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ファイティング原田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ファイティング原田
基本情報
本名 原田 政彦
通称 飢えたライオンの底力
狂った風車
階級 フライ級・バンタム級・フェザー級
身長 160cm
リーチ 163cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1943-04-05) 1943年4月5日(83歳)
出身地 東京都世田谷区
家族 牛若丸原田(弟)
スタイル 右ボクサータイプ
プロボクシング戦績
総試合数 63
勝ち 56
KO勝ち 23
敗け 7
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ファイティング原田(ファイティングはらだ、1943年4月5日 - )は、日本の元プロボクサー。ファイティング原田ジム会長。元WBA世界フライ級王者。元WBA・WBC世界バンタム級統一王者。世界2階級制覇王者。

元日本プロボクシング協会の会長で現在は同顧問。プロボクシング世界チャンピオン会最高顧問。なお、現在は「ファイティング」はJBCで欠名扱いで現役選手が名乗る事は不可能である。

人物

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東京都世田谷区出身。世田谷区立深沢中学校在学中に友人に誘われ、米穀店に勤務しながら猛練習で知られる笹崎ボクシングジムに入門。

ラッシングパワーを武器に、日本人で初めて世界フライ級・バンタム級の2階級制覇をした名王者。海外の多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。

来歴

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新人王獲得、そして25連勝

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1960年、ライバルの海老原博幸から二度のダウンを奪って、新人王に輝く。その後も無傷の連勝を25まで伸ばした[1]。海老原・青木勝利と併せて「フライ級三羽烏」と呼ばれる人気選手となった。

初挑戦でフライ級王座を奪取
『スポーツ年鑑 1963年版』(ベースボール・マガジン社)より

19歳で世界王座奪取

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1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦。当時の世界フライ級王者の「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が内定していた、同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの原田に挑戦のチャンスが回ってきた。

蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールした。11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせ、ポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされた。新王者誕生に無数の祝福の座布団が舞った。しかし、3か月後の1963年1月12日、バンコクで行われた再戦で、今度はポーンが試合巧者ぶりを発揮し、際どい判定ながら王座陥落。原田は減量苦から、この後、バンタム級に転向する。

バンタム級への転向から世界挑戦まで

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バンタム級に転向した原田は、1963年9月26日、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは原田のラッシュが勝り、一方的な展開だったが、6Rに原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けした。原田はすぐに再起し、1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。

「黄金のバンタム」に挑戦

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世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル)は、「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちし、その中には、青木勝利、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。ジョフレは妻と息子を連れて来日した。試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。

1965年5月18日に愛知県体育館で行われたジョフレ戦で開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取に成功した。後の1966年5月31日、原田は2度目の防衛戦でジョフレと再戦、判定勝ち。5回の防衛に成功するも、6回目のライオネル・ローズ戦にて判定負けを喫し、その後はフェザー級へ転向する。

三階級制覇ならず

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1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。原田が優勢と言われていたが地元判定といわれる結果で王者の勝ちになり[注釈 1][2]「幻の三階級制覇」だった[3]。

翌年、ファメションは原田の地元の東京にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行い、原田は14RでKO負けを喫した。この試合を最後に引退した。

引退後

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引退後は日本テレビ「ワールドプレミアムボクシング」(ほとんどは浜田剛史とのコンビ)などで解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたった。ジムの開設資金は東亜友愛事業組合が出した[4]。当時のジムは麻布十番のビル3階にあったが、同組合の事務所が同じビルの2階にあった。

1989年、日本プロボクシング協会(当時・全日本ボクシング協会)の会長に就任。

1990年、原田は日本人として初めて、世界ボクシング殿堂入りを果たした[5]。 1995年には国際ボクシング殿堂入りも果たしている[6]。

2005年1月、「高血圧性脳内出血」で倒れ、手術を受けたが、現在は回復している。2006年3月25日には、WBCバンタム級タイトルマッチ長谷川穂積VSウィラポン・ナコンルアンプロモーション戦のテレビ中継の解説者として、久々に元気な姿を見せた。

