山田康雄

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やまだ やすお
山田 康雄
プロフィール
本名 同じ
愛称 ヤスベエ
性別 男性
出生地 日本の旗 日本東京市大森区南雪谷
(現:東京都大田区南雪谷)[1]
死没地 日本の旗 日本・東京都大田区東雪谷東京都立荏原病院
生年月日 (1932-09-10) 1932年9月10日
没年月日 (1995-03-19) 1995年3月19日(62歳没)
血液型 A型[1]
職業 俳優声優司会者
事務所 テアトル・エコー(最終所属)[2]
配偶者 あり
著名な家族 山田浩康長男
徳川ミキ
公称サイズ([2]時点)
身長 / 体重 167 cm / 56 kg
俳優活動
活動期間 1953年 - 1995年
ジャンル テレビドラマ映画舞台
声優活動
活動期間 1958年 - 1995年
ジャンル アニメ吹き替えナレーション
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

山田 康雄(やまだ やすお、1932年9月10日 - 1995年3月19日[3])は、日本俳優声優司会者。本名同じ[3]。愛称は「ヤスベエ」。テアトル・エコーに所属していた。早稲田大学第一文学部英文科中退[4]長男演芸作家山田浩康

生涯[編集]

幼少から学生時代[編集]

東京府東京市大森区(現:東京都大田区南雪谷で台風の日に生まれる。役人の家系であり、父親は日本銀行に勤務していたが3歳の頃に死別。幼少時から映画を好み、高校在学時は授業をサボって毎日映画館に通いつめていた。そんなある日、コメディ映画である『虹を掴む男』を見て、主演であるダニー・ケイのコミカルな演技に惹かれ、「人を楽しませるようなコメディを演じられる喜劇役者になりたい」という憧れを抱いた[5]

1945年に東京都立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)に進学。在学中は野球部に所属していた。本人曰く「六大学野球内でレベルが低く、唯一レギュラーを取れそうな大学」として、東京大学を受験するも失敗。ただし、卒業時の成績は71位だったということであり、あながち無謀な挑戦というわけでもなかった[5]

役者としてのキャリア[編集]

早稲田大学第一文学部英文科入学後、学生劇団である自由舞台に入団し、役者としての一歩を踏み出した。1953年に難関とされる劇団民藝の試験に合格[注 1]、大学を中退して研究生として入団する。しかし、自分のやりたいコメディができず、厳しい基礎練習ばかりの毎日に耐えられずに1年で退団、フリーとなる。ちなみに入団中は、稽古に参加することなくサボってばかりいたためサボリーマンという二つ名が付いたという[注 2][6]

フリー転身後はラジオやテレビに出演。1958年、それまで何度か共演していた熊倉一雄に誘われて[注 3]劇団テアトル・エコーに入団[7]、8月に初舞台を踏んだ。

同年には、『ヒッチコック劇場』の「オレゴンの靴」という回で主役である犯人役の吹き替えを依頼され、声優業を始める[注 4]。しかし、短いキャリアで舞台の主役どころをすぐに掴んでいた山田は「口の動きに合わせて日本語を喋れば良いだけだ」「この役で出色の演技をしてマスコミ等に認められれば、前途洋々たる未来がある」等と慢心で収録に臨んだ結果、本番前のリハーサルで5・6回NGを出してしまい、最終的にその役を降板させられる[8][9]。山田はこの時、今までの自分の考えは非常に甘かったと反省[注 5]。その日からは「声優も役者も演技する事に変わりはない」と心機一転し、原点に戻って芝居の稽古を続けた。その約1年後である1959年、海外ドラマ『ローハイド』においてクリント・イーストウッド演じるロディの吹き替えに抜擢され、「クリント・イーストウッドの吹き替えは山田康雄」と世間から認知されるほど有名になる。

1965年結婚、一男一女をもうける[10]

テアトル・エコーでは看板俳優として活躍。特に、1969年に熊倉の演出で上演された井上ひさしによる多数の書き下ろし作品では、『日本人のへそ』の会社員・ヤクザ・助教授の3役、『表裏源内蛙合戦』の表の源内役など主役や準主役を多くつとめた。トレードマークとなった独特の髪型は、井上の『11匹のネコ』初演のためのもので、以後そのままになったという。

洋画ではクリント・イーストウッドの他にジャン=ポール・ベルモンドの吹き替えを担当。また、アニメではルパン三世が代表的なキャラクターで、1971年に抜擢されて以後、亡くなるまで約23年半演じ続け自身のライフワークとなった。また、『お笑いスター誕生!!』の司会者などテレビタレントとしても活躍し、独特なヘアスタイルやひょうきんなトークで、顔もお茶の間のおなじみだった。

死去[編集]

1993年春に低カリウム血症により入院する。この頃から山田は歩行困難になり、何度も入退院を繰り返すほど衰弱していた為、晩年での収録時は椅子に座って行う事が増えた。また、自身の死期を悟っている様な言動をとることがあった(後述)他、便箋に「ハヤイ ハナシガ イショ(早い話が遺書)」と家族へ感謝を述べた文章を綴り、自宅の机にしまったりしていた[10]

