2インチVTR

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2インチVTRテープ

2インチVTRとは世界初の実用的なビデオテープレコーダの規格である。4個のビデオヘッドにより記録再生を行ったことから、4ヘッドVTR(英語のQuadruplexから)とも呼ばれる。テレビ放送開始当初から1インチ方式が普及する1980年頃まで、放送局で使用されたVTRの主流だった。2インチVTRのテープは生産終了まで一貫して大変高価で、世界的にみても作品が保存されずにテープが使いまわされることが多々あった。

概要[編集]

2インチ(5.08cm)幅のオープンリールビデオテープに記録するVTRで当初は軽自動車ほどの大きさがあり、トランジスタ化が進んだ最終モデルでも事務机程度のサイズがあった。

本方式は米国アンペックス社(AMPEX)が1956年に「VR-1000」を1号機として発表したもので、1インチ方式が普及するまで放送業務用・送信用のVTRとして世界中で広く使われた。当初はモノクロームの記録再生のみで、1957年後半に米国RCA社独自のカラー化改良によりカラーテレビ信号の記録再生が可能になり、すぐに米NBCで実用化された。アンペックス社製のVTRは1957年末にはCBSで23台、ABCで11台が稼働していた。

1959年初め、アンペックス社はRCA社のそれとは別の新しいカラー記録方式を開発。米RCAもこれに合意し、これがカラー録画の標準フォーマット(後にローバンド記録方式と呼ばれる)となる。このVTRはすぐに米NBCにて使用された。なお、前記のRCA社が独自に開発したのは標準方式と違うためにこのVTRでの再生はできない。現在、RCA社独自開発のカラー再生機は米国に2~3台程度あるのみである。

ローバンド記録時代はテープの記録トラックに添ってカッターで手切り編集していたが、これは技術的に大変難しく手間もかかり、日本では一箇所繋ぐだけでも当時の値段で3万円と非常に高価だった。

1963年、アンペックス社がフレーム単位でのレコードコントロールが可能なEDITEC(電子ビデオ編集機)を発表、1964年にはカラーハイバンドVTR『VR-2000』を発表。ハイバンド記録方式が開発されたことにより高画質化が実現し、この方式で映像を相互コピーしても画質の劣化が以前のローバンド方式よりも非常に少なくなったため、ある程度のコピー編集が実用化される様になった。

1971年タイムベースコレクタが登場してからは、本格的な電子編集が可能になり、1972年にはスーパーハイバンド記録方式が開発され、画質が向上しタイムコードの記録もできる様になった。

日本では1955年頃よりオーディオテープを使用した画像記録が研究されており、1956年の技研公開で展示された[1]。1958年5月にはNHK技研により8ヘッドのうち4ヘッドを使用したVTRの試作機が発表された。

日本国内では1958年4月28日に、当時の大阪テレビ放送(OTV、後に朝日放送へ吸収合併される)が大阪本社、東京支社がそれぞれ1台ずつ導入したのが最初である[2]。続いて、当時のラジオ東京テレビ(KRT、後のTBSテレビ)が同年5月29日に2台、在京局で初めて導入し。同時期にNHK技研も導入した。OTV、KRT共に米アンペックス社製の白黒専用で、当時の価格で1台2500万円だった。以後、在京・在阪局を中心に順次導入が進んだ。1959年3月時点では27台のVTRが稼働していた。日本での導入に伴い、試作する企業も現れ1958年8月、ソニーが実験機の公開、1959年3月に芝電気も同規格のVTRを実用機公開した。

また、カラーVTRは、1959年11月中旬に、日本テレビ(NTV)が米RCA社から1台購入したのが最初で、当時は約3千数百万円したという。同局は同VTRを、翌月の3日からスタジオ収録と番組送出の双方にて稼働を開始している[3]。1960年2月にはNHKがアンペックス社のカラーVTRを導入し、2月末より稼働開始している[4]。その後1964年発表のカラーハイバンドVTR「VR-2000」型はNHK、1966年TBS、1967年日本テレビと順次導入、1968年には国産ハイバンドVTRの芝電気製SV-7700型が開発された。

1960年頃からは、芝電気(現・日立国際電気)や日本電気でも国産化されるようになり、東芝も米アンペックス社と提携して1964年に合弁会社「東芝アンペックス」を設立して、アンペックス社製のライセンス生産を国内にて行うようになった。なお同社は1982年9月、業績不振を理由に解散している。

この2インチVTRは、1980年頃に1インチVTRが登場するまで、放送局の録画再生用の主力機器だった。

特徴[編集]

メカニズム[編集]

