山田久志

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山田 久志
BsSQUARE Yamada Hisashi.jpg
2014年3月7日 BsSQUAREオープニングセレモニーで
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県能代市
生年月日 1948年7月29日(68歳)
身長
体重
176 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1968年 ドラフト1位
初出場 1969年8月22日
最終出場 1988年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2006年
選出方法 競技者表彰

山田 久志(やまだ ひさし、1948年7月29日 - )は、秋田県能代市出身の元プロ野球選手投手)・監督コーチ野球解説者兵庫県西宮市在住。現役時代は12年連続開幕投手を務めるなどし、アンダースロー投手としては日本プロ野球最多となる通算284勝を記録した。球界関係者からは史上最高のサブマリン投手と称されることもある。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

兄・勉も能代高校OBで在学中にレギュラーとして甲子園出場を果たし、その兄の背中を追って能代高校に進学。三塁手から投手に転向するきっかけになったのは、2年生の夏の自身のエラーによるサヨナラ負けだったという。1966年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、秋田高に逆転負け。西奥羽大会には進出できなかった。結局、これが在学中の最高成績となった。高校同期に捕手大沢勉がいる。

卒業後、社会人野球富士製鐵釜石に入社。投法をサイドスローからアンダースローに変えた(ただし、本人はインタビューの中で「オーバースローの体勢のまま上半身を斜めにしただけであって、純然たるアンダースローではない」と述べている)。1967年都市対抗に出場、1回戦で優勝候補の日本生命を完封し注目を集める。しかし、2回戦では電電東京土屋紘と投げ合い敗退した[1]。これを含め、都市対抗には3年連続で出場。

1967年のドラフト会議で、西鉄ライオンズから11位で指名を受けるが拒否する。ドラフト史上最高の豊作と言われた1968年のドラフト1位で阪急ブレーブスに指名される。このときの2位指名が加藤秀司、7位指名に福本豊がおり、豊作と呼ばれたドラフトの中でも阪急は最も成功したチームと言われている(なお、12位で門田博光も指名しているが、門田は入団拒否)。この時点で、山田は練習中に腰を痛めており(脊椎分離症。他チームが山田の実力を認めながら指名をためらったのはこのためと言われている)、チームに残ってリハビリに励む。腰痛から完治した1968年8月の都市対抗終了後、阪急と正式契約を結び入団。

現役時代[編集]

山田が入団した頃の阪急は、ヨネカジコンビと呼ばれた米田哲也梶本隆夫の他、石井茂雄足立光宏など一流投手の揃った投手王国で、山田は「俺なんかどうやって入っていったら…」と不安だったという[2]。しかし2年目の1970年から主力投手として台頭、初完封勝利を挙げるなど10勝をマーク。背番号が25から17になった3年目の1971年には22勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルも獲得、エースに成長した。当時は速球でグイグイ押す強気な投球が身上で、西本幸雄監督が「投手で一番大切なのはコントロールや」と言っても、「いえ、ストレートに力があればど真ん中でも打たれません」と反発した。このことは、山田が引退して20年以上経っても、西本に「ワシに真っ向から逆らったのはお前だけや」と苦笑されるという[2]。しかし、その強気な姿勢は時として落とし穴にはまることもあり、同年の日本シリーズでは第3戦で王貞治にサヨナラ3ランを浴び、手痛い敗北を喫した。この時、山田はマウンドにしゃがんだまましばらく動けず、西本監督に抱きかかえられるようにしてベンチに引き上げた[3]。山田は後に「天狗の鼻をへし折られた。あのホームランがあったから、その後の自分がある」と述懐している。なお、この試合は山田の母親が観戦していたが、この試合を機に球場に足を運ばなくなった。