1995年2月17日午後3時30分、脳出血で自宅で倒れ、東京都立荏原病院に搬送される。意識不明の入院が続き、医師は「予断を許さない状態」と診断。家族は毎日看病に通い詰めたが、18日夜に引き揚げた後に容体が急変、3月19日午前6時35分死去。満62歳(享年64)没。葬儀・告別式は3月23日に執り行われ、遺骨は多磨霊園に納められた[11]

山田の死を受け、日本テレビは朝のワイド番組の内容を急遽変更し『追悼特別企画 ルパン三世の山田康雄さん逝く』を放送。3月31日には追悼企画として『金曜ロードショー』で『ルパン三世 バイバイ・リバティー・危機一発!』を再放送した[注 6]。テレビ朝日も洋画の吹き替えで馴染みがあることから『日曜洋画劇場 山田康雄追悼企画』として追悼番組を組み、フジテレビを含む各局もワイド番組内にて追悼番組が組まれた。NHKも山田が死去した翌日の3月20日に朝のニュース番組及びバラエティ番組の一部において「人気アニメ『ルパン三世』でお馴染みの俳優の山田康雄さん急逝」と放送した。だが、同日に地下鉄サリン事件が発生したことから、すぐに報道特別番組の編成に変更されたため、その訃報が大きく報じられることはなかった。

人物[編集]

生前に「笑いとばして しゃれのめして 生きたいね。」という言葉を残している。

普段は陽気で明るい性格で、話術が高く人をよく笑わせていたという。その一方でシャイな面や神経質な部分もあった。また、役者稼業には自他共に厳格であった(後述)が、他人に直接干渉することはなく努力を決して人に悟らせることはなかった。後年には追悼本で「水面下では必死で水をかきながら、見かけは優雅に水上をすべる白鳥の美学」だと評されている。

洒落た生き方を追求しており、物事に対しては斜に構える面があった。一方で、人に対する優しさや細やかな心遣いは一流であり、小原乃梨子は「女性の私でも感心することが多い」と語っていた[12]

英語が堪能であり、英語圏に住む友人も多かった。

好きなスポーツは野球ゴルフ。野球では、高校時代に城南地区代表として選手権に出場した他、1953年から鶴田浩二主催のチーム「鶴田ヤンガーズ」で活躍。東京都の軟式大会で優勝し、国体にも出場している。[13]。ゴルフは、1976年頃に戸部信一の勧めで始めたのがきっかけで[14]、晩年まで熱中していた。

趣味はアメリカンラグビーの観戦。相手の「こう来るだろう」と思う裏をかいて騙し、まさかと思った所へボールを入れることが、役者が芝居で観客を錯覚させる感覚と似ているため、面白かったという[15]

特技はジャズピアノナット・キング・コールの「トゥー・ヤング」等の洋楽を弾いていたという[13]。また、若い頃にはアルバイトでバンドのウッドベースやピアノ、トランペットを担当したこともある[16]

榎本健一を尊敬しており、1960年頃には対談が実現している[17]。司会業についてはディーン・マーティンらを参考にしていたという[12]

自由に生きたいため『信念を持たないこと』が自身のモットーで、「そんなにいつまで生きられるかわかんないのにさ。信念なんか持ってて、大上段に振りかぶるなんてのはだいっきらいなんだ」と発言している[15]

将来は「不良老年」になりたいとよく言っていた。老いても父兄のようにならず、いつも男女の危険をはらんだ感じで若い女性と手をつないで歩くのが夢だと語る一方、「結局はあしながおじさんで終わったりしてね」とも語っていた[18]

自己主張の強い性格で歯に衣着せぬ物言いも多く、これについて「オレだってガキじゃないんだ。ファンの人に喜ばれるような優等生的発言ぐらいできるさ。でもそればっかりしていたら息苦しくなって、結局はオレ自身がつぶれちゃうんだ」「世の中って、いろんな考え方の人が集まって成り立ってるんだ。それでいいんだよナ。全員が同じ考え方になったら危険だ。ファッショへの行進がはじまる」という考えから、「オレはヒトサマがどんな考え方をしようが干渉はしない。それが自分の自由を守るための絶対条件だからだ」と述べている[19]。なおこの性格について、小林清志は後に「『お笑いスター誕生!!』で司会を務めて、山田を慕う人物が増えた頃から顕著になった」としている[20]

本人曰く「働くのは嫌い」で、役者を目指したのも「朝寝坊ができると思ったから」という[注 7]。また、「やりたくない物は無理をしてやることはない」という考えを持っていたため、そのような仕事は(生活に困らない限り)基本的に断っていた[15]

仲間内では電話魔としても有名で、深夜に度々電話をしてくるところから「ヤスベエの定期夜行便」などと呼ばれていた。実際に電話をかけられた小林清志は[注 8]、後に「当時はかなり迷惑だったが、ヤスベエが亡くなった今では良い思い出かもね」と語っている。

