横綱

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第35代横綱・双葉山定次

横綱(よこづな)は、大相撲力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製のの名称に由来する。現行制度では横綱に降格はなく、現役引退によってのみその地位から降りる。従って、横綱になる力士はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。

現在の大相撲においては、横綱は、全ての力士を代表する存在であると同時に、依り代であることのとされている。それ故、横綱土俵入りは、病気・故障等の場合を除き、現役横綱の義務である。

横綱は、天下無双であるという意味を込めて「日下開山」(ひのしたかいさん)と呼ばれることもある。

歴史[編集]

横綱の誕生以前[編集]

古くは戦国時代に黒と白の絹を混ぜて撚り合わせた綱の記述が文献に見える。この黒白横綱を締めた力士は江戸時代中頃の宝暦から安永にかけての浮世絵にその姿を留めている。

横綱の誕生[編集]

その後興行としての江戸相撲が人気を博すようになると、吉田司家行司の総元締めとしての権力を保持するため横綱免許を与えて横綱を作ることを考えた。それまでの将軍家の観戦する上覧相撲寺社への奉納相撲等特別な式典に際して行っていた土俵入りを、土俵上で行っていた顔見世土俵入りと結び付け、綱を締めさせて1人で土俵入りを披露させることにした。そして1791年(寛政3年)、第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲において谷風梶之助小野川喜三郎が行った紙垂をたらした純白の綱をつけた土俵入りが天下公認となり、横綱が誕生することになった。しかし、次に阿武松緑之助が免許を受けるまで38年も実力者(雷電為右衛門など)がいたにも関わらず免許がなく、阿武松免許の直前に、五条家が当時の両大関玉垣柏戸に横綱を免許したため、吉田司家は、横綱免許を制度化した感がある。この頃、横綱のステータスはまだ認知されていなかったのか、玉垣・柏戸が免許を受けたので横綱土俵入りをしたという記録は見つかっていない。阿武松より、本場所で土俵入りするようになり、幣(しで。綱につける紙の飾り)の形が現在と同じ(紙の長さ方向ではなく、幅方向に折り返すもの)となった。それから江戸相撲では、吉田司家が横綱免許を与えた者が正式な横綱として認められるようになり、途切れることなく現役横綱力士が存在した。

もともと当初は、「大関」の地位の中で横綱を付けられる者のことを「横綱」と呼んでいた。(谷風・小野川は関脇で横綱になっている。また、不知火諸右衛門は横綱免許後に関脇で取っている。)このことから横綱になることを「綱を張る」と表現する。また、横綱は、当初、横綱免許を持つ大関に対する名誉称号に過ぎなかったため、番付では大関が最高位であった。それゆえ、雷電爲右エ門のように現在なら当然横綱に値するような成績を残しながら横綱免許を受けなかった強豪大関も少なくない。当時の力士の多くは大名の御抱えであり、その力関係や派閥争いの影響で、横綱を逃すケースもあったと考えられる。

このように第16代横綱・初代西ノ海嘉治郎の時代までは横綱は名誉称号という性格が強かったが、1890年(明治23年)5月場所からは番付に横綱の文字が掲載されるようになった。これは初代西ノ海嘉治郎が東正大関小錦八十吉に対して東張出大関にされ下風に立ったようなかたちになった西ノ海をなだめる方法として横綱と記したのである。そして、1909年(明治42年)2月には相撲規約改正に伴い横綱の称号が地位として定められることになった。「横綱は大関の中の強豪」という考え方が一般的になると、本場所での成績によって横綱を免許されるようになった。その最初のケースは、第17代横綱・初代小錦八十吉だったと言われている。明治初期は藩閥政治の有力者が後援者として力士を番付面で優遇して誕生させた「藩閥横綱」も存在したが、近代スポーツとしての体裁を整える中でこれらは姿を消した。現在は日本相撲協会横綱審議委員会の諮問を仰ぎ、独自に推挙する。

横綱が大関の名誉称号であった時代の横綱に対しては「横綱を免許される」、地位となって以降は「横綱に昇進する」という様に、表現を使い分ける場合もある。但し、誰までが「免許」で誰からが「昇進」かはっきりした基準があるわけでもなく、区分は明確ではない。第15代横綱・初代梅ヶ谷藤太郎までは番付が大関のままだったのでこれを基準とする見方や、第19代横綱・常陸山谷右エ門と20代横綱・2代梅ヶ谷藤太郎の同時免許(このときの代数は、年長の常陸山を19代と決めている)で横綱は大関の上位と認識されるようになったのでこれを基準とする見方、史上初の相撲協会推挙による横綱である第41代横綱・千代の山雅信を基準とする見方がある。

現在行われている歴代横綱一覧は、第12代横綱・陣幕久五郎が1900年に富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」を基にしているため、伝説上の人物などを含む。

横綱免許[編集]

1789年(寛政元年)11月、江戸相撲の司家であった吉田司家が谷風梶之助と小野川喜三郎に横綱を授与したのが、横綱免許の始めとされる(なお、代数は前述の陣幕によって定められたものが、相撲協会によって公認された)。吉田司家以外にも横綱免許を出したところは数多く存在したが、吉田司家は文政年間(1818年(文政元年) - 1830年(天保元年))に主君である熊本藩細川家の威を背景として京都五条家との免許権争いに勝利する。これにより吉田司家による横綱免許の授与が制度化され、江戸相撲では吉田司家の免許を持つ者が正式な横綱として認められるようになった。

横綱免許は明石志賀之助を最初とする説あり(江戸勧進相撲-記録があるようなので横綱免許は間違いないが明石以前にも横綱がいる可能性がある。)協会公認3代の丸山権太左衛門と協会公認2代の綾川五郎次は実は逆の順番であるとする説もあり、一時期読売『大相撲』誌ではそれに基づいた横綱一覧を掲出していた。

吉田司家は明治初期に西南戦争連座して一時期権威を失うが、1884年(明治17年)2月に免許を受けた第15代横綱・初代梅ヶ谷が吉田司家の免許を希望し、復権する。大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人存在する。

現在では吉田司家以外の免許を持つ力士は後に吉田司家の追認を受けた力士を除くと、歴代横綱として認められていない。ただし、京都相撲の礒風音治郎は正式な番付への掲載がなく(1883年(明治16年)1月は番付外幕内格、5月は客席三役格)、免許は巡業専用であったと解釈されているため追認されていない[1]。 吉田司家の横綱免許を歴代横綱としている現在、吉田司家免許の記録がある以上、本来追認するのが妥当であろう。(実力はかなり弱いと記述有り) また、朝汐太郎は大関陥落後に長年の功績によって吉田司家から1日限定の横綱免許を与えられているがこれも歴代横綱に数えられていない。

吉田司家以外の免許で土俵入りを行った力士の中には吉田司家に遠慮して綱の色(黄色が多かったという)を変えたり吉田司家の地元熊本では土俵入りを行わなかったりする者もいた。吉田司家以外から横綱免許の話を持ち掛けられたが断った力士も存在する。後述の通り、横綱免許を巡る事件も幾つか発生している。以降、第40代横綱・東富士までの横綱は、吉田司家で行われる本免許状授与式で免許を授与され、奉納の土俵入りを行うことが通例であった。

しかし、1950年(昭和25年)に横綱の濫造を指摘された日本相撲協会が横綱の権威を保つために、横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者に横綱を推挙してもらうことを目的として横綱審議委員会(横審)を発足させたことで、1951年(昭和26年)5月場所後の第41代横綱・千代の山以降に吉田司家の横綱本免許状授与式は廃止となり行われていない。

慣例として、九州巡業や11月場所(九州場所)前に新横綱が熊本市の吉田司家を表敬訪問し、土俵入りを披露する慣わしも踏襲されたが、司家の経済問題による日本相撲協会との絶縁により、1986年(昭和61年)に昇進した第60代横綱・双羽黒以降の横綱は事実上廃止となり、これを行っていない。

横綱を世襲表現のように何代目(歴代横綱)と呼ぶのは、明治期より流行った呼び方のようで正しい日本語表現とはいえないと、彦山光三が唱え、何人目(歴次横綱)と呼ぶべきだと主張し、読売系の一部のマスコミやファンが好んでこの表現を使っている。

ただし、協会公認の横綱一覧や、相撲博物館の展示では、何代目の表示がされているので、本項目はそれにしたがう。

非公認横綱[編集]

相 撲 四股名 免 許
大坂相撲 八陣信蔵 五条家免許
高越山谷五郎 五条家免許
八陣調五郎 神理教免許
京都相撲 小野川才助 五条家免許
兜潟弥吉 五条家免許
大碇紋太郎 五条家免許

横綱土俵入り[編集]

68代横綱・朝青龍明徳の横綱土俵入り

横綱力士は、自身の横綱を締め、「太刀持ち」・「露払い」を従えて横綱土俵入り(現在の型には雲龍型と不知火型の2種類が有る)を行う。横綱土俵入りに太刀持ち、露払いを従えるようになったのは天保年間(1830年(天保元年) - 1844年(弘化元年))と伝わる。

横綱土俵入りは現役の横綱にしか許されない特権かつ義務であり、横綱経験者であっても自身の引退相撲を最後にこれを行うことはできない[2]。唯一の例外として、還暦を迎えた時に赤い横綱を締めて行う「還暦土俵入り[2](当時の武蔵川親方、元三重ノ海の還暦土俵入り)がある。横綱土俵入りは、セレモニーとして大相撲の最大の華であり、かつ横綱の権威を示すものでもあり、いやが上にも横綱の責任を大変重いものにしていると言える。

なお、露払いや太刀持ちには、引退相撲や還暦土俵入りなど特別な場合は横綱が付き従うことがあるが、それ以外の場合は関脇以下(本来は大関でもよいのだが、実際に大関在位中の者が付き従うことは非常に珍しい)の幕内力士が務める。横綱が還暦や引退の土俵入りに付き従う場合でも、自分の土俵入りと同じく綱を締める。

露払い・太刀持ちとして付き従う力士は、通常、同じ一門の力士の中から選ばれる。地方巡業などでは、開催地の地元出身の力士などが一門外であっても起用される事がある。また、当日にその横綱力士と対戦する幕内力士は露払いや太刀持ちを行わず、代わりの力士が起用される。

引退後、新たな横綱が誕生した際に横綱土俵入りの型と作法を伝授する事も、横綱を務め上げた力士にとっては重要な責務である。

横綱力士が締める綱[編集]

材料はで3本の小縄を縒り合わせて両端を細く、中央部分を最も太くなるように作る。3本の小縄にはそれぞれ線が芯として入れられている。力士の横綱昇進時に作り、それ以降は現在では東京場所毎に新しく作り直す。

