高木守道

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高木 守道
Takagi morimichi.jpg
2012年8月28日、こまちスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岐阜県の旗 岐阜県岐阜市
生年月日 (1941-07-17) 1941年7月17日
没年月日 (2020-01-17) 2020年1月17日(78歳没)
身長
体重
174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1960年
初出場 1960年5月7日
最終出場 1980年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1978 - 1986, 1992 - 1995, 2012 - 2013)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2006年
選出方法 競技者表彰

高木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - 2020年1月17日[1])は、プロ野球選手内野手)・監督野球解説者愛知県名古屋市生まれ[2]岐阜県稲葉郡鏡島村(現:岐阜市)育ち[3]

現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、「プロ野球史上最高の二塁手」と称されることも多い[3]。引退後はコーチ・監督を歴任した。初代・西沢道夫や3代目・立浪和義とともに2代目「ミスタードラゴンズ」と呼ばれる。2007年1月 - 2012年11月25日まで中日ドラゴンズOB会会長[4]

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

岐阜市立鏡島小学校岐阜市立精華中学校出身[5]1951年8月19日、当時10歳だった高木は後に自身が選手としてプレーした中日スタジアム(1976年シーズンより「ナゴヤ球場」に名称変更)の1塁側スタンドで兄とともに読売ジャイアンツ(巨人)戦を観戦していたが[注 1]、その試合の3回裏に球場ネット裏上段から出火した[6]。この火災は内野席・球場施設がほぼ全焼し死者3人・重軽傷者318人を出す大惨事(中日スタジアム火災)となったが、高木は危うく事無きを得た[6]

中学で野球部に入部し、1957年には岐阜県内の名門として知られる県立岐阜商業高校に進学した[3]。当初は遊撃手だったが、肩を痛めて二塁手に転向[注 2]。高木の入学直後、野球部は打力向上のため東京六大学野球で活躍していた長嶋茂雄(当時立教大学4年生)を特別コーチとして招聘したが、高木は長嶋から二塁手として高い評価を受け[3]、自身も長嶋を目標に野球人生を歩むこととなった[7]。1年夏で早くもレギュラーになり[3]、2年上のエース清沢忠彦を擁した1957年夏の甲子園に出場。準々決勝で大宮高に敗退。3年生になった1959年には春の選抜に出場して[3]決勝まで進んだが、中京商業の平沼一夫(中京大西濃運輸東京オリオンズ)に抑えられ2-3で惜敗、準優勝に終わる[注 3]。同年夏は県予選決勝で、後にプロで同僚となる高木一巳のいた大垣商に完封負け。

現役時代[編集]

1960年に地元・東海地方に本拠地を置く中日ドラゴンズに入団[3]。高校卒業後は早稲田大学へ進学することが決まっていたが[8]、中日は球団と県岐阜商高のOBである国枝利通を通じて高木を翻意させ、入団を実現させた[3]。春季キャンプでは当時の監督杉下茂から「守備はすでに完成されている。打撃も勝負強い」と、ヘッドコーチ天知俊一からも「高校生離れしたプレー。プロ顔負け」とそれぞれ高い評価を受けた[3]

プロ入りから3年目(1962年)までの背番号は41[9]、同年5月7日の対大洋ホエールズ戦(中日球場)を前にレギュラー選手に故障者が出たことから内野手の控え選手として一軍初昇格を果たし、同試合の7回に代走で初出場すると二盗(初盗塁)に成功した[8]。そのまま二塁手として守備に就き、8回には宮本和佳からプロ入り初打席初本塁打を打ったが、試合には敗れた[8]。シーズン中盤からは内野のユーティリティプレイヤーとして20試合に先発出場。翌1961年は二塁手、三塁手として62試合に先発出場。1962年には南海ホークスから移籍入団した半田春夫から「メジャーリーグでは当たり前のプレー。セーフになるはずの走者をアウトにできれば試合の流れを変えられる」として「バックトス[注 4]を教わり、首脳陣から「基本を無視する無謀なプレー」と批判されても翻意することなく、数年間にわたり猛練習を積み重ねたことで自身の代名詞的プレーとして確立した[注 5][10]