アニメーションについては「生身の役者に絶対できないギャグや飛躍などができる素晴らしい魅力的な世界」と語る[19]一方、辛辣な評論をすることでも有名だった。特に、少年期にアメリカ軍空襲を経験した世代であることから、1970年代のアニメブーム時に隆盛を誇っていたSFアニメには「正義のためだとか言っているけど、やっていることは要するに戦争」と、強い嫌悪感を示していた。ただし、数少ない山田のレギュラーだったSFアニメ『宇宙の騎士テッカマン』のアンドロー梅田役は、事前に作品の設定を聞き「単なる勧善懲悪ではない」ことに納得して出演している[21]

仕事に対する姿勢[編集]

役者としてのプライドから同業者に厳しい面もあり、自身も常に真摯な姿勢で演技に取り組んでいた。また、仕事に対してきちんと筋を通す性格であったため、収録で理に適わないことがあると激怒して帰ってしまったことが何度かあったというが、この行動について古谷徹は「それは出演者皆の気持ちを代弁したもの」と語っている。

教え子である神谷明は仕事をしてる時の山田を「もう怖かったですよ。何しろ厳しい人で…」と語る一方、「『演技』と『仕事に取り組む姿勢』を特に厳しく教えて頂き、それがその後の自分を支えてくれました」とも語っている[22]増山江威子は山田の姿勢や発言について、良い作品を作るための主張であり我が儘や闇雲に言っていたわけではなく、「怖い人物」と伝わっている部分にも必ず理由があったと語っている[23]

山田は生前「皆さんは『声優』というけど、『声優』という商売はないんです。『声優』というのは、役者がやっているいろんなジャンルの一部分です」と語っており、「『声優業』とは『役者』の仕事の1つである」というスタンスを徹底的に守っていた[15]。山田のもとには「声優になりたい」という人が多くやってきたが、山田は「声優になりたいと思うのならやめなさい。でも、役者になりたいのなら、やってみてもいいかもね」と返答していた。それには「声優業という一部分を目指すだけでは役者として成功しない」という意味がこめられており、山田の役者としての誇りが窺えるエピソードである[24]。また、新人に対する指導の際は「声優を目指すな、役者を目指せ。演技は全身でするものだ。それでこそ『声優業』も活きてくるんだ」という言葉が口癖だったという。こういった考えから山田は『声優』という呼称を好まなかったが、声優業そのものに対しては、「役者としての感性が重要視される仕事」として誇りを持っていた。

自身が『声優』と呼ばれることに対しては「どう言われようが自身の才能や力量が変わるわけではない」ため平気だと述べていたが、「セイユーと言われるとスーパーの店員になったみたい」と皮肉交じりに語ることはあった[18]

声優業で一番難しいのは、絵がなく、声だけで表現するラジオドラマだと発言している。また、アニメに対しては上記の評論以外に、演じる側からしても「(叫びなど)若くて声が出れば誰でもできる」「ある程度はニュアンスとかがなくてもいける」「(叫ぶ、悲しむなど)三つ位の(演技)パターンを持ってればできる」などの理由から、それでは他の役者が育たないこともあり「あまり好きじゃない」と発言している[15]。ただし、上述のような「生身の役者に絶対できないギャグや飛躍」を演じれることは楽しいと語っていた。

アフレコ時に絵が完成していないことについては、「録音した台詞と後からニュアンスや長さの違う絵が完成しても、リテイクの時間的余裕は無くそのまま放送される。その場合、演技で恥をかくのは役者である」という理由から嫌っており、『ルパン三世』では絵が完成していないからとアフレコを中止させたことがある(後述)。また「こんな録音状況が業界でまかり通るようになってしまった責任の一端は、それを許した役者側にもある」とも語っていた[25]

役者は役になり切るのではなく、役を操るもの」という言葉を残している[26]

演技は全て地声で行っており、声を作ることはほとんどしなかった[注 9]。このことに関して山田は「あまり作ると無理が出てくるんです。ニュアンスが消えるようになっちゃう。だからあまり作らない」「同じ人間がやってて(声を)どう変えてもね、絶対に変わるもんじゃないです。もしそれが本当に変わっちゃうんだったら、悪口を言うわけじゃないけど、トーキングマシーンでしょ」と発言している[15]

役を演じている際は、プロとして「演じる自分」「それを冷ややかに見る自分」が存在しており、必ず冷静な部分は持ち合わせていた。また、役者はこの二面性がないと「学芸会になる」と語っている[18]

アドリブが多いことで有名で、役やキャラクターを理解すると「ポコポコと自然に出てくる」ため、本番で直観的に思った事をやってみるスタイルだった(アフレコでは、それを採用するかしないかはディレクターに任せていたという)[15]。ただし、「今お前の言った方が面白いよ。でも俺は何て答えりゃいいの」と言われたこともあり、このことを晩年には「すばらしい仲間に随分迷惑をかけた」と反省している面もあった[27]

