ガッツ石松

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ガッツ石松
基本情報
本名 鈴木 有二(すずき ゆうじ)
通称 鈴木石松
階級 ライト級
身長 172cm
リーチ 172cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1949年6月5日(67歳)
出身地 栃木県上都賀郡粟野町(現:鹿沼市
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 51
勝ち 31
KO勝ち 17
敗け 14
引き分け 6
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ガッツ 石松(ガッツ いしまつ、男性、1949年6月5日[1] - )は、日本俳優タレント広島国際学院大学現代社会学部客員教授。プロボクサー。元WBC世界ライト級チャンピオン。本名は鈴木 有二(すずき ゆうじ)。栃木県上都賀郡清洲村粟野町(現:鹿沼市)出身。[2]

ガッツエンタープライズ代表取締役社長。ガッツエンタープライズ所属。

概要[編集]

ガッツ石松はヨネクラジム所属で、アジア人で初のWBC世界ライト級チャンピオンであった。当時のライト級は非常に層の厚い階級であった、そうそうたる世界の強豪を抑えタイトルを5度防衛。ボクシング引退後はタレント、俳優として活躍している。

中学生時代は学校の体育の教師を夢見ていたが、家庭の経済的事情のため進学を断念し、中学卒業とともに上京。様々な職業を転々としながら、ボクシング修行を続ける。

世界王者になるまでは鈴木石松というリングネームだったが、試合で少しでも形勢が悪くなると、試合放棄に近い行動を取り勝てる試合を落とすことがしばしばだったり(日本の世界王者の中でチャンピオンになる前に10敗以上しているのはガッツのみである)、ランニングが嫌いで「ランニング行って来ると行ってはジムを出て帰りに水を被ってくる(本人談)」ということがしばしばあったので、ジム側が「ガッツのあるボクサーになってくれるように」との思いを込めて今の名前に改めた。ロドルフォ・ゴンザレスへの挑戦前は、世界王座獲得後は元の鈴木石松に戻すと語っていた。因みに「石松」の由来は「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」という森の石松から。

勝利が決まった後に両手の握り拳を上へ突き上げる万歳をしたような独特の勝利のポーズをしたことから、そのポーズが「ガッツポーズ」と名づけられたといわれている。ガッツポーズは、右手が自分のための喜びを示しており、左手が観客に対する喜びという意味があるという。しかし、それより以前からガッツポーズと呼ばれるものが存在していたことが検証されていることから、ガッツポーズの起源がガッツ石松だというのは誤りとする説もある。

現役時代は極端に顔を打たれることを嫌がったり、前出の形勢が悪くなる試合をすぐに放棄同然の敗退も、現役引退後の生活を考え、後遺症などを残したくないという判断があったと言われている(親に貰った顔を大事にしただけという説もある。ちなみに母親の顔を受け継いでいる)。

引退後、テレビのバラエティ番組クイズ番組に特異なキャラで出演するなどタレント活動を主とする。

1996年森喜朗の勧めで第41回衆院選東京9区から自由民主党公認で出馬したが落選。

2010年に、元世界王者により発足される「プロボクシング・世界チャンピオン会」初代会長に就任した。

ボクシング活動[編集]