半田が退団した1963年には、その後継として二塁手のレギュラーとなり[2]、同年(プロ4年目)から背番号も1に変更した[3]規定打席(19位、打率.254)にも到達。同年には50盗塁を記録して最多盗塁のタイトルを獲得[2]中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に代わり、江藤慎一とともに中日の新たなスター選手となった。以後1965年1973年と3度の盗塁王に輝く俊足に加えて、打撃では1969年に24本塁打するなど通算236本塁打を記録しており、守備ではバックトスやグラブトスなどを度々披露した[2]

1965年には打率.302(4位)、1966年にも打率.306(6位)と二度の打率3割を記録。しかし1968年5月28日の巨人戦(後楽園球場)で堀内恒夫から顔面に死球を受け[11]、一時は意識不明となる。その影響で首から左肩・背中にかけて痛みが残り、同年以降は長期にわたる打撃成績の低迷を余儀なくされた[11]。さらに死球禍から3年後の1971年9月2日にも巨人戦(中日球場)で再び堀内から頭部に死球を受け、その際には激昂して堀内にヘルメットを投げつけた[注 6][11]。しかし1972年に打撃コーチとして中日に加わった徳武定祐から「バットをミートポイントへ最短距離でぶつける」打撃フォームへの改造を提言され、二人三脚でそれまでのアッパースイングから一転してダウンスイングの練習に取り組んだところ、1973年にはそれまで5年連続で2割5分台止まりだった打率を.273まで回復させ、28盗塁も記録したことで3度目の盗塁王を獲得した[12]。そしてプロ15年目の1974年には経験に裏打ちされたプレーでチームを牽引し、10月12日には巨人のセ・リーグ10連覇を阻止する形でチームのセ・リーグ優勝[注 7]に貢献した[13]

初打席初本塁打を記録した選手で通算200本塁打、通算2000安打を記録した選手は高木が初めてであり[14]、また通算で200本塁打・200犠打を併せて記録した選手も髙木が初めてである[15]

1974年、優勝決定翌日の10月13日に予定されていた後楽園球場の対読売ジャイアンツシーズン最終戦ダブルヘッダーは、長嶋茂雄の引退試合であったが、降雨で14日に順延してしまい、中日の優勝パレードと日程が重なった。そのため、大島康徳藤波行雄などの若手や、引退直前だった広野功を含む準レギュラー級選手のみを出場させ、中日のレギュラー選手は同日の名古屋での優勝セレモニーのために欠場するよう球団に言い渡された。この通達に高木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回と「それが無理ならばせめて自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかしその願いは聞き入れられず、高木は優勝セレモニーで終始むすっとした表情をしていた。高木はのちに長嶋へ電話し、謝罪したという[16]

ロッテオリオンズと対戦した同年の日本シリーズでは、第1戦(中日球場)の9回裏に村田兆治から逆転サヨナラ二塁打を打つなど大活躍する[17]。2勝1敗で迎えた第4戦(後楽園球場)でも金田留広から初回先頭打者本塁打を放つが、その試合の3打席目(5回)で自打球を左足首に当て負傷(全治3週間の骨折してしまう[17]。高木は第6戦で復帰し、シリーズ通算22打数8安打1本塁打を記録して敢闘選手賞を獲得したが、チームはロッテに敗れ日本一を逃した[17]

1975年にも打率.298(4位)を記録。1978年4月5日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)で、1回表、高橋里志から中前安打を放ち、日本プロ野球(NPB)史上11人目、中日の生え抜き野手としては初となる、通算2000本安打を達成した[注 8][2]

1979年にも38歳ながら打率.300(14位)と気を吐くが、視力の衰えもあり、中利夫が監督に就任した1980年限りで現役引退[2]。二塁手としてベストナイン7回は史上最多である。同年シーズン終了後にナゴヤ球場で行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年引退した1歳上で自身より1年早くプロ入りした王貞治とともに引退セレモニーが行われた。引退の際には「王さんが引退したら自分がプロ野球選手で最年長になる[18]。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、自分にはそのプレッシャーに耐えられる強さがなかった」と発言している。翌1981年のオープン戦で引退試合が行われた。

引退後[編集]

一軍作戦守備コーチ(1981年 - 1983年)、二軍監督(1984年 - 1985年)、一軍守備コーチ(1986年)を務めた[2]。1986年には山内一弘監督の途中休養を受け、同年7月6日からシーズン終了まで代理監督を務めた[2]

第1次中日監督時代[編集]

