石川孝志

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石川 孝志
プロフィール
リングネーム 石川 孝志
石川 敬士
石川 隆士
本名 石川 孝志
ニックネーム 炎の旋風児
身長 180cm
体重 110kg
誕生日 (1953-02-05) 1953年2月5日(65歳)
出身地 山形県東田川郡藤島町(現:鶴岡市
所属 フリー
スポーツ歴 大相撲
トレーナー パット・オコーナー
デビュー 1977年11月17日
引退 1998年1月19日
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石川 孝志(いしかわ たかし、1953年2月5日 - )は、日本の元プロレスラー花籠部屋所属の元大相撲力士。大相撲時代は大ノ海四股名で最高位は前頭4枚目で身長180cm、体重125kg。後にプロレスラーに転向して特に石川 敬士(いしかわ たかし)のリングネームで知られる(隆士また本名の孝志の場合もあり)。

経歴[編集]

中学時代までは野球少年であったが、酒田南高等学校進学後に相撲に没頭、国民体育大会高校の部で優勝するなど実力を発揮、素質にも恵まれ、この時点で相撲部屋からのスカウトもあったがこれを断り日本大学に進学。名門日大相撲部で活躍し、全日本相撲選手権大会に優勝してアマチュア横綱など数多くのタイトルを獲得、主将も務めたが四年時に糖尿病を患った。これが後の力士廃業の理由である。[1]

大学卒業後は大相撲の花籠部屋へ入門、1975年3月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵。アマチュア横綱経験者が初めて角界入りしたとして当初は注目を浴びた。巨漢ではないが取り口が巧みで、期待の技巧派力士として順調に幕内まで昇進するものの、糖尿病の再発を理由に24歳、1977年7月場所をもって廃業。なお四股名の大ノ海は、師匠であった11代花籠親方(元前4・大ノ海久光)の四股名でもあり、それだけ将来を嘱望されていた。

廃業直後からプロレスへの転向を表明しており、1977年10月にはフリーの選手として全日本プロレスへ参加。当時は大相撲からプロレスへの転向(実際には引き抜き)が多く、批判の対象になることが多かった。石川の場合も、相撲廃業の理由が糖尿病であるにもかかわらずわずか3か月後にプロレス転向したことで、当初フリー選手であったのは引き抜きに対するカモフラージュであったと言われている。

その後、ジャイアント馬場の意向もあり、武者修行のため渡米。元NWA王者パット・オコーナーのトレーニングを受け、11月17日にはボブ・オートン・ジュニア戦でアメリカマットでデビュー。約1年の全米サーキットを行う。凱旋帰国は1978年国際プロレス日本リーグ争覇戦で、全日本勢と共に参戦した。1979年に全日本プロレスに正式入団。勢いのあるファイトが持ち味の中堅選手として活躍し、特にアジアタッグ戦線の常連になる。また、トレーニング理論に一家言を持っていたことから、プロレス雑誌でトレーニング方法紹介の連載を持っていたこともある。全日本プロレスでの活動後期は、同じ日大相撲部出身で、力士時代も同部屋であった輪島とタッグを組むことも多かった。

1988年12月に全日本プロレス所属選手としてプロレスラーを引退するが、1990年のSWS旗揚げに際し復帰、SWSに参加する。団体内チームによる対抗戦を特色としたSWS内では、団体のエースである天龍源一郎と同じレボリューションに所属。SWS崩壊後は天龍と行動を共にしWARに参加するが、あくまで天龍を看板としたWARに離反し、1994年9月新団体の設立を表明。1994年10月、石川、嵐(初代)、坂下博志の3名により東京プロレスとして立ち上げを表明する。

東京プロレス時代は、大仁田厚の引退試合相手への名乗り(一旦は決定するも、後に大仁田の直弟子であるハヤブサの心情を理解し対戦権を譲渡したため実現せずに終わる)、ガッツ石松との異種格闘技戦を直訴(実現せず)など、当初は話題作りが先行した感が強かったが、1995年8月に東京プロレスがTWA認定タッグ王座を創設すると、他団体もしくはフリーの大物選手との交流が増え、石川への注目度も上昇した。参戦したアブドーラ・ザ・ブッチャーへの共闘ラブコールなどは有名である。1996年12月に「インディ統一機構」発足を前提として東京プロレスが活動終了するが、石川は新団体への移行を拒否し新東京プロレスを立ち上げ、古巣であるWARに参戦する。また、I.W.A.JAPANとの抗争時に団体名を石川一家と改称(同名の暴力団とは無関係)。同時期に石川孝志として新日本プロレスにも参戦している。