2007年春に日本プロボクシング協会会長選挙に輪島功一、輪島の後任となる東日本協会会長選挙に具志堅用高が出馬表明したが結果的に取り止め(出馬断念)となり、原田・大橋秀行が無投票当選。

2010年の任期満了を以って7期21年務めた日本プロボクシング協会会長を勇退(後任は大橋ジム・東日本協会会長大橋秀行)。以降は協会顧問に就任する。世界チャンピオン経験者により同年に発足されたプロボクシング世界チャンピオン会では最高顧問に就任。

2016年11月、旭日小綬章を受章[7]。

2025年3月27日、東日本ボクシング協会理事会にて退会届を提出[8]。

戦績

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  • プロボクシング:63戦 56勝 (23KO) 7敗
戦 日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
11960年2月21日☆4R 2:20TKO増井伊佐巳(中村)日本の旗 日本プロデビュー戦
21960年3月2日☆4R判定2-1本橋光雄(三多摩)日本の旗 日本
31960年3月27日☆3R 2:53KO岩本五郎(国民)日本の旗 日本
41960年4月4日☆4R判定3-0野口雄市(国際)日本の旗 日本
51960年4月13日☆4R判定3-0森田健(横浜光)日本の旗 日本
61960年6月10日☆3R 2:16TKO小倉正武(高橋)日本の旗 日本
71960年6月24日☆1R 1:25KO森田和夫(カワイ)日本の旗 日本
81960年7月18日☆3R 終了TKO小段木勝(三多摩)日本の旗 日本
91960年9月1日☆4R判定3-0鈴木幸男(中村)日本の旗 日本
101960年10月28日☆4R 1:02KO吉田貞吉(興伸)日本の旗 日本
111960年11月7日☆4R判定3-0新井八郎(京浜)日本の旗 日本
121960年12月11日☆3R 1:44KO疋田吉徳(AO)日本の旗 日本
131960年12月24日☆6R判定3-0海老原博幸(金平)日本の旗 日本1960年度東日本フライ級新人王決勝戦
141961年1月5日☆6R判定3-0中村剛(新和)日本の旗 日本
151961年1月28日☆6R判定3-0田中利一(中外)日本の旗 日本1960年度全日本フライ級新人王決定戦
161961年3月5日☆6R判定3-0藤田保雄(カワイ)日本の旗 日本
171961年5月1日☆10R判定3-0レイ・ペレスアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
181961年6月19日☆10R判定3-0伊藤茂(AO)日本の旗 日本
191961年7月31日☆8R 終了TKO牧昭男(中外)日本の旗 日本
201961年9月9日☆3R 2:37KOソムワン・バンブンタイ王国の旗 タイ
211961年10月9日☆10R判定3-0牧昭男(中外)日本の旗 日本
221961年12月10日☆6R 1:12KO白鳥良次(田辺)日本の旗 日本
231962年1月12日☆10R判定3-0永田耕造(野口)日本の旗 日本
241962年3月18日☆10R判定3-0川村忠夫(興伸)日本の旗 日本
251962年5月3日☆10R判定3-0ベイビー・エスピノサフィリピンの旗 フィリピン
261962年6月14日★10R判定1-2エドモンド・エスパルサメキシコの旗 メキシコ
271962年7月23日☆10R判定3-0リトル・ルーフフィリピンの旗 フィリピン
281962年10月10日☆11R 2:50KOポーン・キングピッチタイ王国の旗 タイWBA世界フライ級タイトルマッチ
291963年1月12日★15R判定0-2ポーン・キングピッチタイ王国の旗 タイWBA陥落
301963年3月21日☆10R判定3-0河合哲郎(カワイ)日本の旗 日本
311963年5月5日☆1R 0:28KOホセ・セジュダメキシコの旗 メキシコ
321963年6月19日☆6R 終了TKOセラルド・チャランガポタイ王国の旗 タイ