1987年からCBC野球解説者となるが、1991年オフ、星野仙一の監督の辞任を受け、後任として監督に就任する[2]。初年度となった1992年は、シーズン後半に上位チームに善戦するものの、主力選手の故障等も響いて60勝70敗の最下位となる。なお、この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった。

1993年は優勝したヤクルトに前半大差をつけられるも、後半一時は逆転して首位に立ったが、最終的に2位となる。特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロホームラン1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られて大逆転負けを喫した。高木は試合後「私が悪かった」と選手に頭を下げ、シーズン終了後には「中日がペナントをとれなかったのは、この試合にある」とまでいわれた[19]。また、落合博満は後に自著でこの試合を振り返って「勝負事では驕りは禁物である。誤った采配を招くからである」と、中4日でこの試合でも102球投げていた山本を代えたのはまだしも、当時リリーフエースだった郭源治を出すタイミングを誤ったことに苦言を呈し、「何点勝っていても、手を緩めずに完璧に叩きのめしたことを、相手の記憶に植えつけなければいけない」と述べている[20]。なお同年オフには2年前(1991年オフ)に不祥事を起こして横浜大洋ホエールズ(→当時・横浜ベイスターズ)を解雇され、2年間資格停止処分を受けていた中山裕章打撃投手として採用し、翌シーズン途中から選手として現役復帰させた。

1994年は首位巨人に前半戦で大差をつけられるが、後半戦は巨人のもたつきもあり、猛追してとうとう同率首位に立ち、両チーム共この年の130試合目の最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦を迎えたが、結果的に敗戦で終える[2]。シーズン終盤には監督交代の話が挙がっていたが、後半戦の躍進が評価され、翌年も続投となった[2]

しかし、1995年は、投手陣の崩壊・故障者続出により、チームは低迷を続けた。そのため、成績不振の責任を取り、シーズン途中で監督を辞任した。監督としての最後の試合となった同年6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた。同シーズンは、当初は徳武定祐が監督代行を務めたが、その徳武もシーズン途中で解任され、その後はシーズン終了まで島野育夫が監督代々行を務めた。当時、たまに打つが三振が多かった山崎武司を起用し続け、山崎は高木の監督退任後の翌年1996年には本塁打王になっている[21]

中日監督退任後[編集]

1996年からは再びCBC野球解説者・中日新聞野球評論家として活動した[2]

2003年オフには谷沢健一野村克也牛島和彦らと共に中日の次期監督候補として名前が挙がったが、この時は監督復帰は実現せず、落合博満が就任した。

2006年野球殿堂入り[2]。また、この年の日本シリーズ第1戦で始球式を務めた。2007年からは中利夫に代わり、中日OB会の会長も務めた[2]

第2次中日監督時代[編集]

2011年9月22日、落合監督の後任として2012年シーズンから指揮を執ることが、球団から発表された[2]。「まさに青天の霹靂で驚いています。落合さんという大監督の後ということもあり悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」と球団広報を通じてコメントした[22]2012年はシーズン2位に終わり、クライマックスシリーズではファイナルステージで巨人に3連勝の後の3連敗で3勝4敗で敗退。

2013年、この年、チームは12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となった[23]。Bクラスが確定した9月25日に今季限りで退任する意向である事が中日新聞が伝え[24]10月8日に退任の会見を行った[25]

現役時代の優勝経験は巨人のV9時代も重なってか1974年の1度だけだったが、巨人のV10を阻んだ優勝でもある。また、コーチ時代は1982年に1度経験している。通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも2勝4敗で敗れており、日本一は1度もなかった。

晩年[編集]

退任後は高齢もあり、評論活動はCBCテレビ・CBCラジオの野球中継での副音声ゲストなど散発的なものとなっていた。一方で晩年は少年野球教室で子供たちを熱心に指導していたほか[26]、亡くなる5日前の2020年1月12日にはCBCラジオ『板東サンデー』に出演し、同番組パーソナリティでOBの板東英二とともに現役時代の思い出話を披露していた[1]

2020年2月15日には名古屋市内のイベントに出席することも予定していたが、同年1月17日4時に急性心不全のため名古屋市内で死去[1]。78歳没[1]

選手としての特徴[編集]