(図1):2インチVTRのヘッド機構概念図
(図2):2インチVTRの記録されるトラック配置の概念図

2インチ(50.8mm)幅のビデオテープをテープ移動方向に軸を持つ円筒面に磁性面を沿わせて走行させる。この円筒面と同軸に、4個のビデオヘッドを90度おきの放射状に取りつけたディスクを14400rpm(240Hz)で回転させる(図1)。テープの円筒への巻きつけ角度は90度強であり4個のヘッドを次々に切り替えることにより常時いずれかのヘッドがテープと接し、セグメント化した記録トラックを形成できる。テープ上下端への記録は不安定になることと、音声およびサーボ制御トラックを設けるため、実際の記録幅は約1.8インチほどとなっている。図2にテープ磁性面から見た記録の配置の概念図を示す。図の色分けは4個のヘッドがそれぞれ記録する分担を示す。音声トラックおよびコントロールトラックについては後述。

NTSC方式は60フィールド/秒で記録するため、1フィールドを縦方向に16のセグメントに分けて記録することになる(垂直ブランキング区間を含む)。ヘッドとテープの相対速度は約40m/sに達し、約13MHzまでの磁化反転を記録できた。回転ヘッド機構は凹型のガイド(フィーメールガイド)側から真空ポンプを用いてテープを吸引し、安定したヘッドとテープの接触を保つようになっていた。このヘッド機構は極めて精密な加工組み立て精度を要する。磨耗したヘッドの交換は精密な測定器を持つ工場で行う必要があるため、ユーザーはヘッド機構単位で予備を持つのが普通だった。回転ヘッドの他に、テープ送り機構として供給・巻取リールメカニズム、キャプスタンとピンチローラ機構、テープの弛みを押さえて張力を安定させるためのテンションアーム機構、音声およびサーボ信号を記録するための固定ヘッド等を備えた。

ビデオ信号処理[編集]

映像信号のような広帯域(NTSCで数10Hz~4.2MHz)の情報を磁気記録するには、ベースバンド信号のままでは困難である。これは磁気記録では記録する周波数に比例して記録再生出力が高くなり、たとえイコライザ回路を使用してもフラットな周波数特性が得られないためである。このため2インチVTRの出現以前のVTRでは多チャンネル記録方式、すなわち多数の固定ヘッドに信号を分割し1組のヘッドあたりの帯域を押さえようとしていた。

しかし、AMPEX社の開発チームはビデオ信号を周波数変調してテープに記録する方式を発明した。FM変調の周波数偏移は初期のローバンド機で約4MHz - 6MHz、カラー用のハイバンド機は約7MHz - 10MHzであり周波数特性はイコライザで補償することができた。

なお、このAMPEX社の開発チームのリーダーはチャールズ・ギンズバーグ(Charles Ginsburg)だった。また、このチームにはまだ学生だったドルビー研究所の創設者レイ・ドルビーが加わっていた。

オーディオ記録[編集]

音声信号の記録はオーディオテープレコーダーと同等の技術で、固定ヘッドでテープの端部に長手方向記録を行った。

テープ走行制御[編集]

ビデオ信号に同期したコントロール信号を記録するコントロールトラックを音声トラックと同様な方式で記録し、再生時にはコントロール信号を元にキャプスタンの送り速度を制御するとともに回転ヘッドとの同期を取り正しいタイミングでビデオヘッドが記録トラックをトレースできるような制御を行った。

これらの広帯域信号の記録技術および精巧なメカニズムの制御技術には真空管を用いた、当時の電子回路としては特に高度なものだった。後に電子回路はトランジスタや集積回路で置きかえられたものの、基本的な技術は変わることなく用いられた。しかも、その後の1インチVTRも信号処理やテープ走行制御の基本技術は本方式を継承発展させたものであり、この技術が先進的なものだったことを物語っている。AMPEXは基本特許を広範に取得したため、芝電気(現在の日立国際電気)やNECなどの国内メーカーは自社生産を行うためライセンス料を支払って技術導入をしていた。一方家電メーカーはアンペックスの特許にとらわれずにVTRを生産できるようにヘリカルスキャン方式の開発に注力しEIAJ統一I型、3/4インチのU規格Uマチック)などを経て1/2インチのベータマックスVHSを生み出した。

年表[編集]

1956年:米国アンペックス社(AMPEX)が「VR-1000」を1号機として発表。

1957年:米国RCA社独自のカラー化改良によりカラーテレビ信号の記録再生可能に。

1958年4月28日:大阪テレビ放送(OTV、後に朝日放送へ吸収合併される)が大阪本社、東京支社に日本で初めてそれぞれ1台ずつ導入。6月にはラジオ東京テレビ(KRT、後のTBSテレビ)が同年5月29日に2台、在京局で初めて導入、NHK技研も導入した。

1958年7月17日:NHKがアンペックス社製VTRによる初放送。

1959年3月26日:芝電気がVTR実用機の公開実験に成功。

1959年:芝電気がアンペックス互換機を実用化。北海道放送東京支社に納入。

1959年:アンペックス社はRCA社のそれとは別の新しいカラー記録方式を開発。米RCAもこれに合意し、これがカラー録画の標準フォーマット(後にローバンド記録方式と呼ばれる)となる。

