神戸国際ギャング

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神戸国際ギャング
監督 田中登
脚本 松本功
山本英明
製作 俊藤浩滋
三村敬三
橋本慶一
出演者 高倉健
菅原文太
音楽 青山八郎
撮影 赤塚滋
編集 市田勇
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1975年10月14日
上映時間 98分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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神戸国際ギャング』(こうべこくさいギャング)は、1975年10月14日に公開された日本映画

ヤクザ菅谷政雄の経歴をモチーフにした「実録もの」の一作[1][注 1]高倉健にとって東映専属俳優として最後の出演作品であり、高倉と菅原文太が共演した最後の映画作品でもある。


ストーリー[編集]

1947年昭和22年)の神戸三宮界隈。団、大滝ら若者たちは愚連隊を組み、生き抜くために進駐軍から盗んだ物資の横流しで生計を立てていた。三宮では、焼け跡の闇市ショバ代をめぐり、華僑系ギャング「九龍同盟」と在日韓国・朝鮮人系ギャング「三国人連盟」が激しく対立していた。九龍同盟と取引があった関係で用心棒となっていた団たちは、三国人連盟と対立状態となる。

抗争の激化のすえ、連盟のボス・朴を倒すことを決意した団たちは、鈴蘭台の朴の別荘に乗り込み、朴を射殺。その際に大滝が、たまたま配達のために居合わせた酒屋の男まで射殺してしまう。この事件をきっかけに、グループは団・テル・中尾・ノウガキ・ポチ・マキ・五郎の派閥と大滝・タモツ・勝らの派閥に分裂する。

ある日、団は朴殺害の容疑で逮捕された。団は罪をひとりで引き受けて加古川刑務所に服役するが、彼を追って服役してきたポチの報告で、大滝が自分を警察に売ったことを知って復讐を決意し、ともに脱獄する。それはポチの義憤による方便で、実際にはタモツの独断であった。事情を知った大滝は驚くが、意地から団グループとの抗争を受け入れた。

団らは、進駐軍のMPの一部による、日本の富裕層から接収した宝石の横流し計画に大滝グループが一枚噛んでいることをつかみ、アジトを急襲する。双方が撃ち合う中、ギャングの一網打尽を狙った進駐軍と警察がアジトを包囲し、一斉射撃を加える。三つ巴の撃ち合いの果てにたったひとり生き残ったマキは、宝石箱に手榴弾を山のように積み、そのうちの1個のピンを引き抜いた。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

企画[編集]

主人公・団のモデルとなった菅谷政雄は、東映のプロデューサー・俊藤浩滋の幼なじみであった[1][2]。本作は「実録路線」がファンに飽きられてきたため[3]、東映がそれに代わる企画を模索中に製作された1本である[3]。『読売新聞夕刊1975年9月26日付けの記事で、俊藤は「型破りな"仁きょう映画"をめざす」「全く新しいパターンの作品を狙った」などと話しており[4]、製作時の文献に本作を「実録映画」と紹介した記事は見つからない。最初の企画書に書かれたタイトルは『ギャング』だった[5]。東映も本作は「実録映画」ではなく「ギャング映画」と告知した[3][6][7]岡田茂東映社長は1975年8月27日にあった東映1975年下半期のアウトライン発表で、正式に本作の製作発表を行い、「落ちるとこまで落ちたが、あとは浮上あるのみ。私が陣頭指揮を執る」と話し[8][9]、この年の春から指示していたヤング路線を止め[8]、再び暴力路線を復活させると宣言した[8]。「実録」を銘打たれたものの、脚本家・松本功によれば「後半はほとんどウソっぱちの話になってしまった[1]」。

製作費2億5000万円[10]。宣伝費を除く純製作費約4億円[11]

監督選定[編集]

