横山やすし

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横山 やすし
本名 木村 雄二(きむら ゆうじ)
ニックネーム やっさん
生年月日 1944年3月18日
没年月日 1996年1月21日(満51歳没)
出身地 日本の旗 日本大阪府堺市
身長 163cm
方言 大阪弁
最終学歴 堺市立旭中学校
師匠 秋田實
横山ノック
出身 道頓堀角座
コンビ名 堺伸スケ・正スケ(1959年-1961年
横山やすし・西川きよし1966年 - 1989年)(解散)
相方 西川きよし(やすきよ)
芸風 漫才(ボケ)
事務所 松竹芸能吉本興業→阪田エージェンシー
活動時期 1959年 - 1996年
過去の代表番組 三枝きよし興奮テレビ
ザ・テレビ演芸
久米宏のTVスクランブル
配偶者  既婚(1度離婚)(妻は2008年没)
親族 木村一八(実子)
木村ひかり(実娘)
弟子 横山たかし・ひろし
萩原芳樹
横山ひとし
佐野隆仁

横山 やすし(よこやま やすし、本名:木村 雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)に所属していた漫才師タレント身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。

西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に中学時代の同級生で競艇選手野中和夫がいる。

初妻(のちに離婚)との間に俳優木村一八(長男)と長女、雅美[1]をもうけた。再婚した妻とはやすしの芸能界引退等を挟み、逝去まで連れ添った。エステティシャンで漫才師さゆみ・ひかり木村ひかり(次女)は、後妻との子である。

来歴・生涯[編集]

芸能界入りまで[編集]

高知県宿毛市沖の島弘瀬の旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。分娩を引き受けたのが、映画『孤島の太陽』モデルとして一躍脚光を浴びた伝説の駐在保健婦、荒木初子(第1回吉川英治賞文化賞受賞)の助産婦初仕事だったという説もあるが、やすし生誕の1944年は太平洋戦争中で荒木はまだ産婆学校入学前であり、保健婦免許取得後の荒木の着任が1948年であることから誤りである。生後三ヶ月で当時高知に疎開していた木村家に養子入りし、大阪府堺市堺区に育つ[2]

同年代の子がラジオの歌合戦で合格したことが刺激となり、少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)に出演するようになった。元々漫才などしたことなかった木村少年だったが「漫才教室」で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、出場したことを契機に漫才師になることを決意した。生まれて始めてのネタは「僕は易者」という老易者を題材にしたもので、初めての相方は中学の同級生の岡田好弘(後の堺正スケ)だった。中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。卒業式では漫才を披露し同級生からも拍手喝さいを浴びた。

芸能界入り 秋田實に弟子入り[編集]

1959年堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、堺伸スケの名で同級生とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」を結成する。同年5月11日に角座で少年漫才師としてデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。ネタは学校の話題を振っていたためあまり受けず、やすしは後に著書「やすしの人生一直線」において「子供の発想で、子供の言葉になってしまう」、「先輩の芸をまねようとするが、大人の会話にならん」と述解している。

横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ[編集]

堺伸スケ・正スケは角座デビュー後2年で相方の正スケが廃業し解散。見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子になった。師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。

「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。ノックから新しい相方(後のバラクーダの岡本圭司)を世話され、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターの白タクシーを行い生活費を稼いだという。この頃は喫茶店で他人の会話を聞いてノートに書くなどネタ探しに懸命だったが、相方と温度差が生じ、数回(少年時代を除くと3回という)コンビ結成〜解散を繰り返すことになった。周囲から「コンビ別れの名人」のレッテルを貼られ、自身も迷いが生じ、廃業寸前に追い詰められた。当時の相方は、年上の弟弟子の横山プリンレツゴー正児(何れも芸名は『横山たかし』)など。

やすきよ結成時[編集]

西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。きよしは当時はまだ研究員扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、また新喜劇の脚本家の壇上茂が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったりと、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。

結成当初はコンビ仲が悪く、稽古のことできよしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもしばしばあった。やすしは「解散や!!」と怒鳴り散らしその場を後にし、後日吉本興業に向かい解散の旨を伝えると、吉本のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る」と諭され、スターだったヘレン杉本(西川ヘレン)との身分違いの結婚・寿引退をしたきよしとコンビ解散を繰り返すをやすしという当時の二人の微妙な立場もあり、結局2人は思いとどまる。その時にきよしの発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフはいつしかきよしの代表ギャグとなった。

