テレビ三面記事 ウィークエンダー

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テレビ三面記事 ウィークエンダー
WEEKENDER
日本テレビ麹町分室.JPG
本番組ならびに『イヤーエンダー』の生放送が行われていた日本テレビ旧社屋(現・日本テレビ放送網麹町分室
ジャンル ワイドショー
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ
演出 萩原雪彦
森岡正彦
油井禧成
小川通仁
監修 円山法律事務所
プロデューサー 細野邦彦
出演者 加藤芳郎
桂朝丸
泉ピン子
横山やすし
西川きよし
円山雅也
ほか
ナレーター 小早川正昭
オープニング 「Rhapsody In White」
エンディング 「I do love you」
レギュラー放送(55分番組時代)
放送時間 土曜 22:00 - 22:55(55分)
放送期間 1975年4月5日 - 1975年9月
レギュラー放送(54分番組時代)
放送時間 土曜 22:00 - 22:54(54分)
放送期間 1975年10月 - 1984年5月26日
大晦日スペシャル イヤーエンダー'75
放送時間 水曜 19:00 - 20:54(114分)
放送期間 1975年12月31日(1回)
大晦日スペシャル イヤーエンダー'76
放送時間 金曜 19:00 - 20:54(114分)
放送期間 1976年12月31日(1回)
イヤーエンダー'84お騒がせ事件総集編
放送時間 月曜 21:00 - 23:19(139分)
放送期間 1984年12月31日(1回)
ピン子のウィークエンダーリターンズ
放送時間 土曜 18:00 - 20:00(120分)
放送期間 2005年12月31日(1回)
出演者 泉ピン子
羽鳥慎一
ほか
大晦日限定!泉ピン子ウィークエンダー2006
放送時間 日曜 18:00 - 21:00(180分)
放送期間 2006年12月31日(1回)
出演者 泉ピン子
ほか
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『ピン子のウィークエンダーリターンズ』の生放送が行われた日本テレビ本社

テレビ三面記事 ウィークエンダー』(テレビさんめんきじ ウィークエンダー)は、日本テレビ系列局ほかで放送された日本テレビ製作のワイドショーである。全465回。

製作局の日本テレビでは1975年4月5日から1984年5月26日まで、毎週土曜 22:00 - 22:55 (1975年9月まで) → 土曜 22:00 - 22:54 (同年10月以降)に生放送されていた。遅れネット局では録画放送。1978年からは、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の放送日と重なっていた場合には放送を休止していた。

概要[編集]

全国ニュースで伝えられることがないB級事件について、リポーターフリップボードや再現フィルムを使って解説していた番組である。常に30%以上の視聴率を獲得し、日本テレビの看板番組の一つになっていた[1]

日本テレビの朝のワイドショー『あなたのワイドショー』の金曜日枠内で類似コーナーとも言える「テレビ三面記事」が放送されており、本番組はそれを週末のプライムタイム枠に持ってきて、夜の放送に向いた(かつ男性向き)事件内容にスライドさせたスピンオフ番組と言える。

番組の流れは、番組タイトル→提供クレジットコマーシャル→ふたたび番組タイトル→出演者・スタッフ紹介→オープニング→最初の記事の順だった。そして番組のラストでは、「来週こそいい週でありますように…おやすみなさい」というメッセージボードが出された。なお、毎年の最終放送では「来週こそいい週」は「来年こそいい年で」と代えられ、さらに毎年一発目の放送では「今年もいい年でありますように…」となっていた。

下世話な事件を泉ピン子や桂朝丸(後の桂ざこば)、青空はるおらが面白おかしく伝え、特に泉はこの番組で飛躍的に知名度を得た。スタジオでリポーターが喋るという極めて低予算の作りで高視聴率を挙げており、プロデューサーの細野邦彦は「最も低予算でヒットをつくる名人」と言われた[2][3]。その一方で「表現が過激」「興味本位すぎる」との批判が常にも寄せられた[4][5]

打ち切りの時点でも視聴率は約20%を確保しており好調だったが、スポンサーが30分番組を2本提供したいという営業上の理由により終了した[6]

取り上げた話題[編集]

性犯罪や情欲絡みの殺人事件、少女買春などを扱うことが多かったが、当時の番組表によると震災など通常の事件や殺人などの凶悪事件も多少放送しており、番組終了の1984年にはグリコ森永事件ロス疑惑、当時は原因不明の奇病として世界中で恐れられていたエイズなども報じていた。また当時、その存在が世間に知られるようになり、日本医師会と確執状態にあった医療法人徳洲会」を「24時間いつでも診てくれる」、「患者は廊下の真ん中を歩きスタッフ(Drも含む)は端を歩く」など好意的に紹介するなどもした。