  • 最初のプロテスト不合格を経て1966年12月11日に藤原正夫(堀口)に1回KO勝ちでプロデビュー。ボクサーとしてはオーソドックススタイルの典型的なボクサータイプ「早いの(左パンチ)で崩して強いの(右パンチ)を入れる」[要出典]だったが、土壇場での打ち合いを嫌ったとされ倒れ癖と揶揄される面もあった。4回戦時代は当初、勝ったり負けたりの状態であり、1回KO負け(1967年8月9日、村林桂次(木村)戦)の経験もある。後にヨネクラジムと契約していたエディ・タウンゼントの教えを受けている。
  • 1969年、全日本ライト級新人王。同期の新人王にウェルター級の輪島功一がいた。
  • 1970年1月25日、世界王座挑戦がほぼ決まっていた、東洋ライト級王者・ジャガー柿沢(中村)の前哨戦の相手に選ばれるが、番狂わせの一方的な判定勝ちを収め、柿沢に代わって世界挑戦権を得る。
  • 1970年6月6日、パナマWBA・WBC世界ライト級王座挑戦。イスマエル・ラグナパナマの旗 パナマ)に13回TKO負け。
  • 1971年3月3日、日本ライト級王者高山将孝(堀口)に挑むが、10回引分でタイトル奪取ならず。
  • 1972年1月16日、5か月前にKO負けしている門田新一(三迫)の東洋ライト級タイトルに挑戦。今度は判定勝ちで王座奪取する。試合後「今の目標は、生意気ですが、ブキャナン(当時WBA王者)です」と語ったが、3年後には王者としてこのブキャナンの挑戦を受けることになる。
  • 1973年9月8日、WBA世界ライト級王座挑戦。石の拳ロベルト・デュランパナマの旗 パナマ)の持つ世界ライト級王座に敵地パナマで挑戦し、10回KO負け[文献 1]。試合の勝敗以前にガッツの「パナマのリングは暑くてスタミナが持たない、こりゃ勝てない」という諦めの早さに米倉健司会長は怒ったという。しかしガッツは全盛期のデュランとの戦いで「世界チャンピオンは確かに強いがこんなものか。技術的にはそんなに劣っていない!自分のスタミナさえあれば勝てない相手ではない」とボクシングの悟りをひらいたと言う。
  • 1974年4月11日、東京・日大講堂で、WBC世界ライト級王座挑戦。ロドルフォ・ゴンザレスメキシコの旗 メキシコ)に8回KO勝ちで王座奪取[文献 2]。戦績59勝50KO5敗、しかもその前5年間の敗北は一階級上の名王者アントニオ・セルバンテスコロンビアの旗 コロンビア)に喫した1敗のみという王者に対し、ガッツの戦績は26勝14KO11敗6分であったため、下馬評はガッツは99%勝てない。と言われる程の圧倒的不利の予想であった。だが、試合が始まってみると、ガッツは絶好調で、毎回ほぼ互角の打ち合いが続いた。8回、ガッツのパンチを吸収し、動きがやや重くなった王者に対し、ガッツは強烈な左フックをヒット、ロープに下がった王者にすかさず左右を連打しダウンを奪った。ややレフェリーのカウントはロング気味で、何とか立ち上がったゴンザレスから、すかさずガッツは2度目のダウンを奪う。ところが、レフェリーはこれを「スリップ」と判断し、なおかつキャンバスに倒れた王者を助け起こすルール違反を犯す。セコンドの米倉健司エディ・タウンゼントらが激高、抗議のためリングに上がりかけるほどの事態だったが、ガッツは冷静に「大丈夫。倒すから」とセコンド陣を制したのち、その言葉どおりにコーナーでゴンザレスを乱打して、今度こそキャンバスに完全に沈めた。最初のダウンを奪ったパンチは、本人曰く「ワンツーパンチ」だが、左・右を繰り出す間隔が短く相手には右腕の動きが見切れないことから、“幻の右”と評された(試合後のインタビューで自ら語っていたという説もある)。トレーナーのエディ・タウンゼントも「今日のイシマツ、新しい力入ったのよ。」と驚いたほどの会心の出来だった。この試合は本来3か月前に行われるはずであったが、ゴンザレスがクモに噛まれたために延期になった。後に、ガッツは「この3か月の延期によってスタミナを付けることができた。私には運があった。」と述べている。この対戦から32年後に番組の企画で再会した際、ゴンザレスも貧しい家に生まれたこと、ボクシングの世界チャンピオンになったこと、そして、引退後に俳優になったことなど、あらゆる点で共通していたことを知る。