俊藤浩滋プロデューサーは、岡田茂東映社長が推進する「実録路線」と衝突し[2][4][5][12][13][14]、手掛けた映画も不振続きで[4][5]1974年の正月映画『ゴルゴ13』以降干されて[5][14]、東映参与からこの年2月に岡田に一介の契約プロデューサーに降格させられ第一線を退いていた[4][5][12][13]。俊藤が陣頭指揮を執るのは2年ぶりのこと[3]。俊藤としては背水の陣で取り組む大作で[5][14]、再起を賭けたものとなり[4][12][13]、「新しいアクション映画にしたい」と、田中登の招聘を岡田に訴えた[4]。俊藤としても子飼いの監督を差し置き、外部から監督を招聘するのは大きな冒険で[4]、『㊙色情めす市場』『実録阿部定』など、日活ロマンポルノの田中作品を「すごい切れ味」と惚れ込んでの招聘だった[2][4][10][15]。岡田もこれに賛同した[4]。岡田は東映東京撮影所の所長時代に、鶴田浩二と高倉健を押し立てて「ギャング路線」を敷いたことがあり[16][17]、ギャング映画が好きだったとされ[18]、その後も時折、ギャング映画を作っていた[17][19]。田中監督は「指名されて嬉しい。命懸けで撮ります」と決意を述べた[10]。田中にとって、他社作品かつ一般映画として最初の作品である。東映から誘われたことを日活撮影所所長・吉川斌に伝えると「君をしばらくホスが、あちらで頑張ってくれ」と言った[11]日活ロマンポルノは700万円ぐらいの予算[11]。田中は2000万円以上の製作費の映画を撮ったことはなく[10]、本作はそれらより10倍以上の製作費を投じる大作となる[10]。日活はロマンポルノ体制に移行して以降も、月給の遅配が続き、田中も助監督時代の月給7万5000円を監督昇格後も据え置かれていた[11]。田中は現場の昼休みに配られる豪華なロケ弁に目を見張り、ひそかに東京の自宅に送った[11]。また俊藤や高倉、菅原も現場でファンに貰うプレゼントを田中に渡した[11]

キャスティング&撮影[編集]

俊藤としても捲土重来を期す作品で[4][5][14][20]ヒロインを新人選考会で選ぼうとしたが[21]、期待した女性が集まらず[21]、何とか女優引退した娘・藤純子を担ぎ出そうとし[4][14][20][21][22]、藤の女優としてカムバックなるかが注目された[4][5][20][22][23][24]。藤は人を介して脚本も渡され、何も自分からは言って来ない父の置かれた状況も分かるだけに悩んだが[5][14]、結局、梨園の妻が"女ギャング"ではマズいと判断し[14]、「8月は歌舞伎が夏休みで菊五郎が家にいるため、とても無理」等と断った[10][22][20]。藤の代役は真木洋子になり[4][5][22]、真木のキャスティングの決定はクランクイン3日前だった[22]。真木は「1972年NHK朝のテレビ小説藍より青く』でお茶の間のアイドルになった」と一生言われ続けた人だが[10][25][26]、「東映のヤクザ映画に出たくて出たくて」という希望が叶い東映初出演[10]。真木は菅原の大ファンで、菅原も真木のファン。『実録飛車角 狼どもの仁義』の相手役を真っ先にオファーしたほどで、スケジュールが合わず、ようやく両思いでの共演となった[10]。しかし濡れ場は文太が真木をレイプする設定で、スタッフを固唾を呑む凄絶な撮影となった[10]。本作の濡れ場はほぼ全部レイプ。

主人公と行動をともにする若者を演じたガッツ石松は、当時現役のプロボクサーで、公開時は世界ボクシング評議会(WBC)ライト級チャンピオンの座にあった。ガッツの現役時の映画出演作は本作が3作目。ガッツは「健さんのためなら死んでもいい」という程の高倉健の大ファンで、高倉との初顔合わせでは、汗ダラダラで一言も喋れずだった[10]