1972年、上述の敗北を糧にして20勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。しかし、この年にを痛めたことで球速が落ち始め、翌1973年から1975年まではやや低調な成績に終始した。1975年の阪急は、豪速球で知られた新人の山口高志の活躍で悲願の日本シリーズ優勝を果たしたが、山田は12勝にとどまり、自責点95、防御率4.32はローテーション入りした1970年以来では自己最低と、満足のいくものではなかった。同じ12勝だった山口を重用する首脳陣の方針に納得できなかったこともあり、山田は同年オフに引退まで考えたが、それを察知した球団に慰留され、現役続行を決意。この間、成績こそ低迷していたが、チームメートの足立光宏を手本に新しい球種・シンカーを研究していた。当初、山田はストレート中心の投球に限界を感じ始めた時、足立にシンカーの投げ方の教えを請うているが、足立は「ストレートが通用するうちはシンカーは投げるな」と握りすらも教えてくれなかったという。山田は足立からシンカーを盗み取ろうと毎日のように研究を重ね、足立も最後にはヒントを教えてくれるようになった。

1976年からシンカーを使い始め山田は26勝を挙げ復活、2度目の最多勝に輝き、この年から史上初の3年連続MVP(3年連続MVPを達成しているのは現在も他にイチローのみ)に輝いた。

1982年4月29日の対ロッテ戦で、アンダースロー投手としては皆川睦雄に次いで200勝を達成[注 1]。この試合で山田は落合博満に3本塁打を喫している。3本ともシンカーを狙い打たれた [注 2]もので、たとえ狙われていても自分の得意の球種であくまで挑む姿に、やはりこの年に200勝を達成した江夏豊は「これこそプロの対決」と感嘆した[5]1984年のリーグ優勝時はシーズン中に膝に打球を受け、骨折により戦線離脱したために14勝にとどまったが、監督の上田利治の信頼は絶大で、21勝を挙げて防御率と二冠に輝いた今井雄太郎を差し置いて、この年の日本シリーズ第1戦の先発に起用されている。

1975年から1986年まで、プロ野球記録の12年連続開幕投手を務めており[注 3]、記録更新のかかった1987年の開幕投手は佐藤義則だった。この年はキャンプ、オープン戦となかなか調子が上がらなかったが、オープン戦で調子が上がらないのは例年のことなので、山田自身は大して気にしていなかったという。しかし、上田監督がマスコミに「今年の山田はいつもと違うなあ」と言っているのを知り、「監督のいいと思うならそのようにしてもらっていいですよ」と話したら、開幕投手に佐藤が抜擢され、「そりゃないだろう」と思ったという[2]。この年は、清原和博相手に通算2000奪三振を達成したものの7勝に終わり、17年続けていた二桁勝利も途絶えた。翌1988年は開幕からなかなか勝てず、5月にはもうこの年限りの引退を考えていた。この時、真っ先に相談したのは監督の上田ではなく、西本だったという。結局4勝10敗の成績に終わり、現役引退。通算300勝を目指していたが、あと16勝届かなかった。なお、現役最後の試合は10月23日の西宮球場での阪急ブレーブス最後の試合(対ロッテ)で、山田は完投勝利を挙げ(通算284勝目)、阪急ナインに胴上げされた。現役引退と前後して球団の親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことから、背番号17は球団の永久欠番とはならず、しかも、山田の引退からわずか2年後、1990年オフに入団した長谷川滋利に与えられた。山田は「(福本の)7と17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語っている[2]

通算284勝は、アンダースローの投手としてはプロ野球最多勝記録である。一方、日本シリーズでは不思議と相性が悪く、上記の王のサヨナラ3ランなど、通算6勝9敗1セーブと不本意な成績に終わっている。通算最多被本塁打(23)、シリーズ最多タイ自責点を2度(1976年1978年の12)、シリーズ最多敗戦のタイ記録(1984年の3敗、他には1956年別所毅彦1964年村山実)といった不名誉な記録も残している。ただし、1984年の3敗のうち2敗は完投敗戦で、残る1敗(第7戦)も7回途中まで3失点の内容だった。日本シリーズとは対照的にオールスターゲームには強かった。通算7勝はオールスターゲーム最多記録。また、敗戦投手に一度もなっておらず、勝率10割である。