  • 1974年9月12日、愛知県体育館でチュリー・ピネダ(メキシコの旗 メキシコ)を相手に初防衛戦、風邪をひいて最悪の体調のため、苦戦するが、辛くも引き分けで初防衛に成功した[文献 3]
  • 1974年11月28日、大阪府立体育会館で、ロドルフォ・ゴンザレスとリターンマッチで対戦し、12回KO勝ちで2度目の防衛に成功した[文献 4]
  • 1975年2月27日、東京体育館で、元WBA・WBC王者であり、超一流のテクニシャンとしても名高い世界1位の指名挑戦者ケン・ブキャナンイギリスの旗 イギリス)相手の防衛戦を行う。この試合まで56勝25KO2敗の戦績を誇るブキャナンは、その5年前にガッツの挑戦を退けた直後のラグナから15回判定勝ちで王座を奪取し、3度目の防衛戦で、ややローブロー気味のボディブローでロベルト・デュランにKO負けし、WBA王座を奪われたものの、その後3年間は負けなし(13戦全勝9KO勝ち)、ガッツ自身を始め、日本の一流どころがいずれも勝てなかった李昌吉(韓国の旗 韓国)にも2回KO勝ちしていた。序盤はガッツがブキャナンの左に合わせて、威力ある右を再三ヒット、ブキャナンは左目が腫れてふさがったが、中盤はブキャナンが全盛期を思わせるスピードでガッツの廻りを動きながら、左ジャブを再三ヒットし、ポイントをリードした。これに対し、ガッツは12回、左右を風車のように振り回す「ケンカ殺法」でブキャナンのペースを乱し、13回には右を決めてダウンを奪う(判定はスリップだったが、イギリス人のジャッジ、ハリー・ギブスはこの回を10対8でガッツに付けている)など最後の3Rはほぼ一方的に打ちまくって3-0の判定勝ちで3度目の防衛に成功した[文献 5]。WBCは、この月の月間MVPにガッツを選出した。最強の挑戦者ブキャナンを下したことで、ガッツの評価は揺るぎないものになった。
  • 1975年6月5日、大阪の近大記念体育館で、前回引き分けているチュリー・ピネダと再戦、今回もやや手こずったが、終盤はアウトボクシングするなど、ピネダの攻勢をかわし、3-0の判定勝ちで4度目の防衛に成功した[文献 6]。このあたりから、ライト級の体重維持がだんだん苦しくなる。
  • 1975年12月4日、東京・日大講堂で、アルバロ・ロハス(コスタリカの旗 コスタリカ)を苦戦の末、10回に右アッパーでダウン寸前に追い込み、14回に右アッパーの一撃で倒し5度目の防衛に成功した[文献 7]。「13kg減量」が話題となったが、実際には19kg減量、しかも試合前1か月間で10kg落としたと言われている。
  • 1976年5月8日、6度目の防衛戦でエステバン・デ・ヘススプエルトリコの旗 プエルトリコ)に15回判定で敗れ王座から陥落した[文献 8]。この試合、経済的に後進国だったプエルトリコが、当時としては異例の20万ドルをガッツのファイトマネーに用意した。プエルトリコの英雄ヘススへの期待とガッツの知名度、人気の高さも関係していた。
  • 1977年4月2日、WBC世界ジュニアウェルター級王座に挑戦するが、センサク・ムアンスリンタイ王国の旗 タイ)に6回KO負けで2階級制覇ならず[文献 9]。この試合、ガッツにとって1年ぶりの試合であり、約15kgの減量を余儀なくされていた。
  • 1978年、後の日本スーパーウェルター級王者・新井容日(大星)に判定負けし、引退。
  • 1995年世界タイトル初挑戦時の平仲信敏の特別コーチも務めた。
  • 生涯戦績は、51戦31勝(17KO)14敗6分。