主に打低投高だった時代に活躍し、通算236本塁打は二塁での先発出場率が90%を超えている選手中では歴代最多である。レンジファクター系指標による二塁守備は、通算でプロ野球史上歴代最高値を出している[27]。規定打席到達15シーズン中一桁本塁打だった年は3回だけ、24本塁打した年もあり、長打力をも備えたリードオフマンとして打線を牽引し続けた。

野球誌やテレビ番組などでの「プロ野球歴代ベストナイン」等の企画では、プロ野球史上最高の二塁手として髙木が選出されたことがある[28]。高木は二塁手として2179試合・11477守備機会・5327刺殺・5866補殺・284失策・1373併殺という通算守備記録を残している(すべて二塁手プロ野球歴代1位)。他のポジションを含めた補殺数は5917で、これはNPB歴代最高記録である[29]

特筆[編集]

  • 口数が少なく穏和なイメージがあるが、自身のプレースタイルや野球理論には確固たる自信を持っており、これを否定されたりした場合にはたとえ先輩や監督・コーチ相手であったとしても徹底的に怒り、反抗する骨太さを持っている。
    • 月刊ドラゴンズの記者は、「怒った時は星野さんよりも怖い」と発言している。
    • また、1年先輩でチーム内でも親しい関係にあった板東英二はその高木の姿勢を「球界のガンジー」と表現している。
    • このような性格から、「瞬間湯沸かし器」と揶揄される事がある[30]。また本人は、自身を指して自虐的に「暴走老人」と言うことがある。
  • 一方で山本昌は「どんなに打たれても叱責を受けたことはない」と1992年から1995年までの4シーズンを務めた頃の高木について振り返っており、山本は高木を「僕を初めて大人扱いしてくれた監督」であり「最も喜ぶ顔を見たい監督」であったと評していた[31]
  • 2011年12月20日に放送されたインタビューにて、一軍デビューをした1960年5月7日当日は二軍の試合が岐阜であり、その後名鉄電車で移動後、名古屋駅前にあったパチンコ屋で時間を潰していたところ館内放送で「中日球場へ向ってください」と呼び出しを受け、一軍に合流したと証言している。
  • 入団3年目のある出場試合において、中日の攻撃中にベンチを抜け出し合宿所に帰ってしまったことがある。直前の守備のとき、普通の二塁手なら追いつけないような打球に追い付きはしたものの捕球することができなかったプレーに対し、当時の杉浦清監督に「何をやっているんだ!」と罵声を浴びせられたことが気に入らなかったためである。そのころ高木は、南海から移籍してきたカールトン半田がキャンプの練習中に披露していたバックトスを見て、練習を重ねながら自分の型にしようと試合で試し始めていた時期であった。なお、再度守備に就くまで高木がいなくなったことに中日ベンチは誰も気付かなかったという。髙木が普段無口でベンチでも目立たなかったためである。
    • また、合宿所に戻った高木は首脳陣がミーティングで使用する部屋の押入れに隠れ、試合後の首脳陣のミーティングの内容を聞き、高木のことよりも板東英二の悪口の方を多く言っていたのを聞きつけて板東本人のところへ直接報告に行った[32]
  • 板東英二の証言によると、高木は自身の後輩であるものの、板東に対し上下関係を一切気にしていない様に接していたようである。たとえば「(殆どストレートしか投げない)板東さんの球を打てないのはおかしい」という疑問を率直に述べたり、板東が登板していてピンチを背負うと高木がマウンドに来て「真っ直ぐ狙ったら犠牲フライ打てるのに」、「フォアボールばっかり出しやがって。どんどんストライク取れよ」などと、板東を激しく叱咤することが多かった。それ以外にも板東は、大洋戦にリリーフ登板した際に2連続で二塁打を許し、いずれも牽制アウトにしながらも、マイク・クレスニックに初球を本塁打されてサヨナラ負けした際、「だったら早く打たれとけ!」と高木がその事に関して激しく激高していた光景を目の当たりにしたことがあったという。
  • 今中慎二は高木について、「10.8決戦で巨人が先発3本柱を惜し気なく投入したのに対し、いつも通りリリーフを登板させた我の強さや、負けた時にはすぐ『自分が悪かった』と謝る潔さがあった」と自著で述べている。

野球[編集]

