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1972年札幌オリンピック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1972年札幌オリンピック
第11回オリンピック冬季競技大会
XI Olympic Winter Games
開会式が行われた真駒内屋外競技場
開催国・都市 日本の旗 日本 札幌市
参加国・地域数 35
参加人数 1,006人(男子801人、女子205人)
競技種目数 6競技35種目
開会式 1972年2月3日
閉会式 1972年2月13日
開会宣言 昭和天皇
選手宣誓 鈴木恵一
審判宣誓 浅木文雄[1]
最終聖火ランナー 高田英基
主競技場 真駒内屋外競技場
真駒内屋内競技場
冬季
夏季
オリンピックの旗 Portal:オリンピック
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1972年札幌オリンピック(1972ねんさっぽろオリンピック)は、日本北海道札幌市1972年昭和47年)2月3日から2月13日まで行われた冬季オリンピックである。札幌1972(Sapporo 1972)と呼称される。アジアにおける史上初の冬季オリンピックであり、における史上初の冬季オリンピックでもある。

開催までのいきさつ

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記念貨幣(100円白銅貨)

札幌は、1940年に「アジア初の夏季オリンピック」として開催される予定であった1940年東京オリンピックの開催と同年に、「アジア初の冬季オリンピック」としての1940年札幌オリンピックの開催が決定していたものの、軍部の反対や1937年に勃発した日中戦争の激化を受けて、東京での開催とともに日本政府が開催権を返上してしまった。

その後、1960年にアベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長が日本での冬季五輪開催の可能性を示唆したことをきっかけに[2]、札幌市でもオリンピック招致を実現させようという機運が高まり、札幌も開基百年となる1968年の開催に立候補するが投票で敗れ、1964年12月に冬季五輪再招致を札幌市議会で決議し翌年1月に1972年大会招致申請を日本オリンピック委員会(JOC)に提出[3]。日本国内の招致ムードの盛り上がりを待ちつつ進める形とし、5月に招致委員会を設置、8月には政府に招致申請を提出し9月3日に閣議承認を受け、10月にはマドリッドでの第63回IOC総会にてブランデージIOC会長に立候補申請を提出[3]

招致活動については海外対策を地道かつ効果的な形とし、申請前時点で東京オリンピックの際に来日したIOCや国際競技団体の役員を札幌に招聘したほか、また1966年2月のさっぽろ雪まつりに各国大使公使や報道関係者、3月の宮様スキー大会に6カ国の役員選手を招聘。また手稲山回転競技コース・大倉山シャンツェの改修や真駒内距離競技コースの造成も行いつつ中央政界からも国立の冬季競技施設建設への支援を受け、民間からも運動資金が十分に供給され札幌市内各地区でも自主的な招致協力会が組織され招致ムードを盛り上げていった[3]

2度目の立候補となったこの時は、同じく前回の投票で敗れたカナダカルガリーと同じアルバータ州バンフとの事実上の一騎討ちとなった。

1966年4月26日イタリアローマで開催された第64回IOC総会において、開催地決定の投票が行われることになり、候補4都市中最後となったプレゼンテーションでは竹田恒徳JOC会長の挨拶と札幌の紹介フィルムの上映、東京大会招致にも携わった岩田幸彰による立候補状況の説明とともに「夏のオリンピックの花は見事に東京に咲いたが、30年間雪に埋もれた冬の花を是非とも札幌に咲かせて頂きたい」と最後に訴えた[3][4]

この時IOC委員の最長老であった高石真五郎は病気のため現地入りを断念し、その代わりとして自身のアピールコメントを録音したテープを同委員の東龍太郎に託した[3]

そして総会での投票直前、東が許可を得て高石のコメント音声を会場に流したところ、この「高石アピール」が委員の間で大きな反響を呼び、投票で札幌は32票を獲得。対抗都市はバンフ・カルガリーが16票で、フィンランドラハティアメリカソルトレイクシティが共に7票だったため、第1回投票での過半数獲得により札幌の開催が決定した。高石は総会から10ヶ月後の翌1967年2月25日に88歳で逝去した。

