笑福亭鶴瓶

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笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ)は、上方落語名跡

  • 初代 笑福亭鶴瓶(生年不詳 - 1944年2月)は、後の林家染八。初め4代目笑福亭松鶴の門下で、師が一旦芸界を離れた時に、2代目林家染丸の門下に移る。本名は金谷伊太郎。当代の命名時に松鶴もその存在を語り、2代目であると告げている。
  • 笑福亭鶴瓶(当代) - 本項を参照。本来なら2代目に当たるが、当代は特に代数を名乗っていない。

笑福亭 鶴瓶しょうふくてい つるべ
笑福亭 鶴瓶
第32回マイルチャンピオンシップ表彰式で
(2015年11月22日)
本名 駿河 学(するが まなぶ)
生年月日 1951年12月23日(64歳)
出身地 日本の旗 日本大阪府中河内郡長吉村(後の大阪市東住吉区、現在の大阪市平野区
師匠 6代目笑福亭松鶴
弟子 笑福亭笑瓶
笑福亭晃瓶
笑福亭純瓶
笑福亭達瓶
笑福亭恭瓶 など13名
出囃子 トンコ節
新ラッパ
活動期間 1972年 -
活動内容 上方落語
漫談
家族 駿河太郎(長男)
所属 デンナーシステムズ
松竹芸能
受賞歴
キネマ旬報賞主演男優賞
ブルーリボン賞主演男優賞
日刊スポーツ映画大賞主演男優賞
おおさかシネマフェスティバル2010主演男優賞
第38回日本アカデミー賞 優秀助演男優賞[1]
備考
上方落語協会副会長

笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、1951年昭和26年〉12月23日 - )は、日本落語家6代目笑福亭松鶴門下)、タレント俳優歌手司会者ラジオパーソナリティである。本名、駿河 学(するが まなぶ)。あだ名は「べー師匠」「べーさん」、「まーちゃん」、「まなぶくん」、「鶴瓶師匠」、「鶴瓶ちゃん」。出囃子は「トンコ節」もしくは「新ラッパ」(かつては「拳」)。兵庫県在住。

所属事務所はデンナーシステムズ[2]松竹芸能にも籍を残している。落語家として上方落語協会副会長を2008年6月20日より務めている。

来歴[編集]

生い立ち・学生時代[編集]

大阪府中河内郡長吉村長原(現在の大阪市平野区長吉長原)出身。5人兄弟の末っ子で浪速高等学校卒業。高校在学中、当時大阪で人気だった笑福亭仁鶴桂三枝(現:6代目桂文枝)に刺激されて、高校に落語研究会を作る。

1961年(昭和36年)頃、学校へ行く途中で近所のおっちゃんに競馬場に誘われて、駿河学少年が適当に指名した馬券をおじさんが購入し、それが万馬券に化ける。驚き感嘆したおじさんは、約40万円の払戻金を丸々、学少年に手渡した。夜中に家族が寝静まった時を見計らい、貰ったお札を数えだしたが、その現場を母親に発見され大事に発展した。夜中にもかかわらず、競馬に連れ出した近所のおっちゃんをたたき起こし、事の顛末を聞き出したことにより、正式に駿河家のお金となった。後になってこの出来事を思い出し、母親にお金の使途を執拗に問質した所、実家の建て増し資金になっていたことが判明。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』で話したところ、さらに母親から叱られたという[3][4]

1969年(昭和44年)、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、受験していない京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう[3][4]

京都産業大学経済学部に進学するも中退。大学時代は京都産業大学落語長屋という落語研究会に所属しており、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。一時期はここでの芸名を本名であるスルガ・マナブやプロになってからtsurubeと名乗ったこともある。この落語研究会であのねのね原田伸郎と出会い、清水国明を含めた3人で音楽活動をする(鶴瓶夫人も参加していた時期あり。後述)。大学生時代に、教授が教室に入る際に出囃子を鳴らして笑いを取ったことがある[3][4]

