荒井注
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本名 |
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ニックネーム | 注さん |
生年月日 | 1928年7月30日 |
没年月日 | 2000年2月9日(71歳没) |
出身地 |
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身長 | 158cm |
言語 | 日本語 |
方言 | 共通語 |
最終学歴 | 二松學舍大学文学部国文学科 |
グループ名 | ザ・ドリフターズ(1974年脱退) |
芸風 | コント |
事務所 |
渡辺プロダクション ↓ 個人事務所 |
活動時期 | 1964年 - 2000年 |
過去の代表番組 |
8時だョ!全員集合 時間ですよ・昭和元年 江戸川乱歩の美女シリーズ |
他の活動 | 俳優 |
配偶者 | 既婚(離婚歴あり) |
受賞歴 | |
新人助演男優賞 |
荒井 注(あらい ちゅう、1928年(昭和3年)7月30日 - 2000年(平成12年)2月9日)は、日本のコメディアン、俳優。ザ・ドリフターズ元メンバー。
本名は
来歴[編集]
旧制日本学園中学校を経て、立教大学文学部宗教学科を中退後、二松學舍大学文学部国文学科卒業。
大学卒業後は脚本家を目指しながら、音楽バンドグループ『クレージーウエスト』のバンドマンを務めていた。二松學舍大学卒業後に教師を務めた事があるとの文献もあるが、真偽は不明である。ただし、中学と高校の国語の教員免許は持っていた[1]。芥川龍之介や太宰治を愛読する文学青年という一面もあった。
ザ・ドリフターズ時代[編集]
1964年、「トリスのおじさんみたいな面白い顔をした奴がいる」との評判を聞きつけたいかりや長介にスカウトされて、ザ・ドリフターズに参加。担当楽器はピアノだが、ロカビリーのスリーコードしか弾けなかったという話がある。その一方で、「速弾きを得意とした」(居作昌果)や「一応弾けたが、指が短いために時々半音ずれた」(加藤茶)とも言われている。
いかりや長介の著書には、荒井の背の低さとピアノの演奏力をチェックしなかった事が失敗だったとある。しかし、この人選の失敗が「ふてぶてしい」荒井のキャラクターと相まって、ドリフの人気に繋がった。
ドリフ入りした直後、渡辺プロダクションの重鎮で、加藤を始め多くの芸名の命名に携わったハナ肇に、ハナの「芸人は水に関係する名前が良い」という考え方から、「〜を注ぐ」から採って「注」という芸名を名付けられた。加藤曰く「要注意人物」だからだという説もある。
いかりやよりも3歳年上だったが、デビューからしばらくの間は年齢を6歳若くごまかして公表しており、なおかつドリフのメンバー達も彼の実際の年齢を知らなかった。年齢をごまかしていた理由は、ドリフのメンバー達には「リーダーの長さんより俺が年上だと具合が悪いから」と説明していたが[2]、本当のところは女性にもてたかったのではないかと、いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中でコメントしている[3]。
ドリフでは「This is a pen!」のギャグで人気者になった。コントでは「威張り散らすいかりやをシラっとした目で見、無視をし、いかりやに怒られてふてくされながらギャグを言う」というパターンが受けた。学校コントでは、「先生役のいかりやと同級生の落第し続けた生徒」という設定であった。中でも代表的なギャグ「何だバカヤロウ!」[4]、「文句あるか!」、「何見てんだよ!」は流行語となり、ドリフ脱退後のピンでの活動でも頻繁に使用した。このうち「何だバカヤロウ!」は、ピアノ担当なのに鍵盤が弾けない事を加藤茶にからかわれたときに言い返したのが発端であり、いわゆる逆ギレ芸の先駆けとも言える。
ドリフ在籍の後半は「ハゲキャラ」としていじられることが多く、当時『8時だョ!全員集合』のコーナー『少年少女合唱隊』で共演した由紀さおりからは、数え歌まで披露されている[5]。
