれる,NEWSポストセブン,2014年12月20日
  50. ^ 『サンケイスポーツ』2007年12月30日付
  51. ^ 紅白司会の仲間由紀恵、アッコから“カンペ禁止令”,ORICON STYLE,2008年12月29日
  52. ^ SMAP香取慎吾 紅白歌合戦白組司会V6井ノ原快彦とは幼なじみで「頑張ってと早く言いたい」【会見全文・前編】,newslounge,2015年12月30日
  53. ^ 交代が一切ない年もある。第31回1980年)など。
  54. ^ 第65回2014年)のSMAPなど。
  55. ^ 第66回2015年)のMISIA
  56. ^ 植村花菜「トイレの神様」で紅白初出場へ,スポーツニッポン,2010年11月23日
  57. ^ 第55回2004年)における「紅あげ白あげ紅白ハタ合戦」(出場歌手が旗揚げ対決をする企画)のように視聴者から多くの批判が集まったものもある(同コーナーの進行役を務めた和田アキ子も批判を行った)。
  58. ^ 小畑実都はるみチェッカーズ安室奈美恵X JAPAN絢香など。
  59. ^ 制作側もその可能性は織り込み済みで、1曲分余裕をとって番組を進行していた。
  60. ^ 第61回のみ紅白テーマソング「歌の力」のインストゥルメンタルが使用された。
  61. ^ NHK紅白「出場者に弁当出ない」「総製作費は3億円?」…知ってればもっと面白くなる裏話,J-CASTニュース,2012年12月31日
  62. ^ 【紅白歌合戦トリビア】「打ち上げ」はNHKの食堂で行なわれる,NEWSポストセブン,2014年12月20日
  63. ^ 明星』1966年2月号第1付録『新春歌合戦 100大歌手 明星紅白歌まつり』74頁
  64. ^ 丸山鐵雄『ラジオの昭和』 幻戯書房、2012年。
  65. ^ 単発番組の予定だったが、あまりの好評により、翌年の開催が決定した。なおこの時、紅白が長寿番組化することを予想していたスタッフはいなかったという。
  66. ^ 【NHK紅白歌合戦60年史(2)】正月の会場見つからず「大晦日」に GHQに怒られながら誕生した「第1回紅白」,MSN産経west,2012年12月30日
  67. ^ 『毎日新聞』1951年1月1日付朝刊、8版、8頁。
  68. ^ 太田省一『紅白歌合戦と日本人』筑摩書房、2013年、26頁。
  69. ^ 『日刊ゲンダイ』2011年12月29日付に掲載された菅原都々子のインタビュー内での菅原の発言より。なお、これらの歌手も大みそか開催移行後に出場するようになった。
  70. ^ 太田『紅白歌合戦と日本人』、25頁。
  71. ^ 紅白歌合戦ヒストリー(第4回),NHK
  72. ^ 太田『紅白歌合戦と日本人』、62頁。
  73. ^ 太田『紅白歌合戦と日本人』、27頁。
  74. ^ 第9回1958年)のみ。当時はまだテレビの音響設備が不完全であり、それに加え、コマ劇場が円形のステージであったこと、また、観客からの声援が終始凄まじかったことも手伝い、紅組トリおよび大トリを務めた美空ひばりを始めとして、後ろの楽団の演奏が全く聞き取れず、歌っている最中に音を思い切り外してしまうケースが多発。歌手側や局関係者からも「コマ劇場の使いにくさ」を指摘する声が上がり、結局、コマ劇場を会場とした紅白はこの1回のみに留まってしまった。
  75. ^ NHK-FM『今日は一日○○三昧』など。
  76. ^ 太田『紅白歌合戦と日本人』、71頁。
  77. ^ 第4回は淡谷のり子がトリを取ったとされているが、渡辺はま子がトリを取ったという異説もあり、渡辺説を採用すれば、全回でコロムビア所属の歌手が紅組トリを務めたことになる。
  78. ^ 合田道人『紅白歌合戦の真実』、132〜133頁。
  79. ^ a b c NHK総合「紅白歌合戦」の視聴率、ビデオリサーチ社、2008年1月17日
  80. ^ 同回の瞬間最高視聴率は、五月みどりによる「一週間に十日来い」歌唱時の85.3%。
  81. ^ 1961年 - 2000年に行われていたニールセンによる調査では、同じ第14回で記録した89.8%が最高記録である。なお、ビデオリサーチ社以前も含めた最高視聴率では、1955年5月30日日本テレビボクシング中継・パスカル・ペレス白井義男戦で記録した96.1%がある(電通調べ 出典:日本放送協会編『放送五十年史 資料編』、日本放送出版協会、1977年、590-591頁)。
  82. ^ 歌手席は第52回2001年)の第1部内の企画で復活。
  83. ^ 選手宣誓は第58回2007年)のみ復活。
  84. ^ 衣装の大きさについては、NHKホールのステージエレベーターに乗せられるものまでと制限がかけられる。2人は紅白後に衣装を保管しており、自身のコンサートや他番組、イベント等で再度披露したりしている。また、小林が本番の衣装披露時に衣装コンピュータの故障や電気トラブルで完全成功といかなかった事例(第43回1992年)、第54回2003年)。この時は翌年にそれぞれ30周年記念リサイタル、『NHK歌謡コンサート』で再度衣装を披露しリベンジしている)があるほか、第55回(2004年)では同年10月23日に小林の出身地・新潟県で発生した新潟県中越地震の被災者に配慮して豪華衣装披露を自粛した。