1959年12月:日本テレビが米RCA社からカラーVTRを1台導入。

1960年2月:NHKがアンペックス社よりカラー附加装置を導入。

1961年3月:NHK技研、色度線順次方式カラーVTR用アダプターを完成、安定度試験を実施。

1961年8月16日:NHK、線順次カラーアダプターを芝電気製VTRと組み合わせて本放送に使用。

1963年7月26日:富士写真フィルム、TDK、技研の技術協力でテープの量産化に成功。NHKに納入。11月16日放送に初使用。1964年には民間放送連盟の承認を受け,各テレビ局への納入を開始した。ソニーもテープ発売。

1963年:アンペックス社がフレーム単位でのレコードコントロールが可能なEDITEC(電子ビデオ編集機)を発表。

1964年:カラーハイバンドVTR、VR-2000を発表。トランジスタ初採用、アナログTBC搭載、ローバンド機より記録周波数を高くしたハイバンド機で、日本にも導入される。

1965年4月:ビデオテープ自動編集装置の実用化試験開始。

1965年9月28日:東芝アンペックス社、ハイバンドのカラーVTR(VR2000)発表公開。

1965年12月:NHK、VTR自動編集装置を大型時代劇などで使用開始。

1966年5月16日:NHK、カラー用ハイバンドVTR(アンペックス社製)のVR-2000型を初使用。

1967年:富士写真フィルム、カラー放送用ハイバンドビデオテープH700発売。

1968年:国産初ハイバンドVTRの芝電気製SV-7700型が発表[5]

1971年:日立電子・芝電気製SV-7400型発表。タイムベースコレクタを搭載し、本格的な電子編集が可能になる。

1972年:スーパーハイバンド記録方式が開発され、画質が向上しタイムコードの記録もできる様になった。

2インチVTRの弱点[編集]

装置は大型で重く、設置場所が限られた。環境変化にも敏感で、注意深く防塵・空調された環境を必要とした。装置そのものも高価である上に機器のメンテナンス料も高く、テープ消費量も多くコストも膨大だった。

1インチ時代以降のVTRで収録された番組の保存率が比較的高いNHKですら、2インチ時代では放送済みのテープは原則として映像を上書き消去した後、他の番組の収録のために再利用しており、1970年代以前の放送記録の多くが保存されていない理由の一つでもあった。1960年代からNHK番組に出演していた眞理ヨシコによれば「君たちの給料(ギャラ)じゃ録り直しが出来ないぞ」という趣旨の弁を制作スタッフから脅しの様に言われ、一発録りが強制であり[6]、他のタレントもこぼれ話で同様の弁を述懐することがある。

現在、『NHKアーカイブス』で放送される1970年代中盤前後の番組の中には、当時のテレビ番組を家庭用ビデオ(VHS・ベータ・Uマチック等)で録画したものをコレクションしていた番組の制作関係者・出演者・視聴者から寄せられ、映像補正された作品もかなりある。なお、『若さとリズム』という1965年のカラー番組については、奇跡的に局内で発見された2インチのカラービデオテープを元に修復された素材(第1回/1965年10月16日放送)が2006年に放送されたが、この2インチVTRの再生に使われたNHK放送博物館に置かれた局内唯一の再生機が2009年に設計寿命経過により故障して使用不能となった。

テープ[編集]

1958年に日本で初めて2インチVTRが使われ始めた時は、録画・再生用のテープは米3M社製(Scotchブランド)の輸入品しかなく、1時間用のテープが当時の値段で1本約100万円(現在の貨幣価値に換算すると数倍-10倍程度)もした。1959年にTDKと富士写真フィルムの2社がテープの試作に成功。放送技術研究所の協力も受けながら量産化の準備としたが、塗布ムラやドロップアウトの問題もあり4年後の1963年後半になってNHKに納入された[7]。1964年に初めて国産ビデオテープが富士フイルムから発売され、翌年にはソニーからも国産の同テープが発売された。発売当初から発売終了(1980年頃)まで、1時間用のテープが1本約10万円もしたが、それでも米3M社製の輸入品の10分の1の値段となり、輸入品に比してかなり安くなった。

その後東芝の1ヘッドヘリカルVTR,日本ビクターの2ヘッドヘリカルVTRの発表が相次ぎ、東京オリンピックを控え,大量のVTRの導入の必要があった。NHK内の技研,施設局,現業技術局の専門家を動員したVTR調査会が設置され、4ヘッドVTRとヘリカル走査の1ヘッドVTR(東芝),2ヘッドVTR(日本ビクター)を実体調査し、国際的な互換性を重点に考え,放送用としてはアンペックス型の4ヘッドVTR規格の採用を決定した。1964年アンペックス互換機をNHKの標準機とし、東京オリンピック終了後地方局での使用のため30台を芝電気と日本電気に発注した。

