内海好江

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桂子・好江(1955年。左が内海好江)

内海 好江(うつみ よしえ 、本名;奥田 好江1936年2月23日 - 1997年10月6日)は、東京市浅草区(現・台東区)出身の漫才師である。マセキ芸能社に所属していた。

来歴・人物[編集]

両親は夫婦漫才師の荒川小芳・林家染寿。1945年にデビュー。女剣劇や父娘漫才を経て、1950年の14歳の時に内海桂子とコンビ結成。

三味線教室へ通い毎日10時間以上の猛練習を行い、猛スピードで成長。1958年、4度目の挑戦で『NHK新人漫才コンクール』で優勝。その前年は、準優勝だったことを桂子から「好江のせいだ」と当たられ自殺未遂を起こしたことがある。1961年には『文部省芸術祭奨励賞』を受賞し、1982年には『芸術選奨文部大臣賞』を受賞した。[1]

長くコンビを組むうちに桂子との間に軋轢が生まれ、デビュー以来ギャラ配分が4:6だったことがきっかけで解散騒ぎに発展。事務所などが間に入り解散は免れたものの、このことがきっかけで1人で仕事をしたいと思い至り、単独での番組出演をするようになる。その後、長期間にわたってコンビ仲が悪く舞台以外は口も聞かない状態が続いたが、桂子が新聞社から依頼の原稿で「好江の成長を応援しよう」と思うようになり好江を認めた[1]。また、好江も桂子に対して「意地を張ったり反発したことはあったが、素直に心からの礼を言ったことがあっただろうか」と考え、芸術選奨文部大臣賞の受賞パーティーで桂子に対して初めて心からの礼を述べた[2][1]。以降、漫才の仕事や付き合い、ギャラ配分などが全て好江に任せられるようになり、桂子は漫才協団理事長就任で表に出ないようになった[1]

横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)で講師、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)では審査員を務めたのが縁で、同校出身で同番組にも出演したウッチャンナンチャンを自身が所属していたマセキ芸能社へ招いて芸能界入りのきっかけを作ったため、ウッチャンナンチャンは師匠と仰いでいる。

また、1990年代は『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)へ準レギュラーとして出演し、「ちょっと聞いてよ!おもいッきり生電話」のコーナーで江戸っ子ならではの歯に衣着せぬコメントをしていたことでも知られる。その後も桂子とコンビで活動していたが、1997年10月6日、胃癌のため死去。満61歳没。桂子が見舞いに来た際に、「あと2年で結成50年なんだからしっかりしなさいよ」と声を掛けたのが最後の会話となった。好江宅に弟子のウッチャンナンチャンが弔問に訪れ、桂子は大泣きした。棺の好江に向けて「漫才やるよ」と声を掛け、漫才「名鳥銘木」を披露した[1]。墓所は世田谷区幸龍寺。

エピソード[編集]

  • 師匠は相方でもある内海桂子で、三味線や踊り、着物の着付けなど、あらゆる事を教わったと本人は語っている。物心が付いた頃から芸能界で活動し苦労したため、芸事に人一倍愛着を感じていた一方、礼儀や挨拶などには非常に厳しかったといわれている。
  • 江戸っ子の血を引いていたため、非情とも取られかねないほどの毒舌家で、バラエティ番組では共演者に対して容赦ない辛口コメントを度々飛ばした。
  • 私生活では造園業を営む男性と結婚していたが1995年に死別、好江・夫の間には子供はなかった。

主な出演[編集]

テレビ[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

著書[編集]

弟子[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『中居正広の金曜日のスマたちへ 【スペシャル】 』(2015年7月10日放送)の番組概要ページ - gooテレビ番組 2015年7月31日閲覧
  2. ^ 『幸福づきあいいい話』 ISBN 978-4-569-57155-3

関連項目[編集]