清水國明原田伸郎、後に結婚する玲子夫人とともに、あのねのねのメンバーでもあり、ヤマハのコンテストにも出場した(鶴瓶は踊るだけ)。この時玲子夫人が『ひょっこりひょうたん島』のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。アルバイトは京都の修学旅行旅館「みきはん」で、歌や話芸で誰が一番人気か競いあったという。また、原田が大学時代にサークルをサボって女子生徒と遊んでいた所を目撃し、彼をトイレで殴って便器に顔を突っ込んだことがある。やがて、あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねがすべて負担し、それでも余ったという[3][4]

入門・弟子入り[編集]

五枚笹は笑福亭一門の定紋である。

弟子入りのきっかけは、入門前のある日、安井金比羅宮で開かれた米朝一門の落語会での6代目笑福亭松鶴の行いを見たことだという。高座に上がった松鶴は「あっ!」と固まった後、見えた僧侶を示して「あの坊さんの頭見たらネタ忘れてもた。オチだけ言うて降りま」と言い、本当にオチだけを言って2分ほどで降りてしまった。それを見て「エライ人や」と思い、松鶴への弟子入りを決めたという。

1972年2月14日、11番弟子として入門、「鶴瓶」の名を与えられる。入門を許されて4日目のこと、寄席の来場者の下足番を任された際に、いつも当たり前のように青田(無料、顔パスの意)で入場し横柄な態度で振舞う新聞記者に腹を据えかねて口頭でとがめたところ「お前、辞めさせたるわ、ちょっと来い」と松鶴の楽屋に連れて行かれた。松鶴から下足番を離れたことをたしなめられると、破門などの処分を覚悟してこの経緯を話した。すると松鶴は新聞記者を「アホ! カス! 去ね(帰れ)!」と罵倒し、「この子は将来、あんさんらが取材で世話になる子や! それに対して何をさらす(何をしやがる)!」と言い放った。その男気に、鶴瓶はたまらなく感動したという[5]。その後「鶴瓶」の名を与えられ、松鶴を「おやっさん」として慕い続ける[4]

同年9月26日に島之内寄席にて「東の旅発端」で初舞台[6]。内弟子になっても師匠から全く稽古を受けられず何としてでも活動の場が早く欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)が使えることを松鶴に打ち明け、鶴瓶の超能力を目の当たりにした松鶴は驚愕し「ウチに超能力を使う弟子がおる」と松鶴自らがテレビ局に鶴瓶を売り込む。当然ながら超能力はテーブルマジックの類で、周囲に仕掛けを漏らしつつ頭から超能力を持つ弟子と信じ切っている松鶴という場面に持ち込み、必死になって売り込む松鶴に便乗して業界関係者に顔と名前を覚えてもらい、これを手がかりにテレビ、ラジオと進出する足場を作る。後に兄弟子の笑福亭仁鶴が鶴瓶のイカサマ超能力を暴き、松鶴は梯子を外された格好になった。

松鶴からは決して落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイのほか、鶴瓶自身の回想によれば、鶴瓶は「ある意味えらい怒られて稽古をつけてもらえなかった」[7]存在であり、松鶴が機嫌のよいときに兄弟子の笑福亭松葉に「稽古を頼めよ!」とけしかけられて稽古を頼み込むと、鶴瓶の目の前に顔を突き出した挙句、「嫌や!」と突き放されたこともあった[8]。ついには、「鶴瓶が聞いとるさかい風呂行って稽古しょう!」と他の弟子を引き連れて逃げ回られる事態に発展した[8]。松鶴の盟友であった五代目桂文枝はこのことについて「稽古の必要はないと思ってるからや」と分析しており、また鶴瓶が松葉など年の近い兄弟子に可愛がられるための、松鶴による気配りであることを示唆している[9]。また、鶴瓶と五代目文枝ともども、松鶴自身が五代目松鶴からあまりネタを教えてもらうことがなかったことが、稽古をつけなかったことの伏線とみなしている[7]。松鶴は鶴瓶の実父が亡くなった時も「普通は弟子のお父さんの葬式なんかに行かない」[10]ところを葬儀に出席したが泥酔しており、鶴瓶の実姉に「松鶴かなんか知らんけど、人の親が死んでンねがな」と説教されると、「あー、恐……」と言って鶴瓶になついていた[11]

