大橋秀行

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大橋 秀行
基本情報
本名 大橋 秀行
通称 150年に1人の天才、フェニックス
階級 ミニマム級
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1965年3月8日(51歳)
出身地 神奈川県横浜市
スタイル 右ファイタータイプ
プロボクシング戦績
総試合数 24
勝ち 19
KO勝ち 12
敗け 5
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大橋 秀行(おおはし ひでゆき、1965年3月8日 - )は、日本の元プロボクサー神奈川県横浜市出身。現役時代はヨネクラボクシングジム所属。日本ジュニアフライ級(現・ライトフライ級)、WBC世界ミニマム級ならびにWBA世界同級王座を獲得した。現在は大橋ボクシングジム会長。2007年4月1日より東日本ボクシング協会会長、2010年4月1日にはこれと兼務する形で日本プロボクシング協会(JPBA)会長に就任している[1]。2013年からは日本ボクシングコミッション(JBC)理事も務める[2]

兄の大橋克行もプロボクサーとして活躍した。山際淳司の「逃げろ、ボクサー」のモデルとして知られる。

来歴[編集]

保土ヶ谷中学時代から地元の協栄河合ジム(現・オーキッド・カワイ・ボクシングジム)に所属し、学歴は横浜高等学校(海藤晃の指導を受け、2年生でインターハイモスキート級制覇)〜専修大学中退(1年生でロス五輪予選を兼ねた全日本選手権出場も黒岩守に敗れ五輪を逃す)。宅地建物取引士。「150年に一人の天才」と評されたカウンターパンチャーでストロー級でありながら「ライト級に匹敵する」と言われた軽量級とは思えない強打が武器[3]で、特にボディブローは絶大な威力を誇っていた。ミニマム級ライトフライ級で活躍し、1990年にWBC世界ミニマム級王者、1992年にWBA世界同級王者となった。その一方で張正九リカルド・ロペスなど、その当時に最強を謳われた強豪を日本に招聘して世界戦を行った試合の方がボクシングファンには印象深いボクサーである。

引退後はテレビ朝日エキサイトボクシング」解説者を経て、現在は「大橋ボクシングジム」の会長。4人の世界王者(川嶋勝重WBCスーパーフライ級八重樫東WBAミニマム級・WBCフライ級IBFライトフライ級、宮尾綾香=WBA女子ライトミニマム級井上尚弥=WBCライトフライ級WBOスーパーフライ級)を輩出している。2007年1月3日開催の「ボクシング・グランプリ2007」にて日本代表の総監督を務めた。

東日本協会会長就任後、日本プロボクシング改革路線を掲げ、積極的に動いている。女子の解禁やスーパーミドル級以上のランキング創設(このうちヘビー級のみ復活)などをボクシング界に働きかけ、実現に至らせた。日本協会会長就任に当たり、「プロボクシング・世界チャンピオン会」発足を提案。プロアマ問題の解決や「日本ボクシング殿堂」の実現へ向けての活動も行っている。

戦績[編集]

1985年2月12日、プロデビュー。キャッチフレーズは「150年に1人の天才具志堅用高の100年に1人の天才を超えるという意味)」

1986年6月23日、6戦目で日本王座初挑戦。空位のライトフライ級王座を野島嘉章と争い、10回判定勝ち。王座獲得に成功(1度も防衛することなく王座返上)。

1986年12月14日、続く7戦目で世界初挑戦。敵地でWBC世界ライトフライ級王者張正九韓国)に挑むが、5回TKO負けで王座獲得ならず。

1988年1月11日、日本王座再挑戦。ライトフライ級王者喜友名朝博に挑み、10回判定勝ち。1年半ぶりの王座返り咲きを果たす(1度も防衛することなく王座返上)。

1988年6月27日、世界再挑戦。後楽園ホールで張正九に再度挑む。3回、3度のダウンを奪われた直後[4]、右の強打をアゴにクリーンヒットさせ、王者を大きくグラつかせたものの追撃及ばず。結局、その後4度のダウンを追加された末の8回TKO負けでまたしても世界王座獲得ならず。

1990年2月7日、階級を1つ下げ、ミニマム級での世界挑戦。後楽園ホールでWBC世界同級王者崔漸煥(韓国)に挑む。当時、日本ボクシング界は1988年11月13日井岡弘樹ナパ・キャットワンチャイタイ)に敗れ、WBC世界ミニマム級王座から陥落して以降、世界王者不在の状態が続いており、国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗回数も「21」にまで伸びていた。それだけに、「日本ボクシング界最後の切り札」としてこの日の大橋に懸けられた期待は非常に大きかった。試合は一進一退の攻防に終始。そして、迎えた9回、左のボディブローで王者からダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者に対し、さらなる追撃を浴びせ、最後は再び左のボディブローでダウンを奪い、そのまま10カウント。この瞬間、世界挑戦連続失敗記録にストップがかかり、日本ボクシング界に1年3か月ぶりの世界王者が誕生した。久しぶりの世界王者誕生に会場からは「万歳!」の声が何度も響き、当の本人も「自分が勝ったことよりも世界挑戦連続失敗記録にストップを掛けられたことが嬉しい」と喜びを爆発させた。

1990年6月8日、初防衛戦。井岡から王座を奪った元王者ナパと対戦し、ダウンを1度奪った末の12回判定勝ち。

1990年10月25日、2度目の防衛戦。アマ・プロ通じて66戦無敗のリカルド・ロペスメキシコ)と対戦したが、4回と5回に計3度のダウンを奪われた末の5回TKO負け。8か月半で世界王座を手放した(なお、この日の大橋は38度台後半の高熱を出しており、体調不良の状態でリングに上がっていた)。