綱を作る作業は「綱打ち式」と呼ばれ部屋の力士を総動員して行う。部屋が少人数の場合は同じ一門で綱打ち式の経験のある他の部屋の力士も動員することが多い。

土俵入りの型によって締め方が異なり、雲龍型は輪を一つ、不知火型は輪を二つ作る締め方をする。このため、横綱力士の体格にもよるが概して不知火型用の綱は雲龍型用の綱より長く重くなる傾向にある。

歴代横綱の中で現存する写真の限りでは大坂相撲の大木戸森右エ門(第23代)と宮城山福松(第29代、大坂相撲在籍時に限る)は、締めている綱の縒り方が逆になっている。新横綱になったばかりの源氏山大五郎(第30代、のち3代西ノ海嘉治郎)と宮城山福松の両横綱の写真(右が宮城山福松)[3]によると、2人の綱の縒り方が違っているのが確認できる。源氏山の綱が現在の綱の縒り方(所謂Z縒り)である。また、安藝ノ海節男(第37代)も1944年(昭和19年)以降逆に縒った綱を締めている。

特権と責務[編集]

横綱力士は現役を退くまでその地位を保証されるが、その代償として、出場する際には常に最高レベルの相撲内容・成績を求められる。大関以下の力士は、技量が衰えてもその時の実力に見合った番付で現役を続けることができるが、これは横綱には許されず、横綱の地位に見合った高レベルの実力を発揮できなければ引退する以外に道はない(かつて千代の山雅信が成績不振を理由に大関への降格を相撲協会に申し出たことがあったが認められなかった)。そのため、負傷等により若くして引退に追い込まれる横綱も少なくない。一方、横綱は負傷や体調不良を理由に休場しても番付が下がることはないため、横綱が本場所で高レベルの成績を出せる自信のない場合は長期休場することも珍しくない[4]

所属部屋の規模にもよるが、横綱には通例15人程度の付き人が付く。綱を締めるために人手を必要とする事情もあって、大関以下の関取に比してその数は非常に多い。また大関以下には無い三ツ揃いの化粧廻しと綱を持っているため、これを入れる必要上明荷は3つ持つことが認められている(大関以下の力士は1つしか持てない)。

大相撲の番付の規則では、横綱はいなくても構わないが、大関は必ず最低2名は存在していなければならないため、大関が不在の時は2名、1名の時は1名、横綱が番付上「横綱大関」として大関の地位を兼ねる。

横綱力士は、特権あるいは責務として、日本国籍を有するときには現役力士たちの代表として日本相撲協会の評議員を務めることができ、役員選出などにおける投票権を行使することができる。

その他、横綱力士は、年寄名跡を持たなくても現役引退後5年間は四股名のままで年寄(委員待遇)として協会に残ることができる。また、師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる。

移動手段においては、鉄道はグリーン席、飛行機はファーストクラスを利用することができる(大関も同様)。

昇進[編集]

横審と伝達式[編集]

横綱審議委員会(横審)の内規である「大関の地位で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を上げた力士」という条件を満たした場合、日本相撲協会理事長は横審委員会に横綱昇進について諮問する。横審委員会は諮問を受けて審議し、出席委員の3分の2以上の賛成があれば横綱推薦を日本相撲協会の理事長に答申する。理事長は答申を受けて臨時理事会を招集し、理事会において横綱昇進について決議し、正式に横綱に推挙する。しかしながら、理事会は横審の答申を尊重するのが慣例のため、横審の決定が横綱昇進についての事実上の最終決定機関である。

横審の内規が制定されたのは、本場所が年6場所制になった1958年(昭和33年)1月6日である。本来は「最低でも『大関で2場所連続優勝に準ずる成績』」[5][6]であるべきという見解が正しいのだが[7]、それ以降「~準ずる成績」の部分が拡大解釈され、多分に興行上の必要性もあって、殆どの大関は連続優勝を果たさなくても横綱に昇進していた。年6場所制以降でかつて昭和時代、「大関で2場所連続優勝」で横綱昇進したのは大鵬北の富士琴櫻の3力士のみという状態であった[8]。そのため、これに対して「粗製濫造」の批判が高まった。とりわけ、1987年(昭和62年)12月に一度も優勝経験が無かった第60代横綱・双羽黒光司が、当時の師匠(立浪親方・元関脇・安念山)らとのトラブルが原因で突如廃業するという事件発生により、横審の答申が問題視されるようになった。このため、それ以降平成時代に入ってからは、横綱推薦基準の第2項「大関の地位で2場所連続優勝した力士を推薦することを原則とする」を厳格に適用することになり、第63代横綱・旭富士正也から第70代横綱日馬富士公平までの8力士は、全員「大関で2場所連続優勝」の絶対条件で横綱昇進となっていた[9][10]

横綱昇進が決定すると、協会を代表して理事と審判委員各1名ずつが当該大関のもと(東京場所なら所属部屋、地方場所なら宿舎である旅館・寺社など)にその旨を伝達に訪れ、「昇進伝達式」が行われる。昇進伝達の使者は、当該力士が属する一門の年寄が務めるのが通例である。当該大関は、所属部屋の親方夫妻を両脇に従えて使者を出迎え、「謹んで御受け致します」「横綱の地位を汚さぬ様」「稽古に(相撲道に)精進致します」「本日は誠に有り難う御座いました」といったほぼ定型の口上で応じる。当該力士は、新番付の発表を待たずにこの時点で新横綱として扱われる。

現在では横綱昇進の可否は、上述のように横綱審議委員会の答申を理事会が全面的に尊重するため、横審の答申後に事実上確定すると考えてよい。過去に理事長から横審への諮問があって昇進が見送られた例はあまりない。多くの場合千秋楽終了後から横審の審議までの間に、当該力士の横綱昇進の可否をかなり的確に判断できる。

具体的には、

  • 当該力士が、横審の内規であり双羽黒廃業事件以降のすべての横綱昇進力士がクリアしている条件である「大関での2場所連続優勝」をクリアしているかどうか。
  • 千秋楽終了後の報道陣の取材に対し審判部長(理事が務める)が理事長に当該力士の横綱昇進を審議する臨時理事会開催を要請するという趣旨の回答をするかどうか。
  • 理事長が審判部長の要請を受け臨時理事会開催の意向を示すかどうか。
  • 横審への諮問があった場合、報道陣が行う審議出席予定の横審委員への取材で、多くの委員が当該力士の昇進に関して肯定的な見解を回答するかどうか。

といったことなどを基準にして、千秋楽終了後から横審の審議までの間に、当該力士の横綱昇進の可否をかなり的確に判断できる。

しかし、このような前例に基づく横綱昇進予想は正しい予想が多いとはいえても、確実に正しいとまではいえない。例えば、1994年(平成6年)9月場所で全勝優勝を果した貴乃花の横綱昇進について理事長から横綱審議委員会への諮問が行われ、新聞各紙も1969年11月場所直後に北の富士の横綱昇進に関する理事長からの諮問で横審が否定の答申をした事例以降は理事長からの諮問で横審が長年昇進を見送らず横綱推薦してきた例から横綱昇進確実と報じたが、昇進が見送られた例がある。

2009年(平成21年)7月14日現在横綱昇進確実条件と目される「大関での2場所連続優勝」という条件も見直されつつある。例えば、2009年5月場所において14勝1敗で優勝し、次の7月場所で綱とりに挑む大関・日馬富士の横綱昇進についても、同場所千秋楽翌日の5月25日に行われた横綱審議委員会で、近年の相撲内容や昇進直前約3場所までの成績をあまり重視せず、2場所連続優勝の昇進内規を形式的に適用して横綱昇進を判断してきたことへの批判があったためか、横綱昇進の話題がほとんど上がらず、鶴田卓彦委員長は「いきなり綱獲りを論じるのは早い。(5月場所の)稀勢の里戦のような立合いの変化は評価できない。綱取りには今場所以上の成績も求められる」と述べ、無条件での横綱昇進を却下した[11]

また、内館牧子委員も「綱獲りは全く話題にならなかったし、特に稀勢の里戦の変化は非常にガッカリした。『大関で2場所連続で優勝すれば横綱』というのなら横審なんて全く必要無い」と発言し、「2場所連覇」で無条件に横綱昇進を決めることに対して、否定的な見解を示した[12]。これ以降は横綱昇進対象となる力士の成績や相撲内容が悪ければ大関で2場所連続優勝を達成しても横綱昇進が見送られる可能性があるのは否定できない。

以上のように、横審の答申前に横綱昇進見送りの前例がないことや少ないことを根拠として横綱昇進の可否を判断するのは、多くの場合正しいとはいえても、確実に正しいとまではいえない。故に、横綱昇進の可否の確定は事実上横審の答申後である。

横綱昇進前3場所成績[編集]

  • 1960年(昭和35年)以降。
  • ◎は優勝、◯は優勝同点、△は優勝次点、四股名は横綱時
昇進場所 四股名 3場所前 2場所前 直前場所 3場所合計 優勝
1961年(昭和36年)11月 柏戸剛 10勝5敗 11勝4敗 12勝3敗◯ 33勝12敗 1回
大鵬幸喜 11勝4敗△ 13勝2敗◎ 12勝3敗◎ 36勝9敗 3回
1964年(昭和39年)3月 栃ノ海晃嘉 11勝4敗 14勝1敗◎ 13勝2敗 38勝7敗 2回
1965年(昭和40年)3月 佐田の山晋松 13勝2敗△ 13勝2敗△ 13勝2敗◎ 39勝6敗 3回
1970年(昭和45年)3月 玉の海正洋 13勝2敗◎ 10勝5敗 13勝2敗◯ 36勝9敗 2回
北の富士勝昭 12勝3敗△ 13勝2敗◎ 13勝2敗◎ 38勝7敗 3回
1973年(昭和48年)3月 琴櫻傑將 9勝6敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 37勝8敗 4回
1973年(昭和48年)7月 輪島大士 11勝4敗△ 13勝2敗△ 15戦全勝◎ 39勝6敗 2回
1974年(昭和49年)9月 北の湖敏満 10勝5敗 13勝2敗◎ 13勝2敗◯ 36勝9敗 2回
1978年(昭和53年)7月 2代若乃花幹士 13勝2敗△ 13勝2敗◯ 14勝1敗◯ 40勝5敗 1回
1979年(昭和54年)9月 三重ノ海剛司 10勝5敗 13勝2敗△ 14勝1敗◯ 37勝8敗 2回
1981年(昭和56年)9月 千代の富士貢 11勝4敗△ 13勝2敗△ 14勝1敗◎ 38勝7敗 2回
1983年(昭和58年)9月 隆の里俊英 12勝3敗△ 13勝2敗△ 14勝1敗◎ 39勝6敗 2回
1986年(昭和61年)9月 双羽黒光司 10勝5敗 12勝3敗△ 14勝1敗◯ 36勝9敗 なし
1987年(昭和62年)7月 北勝海信芳 11勝4敗△ 12勝3敗◎ 13勝2敗△ 36勝9敗 2回
1987年(昭和62年)11月 大乃国康 15戦全勝◎ 12勝3敗△ 13勝2敗△ 40勝5敗 1回
1990年(平成2年)9月 旭富士正也 8勝7敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 36勝9敗 3回
1993年(平成5年)3月 曙太郎 9勝6敗 14勝1敗◎ 13勝2敗◎ 36勝9敗 3回
1995年(平成7年)1月 貴乃花光司 11勝4敗 15戦全勝◎ 15戦全勝◎ 41勝4敗 7回
1998年(平成10年)7月 若乃花勝 10勝5敗 14勝1敗◎ 12勝3敗◎ 36勝9敗 5回
1999年(平成11年)7月 武蔵丸光洋 8勝7敗 13勝2敗◎ 13勝2敗◎ 34勝11敗 5回
2003年(平成15年)3月 朝青龍明徳 10勝5敗 14勝1敗◎ 14勝1敗◎ 38勝7敗 2回
2007年(平成19年)7月 白鵬翔 10勝5敗 13勝2敗◎ 15戦全勝◎ 38勝7敗 3回
2012年(平成24年)11月 日馬富士公平 8勝7敗 15戦全勝◎ 15戦全勝◎ 38勝7敗 4回
2014年(平成26年)5月 鶴竜力三郎 9勝6敗 14勝1敗○ 14勝1敗◎ 37勝8敗 1回
  • 太字2016年(平成28年)場所現在で現役中。
  • 玉の海は当時玉乃島、2代目若乃花は当時若三杉。昇進場所から改名したため推挙状は玉乃島正夫および若三杉壽人名義だった。双羽黒も当時北尾だったが推挙状は既に双羽黒名義だった。
  • 優勝は昇進時での通算。