球速が落ちたりそれまでの変化球が通用しなくなってから新球を模索する投手が多い中、山田は「新しい変化球は試合で使えるようになるのに3年かかる。今の球が通用しなくなってから研究しても遅い」と、それまでのボールが通用するうちに、将来を見越して次の変化球や投球術を研究していたという。山田とともに阪急の黄金時代を支えながら、自らは短命に終わった山口高志は「そこが山田さんと僕の違うところだった」と評している[5]1989年3月に開催の読売ジャイアンツとのオープン戦(西宮)での引退記念試合は、福本とともに阪急のユニフォームを着用して出場した(ただし、オリックスのコーチとして残留した福本は、引退セレモニーの時にはオリックスのユニフォームに着替えている[2])。

終生のライバルは門田博光落合博満。門田は「自分に対してどんな時もストレートだけを投げてきて、山田の決め球でもあるシンカーは球が速すぎてシンカーにならなかった」と賛辞を送っている。逆に、落合には読まれていても必ずシンカーを決め球にしていたという。また、ライバルチームのエースであり、共に長年パ・リーグで活躍した鈴木啓示東尾修村田兆治については、「彼らが居なかったら自分がここまで頑張れなかった」と後述している。

解説者・コーチ・監督時代[編集]

引退後はNHK野球解説者日刊スポーツ野球評論家となる。1989年ドラフト会議阪神タイガースへ1位入団しながら、他の評論家から「あんなの使い物にならない」と酷評されていた葛西稔を入団当初から「球界を代表するアンダースロー投手になる逸材」と唯一評価し続けていた。

1994年オリックス・ブルーウェーブの投手コーチに就任。実績もあり理論的に指導できるコーチとして、選手からも信頼があった。後に山田は、巨人移籍後低迷していた野村貴仁について「あれは使うほうの問題」と指摘していた。しかしながら、投手起用をめぐって監督の仰木彬と対立し、1996年の日本シリーズ制覇に貢献した直後に退団。1997年からはNHK解説者・日刊スポーツ評論家として復帰する。

1999年中日ドラゴンズの投手コーチに就任。この前に巨人監督の長嶋茂雄からも投手コーチとしての誘いを受け、妻の病気を理由に断っていたが、中日監督の星野仙一より直に強く説得され、「星野監督を男にしたい」と引き受けた。

星野の後を引き継いで監督に就任が決まったのは、星野の意向だと言われている。しかし、直後に星野が阪神タイガースの監督に就任。2軍監督の島野育夫も引き抜かれたため、球団内のバックアップを失うこととなった。山田は「あの時、島野さんを引き抜かれたのが一番痛かった」と語っている[6]。中日でも投手コーチとしては手腕を発揮、岩瀬仁紀にキャンプ中つきっきりでフォームを矯正し、リーグを代表する中継ぎエースに育て上げた。2001年ヘッドコーチを兼任した後、同年オフに中日監督に就任。監督1年目の02年は5位から3位に順位を上げるが、優勝した巨人には15.5ゲーム差をつけられた。同年は朝倉健太を先発に起用し、初勝利以降勝利を重ねて、11勝を挙げた。