  • 現役時代は試合ごとに新品のストッキングをおろして履いていた。
  • 先輩投手であった柿本実が、ある試合で二塁走者を気にして牽制球を繰り返していたところ、4回目の牽制球をグラブで捕らず足で止めて[33]「いい加減にしろ」と意思表示したことがあるという(2011年5月29日の「サンデードラゴンズ」にて板東英二が証言)。
  • 北海道遠征(札幌市円山球場)で巨人との試合中、三塁走者だった高木は、俊足を生かしピッチャーゴロで本塁突入を試みるが、そのときの投手だった巨人の関本四十四に三本間で挟まれタッチアウトとなる。しかし、関本がタッチの際に高木の顔面にグラブを当てたことで高木は激昂。関本も謝ろうとせず、高木をにらみつけ殴りかかり乱闘騒ぎとなった。
  • 日々の鍛錬を怠らない性格で知られ、代名詞的プレーとされる「バックトス」は数年間の鍛錬の末に身に着けたものだが、既に「一流」の評価を得ていた1970年代にも『中日新聞』(中日新聞社)記者が浜松春季キャンプで黙々とバックトスの練習を続ける高木の姿を目撃している[10]
  • 初打席初本塁打を打った一人だが、その中で高木は2017年シーズン終了時点で本塁打数二位の記録を持っている[34]

人間関係[編集]

その他[編集]

  • 2度目の監督在任時においては、試合後の監督インタビューなど、報道陣の前で自軍の選手を名指しで批判・叱咤することが多かった。前任監督の落合はマスメディアに向かって選手批判をする事が滅多になかった事もあり、この高木のスタイルは当時賛否を呼んだ。また前述のように、野球理論に関するコーチとの衝突もあった。
    • 平野謙外野守備走塁コーチが走塁ミスやサインミスを連発したため、2012年5月3日の阪神戦(ナゴヤドーム)では、怒りのあまり試合途中からサインプレーを放棄した[37]。その後平野はしばらくの間、1軍担当を外れている。
    • 投手コーチである権藤博(現役時代に同僚だった)は自軍の選手を厳しい口調で批判する高木に対して「マスコミの前で選手の悪口を言わないでほしい。選手は一番こたえるものです」[38]「打たれた・打てないはコーチの責任。勝った負けたは監督の責任」と諭すこともあったという[39]。投手起用においても互いに持論をぶつけ合ったが、2012年9月16日の広島戦は完封リレーで勝利してCS出場を決め、高木と権藤は固い握手を交わした。その権藤は高木について、「努力する天才」であると同時に「究極のわがまま」でもある、と評している[40]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1960 中日 51 109 99 7 19 2 1 3 32 6 2 1 4 0 6 0 0 18 1 .192 .238 .323 .561
1961 80 243 222 15 47 8 3 2 67 11 4 2 6 0 12 2 3 36 3 .212 .262 .302 .563
1962 96 256 239 24 67 11 5 1 91 15 10 5 12 0 4 0 1 28 2 .280 .295 .381 .676
1963 133 543 496 72 126 18 6 10 186 39 50 12 15 3 27 1 2 43 8 .254 .295 .375 .670
1964 123 522 482 59 141 24 6 8 201 31 42 14 8 4 24 0 4 38 4 .293 .331 .417 .748
1965 132 538 483 75 146 19 1 11 200 48 44 11 21 2 27 1 5 49 1 .302 .346 .414 .760
1966 113 491 457 82 140 18 5 17 219 59 20 9 7 4 21 1 2 37 9 .306 .340 .479 .819
1967 118 491 455 59 133 25 1 19 217 66 9 3 2 7 26 0 1 60 10 .292 .332 .477 .809
1968 83 356 318 50 76 15 3 10 127 33 11 2 3 4 29 0 2 45 6 .239 .307 .399 .706
1969 130 562 513 78 129 20 3 24 227 66 20 8 11 3 34 1 1 69 8 .251 .299 .442 .742
1970 118 483 449 41 116 15 4 10 169 51 18 6 12 5 14 1 3 51 17 .258 .285 .376 .662
1971 120 482 436 58 104 18 1 8 148 22 28 9 10 1 32 2 3 42 5 .239 .295 .339 .635
1972 118 492 459 42 115 13 2 10 162 42 19 12 10 2 18 1 3 38 10 .251 .283 .353 .636
1973 122 527 480 68 131 20 3 5 172 31 28 9 7 5 30 3 5 21 10 .273 .322 .358 .681
1974 121 501 456 71 126 22 2 15 197 47 14 11 10 4 29 2 2 42 11 .276 .322 .432 .754
1975 116 495 463 60 138 20 2 17 213 51 16 7 8 2 18 2 4 31 14 .298 .330 .460 .790
1976 98 417 392 50 104 14 1 17 171 44 7 6 8 3 12 0 2 35 11 .265 .291 .436 .727
1977 121 504 468 74 136 18 3 20 220 52 10 3 11 2 18 0 5 49 10 .291 .324 .470 .794
1978 89 338 314 41 89 15 2 13 147 37 3 3 11 1 9 2 3 20 10 .283 .310 .468 .778
1979 120 518 467 74 140 25 1 11 200 48 11 2 18 1 28 3 4 45 10 .300 .345 .428 .773
1980 80 242 219 20 51 6 0 5 72 14 3 4 6 0 16 3 1 22 11 .233 .288 .329 .617
通算:21年 2282 9110 8367 1120 2274 346 55 236 3438 813 369 139 200 53 434 25 56 819 171 .272 .312 .411 .723
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 年齢
1986年 中日 5位 130 54 67 9 .446 20.0 44歳
1992年 6位 130 60 70 0 .462 9.0 50歳
1993年 2位 132 73 57 2 .562 7.0 51歳
1994年 2位 130 69 61 0 .531 1.0 52歳
1995年 5位 130 50 80 0 .385 32.0 53歳
2012年 2位 144 75 53 16 .586 10.5 71歳
2013年 4位 144 64 77 3 .454 22.0 72歳
通算:7年 940 445 465 30 .489 Aクラス3回、Bクラス4回
(1992年から1996年までは130試合制)
  • 監督通算成績 787試合 383勝 379敗 25分 勝率.503
※1 1986年は、山内監督休養後の7月6日から閉幕までの68試合(29勝35敗4分)
※2 1995年は、開幕から休養前の6月2日までの39試合(13勝26敗)
ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2012年 中日 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