俳優活動[編集]

自ら監督・企画・脚本・製作・製作総指揮を務めた作品に『カンバック』(1990年)、『罪と罰』(2011年)がある。

テレビドラマでは、『おしん』(原作・脚本:橋田壽賀子)、『北の国から』(原作・脚本:倉本聰)、『太陽にほえろ!』(ゲスト出演)をはじめとして多数出演。また、テレビ朝日『TRICK』シリーズでは、甘い物好きの人面虫「ガッツ石まっ虫」を演じた。また円谷プロ作品にも度々出演しており『ぼくら野球探偵団』ではレギュラーで一人二役をこなし、『ウルトラマン80』と『ウルトラマンティガ』にゲスト出演している。

プロボクサーから俳優に転向したときは、「ボクシングで有名になったからといって、俳優などできるはず無い」と反対されたというが、彼はただ少年時代から憧れだった俳優高倉健と共演したかっただけらしい[3]。そもそも東京に来てボクサーになった動機が「有名になって健さんと共演したかったから」だと後に語っている。俳優転向後、ハリウッド映画『ブラック・レイン』のヤクザ役でその夢を見事果たした(現役時代に高倉健主演「神戸国際ギャング(1975年)」に出演している)。現在はそうそうたる面々と仕事をしており、個性派俳優として地位を不動のものとしている。

タレント活動[編集]

現在数多く存在する元ボクサータレントの草分け的存在である。

1974年4月11日に世界王者になった翌日22時からの日本テレビ系『金曜10時!うわさのチャンネル!!』に出演したガッツは「僕さぁ、ボクサーなの」という、今でこそ有名だが当時は相当寒いギャグを3発繰り出しただけだった。

その後は、クイズ番組の解答者などにおける珍解答、何を聞いても「OK牧場」と答えるあっけらかんとしたところがバラエティで受け、ゲストとして重宝される存在となっている。ただし「クイズダービー」では、番組開始当初の1976年に5枠レギュラー解答者(当時は6枠まであって、6枠がゲスト)として約半年間出演し、97勝94敗・5割0分8厘(平均5勝5敗ペース)という高い正答率を残している。1990年3月の大橋巨泉勇退時と1992年12月の番組最終回では、久々にギャンブラーとして出演したが、いずれも賞金額は0円の結果となっている。

しかし1990年の時は初代4枠だった萩尾みどりとペアになり、中盤まではいいペースで得点を増やしていた。持ち点が18,000点で6問目に北野大に8,000点を賭けようとしたが萩尾に止められ結局2,000点に変更したが8倍の北野が正解し34,000点(もし賭け点が8,000点なら82,000点になっていた)に増え、続く7問目の3択の問題で3倍のはらたいらに勝負で30,000点を賭けたが、はらは不正解で残り4,000点になり結果的に0点になった。番組エンディングでガッツが言っていた様に勝負どきを間違えなければ違う結果になっていた。

1987年にスティーヴン・スピルバーグ監督作『太陽の帝国』に出演。

バナナ好きで有名であり、家のそこら中にはバナナが置いてありいつでもバナナが食べられるようになっている。めちゃイケの寝起き早食い選手権でもすぐにバナナを食べる驚異的な記録を持つ。ただし、番組内で目隠しをして何を食べたか当てるコーナーに出演し、バナナで問題を出されたが「オムレツ」と答えてしまい当てることが出来なかった。

初めてバナナを食べたのは、ボクシングでファイトマネーを手に入れてからだという。現在はバナナは安価で容易に入手できるが、1970年代当時は高価な果物であった。

2004年には、はなわのネタから生まれたCDシングル『伝説の男 〜ビバ・ガッツ〜』にてブレイク。ガッツ自身の存在感を見せつけたほか、天然ボケを武器とする、一流ボクサー出身タレント(輪島功一具志堅用高平仲明信ら)の再認知に寄与している。

また、テレビ朝日系放送の「タイムショック21」に出演し、モザイクがかかっている画像を答える問題でなかなかボタンを押さなかった。彼曰く、「モザイクが全部消えてから答えるかと思った」。また同番組ではセットの豆球を勝手に外したりしていた。