松鶴によって、高島屋大阪店ホール(現在はグランドホール)で行われた落語コンクールにエントリーされてしまった折は、入門前より学校などで披露していた『いらちの愛宕詣り』を覚え、その江戸版である「堀之内」(10代目桂文治の伸治時代のもの)の断片を交えつつ、古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、入門前より行っていたアレンジを適当に加えて演じた。審査員だった松鶴と香川登枝緒からは「時代錯誤も甚だしい」「こいつの落語は落語やおまへん。現にワタイ(落語の)稽古つけてない!」と酷評されてしまった[12]。そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。松鶴の若手時代のこの話をベテランのお茶子から教えてもらい、鶴瓶は気が楽になったという[4]

入門当時には、小学6年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月で廃業が1974年)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼んでいた。その頃は子供がお笑いの世界でデビューする例が他にも見られ、そのような背景もあり手遊もあまり気を遣うことなく鶴瓶に「兄弟子」として振る舞うことがあったという(しかし先輩風の度が過ぎると鶴瓶が逆襲し、手遊を泣かせたというエピソードもある)[4]

一時期、笠置シヅ子の隠し子であると振れ込んでいたことがある。当時すでに笠置は晩年で闘病生活に入っており、2人が会うことはなかったが、後にその病院の看護婦だった女性から「笑福亭鶴瓶って子がおるやろ、あの子、私の隠し子なんよ」と笠置が言っていたと教えられ、驚いたという[4]

また、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力エスパーブームの時期でもあり、「超能力がある」と言ってスプーン曲げをしていたこともある。洒落のつもりでスプーン曲げも力任せにやっていただけだが、上岡龍太郎の不興を買ってしまった。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白いということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった[13]

1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪市中央区の「高津神社」で執り行われた。その結婚式の仲人は師匠の笑福亭松鶴 (6代目)が務めたが、スピーチの際に「ウチの弟子は13人いてまっけど、こいつが一番アホだ。終い!」とだけ言い残し、そのまま結婚式場を後にした[14]

タレント活動[編集]

初のレギュラー番組は近畿放送(現KBS京都)の『丸物ワイワイカーニバル』で、以降、近畿中京地区でラジオ・テレビを中心に活動。2001年コカコーラとのタイアップで、日本テレビと吉本興業が組んで制作されたドラマ『明日があるさ』にも、鶴瓶が松竹芸能からただ一人ゲスト出演する。

1978年に始まった『ぬかるみの世界』で人気が上昇し、1982年から4年間続いた毎日放送の『突然ガバチョ!』の司会で再び脚光を浴びる。この番組が関西以外の地方でもネットされたのがきっかけとなり、1986年に東京へ再進出する。

落語への回帰[編集]

道頓堀角座が健在のころは「『大安売り』と『いらちの愛宕詣り』ばっかりやってました」[11]。しかし、当時の角座の昼席は落語にさして興味のない団体客を入れていたため[15]、「落語を聞きに来るお客」がメインであった夜席を好んでいた[11]

2002年9月、江戸落語の春風亭小朝との二人会で『子別れ(子は鎹)』(落語を本格的に始めるにあたって4代目桂文紅にじきじき『子別れ』を稽古を付けてもらった)を演じたことを機に、落語への回帰を強めている。2003年には小朝、林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)らと落語の「六人の会」を結成。また同年5月に「上方落語協会」理事に就任している。その後、同協会の広報委員長を経て、2008年6月に副会長に就任した。

多忙なタレント活動の合間を縫って「鶴瓶噺」「笑福亭鶴瓶落語会」などの独演会を展開する他、六人の会が主催する「東西落語研鑚会」にも参加。大阪・帝塚山の6代目松鶴旧宅で行われる演芸イベント「帝塚山・無学の会」を主宰するなど、精力的に落語に取り組んでいる。古典落語にも「東西落語研鑚会」で『鴻池の犬』『らくだ』などに挑戦している。特に2004年の東西落語研鑚会で口演した『らくだ』は松鶴の十八番(おはこ)であり、松鶴門下では直々に稽古を付けられていた6代目笑福亭松喬しか、舞台での披露を許されていなかった題目である。