2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、またきよしがマイクを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。それならばと2人は動きがおもろい「どつき漫才」を目指すようになり、そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れたりするという革新的な漫才を編み出した。やすしがメガネを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。またやすしはそれまでは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、結果的にこれがボケ・ツッコミが激しく入れ替わる「やすきよ漫才」の基礎となった。稽古嫌いだったやすしがきよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。

やすきよはこの流れから全国制覇を目指し、結成から1年足らずで第2回上方漫才大賞の新人賞を獲得。これを契機にテレビ出演も果たした。同じ動きの笑いを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後また名古屋大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることでテレビ中継の視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年には第5回上方漫才大賞の大賞を結成わずか5年にして受賞した。

そんな絶頂の最中、1969年11月に養父・庄吉が南海高野線中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒、頭部を強打し7日後に意識が戻ること無く他界した。10日後に長男の一八が誕生。やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。

翌年12月に最初の事件となる、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で、長期謹慎を受ける。傷害事件で実況検分に駆けつけた警察官に運転免許の提示を求められ、「俺、国際免許やねん」と『グアムで国際免許を取ろう!』と書かれたチラシを見せただけで、肝心の免許証に関しては答えに窮した結果無免許が発覚した。やすしが謹慎の間に相方のきよしはピン芸人としての腕を急成長させ、さらに司会者としての才能を見出し、きよし単独での番組も増えるようになった。次第にやすしきよしのパワーバランスも微妙に変化し、復帰後もきよしが司会でやすしはその付け合せという場合になることも多くなった。

1973年に最初の妻と離婚。1973年の春にテレビ復帰を果たすが、1977年4月に乗車したタクシーの運転手と口論になり、「お前ら、今でこそ運転手と呼ばれとるが、昔で言えば駕籠かき雲助やないか」と吐き捨て、車に蹴りを入れ、運転手から侮辱罪で告訴された。刑事事件としては大阪地検で不起訴になったが、後の民事訴訟大阪高等裁判所は10万円の慰謝料支払いを命じた。

1975年3月に3歳年下の木村啓子(2008年、61才で心筋梗塞で死去)と再婚し、堺市西区大鳥大社で挙式した。仲人はノックである。啓子夫人も再婚者で、前夫との間に1男1女がいる。

1980年10月19日、やすしにとっては第二子・(長女)となる光が誕生。やすしもその時、娘に対して誕生の喜びを色紙に書いた。啓子夫人に「雄ちゃん」と呼ばれていた。

西川きよしの参議院選出馬[編集]

1982年の秋から、日本テレビ久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発したことで問題になった(暴言の内容は冤罪に関しての『疑われる奴の自業自得や』だった)。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発し、まったくしゃべらなかったこともある。そして1984年11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組に穴を開けたため降板。吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。

1986年にきよしが第14回参議院議員通常選挙に出馬し当選。コンビの仕事が出来なくなったやすしは酒の量が増え、趣味にのめりこむようになった。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けた時に「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。コンビ解散の噂については終始否定していたが、当選直後の対談番組でもきよしが「楽しみの少ない人のところに行ってでも漫才をやりたい」と語ったのに対し、やすしは「俺は他人のために漫才はせえへんよ」と不機嫌な表情で応対していた。その一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。やがて後述する度重なる不祥事とトラブルのために、やすしの芸人・タレントとしての価値は下落して行った。この件に関して上岡龍太郎は「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」という旨の発言をしていた。また当時のマネージャーだった大谷由里子は「あれで横山さんの歯車が狂ってしまったと思う」と述べている[3]

度重なる不祥事と契約解除[編集]

1986年4月に不摂生から吐血し緊急入院。退院会見で二度と飲酒しないとしていたが、翌1987年12月に『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ(ytv)制作・日本テレビ系)で酒気帯びのまま出演をし、同じ司会の桂文珍山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫めたことは有名。これがとどめをさす形で番組を降板する。さらに1988年10月にも二日酔いを理由に『三枝やすし興奮テレビ』(毎日放送)の出演を直前にキャンセルしたために降板。

1988年11月下旬、一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕され、一八はやすしを通じて契約解消を言い渡された。やすしは当初事件の内容を把握しておらず、女性リポーターの質問に「おい、ねぇちゃん!俺は息子には厳しく教育してるぞ」「男は喧嘩する位が丁度ええ」などとコメントしていたが、後に一八が被害者に対し一方的に暴行を加え、意識不明の重体に追いやったことを知ると記者会見で陳謝し「いくらカワイイ息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に遭わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。スンマヘン」「自分の教育が間違っていた」と、自身の息子に対する教育の過ちを認めて号泣、その責任を全て負う形で自ら無期限謹慎を申し出る。会見の直後に、少年鑑別所に収監された一八に面会した際は、「おい、反省せぇ」と言うのがやっとだったという。