自身の演技については、演劇は教育ではなく娯楽であり何かを解らせようという姿勢はないとの考えから、「どうとって下さっても構わない」と語っている[28]

待遇改善活動[編集]

声優のギャランティの向上などを求めてテレビ局にデモを起こしたことがある。昭和40年代、声優は出演作の再放送分のギャラは支払われず、当時は作品1本につき最高で3万円であったのに対し、山田の仕事仲間の代役を務めた俳優・宇津井健のギャラは45万円だった。このため、山田はこれらを「声優全体の問題」と考え、この問題を解決するべく奮闘したという。結果、山田らの善戦の甲斐あって再放送のギャラが認められるようになった[29][30]

このことについて、後で知った神谷明は「照れ屋だから絶対に(奮闘する部分を)見せない」と語り、「自分たち後輩を(影で)守ろうとしてくれていた」と述べている[22]

交友関係[編集]

お笑いスター誕生!!』で司会を担当する等、お笑い界と縁は深かった。このことを山田は「役者として感覚が現代的でなくなることは一番恐ろしい。そのため自然とそういう分野の人と交友関係を求めていると思う」と述べている[31]

ザ・ドリフターズにコントの演技指導をしたこと[注 10]が縁でいかりや長介と交流を持つようになり、『8時だョ!全員集合』に出演(前半コントにおける敵役等)したほか、プライベートでもいかりやと杯を交わすなどの交流を行っていた[32]

『お笑いスター誕生!!』の司会者を長年務めたこともあり、当該番組に出場経験のあるダウンタウンウッチャンナンチャンが出演する『夢で逢えたら』や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』などのバラエティー番組に、ゲストとして登場したこともあった。

ルパン三世役の後任である栗田貫一は、ルパンのものまねをしていたことから山田と親交があり、還暦祝いのゴルフコンペに誘ったり、『ものまね王座決定戦』ではご本人として栗田と共演したこともある[33]

声質[編集]

声種ハイバリトン[26]

長男で演芸作家の浩康の声が山田とそっくりだといい、山田の没後に一緒に飲んでいた栗田は「コツとか教えるからルパンやってよ」とルパン役の後継を依頼するも、「嫌だよ」と固辞されたと語っている。

劇団の後輩にあたる多田野曜平は、声の雰囲気が山田と似ている事から、海外映画の吹き替え版で山田が担当した役柄の追加収録部分を担当する機会が多い。

吹き替え[編集]

ローハイド』以降のクリント・イーストウッドの吹き替えは山田が存命時にほとんどの作品を担当しており[注 11]、死後においても「クリント・イーストウッドといえば山田康雄」といわれている[34][35]。だが、山田本人は生前「『ローハイド』の頃のイーストウッドはナイーヴな青年といった感じだったけど、その後彼はどんどん男臭い俳優になったので、軽い僕には合わない」と自分にイーストウッドの吹き替えは合わないことを度々語っていた。ただし、『ルーキー』の吹き替え収録時、スタジオに来て台本を開くと即座に「これはイーストウッドの台詞じゃない!」と貶したというエピソードがある[36]など、誰よりもイーストウッドを理解していたと思われる。また、山田とイーストウッドは『ローハイド』のキャストが来日した1962年に一度だけ対面している。

ジャン=ポール・ベルモンドの吹き替えも数多く担当している。山田は、自身の吹き替えた俳優の中で一番好きなのがベルモンドだとよく言っており、「映画スターにしては芝居がうまいし、彼のやる役柄って、しっくりくるんです。やってて、楽しくってしかたがない」「アテレコをやっていてすごく刺激を受けた人」と語っている[37]。また、山田の代表作であるルパン三世はベルモンドをモデルにしており[38]、これについて「ベルモントとルパンは大体同じ調子でやっている」「ルパンを実写化するなら、出来るのはベルモンドだけだと思う」とも語っていた。

何度か吹き替えを担当したジェラール・フィリップについては、ベルモンドと共に個人的に好きな役者の一人としている[9]

ルパン三世[編集]

世間一般には「ルパン三世の山田康雄」として知られていた。また、山田は風貌や振る舞いまでルパンに似ており、常にキャラクターと一心同体のイメージでお茶の間に知られていた例の一つである。

出会い[編集]

山田とルパンの出会いのきっかけは、舞台『日本人のへそ』での役作りに悪戦苦闘していた山田に、熊倉一雄が「参考になるから」と『漫画アクション』から切り抜いた『ルパン三世』の原作を渡した事だった。当初「漫画でアドバイスはないだろう」と思いつつも、読み始めるとたちまち夢中になり、それ以降は毎週『漫画アクション』を買っては作中のルパンの「エッセンス」を自らの役にも盛り込んでいったという。

舞台本番、山田の演技がルパンの声優を探していたおおすみ正秋の目に留まり、舞台終了後におおすみは山田に「ルパン、やる?」と聞いたところ「やる!」と即答で承諾したという。