冬季大会は中止になった場合、回次が付かないため、公式的にも日本で冬季五輪初開催となった。

招致ポスター

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栗谷川健一によって描かれた、アットゥシを着用したアイヌの男性を前面に出したもので、背景には札幌市の当時の風景などが描かれている。栗谷川自身はアイヌの誇りを表現する意図でこのポスターをデザインしたが、デザインについては和人・アイヌ民族の双方から賛否が分かれる結果となった。ただ、批判的な意見については一様ではなく、アイヌ擁護の立場からステレオタイプなイメージが広まることを危惧した内容のもの(アイヌ側の意見としても北海道ウタリ協会によるコメント等が寄せられた)と、アイヌを過去の存在とする立場から日本代表としてふさわしくないとする内容のものに分かれた[5]

シンボルロゴ

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シンボルロゴ(オリンピックエンブレム)は、永井一正がデザインしたもので、1966年に選ばれた。上から白地に日本の日の丸を表す赤い正円・銀色地に雪の結晶を表した白の家紋「初雪」・白地に五輪マークと「SAPPORO'72」の文字をそれぞれ正方形の中に配したものとし[6]、永井のほか亀倉雄策1964年東京オリンピックのエンブレムを担当)、栗谷川健一、田中一光仲條正義原弘細谷巖和田誠を含めた計8名の「指名コンペ」だった[7]。永井によると、デザイン条件は「SAPPORO」と開催年と五輪マークと共に冬のイメージを入れることとされた[6]

初雪紋は、曲線的で日本らしさを表現するものとし、背景色は銀世界や雪の輝きをイメージするとともに、1964年東京五輪での金色を用いた配色と対照的となるように銀色とし、基本の縦一列のほか横一列や空白の正方形と組み合わせ、大きな正方形内にまとめるといった可変的な活用も可能な形とした[8][6]。のちに、テレビ番組『デザインあ』のインタビューコーナー「デザインの人」では、永井が一番気に入っているデザインだと述べている。この他、永井の提出した初期案として、第1案で大きな六角形内に日の丸と五輪マークを入れ、各頂点から3つずつ小さな六角形を伸ばし、下にSAPPORO'72と書いた雪の結晶の拡大図をイメージしたものや、第2案では縦の長円形を基調に内側の上から日の丸・五輪・初雪紋と、下部曲線内にSAPPORO'72と書いた形とするも、横での使用時に迫力がなくなることから、各要素をバラバラに活用することを模索し正方形の正式案となった[6]

ハイライト

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参加国・地域

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35か国・地域から1128人(男性911人女性217人)の選手と527人の役員が参加した[15]中華民国フィリピンは冬季オリンピックに初めて参加した。

()内は選手数: 男,女の順

実施競技と日程

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競技名 / 日付 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
開閉会式
スキー アルペンスキー
クロスカントリースキー
スキージャンプ
ノルディック複合
スケート スピードスケート
フィギュアスケート
アイスホッケー
ボブスレー
リュージュ
バイアスロン

国・地域別メダル獲得数

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リュージュ競技で、イタリアと東ドイツが同タイムになったため、金メダルの数は、銀メダルの数より2枚多い。

陶芸家の八木一夫とグラフィックデザイナーの田中一光によりデザインされた札幌オリンピックのメダル、造幣さいたま博物館にて展示。

開催国である日本選手団は金メダル1個銀メダル1個銅メダル1個を獲得した。

国・地域
1 ソビエト連邦 ソビエト連邦 8 5 3 16
2 東ドイツ 東ドイツ 4 3 7 14
3 スイス スイス 4 3 3 10
4 オランダ オランダ 4 3 2 9
5 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国 3 2 3 8
6 西ドイツ 西ドイツ 3 1 1 5
7 ノルウェー ノルウェー 2 5 5 12
8 イタリア イタリア 2 2 1 5
9 オーストリア オーストリア 1 2 2 5
10 スウェーデン スウェーデン 1 1 2 4
11 日本 日本(開催国) 1 1 1 3

会場

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真駒内屋内競技場
大倉山ジャンプ競技場

呼称はいずれも開催時の呼称である[16]

競技のために山腹の樹木を広範囲に伐採したことは、オリンピックによる自然破壊として一部から批判を浴びることになった。手塚治虫の『ブラック・ジャック』にもこれをモチーフとしたエピソードがある[要出典]。もっとも、オリンピック終了後に植林され、現在では、冬季積雪時によく注意してみないとコース跡がわからない程度には復旧している。なおこの一件が、のちの1998年長野オリンピックにおける滑降競技場設営問題につながることになる。

