渡嘉敷勝男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
渡嘉敷 勝男
基本情報
本名 渡嘉敷 勝男
通称 ヤンバルクイナ、トカちゃん
階級 ジュニアフライ級
身長 157cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1960年7月27日(53歳)
出身地 日本琉球沖縄市[1]
兵庫県宝塚市
スタイル ディフェンディングタイプ
プロボクシング戦績
総試合数 25
勝ち 19
KO勝ち 4
敗け 4
引き分け 2
テンプレートを表示

渡嘉敷 勝男(とかしき かつお、男性、1960年7月27日 - )は、日本の元プロボクサータレント沖縄県沖縄市出身[1]兵庫県宝塚市育ち。

第6代WBA世界ライトフライ級王者。現役時代は協栄ボクシングジムに所属。

経歴・人物[編集]

  • 沖縄県生まれだが、親の仕事の関係で幼少時代に兵庫県宝塚市に住居を移転したため、宝塚で高校までを過ごした。
  • 浪速工業高等学校(現・星翔高等学校)中退。
  • 現役時代の代名詞は“ヤンバルクイナ”。タレント転向後は「トカちゃん」という愛称の方が知られている。

来歴[編集]

プロデビュー前[編集]

幼少のころからやんちゃ坊主で、高校時代は喧嘩に明け暮れる不良少年であった。

1977年1月30日、テレビでWBA世界ライトフライ級タイトルマッチ具志堅用高ハイメ・リオスパナマ)を観たことがきっかけでボクシングを始めようと思い立つ。

浪速工業高校中退後、単身で上京し、プロボクサーになるべく協栄ボクシングジムに入門。

プロデビュー後[編集]

  • 1978年12月28日、プロデビュー[2]
  • 1980年2月21日、全日本ライトフライ級新人王獲得。
  • 1981年12月16日、世界初挑戦。金煥珍韓国)を15回判定に降し、WBA世界ライトフライ級王座獲得[1]。同王座は具志堅が3月に14度目の防衛戦で敗れ、手放していたもので、渡嘉敷にとっては9か月前の先輩の無念を晴らす形となった。
  • 同王座はルペ・マデラメキシコ、2度)、伊波政春(日本)、金成南(韓国)、金煥珍相手に5度の防衛に成功するが[1]1983年7月10日、6度目の防衛戦でルペ・マデラに4回負傷判定(当時はTKOと記録された)で敗れ、王座から陥落した[1]。10月23日にマデラと再戦するが、15回判定負けで王座返り咲きならず[1]
  • 1984年8月18日、敵地でWBC世界ライトフライ級王者張正九(韓国)に挑戦するが、9回TKOに敗れ、王座返り咲きならず[1]。結局、この試合を最後に現役を引退。

引退後[編集]

エピソード[編集]

  • 沖縄県生まれであるが、生後間もなく兵庫県宝塚市に転居している。世間的に異論はないのだが本人は意外と真面目なため「自分は沖縄ボクサーのグループで呼ばれてもいいのだろうか?」と考えていた。引退後、沖縄出身の世界チャンピオンたちが偶然一堂に会するパーティーがあり壇上で写真撮影をする際に入ろうかどうしようかと考えていたが先輩達に「早くあがって来い」と叱られて、やっと沖縄グループでいいんだと自分自身で納得できたらしい。
  • 渡嘉敷VSマデラ戦が何度も開催されたことで、WBA世界ライトフライ級1位新垣諭の世界初挑戦の機会が遅れ、日本ボクシングコミッション分裂及び日本IBF設立の引き金となった。
  • プロボクサーになったきっかけは具志堅用高を倒すためだったが、入門した協栄ジムにはその具志堅がいた。同一ジムに所属する選手との対戦は行われないため「打倒・具志堅」の目的は果たせなかったものの、入門後は具志堅や彼の対戦相手のスパーリングパートナーを積極的に務めた。これが後に渡嘉敷が世界王者となるきっかけにつながったと評価するファンも多い。なお、具志堅との初のスパーでは鼻骨を折られ、その夜は発熱するなど散々だったが、「こいつ根性あるよ。これからスパーリングパートナーに使おうよ」と、トレーナーに進言する具志堅の声を背中で聞きながら「逆だよ。これからお前(具志堅)が俺のパートナーじゃ。使うたるわい」と、心中で呟いていたという。奇しくも具志堅は2010年に渡嘉敷と同じ太田プロダクションに所属することとなり、渡嘉敷は太田プロでは先輩となった。
  • 協栄ジムの金平正紀初代会長は、「具志堅が“カンムリワシ”ならば、渡嘉敷は“ヤンバルクイナ”にしよう」と、渡嘉敷勝男の代名詞(キャッチフレーズ)としてヤンバルクイナと命名した。
  • 前述のように「たけし・逸見の平成教育委員会」では珍解答を連発。その結果、毎回のように岡本夏生と最下位争いを演じていた。しかし天然ボケ的な珍解答の多かった岡本に対し、渡嘉敷は意図的に珍解答を連発していたようである(例えば「日本三景を答えよ」という問題〔正解:天橋立松島宮島〕に対し、渡嘉敷は「オグラ景谷景マリムラ景」と、応仁の乱を「大人の乱」と解答するなど)。時折難解な問題で正解すると、学級委員長の逸見政孝に「(正解を書いたのは)ウケ狙いですか?」。北野武先生には「ボケようとして、正解してしまったんですね。」と、散々に言われる。しかし「切ったトイレットペーパーを円筒状にして火をつけるとどうなるか?」という問題に対して、「飛ぶ」と珍解答を狙ったが正解だったということもあった。また岡本には対抗意識を持っていたようで、「川柳『○○と 言われるほどの 馬鹿でなし』の『○○』に当てはまる言葉を答えよ」という問題(正解:先生)に「岡本」と解答した。ちなみに岡本もこの問題で「とかしき」と解答している。近年のスペシャル放送でも相変わらず最下位に定着しているため、北野先生に「ディフェンディングチャンピオン」と称される。一度その最下位の座から転落した。
  • タレントとしてはすっかり三枚目に定着してしまったが、芸能界デビュー当時は「松田優作さんのような男の匂いのする俳優になりたい」と抱負を語っていた。
  • 以前に住んでいたマンションに松本人志も住んでおり、駐車場で渡嘉敷のバイクと松本の車が、あわや衝突事故という状況になり、興奮した二人が喧嘩寸前の状態になったことがある。松本がこの件を謝罪しようと思っているが、不幸にも数年たった現在でもテレビ番組で共演が実現していないとラジオでコメントする。松本によれば、渡嘉敷がフルフェイスのヘルメットをかぶっていたため、相手が渡嘉敷だと気付くのが遅れ、気付いた時には、お互いエキサイトしていたので、もう引き下がれない状態だったと苦笑していた。
  • 亀田興毅ランダエタ戦後、テレビ朝日の番組「ワイド!スクランブル」において「みんな先入観で亀田を見ている」とメディアによる扇動について指摘し、亀田に対する判定はおかしいという世論と一致する意見を述べるガッツ石松に対し「あまり軽々しくそんなこと言わない方がいい」と警告した。

主な出演番組[編集]

テレビドラマ[編集]

バラエティー番組[編集]

映画[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年
  2. ^ BoxRecによる戦績

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
金煥珍
第6代WBA世界ライトフライ級王者

1981年12月16日 - 1983年7月10日

次王者
ルペ・マデラ