泉ピン子は、この年『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ)の番組リポーターでの熱艶が買われ[27]、東映からオファーを受け、本作出演を切っ掛けに女優業に進出した[27]菅原文太との濡れ場の撮影は、1975年9月3日東映京都撮影所(以下、東映京都)[27]。対する菅原も『トラック野郎・御意見無用』を大当たりさせた直後で、テレビと映画で、当代人気随一、乗りに乗っているスターの共艶となった[27]。二人の濡れ場の撮影は台本なしで、「真珠なんぼほど入れたんや?」「四つや」などの二人の掛け合いはその場でのアドリブ[27]。しかし泉ピン子は、服を着たまま、胸も露出せず、88cmとされる[27]ボインの披露はなかった[27]。泉ピン子は、高倉健の大ファンだった[10]

語り草になったのが本作での高倉健の濡れ場[15][28][29][30]。高倉はキャリアの中でも数少ない濡れ場を本作で演じている[1]。任侠路線で男の中の男をかっこ良く演じてきたことと、生来のテレ性ということもあって、これまでの濡れ場は素っ気ないものしかなかった[15]。その経緯は、この年2~3月に撮影された『大脱獄』の北海道でのロケ中に『キネマ旬報』の取材で、高田純からインタビューを受け、それが1975年5月上旬号に掲載され[15][31]、インタビュアー内で、高倉は「『ラストタンゴ・イン・パリ』みたいなホンなら喜んで裸になります。ファックシーンもバカバカやりますよ」と答えた[29][31]。これを伝え聞いた田中登監督が「ぜひ、やってくれませんか」と高倉に頼み[15]絵沢萠子とファックシーンを演じた[15][30]。撮影になると高倉はモジモジで、田中監督と絵沢のリードで正常位からワンワン・スタイルの二通りの体位をこなしたが、テレが止まらず、雑誌を読みながらの艶技となった[15]松島利行の著書『日活ロマンポルノ全史―名作・名優・名監督たち』によれば、俊藤が菅原を重用するようになり、高倉が嫉妬し、貧相で生真面目で文学的で内向的で、色々言うが、ほとんど理解不能の言葉で様々な注文をつける田中監督に冒頭からいきなり無理やり裸(になってはいないが)のベッドシーンまでやらされ、「ドラマの流れから必然性がない」と考えていたが、俊藤からも頼まれたため、やるにはやったが、俊藤から「撮るだけで編集段階でカットする」という約束を取り付けたのに、カットされず、劇場で流されたため、俊藤との軋轢が決定的になった、と書かれている[11]。高倉の付き人ボディーガード的役割を務めていた西村泰治も大体同じ証言をしている[32]

余所者に厳しいことで鳴り響く東映京都ではよくあることだが[11]、本作ほど監督と現場が融離して口も利かない状態だったのは空前絶後だったといわれる[11]

撮影記録[編集]