ロペス戦後、一時は引退も示唆したが、ロペスへの雪辱を期し、1991年に再起。

ロペスとの再戦は実現しなかったものの、1992年10月14日、ロペス戦以来2年ぶりの世界戦。両国国技館WBA世界ミニマム級王者崔煕庸(韓国)に挑む。ロペス同様、無敗の王者と積極果敢に打ち合い、12回判定勝ち。世界王座返り咲きを果たした。

1993年2月10日、初防衛戦。東京体育館で無敗の指名挑戦者チャナ・ポーパオイン(タイ)と対戦するも、12回判定負けを喫し王座陥落。試合後、一時は現役続行の意思を示すも、その後眼疾が発覚し、最終的には引退を決断。

初の世界王座獲得から4年後の1994年2月7日引退表明とジム開設の記者会見を行った。

エピソード・その他[編集]

  • 崔漸煥に挑戦する前、張正九から「崔は韓国人だが、二度も死闘を演じた君に勝って欲しい」との手紙を受け取る。
  • 三度目の挑戦で世界王座を獲得した後、フェニックス(不死鳥)のキャッチフレーズも使われた。大橋が経営する「フェニックス・プロモーション」及びプロモートに携わる「フェニックスバトル」はこれに由来する。
  • 世界王座奪取後に出演した朝日放送ナイトinナイトでは、桂三枝(現・六代桂文枝)に鼻骨がなくなってフニャフニャな鼻を触らせながら引退後には花屋をやりたいと話していたが、結果的にはボクシング指導者の道を歩むこととなった。
  • 川嶋勝重徳山昌守の世界王座に挑戦させる際、「徳山には決定的な弱点が3つある。川嶋は1Rで徳山をKOするだろう」と予言し的中させた。しかし、後日、専門誌で飯田覚士と対談した際、「徳山の弱点発言」が単なるハッタリだったと明かした。
  • 現役時代は48kg前後だった体重が、引退後はかなり太ってしまった(80kgを超えたこともあった)。ボクシングへの未練を断ち切り、もう一度現役に復帰することがないようにわざと体重を増やし、トレーニングも一切やらなかったために体重が増えてしまったという。
  • 中学校1年でジムに入門、それ以後体重を増やさないために1日1食を続けていた。弁当も食べずにいたため担任の女性教師が、ジムに抗議に伺ったこともある。
  • 元世界王者の中でも、格闘技の理解、交流が強い。現役時代から同郷である高田延彦と親交があり、西日本協会がボクサーが格闘技への参戦を禁止したのに反し、大橋は他の格闘技からのボクシング参戦プランを打ち出した。また、山本"KID"徳郁にボクシング指導を行い、KIDの才能を絶賛した。
  • 格闘技に理解を示す一方、K-1 WORLD MAXでの魔裟斗vs川尻達也の試合で、川尻のセコンドについた山田武士については、東日本ボクシング協会会長として「ルールとして他格闘技のセコンドについてはいけないのは山田氏も知っている。見逃すわけにはいかない」と厳しい処分を下した。だが全てを否定したわけではなく、この試合での山田の早めのタオル投入を、大橋は「良い判断だった」と高く評価した。
  • 学生時代にアマチュアボクシングで活躍したため、アマチュアへの理解も深く、大橋ジムは日本アマチュアボクシング連盟にも加盟してアマチュアの指導も行っている。また、アマチュア界の名指導者としてプロを派出し、自身もプロに理解のある山根明の日本アマチュア連盟副会長就任パーティーの席上で握手を交わしており[5]、山根が連盟の会長になった2011年からアマチュアの選手がプロボクシングジムでトレーニングやスパーリングを行うなど積極的な交流が行われている[6]。件のパーティーで大橋が語った「今こそ五輪金メダリストを生み出すためにアマとプロが協力し合う時です」の言葉は、早くも2012年ロンドンオリンピックでの村田諒太の金メダル及び清水聡の銅メダル獲得という形で結実している[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ 大橋秀行氏、日本プロボクシング協会の新会長に”. 朝日新聞 (2009年12月24日). 2010年3月12日閲覧。
  2. ^ 大橋秀行協会会長がJBC理事に就任”. 日刊スポーツ (2013年6月28日). 2013年8月19日閲覧。
  3. ^ 『もっとうまくなる!ボクシング』248頁。
  4. ^ WBCはフリーノックダウン制を採用。同一ラウンドで規定回数ダウンした時点で自動的にKO負けとはならず、レフェリーが試合続行不可能と判断しない限り何度ダウンしても試合は続行される。ただし、「何度倒れても良い」ということではなく「ダメージ・負傷の度合いによりレフェリーの判断で試合を止める場合がある」という意味である。最近では、早めの試合ストップが恒常化しているため、1度や2度のダウンで試合が止められることも頻繁である。
  5. ^ プロ-アマ雪解け? 首脳同士が歴史的握手”. ボクシングニュース「Box-on!」 (2010年8月30日). 2012年8月13日閲覧。
  6. ^ “ボクシング、プロ・アマ協力実る 44年ぶりメダル確定”. 朝日新聞. (2012年8月7日) 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
崔漸煥
第4代WBC世界ミニマム級王者

1990年2月7日 - 1990年10月25日

次王者
リカルド・ロペス
前王者
崔煕庸
第4代WBA世界ミニマム級王者

1992年10月14日 - 1993年2月10日

次王者
チャナ・ポーパオイン