横綱をめぐる議論[編集]

横綱制度[編集]

横綱制度をめぐる議論は、横綱不在となったり、そのおそれがあるような時、あるいは逆に横綱力士が揃って不調である様な時、しばしば提起される。ただし、多くは好角家の間での議論に留まる。むろん、相撲協会内部で横綱制度の見直しが論じられることもあって、1951年(昭和26年)には一度は横綱降格制度を考えていたが、この時は見送られた。以降は制度の抜本的な見直しではなく、制度の柔軟な運用で対応するというのが、相撲協会の基本的な姿勢である。

横綱の存在それ自体についても、かつてのような名誉称号でなく地位であるとするならば、その昇進に運不運の不公平があろうとも、大関等と同じく常時東西に1名ずつ常設すべきなのではないか、という意見もある一方、寧ろ名誉称号に戻すべきだとする意見もある。

横綱降格制度の是非は、その地位を陥落することがないことを特権と見るかどうかによって、正反対の視点から論じられる。つまり、どれだけ負けても休んでもその地位を保障されるのは、近代スポーツとしては余りに不合理であるという点からの主張と、その地位を降りることが出来ないために若くして引退に追い込まれる横綱もあり、大関への降格やその位置から再起する選択肢も与えるべきではないかという点からの主張である。

昇進基準[編集]

横綱昇進基準(1及び2)については、特によく論じられる問題である(具体的内容は横綱審議委員会#横綱推薦基準を参照)。「2場所連続優勝」の基準を厳し過ぎるとするか、甘いとするか、あるいはこれを絶対の「鉄則」として厳密に運用すべきか、将来の有望性や長期的な安定感なども鑑みて柔軟に運用すべきか等が論点となる。

横綱審議委員会及び内規ができる以前はある程度幅のある対応がなされていた。連続優勝で昇進を見送られたのは第32代・玉錦三右エ門(年4場所で3連覇)と第41代・千代の山雅信(年3場所で2連覇)がいるが、いずれも後に(ともに連覇ではなかったが)横綱に昇進している。なお、優勝制度確立後に年2場所で大関の地位で2場所連続優勝を決めたのは第22代・太刀山峯右エ門、第27代・栃木山守也、第35代・双葉山定次の3人がいるがいずれも場所後に横綱に昇進しているため、年2場所では皆無という事になる。

しかし少なくとも年6場所になってからは、この「大関の地位で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績を挙げた力士」が昇進の是非を審議する目安とされてきたのは確かである。1987年(昭和62年)12月末に発生した第60代・双羽黒光司の廃業事件以降、厳密な「大関で2場所連続優勝」を昇進の条件とすることにより基準が明らかとなった一方で、優勝という形式的な基準に囚われ、相撲の内容が顧みられないという問題も起こった。

具体的なケース[編集]

  • 旭富士正也は、1988年(昭和63年)1月場所を14勝で優勝、続く3月場所と5月場所を各12勝した。さらに1989年(平成元年)には、1月場所から5月場所までの3場所を14勝(優勝同点)・13勝(次点)・13勝(同点)の合計40勝と極めて高いレベルで安定した成績を残した[13]。昭和時代ならば当然横綱昇進する事が可能な成績だったが、日本相撲協会はことごとく横綱審議委員会への諮問を却下したため、不運にも昇進出来なかった。最終的に旭富士は横綱となったが、結果的に昇進が遅過ぎたためか横綱在位は僅か9場所(うち皆勤は6場所)、在位中の優勝は1回に留まった。
  • 小錦八十吉は、1991年(平成3年)5月場所と7月場所を14勝(同点)・12勝(次点)、また同年11月場所から1992年(平成4年)3月場所までの3場所を13勝(優勝)・12勝・13勝(優勝)と極めて安定した成績を残したにもかかわらず、理事長からの横綱審議委員会への横綱昇進に関する諮問がなく昇進できなかった。1992年(平成4年)3月下旬の横審定例会で約半数の委員から小錦への横綱昇進の諮問があってよいのではないかという意見があったが、結局諮問はなかった。また、同定例会で外国人であることが横綱昇進に何ら障害とならないという考えが確認されたが、ニューヨーク・タイムズ紙、日本経済新聞「小錦が横綱になれないのは人種差別のせいだ」といった趣旨の記事が掲載され、史上初の外国人横綱を誕生させることへの抵抗の有無が取り沙汰された。小錦はこの昇進見送りに気落ちしたのかその後失速、終盤まで優勝争いに絡む事がなくなり、そして1993年(平成5年)11月場所で大関において2場所連続負け越したことにより、関脇陥落が決定してしまう。その後の小錦は平幕下位の地位まで下がり、1997年(平成9年)11月場所限りで現役引退した。
  • 貴乃花光司は、1993年(平成5年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)・13勝(同点)としたが、理事長から横審委員会への諮問がなく昇進はならなかった。翌1994年(平成6年)は1月場所から9月場所までの5場所中3場所で優勝、うち9月場所では全勝を果たし(14・11・14・11・15勝)、9月場所後には理事長から横審委員会への諮問が行われた。理事長の諮問がありながら横審が否定の答申をした例は、1969年11月場所直後の北の富士以降長年の間なく、新聞各紙も横綱昇進確実と報じたが、25年ぶりに昇進を見送られた。横審が昇進を答申しなかった理由は、2場所連続優勝でないこと、特に7月場所の11勝で貴乃花の綱獲りは白紙に戻ったとしながら、次の9月場所の全勝で「2場所連続優勝は横審委員会の内規であって協会の諮問とは無関係」という姿勢で、横綱推挙を言わば強行した協会の姿勢への批判などが大きな要因だった。横審委員11名の中では貴乃花の昇進に賛成する者が6名と過半数、反対が5名だったが、内規に定められた「出席委員の3分の2以上の賛成」には達しなかった。それでも貴乃花は翌11月場所も15戦全勝し大関の地位で30連勝、大関の地位「2場所連続全勝優勝」という双葉山以来(のちに第70代横綱・日馬富士公平も達成)の非の打ち所のない成績で、ようやく横綱昇進を果たした。
  • 武蔵丸光洋は、1994年(平成6年)5月場所と7月場所を12勝(次点)、15勝(全勝優勝)という成績だったが、横綱問題は議論されなかった。3場所前(新大関)の同年3月場所が9勝と1桁勝ち星だった事[14]や、5月場所が大関昇進後初の2桁勝利であった。しかも優勝次点とはいえ優勝の貴乃花には2点の差が有り、7月場所に武蔵丸の綱獲りのムードはそもそもなかった。翌9月場所に初の綱獲りに挑むも11勝に終わっている。
  • 若乃花勝は、1996年(平成8年)11月場所と1997年(平成9年)1月場所を11勝(同点)、14勝(優勝)と2場所連続優勝に準ずる成績を残しながらも、昇進を見送られた。優勝を逃しての11勝は優秀な成績とはいえないとの見方もあり、又当時は「綱獲りは原則的に優勝する事が基点」という相撲協会の態度が定まっていた。翌3月場所は横綱昇進のチャンスだったが、初日から3連勝しながらも3日目に右足を大けが、4日目から途中休場した。
  • 魁皇博之は、2004年(平成16年)9月場所と11月場所を13勝(優勝)、12勝(次点)の成績を残しながらも昇進が見送られた。11月場所は初日黒星後に朝青龍と並ぶことが無く、14日目で優勝を許したのが大きかった。千秋楽に朝青龍を下し12勝、翌2005年(平成17年)1月場所も綱獲りの可能性を繋いだが、左肩腱板炎で途中休場と失敗に終わり、同場所以降横綱昇進への機会は巡らなかった。その後魁皇は、大関の地位で在位65場所(千代大海龍二と並び歴代1位タイ)も務めたが、終盤まで優勝争いに加わる事は殆ど無く勝ち越すのが精一杯となり、2011年(平成23年)7月場所限りで現役引退。なお魁皇の幕内優勝は5回も数えたが、最高位が大関以下での幕内優勝回数は魁皇が史上最多である。さらに魁皇の通算1047勝及び幕内879勝も、共に第58代横綱・千代の富士貢を超える歴代1位の記録となった。
  • 白鵬翔は、2006年(平成18年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)、13勝(次点)の成績を残しながらも、朝青龍に独走を許したのがマイナス要因となり昇進を見送られた。新大関から2場所での横綱昇進は年6場所制で初めてとなるため、特に高いレベルでの連覇が求められたためもある。関脇時代の1月場所からの4場所連続13勝以上は、考慮されなかった。翌9月場所は再び昇進のチャンスだったが8勝7敗の成績不振で綱取りは振り出しになった。2007年(平成19年)3月場所は13勝(優勝)したが、優勝決定戦の内容が立ち合いの変化であったため印象が悪く翌5月場所は十分な内容が求められた。その5月場所で自身初の全勝優勝という文句なしの成績を残し、横綱昇進を果たした。
  • 逆のパターンとして、第63代・旭富士正也は1990年(平成2年)3月場所にギリギリ勝ち越しの8勝の後、同年5月と7月場所を各14勝の連続優勝で昇進。第64代・曙太郎は、1992年(平成4年)7月場所の新大関場所で全休し翌9月場所に9勝と一桁勝利の後、同年11月と翌1993年(平成5年)1月場所を14勝と13勝の連続優勝で昇進。第66代・若乃花勝は、直前場所の1998年(平成10年)5月場所は12勝の低レベル優勝ながらも、同年3月と5月場所を14勝と12勝の連続優勝で昇進。第67代・武蔵丸光洋は1999年(平成11年)1月場所が千秋楽で辛うじて勝ち越しの8勝の後に、同年3月と5月場所を各13勝の連続優勝で昇進。第70代・日馬富士公平も、2012年(平成24年)5月場所が千秋楽で勝ち越した8勝7敗の後、同年7月と9月場所を各15戦全勝で連続優勝により昇進などの例がある。
    • 特に若乃花勝の場合、相撲協会内には「もう1場所様子をみるべき」という意見が有った程である。それでも「若乃花は2場所連続優勝しており、内規をクリアーしている。」という理由により、貴乃花光司の2場所連続全勝優勝という完璧な成績での横綱審議で10分掛かったにも拘わらず、横審では僅か7分で若乃花の横綱昇進を全会一致で決めた。しかし横綱昇進後の若乃花は優勝を1度も果たせず、さらに横綱皆勤負け越しなどの不名誉な記録を残したまま、横綱在位は11場所(内皆勤は5場所)で早々引退してしまった。その後、理事長職を務めた北の湖(第55代・一代年寄)が在任中に「優勝の成績は13勝以上」とよく注文を付けていた事も、結果的に若乃花の甘かった横綱昇進の例と関係が有るのではないか?との声がある。
  • 鶴竜は2013年11月場所は9勝6敗に終わったが、2014年1月場所は白鵬と千秋楽まで優勝を争った。優勝決定戦で白鵬に敗れたものの、14勝1敗の優勝同点の成績で2014年3月場所に綱獲りを懸けることとなった(但し鶴竜は当時幕内優勝経験が無く、大関11場所中7場所が9勝以下だったため角界内部の一部に慎重論も出ていたが、北の湖理事長と及び内山斉横審委員長は二人共に「綱獲りの場所だが13勝以上の優勝が必要」と公言している[15])。結果鶴竜は同3月場所を14勝1敗の幕内初優勝を果たし、場所後に第71代横綱に推挙。これで第62代・大乃国以来27年ぶりに大関連覇無しでの横綱昇進となった。