撮影のほとんどは東映京都で行われた[12]。併映の『好色元禄㊙物語』も同じ撮影所でスミの方で撮影した[33]。オールスター・キャストの本作の撮影は、東映京都で大デモンストレーションで行われた[33]。1975年8月9日、東映京都でクランクイン[22]。冒頭とラストの銃撃戦で使われたコンクリートの骨組みが剥き出し、あちらこちら穴ぼこだらけの廃墟のビルは、東映京都に建設した[12][13]。いかにも危険そうなセットで、撮影に入る前に高倉が「こんなところで1ヵ月も撮影して、怪我人が出なければいいがなあ」と漏らした[12]。幸い怪我人の出ず、クランクアップ予定の1975年9月17日を迎え、この日は映画のラストでもある銃撃戦と高倉と菅原の一対一の対決シーン[12]。残り約10カットを残すのみで、午後4時過ぎ、高倉と菅原が同士討ちになり、高倉がマシンガンの銃弾を体に受けてベランダに倒れ込む台本だったが、演技に熱の入った高倉が高さ4メートルのそこから落下した[12][13]。本来は下に敷いたマットスタントマンが落ちる予定だったが、マットの無い場所に落ちた[12]。そこには本物の大石があり、高倉はアゴを石にぶつけた。濡れ手ぬぐいをはたいたような何とも嫌な音がして、近くにいた者は膝がガクガクしてすぐには動けず、高倉命のガッツ石松が最初に駆け付け、田中監督、菅原ら共演者や俊藤プロデューサーも色を失い駆けつけた[12][13]。うずくまっていた高倉が気丈にも「大丈夫です。撮影を続けましょう」と言ったが、アゴから血が噴き出し、ジャンパーは血に染まっていた[12][13]。高倉はすぐに車で京都での高倉のかかりつけである東山区の大和病院へ担ぎ込まれた[12][13]。アゴに6針、口の中を4針縫い、全身打撲と手足、左手に深い切り傷ができて、全治1週間の診断[12][13]。高倉としてもこの時点では前作『新幹線大爆破』がコケていたため[12][13]、本作を絶対に成功させなくてはならないと強い意気込みあった[13]。高倉はこの日から一週間休みを取って、『君よ憤怒の河を渉れ』の撮影は少し遅れて、1975年9月30日頃から入ることになった[12]。高倉と4本プロデューサーとして組んだ田中寿一は(怪我をしたセットを)「『危ないから強化してくれ』と高倉さんが頼んだら、スタッフも美術も『大丈夫です』と言うから、仕方なくやったら怪我をして、それで『東映は分かってくれない』と嫌になって、東映を辞めたんです」と高倉から聞いたと証言している[32]

全編に渡り登場する神戸三宮設定のガード下闇市は、廃墟同様リアルで、セットとは思えないほど大きな物だが、資料がないため分からないが、これも東映京都に建設したセットと見られる。

その他[編集]

特報予告編には『脱獄広島殺人囚』『暴力金脈』『ジーンズブルース 明日なき無頼派』のBGMおよび、『県警対組織暴力』の映像が流用されている。本予告編には『暴力金脈』『三代目襲名』『まむしと青大将』のBGMが流用されている。

宣伝[編集]

本作のポスターは岡田東映社長の指示で、高倉が白い帽子、白い背広、白いネクタイに黒シャツ、菅原がストライプの背広に赤ネクタイというギャングスタイルで、ファッション雑誌から飛び出したような粋な物になった[34][35]

作品の評価[編集]

興行成績[編集]

黒井和男は本作の公開前に「本作が失敗すると決定的に高倉健に興行力がない、ということになり、東映の作品から彼の作品が消えてしまうことにもなりかねない。そうはさせないためにも、何とかヒットさせたいが、この前近代的な題名から、面白そうだ、という感じが与えられるかどうか。最近、ギャングだ、ヤクザということに観客も多少飽きがきているし、拒絶反応があるのではないだろうか」と評していた[6]

キネマ旬報』1975年11月下旬号には「高倉健に往年の興行力がなく、水準を越えることは出来なかった。日活の田中登を監督に起用、泉ピン子まで絡ませて話題作りをしたのだが、やはり本質的な面白さを感じさせられなかったのではないか。これで、今後の東映での高倉健の企画がかなり厳しくなった、というのは一般的な見解だ」と書かれている[36]。まだ高倉の東映退社はマスメディアに知られていなかった[36]

作品評[編集]

本作の脚本・松本功は「宣伝にも金をかけた大作だったけど、実録映画もはざまの時期になったせいか、当たらなかったね」としている[1]

同時上映[編集]