1989年3月芸能界に復帰し、きよしが司会をつとめる『すてきな出逢い いい朝8時』(毎日放送制作 TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや。(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時すでに吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻、専属契約を解除する」と最後通告を受けていた。翌月にはコンビとして「MAGMA30」での二府四県対抗なんでもコンテストの司会を務めた。

ところが本格復帰してわずか3日後の1989年4月17日、愛車のトヨタ・ソアラ(2代目・Z20系)3.0GTリミテッドを運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性(58歳)に軽傷を負わせた。大阪府警が取調べた結果、体内からはアルコールが検出された。事故直後の会見では、事態を余り重く見ていなかったやすしは「しいて、わざわざ事故しようと思ってやったのと違いますので、ひとつ宜しくお願い致します」と語っていたが、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。事実上の解雇[4]通告を言い渡されたやすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と嗚咽しながら話した。

当時、吉本の制作部長でマネジメント契約の解除を言い渡した木村政雄は報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたらうちとしても会社の姿勢も疑われますから」と語った。契約解除は中邨秀雄(当時・副社長)・林裕章(当時・専務)・木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだところ、「もうええ、もうよろし!」との一言であっさり決定したという。契約解除の通知書を発行したのも林裕章であった。

吉本から契約解除を通告された10日後に木村から「お話したいことがありますんで、会社まで来て下さい」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。林正之助は当日体調不良で出社していなかったため、やすしは林正之助に詫びることが出来なかった。

吉本との契約解除に伴い、完全に収入源を失ったやすしを支えるべく、啓子夫人はNHKの集金のパートタイマーとして働くなど、献身的にやすしを支え続けた。後にやすしは、苦労を掛け続けた啓子夫人への感謝の思いを込めて、自ら作詞した「一ッ星」という歌を贈っている。

芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか[編集]

1992年内田裕也主演の映画『魚からダイオキシン!!』で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。漫才を演じているときと何ら変わりない演技を見せ、活動の場をVシネマなどに移す。この同作品の発売当時のビデオパッケージには「横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、きよしら吉本所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや前述の契約解除の影響で不可能になっていた。その後、学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。

同年7月26日第16回参議院議員通常選挙比例代表区野村秋介が代表を務め、日本青年社などが関与する右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱(シラミ)の会」と揶揄された。落選の際に発言した「国民はアホや」は当時流行語となり、あちこちでパロディー化された。また記者が「(大阪府選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、自身は比例区の候補者で大阪府選挙区では立候補していないのにもかかわらず「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていた。しかし親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなくきよしに一票を投じたはずである」と口を揃える。なおこの選挙ではきよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。

その後8月6日、謎の暴行事件で重傷を負い、摂津医誠会病院に緊急入院した。犯人も襲われた理由も不明で、すでに時効が成立しており「迷宮入り」となっている。落選直後の事件であったため右翼団体や暴力団とのトラブルが当時盛んに語られており、一方で後に月亭可朝が語ったところによると、浮気相手の人妻に横山が酔って電話したところ、その人妻の夫が電話に出たためにトラブルとなり暴行されたとしている[5][6]。この暴行事件でやすしは一時失語症となり表舞台から姿を消す形となったが、後に驚異の回復力で復活を果たす。

晩年[編集]

1993年豊中市大村崑の自宅に、今後の仕事の相談にと夫婦で訪問。やすしが「これからは夫婦で漫才をして行きたい」と話すが「それよりもまずは、君が元気でいることを世間に知らせる方が先決」と「やすしを囲む会」を提案。会には知人を含め約150人が出席したが、そのほとんどが競艇仲間で、大村と京唄子以外の芸人は誰も来ない寂しい会となった。大村はその後、やすしの葬儀で記者の問いに「生前は応援せず今になって」と怒りをぶつけたが、「大村崑が吉本に爆弾発言」との大村の思いとは別の記事になる。会には、きよしや桂三枝(現・六代目桂文枝)などの旧知の芸人も招待していたが、吉本の圧力で彼らは出席出来なかった。当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻契約解除、または解雇する」と圧力を掛けていた[7]

1995年7月18日には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたという。さらにその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで、桂福團治と即興漫才を披露。これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と福團治に声をかけたという。

死去[編集]

1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。

病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体は高槻市にある大阪医科大学行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったゴミ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。やすしは1986年に仕事先の徳島県で吐血し、その時に既に医師から「アルコール依存症による重度の慢性肝炎」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、あと10年で死にますよ」と酒を止めるよう警告されていたが、それでも一切無視して酒を飲み続け、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化し、入退院を繰り返していた。奇しくも前述の医師の『警告』通り、10年後の1996年にこの世を去る結果となった。

