高木守道

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髙木守道
Takagi morimichi.jpg
2012年8月28日、こまちスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岐阜県の旗 岐阜県岐阜市
生年月日 (1941-07-17) 1941年7月17日(75歳)
身長
体重
174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1960年
初出場 1960年5月7日
最終出場 1980年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1978 - 1986, 1992 - 1995, 2012 - 2013)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2006年
選出方法 競技者表彰

髙木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - )は、プロ野球選手プロ野球監督野球解説者愛知県名古屋市生まれ、岐阜県岐阜市出身。

現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、引退後はコーチ・監督を歴任した。2代目「ミスタードラゴンズ(初代は西沢道夫、3代目は立浪和義である[1])。2007年1月より2012年11月25日まで中日ドラゴンズOB会会長[2]2012年から2013年まで再び中日の監督を務めた。

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

10歳のとき、中日スタジアムの火災(1951年8月19日)に巻き込まれたが、危うく事無きを得た[3]

1957年県立岐阜商業高校に進学。肩を痛め遊撃手から二塁手に転向。1年生の時に長嶋茂雄(当時立教大学4年生)にコーチを受けた[4]。長嶋は髙木の才能を見抜き、監督に髙木をレギュラーとして使うように薦め、その結果、髙木はすぐにレギュラーを取りチームの中核となったという。なお、遊撃手だった髙木を二塁手に転向させるよう監督に提案した人も長嶋だという。 3年春には第31回選抜高等学校野球大会に出場、決勝まで進んだが、中京商業(現・中京大中京高校)に敗れ準優勝に終わる[5]。最後の夏は、県予選で敗れた。

高校3年夏の甲子園大会終了後にプロからの誘いがなく、OBの縁故を頼って高校卒業後は早稲田大学に進学する予定だったが、地元球団・中日から急遽オファーが届き入団する。

現役時代[編集]

1960年、中日に入団。同年5月7日の対大洋ホエールズ戦で代走として初出場、初盗塁を記録。この試合に宮本和佳からプロ入り初打席初本塁打を打った。

1963年から二塁手のレギュラーとなる。同年に50盗塁を記録して最多盗塁のタイトルを獲得。中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に代わり、江藤慎一とともに中日の新たなスター選手となった。以後1965年1973年と3度の盗塁王に輝く俊足に加えて、打撃では1969年に24本塁打するなど通算236本塁打を記録しており、守備ではバックトスやグラブトス等を度々披露。

1965年1966年と二度の打率3割を記録するが、1968年5月の巨人戦で堀内恒夫から顔面に死球を受け、一時は意識不明となる。その影響でバッティングフォームを崩し、長期にわたる打率の低迷を余儀なくされる。[6]しかし徐々に打棒も復活し、1974年にはチームの20年ぶりの優勝に貢献した。

初打席初本塁打を記録した選手で通算200本塁打、通算2000安打を記録した選手は髙木が初めてであり[7]、また通算で200本塁打・200犠打を併せて記録した選手も髙木が初めてである[8]

1974年、優勝決定翌日の10月13日に予定されていた後楽園球場の対読売ジャイアンツシーズン最終戦ダブルヘッダーは、長嶋茂雄の引退試合であったが、降雨で14日に順延してしまい、中日の優勝パレードと日程が重なった。そのため、大島康徳藤波行雄などの若手や、引退直前だった広野功を含む準レギュラー級選手のみを出場させ、中日のレギュラー選手は同日の名古屋での優勝セレモニーのために欠場するよう球団に言い渡された。この通達に髙木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回と「それが無理ならばせめて自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかしその願いは聞き入れられず、髙木は優勝セレモニーで終始むすっとした表情をしていた。髙木はのちに長嶋へ電話し、謝罪したという[9](『月刊Dragons』では星野仙一も同様に電話で謝罪したとの記述がある)。

ロッテオリオンズと対戦した同年の日本シリーズでは、初戦からサヨナラ打を打つなど大活躍する。後楽園球場での第4戦でも金田留広から初回先頭打者本塁打を放つが、その試合の3打席目で自打球を左足に当て負傷退場。検査の結果全治3週間の骨折で、高木は第6戦で復帰するも中日はロッテに敗れた。