静止画やスローモーションの再生は原理上できなかった。1960年代までは本格的な電子編集が可能な機種は存在せず、番組収録時は録画開始から終了までテープを回し続けなければならず、1シーンでも失敗すれば最初から撮り直しとなった。止むを得ず編集が必要な場合は、上司の決裁を仰いだ上でテープの記録部分をルーペで確認しながら見当を付けて剃刀の刃でテープを切断して貼り合わせていた。ローバンド機時代はこれが唯一の編集方法であり、おおまかなコピー編集は、ハイバンド機の登場を待たねばならなかった。

「ジャズ旋風」(三一書房)によると1959年8月からアンペックス製VTR編集機が導入され編集が可能となったがテープに 磁気鉄粉を刷毛で塗って編集パルス(編集可能な限定された点) を肉眼で探し出し、髭剃り用フエザーの片刃で切って スプライステープで貼ってつないでいた。編集個所で映像が乱れたり、ノイズが出るリスクがあり、スプライ個所のあるテープは放送には再使用しなかった。1時間番組での編集個所は4箇所に限定されていた。スプライスのない部分を15分番組で再使用できるから。編集費は1箇所15000円で 4箇所編集すれば60000円となり、カミソリの入ったテープは再使用できないのでテープを番組で買い上げていた計算となる。編集個所のないテープは20回~30回使用された。1961年頃より VTR使用の番組が増えたが生放送でスタートした気分が持続していて放送後のVTRテープを保管しておく習慣はまったくなかった。2次使用考えた人も全く居なかったから特殊な番組以外は残っていないとのことであった。

1967年時点ではNHKではどんな番組でも放送後一週間は保存で、民放でもレギュラー番組は原則として一ヶ月保存だが、それ以後の処理は厳正にしていた。スペースがなく、テープ自体の値段も高くて経営の合理化にも響くため。30分のテープで7万円、100回の利用価値があるからだ。NETテレビでは2年半前まではできるだけ保管していたが、3万本もたまって部屋いっぱいになったので放送素材保存廃棄委員会を設けてきびしく審査するようになったとしている。公開番組や歌謡番組などは必然的に消していた。保存廃棄の基準は人気作品で再放送が考えられるもの、資料価値になりそうな話題作、というのが条件であった。また、TBS歌謡ベストテン」などは商品価値はその場限りのものと判断されて廃棄。保存作品にはドラマ関係がやはり多いが、「せいぜい本数にして1局1500~1600本がいいところ」(TBSの話)となると限度があり、保存されていくのは必然的に大型ドラマ中心となっていた。2年程度の保存も全体の100倍、永久保存となると1000本に1本の割合であった[8]

このように当時のVTRは、番組制作には生放送番組の同時収録以外には非常に使いにくく、業界では時代劇刑事ドラマ特撮作品などのドラマやドキュメンタリーなどを映画と同じくフィルムで制作していた。また、報道やスポーツ関係の映像資料の保存にも、キネコで記録したフィルムが活用された。例えば、1963年12月31日に放送された『第14回NHK紅白歌合戦』では、映像の記録媒体としてフィルムが使われたという。この他にもNHKの『新日本紀行』などは、フィルム収録であったために、当時の映像が多数現存している番組がある。

なお、民放局でも、大半の局では2インチ時代の番組のVTR映像は、ごく少数しか保存されていないとされる(当時は消耗品ではなく固定資産として扱われていたため、ビデオテープが課税対象とされ、節税のために廃棄するケースも多々あった)。[9]ただし、TBSフジテレビなど一部の局では生テープが高額であるのにもかかわらず、1977年以前の番組のVTR映像の放送記録を多数消去せずに保存していた。ドラマ作品が中心だが、一部音楽番組バラエティ番組などもあり、CS放送での再放送や著名な俳優が逝去した際の追悼番組などで見ることができる。

現在の状況[編集]

2インチVTRを再生可能な機器は世界的に減少している。補修部品の供給も困難になりつつあり、テレビ番組のアーカイブ化を国際的に推進する機関である国際テレビアーカイブ機構英語版(FIAT/IFTA)では、2005年に発表した声明の中で映像資産継承のリスクの一つとして2インチVTRの問題を指摘している[10]

FIAT/IFTAが2002年にまとめたところでは、世界の主要な放送局が保有する2インチVTRテープが約22万本存在するうち、他フォーマットへの変換作業が終了しているのは約6割弱に過ぎない[11]。残された2インチテープについても経年劣化が進んでおり、機器の老朽化と共に映像の再生が困難になるリスクが増加している。

日本[編集]

2019年現在、日本で存在が確認されている日本製2インチVTRの実製品は以下のとおり。かつてはNHK放送博物館の1台しか現存しないとも言われていたが[7]、2010年代に入り相次いで存在が確認されている。