1stステージ
東京ヤクルトスワローズセ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ
クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) 3勝3敗=敗退
(※1)
※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 これに相手チームのアドバンテージ1勝を含め、3勝4敗で敗退。

タイトル[編集]

  • 盗塁王:3回 (1963年、1965年、1973年)

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1969年7月30日、対アトムズ15回戦(中日スタヂアム)、2番・二塁手で先発出場 ※史上141人目
  • 100本塁打:1969年8月26日、対大洋ホエールズ20回戦(中日スタヂアム)、9回裏に森中千香良から左越ソロ ※史上52人目
  • 1000本安打:1969年9月28日、対阪神タイガース21回戦(中日スタヂアム)、1回裏に江夏豊から左前安打 ※史上72人目
  • 1500試合出場:1973年8月28日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上44人目
  • 300盗塁:1973年9月8日、対広島東洋カープ22回戦(中日スタヂアム)、5回裏に二盗(投手:藤本和宏、捕手:西沢正次) ※史上14人目
  • 1500本安打:1974年4月22日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、7回表に小川邦和から右前安打 ※史上29人目
  • 150本塁打:1974年9月30日、対読売ジャイアンツ24回戦(中日スタヂアム)、1回裏に関本四十四から左越先頭打者本塁打 ※史上39人目
  • 200本塁打:1977年8月22日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、1回表に会田照夫から左越先頭打者本塁打 ※史上28人目
  • 350盗塁:1977年9月1日、対広島東洋カープ22回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に二盗(投手:望月卓也、捕手:道原博幸) ※史上10人目
  • 300二塁打:1977年9月14日、対読売ジャイアンツ19回戦(後楽園球場)、8回表に西本聖から左翼線適時二塁打 ※史上14人目
  • 3000塁打:同上 ※史上12人目
  • 2000本安打:1978年4月5日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に高橋里志から中前安打 ※史上11人目
  • 2000試合出場:1978年4月7日、対読売ジャイアンツ1回戦(ナゴヤ球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上12人目
  • 1000得点:1978年6月22日、対横浜大洋ホエールズ17回戦(横浜スタジアム)、7回表に田尾安志の2ランで生還 ※史上11人目
その他の記録
  • 4打席連続本塁打 (1977年6月12日~6月14日) ※NPBタイ記録(2015年終了時点。3試合にまたいでの3打席以上連続本塁打は史上初)[42]
  • 1試合5盗塁 (1964年8月5日)
  • オールスターゲーム出場:4回 (1966年、1967年、1973年、1979年)