その死は関西のみならず全国にも衝撃を走らせ、翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。

「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしんだ。
うめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしのことを思い出して嗚咽し、観客もほぼ全員がもらい泣きしながらやすしの死を偲んだ。
ラジオ番組にて「やすきよ漫才は、僕にとってのビートルズだった」。

12年後の2008年6月23日、啓子夫人も心筋梗塞で死去。享年61。

最後の別れ[編集]

大阪府吹田市公益社千里会館で行われた葬儀・告別式では、多くの芸能関係者やファン総勢2000人以上が参列した。亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていたという。以下の人物がそれぞれ泣きながら弔辞を読み上げた。

  • 西川きよし(元相方)
「もうゆっくりしいや、何もかも忘れてゆっくり休み、頼むわ」
  • 横山ノック(師匠で、当時の大阪府知事『山田勇』名義で参列)
「君の芸は僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子ほど、かわいいというが、それ程完璧に僕の指示をこなしてくれた」と、師弟愛を物語るコメントを述べた。
「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう!その時は古いエンジンも持って来たる!」。

出棺の時、ファンや吉本の後輩芸人たちから「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上がり、最後のお別れをした。その後亡骸は吹田市立やすらぎ苑で荼毘に付された。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場(BOATRACE宮島)にて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部が散骨された。は大阪府河内長野市の「南大阪霊園」にあり、墓石の横に、やすしが吹き込んだレコード「俺は浪花の漫才師」のジャケット写真と、歌詞の一部が刻まれた石碑が建っている。法名は「満寶院釋雄師」。

死去を受けて在京の民放キー各局、及び在阪の準キー各局は揃って彼の追悼番組を編成し、生前の芸人としての業績を称えると共に、それら追悼特番は軒並み高視聴率を獲得。没後における芸人・横山やすしの再評価へと繋がって行った。

ギャグ[編集]

  • マンマンちゃん、あんッ!
  • ションベンばぁチビリますたい!
  • スポンサーにベンチャラ!
  • 毎度!横山や!
  • 怒るでしかし!(しまいに)
  • メガネ、メガネ・・・(眼鏡を探す時に言う)
  • 正味の話
  • どないやっちゅう?ねん!
  • かわりべんたん、かわりべんたん(かわりばんこの代わりにこの語を好んで使う。由来はまったく不明。発音としては、かわりべったかわりべった)
  • 持っとけ弟子!(と言って上着を舞台袖に投げる。大抵投げ返される)
  • きよし「お嫌いですか?」やすし「お好きです〜」
  • 神の御前に身を委ねたる、○○殿の願いを叶えたま〜え〜(テレビ番組「プロポーズ大作戦」のワンコーナーで使うフレーズ)
  • コッコ、コッコ、コケッコー私はミネソタの卵売り♪(暁テル子「ミネソタの卵売り」より やすきよ漫才「男の中の男」で使われる)

出演番組[編集]

やすしきよしとしての出演番組[編集]

やすし単独の出演番組[編集]

映画[編集]

太字は主演。

木村一八も生徒役で出演。エンディングのスタッフロールのバックに流れていた映像は愛機・月光号の飛行シーン。
萬田銀次郎の師匠、先生である。
横山やすしの役としてカメオ出演

テレビドラマ[編集]

テレビCM[編集]

レコード・CD[編集]

  • 俺は浪花の漫才師(1973年、ローオンレコード)
  • 麻雀水滸伝/さよなら大三元(1976年、CBSソニー
  • 泣いて盛り場大阪編/聞けばよくある話だが(1980年、ポリドール
  • 人生はタタカイやで(1983年、日本クラウン) - 東芝パソピア7」イメージソング)
  • 俺は浪花の漫才師(再録音盤。1996年、日本クラウン) - 本来は1988年12月に発売予定だったが、息子一八の暴行事件が前月に起こったため、やすしの自主的な申し出により発売中止となった。やすしの死後に追悼盤で発売。
  • 一ツ星(1996年、日本クラウン) - やすしの死後に追悼盤で発売。

所属事務所[編集]

松竹新演芸(現・松竹芸能)→吉本興業→阪田エージェンシー。

弟子・付き人[編集]

直弟子[編集]

孫弟子[編集]

  • 横山ともや・たきや(たかしの弟子)
  • 福助(たかし・ひろしの弟子であったが、当時の低迷していた1988年頃にたかし・ひろしが面倒見切れなくなりレツゴー三匹の所に預けられた。)
  • 原田竜介(あらじお、ひろしの弟子)