山田はこの一連の出来事を後に「宿命的な出逢い」と表現している[27]

エピソード[編集]

自分の名刺にルパンの顔を入れるなど[39]、ルパンには非常に強い愛着を持っていた。また、ルパンに「出会えて幸せ」だとインタビューでよく語っていた。

山田はルパンに対して、生きる姿勢や考え方が自身とよく似ていると言っており、「自由奔放で信念を持ってないこと」「義賊でないこと」「盗めそうもないものがあると、それが価値のないものであっても全知全能を傾けて盗むような、無目的の目的」が特に気に入っていると発言している[40]

銭形警部については、ルパンは銭形がいて初めて成立するキャラクターとしており「超一流の泥棒と超一流の警部が追いつ追われつつするうちに、相手の才能を認めあった上で芽生えた奇妙な友情、これなくしてルパン三世は成立しないのです」と語っている[27]。銭形役の納谷悟朗は山田の死後、このことを「すごく嬉しかったよ」と回想している[41]

ルパン三世 (TV第2シリーズ)』で渡された台本の中に「不二子ちゃん」「ルパン三世」の台詞があり、山田はそれを「ふ〜じこちゃ〜ん」「ルパ〜ンさ〜んせ〜」と独特の抑揚で表現。以後、これらはルパンの代名詞的な台詞となる。他にも「アララララ…」など独特の節回しやアドリブを多用するようになり、ルパンのキャラクターに山田の個性が強く反映されていった。なお、山田個人としては『TV第1シリーズ』の方が好みで、ややコメディタッチ[注 12]になった『TV第2シリーズ』には多少不満があったらしい。

一度だけルパンを演じたことがある古川登志夫は、自分ならではのルパンを演じようとしたにも関わらず収録時にうっかり山田の真似をしてしまったといい、「絵を見た途端に、他人にも無意識の内に真似をさせてしまうのは、役者として人間国宝級の凄さ」と語っている[42]

ルパンと山田のイメージが不可分になってしまったため、舞台でもコソ泥の役ばかりが回ってくるようになったこともあった。また、同一視されてしまうためルパンに対して「ありがたさ50%、迷惑さ70%」と答えたこともある[43]。テレビなどで同一視されている趣旨の発言を受けた際は「じゃあ俺はマンガかあ!?」と返すのが定番だったという[12]

ルパンの役作りについては「感性の問題」と語り、原作から感じていたものと、映像を見て第一印象でひらめいたもののみ大事にして演じていた。また、ルパンは国籍や年齢が不詳という設定上、基本的に「何者か」などは深く考えずに演じていたと述べている。ただし「ルパンだけは『ふざけた人も危機になると真面目になる』ということはやめよう。追いつめられてヤバイときこそオチャラケていよう」という基本線は最初から決めていたという[44]

原作者のモンキー・パンチは山田のルパンについて、山田の没後に「"ルパン三世"は確かに私の描いたコミックだが、これは、あくまでも印刷された本の世界だけであって、まだ完成されたものではない。その点、アニメ化された"ルパン三世"を作品として完成させてくれたのは山田康雄さんだ。いきいきとした生命を入れてくれた。個性的な性格、動き、おしゃべり、そして強烈な存在感は、山田さんなしでは生まれ得なかったキャラクターだ」と評している[45]。また、自身が描くルパンの絵もアニメ化後は山田の強烈な声に影響されたという[46]。しかし、モンキーはOVA第一弾『ルパン三世 風魔一族の陰謀』公開後にレギュラー声優陣を一新した件で山田との関係がギクシャクしてしまったといい、山田の訃報の電話を受けたモンキーは、本作での誤解を解けないまま亡くなったことに声をあげて泣いたと語っている(詳細は「ルパン三世 風魔一族の陰謀」を参照)。

スタッフとはプライベートでの交流も多く、特に大野雄二とは大野の自宅スタジオに招かれて酒を飲み交わすほどの仲だった(山田のアルバムはすべて大野がプロデュースと音楽を担当している)[47]。また、自身の戦争体験から、ルパンにはあまり直接的な人殺しをさせないようスタッフに頼んでいたという[43][44]

山田は収録でスタジオに入るといつもやる気のないようなことを言っていたが、納谷悟朗によると、それはシャイな部分の裏返しや山田なりのシャレであり、いざ収録が始まると全くミスがなかったという[48]。ルパンの収録現場での山田について、増山江威子は「役に没頭していていつもピリピリしていました。人並外れたすごい集中力で、ルパンに対して自分の全てを注ぎこんでいたのじゃないかしら」と語り、その山田の姿勢からいつも緊張感のある現場だったという。だが「だからこそいつもルパンの完成度は高かった」と評しており[49]井上真樹夫も「人に緊張を強いるところがあった」と述べた上で「みんなピリッとする。それが(『ルパン』が)良い作品になった理由の1つだと思うよ」と話している[50]。その一方で音響監督の加藤敏によると、ゲスト出演者にはいつも気を配っていたという[19]