このように、かつて「『大関で二場所連続優勝』が絶対条件」という基準だけに固執する弊害を指摘する声も少なくなく、そもそも番付編成上は優勝と全く公平に扱われている優勝同点の価値が、横綱昇進時に低く扱われることが問題視されていた(なお第56代・二代若乃花や第57代・三重ノ海など直前3場所中一度も優勝を果たせなかったが、優勝次点・優勝同点の好成績を評価され昇進した例もある)。大関昇進は直前3場所の成績(合計33勝以上が目安)で決まるが、それより高い成績を求める横綱昇進が直前2場所のみで決まるのは問題有りとして、横綱昇進の内規についても「直前3場所の成績で決めるよう改めるべき」との声も少なくない。しかしこれには、横綱になるには先ず大関にならなければならない以上「『大関で連続優勝』の条文はその条件を既に内包している」との反論もある。

また、勝ち星が内規にないことも問題とする意見もある。今後は、横綱昇進内規を直前3場所の成績に改めるだけでなく、勝ち星についても具体的に付け加えるべきとの声もある。

  • 1958年(昭和33年)に年6場所制が施行されてから、負け越した(全休含む)場所後の2場所で横綱に昇進した例は皆無である。前述で横綱昇進の際に3場所の成績で見るべきということについて、特に3場所前が負け越し(全休含む)の場合は、2場所合計29勝以上の超ハイレベルな連続優勝が求められるべきとの声が多い。事実、2008年(平成20年)5月場所に角番で14勝1敗の優勝だった琴欧洲勝紀の綱獲り条件が全勝優勝のみだった。横綱なら長期安定こそ望ましいということで、やはり負け越しの後では成績が不安定だから昇進のハードルを高くすべきだと思われよう。
  • 一方で本来、横綱とは数字に表れる強さに加えて力士としての品格・態度が評価されて(「品格」は内規にも明示されている)免許されていたものであり、勝率などで一律に昇進基準を定めてしまっては、その本質を損なうとの反論もある。柏鵬時代を築いた第47代横綱・柏戸剛などは、横綱昇進前3場所で優勝が1回もない33勝12敗の成績で、大関推挙の目安としてもギリギリとされるラインの勝ち星に留まっていたにも係わらずに横綱昇進を果たした。[16]

記録[編集]

横綱在位記録[編集]

順位 四股名 在位数 在位期間 在位中成績 在位中勝率
1位 北の湖敏満 63場所 1974年9月-1985年1月 670勝156敗107休、優勝22回 勝率(休場含まない) .811、勝率(休場含む) .718、優勝率 .349
2位 千代の富士貢 59場所 1981年9月-1991年5月 625勝112敗137休、優勝29回 勝率(休場含まない) .848、勝率(休場含む) .715、優勝率 .492
3位 大鵬幸喜 58場所 1961年11月-1971年5月 622勝103敗136休、優勝29回 勝率(休場含まない) .858、勝率(休場含む) .722、優勝率 .500
4位 白鵬翔 56場所 2007年7月-現役中 709勝89敗27休、優勝34回 勝率(休場含まない) .888、勝率(休場含む) .859、優勝率 .618
5位 貴乃花光司 49場所 1995年1月-2003年1月 429勝99敗201休、優勝15回 勝率(休場含まない) .813、勝率(休場含む) .588、優勝率 .306
6位 曙太郎 48場所 1993年3月-2001年1月 432勝122敗166休、優勝8回 勝率(休場含まない) .780、勝率(休場含む) .600、優勝率 .167
7位 柏戸剛 47場所 1961年11月-1969年7月 407勝147敗140休、優勝4回 勝率(休場含まない) .735、勝率(休場含む) .586、優勝率 .085
輪島大士 1973年7月-1981年3月 466勝142敗85休、優勝12回 勝率(休場含まない) .766、勝率(休場含む) .672、優勝率 .255
9位 朝青龍明徳 42場所 2003年3月-2010年1月 463勝91敗76休、優勝23回 勝率(休場含まない) .836、勝率(休場含む) .735、優勝率 .548
10位 千代の山雅信 32場所 1951年9月-1959年1月 239勝103敗1分137休、優勝3回 勝率(休場含まない) .699、勝率(休場含む) .499、優勝率 .094
参考 羽黒山政司 30場所 1942年1月-1953年9月 230勝62敗114休、優勝6回 勝率(休場含まない) .788、勝率(休場含む) .567、優勝率 .214
  • 太字の白鵬は現役中で、場所数が2016年(平成28年)9月場所・成績が2016年9月場所時点でのもの。但し中止された2011年(平成23年)3月場所を数えず、本場所ではないが公式記録が残る2011年5月の技量審査場所は数える。
  • 在位中に不祥事を起こした朝青龍は引退に追い込まれている。
  • 千代の山と羽黒山は、年6場所制定着以前の昇進である。
  • 羽黒山の在位場所数は千代の山に次ぐ30場所(11位)だが在位期間では12年3ヶ月[17]と歴代最長である。
  • 上記力士の横綱土俵入りは白鵬と羽黒山の2人が不知火型、他9人は雲龍型を選択している。
  • 休場を含まない勝率では休場を計算に加えていない。休場を含む勝率では休場を敗戦扱いにして計算している。また、千代の山の引き分けはいずれの勝率の計算にも含めていない。

短命横綱[編集]

順位 四股名 在位数 在位期間 在位中成績
1位 前田山英五郎 6場所 1947年11月-1949年10月 24勝27敗5休、優勝なし
2位 琴櫻傑將 8場所 1973年3月-1974年5月(番付上は1974年7月) 66勝34敗20休、優勝1回
三重ノ海剛司 1979年9月-1980年1月 55勝23敗30休、優勝2回
双羽黒光司 1986年9月-1987年11月(番付上は1988年1月) 74勝33敗13休、優勝なし
5位 旭富士正也 9場所 1990年9月-1992年1月 71勝29敗24休、優勝1回
6位 玉の海正洋 10場所 1970年3月-1971年9月(現役中に急病死) 130勝20敗0休、優勝4回
7位 若乃花勝 11場所 1998年7月-2000年3月 61勝38敗57休、優勝なし
8位 隆の里俊英 15場所 1983年9月-1986年1月 95勝42敗75休、優勝2回
9位 朝潮太郎 (3代) 16場所 1959年5月-1961年11月(番付上は1962年1月) 102勝58敗95休、優勝1回
10位 吉葉山潤之輔 17場所 1954年3月-1958年1月 109勝67敗79休、優勝なし
栃ノ海晃嘉 1964年3月-1966年11月 102勝69敗84休、優勝1回
  • 太平洋戦争終了後の1945年(昭和20年)11月場所から、2015年(平成27年)現在までの記録(但し現役中の横綱は除く)。
  • 前田山・吉葉山は、年6場所制定着以前の昇進。前田山は、在位中に終戦後の混乱で本場所開催が不定期だった期間がある。
  • 在位場所数では前田山が最も短命だが、年6場所制となった1958年(昭和33年)以降の在位期間では番付上、三重ノ海が最も短い。
  • 在位中に不祥事を起こした前田山は引退、双羽黒は廃業とそれぞれ追い込まれている。
  • 玉の海は勝率8割6分7厘で休場無しの優秀な成績であったが、現役中の1971年10月11日に27歳の若さで急病死した。
  • 上記力士の横綱土俵入りは前田山・三重ノ海・朝潮・栃ノ海の4人が雲龍型、他の7人は不知火型を選択している。

優勝回数記録[編集]

  • 2016年(平成28年)現在。太字の白鵬は現役中。
順位 四股名 優勝回数 横綱在位中優勝 全勝優勝 備考
1位 白鵬翔 37回 34回 12回
2位 大鵬幸喜 32回 29回 8回
3位 千代の富士貢 31回 29回 7回 14回目の優勝で不戦敗休場あり
4位 朝青龍明徳 25回 23回 5回
5位 北の湖敏満 24回 22回 7回
6位 貴乃花光司 22回 15回 4回
7位 輪島大士 14回 12回 3回 4回目の優勝で不戦敗休場あり
8位 双葉山定次 12回 9回 8回 幕内在位を通して年2場所制
武蔵丸光洋 7回 1回
10位 曙太郎 11回 8回 なし
  • 双葉山は、幕内在位を通して年2場所制。全勝優勝8回中、11戦全勝が2回、13戦全勝が3回。
  • 上記力士の横綱土俵入りは白鵬のみ不知火型、他の9人は雲龍型を選択している。

大関通過場所数[編集]