次期開催都市の変更

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1972年2月13日に行われた閉会式では、「デンバー'76」との掲示がされてアメリカ国歌が演奏された。次期冬季五輪1976年大会の開催地がアメリカのデンバーに決まっていたためである。ところがこの後、同市が財政難を理由とする(異論も存在する)地元住民の強い反対により開催を返上し、1976年大会はインスブルックに変更となった。なお、大会旗の引き継ぎ式は当時の慣例通りに、インスブルックオリンピックの開会式の中で板垣武四札幌市長出席のもと行われた。

開催による影響

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世界的にも稀な積雪都市として有名な札幌の交通環境を向上させた地下鉄札幌市営地下鉄)開通や、地下街さっぽろ地下街)の建設、真駒内地区の整備や市街の近代化などインフラ整備に多大な貢献をしたと評価されている。

またインフラ整備だけでなく、オリンピックの開催により札幌の知名度が世界的に向上し、国際化に大いに役立った。北米大陸では三菱自動車がその知名度の向上に着目し、「sapporo(日本名はギャランΛ)」という名称の車種を売り出すなどの事例もあった。さらに冬季スポーツ用施設が充実したことにより、後にスキージャンプFISワールドカップに組み込まれるなど、アジアの冬季競技の拠点としての地位を築いたといわれる。

関連作品

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記録映画

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1964年東京オリンピックと同様に記録映画が作られた。タイトルは「札幌オリンピック」で、監督は篠田正浩。同年夏に公開。2部構成の大作で、「東京オリンピック」と比較すると記録性に配慮した手堅い作りになっている。2005年東宝からDVDが発売された。

映像作品

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札幌オリンピック35周年記念番組として、2007年2月25日TBS系列で、HBC北海道放送制作のテレビドラマ『たった一度の雪 ~SAPPORO・1972年~ 』が放送された。

レコード

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  • 札幌オリンピック冬季大会行進曲集(制作:札幌オリンピック冬季大会組織委員会)1971年8月製作

開催後の再招致活動

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1984年冬季オリンピック招致活動

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1984年に2回目の冬季オリンピックを開催しようと立候補したが、サラエボに敗れた。背景には72年大会当時、スキー競技のコースを造成する際に恵庭岳の山林を伐採するといった開発行為が行われたため、環境保護団体などからの批判が噴出し、招致を逃したとされている。

2016年夏季オリンピック招致活動

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2016年に夏季オリンピックを開催しようと東京都福岡市とともに立候補という声が、自民党の一部議員から起こった。実現すれば史上初めての夏季・冬季両五輪開催都市として話題を集めるはずだったが、上田文雄札幌市長は市議会で財政難に伴い辞退を表明した。

誘致に際して札幌市は市民アンケートを行い、「反対」が「賛成」をわずかながら上回っていたとした。アンケート対象は20歳以上の市民1万人、回答はその約半分の5103人であった。実数としては、「反対」が35.3%、「賛成」が33.3%、「どちらともいえない」が26.9%、「関心がない」が2.3%の内訳となり、「反対」と「賛成」の差はわずか102人だった。

また、札幌市の姉妹都市であるミュンヘンは、2018年冬季オリンピック開催都市に立候補した。開催が実現すれば史上初の夏季・冬季両五輪開催都市となるところだったが、平昌に敗れ、実現には至らなかった。両市はともにFIFAワールドカップとオリンピックを開催したことのある数少ない都市である。一方、2008年北京オリンピックを開催した北京2022年冬季オリンピック開催都市に立候補し、2015年7月31日のIOC総会で開催都市に決定。これにより、史上初の夏季・冬季両五輪開催都市となった。[注釈 1]

本大会以降の冬季オリンピック招致活動

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2014年11月27日、札幌市は2026年に開かれる冬のオリンピックとパラリンピックの開催都市に、立候補する方針を正式に表明した[18]。 招致が実現すれば、日本では2020年夏の東京大会から僅か6年の間に2回、オリンピックとパラリンピックが開催されることになるはずであった[注釈 2]。しかし、2022年の冬季オリンピック開催都市が北京に決定したことから、2018年平昌オリンピックから3大会連続してアジアでの冬季オリンピック開催は非常に難しいとの見方[19]がそもそもあった。