逸話[編集]

短気な性格とスパルタ教育[編集]

短気で怒りっぽい性格であり、自分が納得行かないことがあれば番組中に激怒したり、途中で帰ったりする行動がしばしば見受けられた。生涯に20数人の弟子を取っていたが、弟子に対してスパルタ育成であったことは有名で、ほんの一瞬でもミスをした場合は鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門するなどのスパルタ育成ぶりだった。こうした育成方法に批判の声もあった。

弟子に厳しい背景としては秋田實の門下時代、芸能界のしきたりから漫才台本の書き方まで厳しく教わり、ノック門下時代も要領良く仕事をこなし、漫画トリオ時代の上岡龍太郎青芝フックにも気配りをしており、ノックや上岡、青芝からも絶賛を受けた事、やすし自身が細かい事と些細な事にこだわる粘着質であるからとされる。

スパルタ教育に対しては、「厳しすぎる」、「他人には厳しいが自分には甘い」(例:弟子の遅刻には激怒する一方、自身も公演などで遅刻することが多く、相方のきよしを激怒させていた)などと批判する者もいる。

弟子として競艇選手の佐野隆仁(やすしの勧めで競艇選手になる)、放送作家の萩原芳樹島田洋七と組んだ初代B&Bを解散後、放送作家に転身)がいたが、一人前の芸人として生き残った弟子は"たかし"と"ひろし"と "ひとし"だけである。中でもひとしは最後の弟子であり、弟子修行に最後まで残った唯一の人物である。たかし・ひろしは弟子入りした当初は吉本に所属していたが、あまりものスパルタぶりに耐えかねて、師匠が近寄れない場所で活動するようにとの周囲の計らいもあって、正司玲児が弟分として引き取る形で、松竹芸能へと円満移籍した。

1994年初夏頃、ひろし宅に電話で「もしもし横山やすしだが、ひろし頑張りや。うん、よう見てるで。一着取りや。以上!」と16秒の留守電メッセージが入っていた。しかしそれとは裏腹にかつては「どこにおるんじゃ!ワレ殺すぞ」といった過激な肉声メッセージがあったことや、ひろしがやすしと電話で会話していて「はいそうですね」と数回言うと「ほんでな、コラお前ちゃんと聞いてるんか!?」と怒鳴られたという。

最後の破滅型天才芸人[編集]

人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、八方破れな生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。

木村政雄は雑誌の取材で「昔ならどんなことがあってもおもろい奴やと許せたでしょうが、今のテレビってのはお茶の間に入って来ますからどうしても一般的なモラルが要求されるんやないですか。もし今もタレント活動を続けていたら、おもろい奴で終わっていたと思いますよ」と語り、「シビアに言いますが、横山さんはすでに全盛期を過ぎていた。あのとき(飲酒運転での事故)問題を起こしてへんかったら、クビにならんかったと思いますよ」と、心境を語った。

関西の破滅型天才芸人としては戦前の初代桂春団治と並ぶ定型的存在となり、現在まで語られ続けることとなった。その点に関して木村は雑誌のインタビューで「そら、天才やったと思いますよ。ある意味何らかで天才やったと言える」と述べていた。

桁外れの金遣いの荒さ[編集]

全盛期の年収は5億円以上あったが(横山たかしが内弟子時代に月収7,000万円の月があったと証言)、初代桂春団治藤山寛美のように金遣いも荒かった。ボートセスナ機購入などで借金が膨らみ[9]、差し押さえを受けたこともあった。セスナ機には娘のひかりにちなんで「月光号」と名付け、頭金の5,000円を払ったのみでさんざん乗り回し、テレビ・雑誌等の取材に「死ぬときはこれで落ちたるねん。要するに空飛ぶ棺桶やがな」と自慢げに話し、周囲の報道陣を大爆笑させたが、そのセスナ機も結局借金が膨らみ手放すことになり、『新伍のお待ちどうさま』(TBS系)にゲスト出演した時、公開オークションに掛けたりもした(そこで売れたか他で売れたかは不明)[10]。金使いが荒かったのは、春團治と寛美の魅力に惚れたからとされる(後にやしきたかじんもやすしの行動を含んでの魅力に惚れることになる)。家族へは月30万円しか入れていなかったという。

その反面、居酒屋で「本当は今日飲みたくないんや」と呟いたときでも、後輩やスタッフがその居酒屋に入ってきた途端いつもの調子で「はよ酒もってこい!」と叫んでいたという話もあるなど、やすしというキャラクターを守るため、普段でも舞台と同じキャラクターを作っていた節がある。