二塁手としてベストナイン7回は史上最多である。視力の衰えもあり、1980年限りで現役引退。シーズン終了後にナゴヤ球場で行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年引退した1歳上で自身より1年早くプロ入りした王貞治とともに引退セレモニーが行われた。引退の際には「王さんが引退したら自分がプロ野球選手で最年長になる[10]。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、自分にはそのプレッシャーに耐えられる強さがなかった」と発言している。翌1981年のオープン戦で引退試合が行なわれた。

引退後[編集]

一軍作戦守備コーチ(1981年 - 1983年)、二軍監督(1984年 - 1985年)、一軍守備コーチ(1986年)を務めた。1986年には山内一弘監督の途中休養を受け、同年7月6日からシーズン終了まで代理監督を務めた。

第一次監督時代[編集]

1987年からCBC解説者となるが、星野仙一の監督の辞任を受け1992年に初めて監督に就任する。初年度はシーズン後半に上位チームに善戦するものの、主力選手の故障等も響いて60勝70敗の最下位となる。なお、この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった。

1993年は優勝したヤクルトに前半大差をつけられるも、後半一時は逆転して首位に立ったが、最終的に2位となる。特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロホームラン1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られて大逆転負けを喫した。高木は試合後「私が悪かった」と選手に頭を下げ、シーズン終了後には「中日がペナントをとれなかったのは、この試合にある」とまでいわれた[11]。また、落合博満は後に自著でこの試合を振り返って「勝負事では驕りは禁物である。誤った采配を招くからである」と、中4日でこの試合でも102球投げていた山本を代えたのはまだしも、当時リリーフエースだった郭源治を出すタイミングを誤ったことに苦言を呈し、「何点勝っていても、手を緩めずに完璧に叩きのめしたことを、相手の記憶に植えつけなければいけない」と述べている[12]

1994年は首位巨人に前半戦で大差をつけられるが、後半戦は巨人のもたつきもあり、猛追してとうとう同率首位に立ち、両チーム共この年の130試合目の最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦を迎えたが、結果的に敗戦で終える。シーズン終盤には監督交代の話があがっていたが、後半戦の躍進も評価され翌年も続投となった。しかし、1995年は、投手陣の崩壊や故障者続出による成績不振の責任を取ってシーズン途中で辞任。監督としての最後の試合となった同年6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた。

監督退任後[編集]

1996年からは再びCBC解説者・中日新聞評論家となる。2007年からは中利夫に代わり、中日OB会の会長も務める。

2003年オフには谷沢健一野村克也らと共に、中日の監督候補に名前が挙がったものの、落合博満が就任した。

2006年野球殿堂入り。また、この年の日本シリーズ第1戦で始球式を務めた。

第二次監督時代[編集]

2011年9月22日、落合監督の後任として2012年シーズンから指揮を執ることが球団から発表された。「まさに青天の霹靂で驚いています。落合さんという大監督の後ということもあり悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」と球団広報を通じてコメントした[13]2012年はシーズン2位に終わり、クライマックスシリーズではファイナルステージで巨人に3連勝の後の3連敗で3勝4敗で敗退。

2013年、この年、チームは12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となった[14]。Bクラスが確定した9月25日に今季限りで退任する意向である事が中日新聞が伝え[15]10月8日に退任の会見を行った[16]

なお退任後は高齢もあってか評論活動にも復帰せず、表舞台からは退いている。

現役時代の優勝経験は巨人のV9時代も重なってか1974年の1度だけだったが、巨人のV10を阻んだ優勝でもある。
また、コーチ時代は1982年に1度経験している。
通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも2勝4敗で敗れており、日本一は1度もない。

選手としての特徴[編集]

主に打低投高だった時代に活躍し、通算236本塁打は二塁での先発出場率が90%を超えている選手中では歴代最多である。レンジファクター系指標による二塁守備は、通算でプロ野球史上歴代最高値を出している[17]

野球誌やテレビ番組などでの「プロ野球歴代ベストナイン」等の企画では、プロ野球史上最高の二塁手として髙木が選出されたことがある。高木は二塁手として2179試合・11477守備機会・5327刺殺・5866補殺・284失策・1373併殺という通算守備記録を残している(すべて二塁手プロ野球歴代1位)。