  • 昭和以降

スピード通過記録[編集]

大関場所数 四股名 新大関場所 新横綱場所 大関での成績
2場所 双葉山定次 1937年(昭和12年)1月 1938年(昭和13年)1月 11戦全勝◎
13戦全勝◎
(24戦全勝)
照國萬藏 1942年(昭和17年)1月 1943年(昭和18年)1月 12勝3敗
13勝2敗○
(25勝5敗)
3場所 北の湖敏満 1974年(昭和49年)3月 1974年(昭和49年)9月 10勝5敗
13勝2敗◎
13勝2敗○
(36勝9敗)
千代の富士貢 1981年(昭和56年)3月 1981年(昭和56年)9月 11勝4敗
13勝2敗
14勝1敗◎
(38勝7敗)
朝青龍明徳 2002年(平成14年)9月 2003年(平成15年)3月 10勝5敗
14勝1敗◎
14勝1敗◎
(38勝7敗)
4場所 男女ノ川登三 1934年(昭和9年)5月 1936年(昭和11年)5月 (31勝13敗)
羽黒山政司 1940年(昭和15年)1月 1942年(昭和17年)1月 (46勝11敗3休)
安藝ノ海節男 1941年(昭和16年)1月 1943年(昭和18年)1月 (47勝13敗)
輪島大士 1972年(昭和47年)11月 1973年(昭和48年)7月 (50勝10敗)
双羽黒光司 1986年(昭和61年)1月 1986年(昭和61年)9月 (46勝14敗)
曙太郎 1992年(平成4年)7月 1993年(平成5年)3月 (36勝9敗15休)
  • ☆は年6場所制以前の力士。
  • ◎は優勝、○は優勝同点、()内は大関通算成績。
  • 羽黒山は大関2場所目の1940年5月場所を途中休場(7勝5敗3休)、曙は新大関の1992年7月場所を全休(0勝0敗15休)。
  • 大正以前では、東西合併による「横綱付出し」の例も在って比較が難しいが、栃木山守也の大関2場所(9勝1預-10戦全勝)、大錦卯一郎の3場所(8勝2敗-7勝3敗-10戦全勝)、太刀山峯右エ門の4場所等が特筆される。

スロー通過記録[編集]

大関場所数 四股名 新大関場所 新横綱場所 大関での成績
32場所 琴櫻傑將 1967年11月 1973年3月 287勝159敗34休 優勝4回
武蔵丸光洋 1994年3月 1999年7月 353勝127敗 優勝5回
29場所 若乃花勝 1993年9月 1998年7月 274勝101敗60休 優勝4回
22場所 日馬富士公平 2009年1月 2012年11月 214勝105敗11休 優勝4回
21場所 北の富士勝昭 1966年9月 1970年3月 208勝107敗 優勝3回
三重ノ海剛司 1976年1月 1979年9月 180勝123敗12休
20場所 玉の海正洋 1966年11月 1970年3月 206勝94敗 優勝2回
18場所 前田山英五郎 1938年5月 1947年11月 155勝67敗14休 優勝1回
17場所 佐田の山晋松 1962年5月 1965年3月 176勝66敗13休 優勝1回
旭富士正也 1987年11月 1990年9月 194勝61敗 優勝3回
  • 日馬富士は本場所開催が中止された2011年3月場所は数えない。また本場所ではないが、公式記録が残される同年5月場所の技量審査場所は数える。
  • ※の三重ノ海は1976年7月場所の関脇1場所を挟む。新大関から陥落直後の関脇の地位(のち大関特例復帰)も含めた合計で数えると、日馬富士と並んで22場所となる。
  • ☆の前田山は年6場所制定着以前の力士。

新横綱の優勝[編集]

四股名 新横綱場所 成績 備考
太刀山峯右エ門 1911年(明治44年)6月 10戦全勝
栃木山守也 1918年(大正7年)6月 9勝1敗 *不戦勝制度があれば常ノ花が優勝同点
(宮城山福松) (1926年(昭和2年)1月) (10勝1敗) *東西合併による横綱付け出し
双葉山定次 1938年(昭和13年)1月 13戦全勝
東富士欽壱 1949年(昭和24年)1月 10勝2敗1分 *1分は相手力士負傷による痛み分け
大鵬幸喜 1961年(昭和36年)11月 13勝2敗
隆の里俊英 1983年(昭和58年)9月 15戦全勝 千秋楽、横綱千代の富士と全勝相星決戦
貴乃花光司 1995年(平成7年)1月 13勝2敗(○武蔵丸 *()内は優勝決定戦

同時最多在籍横綱[編集]

4横綱[編集]

番付上に最も多くの横綱の出揃ったのは4人までで、現在まで15通りの例がある。

開始場所 横綱(太字は新規昇進者) 最終場所 場所数 終了理由
1 1917年(大正6年)5月場所 大錦卯一郎
2代西ノ海嘉治郎
鳳谷五郎
太刀山峯右エ門
1918年(大正7年)1月場所 2 太刀山が引退
2 1918年(大正7年)5月場所 栃木山守也
大錦卯一郎
2代西ノ海嘉治郎
鳳谷五郎
1918年(大正7年)5月場所 1 西ノ海が引退
3 1938年(昭和13年)1月場所 双葉山定次
男女ノ川登三
武藏山武
玉錦三右エ門
1938年(昭和13年)5月場所 2 玉錦が5月場所後に死去
4 1943年(昭和18年)1月場所 照國萬藏
安藝ノ海節男
羽黒山政司
双葉山定次
1945年(昭和20年)11月場所 7 双葉山が引退
5 1949年(昭和24年)1月場所 東富士欽壹
前田山英五郎
照國萬藏
羽黒山正司
1949年(昭和24年)11月場所 3 前田山が引退
6 1951年(昭和26年)9月場所 千代の山雅信
東富士欽壹
照國萬藏
羽黒山正司
1953年(昭和28年)1月場所 5 照國が引退
7 1953年(昭和28年)3月場所 鏡里喜代治
千代の山雅信
東富士欽壹
羽黒山正司
1953年(昭和28年)9月場所 3 羽黒山が引退
8 1954年(昭和29年)3月場所 吉葉山潤之輔
鏡里喜代治
千代の山雅信
東富士欽壹
1954年(昭和29年)9月場所 3 東富士が引退
9 1955年(昭和30年)1月場所 栃錦清隆
吉葉山潤之輔
鏡里喜代治
千代の山雅信
1958年(昭和33年)1月場所 14 吉葉山と鏡里が同時引退
10 1961年(昭和36年)11月場所 大鵬幸喜
柏戸剛
3代朝潮太郎
初代若乃花幹士
1962年(昭和37年)1月場所
(相撲番付上)
1(2) 朝潮が1月場所前に引退
11 1965年(昭和40年)3月場所 佐田の山晋松
栃ノ海晃嘉
大鵬幸喜
柏戸剛
1966年(昭和41年)11月場所 11 栃ノ海が引退
12 1979年(昭和54年)9月場所 三重ノ海剛司
2代若乃花幹士
北の湖敏満
輪島大士
1980年(昭和55年)11月場所 8 三重ノ海が引退
13 1987年(昭和62年)11月場所 大乃国康
北勝海信芳
双羽黒光司
千代の富士貢
1988年(昭和63年)1月場所
(相撲番付上)
1(2) 双羽黒が1月場所前に廃業
14 1990年(平成2年)9月場所 旭富士正也
大乃国康
北勝海信芳
千代の富士貢
1991年(平成3年)5月場所 5 千代の富士が引退
15 1999年(平成11年)7月場所 武蔵丸光洋
若乃花勝
貴乃花光司
曙太郎
2000年(平成12年)3月場所 5 若乃花が引退
  • 最初の4横綱は、1917年5月場所、太刀山、鳳、2代西ノ海、大錦によって実現した。翌1918年5月には太刀山の引退と入れ替わりに栃木山が誕生し、同場所で西ノ海が引退するまで連続3場所4横綱時代が続いた。
  • 4横綱総当りは、春秋園事件の余波で一門別総当り制の実施されていた1938年5月場所に玉錦、武藏山、男女ノ川、双葉山によって初めて実現した(この顔ぶれ自体は前場所の1月場所からだが、この時は武蔵山が途中休場)。結果は、双葉山3戦全勝、武藏山2勝、男女ノ川1勝、玉錦3戦全敗だった。この場所は武藏山と男女ノ川は6勝6敗どうしの千秋楽対決という悲惨な結果となっている(武藏山が勝ち、男女ノ川が負け越し)。
  • 同じ顔触れで最も長く続いた4横綱時代は千代の山、鏡里喜代治、吉葉山、栃錦による14場所。1955年1月場所で栃錦が昇進してから、1958年1月場所後に鏡里と吉葉山が同時に引退するまで続いた。4横綱の皆勤は1956年(昭和31年)3月場所の1場所きりとなったものの、8場所で4横綱のいずれかが優勝(吉葉山に優勝がないのを除き、他の3横綱が複数回の優勝)を果たしている。
  • 4横綱の合計勝ち星の最多は、1943年1月場所の54勝(6敗)。双葉山15戦全勝、羽黒山13勝2敗、安藝ノ海12勝3敗(双葉山への不戦敗あり)、照國14勝1敗で、横綱同士以外で喫した黒星は2つだけだった。この4人は翌5月場所でも52勝8敗で、4横綱皆勤場所に限ればこれが最高成績となる。逆に4横綱皆勤しての最少勝ち星は1956年3月場所、千代の山8勝、鏡里8勝、吉葉山11勝、栃錦9勝で36勝(24敗)。
  • 1961年11月場所で柏戸、大鵬が2人同時昇進となり、初代若乃花、3代朝潮と17場所ぶり4横綱となったが、同場所後に朝潮が引退を表明したため、この4横綱は実質上1場所のみ(番付上では翌1962年1月場所とあわせて合計2場所)だった。
  • 現行の年6場所制定着後で最も長かった4横綱時代は柏戸、大鵬、栃ノ海、佐田の山による11場所で、1965年3月場所から1966年11月場所までである。実質の4横綱皆勤は1965年9月場所の一度きりであったが(1965年5月場所では大鵬が千秋楽のみ休場、佐田の山に不戦敗)全盛期の大鵬を中心に11場所すべて4横綱のいずれかが優勝している。
  • 4横綱皆勤の最も多かったのは、輪島、北の湖、2代若乃花幹士、三重ノ海で、1979年9月場所から1980年11月場所までの8場所中3場所となっている。4横綱総当り3回も最多。
  • 昭和末期の1987年11月場所では千代の富士、双羽黒、北勝海、大乃国の4横綱が全て皆勤となったが、場所後に双羽黒が廃業となったため、この4横綱は1場所のみ(番付上では翌1988年1月場所と合わせて合計2場所)となってしまった。
  • 平成時代に入ってからは千代の富士、北勝海、大乃国、旭富士の4横綱時代が、1990年9月場所から1991年5月場所までの5場所連続であるが、全員皆勤となったのは1990年11月場所の1場所のみだった。その後1991年5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、大乃国、旭富士、北勝海が僅か1年の間に相次いで引退してしまい、横綱空位となった。
  • 近年の4横綱だった曙、貴乃花、若乃花(勝)、武蔵丸は1999年7月場所から2000年3月場所まで5場所続いたが、2000年(平成12年)3月場所で若乃花が引退となるまで、4横綱全員が皆勤する場所は一度も無いままに終わってしまった(四横綱が揃っての出場は1999年9月場所初日・2日目、及び2000年3月場所初日~5日目の計7日間のみ)。