背番号[編集]

  • 41 (1960年 - 1962年)[9]
  • 1 (1963年 - 1982年)[43]
  • 67 (1983年)[44]
  • 71 (1984年 - 1986年)[44]
  • 81 (1992年 - 1995年)[44]
  • 88 (2012年 - 2013年)

関連情報[編集]

関連書籍[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 少年時代の高木にとってプロ野球の試合を観客として観戦したのはこれが最初で最後だった[6]
  2. ^ 「長嶋は高木の肩がそれほど強くないことを見抜き、高木を二塁手として起用することを勧めた」とする逸話もあるが、高木本人は「(二塁手として)ほめていたことは聞いたことはあるが、後でとってつけた話じゃないの?」と発言している[3]
  3. ^ この試合は雨天順延で日程がずれ、皇太子(現:上皇)の御成婚パレードと日程が重なり、テレビ中継されなかった。テレビ中継が始まってから現在まで春夏通じて、中継が中止された大会は後にも先にもこの大会のみである。
  4. ^ ゴロを捕球した二塁手が二塁ベースカバーに回っている遊撃手へ送球する際、体の反転・左回転を省き右掌で送球する技術[10]
  5. ^ その後、公式戦で遊撃手寄りのゴロをバックトスで送球したことで併殺を完成させ、当時の監督・水原茂から「これぞプロ野球」と絶賛された[10]
  6. ^ しかし、後日ロッカールームで堀内に対し「ヘルメットを投げたことは悪かった」と謝罪したほか、翌日に堀内が謝罪のために自宅を訪れた際にも「気にするな」と声を掛けている[11]
  7. ^ 球団史上2回目・20年ぶり(1954年以来)のリーグ優勝。
  8. ^ その後中日の生え抜き野手としては谷沢健一立浪和義荒木雅博もそれぞれ通算2000本安打を達成している。

出典[編集]