脚本について、起承転結がはっきりして理屈詰めになることは「ルパンにならない」と嫌い、見た後の視聴者に想像の余地を残すような「なげっぱなし」の展開を気に入っていた[28]

ルパンのアフレコ時、絵が完成していないからとアフレコを中止させたことがある。「画が揃っていないんじゃ、あてるものがないのでやれないよ」と平気でスタジオを後にしたという。納谷悟朗によると、ただ「やめよう」と言うだけではなく、「ダメだ、出来ないよこんなの。ねぇ悟朗さん、出来ないよね?」と必ず納谷に話を振ってきたため、納谷は「うーん、まあなぁ。これなぁ」と同調せざるを得なかったという[注 13]。納谷によると実際に中止になったのは2回[41]、その内の1回に居合わせた松井菜桜子によると、その時動いていなかった絵はワンカットだけだったという[51]神谷明が後年、直に聞いたところによれば、「俺たちは別に絵がなくたってアテることはできるけど、ゲストで来てくれた役者に対してそれは失礼だろう」というのが真意だったそうである。

「ルパンの魅力は義賊ではないところ」が山田のルパン像だったが、最も義賊意識が強いとされる『ルパン三世 カリオストロの城』はいたく気に入っていた。アフレコの際、宮崎駿から「今回はこれまでと調子を変えて、例えばクリント・イーストウッドのような抑えた声をお願いしたいので宜しく」と注文を受けるが、「ルパンは自分で持っている」という自負心のあった山田は「ルパンはオレに任しときな!今更ごちゃごちゃ言われたくねーよ。ルパンは俺が決めてるンだ」と横柄な態度を見せた[注 14]。しかし、音が入る前の状態の試写を見終わった山田はそのクオリティの高さに感動して「先程は大変失礼なことを言いまして申し訳ございません。どんな無理な注文でも仰って下さい、何百回でもやり直します」と宮崎に頭を下げたという[52]。同時期に放送されていた『TV第2シリーズ』に不満のあった山田は『カリオストロの城』の作画やコミカルなだけではないルパン像に感動したらしく、「こういうのを映画の真髄というんだ」と後に語っている。TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際にも、おおすみから宮崎と同様の指示をされ、「宮崎さんにも同じことを言われたよ」と嬉しそうに回想したという。

お笑いスター誕生!!』に挑戦者として出場していたカージナルスギャグに、ガダルカナル・タカつまみ枝豆に向かって「俺は大泥棒の知り合いがいる。それはルパン三世だ!」と言って山田に同意を求めるものがあった。山田は自分を指差し「俺がギャグなのか!?」という顔をしたため、場内は爆笑に包まれた。

金曜ロードショー」に2度のゲスト出演をしている。最初は『ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』放送前に原作者のモンキー・パンチと共にスタジオに登場。この時、水野晴郎からルパンを演じることについて聞かれた際、「自分はいい加減に演じていて、力を入れて演じていない」「(ルパンは)他人のような気がしない」「イーストウッドとは(演じ方が)全然違う」と答えている。2度目は『ルパン三世 ロシアより愛をこめて』放送時で、本編の前の収録現場公開にて登場。ここでは、水野から今作品の見どころについて質問されると、「頭(本編開始)からエンディングテーマまで」と答えている。またこの時、山田はTVスペシャルを「七夕みたいなもの[注 15]」と話している。

ルパン三世は今後も続編が作り続けられると考えていた山田は『ルパン三世 PARTIII』の最終回のアフレコの際、本編収録後にお別れのメッセージの収録を依頼されたところ「『これでお別れだ』なんて言っておいて、どうせまた新しいのをやるんだろ? そんな嘘はつきたくない」とメッセージの収録を拒否してスタジオを後にしたこともあるという[注 16][50]

1989年にはルパンについて「口幅ったい言い方をすると、原作を離れて山田康雄のルパンというのが出来あがっちゃっているんだよね。あまりにボクのキャラクターといっしょになっちゃったものだから(中略)もとはモンキー・パンチさんが作ったものなんだけど、ルパンを動かし生かしたのはまさにオレたちなんだから」と語り、今後もルパンを演じることについては「オレがもうだめだ、できないってわかった場合は、『ルパン三世』の新作をつくるってことはやめて欲しいね、テレビ局であれ、映画会社であれ。これは悪いけど、共に老いさらばえて墓の中にもって行かしてもらいたいね」という言葉を残している[44]

晩年[編集]

おおすみ正秋によると、晩年の山田は明らかに衰弱している様子だったため、椅子に座って収録することを提案したが、山田は「アフレコは立ってやるもんだと思ってるし、それでもし倒れたら俺はそれで本望だ」と拒否したという[22]。 しかし1993年、TVスペシャル第五弾『ルパン三世 ルパン暗殺指令』のアフレコの際、山田は休憩時間にとても疲れた様子で自ら申し出たため、途中からは椅子に座って収録。それまでは役者としてのプライドから座ってのアフレコなど無かったため極めて異例なことであった[53]。また、アフレコ終了の帰り際におおすみが「身体を治して元気になり、俺が書く芝居に出て欲しい」と呼びかけ普段であれば喜んで引き受けるはずが、その日に限り寂しそうな表情で首を縦に振らずに帰ったという。