1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフを脱退。TBSプロデューサーの居作昌果によれば、いかりやのワンマンが気に入らなかったことや、ギャラの配分をめぐる不平なども関係していたとされる。一般発表したのは『8時だョ!全員集合』の生本番中で、いかりやによって発表されたが、いかりやのコメントは、「(荒井は)暫くお休みをいただく」というものであり、脱退するとは一言も発しなかった。
荒井の後任には、ドリフのボーヤをしていた志村けんが加入した。なお、新生ドリフメンバーの脱退は荒井が最初ではなく、結成翌年の1965年頃に綱木文夫が脱退(この時は新メンバーを募集しての補充は行われず)して以来2人目である。
ザ・ドリフターズ脱退後[編集]
「芸能界を引退する」と言ってドリフを脱退したが、わずか半年後に芸能界に復帰したため、和解に3年を要したという話もある[6]。
その後もドリフの番組にゲスト出演しており、『全員集合』の最終回にもゲスト出演している。また、藤村俊二とのコンビで『なるほど!ザ・ワールド』にも準レギュラーとして出演していた。
俳優としての活動も展開し、土曜ワイド劇場の人気シリーズである井上梅次監督、天知茂主演『江戸川乱歩の美女シリーズ』に1978年の第2話より明智の盟友、波越警部役で出演。天知の死去により最終作となった1985年の第25話まで演じた。
1991年、38歳年下の信用金庫職員だった女性と3度目の結婚をした。
1992年、嘉門達夫の替え歌メドレー3(完結編)に、ゲスト・ボーカルとして登場。これが荒井最後のシングル曲となった[7]。
晩年は静岡県伊東市に移住し、個人事務所・荒井注事務所を自宅内に設置していた。伊豆でカラオケボックス経営事業を発案し、建物を建設したが、完成した建物の入口が狭すぎてカラオケ機材の搬入が出来ないというミスから、建物はそのままで経営を断念した事がある。この件はワイドショーで取り上げられるなど話題になり、レポーターに対し「何だバカヤロウ!」と往年のギャグを発した。なおこのカラオケボックスになる予定だった建物はその後廃墟化し、2020年現在も現存している。
2000年正月放送のフジカラー「お正月を写そう」の広告撮影は、弁才天役の田中麗奈とドリフメンバー5人に加えて、荒井も毘沙門天役で共演し、これが荒井を含めたドリフのメンバーが全員集合した最後の映像となった。当初、荒井は出演メンバーに含まれていなかったが、七福神役が1人足りなかったため、広告代理店が荒井に声を掛けたところ荒井が承諾し、出演が決まった。
2000年2月9日午前4時30分、伊東の自宅において、入浴中に肝不全のため急死。71歳。弔辞はいかりやが担当した。遺骨はオーストラリアのケアンズに散骨された。以下はいかりやによる弔辞である。
「出発間際の忙しい時に、とあんたは大変怒るかもしれないけど、ちょっとお話しましょうや。去年の暮れに会った時(フジカラーの広告)、あれは良い仕事だったよね。あんたも現場に入った時より、帰る時の方が元気だったもん。みんなも喜んでた。本当に良い仕事だった。あれ、覚えてるかな? あのときあんたがさ、『今度は医者の言うことをよく聞いて、早く飲んでも良いってお墨付きをもらってくるから、一緒に飲もう』って約束したこと。結果的にあれが最期の言葉になっちゃったよね。今日ねえ、みんな来たかったろうけど、そうもいかなくて。浮世のしがらみって奴で、高木と志村は仕事でね。加藤はさあ、これが笑っちゃうんだけど、渋滞にはまっちゃって。あいつらしいな。あんたが行っちまうのを遅らせようとしてねえ。いまハラハラ、ドキドキして向かっているとこだと思うよ。あんたもあれでねえ、よっぽど偉い人というか、変な人というか…。カラッケツでドリフを始めて、飛行機で言えば離陸する大変な時に乗っていてくれて、それから何とか先が見えてきて、さあ、これから楽になるぞ、お金も儲かるぞという時にあんた、辞めちゃった。あの時はあんたの人生哲学が理解できなかった。でも『極力みんなに迷惑かけないように、半年、お礼奉公する』って言って、辞めると言ってからも半年は続けてくれた。あの半年のあんたは凄かった。あれは凄かった。鬼気迫るというのかな、本当に面白かった。あんまり面白かったから、気が変わって『残る』と言うかなとも思ったけれど、あんたとうとう言わなかったね。スパッと辞めちゃった。もうあんたは行くんだよな、止めても無駄だというのは分かってはいるけど、こっちはあの時と同じ立場にいるような気がするよ。行くな、とは言わないぜ。でも途中、気を付けてな。飲もうぜ、絶対に飲むんだよ。飲まなきゃ駄目だ。飲むんだよ。おい、飲むんだぞ! 長話すると嫌われるから、この辺でな。飲む場所はあんたが決めといてくれ。じゃあ、いずれ」