ガッツが時折繰り出すギャグは、天然ボケ半分、計算半分の絶妙なブレンドによって生まれるものであり、彼が愛される理由ともなっている。

OK牧場[編集]

以前からガッツ本人が多用していたが、はなわの唄う『伝説の男 〜ビバ・ガッツ〜』のヒットやガッツ本人のいわゆる“伝説”をまとめた本のベストセラー化等によって、2004年の流行語の一つとなった。

自身のホームページに記載されている由来(※)によれば、自身の監督映画『カンバック』を制作するにあたり、映画『ララミー牧場』で知られ、自身の憧れの俳優でもあるロバート・フラーに出演してもらうこととなり、撮影で(監督であるガッツにとって)フラーが最高の演技をしてくれたのに感激して、思わず口をついて出たのがこの言葉であったという。これ以降、何か良いことがあると「OK牧場」と言うようになったということである(一部要約)。

なお、「OK牧場」と言う言葉自体はガッツが使う以前から、心理学用語や映画『OK牧場の決斗』などで存在しているが、これらの語句の読みは“「おーけー」牧場”であるのに対し、ガッツは“「おっけー」牧場”と発音している。

(※) 自身のホームページ開設前、モーニング娘。がMC(司会進行)を担当する番組において「OK牧場の決斗」に由来すると語ったこともある。

OK農場[編集]

OK牧場とは対照的になかなか使わない言葉として、「OK農場」というものがある。

2006年8月2日に行われた、TBS中継による、亀田興毅のWBA世界ライトフライ級王座決定戦の試合結果について、「よくがんばったが、OK牧場とは言えない。OK農場だな」(要約)などとコメントしている。

代表的ギャグ[編集]

  • OK牧場!(NO牧場、単に「牧場」など変動あり)
  • サムタイムときどき(本来「sometimes」が“時々”を意味する英単語だが、意味をはき違えたギャグ)
  • 僕さぁ、ボクサーなの
  • チョウチョパピヨンがいっしょに飛んでた
  • 黙って喋れ!
  • ラッキーセブン3太字の数字部分は多少の変動あり)

エピソード[編集]