鶴瓶の最近の落語への取り組みは、弟子(ほとんどが落語をしないころの鶴瓶に弟子入りを志願していたことで、落語家に弟子入りした感覚がない)に対する影響が少なくない。例えば筆頭弟子の笑福亭笑瓶は新作や古典の改作に取り組み、笑福亭純瓶は怪談噺に力を入れ、笑福亭銀瓶韓国語落語を打ち立てた。2007年3月には、銀瓶以降の6人の弟子が「シックスセンス☆六瓶の会」と題した落語会を大阪で開いている。

2004年から年に1回、桂南光桂文珍との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催。落語会としては異例の6,000円を超える料金も話題となる。チケットは、過去3回共完売。その他この3人は、2005年から「文珍南光鶴瓶+1 しごきの会」と題して、年に数回、baseよしもと(現在は天満天神繁昌亭)で若手落語家育成の為の会を開いている。

ヘヴィメタル雑誌「BURRN!」編集長であり多くの落語関連著書を執筆している広瀬和生は落語家としての鶴瓶について「落語演らない落語家」「鶴瓶噺なるジャンルを確立させた」と評している[16]

家族は妻、長男、長女がいる。妻はあのねのねメンバーだった玲子夫人(後述)。長男は俳優兼音楽ユニット「Human Note」のボーカル・駿河太郎。2008年7月26日、浜松近郊の病院(長男の第一子)が生まれたことを『FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で発表した。ちょうどこの時は鶴瓶と従兄弟弟子の明石家さんま大竹しのぶ元夫妻とののトークコーナーが放送されており、「早う、孫に会いに行きたいわ」とボヤいていた[17]。2015年3月時点では計4人の孫がいる[18][19]

芸に関して[編集]

落語[編集]

自身の身の回りで起こった日常の話題を面白おかしく話すスタイルは「鶴瓶噺」(つるべばなし)と呼ばれ、独自のジャンルを構築し、2000年には上方お笑い大賞を受賞した。2007年まで年1回5日間、青山円形劇場にて「鶴瓶噺」を開催している(2008年からは会場が世田谷パブリックシアターに変更)。

2007年から全国ツアーを開催。2009年には「Japan Tour『White』」と称してファースト、セカンドツアーに分けて全国ツアーを開催。鶴瓶に縁のある落語家や、開催都市出身の落語家が出演。

落語については「今」が大事だという考えから、DVDなどは出さないようにしている[20]

帝塚山・無学[編集]

帝塚山・「無学」(2013年11月撮影)

「帝塚山・無学」は、師匠6代目松鶴の旧自邸を鶴瓶が改築した純和風ホール。月1回「無学の会」を開催し、一般にも公開している。毎回ゲストを招いているが、前もってゲストの名前を発表されることは無く、毎回シークレットになっている。

これまでのゲストにタモリ明石家さんま木梨憲武イッセー尾形3代目桂米朝3代目桂春団治ももいろクローバーZらを迎えている。また、松嶋尚美を迎えた際の模様は、「無学版きらきらアフロ」として『きらきらアフロ 2008 DVD』に収録されている。

つるべ、らくごのお稽古[編集]

帝塚山・無学と下北沢Live bar 440にて、「つるべ、らくごのお稽古」と題して定期的に稽古会を行なっている。

演目[編集]

古典落語 
子は鎹』、『鴻池の犬』、『らくだ』、『愛宕山』、『立ち切れ線香』、『厩火事』、『堪忍袋』、『宮戸川』、『二人癖』、『粗忽長屋』、『所帯念仏』、『へっつい幽霊』、『化物使い』、『打飼盗人』、『いらちの愛宕詣り』、『大安売り』、『鶴瓶版 死神』、『転宅』、『錦木検校』、『お直し』、『癇癪
私落語 
『長屋の傘』、『青木先生』、『ALWAYS -お母ちゃんの笑顔-』、『青春グラフィティ松岡』、『Mr.ドリーマー』、『春雷』、『回覧板』、『CHINGE』、『琵琶を弾く観音像』
創作落語(桂三枝(現:6代目桂文枝)からネタを譲り受けたもの) 
『湯けむり』、『悲しみよありがとう』
タモリからネタを譲り受けたもの 
『山名屋浦里』