再現フィルム[編集]

初期の「再現フィルム」は殺人事件ばかりをリアルに扱っていたために抗議を受け[要出典]、いったんコーナーが中止になる。復活に際しては犯人の名前など人名を仮名にし、顔写真フリップは目隠し入りで対応した。同時に殺人事件以外に覗き恐喝トルコ風呂など、殺人以外の「再現フィルム」も放送されるようになった。

出演者[編集]

司会は加藤芳郎(加藤が入院した期間は青空はるおが代理)。1975年4月5日に開始直後は、青空はるお、天地総子うつみ宮土理、大沢嘉子、大野しげひさ大山のぶ代西川きよし野沢那智水の江瀧子リポーター役でレギュラー出演[7]。その後は、桂朝丸泉ピン子横山やすし青空うれしすどうかずみ高見恭子エド山口、加原夏美(有田美春から改名)、芸能リポーター井口成人、スイッチョンなどに交代する。桂朝丸が降板後は、桂べかこ春やすこ桂雀々(最後の1年だけ)と引き継がれた。のちに政治家に転身した山谷えり子(前国家公安委員会委員長)や、『Gメン'75』の主題歌で有名なしまざき由理もリポーターを務めた時期がある[8]。なかでもピン子にとっては出世作であり、リポート中の放送コードスレスレのどぎつい発言が受けた[誰に?]

クインシー・ジョーンズによる『鬼警部アイアンサイド』のテーマとともに、ナレーターの小早川正昭(元日本テレビアナウンサー)の「新聞によりますと…」で始まる事件解説のイントロダクションと、円山雅也弁護士のコメントも人気があった[誰に?]

「再現フィルム」には、柳沢慎吾山口良一大地康雄らが出演した。なかでも笑福亭鶴光のそっくりさんの役者・高嶋洋は常連で、コメディタッチの役柄や変態役でよく出演していた。高嶋は日本テレビ内において自分の売り込みをかけて出演していたらしい[要出典]。なお、当番組の性格上、「再現フィルム」への出演歴の積極的な公表は基本的に若い男性俳優に限られ、それ以外、とくに女性はあまり公表をしていないようである[要出典]

特別番組[編集]

イヤーエンダー[編集]

開始直後の1975年と翌1976年の12月31日(大晦日)には各月のニュースのなかから1つをピックアップしたものが19:00 - 20:00に総集編『大晦日スペシャル イヤーエンダー'XX』(『XX』には「75」か「76」が入る)として放送されていた[9]。本放送の終了後となる1984年の大晦日にも『NHK紅白歌合戦』の裏番組として『イヤーエンダー'84お騒がせ事件総集編』として、21:00 - 23:19枠[10] 放送された。

ピン子のウィークエンダーリターンズ[編集]

2005年の大晦日には、メイン司会に泉ピン子司会、サブ司会に羽鳥慎一(当時日本テレビアナウンサー)で『ピン子のウィークエンダーリターンズ2005』として21年ぶりに復活。18:00からの2時間番組であった。奈良騒音傷害事件など2005年に世間を騒がせた事件について取り上げている。番組内容はスタジオ出演者によるリポートはあるもののほとんどピン子のトークバラエティで、当時の画像は辛うじてオープニングに20秒ほど出ただけである。視聴率は裏番組『第47回日本レコード大賞』(TBSテレビ)を0.4ポイント上回る10.4%を記録した[要出典]

2006年大晦日にも『大晦日限定!泉ピン子ウィークエンダー2006』というタイトルで復活特番を放送、放送時間も1時間拡大して、シリーズ最長の3時間番組として放送[11] したが、視聴率は7.1%[要出典]と低迷した。この年は番組後半がいじめをテーマとした討論会となっていた。諏訪地方連続放火事件(くまぇり)を紹介する時にほしのあきグラビアアイドルの現実を取り上げていた。

評価[編集]

裏番組の『ウィークエンダー』に低視聴率を強いられた頃のTBSテレビでは、当時の役員が「ウチにこれだけの番組を作るサムライがいたら…」と評価[12]NHKで『NHKスペシャル』などを手掛けてドキュメンタリー番組で数々の賞を受賞したディレクターの相田洋も、『ウィークエンダー』の登場をテレビ番組史上の重要な出来事と評価した。『ウィークエンダー』の素材はともかく、方法論については学ぶことが多いとし、たとえ動く映像が撮影できなくとも、キャスターは現場に立って一次情報に接し、自分の言葉で視聴者に語ることが大事だと訴える。1998年にNHKスペシャル『マネー革命』を制作したときは「私たちは首から上の『ウィークエンダー』を目指そう」と檄文に書いた[13]。『BS自動車』から相田がテレビに出演して視聴者に解説するというスタイルを用いて、この方法論を実践している[14]