最近では2009年4月、NHKにて新たな2インチ収録のビデオテープが発見され、前述のSV-7400型で再生を試みた所、機器の老朽化のために再生ができなかったという。このため一時日本では2インチVTRが再生可能な環境が失われていた。ちなみに、このビデオデッキにて再生が成功した最後の番組は、下記に記されている『若さとリズム』であり(再生は2006年)、この再生されたテープはD3-VTRのデジタルVTRにコピーし修復され2007年1月14日に総合テレビ『NHKアーカイブス』で放送された。

2014年に、日本大学芸術学部放送学科教授・落合賢一らにより、同大学の倉庫に保管されていたSV-7800型1台が部品の再組み立ての上再生可能な状態にまで修復された[14]。2014年現在はこの1台が日本国内で唯一2インチVTRを再生可能な環境となっている。

国産以外の2インチVTRとしては、東京テレビセンターレトロエンタープライズ所蔵のアンペックスAVR-3型(1974年製造)[16][17]の存在が確認されている。日本国内にもまだ数台が現存すると推測されるが、稼動可能な状況にあるかどうかは不明である。なお、レトロエンタープライズでは海外送りにてダビング作業を行っている[18]

これらの事情から、以下に掲げるのを始め、日本で2インチVTRにて収録された番組作品は全て1インチU規格ベータカム等のアナログVTR、D2D3D5・デジタルベータカム等のデジタルVTR、LTOXDCAM等のデジタルストレージにダビングされたものが、現在放送用等の再生に使われている。

現在も残されている主な1950 - 60年代の2インチVTR番組作品[編集]

アメリカ合衆国[編集]

  • エド・サリヴァン・ショー(白黒・カラー。米CBSテレビ、1957年10月13日 - 1971年6月6日。一部は残っていない)
    1957年10月13日の放送分から、米国内での時差放送のために2インチVTRの使用を開始。1965年9月頃からカラー化される。1964年2月9日から3週間連続で出演したビートルズの映像は、VAP東芝EMIからビデオソフト化された。この番組でもVTR使い始めの時は放送が終了すると同時にテープを消して使いまわしていたが、初めてVTRを使った1957年10月13日の番組の2インチビデオテープは残っていたという。なお、現存する同番組の2インチビデオテープの多くはエド・サリヴァン自身が自宅に設置してあった2インチVTRで残していたと言われている。
  • "Dedication Day NBC Washington May 22,1958”(カラー、米NBC系列のWRC-TV、1958年5月22日)
    米NBCの系列局WRC-TVの新社屋の開所式典の生放送。世に現存する最古のカラービデオテープと言われている。この番組の録画は制作を行ったWRC-TVではなく、同時にカラーでネットをしていたNBCのバーバンクスタジオ(カリフォルニア州)にて行われた。同スタジオでは、1958年4月28日に9台のカラーVTRが装備されたという[19]
    この式典には、当時の米大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが来賓として祝辞を述べている。このデジタル・リマスタリングされたビデオテープは米NBCは勿論のこと、カンザス州のアイゼンハワー・ライブラリーにも保存されている。この映像の一部は、YouTubeにて閲覧可能である[20]。局の演出により最初は白黒映像で、途中からカラー映像になっている。
  • "An Evening with Fred Astaire"(カラー、米NBC、1958年10月17日)
    録画番組としては最古のカラービデオテープである。俳優フレッド・アステアをホストにして送るミュージック&ダンス・バラエティ・ショー。1959年のエミー賞受賞番組。番組内では、自動車のスポンサーのスタジオ内撮影のカラーカメラ実写CMも入っている。
  • The Dinah Shore Chevy Show(カラー、米NBC、1959年 - 1963年)
    番組自体は1956年10月5日開始である。1959年からの多数の放送分がカラービデオテープにて保存されている。その中にはエラ・フィッツジェラルドビング・クロスビーパット・ブーンらが番組のホステスであるダイナ・ショアと一緒にデュエットしている貴重な映像も残されている。
  • ケネディー大統領の葬送(白黒、米CBSなど。1963年)
  • 東京オリンピック開会式(白黒、日米テレビ宇宙中継、NBCで保存されているNHKからの中継映像、1964年10月10日)
  • "ELVIS"(カラー、米NBC、1968年12月3日)
    通称「'68 Comeback Special」で、エルヴィス・プレスリーが劇的に復活した特番。ビデオ、DVDソフト化されている。

イギリス[編集]

日本[編集]