5横綱[編集]

ひとつの番付に5人の横綱が名を連ねたことはこれまでにないが、あえていえば以下の様な例がある。

大阪相撲の横綱を交えての5横綱

  • 1918年4月の大阪の大錦大五郎の横綱免許から、同年5月場所で東京の二代目西ノ海が引退するまでの1ヶ月弱。

ふたつの4横綱時代の狭間

  • 1953年1月場所で引退の照國(新横綱鏡里)や、1954年9月場所引退の東富士(新横綱栃錦)が、直後の巡業では横綱土俵入りを披露しており、現役4横綱とともに5横綱が揃った写真を残している。

一人横綱[編集]

横綱が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに9例ある。

開始場所 開始場所前の動向 一人横綱 最終場所 場所数 終了理由
1 1930年(昭和5年)10月場所 常ノ花が引退 宮城山福松 1931年(昭和6年)3月場所 3 宮城山が引退
(横綱空位)
2 1933年(昭和8年)1月場所 (横綱空位)
玉錦が昇進
玉錦三右エ門 1935年(昭和10年)5月場所 5 武蔵山が昇進
3 1969年(昭和44年)9月場所 柏戸が引退 大鵬幸喜 1970年(昭和45年)1月場所 3 玉乃島改め玉の海
北の富士が同時昇進
4 1971年(昭和46年)11月場所 玉の海が9月場所後に死去 北の富士勝昭 1973年(昭和48年)1月場所 8 琴櫻が昇進
5 1986年(昭和61年)3月場所 隆の里が引退 千代の富士貢 1986年(昭和61年)7月場所 3 北尾改め双羽黒が昇進
6 1992年(平成4年)3月場所 旭富士が引退 北勝海信芳 1992年(平成4年)5月場所
(番付上)
1(2) 北勝海が5月場所前に引退
(横綱空位)
7 1993年(平成5年)3月場所 (横綱空位)
曙が昇進
曙太郎 1994年(平成6年)11月場所 11 貴乃花が昇進
8 2004年(平成16年)1月場所 武蔵丸が引退 朝青龍明徳 2007年(平成19年)5月場所 21 白鵬が昇進
9 2010年(平成22年)3月場所 朝青龍が1月場所後に引退 白鵬翔 2012年(平成24年)9月場所 15 日馬富士が昇進
  • 9例目の場所数は本場所開催が中止された2011年(平成23年)3月は数えない。また本場所ではないが、公式記録が残される同年5月の技量審査場所は数える。

また、複数(二人以上)在位している横綱が本場所の休場・引退などにより、一人のみの横綱が出場する場合を「一人横綱」と呼ぶことも有る。

横綱空位・横綱不在[編集]

1909年(明治42年)2月の相撲規約改正に伴い「横綱」の称号が地位として定められて以降、番付上において横綱の地位に一人も存在しない時期、すなわち「横綱空位」と言われた時期が2例ある。

開始場所 開始場所前の動向 最終場所 場所数 終了理由
1 1931年(昭和6年)5月場所 宮城山が引退 1932年(昭和7年)10月場所 6 玉錦が横綱昇進
2 1992年(平成4年)7月場所
(番付上)
北勝海が5月場所前に引退 1993年(平成5年)1月場所 5(4) 曙が横綱昇進

また、横綱の全員休場や引退などで「横綱不在」と言うこともある。近年では2006年(平成18年)5月場所3日目、一人横綱だった朝青龍が不戦敗となり、同場所千秋楽まで13日間途中休場した際「横綱不在」と言われた。なお、現役を退いた元横綱まで含めて完全な「横綱不在」となったことは、実質の初代横綱とされる谷風小野川の同時免許から現在まで一度だけ、1806年4月の小野川没から1828年3月阿武松の免許まで約22年間がこれにあたる。

その他の記録[編集]

出身地別横綱数
8人 北海道 千代の山雅信吉葉山潤之輔大鵬幸喜北の富士勝昭北の湖敏満千代の富士貢北勝海信芳大乃国康
6人 青森県 鏡里喜代治若乃花幹士 (初代)栃ノ海晃嘉若乃花幹士 (2代)隆の里俊英旭富士正也
4人 宮城県 丸山権太左エ門☆、谷風梶之助 (2代)秀の山雷五郎大砲万右エ門
千葉県 境川浪右エ門小錦八十吉 (初代)若島権四郎鳳谷五郎
鹿児島県 西ノ海嘉治郎 (初代)西ノ海嘉治郎 (2代)西ノ海嘉治郎 (3代)朝潮太郎 (3代)
東京都 東富士欽壹栃錦清隆貴乃花光司若乃花勝
モンゴル国 朝青龍明徳白鵬翔日馬富士公平鶴竜力三郎
3人 栃木県 明石志賀之助☆、綾川五郎次 (初代)☆、栃木山守也
茨城県 稲妻雷五郎常陸山谷右エ門男女ノ川登三
2人 石川県 阿武松緑之助輪島大士
熊本県 不知火諾右衛門不知火光右衛門
福岡県 雲龍久吉梅ヶ谷藤太郎 (初代)
富山県 梅ヶ谷藤太郎 (2代)太刀山峯右エ門
愛知県 大錦大五郎玉の海正洋
三重県 三重ノ海剛司双羽黒光司
アメリカ合衆国ハワイ州 曙太郎武蔵丸光洋
1人 滋賀県小野川喜三郎)、島根県陣幕久五郎)、岐阜県鬼面山谷五郎)、兵庫県大木戸森右エ門

大阪府大錦卯一郎)、岩手県宮城山福松)、岡山県常ノ花寛市)、高知県玉錦三右エ門
神奈川県武藏山武)、大分県双葉山定次)、新潟県羽黒山政司)、広島県安藝ノ海節男
秋田県照國萬藏)、愛媛県前田山英五郎)、山形県柏戸剛)、長崎県佐田の山晋松)、鳥取県琴櫻傑將

  • 太字は現役横綱。
  • ☆は伝承上の横綱。明石と綾川には茨城出身説もある。
  • 実際の出身地と番付上の出身地が異なる場合もある。本稿では番付表記や土俵入りなどで用いられる公称を優先している。 
横綱同時昇進(免許)
昇進場所 代位 四股名 最終場所 代位 四股名 最終場所
1794年11月場所 4代 谷風梶之助 1794年1月 5代 小野川喜三郎 1798年10月
1903年6月場所 19代 常陸山谷右エ門 1914年5月 20代 梅ヶ谷藤太郎 (2代) 1915年6月
1943年1月場所 37代 安藝ノ海節男 1946年11月 38代 照國萬藏 1953年11月
1961年11月場所 47代 柏戸剛 1969年7月 48代 大鵬幸喜 1971年5月
1970年3月場所 51代 玉の海正洋 1971年9月 52代 北の富士勝昭 1974年7月
※印の谷風と玉の海は、現役中に死去。
他に栃木山守也大錦大五郎が、ともに「1918年5月場所」が新横綱であるが、それぞれ東京相撲と大坂相撲の力士で、厳密には免許の時期も異なり、一般に同時横綱の例には数えられていない。横綱一覧表などでも、大錦の引退が早かったが栃木山が先代の扱いとなっている。
常陸山と2代梅ヶ谷が同時に横綱に昇進した時には、常陸山を先代とすることにしたが、最終的には先代の常陸山が先に引退した。それ以来、2人の力士が同時に横綱に昇進した場合には、先に引退(または現役中に死去)した者を先代の横綱とすることになった。そのため、同時昇進した2人の横綱が現役の間は「第○代横綱」とは呼ばれず、どちらか一方が引退してから正式に「第○代横綱・(四股名)」と呼ばれることになる。但し柏戸と大鵬の場合は、柏戸の引退でようやく彼らの代数(47代・48代)が決まる前に、先に後輩横綱の栃ノ海が49代と、佐田の山が50代とそれぞれ決まる不合理も生じている。
複数の力士が同時に横綱に昇進して同時に引退した例はまだない。ただし、前述の通り1987年12月の双羽黒光司の廃業事件をきっかけに、横綱昇進のための条件が従来よりも厳しくなってからは、複数の力士が同時に横綱に昇進する機会もなくなっている。
同期生横綱
初土俵場所 代位 四股名 昇進場所  最終場所 代位 四股名 昇進場所 最終場所 代位 四股名 昇進場所 最終場所
1903年6月場所 19代 常陸山谷右エ門 1903年6月 1914年5月 20代 梅ヶ谷藤太郎 (2代) 1903年6月 1915年6月
1910年1月場所 26代 大錦卯一郎 1916年5月 1922年1月 30代 西ノ海嘉治郎 (3代) 1922年5月 1928年10月 31代 常ノ花寛市 1924年1月 1930年10月
1968年7月場所 56代 若乃花幹士 (2代) 1978年7月 1983年1月 59代 隆の里俊英 1983年9月 1986年1月
1979年3月場所 60代 双羽黒光司 1986年7月 1987年11月 61代 北勝海信芳 1987年7月 1992年3月
1988年3月場所 64代 曙太郎 1993年1月 2001年1月 65代 貴乃花光司 1995年1月 2003年1月 66代 若乃花勝 1998年7月 2000年3月
常陸山と2代梅ヶ谷は、共に横綱昇進も同時。
2代若乃花と隆の里、貴乃花と3代若乃花は、共に同日同部屋入門。
貴乃花と3代若乃花の間で一度だけ実現した兄弟優勝決定戦は、若乃花の大関時代であり、「同日同部屋入門の同期生横綱による優勝決定戦」はまだ実現していない。
横綱在位中での最多連勝記録

分・預・休を含める・含め無いにかかわらず、横綱が正式な地位として扱われてからは、平成22年(2010年)中に達成した白鵬翔の63連勝が最多である。その前回の記録としては、昭和63年(1988年)の千代の富士の53連勝だった。双葉山定次の69連勝は、平幕から横綱に掛けてのものだった為、双葉山の横綱としての最多記録は36連勝である。逆に横綱としての連勝の最少記録は武藏山武の4。