他の芸能人と[編集]

若手芸人との確執
NSC出身者などの弟子経験のない芸人をよく思っておらず、各々の芸人が思い思いに付ける芸名やコンビ名も悪く思い込んだ(『芸名・コンビ名は師匠がつけてくれるありがたい物』という認識があったため)。かつてコンビ名を持っていなかったダウンタウンもその内の一組で、『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)に出演した際、家庭内暴力を題材にし「そいつの家燃やした」・「わら人形でも作って釘打った」などと不謹慎な内容を含んだネタであったため、「笑いの中に良質なものと悪質な笑いがある。あんたら二人は悪質な笑いやで」、「テレビ出るような漫才ちゃうで」と酷評した。さらに当時名乗っていたコンビ名「ライト兄弟」についても「航空ファンにも迷惑かける」と笑いを取りつつも批判していた(ただしこのコンビ名はやすしによく思われたいと、現場のスタッフが提案した物といわれる)。
また、紳助・竜介島田紳助島田洋之介の弟子である)もダウンタウンと似たような理由で酷評されたが、紳助は「師匠、違います。馬に例えれば『やすきよ』の漫才はダービー馬みたいなものです。ボクらはどんなに頑張っても師匠のようなダービー馬にはなれません。だからボクらは師匠とは違う種目の障害レースの競走馬で一等を狙っているんです」と伝えるとそれを聞いたやすしは「わかった」と一言残し、後日やすしから「お前らは障害馬でお前らなりに頑張れ」と言葉を受け、ジャケットをプレゼントされた挿話をやすしの訃報時のコメントとして残している。
ひょうきん予備校』に講師役として出演した際も生徒役の非常階段に「こんなしょうもないコンビ名、聞くに及ばん!」などと怒鳴り散らしていた。この時、同じく生徒役のダウンタウンは「僕がダウンで彼がタウンです」と慌てて名前を分割し難を逃れた。また、松本は『ダウンタウンのごっつええ感じ』でやすしをパロディ化したコントをしており、この中でやすしの逝去1ヶ月前に『やすしがセスナ機「月光号」から転落死する』という内容のコントを放送していたためマスコミが遺族との不仲説を書きたてたが、松本は「そんなんに乗ったら負けや」と無視を決め込んだ。死後このコントシリーズは打ち切りとなった。
また、松本は「やすしさんはダウンタウンの漫才を『チンピラの立ち話』と批判したが、自分はそれで客が受け入れてくれるならそれでいいと思っている」と、やすしとの笑い(漫才)に対するスタンスの違いを挙げている。ただしビートたけしとのテレビ特番での対談でやすしとの関係について「やすし師匠は最後のほうはめちゃくちゃ優しかったですね」と語っている。
他にも松尾貴史竹中直人もネタ見せ番組でやすしに激怒された経験があり、松尾は「やすしに番組で怒られた人間は売れたが、ほめられた人間で売れた人間を見たことがない」と著書で述べている[11]
お笑いBIG3との関係
明石家さんま
さんまのタレントとしての素質を見抜いたのもやすしである。やすしは、演芸番組でデビューしたばかりのさんまと共演し、実際に番組内でさんまがネタを披露してスタジオを爆笑させるが、さんまはCM中に藤本義一にこっぴどく怒られてしまう(このことがきっかけで藤本はさんまのほか、演芸の審査で叱責したダウンタウン等、吉本興業所属の一部のお笑い芸人より強い批判を受けている。詳しくは藤本の項を参照)。しかし、番組終了後、やすしはさんまのネタを気に入った模様で、後日、やすしの家にさんまを招待した逸話がある。また、さんまの師匠である笑福亭松之助もこれを絶賛している。
さんまはその後、『やすきよの腕だめし運だめし』などで共演したり、番組でやすしのモノマネをするなどしている。また、やすし同様に電話魔な一面もある。
さんまは自宅に招かれた際録音したモーターボートのエンジン音を当てるクイズを朝までやらされたことがある。
ビートたけし
漫才ブーム当初、やすしはたけしのことを「東京で一番面白い若手」と評しており、たけしを気に入っていた。たけしの友人である島田洋七との出会いも、やすしと洋七が仕事場が一緒の時にやすしがたけしに紹介したからである。漫才ブーム後もやすしはたけしとは親交がある一方、フライデー襲撃事件で、たけしがたけし軍団を引き連れて講談社に押しかけ暴行を働いた件に関してやすしは、師匠が私生活上の問題に弟子を巻き込んだことを問題視し、「抗議なら独りで行くべきだった」と苦言を呈している。また、やすしの訃報を聞いたたけしは前述どおり、やすしを「雲の上にいるような人だった」と評した。
また、やすしの最後の弟子である横山ひとしは一時期オフィス北野に在籍した時期があった。
タモリ
タモリとは『サンデーお笑い生中継』の司会を共に務めた経験があるほか、『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングにやすしが出演するなどしている。80年代から言われるようになったタモリ、たけし、さんま(1980年代前半前ではさんまではなく萩本欽一)のお笑いBIG3の中で、やすしとタモリの共演が最も少ない。
その他
久米宏
久米とやすしは同い年で、2016年7月7日のBS朝日「ザ・ドキュメンタリー」で久米が語ったことによると、久米とやすしの初共演は料理天国の食レポコーナーで、ロケ後に久米はきよしに「やすしさん普通でしたよ、大人しいし、別に殴られもしなかった」と言ったという。『TVスクランブル』にやすしを起用したのは久米の意向で、インタビューでは「やすきよの漫才がとてつもなく面白かった」とし、漫才「同級生」でうれしそうに髪をいじられるやすしの姿を見て、「あの才能に惚れた。人を笑わせることに命をかけてる」と起用理由を語っている。木村政雄は後に、「酒を飲んで仕事をするようになったのは、久米さんと仕事をするようになって以降で、久米さんに精神的に飲まれないようにするためだった」という意味の発言をしている。
島田洋七
洋七は B&Bで、漫才ブームを代表するコンビになる以前の大阪吉本時代(東京の漫才協団に入ったのは1979年)から面識があり、やすしの弟子である萩原芳樹(団順一)ともコンビを組んでいたこともある。やすしは洋七に対して「お前の声は聞きやすい。速く喋っても耳に届く。テンポを上げた方がお客は笑うで。」とアドバイスをしており、洋七は「横山やすしさんから直接教わったのは自分くらいでないか」と語っている。東京進出後も洋七とは番組で共演するなど関係があり、前述の友人であるビートたけしとの出会いにも関わっている。
師匠に暴言
ノックら横山会(エンタツ以来の横山姓の一門会)が中田ダイマル・ラケットのテレビ出演を見ていた時、ノックらは「さすがにダイラケ先生も衰えたなあ」と語っていたところ、やすしが激怒し、「誰や!今ダイラケ先生が衰えたなあと言うたんは?」と怒鳴りだし、なだめようとしたノックに対して「お前か!このハゲ!ダイラケ先生の悪口言う奴は許さんぞ!ボケ!」と暴言を吐き、巷間でも語り継がれた。やすしがダイマルを尊敬していたからであるが、ノックの失言であったこともあり、破門は免れた。
林家木久扇
親友の間柄でもあり、木久扇が会長を務める「全国ラーメン党」の副会長兼大阪支部長に任命されたことがあった。
受け継がれる芸風とモノマネ
生前からやすしのモノマネをしていた大平サブローが有名。生前のやすし本人からも公認されていた。モノマネ歴の年数はやすしの芸歴年数を上回った。西川きよしとともにを結成するなどサブローは自ら“平成のやっさん”と称し、現在はきよしと「新やすし・きよし」を結成している。
明石家さんまも番組内で「横山三兄弟」に扮し、やすしのモノマネをすることがある。
ダウンタウンの松本人志は番組内で「やすしくん」というコントを行っていた。

