ドリー・ファンク・ジュニア
![]() |
ドリー・ファンク・ジュニア | |
---|---|
![]() NWA世界ヘビー級王者時代(1973年) | |
プロフィール | |
リングネーム |
ドリー・ファンク・ジュニア ホス・ファンク |
本名 | ドーランス・アーネスト・ファンク |
ニックネーム |
アマリロの星 グレート・テキサン テキサスの若馬 ロング・トール・テキサン |
身長 | 190cm |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1941年2月3日(82歳) |
出身地 |
![]() ![]() インディアナポリス |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー |
ドリー・ファンク・シニア ルー・テーズ |
デビュー | 1963年7月 |
ドリー・ファンク・ジュニア(Dory Funk Jr., 本名:Dorrance Earnest Funk, 1941年2月3日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。インディアナ州インディアナポリス出身、後にテキサス州アマリロに転じた。第4代PWF会長。
日本でのニックネームは「グレート・テキサン」「テキサスの若馬」。父親のドリー・ファンク・シニア、弟のテリー・ファンクも著名なプロレスラーである。テリーとのタッグチーム「ザ・ファンクス」を組み、日本でも活躍した。
来歴[編集]
ウエスト・テキサス州立大学でフットボール選手として活躍し1962年のサンボウル優勝メンバーとなる。大学卒業後、1963年1月10日ドン・ファーゴ相手にアマリロでデビュー。同年11月には、デビュー4か月にして時のNWA世界ヘビー級王者のルー・テーズと対戦した。
1969年2月11日、フロリダ州タンパにおいて「荒法師」ことジン・キニスキーと対戦して勝利し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。戴冠当時はひ弱なイメージもあったが、試合を重ねるごとに急成長し、以降は1973年5月24日にミズーリ州カンザスシティでアマリロ地区の客分格ハーリー・レイスに敗れるまで、4年3か月間にわたる長期政権を築いた。その間、日本でもジャイアント馬場、アントニオ猪木[1]、坂口征二と防衛戦を行っている。アメリカでは、ラッシャー木村や鶴田友美からの挑戦を受けもした。
以来、ドリーはアメリカを代表するレスラーとなり、実力世界一と謳われた時期もあった。1969年6月20日に元王者テーズ、7月7日にビル・ロビンソン戦と防衛を重ねた。7月26日・29日には前王者であるキニスキーを連覇、同年7月30日にはドリーの生涯のライバルであるジャック・ブリスコの初挑戦を受け、防衛に成功する。
1971年4月22日には、カリフォルニア州ベーカーズフィールドにてミル・マスカラスを相手に防衛戦を行った(結果はノーコンテスト。)[2]。マスカラスは、「詳しい内容は憶えていないけど、誰かが乱入したと思う。ジョン・トロスかピーター・メイビアか…」と話している[2]。
1974年1月、レイス、ブリスコと共に馬場の全日本プロレスに参戦している。[3]
後に全日本プロレスのブッカーになりホームグラウンドにすると、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ホースト・ホフマン、ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディらと好勝負を残している。1977年には世界オープンタッグ選手権に弟のテリーと組んで優勝する。1979年・1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝している。1981年にはインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、初防衛戦で弟のテリーと最初で最後の兄弟対決(タッグマッチでは1966年1月13日にアマリロで、ウエスタン・ステーツ・タッグ王者ドリー&リッキー・ロメロ組にワフー・マクダニエル&テリー組が挑戦している。)。全日本への参戦は1996年秋まで続き、その間1983年と1985年の最強タッグには馬場とコンビを組んで出場した。1984年にも馬場とのコンビでPWF世界タッグ王座決定リーグ戦に出場している。なお、外国人レスラーで馬場と一定期間コンビを組んで日本で活動したのはドリーのほか、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントだけである。
ドリーは、アメリカでは地元・アマリロでプロモーター兼エースとなって活躍する一方、フロリダ(CWF)、ジョージア(GCW)、プエルトリコ(WWC)などにも参戦。1980年代後半にはホス・ファンク(Hoss Funk)を名乗り、カウボーイ・ギミックのヒールとしてニューヨークのWWFにも登場した。