1998年1月19日に再引退。その後はビルの警備及び清掃を業務とする会社を設立、運営している。母校・日大の清掃も請け負う。

エピソード[編集]

  • 学生時代より相撲での実績は抜群であり、大相撲入門後は師匠の四股名を継承していることから、力士としての周囲の期待は大きかった。
  • 輪島とは日大相撲部から花籠部屋に進んだ先輩後輩であるが、二人は大相撲時代も仲が良かったようで、輪島の全日本プロレス入りに深く関わったとされる。それもあってか、石川の一度目の引退後に輪島も追随する形でプロレスから身を引いている。(なお、その際は引退試合もセレモニーも一切なく、団体からの発表と、TV中継でアナウンサーが当人不在で「ごくろうさまでした」とコメントしただけだった。)
  • プロレスの現役時代より、世田谷でスポーツ用品店を経営していた。

相撲時代の成績[編集]

  • 初土俵:1975年3月場所
  • 新十両:1975年9月場所
  • 新入幕:1977年1月場所
  • 最終場所:1977年7月場所
  • 最高位:前頭4枚目
  • 通算成績:15場所、98勝79敗 勝率.554
  • 幕内成績:3場所、18勝27敗 勝率.400
  • 幕下優勝:1回(1975年7月場所)

場所別成績[編集]

大ノ海敬士
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1975年
(昭和50年)
x 幕下付出 #60
6–1 
西 幕下 #29
6–1 
西 幕下 #12
優勝
7–0
東 十両 #12
6–9 
西 幕下 #2
3–4 
1976年
(昭和51年)
西 幕下 #7
5–2 
東 幕下 #3
5–2 
西 十両 #13
9–6 
東 十両 #8
8–7 
西 十両 #7
9–6 
西 十両 #1
9–6 
1977年
(昭和52年)
東 前頭 #12
9–6 
西 前頭 #4
4–11 
西 前頭 #11
5–10 
西 十両 #2
引退
7–8–0
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

得意技[編集]

大相撲出身ということもあり、立合いの突進力や腕力を活かした技を得意としていた。

喉輪落とし
ジャーマンスープレックス
スモーピオンデスロック
相撲ラリアット
相撲の立合いの動作から放つラリアット。
相撲タックル
相撲の立合いの動作から放つショルダータックル
ダイビングギロチンドロップ

入場曲[編集]

タイトル歴[編集]

  • プエルトリコ地区認定ノース・アメリカン・タッグ王座(パートナー:園田一治
  • アジアタッグ王座
    • 第36代 : 1981年6月11日(パートナーは佐藤昭雄)(防衛5回)(佐藤が負傷のため返上)
    • 第38代 : 1984年2月16日(パートナーは阿修羅・原)(防衛2回)
    • 第39代 : 1985年4月15日(パートナーは佐藤昭雄)(防衛0回)(原が蒸発のため返上)
    • 第42代 : 1985年10月31日(パートナーはマイティ井上)(防衛2回)
    • 第44代 : 1987年7月30日(パートナーはマイティ井上)(防衛2回)
  • TWA認定タッグ王座(パートナーは安生洋二
  • CCWタッグ王座(パートナーは川畑輝鎮
  • BJW認定タッグ王座(パートナーは木村健悟
その他

リングネーム[編集]

  • 石川敬士
  • 石川隆士
  • 石川孝志
  • ミツ・イシカワ
    • アメリカでの武者修行時代に使用。
  • ケンドー・イシカワ

脚注[編集]

  1. ^ 本来ならば糖尿病に罹患している場合は新弟子検査に合格することがないものの、この時期の新弟子検査は健康診断が甘く、相撲作家の石井代蔵も著書『真説大相撲見聞録』(新潮文庫)でその点を指摘していた。

外部リンク[編集]