好色元禄㊙物語

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 文中で本作の高倉について「生涯で唯一と呼べるカラミ」としているが、高倉の濡れ場は『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)にもある。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(18)菅原文太との共演作の意外な評価 アサ芸プラス、2015年1月19日
  2. ^ a b c 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、234 – 236頁。ISBN 4-06-209594-7 
  3. ^ a b c d 美浜勝久「洋画ファンのための邦画マンスリーロードショー 俊藤浩滋が2年ぶりにプロデュース 高倉健 菅原文太共演 『神戸国際ギャング』」『ロードショー』1975年11月号、集英社、227頁。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m “"型破りの仁きょう映画"めざす 東映 俊藤氏 日活の田中監督を迎えて 高倉・菅原で 『神戸国際ギャング』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1975年9月26日) 
  5. ^ a b c d e f g h i j 「邦画新作 情報藤純子がカムバックする?」『キネマ旬報』1975年8月下旬号、キネマ旬報社、160–170頁。 
  6. ^ a b 黒井和男「興行価値日本映画無難に乗り切るか」『キネマ旬報』1975年10月上旬号、キネマ旬報社、173頁。 
  7. ^ 内田栄一「ポルノの貴公子田中登が東映〈神戸国際ギャング〉の成果 穴ぼこ感覚」『映画芸術』1975年10~11月号 No307、編集プロダクション映芸、54–55頁。 
  8. ^ a b c “アクション中心の娯楽作に力コブ 再び"仁義―"も復活 東映年内のアウトライン発表”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 6. (1975年8月28日) 
  9. ^ “芸能ファイル ラインアップ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 15. (1975年8月28日) 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・西沢正史・土橋寿男・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 映画各社のラインアップは揃ったが」『キネマ旬報』1975年9月上旬号、キネマ旬報社、162 - 163頁。 「東映、半期45億円を目標に大進撃 岡田社長、陣頭指揮の企画発表」『映画時報』1975年8月号、映画時報社、19頁。 
  10. ^ a b c d e f g h i j k l “ガッツ石松"死んでもいい"/真木、ピン子の恋仇/田中監督が"命がけ"”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年9月4日) 
  11. ^ a b c d e f g h i 松島利行『日活ロマンポルノ全史―名作・名優・名監督たち』講談社、2000年、192 – 194頁。ISBN 4062105284 
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「血まみれ姿に看護婦さんもびっくり 高倉健がビルから転落 顔面強打で危機一髪! 空中で必死の回転、九死に一生…」『週刊明星』1975年10月5日号、集英社、40–43頁。 
  13. ^ a b c d e f g h i j k 「速報 高倉健が墜落事故 九死に一生の重傷! もう少しでオレは死ぬところだった…」『週刊平凡』1975年10月2日号、平凡出版、28–30頁。 
  14. ^ a b c d e f g 「実父・俊藤氏の大作映画出演をめぐって 『神戸国際ギャング』 藤純子が悩む複雑な胸のうち 『父を成功させたい』とゆれ動く純子の女心」『週刊明星』1975年7月13日号、集英社、186 – 187頁。 
  15. ^ a b c d e f g 「ニューズオブニューズ 初体験にテレる健さん 『こいつはシンドイわ…』」『週刊読売』1975年9月13日号、読売新聞社、29頁。 
  16. ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)、東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年、129 – 130頁。 草壁久四郎「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田 松竹・東宝、日活などの老舗に比べ新参だった東映は、岡田茂を中心に試行錯誤を繰り返しながら逞しく成長してきた...」『宝石』1983年1月号、光文社、198 - 204頁。 
  17. ^ a b 日刊スポーツ文化社会部 相原斎と日刊スポーツ特別取材班『健さんを探して ~最後の銀幕スターが残した言葉~』青志社、2015年、83 - 87頁。ISBN 978-4-86590-007-1 