  • 東洋ライト級王者時代、池袋白タクの利権がらみで弟にからんだヤクザ8人を相手に喧嘩をし、たった一人で全員KOしたという事件(俗に言う池袋乱闘事件)を起こし[4]、現行犯逮捕された(後に正当防衛を認められ釈放された)。その時の事情聴取でガッツは「チャンピオンは“いついかなる時でも誰の挑戦でも受けなければならない”[5]と賞状に書いてある」と供述した[6]。その後2日間勾留されたが、プロボクサーライセンス剥奪には至らなかった[6]
  • 幻の右と言われたパンチが注目されていたが、防御面でも卓越した技術を持っていた[7]
  • 1974年4月11日、東京・日大講堂でWBC世界ライト級王座獲得直後、有名なガッツポーズを披露している時に、祝福のためにガッツの夫人と娘がリング上まで駆けつけた。
  • NHK連続テレビ小説『おしん』への出演は原作者である橋田壽賀子から直々の指名による大抜擢だった。後にこの際の理由をガッツが「先生、何で僕を選んだの?」と橋田本人に聞いたところ「あんた一生懸命やってるじゃない。普通、ボクシングのチャンピオンでこの業界に来るとみんな天狗で鼻持ちならないのよね。あんたはチャンピオンのガッツ石松じゃなくて、役者の、芸人のガッツとして頑張った。だからこの役はガッツ石松のために用意したのよ。あんたが一生この業界で食っていけるように」と返され、人目も憚らず号泣した。
  • 娘の鈴木佑季とともに、日本バナナ輸入組合主催の「第一回勝手にバナナ大賞」を受賞。その授賞式とトークショーは、8月7日のバナナの日に執り行われた。ちなみに、副賞としてバナナ1年分が進呈された。
  • TBSが2006年8月2日に中継したWBA世界ライトフライ級王座決定戦における亀田興毅勝利の判定について、各メディアは業界関係者のインタビュー映像を連日放映していた。ガッツ石松もその一人である。インタビュー映像や、同件に関してコメンテーターとしてワイドショーに出演した際などは、淡々と意見を述べていた。
  • その後、テレビ東京が2006年9月18日に中継したWBC世界スーパーフライ級暫定王座決定戦の川嶋勝重クリスチャン・ミハレス戦にゲストで招かれた(川嶋の師匠である大橋秀行はヨネクラの後輩)。ダウンを奪った川嶋が1-2で判定負けし、亀田戦同様「疑惑の判定」と言われかねない試合だった。しかし、贔屓目なしの独自採点を中継中に公表、ガッツの採点はジャッジ2名と同じ113-114で川嶋の負けであった。
  • 元祖どっきりカメラ」で嵌められたことがある。若者たちに人生は何たるか云々と講演するために呼ばれたが、遅刻して来る者、ガッツの話を聞かず騒ぐ者などがガッツを徐々に怒らせていく。しまいには全員でガッツに対して帰れコールが飛び交う中、野呂圭介がプラカードを持ってネタばらしをする設定。ところが、ガッツがマイクや教卓を投げつけるなど激怒してしまったため、野呂のなだめる言葉も全く耳に入っていなかった[8]
  • 粟野町役場庁舎内(現在、鹿沼市役所粟野支所庁舎)に、「粟野町出身の名誉人」として、額入りの顔写真を掲げられている。
  • 鹿沼市西沢町のさつき霊園に生前墓を建立した。墓石には「ガッツ家之墓」と彫られており、下部には「OK牧場」の文字も彫られている。また、ボクシングのグローブとチャンピオンベルトを模った彫刻も併設されている。地元では観光名所とされている。2011年8月1日放送のテレビ朝日の番組「雑学王」においてクイズとしてこの件が紹介された。
  • かつて自由民主党から出馬経験があるガッツ石松だが、「いま憲法を変えようという声もあるけど、僕は変えなくてもいいと思ってます。だって、日本という国がずっと戦争しないでこれた。経済的に豊かになったのも、この九条のおかげでしょ。武力でなく解決の方向を見つけていくためには、九条は必要だと思うね。戦争をしない国にしていかないと」「共産党は筋を通して頑張っている。小選挙区でも勝てるようになってほしい」[9]などと発言しており、護憲派としての立場が鮮明である。一方、2012年秋、正論の特集記事で、だれが次の総理にふさわしいか聞かれたときは、強いリーダーシップを持つ政治家が求められるとして、改憲派の石原慎太郎を推していた。[10]
  • この前後に、俳優の菅原文太らと「げんこつ親父」の会を立ち上げた。

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

オリジナルビデオ[編集]

CM[編集]

バラエティ[編集]

歌手活動[編集]

以下のシングルを発売している。

  • 石松おとこ節(1974年)
  • 男のうた
  • 気がかり
  • 人生男道(1992年)
  • 恋人ができたなら(1995年)
  • 気(1999年)
  • ガッツ人生 ワッショイ祭り 〜OK牧場〜(2005年)
  • OK食堂(2015年)

著書(共著を含む)[編集]