  1. ^ a b c d ミスタードラゴンズ高木守道さん死去(78歳) バックトスは永遠に」『中日スポーツ中日新聞社、2020年1月18日、紙面から。2020年1月18日閲覧。オリジナルの2020-01-18時点におけるアーカイブ。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 高木守道の名人野球教室~内野守備編~” (日本語). ヒマラヤスポーツ. 2020年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月22日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 中日新聞』2020年5月2日朝刊第10版運動・スポーツ面18頁「堅守の求道者 1・ミスターとの出会い 二塁手の原点 長嶋の目」(中日新聞社
  4. ^ 木俣達彦を経て2016年1月現在は鈴木孝政が務める。
  5. ^ 『中日ドラゴンズ '94ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1994年3月16日、10頁。ISBN 978-4806202714
  6. ^ a b c 【ボクの思い出STADIUM】ナゴヤ球場」『中日スポーツ』中日新聞社、2016年6月14日。2018年3月3日閲覧。オリジナルの2018-03-03時点におけるアーカイブ。
  7. ^ 【10月14日】1974年(昭49) 長嶋茂雄、引退 その日のミスターと周囲の人々」『スポニチアネックス』スポーツニッポン新聞社、2007年10月8日。2007年10月27日閲覧。オリジナルの2007年10月27日時点におけるアーカイブ。
  8. ^ a b c 『中日新聞』2020年5月3日朝刊第10版運動・スポーツ面20頁「堅守の求道者 2・初打席で初本塁打 交代出場 衝撃デビュー」(中日新聞社)
  9. ^ a b ベースボール・マガジン社 2007, p. 165.
  10. ^ a b c d 『中日新聞』2020年5月4日朝刊第10版運動・スポーツ面17頁「堅守の求道者 3・バックトス 職人技 鍛錬の積み重ね」(中日新聞社)
  11. ^ a b c d 『中日新聞』2020年5月6日朝刊第10版運動・スポーツ面16頁「堅守の求道者 5・死球禍 残った痛み 消えた輝き」(中日新聞社)
  12. ^ 『中日新聞』2020年5月8日朝刊第10版運動・スポーツ面25頁「堅守の求道者 6・二人三脚 逆境打開の『大根切り』」(中日新聞社)
  13. ^ 『中日新聞』2020年5月9日朝刊第11版運動・スポーツ面22頁「堅守の求道者 7・リーグ優勝 あの守道さんが泣いた」(中日新聞社)
  14. ^ その後200本塁打は稲葉篤紀、2000安打は稲葉と駒田徳広も記録
  15. ^ その後、石毛宏典谷繁元信も記録
  16. ^ 『中日ドラゴンズ70年史』掲載のOB座談会
  17. ^ a b c 『中日新聞』2020年5月10日朝刊第11版運動・スポーツ面16頁「堅守の求道者 8・日本シリーズ 不運の骨折 耐えて奮闘」(中日新聞社)
  18. ^ 2012年10月6日付「中日スポーツ」2面。しかしこの1980年にはプロ野球最年長の野村克也も引退しているが、野村・王に次ぐプロ野球選手最年長選手は張本勲だった。
  19. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1994』(ベースボール・マガジン社)の<セントラルリーグ回顧>の『中日』p27、『阪神』p31
  20. ^ 落合博満『勝負の方程式』小学館、1994年、p148-p149
  21. ^ 月刊ドラゴンズ、2017年10月号、p33
  22. ^ 監督の交代について”. 中日ドラゴンズ (2011年9月22日). 2018年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月22日閲覧。
  23. ^ 中日、セ5球団全てに負け越し 12年ぶりBクラス スポーツニッポン2013年10月5日配信
  24. ^ 中日・高木監督が退任表明 中日新聞2013年9月26日配信
  25. ^ 退任の高木監督が会見「恩返しできなかった。それが一番残念」 スポーツニッポン2013年10月8日配信
  26. ^ 高木守道さん急死 78歳、ミスター・ドラゴンズ」『中日新聞中日新聞社、2020年1月18日、朝刊1面。2020年1月18日閲覧。オリジナルの2020-01-18時点におけるアーカイブ。
  27. ^ 球団史上最高の4人を選ぶ 中日ドラゴンズ編”. 日本プロ野球RCAA&PitchingRunまとめ. 2015年9月6日閲覧。
  28. ^ 【掛布雅之さん】プロ野球歴代ベストナインを選んでもらった!
  29. ^ プロ野球“歴代補殺王”は意外なあの人! 脚光を浴びない記録の保持者は?
  30. ^ 盟友・高木守道氏を悼む 今も耳に残る「パチン!」の音
  31. ^ 山本昌 『133キロ怪速球』 ベースボール・マガジン社、2009年。ISBN 978-4583101699。 p139
  32. ^ 板東の著書に記述があり、2011年4月10日放送の「サンデードラゴンズ」でも証言している。
  33. ^ 板東は「ボールを足でマウンドに蹴り返した」と証言しているが、髙木は「足で止めただけ」と蹴り返したことは否定している。
  34. ^ 意外な選手が多い?初打席で本塁打を放った選手たち”. BASEBALL KING (2018年3月11日). 2020年7月18日閲覧。
  35. ^ NHK片山アナ 4月から東京へ 大叔父様は竜・高木監督 中日スポーツ 2012年2月2日閲覧(web魚拓による保存措置)
  36. ^ 『中日新聞』2020年5月5日朝刊第11版運動・スポーツ面15頁「堅守の求道者 4・むっつり右門 寡黙で一徹 心根は素直」(中日新聞社)
  37. ^ 中日高木監督が怒りのノーサイン 日刊スポーツ 2012年5月4日
  38. ^ プロ野球「師弟の絆」裏物語 第3回 谷繁元信と権藤博の「一意奮闘」(4)”. Asagei+(徳間書店) (2012年9月18日). 2017年9月11日閲覧。
  39. ^ 高木監督、権藤コーチと緊急会談”. スポニチ (2012年7月3日). 2017年12月4日閲覧。
  40. ^ "努力する天才""究極のわがまま"「そのどちらもが高木守道」権藤博さん59年の付き合いを語る” (日本語). 中日スポーツ・東京中日スポーツ. 2020年1月23日閲覧。
  41. ^ 岐阜市民栄誉賞”. 岐阜市. 2017年12月4日閲覧。
  42. ^ 阪神・江越 珍記録!3試合にまたいで3打席連発「やっと来たなと」.スポニチ Sponichi Annex 野球.2016年4月10日閲覧。
  43. ^ ベースボール・マガジン社 2007, pp. 165-167.
  44. ^ a b c ベースボール・マガジン社 2007, p. 167.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]