特筆[編集]

  • 口数が少なく穏和なイメージがあるが、自身のプレースタイルや野球理論には確固たる自信を持っており、これを否定されたりした場合にはたとえ先輩や監督・コーチ相手であったとしても徹底的に怒り、反抗する骨太さを持っている。
    • 月刊ドラゴンズの記者は、「怒った時は星野さんよりも怖い」と発言している。
    • また、1年先輩でチーム内でも親しい関係にあった板東英二はその髙木の姿勢を「球界のガンジー」と表現している。
    • このような性格から、「瞬間湯沸かし器」と揶揄される事がある。また本人は、自身を指して「暴走老人」と言うことがある。
  • 2011年12月20日に放送されたインタビューにて1軍デビューをした1960年5月7日当日は2軍の試合が岐阜であり、その後名鉄電車で移動後、名古屋駅前にあったパチンコ屋で時間を潰していたところ館内放送で「中日球場へ向ってください」と呼び出しを受け、1軍に合流したと証言している。
  • 入団3年目のある出場試合において、中日の攻撃中にベンチを抜け出し合宿所に帰ってしまったことがある。直前の守備のとき、普通の二塁手なら追いつけないような打球に追い付きはしたものの捕球することができなかったプレーに対し、当時の杉浦清監督に「何をやっているんだ!」と罵声を浴びせられたことが気に入らなかったためである。そのころ髙木は、南海から移籍してきたカールトン半田がキャンプの練習中に披露していたバックトスを見て、練習を重ねながら自分の型にしようと試合で試し始めていた時期であった。なお、再度守備に就くまで髙木がいなくなったことに中日ベンチは誰も気付かなかったという。髙木が普段無口でベンチでも目立たなかったためである。
    • また、合宿所に戻った髙木は首脳陣がミーティングで使用する部屋の押入れに隠れ、試合後の首脳陣のミーティングの内容を聞き、髙木のことよりも板東英二の悪口の方を多く言っていたのを聞きつけて板東本人のところへ直接報告に行った[18]
  • 板東英二の証言によると、髙木は自身の後輩であるものの、板東に対し上下関係を一切気にしていない様に接していたようである。たとえば「(殆どストレートしか投げない)板東さんの球を打てないのはおかしい」という疑問を率直に述べたり、板東が登板していてピンチを背負うと髙木がマウンドに来て「真っ直ぐ狙ったら犠牲フライ打てるのに」、「フォアボールばっかり出しやがって。どんどんストライク取れよ」などと、板東を激しく叱咤することが多かった。それ以外にも板東は、大洋戦にリリーフ登板した際に2連続で二塁打を許し、いずれも牽制アウトにしながらも、マイク・クレスニックに初球を本塁打されてサヨナラ負けした際、「だったら早く打たれとけ!」と高木がその事に関して激しく激高していた光景を目の当たりにしたことがあったという。
  • 今中慎二は髙木について、「10.8決戦で巨人が先発3本柱を惜し気なく投入したのに対し、いつも通りリリーフを登板させた我の強さや、負けた時にはすぐ『自分が悪かった』と謝る潔さがあった」と自著で述べている
  • 長嶋茂雄の引退試合の日、高木は名古屋での優勝パレードに参加するため出場できなかったが、髙木は試合前に電話で長嶋に非礼としそのことを詫びた。

野球[編集]

  • 現役時代は試合ごとに新品のストッキングをおろして履いていた。
  • 先輩投手であった小川健太郎が、ある試合で二塁走者を気にして牽制球を繰り返していたところ、4回目の牽制球をグラブで捕らず足で止めて[19]「いい加減にしろ」と意思表示したことがあるという(2011年5月29日の「サンデードラゴンズ」にて板東英二が証言)。
  • 北海道遠征(札幌市円山球場)で巨人との試合中、三塁走者だった髙木は、俊足を生かしピッチャーゴロで本塁突入を試みるが、そのときの投手だった巨人の関本四十四に三本間で挟まれタッチアウトとなる。しかし、関本がタッチの際に髙木の顔面にグラブを当てたことで髙木は激昂。関本も謝ろうとせず、髙木をにらみつけたことで関本に殴りかかり乱闘騒ぎとなった。