出演者が容疑者を罵ったり、事件の再現ドラマエロティック[15] に表現したことなどから、事件当事者などから非難が寄せられ報道倫理上問題となった[要出典]り、警察の取材協力を断られたこともあった。起訴前の容疑者段階での「おもしろおかしくした」報道については、たとえ不起訴になっても一生取り返しのつかない「烙印」を押されたとする報道被害者も多く、逆に犯罪被害者やその関係者についても事件そのものをこの番組を通して「おもしろおかしく」されたことでの報道被害を受けてしまう結果[要出典]となった。

放送当時、『テレビ腐蝕検証』(1977年刊、汐文社)や『テレビよ、驕ることなかれ』(1983年刊、麦秋社)などの書籍で、青少年への悪影響(性描写に関して)や、事件当事者への配慮の欠如、信憑性などが非難された。また、同時期の新聞での番組批評[要出典]でもこの意味で否定的な意見が強かった。ただし、娯楽性とジャーナリズム的な感覚を評価する見方もあった。

スタッフの報道倫理だが、オープニングのスタッフロールに「監修:円山雅也弁護士」と入っていたので[要出典]、円山と相談のうえで放送内容を決めていた。それについても「弁護士協力を免罪符にしている」との批判があり、放送時期に円山の事務所にも苦情が耐えなかった[要出典]

日本PTA全国協議会からも“超ワースト番組”(子供たちに見せたくない低俗な番組)の烙印を毎年のように押されていた[要出典]。司会の加藤は当時、NHK総合の『連想ゲーム』やニッポン放送の『テレフォン人生相談』に出ていたことから、当番組の司会者でもあるような者がそのような番組に出ることはふさわしくない、「誰でも出来るウィークエンダーの司会」などの非難[要出典]が寄せられた。高見は自身のウェブサイトでは当番組に関してまったく触れておらず、山谷も政治家となった[いつ?]当番組について語っていない。

のちに泉を重用することになる石井ふく子はこの番組を嫌っており、ある場所で偶然泉に声を掛けられ、「ふー先生(石井の愛称)の番組に出ることが夢です」と言われた際に「あのような低俗な番組に出ている下品な女など誰が出すか」というようなけんもほろろの態度を取ったという[16]

岡嶋二人の長編『とってもカルディア』と連作短編『三度目ならABC』は、この番組を連想させる事件再現フィルムを専門に請け負う制作会社スタッフを主人公にしている。作者(岡嶋は合作ペンネーム)の一人井上夢人は映像制作会社出身とされているが、この番組に関わっていたかどうかははっきりしない。

1976年の東映映画『戦後猟奇犯罪史』は、独自に企画された犯罪実録ドラマオムニバスだが、この番組そっくりの趣向で泉ピン子の語りを入れ(彼女がトップクレジットである)、番組人気に便乗した。監督は反対したが、会社の意向で追加撮影、挿入された。

映像の保存状況[編集]

当番組が放送された時期(最末期をのぞく)は、放送用VTRの規格が2インチで高価・操作頻雑だったことや、番組の性格上資料保存すべきではないとの意見が多かった[要出典]ことなどから、特に1970年代(泉在籍当時を含む)の映像はほとんど現存していないと考えられる[誰が?]横浜市にある放送ライブラリーへのビデオ映像の寄贈・保存はされていない。

2003年の『ダウンタウンのバラエティ50年史』において当番組の一部がダイジェストで1分ほど放送され、朝丸、うれし、すどう、はるお、加藤の映像が流された。2008年3月2日の『THE・サンデー』でロス疑惑を伝えた際には「イヤーエンダー」の模様(おもにインタビュー)が放送された。

使用楽曲[編集]

ネット局[編集]

当時の土曜日22時枠はマストバイ枠でなかったため、ネット局は少なかった。一部の系列局と系列局外で放送された事例もあるが、午前0時台などの深夜帯(当時としては相当遅い)が多かった。大晦日の特別番組のみネットしていた局も多かった。

主なスタッフ[編集]

  • 監修:円山法律事務所
  • ナレーター:小早川正昭
  • 構成:池田淳、山崎忠昭
  • 取材:吉田清、林田慎也、渡辺正人、山田哲也、荒井裕晶
  • 演出:萩原雪彦、森岡正彦、油井禧成、小川通仁
  • プロデューサー:細野邦彦
  • 製作:日本テレビ

脚注[編集]