  • 生き残りケンカ哲学(NP出版)
  • ガッツ石松の人生タイトルマッチ 抱腹絶倒(フットワーク出版、1983年4月) - ISBN 4-906175-02-3
  • 10キロならすぐやせられる―食べて飲んで脂肪を落とす9日で10キロ減量法(青春出版社、1984年10月) - ISBN 4-413-01362-X
  • 男・石松のガッツエンターテイメント―新人生タイトルマッチ(フットワーク出版、1989年1月) - ISBN 4-906175-52-X
  • ガッツ流人生ラウンド(近代映画社、1992年4月) - ISBN 4-7648-1689-X
  • 神様ありがとう俺の人生(維摩書房、1999年4月) - ISBN 4-7952-7684-6
  • 最驚!ガッツ伝説(光文社、2004年7月) - ISBN 4-334-97456-2
  • 鈴木佑季の最驚バナナレシピ 〜ガッツ石松父娘の愛情料理〜(中経出版、2004年10月) - ISBN 4-8061-2112-6
  • 最驚!ガッツ伝説2(光文社、2004年11月) - ISBN 4-334-97469-4
  • 鉄腕ガッツ!!(ベストセラーズ、2004年12月) - ISBN 4-584-18848-3
  • 人生はOK牧場!(幻冬舎、2004年12月) - ISBN 4-344-00726-3
  • 遠くで笑い聲が聴こえる(実業之日本社、2005年5月) - ISBN 4-408-59247-1

その他[編集]

  • 2008年1月9日より2009年3月25日まで、『読売新聞』水曜夕刊の「ムチャぶり大作戦」と題したコーナーに、SHEILAと隔週で紙上登場。“ガッツ将軍”として、様々な「指令」を出していた。

関連人物[編集]

  • 鈴木佑季 - 長女。タレント。
  • ビートたけし - 1970年代に入って漫才界から衝撃的にメディアに登場し、ラジオの深夜番組として当時多くの若者に人気のオールナイトニッポンのパーソナリティを務めた。放送中でも特に人気を博したのは、ガッツ石松と村田英雄の大ボケぶりをからかうコーナーだった。とはいえ披露されていたネタのほとんどはリスナーハガキ職人から寄せられた作り話である。
  • はなわ - 2000年に入ると、ガッツ石松がテレビ番組に出演した際の発言をネタとした『伝説の男 〜ビバ・ガッツ〜』を歌う。『エンタの神様』などで披露されたものがCD化、2004年6月30日に発売される。
  • 嘉門達夫 - 同じくガッツ石松の発言を題材にした楽曲『ガッツ石松伝説』を歌う。その他、何度もアルバム製作に参加。『ガッツ石松伝説』のCDは2002年6月21日に発売。

脚注[編集]

  1. ^ ガッツ石松 allcinema
  2. ^ 履歴書 中京テレビ『ろみひー』公式ページアーカイブ参照
  3. ^ ただし、1980年に「徹子の部屋」に出演した際には、ボクサー修行をしていた際から俳優も志しており、東映の撮影所を訪れたが守衛に断られて断念した経験があったと語った。
  4. ^ この事件の新聞の見出しは「石松、場外で8人KO」だった。
  5. ^ 本来は、相手がどんな挑戦者であろうと「組まれたマッチメイクを受ける義務」の規定である。
  6. ^ a b アサ芸プラス (2012年5月24日). “「挫折」の受け止め方 ガッツ石松”. Exciteニュース. p. 2. 2016年1月18日閲覧。
  7. ^ 初黒星を喫した興毅 防御技術に大きな差 Sponichi Annex ニュース 2010年3月27日
  8. ^ ガッツのように「怒らせたら怖い芸能人」の一方、普段強面の安岡力也が嵌められた際には、逆に冷や汗をかかせる回もあった。
  9. ^ しんぶん赤旗』2007年6月26日付1面
  10. ^ 『正論』2012 年9月号P202

参考文献[編集]

  • ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年
  1. ^ 237頁下段
  2. ^ 238頁上段
  3. ^ 238頁下段
  4. ^ 239頁上段
  5. ^ 240頁上段
  6. ^ 240頁下段
  7. ^ 241頁上段
  8. ^ 241頁下段
  9. ^ 254頁上段

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
ロドルフォ・ゴンザレス
第12代WBC世界ライト級王者

1974年4月11日 - 1976年5月8日

次王者
エステバン・デ・ヘスス