エピソード[編集]

趣味・嗜好[編集]

18代目中村勘三郎は親友[18]。好きなアーティストaikoももいろクローバーZ2PMで、洋楽のファンでもある。また、デューク・エイセスさだまさし吉田拓郎小田和正とも古くから親交がある。若者文化に対する造詣も深い。さらに関ジャニ∞とも親しく、自身が司会をつとめる『きらきらアフロTIM』や『a-studio』などでも共演しており、メンバーの丸山隆平主演の『地獄先生ぬ〜べ〜』の最終回にゲスト出演もした。

趣味はボクシング[4]

アレルギーのため、鯖料理が苦手[21]

タレント活動時[編集]

  • あのねのねの当初のメンバーであったことや、ラジオのパーソナリティを長くやっていたことから、フォークソングに対する造詣も深く、『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』(テレビ朝日)などで、フォークソングを絡めている。
  • 『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』(ラジオ・OBC)での、ファンであるリスナーに会った際の口癖「覚えてるよー」は、当時関西で鶴瓶のモノマネ定番セリフになった。リスナーにイベントで、前向きに行動するよう「がんばりやー」もよく口にしていた[22]

裸にまつわるエピソード[編集]

東京でまだ無名だった頃に、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の深夜番組『独占!男の時間』と日本テレビのバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』で、3度にわたって生放送の最中に裸にまつわる騒動を起こし、さらに有名になった後にもフジテレビ系列で2003年に生放送された『FNS27時間テレビ みんなのうた』においても、下半身を露出した。

  • 『独占!男の時間』
    • 1975年に「セクシー美女による温泉リポート」の“出オチ”役で出演した際に、テレビカメラが鶴瓶をアップで写すタイミングを狙って、カメラの前で股間を露出。カメラに股間を押し付けた末に、スタジオから強制的に退場させられた。この背景には、リハーサルで披露したギャグを担当のプロデューサーが傲慢な態度で批判したことへの反発があったという[23]2014年3月に放送されたテレビ東京の開局50周年記念特番『50年のモヤモヤ映像大放出! この手の番組初めてやりますSP』内で放送された当時の再現VTRでは、このとき「(山城)新伍さんに『(鶴瓶を)使ってくれ』と言われたから、お前を使ったんだよ」と言われたことにカチンと来て、前述の行動に及んだとされている。
    • 1977年3月26日放送分の最終回には、司会の山城新伍の計らいで特別に出演。山城から「カメラの前で一発芸をやって欲しい」と促されたことをきっかけに、テレビカメラの前で肛門を見せてスタジオから逃走。その勢いで、当時同局の敷地内にあった池に飛び込むと、当時の社長・中川順が大事に育てていた時価数百万円の錦鯉を踏み殺してしまった。最終回での暴挙を重く見た東京12チャンネルは、鶴瓶を無期限の出入禁止に処した。しかし、テレビ東京へ改称した後の2003年に、『きらきらアフロ』以後、深夜番組への出演が認められた[23][24]
  • 『金曜10時!うわさのチャンネル!!』
    • 当時、あのねのねメンバーとして清水・原田と共にレギュラー出演していたが、山口百恵が歌っている最中に急に下半身を露出し、歌っていた百恵も鶴瓶の陰茎を見て絶叫した。事態を重く見た日本テレビは東京12チャンネル同様に鶴瓶を出入禁止処分にしたが、スタッフの努力で局部露出シーンの放送が回避できた事もあり、日本テレビへの出入禁止処分は僅か数年で解除された。尚、この事件により清水と原田も同番組を降板した。
  • 初期の『ヤングタウン』担当時、鶴瓶はスタジオに現れると、全裸になってからハガキの選定作業に入るのが常だった。1976年、放送禁止用語(猥語)を連発し2ヶ月ほど謹慎処分になったこともある[13]
  • FNS27時間テレビ みんなのうた』(2003年)
    • 番組テーマである「再会」にちなんだ企画で、前年にも同番組で訪れていた飛島長崎県松浦市)から中継で出演した鶴瓶は企画をも忘れて同じく飛島中継の担当だったココリコの制止も聞かず、島民としこたま酒を飲んでいた。これを注意すべく深夜の名物コーナー「さんま・中居の今夜も眠れない」においても中継をした。この時にフジテレビのスタジオから中継で明石家さんま中居正広がココリコに眠っていた鶴瓶を起こすよう指示した。まずココリコが鶴瓶の顔面に水をかけて飛び起きた際にはまだ黒いビキニパンツを履いていたが、その後もう一度寝入ったときに鶴瓶は寝苦しさのあまりビキニパンツを下にずらして寝ていたため、ココリコが再度鶴瓶を起こした際に股間が露出してしまった[25]。中継はここで一旦止められて、さんまに促されて中居が謝罪、次いでコーナー終了後に高島彩アナウンサーが謝罪をした。これ以降、鶴瓶が27時間テレビに出ると毎年のようにこの騒動(「飛島の悲劇」と呼ばれる)をネタにされるようになった。
  • 著書で「僕は世にいう露出狂などでは、断じてない。…(中略)…僕の場合は、決して快感のためにやっているわけではないからだ」と述べて否定する一方、「ただ、快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することに、さして抵抗を感じていないことだけは、事実かも知れない」とも語っている[26]。なお、2007年8月の『週刊文春』の対談記事で家庭では全裸で過ごしていることを明かした[27]