同じ頃、ルパンのCDであり自身のアルバムCDでもある「ルパン三世・Tokyo Transit〜featuring YASUO YAMADA」制作後、大野雄二に「次のアルバム早く作ろうよ。でないと俺死んじゃうよ」とたびたび電話をかけていたという。当時、多忙だった大野は「また冗談言ってるよ」と気にしていなかったが、山田の死後は次のアルバムを作ってやれなかった事を今でも悔やまれることとして述べており、「山田さんがいなければルパンじゃない」と山田の死の翌年である1996年にはルパンの音楽担当を一時降板している(1997年からは復帰)。山田の死後に関係者の間では、この時期にはすでに自らの寿命を悟っていたのではと語られていたようである。

1994年、事実上の遺作となったTVスペシャル第六弾『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』も体調不良を押しての出演となり、椅子に座る形で収録を行った[54]。この時、山田はいつも簡単に跨ぐスタジオ扉の約20センチの段差を跨げなかったため、「かなり肉体的に参っているのでは」と感じるスタッフもいたという[55]

1995年1月、製作が決定していた映画『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』予告編の収録を行う[注 17]。既に体調を崩していた山田は車椅子に乗って現場に現れたといい、同作以降長年ルパン作品のプロデュースを務めた中谷敏夫は、この収録が最初で最後の山田との対面だったという[56]。また、同時期にはルパンがイメージキャラクターとなったエッソ石油のTVCMを収録。これが山田にとって最後にルパンを演じた作品となり、実質上の遺作となった[注 18][57]

その後、山田が昏睡状態に陥った際、知らせを受けたモンキー・パンチやレギュラー声優陣は「これでアニメのルパンは終わりだ」と考えていたが、上述の通り『くたばれ!ノストラダムス』が製作中でアフレコ直前の段階まで完成していたことから、栗田貫一が代役としてルパンを担当、山田の死去を受け栗田が正式に2代目声優としてルパン役を引き継ぐことになった。

葬儀の席では、モンキー・パンチが山田の死後も前述の『風魔一族の陰謀』の一件に対し、山田に十分な説明ができなかったことを後悔し、深く悲しんでいた。弔辞を担当した納谷悟朗は山田の遺影に向かい、銭形の口調で「おい、ルパン。これから俺は誰を追い続ければいいんだ!?」、「お前が死んだら俺は誰を追いかけりゃいいんだ」と涙ながらに呼びかけた。

『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』では、スタッフロールが流れたあとに、哀悼の意を込めて「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」という追悼テロップが付け加えられている。

後任[編集]

山田の没後、生前に担当していた持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

後任・代役 キャラクター名 概要作品 後任・代役の初担当作品
栗田貫一 ルパン三世 ルパン三世シリーズ ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス
出演者紹介ナレーション お笑いスター誕生!! 24時間テレビ内の復活版
野沢那智 アンドロー梅田 宇宙の騎士テッカマン タツノコファイト
クリント・イーストウッドの吹き替え 日曜洋画劇場
金曜ロードショー
ザ・シークレット・サービス
(『日曜洋画劇場』)
トゥルー・クライム
(『金曜ロードショー』)
安原義人 バーナード ビアンカの大冒険シリーズ ビアンカの大冒険[注 19]
グレアム・チャップマン モンティ・パイソン モンティ・パイソンのHoly Grail(PCゲーム)
秋元羊介 ボビー スパイ大作戦 シーズン3の追加録音分
多田野曜平 ワイアット(キャプテン・アメリカ) イージー・ライダー BD版追加録音分
名無しの男 荒野の用心棒(テレビ朝日版)
夕陽のガンマン(NETテレビ版) 完声版追加録音分
続・夕陽のガンマン
ハリー・キャラハン ダーティハリー WOWOW吹替補完版追加録音分
ダーティハリー2(テレビ朝日版)
ダーティハリー3
ダーティハリー4
コーネリアス 新・猿の惑星
ベン・ショックリー ガントレット

また山田が専属で担当していたイーストウッドの吹き替えは野沢、多田野以外にも小林清志瑳川哲朗等が複数の作品で担当した。

出演[編集]

太字は主役・メインキャラクター。

テレビドラマ[編集]

NHK
日本テレビ
TBS
フジテレビ
テレビ朝日(NET)
朝日放送
テレビ東京

テレビ番組[編集]

NHK
日本テレビ系
フジテレビ系
テレビ朝日系
TBS
テレビ東京

映画[編集]

テレビアニメ[編集]

1964年
1965年
1967年
1968年
1969年
1970年
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1980年
1983年
1984年
1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年

劇場アニメ[編集]

吹き替え[編集]

俳優[編集]