  18. ^ 細野憲昭 (1998年5月12日). “【話の肖像画】 東映会長 岡田茂さん(5) うちの任侠映画はジャン・ギャバン”. 産経新聞夕刊 (産業経済新聞社): p. 1 “〈娯楽〉岡田東映新社長にきく今後の経営 『作品は今までの路線 系統館制さらに強化して』”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1971年9月8日) 
  19. ^ 「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂 東映不良性感、レアなこの1本!『横浜暗黒街 マシンガンの竜』」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、66頁。 秋本鉄次「新世界の映画作家と新作研究10 深作欣二 深作アクションの系譜と『いつかギラギラする日』 深作監督がアクションで本気出せば、これだぜ! "ギャング"という名のロックンロールを歌え!」『キネマ旬報』1992年9月下旬号、キネマ旬報社、117-119頁。 
  20. ^ a b c d “なになにッ! たとえ父の意欲作でも…… お竜さん復帰の意思なし”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年6月29日) 
  21. ^ a b c “純子の復帰お願いする 『神戸―』学生俳優選考会 新人不作に父俊藤プロデューサー”. デイリースポーツ (デイリースポーツ社): p. 6. (1975年7月29日) 
  22. ^ a b c d e f “東映『神戸国際ギャング』最終審査 健さんと共演できるなら……学生俳優 留年、ヌードだって平ちゃら”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年8月7日) 
  23. ^ “女ボスに真木洋子 東映『神戸国際ギャング』 藤純子カムバックはお流れ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 15. (1975年7月29日) 
  24. ^ 「今週のスターなんでも情報 No.70」『週刊平凡』1975年10月30日号、平凡出版、67頁。 
  25. ^ “文太、真木"獣の攻防戦" 『神戸国際ギャング』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 13. (1975年9月24日) 
  26. ^ 「ドッキリ・インタビュー 『あれだけやらせておいてカットなんて、ずいぶんよねえ』 あれから10年、藍より青くなった熟女 真木 洋子」『週刊平凡』1982年11月11日号、平凡出版、48-49頁。 
  27. ^ a b c d e f g “泉のごとくSEX用語 ピン子売り出す 歌謡漫談―いまテレビ三面記事レポーター 熱艶買われ映画へ 東映 文太とベッドシーン”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年7月27日) “珍アドリブ・ラブ 文太・ピン子…白紙の台本かけあいで 『神戸国際ギャング』 丁丁発止ベッドもオヨヨ! 悪のりH93に悲鳴 ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年9月4日) “ピン子しゃべり勝ち 神様・小沢相手におばさん役 日本『はぐれ刑事』”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年9月14日) 
  28. ^ “泉のごとくSEX用語 ピン子売り出す 歌謡漫談―いまテレビ三面記事レポーター 熱艶買われ映画へ 東映 文太とベッドシーン”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社): p. 11. (1975年7月27日) 
  29. ^ a b 石井輝男福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、352頁。ISBN 4-948735-08-6 
  30. ^ a b 杉作J太郎植地毅『東映実録バイオレンス 浪漫アルバム』徳間書店、2018年、119 – 121頁。ISBN 978-4-19-864588-5 
  31. ^ a b 「《健さんインタビュー》 高倉健はいま何を考えているのか?まずそれを聞こう 〈インタビュアー〉高田純」『キネマ旬報』1975年5月上旬号、キネマ旬報社、112 - 115頁。 
  32. ^ a b 大下英治『高倉健の背中 監督・降旗康男に遺した男の立ち姿』朝日新聞出版、2017年、141–145頁。ISBN 978-4-02-251417-2 
  33. ^ a b 「〈東映映画特集〉 裏街道映画の悦楽 対談=牧口雄二×関本郁夫」『シナリオ』1977年7月号、日本シナリオ作家協会、32-37頁。 
  34. ^ 「健さん、文太のポスターをプレゼント」『週刊平凡』1975年9月25日号、平凡出版、106頁。 
  35. ^ 神戸国際ギャング | 東映ビデオオフィシャルサイト
  36. ^ a b 「映画館ヒット・Hit」『キネマ旬報』1975年11月下旬号、キネマ旬報社、176頁。 

外部リンク[編集]