  1. ^ 『大衆とともに25年 沿革史』日本テレビ放送網、1978年、p.241
  2. ^ 荒俣宏『TV博物誌』小学館、1997年、p.256
  3. ^ 岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説 あるプロデューサーのテレビ青春日誌』日本テレビ放送網、2003年、p.167
  4. ^ 読売新聞芸能部、『テレビ番組の40年』日本放送出版協会、1994年、p.383
  5. ^ 藤平芳紀『視聴率の正しい使い方』朝日新聞社、2007年、p.137
  6. ^ 『中日新聞』1984年5月4日付夕刊
  7. ^ 毎日新聞夕刊 1975年4月5日掲載の新番組広告より
  8. ^ 讀賣新聞夕刊 1981年7月13日
  9. ^ なお前年1974年の同枠でも、石原慎太郎を司会に起用した『大晦日スペシャル'74』が放送された事が有った(以上 参考:「読売新聞縮刷版」1974年・1975年・1976年のそれぞれ12月31日付のラジオ・テレビ欄)。
  10. ^ 参考:「読売新聞・縮刷版」1984年12月31日付ラジオテレビ欄
  11. ^ 2006年12月31日付「朝日新聞」ラジオ・テレビ欄
  12. ^ 読売新聞朝刊 1976年1月4日
  13. ^ 相田洋『ドキュメンタリー 私の現場 記録と伝達の40年』日本放送出版協会、2003年、pp.192-193
  14. ^ 川本裕司『ニューメディア「誤算」の構造』リベルタ出版、2007年、p.26
  15. ^ レイプシーン・ベッドシーンなど裸の多さが売り物。エログロ低俗化に表現していた
  16. ^ 大下英治著『おんなの学校』より。
  17. ^ a b c d 当時は日本テレビ系列・NET〜テレビ朝日系列のクロスネット局だった(山口放送は1978年10月以降)。
  18. ^ 青森放送は『11PM』を1975年3月に日本テレビ系列局で最初に打ち切っていた。
  19. ^ 1981年9月までは日本テレビ系とテレビ朝日系のクロスネットだったため、土曜日の深夜に遅れ放送し、土曜日22時からは土曜ワイド劇場を放送していた。1981年10月より同時ネット
  20. ^ 1975年4月11日、1979年9月29日 信濃毎日新聞 テレビ欄
  21. ^ 1980年10月4日、1983年10月8日、1984年3月31日 信濃毎日新聞 テレビ欄
  22. ^ 放送開始当初同時ネットせず、深夜枠での放送とし、代わりにテレビ東京の『大江戸捜査網』を時差ネットしていた。放送開始から半年後の1975年10月から同時ネットとなる。
  23. ^ 前番組『傷だらけの天使』は広島ホームテレビ(NET〜テレビ朝日系列)で火曜日22時から遅れ放送していたが本番組は広島テレビ・広島ホームテレビの両局とも放送枠を確保できなかった。なお、広島テレビは従来通りフジテレビ系の遅れネット番組を編成し、広島ホームテレビの火曜日22時台は1975年10月改編まで引き続き日本テレビ系遅れネット枠とされ『金曜劇場ちんどんどん』を4日遅れで放送し、NET系で同枠の『TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿』(ABC制作)も土曜16:30から遅れネットしていた。
  24. ^ 当時の社長、野村幸祐が教育界出身だった山口放送は当番組の他にも『ミセス&ミセス』・『11PM』・『お昼のワイドショー』のエログロ低俗化を訴えた[要出典]。最終的には、山口放送での当番組と『お昼のワイドショー』のネットは継続されたものの、『11PM』は1978年3月で、『ミセス&ミセス』は同年9月でネット打ち切りになった。(山口放送では『11PM』は『プロ野球ニュース』に差し替えたが、『お昼のワイドショー』については、1978年当時は裏番組の『笑っていいとも!』(1982年10月4日開始)が放送開始していなかった。尚、『ミセス&ミセス』(該当番組以降の現『スッキリ!!』)、『お昼のワイドショー』(現『ヒルナンデス!』)NNS加盟局でも新潟総合テレビテレビ熊本テレビ大分鹿児島テレビ放送では放送されなかった(テレビ大分を除き現在はNNS脱退)。)

関連作品[編集]

1976年6月19日、この番組を連想させるテレビ番組のスタジオを模したセットで、泉ピン子の進行により、大久保清西口彰らの事件をオムニバス形式で再現した映画『戦後猟奇犯罪史』(監督:牧口雄二)が、全国東映系で公開された。

関連項目[編集]

日本テレビ系列 土曜22時台
前番組 番組名 次番組
テレビ三面記事 ウィークエンダー