クリント・イーストウッド
ジャン=ポール・ベルモンド
ピーター・フォンダ
ブルース・ダーン
グレアム・チャップマン
ロディ・マクドウォール
ジェラール・フィリップ

洋画[編集]

邦画[編集]

テレビドラマ[編集]

アニメ[編集]

人形劇[編集]

ゲーム[編集]

特撮[編集]

CM[編集]

太字はルパン三世が登場するCMで同キャラクターの声を担当したもの

  • その他館内CM各種。

楽曲・アルバム[編集]

レコード[編集]

ラジオ[編集]

舞台[編集]

  • 男の中の男(1958年8月上演、初の舞台出演作)
  • リリオム(1958年)
  • どん底(1958年)
  • 新ハムレット(1960年)
  • ミラノを見て死ね(1960年)
  • リリオム(1960年)
  • 真夏の夜の夢(1961年)
  • 平家物語(1962年)
  • 四人の隊長の恋(1964年)
  • 青年が皆死ぬ時(1965年)
  • オレンジ色の罪状(1966年)
  • 海賊(1966年)
  • カチカチ山(1967年)
  • 赤ちゃん今晩は(1968年)
  • 日本人のへそ(1969年)
  • 表裏源内蛙合戦(1970年)
  • 11ぴきのねこ(1971年)
  • 道元の冒険(1971年)
  • マリリンモンロー(1972年)
  • 珍約聖書(1973年)
  • それからのブンとフン(1975年)
  • 法界坊悪行極楽(1976年)
  • みにくいあひるのこ(1976年)
  • ノーセックス・プリーズ(1977年)
  • ホームドラマ(1978年4月上演、最後の舞台出演作)
  • 二番街の囚人(1980年、声の出演)
  • サンシャイン・ボーイズ(1984年、声の出演)※2002年の再演時にもこの時の声が使用されライブラリ出演。

追悼本[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 審査員には宇野重吉らがいたという。
  2. ^ ただし、野球の試合だけはきっちり出ていたという。
  3. ^ 山田本人曰く「さらわれた」とのこと。また「熊ちゃんは人さらいだった」とも語っている。
  4. ^ この仕事を持ってきたのも熊倉であり、「ヤスベエは容姿も良く口も達者だったのでピッタリの仕事だった」ため依頼したとのことである。
  5. ^ 監督からは「君の芝居は吹き替えに合わない」と酷評され、役者人生で唯一、悔し涙を流したと後に述べている。
  6. ^ 再放送自体は、山田が亡くなる前から予定されていた。
  7. ^ ただし、実際にはできなかったため、後に「おどろきましたね、これには」と発言している。
  8. ^ 一緒に飲んでいた知人に「次元大介と話をさせてやる」と言って小林の家にかけてきたという。
  9. ^ ただし、場合によってトーンの高低を変えるという事はあった。
  10. ^ 山田の追悼本において小林清志が、ルパン三世のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。
  11. ^ 存命時に担当しなかったのは『センチメンタル・アドベンチャー』のみである。
  12. ^ 後に山田は、原作文庫本「ルパン三世」第1巻のあとがきで、「ガキ志向が強まったことは不満だった」と述べている。視聴率を重視したテレビ局の意向で、作品が子供向けになり過ぎたことへの不満を表したものであった。
  13. ^ 納谷はこのことを後に「ヤスベエは(アフレコは出来ないって)俺の口から言わせる。そこがずるい。その代わり、俺のことをすごく立ててくれた」と振り返っている。
  14. ^ 宮崎は山田の横柄な態度に苦虫を噛み潰し、大塚康生は「ヤスベエは生意気だから降ろそう」と助言をしている。
  15. ^ TVスペシャルは第2作から20作目まで毎年夏に放送されていた。
  16. ^ その後、山田の発言通り本作終了の2年後にはOVAの『風魔一族の陰謀』、4年後にはテレビスペシャルが制作されており、山田はテレビスペシャルから逝去するまで再びルパン役を演じた。
  17. ^ 前年7月頃に予告編を、翌年明けてすぐに予定していた劇場スポット2編を全て担当していたが、3月の死去後劇場にて放映していた予告編は栗田が山田の部分を再録する形で放映されている。テレビ用CMに関しては山田が収録した物をそのまま放送している。
  18. ^ 収録は2本(共に15秒版と30秒版の2パターン)行われ、「ルパン三世&峰不二子編」は2月10日から、「ルパン三世&銭形警部編」は山田の没後である4月26日からオンエアされた。一部は後に発売されたOVA『ルパン三世 Master File』に収録されている。
  19. ^ 小原乃梨子・山田康雄による新録版ビアンカの大冒険シリーズは続編『ビアンカの大冒険 ゴールデン・イーグルを救え!』の方が先に作られていた。
  20. ^ この作品だけは存命中に制作された作品のためルパン役としては唯一の出演作となる。

出典[編集]

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  7. ^ かきあげこ 1995, p. 60-61.
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参考文献[編集]

外部リンク[編集]