また、ドリーは全日本プロレスへの外国人レスラーのブッキングを行ったり、指導者として多くの後進を育成してきてもいる。ドリーの門下には、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、ボブ・バックランド、スタン・ハンセン、テッド・デビアス、レイ・キャンディ、ティト・サンタナ、ジェイ・ヤングブラッド、石川敬士、キング・ハク、ジョニー・エース、ジェフ・ハーディー、マット・ハーディー、テスト、ジャイアント・シルバ、クリスチャン・ケイジらがいる。全日本に継続参戦している頃はコーチ役も受け持っており、三沢光晴らの成長に一役買った。その他、門下ではないもののカート・アングル、西村修もドリーの指導を受けている。
2001年10月には新日本プロレスに初参戦。7日の「無我」後楽園ホール大会では弟子の西村とシングルマッチを行い、8日の東京ドーム大会にはテリーとのザ・ファンクスで出場、藤波辰爾&バックランドのチームと対戦した。
第一線を退いてからはフロリダ州オカラにて不動産事業を手掛ける傍ら、ファンキン・コンサーヴァトリー(Funkin' Conservatory)というプロレスリング・スクールにて後進の指導に当たり、ドリー自身も時折インディー団体のリングに上がっていた。
2008年3月1日、ドリーは全日本プロレス両国国技館大会にて引退試合を行った。同時期にIGFにウィットネスとしてスタン・ハンセンと共に来日。
2009年4月には、弟のテリーと共にWWE殿堂入りを果たした。プレゼンターはダスティ・ローデスであった。全日本プロレスUSA道場を設営するなど、全日本社長の武藤敬司とも良好な関係を築いている。
2013年10月、全日本プロレスに22年ぶりにファンクスとして来日し、両国国技館第二試合に出場。試合は渕正信、西村組と20分1本勝負で時間切れ引き分けに終わる。先代の馳浩退任後空席が続いていたPWF新会長に就任する。
2014年07月、全日本プロレス後楽園大会に出場。西村、吉江豊とトリオを結成し大森隆男、渕、ウルティモ・ドラゴン組と対戦。新体制となった全日本プロレスへの全面支援をアピールした。
2016年7月22日、ドリーの地元・オカラで行われたWWE傘下のNXTのNXT LIVEに来訪、リング上でベイリーとハグをした。
2019年2月19日、『ジャイアント馬場没後20年追善興行」でのアブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念式典に登場し、ブッチャーへ花束を贈呈した[4]。
エピソード[編集]
- NWA世界ヘビー級王座に長期君臨した実績を持ち、漫画版『タイガーマスク』では最強のレスラーとして描かれ、ドリーはタイガーマスクが最後に対戦したレスラーとなっている。
- 先達レスラーからも評価が高く、テーズや馬場は「対戦する度に成長している」と語った。
- 若年性脱毛症であったが、逆にそれがドリーのトレードマークとなっている。現在は白髪化しているが、側頭部と後頭部はかなり伸ばしている。
- 外国人係を長く務めたレフェリーのジョー樋口によると、ドリーは「私生活ではとにかく大雑把で、集合時間を知らせておいてもその時間に電話したら寝てたってことはザラで、電話してから実際に出て来るまで2、30分かかることもよくあった。ファンクスほどボケーッとしているレスラーはちょっと見当たらない」と話している。
- ドリーは離婚を一度経験している。最初の妻であるジミーとは1960年6月に結婚し、3人の子供に恵まれたものの後年別居の末、1983年7月に正式に離婚した。現在の妻、マーティとは1989年に再婚している。
得意技[編集]
- スピニング・トーホールド
- 入場テーマ曲の『スピニング・トーホールド』は、日本のロックバンドクリエイションがこの技を意識して制作したものである。
- ダブルアーム・スープレックス
- ビル・ロビンソンとの幾度の対戦から盗んだもので、ロビンソンに比べるとスピードが遅く半径が大きい、典型的なアメリカンスタイルなのが特徴。まだダブルアーム・スープレックスという名前が定着する前にはテキサス・ブロンコ・スープレックスと呼ばれていた。
- サイド・スープレックス
- これもロビンソンとの対戦から盗んだもので、試合の中で効果的に使っていた。
- エルボー・スマッシュ
- 鶴田、西村、大森などがドリーのスタイルを継承している。
- エルボー・ドロップ
- ブレーンバスター
- 回転エビ固め
- 逆さ押さえ込み
- ショルダー式ネックブリーカー
- ロビンソンが得意にしていたヨーロッパ式ネックブリーカーで、この技もロビンソンから「盗んだ」もの。
- インサイドワーク
- ロープ際に詰められた際、「片手で相手の首を抱え込むと同時に、もう片方の手でロープを掴んで軽くジャンプして尻をロープ上に乗せ、反動を利用して後方に半回転しつつ相手をリング外に投げ落とす」という、独特のインサイドワークをよく使ったが、馬場がこれを仕掛けられた際にマットの無い場所に落ちてしまい大腿部を骨折、長期欠場することになった。