横綱在位中での最多連敗記録

不名誉であるため殆ど話題にされないが、分・預・休を含めず不戦敗(引退時のものも含む)を含める場合、照国萬蔵・北の富士勝昭・貴乃花光司の8連敗が最多である。貴乃花は不戦敗を含めなければ7連敗であり、平成以降では最多となってしまっている。尚、一場所での記録としては昭和29年(1954年)1月場所の東富士欽壹の7連敗(6日間の途中休場を挟み、不戦敗1を含む)が最多。一場所皆勤してのものとしては5連敗が最多で、平成24年11月場所の日馬富士公平まで複数の横綱が記録している。

横綱在位中に降格を経験している横綱

番付上に横綱が銘記された明治23年(1890年)5月場所以降に横綱から降格した力士はいない。明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代でも横綱免許を取り消された横綱はいない。そのため、横綱の地位から降格した力士は現在まで一人もいない。

しかし、明治23年(1890年)5月場所より前の横綱免許制度時代で第8代横綱・不知火諾右衛門が大関から張出(三役格)への降格を経験した(当時は最高位が大関だった為)。明治23年(1890年)年5月場所より前の横綱免許制度時代でもこのような降格経験者は不知火諾右衛門のみ。不知火諾右衛門は天保11年(1840年)11月に横綱免許を受けながら、翌12年正月場所では番付から消え、天保12年(1841年)11月場所で西張出(三役格)として復帰した。その直後の天保13年(1842年)2月場所で西関脇に昇進し、同年10月場所で西大関に復帰。不知火諾右衛門の降格は相撲会所や、彼を抱える熊本藩、さらにはその熊本細川家の家臣である吉田司家の間で、様々な紛糾、妥協のあった末とも言われるが詳細は不明。

上記の例は横綱制度が成熟していなかった時代で、かつ上記のように現代では考えられない極めて特殊な場合である。現在では、日本相撲協会寄附行為施行細則に定める協会所属員への懲罰としての番附降下処分が行われるときを除き、横綱が降格することはない。なお、第41代横綱・千代の山雅信は成績不振を理由に、降格ではなく「横綱返上」を申し出たことがあるが却下されている。

大関陥落後復帰・大関角番を経験している横綱

大関陥落を経験している横綱は、「2場所連続負け越しで大関陥落、翌場所関脇で10勝以上挙げれば大関特例復帰」の現行制度(昭和44年(1969年)7月場所から)の整った昭和以降、三重ノ海剛司が唯ひとりである。特例復帰によらずに大関復帰を果たして横綱になった力士はまだいない。

「2場所連続負越で大関陥落」になった現行制度以降、大関角番を最も多く経験した横綱は、琴櫻、三重ノ海、3代若乃花の3人(それぞれ3回)。琴櫻には現行制度以前の大関在位があり、大関での負け越し自体は5回で、これも昭和以降の横綱の中での最多。三重ノ海は上述の通り一度実際に大関を陥落しており、大関での負け越し自体は4度、これは現行の角番制度以降に大関に昇進した横綱としての最多となる。なお若乃花には他に大関として公傷休場2場所がある。

他にも、曙、貴乃花、白鵬、日馬富士がそれぞれ1回ずつ経験している。また、現行制度以前(昭和33年(1958年)1月場所から昭和44年5月場所まで)の「3場所連続負け越しで大関陥落」だった時代、北の富士が「大関で2場所連続負け越し」での角番を1度経験しているほか、3代朝潮、佐田の山、玉乃島(のち玉の海)らも大関での負け越しがある。

江戸時代には谷風梶之助は横綱免許前に興行上の理由から看板大関に上位を譲って関脇への降格を経験している。

横綱在位中に皆勤しての負け越しを経験している横綱
東正位横綱経験なしの横綱

横綱が正式な地位として扱われてから、東正位の地位で横綱経験無しだった横綱は西ノ海嘉治郎 (2代)武藏山武前田山英五郎双羽黒光司大乃国康の5人。

この中で大乃国だけが、横綱在位中に幕内最高優勝(1988年3月場所)を経験している。同場所の大乃国は東張出横綱で、西正位横綱の北勝海と13勝2敗同士の優勝決定戦で勝利したが、当時決定戦の勝敗は番付に影響しない慣例だった。その理由により翌5月場所では、優勝同点の北勝海が東正位横綱、優勝の大乃国が西正位横綱という番付だった。その後1997年9月に相撲協会の理事会において「同地位で優勝決定戦を行った場合、優勝者を上位とし、優勝同点者は下位に廻す」という規定に変更。その為現在であれば翌場所の番付は、優勝した大乃国が東正位横綱、優勝同点の北勝海は西正位横綱と、地位が逆転する形式となっている[18]

また2代目西ノ海は新横綱だった1916年6月場所で東張出横綱だったが、同場所の番付で正横綱は西の太刀山ひとりで、東正横綱ではないものの東方の最高位にはなっている。当時は東西制の時代で、個人の成績ではなく方屋ごとの総勝ち星によって東西が入れ替わったため、このような現在では有り得ない番付編成もあった。

横綱在位中に優勝経験なしの横綱

昭和以後、横綱昇進後に一度も幕内最高優勝の経験が無かった横綱は武藏山武男女ノ川登三安藝ノ海節男前田山英五郎吉葉山潤之輔双羽黒光司若乃花勝の7人[19]。これ以外で横綱初優勝までの最多所要場所数は照國萬藏の横綱18場所目。年6場所制定着以降では、三代朝潮太郎柏戸剛でともに横綱12場所目。また照國の7年4ヶ月優勝なしは横綱としての最長記録[20]、年6場所制以降では、大乃国の3年2ヶ月が最長期間(1988年5月~1991年7月場所)で、20場所の間横綱として優勝無しも昭和以降の横綱で最多記録である。

大横綱[編集]

幕内最高優勝回数や連勝記録、勝率が際立って高い横綱は大横綱、特に元号昭和平成の頃に活躍した横綱はそれぞれ、昭和の大横綱平成の大横綱と呼ばれている。

江戸時代の大横綱谷風明治時代の大横綱初代梅ヶ谷大正時代の大横綱太刀山栃木山を指すことが多い。

谷風の横綱在位場所数は年6場所制定着後の大横綱と比べ少ないが、谷風が実質的な初代横綱であり現役中に横綱制度ができたことや、当時本場所が年2場所制だったことを考えると少ないとはいえない。また、現在の年6場所制で大横綱とよばれる貴乃花(優勝22回)、北の湖(優勝24回)等の優勝回数に比肩する優勝回数(谷風の優勝相当成績:21回)を、現在の3分の1しかない年2場所制で達成したことを考えると、谷風の優勝回数は極めて多いといえる。

現に150年以上の年2場所制の時代で20回以上の優勝・優勝相当成績を達成したのは谷風と雷電(優勝相当成績:28回)だけである。さらに、優勝20回以上、50連勝以上、通算勝率9割以上を達成したのは大相撲の長い歴史の中で谷風だけである。以上のように、谷風は天下無敵とよばれるのにふさわしい成績を収めている[21]。そのため谷風は歴代横綱の第一人者とされ、実質的な初代横綱として横綱の模範とされる大横綱である[22]

太刀山の優勝回数・横綱在位場所数は、昭和の大横綱と言われる双葉山の成績と比較しても遜色ない。両者は谷風、雷電と比較すると優勝回数が少ないが、谷風を除けば年2場所制下の横綱中で優勝回数が多い。年2場所制下では双葉山は歴代4位、太刀山は歴代5位の優勝回数である。年6場所制での大横綱である大鵬、千代の富士、北の湖、貴乃花と比べれば優勝回数・横綱在位場所数が少ないが、年2場所制下での成績であることや連勝・勝率からして大横綱と呼ばれるのにふさわしいと考えられている。

昭和の大横綱は、一般的には双葉山大鵬北の湖千代の富士の4人を指すのが妥当と考えられる。なお千代の富士は、平成初期(元年~3年)にかけても活躍しているが、昭和末期(56年~63年)の頃の活躍が主であり、「平成の大横綱」と呼ばれる事はほとんどなく、「昭和最後の大横綱」と呼ばれる事が多い。

平成の大横綱は、第65代横綱・貴乃花が活躍し始めたころ、昭和の大横綱と比較する形で生まれた。現在では第69代横綱・白鵬が、2009年2010年に年間最多の86勝を達成し、さらに2010年には年6場所制以降で史上初の4場所連続15戦全勝優勝や、平成最多の63連勝を成し遂げるなど活躍中である。年6場所制では概して幕内優勝回数が20回を超えると大横綱と呼ばれる傾向があるが、2011年9月場所で白鵬も優勝回数を20回の大台に乗せ「大横綱」と呼ばれるにふさわしい状況となっている。

一方、同じく平成期に昇進した第68代横綱・朝青龍も、優勝25回・7場所連続優勝・年6場所完全制覇などの大記録を誇るが、その一方で土俵内外でのトラブルも多発し、最終的には自らの不祥事によって引退に追い込まれた。このため、平成の大横綱に朝青龍を含める事については異論も多い。

特に上述の横綱の中で、谷風と双葉山は力量だけでなく品格抜群と評され、歴代横綱中別格の存在として他の力士の模範となっている。

大横綱間の対戦成績[編集]

年6場所制になってからの大鵬以降の大横綱(朝青龍も含む)間の対戦成績は以下の通り。        

  • 大鵬-北の湖(対戦なし)
  • 北の湖-千代の富士(12-6) 
  • 千代の富士-貴乃花(0ー1) 
  • 貴乃花-朝青龍(2-0) 
  • 朝青龍-白鵬(12-13)

対戦は全て幕内のみで十両以下での対戦はなし。大鵬が引退した1971年5月場所は北の湖新十両の場所。 北の湖-千代の富士、朝青龍-白鵬は横綱同士での対戦があるが、貴乃花が関わる2番については、いずれも 千代の富士、貴乃花の引退間際の対戦である。 優勝決定戦では北の湖-千代の富士(0-1)、朝青龍-白鵬(3ー1)となっている。

大横綱と呼ばれる各力士の成績[編集]

  • 2016年9月場所終了現在。
  • デフォルトでは時代の古い順に配列。在位期間の列のソートボタンで元の順序に戻る。
  • 表の右端がはみ出る場合は一時的にブラウザを最大化のこと。
横綱名 在位
場所数
在位期間
綱成績
金星
配給
優勝回数
(優勝同点)
内成績
横綱
勝率
幕内
勝率
連勝記録
 