331963年8月7日☆10R判定3-0ドミー・バハラジャフィリピンの旗 フィリピン
341963年9月26日★6R 2:28TKOジョー・メデルメキシコの旗 メキシコ
351963年11月25日☆10R判定3-0エミール・デ・レオンフィリピンの旗 フィリピン
361964年1月2日☆5R 0:51KOアベリノ・エストラーダフィリピンの旗 フィリピン
371964年2月14日☆2R 1:05KOソムサク・ラエムファファータイ王国の旗 タイ
381964年7月6日☆10R判定3-0レイ・アシスフィリピンの旗 フィリピン
391964年9月17日☆10R判定3-0オスカー・レイスフィリピンの旗 フィリピン
401964年10月29日☆3R 2:54KO青木勝利(三鷹)日本の旗 日本
411965年1月4日☆6R 1:20KOドミー・フロイランフィリピンの旗 フィリピン
421965年3月4日☆2R 2:03KO中村亭(国民)日本の旗 日本
431965年5月18日☆15R判定2-1エデル・ジョフレブラジルの旗 ブラジルWBA・WBC世界バンタム級タイトルマッチ
441965年7月28日☆12R判定3-0斎藤勝男(暁)日本の旗 日本
451965年11月30日☆15R判定3-0アラン・ラドキンイギリスの旗 イギリスWBA防衛1・WBC防衛1
461966年2月15日☆12R判定3-0ソ・スガン大韓民国の旗 韓国
471966年5月31日☆15R判定3-0エデル・ジョフレブラジルの旗 ブラジルWBA防衛2・WBC防衛2
481966年8月1日☆10R判定3-0ディオ・エスピノサフィリピンの旗 フィリピン
491966年10月25日☆12R判定3-0アントニオ・エレラ コロンビア
501967年1月3日☆15R判定3-0ジョー・メデルメキシコの旗 メキシコWBA防衛3・WBC防衛3
511967年4月4日☆12R判定3-0タイニー・パラシオフィリピンの旗 フィリピン
521967年7月4日☆15R判定3-0ベルナルド・カラバイヨ コロンビアWBA防衛4・WBC防衛4
531967年9月25日☆2R 1:52KO太郎浦一(新和)日本の旗 日本
541967年11月28日☆8R 0:26KOクォン・ポクス大韓民国の旗 韓国
551968年2月27日★15R判定0-3ライオネル・ローズオーストラリアの旗 オーストラリアWBA・WBC陥落
561968年6月5日☆10R判定3-0ドワイト・ホーキンスアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
571968年9月4日☆7R 1:13KO千葉信夫(ヨネクラ)日本の旗 日本
581968年12月4日☆2R 1:55KOロイ・アモロングフィリピンの旗 フィリピン
591969年4月2日★10R判定1-2アルトン・コルターアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
601969年6月4日☆10R判定3-0ビル・ツムラックフィリピンの旗 フィリピン
611969年7月28日★15R判定0-3ジョニー・ファメションオーストラリアの旗 オーストラリアWBC世界フェザー級タイトルマッチ
621969年10月1日☆8R 0:17KOパット・ゴンザレスフィリピンの旗 フィリピン
631970年1月6日★14R 1:09KOジョニー・ファメションオーストラリアの旗 オーストラリアWBC世界フェザー級タイトルマッチ
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獲得タイトル

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評価

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  • エデル・ジョフレ:「(初戦で)ハラダからは百回くらいバッティングを受けた」「テクニックは持っているが、ファイティング・スピリットの旺盛な男だった」「ハラダよりもメデルの方が強かった」[9]