  85. ^ 小林の個人事務所・幸子プロモーション関係者は一部週刊誌の取材時に、小林が豪華衣装を準備した状態で紅白落選した場合について「こちらが勝手に用意したものなので文句は言えない」とコメントしていた。
  86. ^ 和田アキ子は紅白の出場歌手が発表される以前から衣装を制作している小林に否定的な考えを持っており、この件がきっかけで2人の間に確執が生じた(アッコ テレビで幸子挑発!、スポニチアネックス、2001年12月17日。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)。なお、小林は和田の意見に対し、「(紅白の衣装は)見ている人に楽しんでもらおうと思ってやっている」「(紅白に)もし出場できなかったらコンサートで着ます」「アッコちゃんは私よりも年上だけど、芸能界では私が先輩なんですから、陰でコソコソ言わないで何か意見を言いたいのならばじかにはっきりと私に言いに来たらいいのに」などと反論している。
  87. ^ 愛内里菜水森かおり
  88. ^ アサ芸プラス(2011年12月9日)
  89. ^ “初出場は14組 紅白出場歌手発表”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2002年11月27日). オリジナル2002年12月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20021201090139/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2002/11/27/01.html 
  90. ^ “北島三郎 中継チクリ”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2002年12月30日). オリジナル2003年2月7日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20030207115425/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2002/12/30/06.html 
  91. ^ 『ZAKZAK』2013年12月6日付
  92. ^ “ジャニーズ所属タレントの「紅白」出演動画、NHKネット配信”. NIKKEI NET IT-PLUS (日本経済新聞社). (2009年12月24日). オリジナル2010年7月22日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100722043545/http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=AS1D2408T%2024122009&landing=Next 
  93. ^ ただし、許可が下りずに配信からカットされた例がある。第60回2009年)のスーザン・ボイル第65回2014年)のサザンオールスターズなど(いずれも特別枠)
  94. ^ NHK「紅白歌合戦」専用Twitter始動,ITmedia,2010年11月18日
  95. ^ 翌年の第64回からは出演しなくなり、代わりに紅白どーもくんに替えられた。
  96. ^ 紅白で朝ドラの特別編を放送すること自体は第36回1985年)で同年上期作品の『澪つくし』の特別編を行った前例がある。
  97. ^ 詳細は「第66回NHK紅白歌合戦」を参照。
  98. ^ ““野鳥の会”紅白落選!”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2003年12月26日). オリジナル2004年12月9日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20041209055455/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2003/12/26/02.html 
  99. ^ NHK総合「紅白歌合戦」|ビデオリサーチ
  100. ^ ただし、歌唱曲は「東京シューシャイン・ボーイ」とする説もある。
  101. ^ ただし、歌唱曲は「ダゴタの黄昏」とする説もある。
  102. ^ ガラスの十代」「パラダイス銀河」「Diamondハリケーン」「剣の舞」を順に披露。
  103. ^ 「LOVEマシーン」「ザ☆ピ〜ス!」「恋愛レボリューション21」(モーニング娘。)「付き合ってるのに片思い」(Berryz工房)「都会っ子 純情」(℃-ute)「LALALA 幸せの歌」(ハロプロワンダフルオールスターズ)を順に披露。