2003年9月9日、成績不振のため遠征先の広島で解任となった。(残り試合は、ヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介監督代行を務める。20試合で14勝5敗1分とチーム成績は上昇し、最終的に2位になった。)阪神に独走を許すペナントレースになったものの、3年契約の2年目で、球宴休み中にオーナーの白井文吾から続投が「公表」されていて、なおかつ当人が側近に漏らした本音で、直近まで秋季キャンプや来季のコーチングスタッフの話を球団としていて、一部の球界関係者には、秋季キャンプの臨時コーチや来季の入閣の打診までしていた上での急な決定だった。これは、中日でのプレー経験のない完全な「外様」であり、選手や首脳陣からの求心力の低下、OBとの確執が激しかったという事情を本社、球団いずれも掴んでいたことがあった。決定的なのは、5連敗目を喫した9月7日の対ヤクルト26回戦(ナゴヤドーム)で、ハーフスイングを巡る抗議による退場処分。抗議がそのプレー直後ではなく、攻守交替時に行ったことを問題視され、連敗と間の悪い退場劇が解任への格好の引き金となってしまった[7]。活躍した選手を称賛する一方、期待を裏切ると容赦なく糾弾し、「恐怖政治」と言われた[8]。コーチ時代には前田幸長とはソリが合わず[9]、山田の監督昇格が決まった2001年オフに前田はFA宣言し、読売ジャイアンツに移籍している。山崎武司とも確執があり[10]、01年オフFA資格を取ってから横浜ベイスターズから誘いをもらってその気になっていたら、山田から「一緒に戦ってほしい」と説得されて残留したが、一軍に上がってチャンスで代打で打てず、その後山田が「このチームを奈落の底に落とす選手がいる」と発言。その発言を新聞で見た山崎は激怒。それ以降、山崎は山田とはひと言も口を聞かず、目も合わせないようにしているという。エディ・ギャラードとも対立し、ギャラードは03年途中横浜ベイスターズへ移籍した[11]

オリックス時代の教え子であり、故障で不振の平井正史を獲得し中継ぎの一人として復活させたこと、強肩だが内野守備に難がありポジションが固定されなかった福留孝介を外野にコンバートしたこと、荒木雅博井端弘和を辛抱強く使い続けたことなど、後の中日躍進の基礎を築いた人物でもある。

2004年からCBCテレビラジオの野球解説者を務めるほか、2005年からはブレーブス・ブルーウェーブOB会会長を務めている。2006年野球殿堂入り。12月に行われた野球殿堂入りパーティーにはイチロー田口壮がスペシャルゲストとして出席した。2007年に山田の出生地・能代市は市営能代球場の名称を、山田の業績をたたえて「山田久志サブマリンスタジアム」(愛称)と改名した[12]。9月29日には山田久志夫妻を招いて、命名式が行われた。愛称の制定に際し、山田から現役時代のユニフォームやグラブ、写真パネルなど計131点が贈呈され、球場内に設けられる展示ブースで公開されている。オフシーズンに開催されているプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに所属し、短いイニングながらもマウンドに立っている。

2009年ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の投手コーチに就任。投手選考と投手起用については監督の原辰徳からほぼ全権が委任されていた。WBCの投手の投球制限規定に悩まされたが、本来は先発投手であるダルビッシュ有抑えに起用するなど、思い切った投手起用と継投策を駆使し、2大会連続世界一に大きく貢献した。また、山田が週刊ベースボールに記した手記によれば、原監督からは投手陣だけでなく、イチローとの橋渡し役も頼まれていた。

2016年2月には、阪急の後継球団・オリックスバファローズの春季キャンプで、福本と共に臨時コーチを務める予定[13]

指導歴[編集]

  • 1994年-1996年 オリックス・ブルーウェーブ 一軍投手コーチ
  • 1999年-2001年 中日ドラゴンズ 一軍投手コーチ
  • 2002年-2003年 中日ドラゴンズ 監督
  • 2009年 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 投手コーチ

評論歴[編集]

  • 1989年-1993年, 1997年-1998年 NHK解説者・日刊スポーツ評論家
  • 2004年- CBCテレビ・ラジオ解説者

特筆[編集]

人物[編集]

福本豊とは同期入団であり、若い頃は仲が良かった。しかし山田が先発したある試合で、福本がセンターフライを落球。それに対して山田はあからさまに怒りを表し、イニング終了後に謝罪に来た福本を無視したことがある。引退後、福本の記念祝賀会に招待されながらも欠席し、星野仙一に批判されている。現在は、ブレーブス・ブルーウェーブOB会会長と副会長という間柄である。2011年5月8日に行われたオリックス・バファローズのイベントでは同期入団の福本・加藤英司らと共にトークショーを行い、現役時代の様々なエピソードを紹介した。また、同時期に出版されたムック本では福本との対談が掲載されている。