エピソード

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  • 太りやすい体質であり、減量前と減量後の両方のサイズのスーツを持っていた。減量には苦労し、水を飲まないよう、ジムの蛇口は針金で固定された[10]。
  • 世田谷区立東深沢小学校の同級生にエーエム・ピーエム・ジャパン元代表取締役社長の秋沢志篤[11]。
  • 実弟も牛若丸原田のリングネームでプロボクサーになった。
  • ジムの同期に斎藤清作(後のたこ八郎)がいた[12]。
  • 百田尚樹が綴ったノンフィクション『「黄金のバンタム」を破った男』を題材に、現役時代の原田の試合を中継していたフジテレビが、市原隼人主演で『「黄金のバンタム」を破った男 ~ファイティング原田物語~』としてテレビドラマ化された[13]。
  • 日本人初の女子アマチュア世界選手権銅メダリストの和田まどかは、高校まで原田のジムで練習をしていた[14]。

テレビドラマ出演

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ディスコグラフィー

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シングル

演じた俳優

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著作

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  • 中川幹朗『ボクシング入門:ボクシングのすべて』ファイティング原田、秋田書店、1970年。 
  • 原田政彦『ぼくファイティング原田です』日之出出版、1984年。 
  • 『図解コーチボクシング』ファイティング原田、成美堂出版、1995年。 

脚注

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注釈

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  1. ↑ 原田はファメションから3度もダウンを奪ったにもかかわらず、レフェリーおよびジャッジを務めたウィリー・ペップによって「引き分け」の判定が下された上、その後「原田の判定負け」に改められた。このあまりに露骨な地元判定に、シドニーの地元新聞にも王者側を批判し原田を擁護する記事が掲載されたという。
  2. ↑ 時代劇作品であるにもかかわらず、演者そのままの役名で出演。少林寺拳法指南という設定。

出典

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  1. ↑ 編集・ボクシングマガジン編集部『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』2004年、36頁。
  2. ↑ 【連載】ファイティング原田“幻の快挙”以来の体重差6.37キロ/井上尚弥 史上最大の挑戦
  3. ↑ 幻の3階級制覇 40年前の激闘 福井新聞 2009年7月28日閲覧
  4. ↑ 朝日新聞東京版 1972年7月5日朝刊22頁
  5. ↑ “Document1”. World Boxing Hall of Fame. 2026年8月12日閲覧。
  6. ↑ “国際ボクシング名誉の殿堂博物館”. ボクシングモバイル. キュービックス (2024年3月21日). 2026年8月12日閲覧。
  7. ↑ 波乃久里子に旭日小綬章受章 劇団「新派」55年 伝統・芸を継承 東京中日スポーツ 2016年11月3日[リンク切れ] アーカイブ 2016年11月3日 - ウェイバックマシン
  8. ↑ “【甘口辛口】ボクシング黄金時代に別れ告げたファイティング原田ジムの退会 あの笑顔は見られないのか”. サンスポ. 2025年3月30日. 2025年5月6日閲覧.
  9. ↑ 『ワールド・ボクシング 1月号増刊』、日本スポーツ出版社、1996年、59-60頁。
  10. ↑ “スポーツ歴史の検証 第28回” (PDF). 笹川スポーツ財団. p. 5-6. 2017年12月3日閲覧。
  11. ↑ “ヒーローズ エデュテイメント会長 秋沢志篤氏 (5)”. 2009年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月26日閲覧。フジサンケイ ビジネスアイ
  12. ↑ 「たこ八郎さんが急死」朝日新聞1985年7月24日付夕刊社会面
  13. ↑ 市原隼人、ファイティング原田になる! 村田諒太ドラマ初挑戦 サンケイスポーツ 2014年1月28日閲覧
  14. ↑ “女子ボクシング:五輪メダル候補に浮上 19歳の和田”. 毎日新聞. 2014年12月17日. 2015年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2015年1月23日閲覧.

関連項目

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外部リンク

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前王者
ポーン・キングピッチ
WBA世界フライ級王者
1962年10月10日 - 1963年1月12日
次王者
ポーン・キングピッチ
前王者
エデル・ジョフレ
WBA世界バンタム級王者
1965年5月18日 - 1968年2月27日
次王者
ライオネル・ローズ
前王者
エデル・ジョフレ
WBC世界バンタム級王者

1965年5月18日 - 1968年2月27日

次王者
ライオネル・ローズ