  • サンヨーテレビ劇場私は貝になりたい』(白黒、KRテレビ(現・TBSテレビ)1958年10月31日)
  • 東芝日曜劇場マンモスタワー』(白黒、KRテレビ、1958年11月16日)
  • 皇太子明仁親王(明仁上皇)成婚パレード(白黒、日本テレビ、1959年4月10日)
  • 舞踊『京鹿子娘道成寺』(カラー、NHK、1960年9月10日、NHKカラー本放送開始記念番組)[21]
  • 自民・社会・民社3党首立会演説会(浅沼稲次郎暗殺事件)(白黒、NHK、1960年10月12日)
  • 第3回NHKイタリアオペラ公演(東京文化会館落成記念公演、白黒、NHK、1961年10月)
  • ナショナル日曜観劇会釜ヶ崎』(白黒、朝日放送、1961年)
  • 第17回芸術祭参加ドラマ『汽車は夜9時に着く』(白黒、NHK名古屋、1962年11月6日)
  • 第4回NHKイタリアオペラ公演(白黒、NHK、1963年)
  • 東芝日曜劇場『明治の女』(白黒、TBS、1963年7月7日)
  • 近鉄金曜劇場正塚の婆さん』(白黒、TBS、1963年10月25日)
  • 日米テレビ宇宙中継(ケネディ大統領暗殺事件)(白黒、NHK、1963年11月23日)
  • インターナショナルヘビー級選手権『力道山対デストロイヤー』(白黒、日本テレビ、1963年12月2日)
  • 東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』(白黒、TBS、1964年4月12日・4月19日)
  • 東京12チャンネル(現・テレビ東京)開局式典(白黒、1964年4月12日)
  • 新潟地震(白黒、新潟放送、1964年6月16日
    被災した局舎屋上からの実況、および局舎の真横を流れる信濃川に日本海から遡上してきた津波を撮影した映像が残されている。津波の生放送及びVTRへの録画はこれが世界初である。2008年12月23日に同局の特別番組内で放送された他、それ以前にも同局の歴史を紹介する番組でも放映されたことがある。
  • シャボン玉ホリデー(カラー、日本テレビ。1964年8月23日及び1969年11月2日放送分)
    1964年8月23日放送「楽器で遊ぼう ピーナッツ」の一部(冒頭から最初のCMに入る前までの2分25秒分)と、1969年11月2日放送「ダンドリ大切ピーナッツ」(こちらは全編)がカラーVTRにて現存しており、いずれも「クレージーキャッツ メモリアルBOX」にて、レーザーディスクVHSビデオテープ、DVDソフト化されている。
  • 東京オリンピック開会式(NHK制作。NHK・日本テレビ・TBS・フジテレビはカラー、NETテレビ(現・テレビ朝日)は白黒。1964年10月10日
    同年10月に開催された東京オリンピックの模様の多くは日本の東京キー局でカラーまたは白黒VTRにて保存されている。
  • 大河ドラマ 赤穂浪士 第47回(白黒、NHK、1964年)
  • 東芝日曜劇場 シリーズ全38話『女と味噌汁』(白黒、カラー、TBS、1965年6月20日- 1980年1月6日)
  • 東芝日曜劇場 単発『時間ですよ』(白黒、TBS、1965年)
  • WWA世界ヘビー級選手権『豊登vsデストロイヤー』(カラー、日本テレビ、1965年2月26日)
  • おやじバンザイ(白黒、朝日放送、1965年9月15日)
  • 若さとリズム (カラー、NHK)- 第1回(1965年10月16日)・第5回(1965年11月20日)
  • 第16回NHK紅白歌合戦(カラー、NHK、1965年12月31日)
    2インチVTRの映像としては、全160分中の67分が現存が以前より確認されていた(キネコの映像は以前より全編の現存が確認されている)。なお、劣化による乱れあり、NHKアーカイブスの番組公開ライブラリーで視聴可能。その後2011年5月に、NHK局内にてすべてを収録したカラー完全版がたまたま発見された。東京都墨田区レトロエンタープライズの手で英国に持ち込まれ、英国にてダビング作業が行われた。その後、日本国内でスプライス箇所などの修復がなされた後、HDCAMにダビングされNHKに納品された[22]
  • 第3回新春ポピュラー歌手かくし芸大会(白黒、フジテレビ、1966年1月1日)
  • 氷点(白黒、NET(現・テレビ朝日)、1966年1月23日 - 4月17日)
  • 若者たち(白黒、フジテレビ、1966年2月7日 - 9月30日)
  • 東芝日曜劇場 シリーズ『春や春』(白黒、TBS、1966年 - )
  • デン助劇場(白黒、NET、1966年)
  • 桂文楽、三遊亭圓生、林家正蔵などの落語高座映像(白黒、TBS、1962年 - )
    • 落語研究会の模様やTBSテレビ「日曜寄席」で放送したもの。1970年11月頃よりカラー収録に。