監督辞任後はCBCの解説者として活動しているが、兵庫県在住のため他の解説者と比べて出演機会が少ない(月に1カード程度。もしくは関西地方からの自社制作の試合に出演)。ただし、ブレーブス・ブルーウェーブOB会会長ということもあり、セ・パ交流戦開始後は中日対オリックス・バファローズ戦では毎年最低1試合(オリックス主催試合をCBCが自主制作した時は中日・オリックスそれぞれの主催試合で1試合ずつ)は必ず解説を担当している。2011年からは、地元のMBSラジオ(CBCと同系列)[14]で放送される生ワイド番組『ノムラでノムラだ♪ EXトラ!』の火曜日に、ゲストで定期的に出演している。

CBCテレビの中継ではトップ解説者の扱いであり、全国ネットとなる中日VS巨人の地上波テレビ中継についてはCBCサイドから1名、TBSサイドから1名(衣笠祥雄、もしくは槙原寛己)の2名体制での中継となるが、CBCサイドで出演するのは山田の担当が多いが、山田がラジオの解説に回った場合は立浪和義牛島和彦の場合もある。中日が日本シリーズに進んだ場合のCBC制作全国ネットの中継でも、山田加入以降はCBC解説者では山田の担当が多い。なお、巨人戦がローカル中継となる場合は山田以外のCBC解説者が出演することもある。

WBCでの経験や近年における沢村賞受賞者がパ・リーグの選手に偏っていることから、セ・リーグでの極端な投手分業制に対しては懐疑的な考えを持っている[15]

野球[編集]

昭和50年代(1975年から1984年)にあげた勝利数が163で、2位の鈴木啓示の155を抑えて1位である。また、1970年代(昭和45年から昭和54年)にあげた勝利数は171であるが、鈴木啓示が174をあげたため、2位である。

初勝利こそ8回2死まで投げながらベテラン・足立光宏のリリーフを仰いだものの、100勝・150勝・200勝・250勝・最後の勝利(登板日は阪急最後の公式戦でもある)でもある284勝など初勝利以外の節目の勝利は、すべて完投勝利である。

1971年第3戦で痛恨のサヨナラ本塁打を浴びた王とは、日本シリーズでは通算でも対戦打率.320(25打数8安打)・4本塁打と分の悪い対戦成績だが、オールスターでは逆に7打数0安打と完璧に抑え込んでいる。