桂文枝はやすしとの番組第1回で山田邦子にやすしがいつもの悪い癖で暴言を吐いて号泣されスタジオから飛び出す事態を起こした事に呆れ果てた。

趣味・特技など[編集]

競艇選手の夢
コンビ別れを繰り返していた1970年頃、一度芸能界引退を考え、ライフワークとなるモーターボート(競艇)を始める。以前にプロのレースを見て、これなら自分にもできると思ったことがあり、小柄で軽量な自分にはぴったりだと考えてプロの競艇選手も考え、山梨県本栖湖にあった研修所にて受験をした。しかし視力が低かった(視力は0.1に過ぎず、合格基準である1.0には遠く及ばなかった)ため不合格になり、父にも反対された。
のちに笹川良一から特別にアマチュアボート選手のライセンスを交付され、自らボートを買ってアマチュアのレースに出場するようになった(文藝春秋Sports Graphic Number28号1981年)。レースの前にはビール以外は口にしなかったという。全日本K400選手権大会(アマチュア)に優勝したが、当時マスコミに向けて「病気療養中」と会見していたやすしの、マネージャーだった木村政雄(元吉本興業常務取締役)に対する非難があったという。
友人の野中和夫は「舞台なら1回300円くらいだが、競艇なら1着になれば6000円にもなるんだぞ!」と口説かれ、夢を託されて競艇学校に通わされ競艇選手になると、後に競艇界で多くの記録を打ちたてて、「モンスター」と言う異名を取った。
なお娘のひかりも「競艇選手になれ」と勧められ、競艇選手の試験を受けようとしたが、同じく視力が低かった為に断念した。
マラソン陸上競技
競艇以外の造詣で健脚の持ち主でもあった。当時住んでいた堺市の自宅からうめだ花月までの道のりを走っていた。また、きよしや周囲の芸人によると、野球など団体競技などはあまり好まなかったという。