    • 1966年、柳家小さん、立川談志、柳家さん治(現小三治)の三人が演じた蒟蒻問答の映像もある。
  • ザ・ビートルズ日本公演(カラー、日本テレビ、1966年6月30日・7月1日収録)
  • 東芝日曜劇場 シリーズ『天国の父ちゃんこんにちは』(白黒・カラー、TBS、1966年 - 1978年 )
  • 味覚糖トップ・バラエティー(白黒、1966年)
  • インターナショナルヘビー級選手権『ジャイアント馬場vsブルーノサンマルチノ』(カラー、日本テレビ、1967年3月7日)
  • 土曜ひる席 第4回(白黒、NHK大阪、1967年4月29日)
  • 日清ちびっこのどじまん・第2回日本一グランドチャンピオン大会(白黒、フジテレビ、1967年)
  • 第5回NHKイタリアオペラ公演(カラー、NHK、1967年)
  • ハノイ 田英夫の証言(カラー、TBS、1967年10月30日)
  • インターナショナルヘビー級選手権『ジャイアント馬場vs.クラッシャー・リソワスキー』(カラー、日本テレビ、1967年12月6日)
  • TBS歌のグランプリ(白黒及びカラー、TBS、1967年~1971年)
    ザ・タイガースザ・テンプターズザ・スパイダース等の出演番組。番組開始の1967年4月4日~8月15日及び8月29日は白黒放送、1967年8月22日及び9月5日以降はカラー放送である[23]
  • 男はつらいよ 第1回・最終回(白黒、フジテレビ、1968年10月3日・1969年3月27日)
  • インターナショナル選手権『ジャイアント馬場vsディック・ザ・ブルーザー』(カラー、日本テレビ、1968年2月28日)
  • 美空ひばりショー ひばりはひばり(カラー、NET、1968年)
  • JAPOP TOP10(白黒、東京12チャンネル、1968年4月1日)
    ザ・フォーク・クルセダーズが「イムジン河」を歌唱。諸事情により放送中止となり、2005年にテレビ朝日『報道ステーション』で初公開された。
  • 人に歴史あり(白黒のちカラー、東京12チャンネル、1968年5月15日 - )
    • 放送初期からの回が数多く残されている。
  • 報道特別番組「十勝沖地震被災地現地中継」(白黒、青森放送、1968年5月18日)[24]
  • インターナショナル選手権『ジャイアント馬場vsボボ・ブラジル』(白黒、日本テレビ、1968年6月27日)
  • 芸能百選 歌舞伎 「新皿屋舗月雨暈」(魚屋宗五郎)(カラー、NHK、1968年8月6日)[25]
  • 競馬中継(カラー、フジテレビ・関西テレビ、1968年~)
    • 日本ダービー(1968年7月7日)や天皇賞(1969年4月29日)、桜花賞、皐月賞、有馬記念(1969年12月21日)などの映像。
  • メキシコオリンピック(カラー、1968年10月12日 - 10月27日)
    • 男子マラソン、体操男子団体、男子サッカーなどの映像。
  • 特別番組『 川端康成氏を囲んで』(白黒、NHK、1968年10月18日)
  • 第10回日本レコード大賞受賞音楽会(白黒、TBS、1968年12月21日)
  • 日本レコード大賞10周年記念特番(カラー、TBS、1968年12月27日)
  • 夜のヒットスタジオ(フジテレビ、1969年2月24日(白黒)及び同年7月28日(カラー))
  • インターナショナル選手権『ジャイアント馬場vsザデストロイヤー』(カラー、日本テレビ、1969年3月5日)
  • ズバリ!当てましょう(カラー、フジテレビ、1969年3月29日)
  • 第41回選抜高校野球大会・決勝「三重堀越」(カラー、毎日放送、1969年4月6日)
  • サンテレビジョン 開局の挨拶(カラー、サンテレビジョン、1969年5月1日)
  • プロレス中継、ワールド大リーグ決勝戦『ジャイアント馬場vsボボ・ブラジル』(カラー、日本テレビ、1969年5月16日)
  • 特別番組『アポロ11号月着陸』(白黒、NHK、1969年7月21日)
  • 特別番組『月に立つ宇宙飛行士』(白黒、NHK、1969年7月21日)
  • 青森市堤川の氾濫映像(白黒、青森放送、1969年8月24日)[26]
  • なつかしの歌声(白黒、東京12チャンネル、1969年10月21日)
  • 世界ヘビー級選手権『アントニオ猪木vsドリーファンクjr』(カラー、1969年12月2日)
  • ドラマ『豆腐屋の四季』(白黒、朝日放送、1969年)
  • なつかしの歌声(白黒、東京12チャンネル、1969年12月16日) 岡晴夫ほか
  • オールスター大行進・第11回日本レコード大賞(カラー、TBS、1969年12月31日)
  • なつかしの歌声・年忘れ大行進(カラー、東京12チャンネル、1969年12月31日)