自身が得意とした変化球のシンカーについて、「私のシンカーが本当のシンカー」と自負している。同じくシンカー使いの名手と言われる高津臣吾潮崎哲也のシンカーについては、「シンカーというよりもチェンジアップ」と述べている[16]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1969 阪急 7 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 45 9.2 14 1 1 0 1 6 0 0 6 6 5.40 1.55
1970 52 18 9 3 1 10 17 -- -- .370 765 189.0 156 29 52 2 9 162 1 1 75 67 3.19 1.10
1971 46 31 16 6 3 22 6 -- -- .786 1064 270.0 195 37 64 6 6 189 0 0 80 71 2.37 0.96
1972 43 27 15 3 1 20 8 -- -- .714 928 231.0 186 29 52 5 8 142 3 1 85 79 3.08 1.03
1973 36 26 12 1 1 15 10 -- -- .600 845 207.1 194 32 47 2 3 99 1 1 89 82 3.57 1.16
1974 41 7 4 0 0 11 6 11 -- .647 534 130.0 103 18 36 5 3 78 0 1 46 44 3.05 1.07
1975 31 25 16 2 3 12 10 2 -- .545 827 198.0 202 36 42 2 9 114 1 0 97 95 4.32 1.23
1976 39 27 23 5 3 26 7 5 -- .788 1020 259.2 217 20 48 1 4 143 2 0 74 69 2.39 1.02
1977 44 25 20 1 3 16 10 7 -- .615 960 240.2 204 19 46 2 9 132 2 1 70 61 2.28 1.04
1978 35 25 20 1 5 18 4 4 -- .818 889 219.2 188 23 40 1 11 117 1 0 79 65 2.66 1.04
1979 36 27 20 3 2 21 5 4 -- .808 973 237.0 211 17 64 4 9 115 1 0 81 72 2.73 1.16
1980 30 22 18 1 2 13 10 1 -- .565 823 200.2 172 28 59 6 5 112 0 0 84 66 2.96 1.15
1981 34 22 17 1 2 13 12 5 -- .520 832 208.0 172 24 45 1 9 114 1 0 78 68 2.94 1.04
1982 33 25 17 0 2 16 9 4 -- .640 902 218.0 204 30 65 5 9 97 0 0 90 75 3.10 1.23
1983 28 27 21 1 6 14 11 0 -- .560 894 214.1 223 20 46 1 7 90 1 0 95 79 3.32 1.26
1984 24 21 14 2 4 14 4 0 -- .778 682 167.2 156 19 39 0 7 60 0 0 67 61 3.27 1.16
1985 30 29 16 1 1 18 10 0 -- .643 926 222.1 216 42 54 0 10 104 0 0 118 107 4.33 1.21
1986 28 28 15 0 2 14 9 0 -- .609 877 210.1 208 28 46 0 12 105 0 0 99 89 3.81 1.21
1987 17 15 5 0 0 7 7 0 -- .500 474 113.2 113 18 35 1 2 36 0 0 57 47 3.72 1.30
1988 20 19 5 0 1 4 10 0 -- .286 490 118.0 125 20 28 3 2 43 0 0 68 64 4.88 1.30
通算:20年 654 447 283 31 42 284 166 43 -- .631 15750 3865.0 3459 490 909 47 135 2058 14 5 1538 1367 3.18 1.13
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2002年 中日 3位 140 69 66 5 .511 15.5 125 .257 3.19 54歳
2003年 2位 140 73 66 1 .525 14.5 137 .268 3.80 55歳
通算:2年 260 128 127 5 .502 Aクラス2回
※1 2001年から2004年までは140試合制
※2 2003年、残り20試合の9月9日より休養。監督代行は佐々木恭介
※3 2003年、欠場の20試合は通算成績には含めない

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100勝:1976年6月8日、対太平洋クラブライオンズ前期9回戦(平和台球場)、8回1失点完投勝利(雨天コールド) ※史上67人目
  • 1000奪三振:1977年6月19日、対ロッテオリオンズ前期12回戦(明治神宮野球場)、5回裏に新井昌則から ※史上53人目
  • 150勝:1978年9月23日、対近鉄バファローズ後期13回戦(藤井寺球場)、9回2失点完投勝利 ※史上31人目
  • 1500奪三振:1981年8月26日、対西武ライオンズ後期7回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に山崎裕之から ※史上28人目
  • 200勝:1982年4月29日 対ロッテオリオンズ前期6回戦(阪急西宮球場)、9回6失点(自責点4)完投勝利 ※史上17人目
  • 500試合登板:1982年8月14日、対西武ライオンズ後期8回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点完投勝利 ※史上48人目
  • 250勝:1985年7月10日、対ロッテオリオンズ14回戦(川崎球場)、9回2失点完投勝利 ※史上9人目
  • 600試合登板:1986年6月10日、対西武ライオンズ8回戦(平和台球場)、9回3失点(自責点2)完投で敗戦投手 ※史上25人目
  • 2000奪三振:1987年8月24日、対西武ライオンズ18回戦(阪急西宮球場)、4回表に清原和博から ※史上12人目
レギュラーシーズン
  • 12年連続開幕投手(1975年 - 1986年) ※日本プロ野球記録
  • シーズン42被本塁打(1985年) ※パ・リーグタイ記録
日本シリーズ
  • 通算9敗(シリーズ記録)
  • 通算122被安打(シリーズ記録)
  • 通算23被本塁打(シリーズ記録)
  • シリーズ3敗(1984年、シリーズタイ記録)
  • シリーズ6被本塁打(1978年、シリーズ記録)
  • シリーズ12自責点(1976年、1978年、シリーズタイ記録)
  • 1試合169投球数(1978年第1戦、9イニング超を除き最多)
  • 1試合14被安打(1978年第5戦、シリーズ記録)
オールスターゲーム
  • 出場:13回(1971年 - 1972年、1974年 - 1979年、1981年 - 1982年、1985年 - 1987年)
    • 1980年と1984年は出場辞退
  • 通算7勝(オールスターゲーム記録)