  104. ^ ユメタマゴ」「勇気100%」を順に披露。冒頭と2曲の間に「NYC」(NYCの3人をメンバーに含むグループであるNYCboysの楽曲)の1フレーズを挟んでいた。
  105. ^ Dearest」「evolution」「SURREAL」を順に披露。出典:nhk_kouhakuのツイート (285692543499386880)
  106. ^ ハイナ!」「ユメタマゴ」「勇気100%」を順に披露。出典:nhk_kouhakuのツイート (285693537855619073)
  107. ^ Sexy Zone」「Lady ダイヤモンド」「Sexy Summerに雪が降る」など計5曲披露。
  108. ^ ただし、歌唱曲は「桑港のチャイナ街」とする説もある。
  109. ^ ただし先述の通り、渡辺はま子が紅組トリを取ったとする説もあり、合田道人の著書では、渡辺を紅組トリとする説が採用されている。なお、同回での渡辺の歌唱曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」。
  110. ^ 当初予定は「夫婦坂」のみ。歌唱後にアンコールとして白組司会の鈴木健二が交渉し「好きになった人」を演奏。
  111. ^ 大トリの後、審査結果を待つ間にSMAPと槇原敬之のメインボーカルの下、出演者(出場歌手、司会者、ゲスト審査員、合唱団)で「世界に一つだけの花」の大合唱が行われた。
  112. ^ MIDDLE OF NOWHERE」「その先へ」を順に披露。
  113. ^ This is love」「Triangle」を順に披露。
  114. ^ not alone 〜幸せになろうよ〜」「オリジナル スマイル」を順に披露。
  115. ^ Moment」「さかさまの空」を順に披露。
  116. ^ 髙橋→SMAPの歌唱後に「紅白両軍の枠を超えた演出」として北島が歌唱。メディアによって北島を大トリとするかSMAPが大トリとするか扱いの差がある。
  117. ^ Mistake!」「Joy!!」を順に披露。
  118. ^ 年間視聴率1位の座は第49回1998年)が総合テレビの『1998 FIFAワールドカップ』の日本代表戦中継に抜かれるまで、全て紅白であった。
  119. ^ 日経エンタテインメント!』2004年3月号、122頁。
  120. ^ http://www.oricon.co.jp/news/2032863/full/ ORICON STYLE(2013年1月11日)
  121. ^ 後に、NHKホール内の1階席の後ろの壁に電光掲示板を設置し、ここに台本を映し出す(『週刊新潮』2013年1月17日号)。
  122. ^ 『日刊スポーツ』2006年1月1日付
  123. ^ 紅組司会・短期養成講座 宮本隆治
  124. ^ 第57回から第65回2014年)まではトリの曲紹介は下手・上手分かれて行っていたが、第66回2015年)ではトリの曲紹介も両軍共に下手席で行われた。
  125. ^ 太田『紅白歌合戦と日本人』、29頁。
  126. ^ NHK紅白「出場者に弁当出ない」「総製作費は3億円?」…知ってればもっと面白くなる裏話,J-CASTニュース,2012年12月31日
  127. ^ 1988年9月昭和天皇の病状が悪化し、日本全国で華美な放送やCMを控える自粛ムードが高まっており、同年の紅白(第39回)は中止になるかと懸念されていたが、遠藤利男(同回時点でのNHK放送総局長)が11月17日の会見で「(今年の紅白を)実施したい」と発言(『朝日新聞』1988年11月18日付朝刊、30頁)。その発言通りに開催された。また、阪神・淡路大震災が発生した1995年と東日本大震災が発生した2011年の2年についても当初は中止が検討されたというが、視聴者からのリクエストが殺到したことに背中を押されて開催、紅白の存在感を改めて実感したという。
  128. ^ “噂の深層 紅白歌合戦の裏舞台!”. リアルライブ. (2011年12月21日). http://npn.co.jp/article/detail/92562268/ 2011年12月31日閲覧。 
  129. ^ 多くの出場者は本番組の後にTBS系で放送される『CDTVスペシャル!年越しプレミアライブ』にも出演している。
  130. ^ 一方第32回1981年)では、民放版『ゆく年くる年』のメインパーソナリティーに決まっていたさだまさしが、前後時間帯の民放生番組に出演することを理由に落選したという事例がある(合田『紅白歌合戦の真実』)。
  131. ^ 第59回2008年)での木山裕策ジェロ第64回2013年)での福田こうへい
  132. ^ 第46回1995年)での岡本真夜
  133. ^ 第54回2003年)での倉木麻衣
  134. ^ 太田『紅白歌合戦と日本人』
  135. ^ まさかの「韓流全滅」、紅白歌合戦で4組出場の予想外れる=韓国,サーチナ,2012年11月26日

参考文献

関連項目

外部リンク