ポリシーなど[編集]

  • 酒好きである一方、煙草嫌いでも有名であり、楽屋で煙草を吸っている芸人や、飲みに行った先でも近くで吸っている人がいれば取り上げ、足で消して「吸うな!」と一喝したと言う。しかし、その反面喫煙者が前もって「吸ってもいいか?」と聞けば、「構へんよ」と言っていた(横山ひとしの著書による)。
    • 代表的な主演映画『唐獅子株式会社』では、月亭八方が以前やすしとタバコの件でもめたために出演不可となっている。(原作者・小林信彦の著書による)。
  • 自宅で数人と酒席を開いた時、先に帰って行く人間を極度に嫌った。中でも自分より若い人間が腕時計を見た瞬間を目撃すると、その腕時計を取り上げて鍋の中に入れて故障させ、使い物にならなくしてしまったとされる「恐怖の時計鍋」と言われていた伝説があった。その伝説は死後、追悼特番などで明らかにされた。
  • 電話魔としても知られる。特に、弟子である横山たかし・ひろしのひろしには、一本立ちしてからも電話魔のやすしには悩まされたといい、「どこにおるんじゃ!ボケ」の一言で呼び出されたり、電話口で「はいそうですね」と応じていると「ほんでな、コラお前ちゃんと聞いてるんか!?」と突如逆上されたりしたという。やすしもいたずら電話をされた経験があり、同様に電話魔で有名な後輩の中田カウスが、芸人仲間の集まる深夜のスナックからやすしの自宅へ電話し「明日の南海電車の始発の時間を教えて下さい」と電話すると、「誰や!横山と知っての狼藉かコラ!!!」と激怒したこともある。

その他[編集]

  • モーレツ!!しごき教室』で新日本プロレス若手時代の前田日明からドロップキックを受けた。
  • 毎日、床屋へ通っていた。
  • サインは「人生右肩上がりになるように」と、右肩上がりに書いていた。
  • 松竹芸能系の劇場である新世界新花月の楽屋へ遊びに行った際、泥酔していたやすしはそのまま新花月の舞台に上がってしまった。唖然とした観客はやすしに対し「吉本に怒られるぞ」とたしなめたことがあった。

演じた俳優[編集]

生涯は何度かテレビドラマ化、舞台化されている。

テレビドラマ
舞台

パロディー[編集]

著書[編集]

  • 『まいど!横山です ど根性漫才記』 ブック館、1976年。徳間書店徳間文庫〉、1981年 ISBN 4-19-597219-1 - ゴーストライターを使っていない本人の執筆。小林信彦は「そのために読みにくいが異様な迫力が生れる(送りがなは原文ママ)」(『天才伝説 横山やすし』序章)と評している。徳間文庫版の解説は、藤本義一
  • 『かまし一発 競艇人生』 浪速社、1970年。

参考文献[編集]

関係人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 一般人であることを考慮しほとんど公の場に登場した機会はない
  2. ^ 佐藤正弥編著『データ・バンク にっぽん人』現代書林、1982年、173頁。
  3. ^ 古川嘉一郎「横山やすし 夢のなごり」より
  4. ^ 正しくは雇用契約の解消ではなく、所属タレントのマネジメント業務等委任契約の解消に当たる。
  5. ^ 東京スポーツ 月亭可朝「ヤンチャ人生とやばい話」17 平成22年12月2日
  6. ^ 吉田豪『新・人間コク国宝』p.80(コアマガジン、2010年)
  7. ^ その中でただ一人、木村政雄は出席していた。横山ひとし『師匠』ぶんか社、1996年
  8. ^ http://movie.walkerplus.com/mv17781/
  9. ^ やすし本人が把握していただけでも、最も多い時には1億5,000万円ほどにまで膨れ上がっていたという。
  10. ^ 元マネージャーの木村政雄がセスナは無免許運転していた事が死後になって判明したと談話している
  11. ^ 松尾貴史『業界用語のウソ知識』(小学館文庫)ISBN 978-4094025514