その他エピソード[編集]

  • 下積み時代、余興を企画したイベント会社社長の、若手芸人をバカにするぞんざいな態度が気に入らず、出演せずに劇場を後にしたことがある。一年半後、スターとなった鶴瓶に同じ企画会社から仕事が入ったが「売れていない弱い立場の芸人には平気で高飛車に命令をしておいて、少し売れてくるとたちまち態度を変える。僕はそんな方と一緒に仕事したくないんです」と直接言って仕事を断っている。[26]
  • フォークロックの会」というライブイベントの司会をしたとき、ロックバンドのベーシストから「俺は、お前が嫌いや。嫌いやねん」と言われたことに激昂し「なんやその言い方は!! 勝手に自分たちで司会をしとけ!!」と言いながらベーシストを鼻血が出るまでマイクで殴り続けたことがある。これは、その侮辱的な発言はもちろん、同バンドのギタリストチューニングが遅れたため急遽繋ぎのトークを行ったのにも拘らず、謝るどころか鶴瓶の質問を無視し続けたその態度が気に入らなかったためである。なお、後日談としてこのベーシストと偶然再会して話す機会があり「心のなかの汚点が、スッと洗い流されるような、さわやかな気持ちに、しばしひたったものだった」と述べている。[26]
  • ラジオ番組『ミッドナイト東海』で漫画家鳥山明と対談した事がある[28]。鳥山明は漫画家デビュー前から『ミッドナイト東海』のリスナーで、葉書に鶴瓶の似顔絵を描いてラジオに送った事もあった。その絵は許可を貰って鶴瓶の手ぬぐいのイラストに使われている。鳥山明が『Dr.スランプ』に遊び心で鶴瓶を描いた[29]ところ、『ミッドナイト東海』に同番組リスナーから、その絵の切り抜きが送られてきた[28]。その絵を見た鶴瓶が番組内で鳥山明に呼びかけると、鳥山明からラジオ宛に「ぜひお電話ください」と手紙で返事があり、対談に至った[28]。また、その後『週刊セブンティーン1981年4・5合併号』では鶴瓶と鳥山明の対談記事「新春あこがれ対談 Dr.スランプVS鶴瓶」が掲載された。鶴瓶は「鳥山明とは売れる前から交流がある」と語っていた[30]が、実際に対談をしたのは漫画家デビュー後である。
  • 6代目松鶴の死後、笑福亭梅香を襲名させる計画があった。初代桂文枝(正確には桂梅香)、2代目曽呂利新左衛門の前座名という由緒名であるが、一門での慣例から、読みは「ばいこ」「うめこ」のいずれではないかと(本人は)推察。遺書に読み仮名が無かったために「梅香」の正確な読みは不明のままとなっており、名前が自分に似合っていないということから辞退している[31]
  • 高校時代にボクシングをやっていたが、目の怪我で断念した。今でもボクシング観戦が趣味であるという。