人間関係[編集]

  • 広岡達朗と親交があり、2012年の中日キャンプではその縁で広岡は臨時コーチを務めた。

その他[編集]

  • 落合博満の選手・監督としての実績は評価しているが、2012年11月9日に、移籍が噂されたトニ・ブランコ選手の慰留を事実上断念したことを明らかにした際に「前に監督やった時も落合が出て行ったけど、出て行きたいヤツは出て行けばいい。去る者は追わず。無理して引き留めんでいい」と引き合いに出しており、自身が監督であった時にFA移籍したことへの心境がうかがい知れる[21](ブランコは横浜DeNAに移籍)。ただ、選手の移籍に関しては当の落合も意に介さない部分はあった。
  • 2度目の監督在任時においては、試合でミスをしたり結果の出なかった選手に対し、試合後の監督インタビューにおいて名指しで苦言を呈する事が多かった。前任監督の落合は名指しで選手批判をする事が滅多になかった事もあり、この髙木のスタイルは当時賛否を呼んだ。また前述のように、野球理論に関するコーチとの衝突もあった。
    • 外野守備走塁コーチである平野謙が走塁ミスやサインミスを連発したため、2012年5月3日の阪神戦(ナゴヤドーム)では、怒りのあまり試合途中からサインプレーを放棄した[22]。その後平野はしばらくの間、1軍担当を外れている。
    • 投手コーチである権藤博とは、投手起用において持論をぶつけあった。取材陣の前やチーム内部で自軍の選手を厳しい口調で批判する事の多かった髙木に対して権藤が「かばってくれるはずの味方に怒られるほど、つらいことはない。何十年もコーチをやってて、怒って選手が良くなった試しはない」「打たれた・打てないはコーチの責任。勝った負けたは監督の責任」と諭すこともあったという[23]。2012年9月16日の広島戦は完封リレーで勝利してCS出場を決め、髙木と権藤は固い握手を交わした。
  • 幼少の頃から読売ジャイアンツのファンである。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1960 中日 51 109 99 7 19 2 1 3 32 6 2 1 4 0 6 0 0 18 1 .192 .238 .323 .561
1961 80 243 222 15 47 8 3 2 67 11 4 2 6 0 12 2 3 36 3 .212 .262 .302 .563
1962 96 256 239 24 67 11 5 1 91 15 10 5 12 0 4 0 1 28 2 .280 .295 .381 .676
1963 133 543 496 72 126 18 6 10 186 39 50 12 15 3 27 1 2 43 8 .254 .295 .375 .670
1964 123 522 482 59 141 24 6 8 201 31 42 14 8 4 24 0 4 38 4 .293 .331 .417 .748
1965 132 538 483 75 146 19 1 11 200 48 44 11 21 2 27 1 5 49 1 .302 .346 .414 .760
1966 113 491 457 82 140 18 5 17 219 59 20 9 7 4 21 1 2 37 9 .306 .340 .479 .819
1967 118 491 455 59 133 25 1 19 217 66 9 3 2 7 26 0 1 60 10 .292 .332 .477 .809
1968 83 356 318 50 76 15 3 10 127 33 11 2 3 4 29 0 2 45 6 .239 .307 .399 .706
1969 130 562 513 78 129 20 3 24 227 66 20 8 11 3 34 1 1 69 8 .251 .299 .442 .742
1970 118 483 449 41 116 15 4 10 169 51 18 6 12 5 14 1 3 51 17 .258 .285 .376 .662
1971 120 482 436 58 104 18 1 8 148 22 28 9 10 1 32 2 3 42 5 .239 .295 .339 .635
1972 118 492 459 42 115 13 2 10 162 42 19 12 10 2 18 1 3 38 10 .251 .283 .353 .636
1973 122 527 480 68 131 20 3 5 172 31 28 9 7 5 30 3 5 21 10 .273 .322 .358 .681
1974 121 501 456 71 126 22 2 15 197 47 14 11 10 4 29 2 2 42 11 .276 .322 .432 .754
1975 116 495 463 60 138 20 2 17 213 51 16 7 8 2 18 2 4 31 14 .298 .330 .460 .790
1976 98 417 392 50 104 14 1 17 171 44 7 6 8 3 12 0 2 35 11 .265 .291 .436 .727
1977 121 504 468 74 136 18 3 20 220 52 10 3 11 2 18 0 5 49 10 .291 .324 .470 .794
1978 89 338 314 41 89 15 2 13 147 37 3 3 11 1 9 2 3 20 10 .283 .310 .468 .778
1979 120 518 467 74 140 25 1 11 200 48 11 2 18 1 28 3 4 45 10 .300 .345 .428 .773
1980 80 242 219 20 51 6 0 5 72 14 3 4 6 0 16 3 1 22 11 .233 .288 .329 .617
通算:21年 2282 9110 8367 1120 2274 346 55 236 3438 813 369 139 200 53 434 25 56 819 171 .272 .312 .411 .723
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 年齢
1986年 中日 5位 130 54 67 9 .446 20.0 44歳
1992年 6位 130 60 70 0 .462 9.0 50歳
1993年 2位 132 73 57 2 .562 7.0 51歳
1994年 2位 130 69 61 0 .531 1.0 52歳
1995年 5位 130 50 80 0 .385 32.0 53歳
2012年 2位 144 75 53 16 .586 10.5 71歳
2013年 4位 144 64 77 3 .454 22.0 72歳
通算:7年 940 445 465 30 .489 Aクラス3回、Bクラス4回
(1992年から1996年までは130試合制)
  • 監督通算成績 787試合 383勝 379敗 25分 勝率.503
※1 1986年は、山内監督休養後の7月6日から閉幕までの68試合(29勝35敗4分)
※2 1995年は、開幕から休養前の6月2日までの39試合(13勝26敗)
ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2012年 中日 セ・リーグ
クライマックスシリーズ