獲得タイトル[編集]
- ナショナル・レスリング・アライアンス
-
- NWA世界ヘビー級王座:1回(第46代)
- NWA殿堂:2006年[5]
- NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
-
- NWAブラスナックル王座(アマリロ版):2回
- NWA北米ヘビー級王座(アマリロ版):1回
- NWA世界タッグ王座(アマリロ版):2回(w / テリー・ファンク)
- NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:6回(w / リッキー・ロメロ×2、スーパー・デストロイヤー×2、レイ・キャンディ、ラリー・レーン)
- ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
-
- NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / テリー・ファンク)
- ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
-
- NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:2回
- NWAハリウッド・レスリング
-
- NWAアメリカス・ヘビー級王座:1回
- NWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / テリー・ファンク)
- セントルイス・レスリング・クラブ
-
- NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
-
- NWAフロリダ・ヘビー級王座:4回
- NWAフロリダTV王座:2回
- NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / テリー・ファンク)
- NWA北米タッグ王座(フロリダ版):2回(w / テリー・ファンク、デビッド・フォン・エリック)
- スタンピード・レスリング
-
- NWAインターナショナル・タッグ王座(カルガリー版):1回(w / ラリー・レーン)
- サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング
-
- SCW世界タッグ王座:1回(w / テリー・ファンク)
- コンチネンタル・レスリング・アソシエーション
-
- CWA世界ヘビー級王座:1回
- ワールド・レスリング・カウンシル
-
- WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
- WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回
- WWC世界タッグ王座:1回(w / テリー・ファンク)
- インターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング
-
- ICWヘビー級王座:1回
- ニューイングランド・レスリング・アライアンス
-
- NEWA北米ヘビー級王座:1回
- 日本プロレス / 全日本プロレス
-
- インターナショナル・ヘビー級王座:2回(第10代、第12代)
- インターナショナル・タッグ王座:2回(w / テリー・ファンク)(第15代、第22代) ※第15代王座はBI砲を破って獲得。
- 世界オープンタッグ選手権 / 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝:3回(w / テリー・ファンク)(1977年、1979年、1982年)
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ “【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月10日閲覧。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.42』P76(2016年、辰巳出版、ISBN 4777818128)
- ^ 「噂のチャンネル」で大人気だったデストロイヤーがマスカラスと対決した46年前の7月25日 yahooニュース
- ^ “ジャイアント馬場没後20年追善興行に猪木、初代タイガー、新間寿、坂口征二、ハンセンらが集結! 76歳のマスカラスが空を舞い勝利! 新日本vs全日本の全面対抗戦は全日本に軍配?!”. バトル・ニュース (2023年9月16日). 2019年2月20日閲覧。
- ^ “NWA Hall of Fame”. Wrestling-Titles.com. 2022年5月4日閲覧。