出演番組[編集]

2015年、第28回東京国際映画祭にて、木村文乃(写真右)と

テレビ番組[編集]

レギュラー

特番

過去に出演した番組[編集]

ラジオ[編集]

レギュラー

過去に出演した番組[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

劇場アニメ[編集]

吹き替え[編集]

ライブトーク[編集]

レコード・CD[編集]

CM[編集]

その他[編集]

書籍[編集]

  • はやく人間になりたいッ! つるべのドガチャガ青春譜(徳間ブックス、1976年)
  • 哀しき紙芝居(新興楽譜出版社、1982年 / シンコー・ミュージック、1986年)

共編著[編集]

  • つるべ・新野のぬかるみの世界(新野新共編、サンケイ出版、1981年)
  • つるべ・新野のぬかるみの世界 part 2(新野新共編、サンケイ出版、1982年)
  • おもろうて、やがて哀しきポペコかな 鶴瓶・新野の「ぬかるみの世界」』新野新共編 ベストセラーズ ワニの本 1986
  • 哀しき紙芝居 / タモリ鶴瓶のおぼえてるでェ!(フジテレビ出版、1987年)
  • 女と男聞けば聞くほど・・・(酒井ゆきえ共編、ロングセラーズ、1988年)
  • 青春の上方落語(桂南光桂文珍桂ざこば桂福團治笑福亭仁鶴共著、小佐田定雄編、NHK出版新書、2013年)

弟子[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当ラジオのパーソナリティーに対して、第29回ギャラクシー賞・ラジオ部門個人賞を受賞[1]
  2. ^ 2015年からはDream5と共に起用。

出典[編集]

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  1. ^ “日本アカデミー賞優秀賞決定!”. (2015年1月14日). http://www.japan-academy-prize.jp/prizes/38.html 2015年1月17日閲覧。 
  2. ^ デンナーシステムズは元松竹芸能社員で鶴瓶のチーフマネージャーを担当していた千佐隆智が代表取締役を務める芸能プロダクション。東京・東麻布に所在し、ジャパン・ミュージックエンターテインメントの系列でもある(ただし、ウェブサイト上には掲載されていない)。主に東京・全国区方面でのマネジメントを担当しており、マネージャーもデンナーシステムズの社員が就いている。
  3. ^ a b c d はやく人間になりたいッ! つるべのドガチャガ青春譜(徳間書店 1976年)第3章
  4. ^ a b c d e f g h i 哀しき紙芝居(シンコー・ミュージック 1982年)「第3章 生まれた、育った、悪だった」「第4章 入門、そして一直線」
  5. ^ 高田文夫編『ありがとう笑名人 第一集』での本人談。
  6. ^ 上方タレント101人 新野新
  7. ^ a b #戸田 p.80(鶴瓶と五代目桂文枝の2004年の対談)
  8. ^ a b #戸田 p.81(鶴瓶と五代目桂文枝の2004年の対談)
  9. ^ #戸田 p.82(鶴瓶と五代目桂文枝の2004年の対談)
  10. ^ #戸田 p.254(鶴瓶と勝忠男の2004年の対談)
  11. ^ a b c #戸田 p.242(鶴瓶と勝忠男の2004年の対談)
  12. ^ 『ありがとう笑名人 第一集』より。この話には続きがあり、松鶴は会場を出る際に一転して「お前のが一番よかった」と鶴瓶を褒めている。
  13. ^ a b 哀しき紙芝居(シンコー・ミュージック 1982年)『第6章 ふり返れば喧嘩人生」
  14. ^ 哀しき紙芝居(シンコー・ミュージック 1982年)『第5章 ほんなら結婚してくれるか!」
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]