1stステージ
東京ヤクルトスワローズセ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ
クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) 3勝3敗=敗退
(※1)
※ 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 これに相手チームのアドバンテージ1勝を含め、3勝4敗で敗退。

タイトル[編集]

  • 盗塁王:3回 (1963年、1965年、1973年)

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1969年7月30日、対アトムズ15回戦(中日スタヂアム)、2番・二塁手で先発出場 ※史上141人目
  • 100本塁打:1969年8月26日、対大洋ホエールズ20回戦(中日スタヂアム)、9回裏に森中千香良から左越ソロ ※史上52人目
  • 1000本安打:1969年9月28日、対阪神タイガース21回戦(中日スタヂアム)、1回裏に江夏豊から左前安打 ※史上72人目
  • 1500試合出場:1973年8月28日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上44人目
  • 300盗塁:1973年9月8日、対広島東洋カープ22回戦(中日スタヂアム)、5回裏に二盗(投手:藤本和宏、捕手:西沢正次) ※史上14人目
  • 1500本安打:1974年4月22日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、7回表に小川邦和から右前安打 ※史上29人目
  • 150本塁打:1974年9月30日、対読売ジャイアンツ24回戦(中日スタヂアム)、1回裏に関本四十四から左越先頭打者本塁打 ※史上39人目
  • 200本塁打:1977年8月22日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、1回表に会田照夫から左越先頭打者本塁打 ※史上28人目
  • 350盗塁:1977年9月1日、対広島東洋カープ22回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に二盗(投手:望月卓也、捕手:道原博幸) ※史上10人目
  • 300二塁打:1977年9月14日、対読売ジャイアンツ19回戦(後楽園球場)、8回表に西本聖から左翼線適時二塁打 ※史上14人目
  • 3000塁打:同上 ※史上12人目
  • 2000本安打:1978年4月5日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に高橋里志から中前安打 ※史上11人目
  • 2000試合出場:1978年4月7日、対読売ジャイアンツ1回戦(ナゴヤ球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上12人目
  • 1000得点:1978年6月22日、対横浜大洋ホエールズ17回戦(横浜スタジアム)、7回表に田尾安志の2ランで生還 ※史上11人目
その他の記録
  • 4打席連続本塁打 (1977年6月12日~6月14日) ※NPBタイ記録(2015年終了時点。3試合にまたいでの3打席以上連続本塁打は史上初)[24]
  • 1試合5盗塁 (1964年8月5日)
  • オールスターゲーム出場:4回 (1966年、1967年、1973年、1979年)