たにかぜ/谷風梶之助 11場所 1789年11月-
1794年11月
055勝 002敗 05分 1預 2無 036休 2 21回 (2) 258勝 014敗 16分 16預 5無 112休 .965 .949 63連勝*
(98連勝)
らいでん/雷電爲右エ門 1811年2月引退 28回* 254勝 010敗 02分 08預 5無 041休 .962 44連勝*
うめがたに/梅ヶ谷藤太郎
(初代)
03場所 1884年05月-
1885年05月
010勝 002敗 03分 0預 012休 0 09回 116勝 006敗 18分 02預 078休 .833 .951 58連勝*
たちやま/太刀山峯右エ門 14場所 1911年06月-
1918年01月
084勝 003敗 01分 1預 051休 0 11回* 195勝 027敗 10分 05預 073休 .966 .878 56連勝
とちぎやま/栃木山守也 15場所 1918年05月-
1925年05月
115勝 008敗 06分 3預 011休 5 09回 166勝 023敗 07分 04預 024休 .935 .878 29連勝*
ふたばやま/双葉山定次 17場所 1938年01月-
1945年11月
180勝 024敗 022休 14 12回 276勝 068敗 01分 033休 .882 .802 69連勝*
たいほう/大鵬幸喜 58場所 1961年11月-
1971年05月
622勝 103敗 136休 28 32回 (2) 746勝 144敗 136休 .858 .838 45連勝
きたのうみ/北の湖敏満 63場所 1974年09月-
1985年01月
670勝 156敗 107休 53 24回 (5) 804勝 247敗 107休 .811 .765 32連勝
ちよのふじ/千代の富士貢 59場所 1981年09月-
1991年05月
625勝 112敗 137休 29 31回* 807勝 253敗 144休 .848 .761 53連勝
たかのはな/貴乃花光司 49場所 1995年01月-
2003年01月
429勝 099敗 201休 39 22回 (4) 701勝 217敗 201休 .813 .764 30連勝*
あさしょうりゅう/朝青龍明徳 42場所 2003年03月-
2010年01月
463勝 091敗 076休 24 25回 (1) 596勝 153敗 076休 .836 .796 35連勝
はくほう/白鵬翔 55場所 2007年07月-
現役
709勝 089敗 027休 10 37回 (4) 903勝 159敗 048休 .888 .850 63連勝
  • 雷電は最高位大関。
  • 谷風、雷電、梅ヶ谷の優勝回数は幕内最高成績(優勝相当)の回数。
  • 谷風、雷電、梅ヶ谷の時代には、幕内力士は千秋楽は休場するのが通例。また、谷風、雷電には番付に名前の載らない「不出場」(星取表に残らない休場)もしばしばあった。
  • 谷風の63連勝は江戸本場所のみの記録。大阪本場所、京都本場所を含めると98連勝。
  • 谷風と雷電の連勝記録には、幕下力士五人掛けを1勝にかえた星が含まれる。
  • 谷風、雷電、太刀山、白鵬には、他にそれぞれ43連勝があって、40連勝以上を二度はこの4人だけ。
  • 太刀山の優勝11回の内訳は優勝9回、優勝相当2回。
  • 谷風から双葉山までの現役時代は年2場所制、優勝決定戦制度なし
  • 千代の富士は優勝決定戦に6回出場して全勝の為、優勝同点は1回も無しである。
  • 雷電と貴乃花の連勝記録は大関時代のもの。なお貴乃花の横綱時代での最多記録は17連勝が2回。
  • 梅ヶ谷58連勝は平幕から大関にかけてのもので、横綱免許後の最多連勝は6連勝となるが、これは大関時代からの35連勝の一部になる。
  • 栃木山29連勝は関脇から横綱にかけてのもので、横綱免許後の最多連勝は25連勝。
  • 双葉山の69連勝は平幕・関脇・大関・横綱時代にかけてのもので、横綱時代での最多記録は36連勝。
  • 太字の白鵬は現役中。

横綱の品格[編集]

横綱は力量だけでなく、品格抜群とされるからこそ横綱とされる建前である。これは横綱昇進条件ともなっている。
横綱の品格基準は日本相撲協会によると:

  • 一、 相撲に精進する気迫
  • 二、 地位に対する責任感
  • 三、 社会に対する責任感
  • 四、 常識ある生活態度
  • 五、 その他横綱として求められる事項

となっている。しかし、これらを基準として横綱の品格を判断しても、多数者の見解として「品格抜群」といえるか疑問を持たれる横綱は少なくない。品格は成績と異なり客観的判断が難しく、前田山双羽黒朝青龍のように事件を起こす等、極めて悪い特段の事情が認められない限り、品格を問題視され引退に追い込まれることはない。そのため、横綱昇進の条件ともなっている「品格抜群」という条件は、横綱昇進・存続においてほとんど機能しておらず、事実上成績さえ満たせば横綱昇進・存続する。

近年の例では2007年(平成19年)7月場所後、第68代横綱・朝青龍が夏巡業休場表明後の仮病疑惑(母国モンゴルでのサッカー事件)により、2場所連続出場停止という処分が下される。横綱としての品格が問題視され、一部から引退も囁かれていた程であった。その事件後も朝青龍は現役を続行したものの、それから2年半後の2010年(平成22年)1月場所中に、又してもトラブルを起こした朝青龍に対し、横綱審議委員会(委員長・鶴田卓彦)から史上初の「引退勧告書」が提出される。結局朝青龍は同年2月4日に、自ら責任を取る形で現役引退に追い込まれた。

しかし、歴代横綱で品格抜群の横綱がいないわけではなく、力士の模範となる者も存在する。例えば、第4代横綱・谷風梶之助、第19代横綱・常陸山谷右衛門、第35代横綱・双葉山定次は品格・力量抜群とされ、歴代横綱の中で別格の存在として他の力士の模範となっている。


参考グラフ・大鵬
参考グラフ・北の湖
参考グラフ・千代の富士
参考グラフ・三大横綱


参考グラフ・貴乃花

横綱相撲と注文相撲[編集]

上記5.の品格について「横綱とは常に真っ向勝負。己の力のみで戦い、駆け引き・頭で戦わず、勝負にも拘らず、負けたと思えば潔く負けを認めるべきである。」という暗黙の了解がありこれを横綱の品格とされている。近年、モンゴル人横綱がハングリー精神のあまり勝負にこだわった、変化という意表をつく、又は頭脳プレイで魅せる相撲の行為が横綱審議委員会から注文相撲と呼ばれる抗議を受けている。これについては「相撲は勝ち負けの世界である以上作戦を練るのは当然であり、形式上ルールで禁止していなければしてもよい」と主張するものと「横綱の姿とは日本の精神的強さと様式美、伝統文化を体現するものである」と主張するものに別れている。これは相撲が元は宗教行事という特殊な発祥であるため、現在でも相撲はスポーツの一つと捉えるべきなのかという議題も起こっている。[23][24]

アマチュア相撲の横綱[編集]

アマチュア横綱全日本相撲選手権大会の優勝者)、学生横綱全国学生相撲選手権大会の優勝者)、実業団横綱全日本実業団相撲選手権大会の優勝者)、高校横綱全国高等学校相撲選手権大会の優勝者)、中学生横綱全国中学校相撲選手権大会の優勝者)など、年代ごとの主要大会での優勝者を通称として「横綱」と呼ぶことも多い。特に、わんぱく横綱(小学生を対象にしたわんぱく相撲全国大会の優勝者)は、翌年の大会で大相撲の横綱とほぼ同じ横綱土俵入りを披露することが出来る。貴乃花光司が小学生時代にわんぱく横綱として土俵入りを行っている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 京都大関で五条家横綱の磯風音次郎は1890年(明治23年)5月 吉田司家より横綱免許の記録有りとする文献有り- 読売新聞社 古今大相撲辞典 1980年(昭和55年)2月1日発行
  2. ^ 例外としては1951年に元前田山の高砂親方がアメリカ巡業の際に土俵入りを行っている
  3. ^ 横綱宮城山、源氏山とともに 頭山満写真集
  4. ^ 貴乃花光司は2001年(平成13年)7月場所から2002年(平成14年)7月場所まで連続7場所休場した記録があり、横綱の連続休場の記録としては史上最長である。
  5. ^ 協会は新基準で「横綱」作れ “隠れみの”横審に頼るな!! ZAKZAK 2013.07.23
  6. ^ 稀勢「綱取り」昇進ライン再考を 「突然変異的」提示ではなく時代にマッチした条件に (1/2ページ) ZAKZAK 2013.12.03
  7. ^ 例として2013年11月場所を1差次点の13勝で終えた稀勢の里は、翌2014年1月場所を幕内初優勝することでようやく「優勝に準ずる成績」に到達する。
  8. ^ ただし、年6場所制になって以降連覇せずに横綱になった力士のうち若乃花佐田の山玉の海輪島北の湖三重ノ海千代の富士隆の里の8人は、横綱昇進後に連覇を達成している。この内、隆の里のみ横綱昇進をまたぐ形での連続優勝である。
  9. ^ またも勝負弱さ見せた大関・稀勢の里に北の湖理事長が大甘発言 リアルライブ 2013年5月27日
  10. ^ 大関・稀勢の里が再度“疑惑の綱獲り”へ 懸念される安易な横綱昇進 リアルライブ 2013年11月25日
  11. ^ " どこまで厳しくなる?横綱昇進条件 " - 大相撲 2009年7月号 p64  読売新聞社
  12. ^ " 【大相撲】横審、日馬富士「来場所の綱取りは厳しい」 " - 産経ニュース(web) 2009.5.25
  13. ^ この6場所中5場所で横綱大乃国よりも好成績であった。
  14. ^ 年6場所制定着以降、2014年3月場所後に昇進した鶴竜以前に「昇進直前3場所前が1ケタ白星でありながら連覇無しで綱取りを果たした横綱」は1人もいなかった。
  15. ^ 稀勢の里のおかげ?鶴竜来場所Vなら横綱へ 東スポWeb 2014年1月28日16時00分
  16. ^ 1960年11月場所から翌年3月場所までの間に11勝-13勝(優勝)-12勝(1差次点)を記録しており、1961年3月場所後に昇進を見送られたもののこの時すでに綱取りに相応しい成績を残していた。
  17. ^ 番付上は1942年1月場所からだが、横綱昇進決定は1941年5月場所後。番付上に限った場合は11年9ヶ月となる。
  18. ^ 優勝者番付上位の正当性(タマローのコラム2001)
  19. ^ このうち、双羽黒は横綱昇進前を含めても幕内最高優勝を一度も果たせなかった。逆に三代若乃花は横綱昇進前に5度、男女ノ川は2度幕内最高優勝を経験。他の4人はいずれも横綱昇進前に1度だけ幕内最高優勝を経験している。
  20. ^ 戦後本場所開催が不定期だった期間を含む。
  21. ^ " 郷土見守る大横綱 " - 内館牧子 読売新聞 2005年1月26日
  22. ^ " 第4代横綱 谷風梶之助 " - 大相撲星取クイズ 綱の系譜
  23. ^ 鶴竜、昇進後初優勝も横審で賛否両論「立ち合いで変化好ましくない」-スポーツ報知
  24. ^ [1]-r25 相撲で「立会い変化」が問題視されるのはナゼ?]