そのようななか、2018年5月10日、2030年度の北海道新幹線の札幌延伸など市街地の大型再開発等の事業と歩調を合わせて2030年大会の招致を望む声が経済界を中心に大きいため、札幌市が地元の要望を踏まえて、目標を2030年大会に変更したいとの意向を日本オリンピック委員会に伝えた。両者は変更の是非を検討していくとした[20]が、同年9月6日に発生した北海道胆振東部地震によって招致活動が困難となり、9月17日に2026年五輪招致を断念することをIOCに伝達、IOC側も理解を示し、2030年大会を目指すこととなった[21]。なお、2026年冬季オリンピックは、2019年6月24日スイスローザンヌで開催された第134次IOC総会において、イタリアミラノコルティナ・ダンペッツォでの開催が決定した[22]

脚注

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注釈

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  1. ^ なお、2020年東京オリンピックでは、札幌ドームサッカー一次予選(男子女子とも)が開催されたほか、男女のマラソン・競歩が東京の高温を理由にコースを札幌市内に変更して実施されたため、これを含めると札幌市は五輪史上初の夏季・冬季両五輪競技開催都市となる。尚、一部競技に限定した場合、長野県軽井沢町1964年東京オリンピック総合馬術と、1998年長野オリンピックカーリングの会場となっており、こちらが史上初の夏季・冬季両五輪競技開催地になる
  2. ^ 2020年夏の東京大会の開催は翌年2021年に延期された

出典

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  1. ^ 朝日新聞1972年2月3日付夕刊1面
  2. ^ 日本に開催能力冬季五輪ブIOC会長語る - 北海道新聞1960年2月27日朝刊7面
  3. ^ a b c d e 第1章札幌オリンピックの招致 3再立候補と栄誉獲得 - 第11回オリンピック冬季大会札幌市報告書(札幌市総務局 1972年)
  4. ^ 日本で開催された2つの冬季大会【冬季オリンピック・パラリンピック大会】 - 笹川スポーツ財団
  5. ^ 札幌オリンピック招致ポスターから見える北海道・アイヌと内地の境界 | CiNii Research
  6. ^ a b c d 第8回 永井一正(1) - 日本オリンピック委員会(Internet Archive)
  7. ^ 札幌冬季オリンピック シンボルマーク 日本デザインセンター
  8. ^ オリンピックの象徴であるエンブレム。2020年東京五輪は江戸の伝統「市松模様」がモチーフ - オリンピックチャンネル 2018年12月26日
  9. ^ <札幌アーカイブス 1922-2022>①アジア初の冬季五輪開幕(1972年2月3日)”. 北海道新聞 (2022年1月20日). 2025年11月2日閲覧。
  10. ^ 過去の2名は1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック1936年ベルリンオリンピックにおけるアドルフ・ヒトラーと、1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピック1960年ローマオリンピックにおけるジョヴァンニ・グロンキ
  11. ^ a b c d www.Olympic.org
  12. ^ 1972札幌(10)札幌を救った「世界で最も悪質なスキーヤー」と酷評された選手のフェアプレー – 産経新聞2017年4月11日付記事 2022年10月15日閲覧
  13. ^ aolhometown
  14. ^ 日本放送協会総合放送文化研究所放送史編修室『NHK年鑑'72』日本放送出版協会、1972年、9,58頁。 
  15. ^ オリンピック公式報告書(英語/仏語)P228-229
  16. ^ 札幌オリンピック冬季大会組織委員会『札幌オリンピック冬季大会1972 公式総合版』実業之日本社:発売、1971年、p90~139
  17. ^ 前掲『札幌オリンピック冬季大会1972 公式総合版』p182~183
  18. ^ 2026年冬季オリンピック・パラリンピック招致に向けて 札幌市 2015年8月31日閲覧
  19. ^ 札幌市長、2026年五輪招致を正式表明 課題も多く 日本経済新聞 2021年2月12日閲覧
  20. ^ 札幌市の冬季五輪招致、2030年に変更要望 2026年から先送り、JOCに伝達[リンク切れ]
  21. ^ 五輪=2026年冬季大会、札幌市が地震の影響で招致断念 30年に変更へ ロイター 2021年2月12日閲覧
  22. ^ Milan-Cortina awarded the Olympic Winter Games 2026 - Olympic News” (英語). International Olympic Committee (2019年6月24日). 2021年2月12日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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