背番号[編集]

  • 41 (1960年 - 1962年)
  • 1 (1963年 - 1982年)
  • 67 (1983年)
  • 71 (1984年 - 1986年)
  • 81 (1992年 - 1995年)
  • 88 (2012年 - 2013年)

関連情報[編集]

関連書籍[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 2005年4月発売の中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡(ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-61324-6)には、木俣達彦について「ミスタードラゴンズの資格十分」と書かれている。また、北京オリンピック野球日本代表監督を務める以前の星野仙一を「ミスタードラゴンズ」と紹介している文献も存在する(オークラ出版「中日ドラゴンズ伝説」〈2008年4月30日出版、ISBN 4775511882 / ISBN 978-4775511886〉p.21)。
  2. ^ 木俣達彦を経て2016年1月現在は鈴木孝政が務める。
  3. ^ 2008年12月5日放送の『いつも歓声があった ~ナゴヤ球場の60年~』(NHK名古屋・制作)に出演した際にも当時の思い出を振り返っていた。
  4. ^ 長嶋茂雄、引退 その日のミスターと周囲の人々
  5. ^ この試合は雨天順延で日程がずれ、皇太子(現天皇)の御成婚パレードと日程が重なり、テレビ中継されなかった。テレビ中継が始まってから現在まで春夏通じて、中継が中止された大会は後にも先にもこの大会のみである。
  6. ^ その3年後の1971年9月にも堀内から頭部に死球を受けて退場しているが、その際には激昂して堀内にヘルメットを投げつけて右肩負傷で退場に追い込んでいる。
  7. ^ その後200本塁打は稲葉篤紀、2000安打は稲葉と駒田徳広も記録
  8. ^ その後、石毛宏典谷繁元信も記録
  9. ^ 『中日ドラゴンズ70年史』掲載のOB座談会
  10. ^ 2012年10月6日付「中日スポーツ」2面。しかしこの1980年にはプロ野球最年長の野村克也も引退しているが、野村・王に次ぐプロ野球選手最年長選手は張本勲だった。
  11. ^ 『ベースボール・レコード・ブック 1994』(ベースボール・マガジン社)の<セントラルリーグ回顧>の『中日』p27、『阪神』p31
  12. ^ 落合博満『勝負の方程式』小学館、1994年、p148-p149
  13. ^ 監督の交代について”. 中日ドラゴンズ (2011年9月22日). 2011年10月22日閲覧。
  14. ^ 中日、セ5球団全てに負け越し 12年ぶりBクラス スポーツニッポン2013年10月5日配信
  15. ^ 中日・高木監督が退任表明 中日新聞2013年9月26日配信
  16. ^ 退任の高木監督が会見「恩返しできなかった。それが一番残念」 スポーツニッポン2013年10月8日配信
  17. ^ 球団史上最高の4人を選ぶ 中日ドラゴンズ編”. 日本プロ野球RCAA&PitchingRunまとめ. 2015年9月6日閲覧。
  18. ^ 板東の著書に記述があり、2011年4月10日放送の「サンデードラゴンズ」でも証言している。
  19. ^ 板東は「ボールを足でマウンドに蹴り返した」と証言しているが、髙木は「足で止めただけ」と蹴り返したことは否定している。
  20. ^ NHK片山アナ 4月から東京へ 大叔父様は竜・高木監督 中日スポーツ 2012年2月2日閲覧(web魚拓による保存措置)
  21. ^ 『日刊スポーツ』 守道監督、ブランコDeNA入りを公表!?
  22. ^ 中日高木監督が怒りのノーサイン 日刊スポーツ 2012年5月4日
  23. ^ 73歳権藤コーチが70歳高木監督に説教”. スポーツ報知. 2012年7月3日閲覧。
  24. ^ 阪神・江越 珍記録!3試合にまたいで3打席連発「やっと来たなと」.スポニチ Sponichi Annex 野球.2016年4月10日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]