この後、いかりやが「じゃあ、いずれ」の言葉通り他界したのは、4年後の2004年3月20日であった。さらに、その16年後の2020年3月29日には荒井の代わりにメンバー入りした志村けんも死去。荒井の死後、いかりやは荒井を追悼する意味合いも込めて、荒井との思い出を書き綴った自伝『だめだこりゃ』を出版。この『だめだこりゃ』は、いかりやの存命中に文庫化もされた。
荒井の出棺時、霊柩車のクラクションと同時に参列者全員が、荒井のギャグ「何だバカヤロウ!」を叫んで見送った。インタビューを受けた仲本工事は、「私らの方が『何だバカヤロウ!』ですよ」と泣きながら答えていた。
出演作品[編集]
ドリフメンバーとしての出演は、「ザ・ドリフターズ」を参照。
テレビドラマ[編集]
- 時間ですよ・昭和49年(1974年〜1975年、TBS)※『8時だョ!全員集合』の客員ディレクターを務めた事もある久世光彦の出演要請により、本作で芸能界へ復帰した。
- ばあちゃんの星(1975年、TBS)
- 土曜ドラマ・松本清張シリーズ・遠い接近(1975年、NHK) - 古参兵 役
- 花吹雪はしご一家(1975年 - 1976年、TBS) - 熊平 役
- 金曜ドラマ・美しき殺意(1976年、TBS)
- 土曜ワイド劇場・江戸川乱歩の美女シリーズ(テレビ朝日系)
- 飛べ!孫悟空(TBS)- ハダカ大王、薄井二等兵 役
- UFOセブン大冒険(1978年、TBS)- 隣のオヤジ 役
- マジカル7大冒険(1978 - 1979年、TBS) - 塾長 役
- ムー一族(1978年 - 1979年、TBS) - 住職 役
- 大岡越前 第5部 第20話「酒に呑まれた男」(1978年6月19日、TBS) - 留造 役
- 土曜ドラマ・松本清張シリーズ・天城越え(1978年10月7日、NHK) - 菓子屋 役
- 少女探偵スーパーW(1979年、TBS) - マスター 役
- 雲霧仁左衛門(1979年、KTV) - 富の市 役
- ミラクルTV大出動(1979 - 1980年、TBS)
- なぜか初恋・南風(1980年、TBS) - 忠八 役
- 大河ドラマ(NHK)
- 爆走!ドーベルマン刑事(1980年、テレビ朝日系) - 総務経理担当・森鉄之介 役
- 傑作推理劇場・砂の密室(1981年、テレビ朝日系) - 捜査係長 役
- 花王名人劇場「マイウェイTOKYO」(1981年、フジテレビ系・関西テレビ制作)- はとバスの運転手 役
- 意地悪ばあさん さよならスペシャル「天国と地獄の巻」(1982年、フジテレビ) - 仏様 役
- 月曜ドラマランド(フジテレビ)
- 脱兎のごとく 岡倉天心(1985年、NHK)- 高松 役
- うちの子にかぎって…パート2 第5話「スチュワーデス物語」(1985年、TBS) - 井田義輔 役
- 花の女子校 聖カトレア学園(1985年- 1986年、テレビ東京系) - 先代園長の忠太郎の幽霊 役 ※視聴者お便りコーナーも担当
- 花嫁人形は眠らない(1986年、TBS) - 佐伯住職 役
- 木曜ドラマストリート 「ぼくらの時代」(1986年、フジテレビ)
- やったぜベイビー!(1986年、日本テレビ) - 竹村大三郎 役
- さすらい刑事旅情編 第10話「山手線から誘拐された美人OL」(1988年、テレビ朝日)
- はぐれ刑事純情派(1990年) ‐ 塩崎悟
- さくらももこランド・谷口六三商店(1993年、TBS) - サティーシュ(インド父) 役 ※随所にドリフ時代のギャグを投入
- 徹底的に愛は…(1993年、TBS)※テレビドラマでは唯一となるいかりやとの共演作品。CM前には全員集合の幕引きジングルが挿入された。
- 牟田刑事官事件ファイル(テレビ朝日)
- 美人殺しシリーズ(テレビ朝日)
映画[編集]
- こちら葛飾区亀有公園前派出所(1977年、東映)
- 翼は心につけて(1978年、共同映画)
- 走れトマト にっぽん横断300キロ(1978年、日活)
- 博多っ子純情(1978年、松竹)
- 本日ただいま誕生(1979年、東映)