背番号[編集]

  • 25 (1969年 - 1970年)
  • 17 (1971年 - 1988年)
  • 67 (1994年)
  • 71 (1995年 - 1996年、2002年 - 2003年)
  • 75 (1999年 - 2001年)

関連情報[編集]

著書[編集]

関連書籍[編集]

出演[編集]

現在の出演[編集]

過去の出演[編集]

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脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 皆川の投球フォームについてはサイドスローと言われることもある。なお、山田が通算勝利数で皆川(221勝)を上回ったのは1983年である。
  2. ^ 落合にとって敗戦濃厚の9回2アウトの3打席目は、シンカーを空振りし故意に三振するつもりだったが、予想に反してカーブがきたため、思わずバットを出したところ本塁打になった[4]
  3. ^ トム・シーバーが持つMLB記録とも並んでいた。

出典[編集]

  1. ^ 日本野球連盟 『都市対抗野球大会60年史』 毎日新聞社1990年
  2. ^ a b c d e 『阪急ブレーブス黄金の歴史 永久保存版―1936-1988 よみがえる勇者の記憶』 ベースボール・マガジン社〈B・B MOOK 750 スポーツシリーズ NO. 621〉、2011年5月ISBN 9784583617756 福本との対談より。
  3. ^ 伏線はあった…山田久志が王貞治に打たれたサヨナラ本塁打”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社 (2009年10月15日). 2011年5月31日閲覧。
  4. ^ 伝説のサブマリン・山田久志が語るエース哲学7”. 阿佐智の「アサスポ・ワールド・ベースボール」. ワイズ・スポーツ (2015年7月24日). 2016年1月6日閲覧。
  5. ^ a b スポーツ・グラフィックナンバー 『魔球伝説 プロ野球 不滅のヒーローたち』 文藝春秋文春文庫ビジュアル版〉、1989年9月ISBN 9784168118128 山田の項より。
  6. ^ 星野仙一の懐刀・島野育夫 野球知識目当てでトレードされた”. NEWSポストセブン. 小学館 (2013年12月5日). 2014年1月18日閲覧。
  7. ^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2003年9月29日号、98頁-100頁。
  8. ^ 張智彦「<プロ野球>無念の「電撃解任」 中日・山田監督」『毎日新聞』2003年9月9日。
  9. ^ 「細く長く」『東京スポーツ』2011年9月23日。
  10. ^ 山崎武司『さらば、プロ野球 ~ジャイアンの27年』宝島社、2014年1月、107頁。
  11. ^ 【8月10日】2003年“キレる”守護神ギャラード 初の1シーズン2球団セーブ”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社 (2009年8月11日). 2016年3月16日閲覧。
  12. ^ 能代市教育委員会スポーツ振興課 山田久志サブマリンスタジアム(能代球場)”. 能代市. 2009年11月7日閲覧。[リンク切れ]
  13. ^ “レジェンド”福本氏&山田氏 オリ臨時コーチに 来春Cで実現”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社 (2015年12月6日). 2015年12月18日閲覧。
  14. ^ クロスネットのため、競合局の東海ラジオ放送とも系列関係がある。
  15. ^ なぜセ・リーグはエースが育たないのか?”. Sportiva. 集英社 (2010年9月13日). 2011年11月16日閲覧。
  16. ^ 「1980-2005 日本野球の25人 ベストゲームを語る。第17回 潜航御礼!サブマリンここだけの話」『Sports Graphic Number 』文藝春秋、2005年4月21日発売号、37頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]