1970~1971年(一部)

  • なつかしの歌声(白黒、東京12チャンネル、1970年1月13日)
  • なつかしの歌声(白黒、東京12チャンネル、1970年2月9日)
  • なつかしの歌声(白黒、東京12チャンネル、1970年2月17日)
  • 幕開く日本万国博(カラー、1970年3月14日)
  • なつかしの歌声(カラー、東京12チャンネル、1970年5月19日)
  • テレビ爆笑10年史(カラー、フジテレビ、1970年7月14日)
  • レディズ・チャレンジボウル(カラー、NETテレビ、1970年8月21日収録)
    • 中山律子の女子プロボウリング公式戦初のパーフェクトゲーム。
  • なつかしの歌声(カラー、東京12チャンネル、1970年9月8日)
  • なつかしの歌声(カラー、東京12チャンネル、1970年11月17日)
  • 大河ドラマ 樅ノ木は残った 総集編(1970年12月30日、31日)
  • なつかしの歌声(カラー、東京12チャンネル、1971年2月23日)
  • 特別番組「沖縄返還協定調印」(カラー、NHK、1971年6月17日)
  • なつかしの歌声(カラー、東京12チャンネル、1971年10月30日)
  • なつかしの歌声(カラー、東京12チャンネル、1971年12月4日)
  • YTVサロン(カラー、読売テレビ、1971年12月9日収録?12月25日放送)
    • 三曲万歳などの映像。
  • なつかしの歌声(カラー、東京12チャンネル、1971年12月31日)

チェコ[編集]

  • Zlatý slavík 1966(白黒、チェコスロヴァキア国営テレビ プラハ局、1967年2月18日)
    チェコ=スロヴァキアのポップス歌手に与えられていたゴールデンナイチンゲール賞授賞式のライブ映像。1968年のチェコ事件後、行方が分かっていなかったVTRがプラハ市スミーホフにある市民会館の縁の下より発見された。テープはAmpex VR2000B(ドイツにあった機材をチェコに移送しレストアしたもの)によって再生され、2017年2月18日にチェコ国営テレビアートチャンネルで再放送された。

脚注[編集]

  1. ^ 稲津稔, 「時代を創った技術 国産放送用VTRの開発」『映像情報メディア学会誌』 59巻 2号 2005年 p.230-233, doi:10.3169/itej.59.230
  2. ^ 装置の製造番号は87・88号機で、大阪支社で使用されたものについては、ビデオヘッドのみが朝日放送に保存されているという。
  3. ^ 1959年11月及び12月の、毎日新聞マイクロフィルム版でのテレビ欄記事に記載されている。
  4. ^ 佐藤文彦, 「10. 録画機器」『テレビジョン』 14巻 6号 1960年 p.274-278, Template:Doi.org/10.3169/itej1954.14.274
  5. ^ 産業技術史資料データベース”. sts.kahaku.go.jp. 2020年3月26日閲覧。
  6. ^ おかあさんといっしょFUN BOOK内のインタビュー記事
  7. ^ a b VTR産業技術史の考察と現存資料の状況 - 国立科学博物館・技術の系統化調査報告 第I集
  8. ^ 「悲しい運命~消えゆく名場面」、1967年3月15日、日刊スポーツ
  9. ^ 名作ドラマが再放送されない「仰天理由」とは
  10. ^ The cultural challenge to globalisation : what is at stake for television archives? - FIAT/IFTA・2005年5月9日
  11. ^ Preservation of videotapes - FIAT/IFTA
  12. ^ VTR - 放送博物館所蔵資料
  13. ^ 芝電気VTRを国立科学博物館に寄贈 - アサカ・2013年7月10日
  14. ^ a b 発掘ニュースNo.12 『2インチVTR再生物語』~元祖アイドルグループも! - NHKアーカイブス番組発掘プロジェクト・2014年6月20日
  15. ^ 室蘭民報ニュース”. www.muromin.co.jp. 2020年3月25日閲覧。
  16. ^ レトロ通販のデジタルアーカイブ作業現場を取材する②放送用ビデオと近年の家庭用/業務用編 | ビデオSALON” (日本語) (2019年7月9日). 2020年3月28日閲覧。
  17. ^ テレセンミュージアム - 東京テレビセンター
  18. ^ 弊社における2インチVTRテープ アーカイブダビング作業について - レトロエンタープライズ
  19. ^ 下記の参考文献リンク「アメリカのカラーテレビの歴史」の項を参照のこと。
  20. ^ [1]
  21. ^ YouTube「京鹿小娘道成寺」尾上梅幸(CS伝統文化放送に於いての再放送より)
  22. ^ 社団法人 日本映画テレビ技術協会 会報掲載記事 - レトロエンタープライズ
  23. ^ 当時の朝日新聞縮刷版のテレビ欄にて記載されている。
  24. ^ (日本語) 1968 十勝沖地震, https://www.youtube.com/watch?v=erQtTVtPIF8 2020年3月27日閲覧。 
  25. ^ (日本語) 魚屋宗五郎, https://www.youtube.com/watch?v=uc2hPHOWlxU 2020年3月25日閲覧。 
  26. ^ (日本語) 1969 青森市 堤川の氾濫, https://www.youtube.com/watch?v=bNTyR4odE54 2020年3月27日閲覧。 

参考文献リンク[編集]