- ピーマン80(1979年、東宝)
- さらば、わが友 実録大物死刑囚たち(1980年、東映)
- 胸さわぎの放課後(1982年、東映)
- 三等高校生(1982年、東宝)
- 探偵物語(1983年、東映)
- 火宅の人(1986年、東映)
- 波光きらめく果て(1986年、松竹)
- 姐御(1988年、東映)
- ハリマオ(1989年、松竹)
- 病院へ行こう(1990年、東映)
- 極道の姐 玲子(1994年、ケイエスエス)
ゲーム[編集]
- 3DOアドベンチャーゲーム「西村京太郎 悪逆の季節 東京〜南紀白浜連続殺人事件」- 亀井刑事 役
人形劇[編集]
- ヤンマーファミリーアワー 飛べ!孫悟空(TBS系) - ハダカ大王、薄井二等兵 役
バラエティ[編集]
- 今夜は最高!(1984年、日本テレビ)※パートナーは野川由美子
- なるほど!ザ・ワールド(フジテレビ系)※解答者として藤村俊二とペアを組んでいた。
- ドリフ大爆笑(フジテレビ系)※ザ・ドリフターズから脱退後。2回ゲスト出演。
- おもしろ博士クイズ(日本テレビ系)※レギュラー出題者「ドクター注」として登場。前の2人の博士の意見に対し、「違うなァ、2人とも」と言うのが口癖だった。
- ダウトをさがせ!(TBS系列・毎日放送制作)※クイズの出題映像に通行人のようにさりげなく映っていたり、扮装をしたりする等して隠れていた。正解発表時には最後に「何だバカヤロウ」と発していた[8]。
- とんねるずのみなさんのおかげです(フジテレビ系列)全盛期の当番組の人気コーナーである保毛尾田保毛男シリーズの「保毛太郎侍」にレギュラー出演した。
広告[編集]
- 日本ハム スイフトローフ
- 明治製菓(現・明治) ヤンヤン(1980年)
- サンヨー食品 サッポロ一番ほたてラーメン(1984年)
- アース製薬
- サンスター ヘアークロン(1985年)
- 資生堂ドルックス
- 日清食品 らうめん
- 日立製作所 パーソナルファクシミリ「美写文」 ※松雪泰子と共演
- ハドソン
- 日本レダリー アペイン
- NTTドコモ※竹中直人、細川直美と共演(1996年頃)
- フジカラー(2000年)
舞台[編集]
- 劇場空間天外ごっこ 誰がハドソン夏まつり'95 - 座長
音楽[編集]
- ザ・花ざかり(1983年12月16日[9]、東芝EMI ETP-17572)
- 替え唄メドレー3(完結編)、替え歌大メドレー(1992年1月1日[10]、ビクター) ※ゲストヴォーカル
- 両曲とも、終盤のPINK SAPPHIRE『P.S. I LOVE YOU』の替え唄歌唱と、沢田研二『勝手にしやがれ』の強引な短縮を受けてのリアクションを担当。
脚注[編集]
- ^ “お笑い芸能人の引き際とは 「荒井注さん」の場合”. 2020年4月2日閲覧。
- ^ “サバ読み“最高記録”はいくつ?”. 東京スポーツ (2012年7月30日). 2012年8月23日閲覧。
- ^ ただし、ハナ肇とクレージーキャッツも7人組だったが、リーダーのハナ肇より年下だったのは谷啓と安田伸だけで、後のメンバーはハナより年上だった。ちなみに荒井はハナより年上である。
- ^ その後、志村けんが言い方を変えて「あんだバカヤロー!」というギャグが生まれた。
- ^ 「♪一つ二つはいいけれど〜、三つ醜いハゲがある〜、四つ横にもハゲがある〜、五ついつでもハゲがある〜、六つ向こうにハゲがある〜、七つ斜めにハゲがある〜、八つやっぱりハゲがある〜、九つここにもハゲがある〜、十はとうとうツルッパケ!」
- ^ ただしこれは本人の意志ではなく、復帰作となった『時間ですよ昭和元年』を手掛けた久世光彦が荒井のカムバックを執拗に要求して引かなかったための止むを得ない措置であったと久世とTBS時代の同僚で『8時だョ!全員集合』プロデューサーだった居作昌果が著書『8時だョ!全員集合伝説』で述懐している。
- ^ 曲中に荒井のネタがあった事が縁
- ^ 後任は井手らっきょ
- ^ a b c 「ザ 宴会ソング」『読売新聞』1983年12月13日付夕刊、11面。
- ^ 前者が収録されたシングル、後者が収録されたアルバムとも同じ発売日。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]