異種格闘技戦

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異種格闘技戦(いしゅかくとうぎせん)は、狭義では元プロレスラーであったアントニオ猪木が現役時代である1976年から断続的に行ったプロレス対他の格闘技の競技者と闘った異種試合の通称である。これらの正式な名称は「格闘技世界一決定戦」という。

それ以降は、最初に猪木らが中心となってプロデュースし、実現させた「異なった格闘技の格闘家や武道家同士が、共通のルールの下で闘う」競技。一般には、素手の格闘技が基本のため、拳に着用する各種グローブやシューズまでは許されるが、剣道フェンシングなどのような器具や武器を用いる格闘技は含まれない。

アントニオ猪木の異種格闘技戦[編集]

アントニオ猪木が現役中に行った異種格闘技戦は、当時、一部で巻き起こった「プロレス八百長、または、見世物的だ」という評価や風潮を打開し、猪木自らも「(自身をプロレスラーとして極めるための)他の格闘技への挑戦」、「(自身がプロレスを代表しての)他の格闘技との対戦」、そして「プロレスこそ世界最強の格闘技」の証明を謳い文句に行われてきたものといわれている。しかし実際は、後述するモハメド・アリ戦の実現をきっかけとし、そこから派生した借金の返済を目的とする新たな興行の側面が強い(一連の格闘技世界一決定戦の試合は「ワールドプロレスリング」の放送とは別に「水曜スペシャル」で放送されるため、その放映料が入る)。

格闘技戦と銘打たれていたが、当初は実際のルールの折衷や妥協・擦り合わせの面でうまくいかず、結果的にプロレスラーにとって不利となるものも多かった。また、「真剣勝負」を売りにしてはいたものの、いくつかの例外を除き、いずれの試合もいわゆるプロレス、あるいは完全なエキシビション・マッチだった、ともいわれている。

1976年2月6日、対柔道家ウィレム・ルスカ戦で始まった猪木の一連の異種格闘技戦は、1997年1月4日、対空手家ウィリー・ウィリアムス戦まで20数試合行われた。

その中で最も有名な試合は、1976年6月26日に行われたボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンである対モハメド・アリ戦である。この試合に対する当時の評価は、俗に「猪木アリ状態」と呼ばれる膠着状態が延々と続いた挙句の引き分けだったことから「世紀の茶番」とする見方が圧倒的に多かった(ただし後年、契約の内容やそれに伴う膨大なルール設定などが明らかになり、近年では再評価する声もある。詳細は該当項目を参照のこと)。

唯一敗北を喫したのは、1989年4月24日、対柔道家のショータ・チョチョシビリ戦であったが、その約1か月後の5月25日に再戦し、リベンジに成功している。

その後[編集]

猪木が設立した新日本プロレス(以下、新日)では、「純プロレス路線」と「異種格闘、総合格闘路線」との2つの方向性の微妙なバランスの上で成り立っているといえる。以降、大きな大会では純プロレス系の組み合わせと、総合格闘系、異種格闘系の対戦とが混在している。

また、それが新日の純プロレスの技や駆け引きにも1種のフィードバック現象を起こしている。よって、現役時代の猪木本人のみならず所属レスラーの多くが、純プロレスの試合であってもピンフォール(3カウント)勝ちばかりではなく打撃技でのKO(ノックアウト)勝ち、関節技や絞め技などを使ってのギブアップ勝ちを取るなど、双方の闘い方を行う傾向にある。これらは、多くのプロレス団体の闘い方にも影響を与えている結果となっている。

猪木引退後、新日に双方の路線が受け継がれている結果、所属選手は、常に、プロレス以外の格闘技団体や格闘家の挑戦を受けざるを得ないことになった。しかし、筋書きが決まっていた猪木の異種格闘技戦と異なり、純粋な格闘技が行われるリングに登場した新日のプロレスラー達の多くは敗北を喫し、新日本プロレスとプロレスラーの評価を大いに貶めた。

一方、猪木はこの分野の先駆者イメージを生かし、PRIDEのプロデューサーとなり、定期的にこの大会を行い、対プロレス以外にも様々な異種格闘技戦を企画、展開することとなる。その代表的なものが、PRIDE対K-1等の各所属格闘家の試合などである。また、PRIDE同様にK-1も異種格闘技戦の性格を持つ。

現在、総合格闘技で成功したプロレスラーも決して少なくはない。新日に限らず、プロレスラーとして総合格闘技に参戦する者や、その逆も出てきている。

(註:一般的な対戦ルールの場合、PRIDEは、頭突き、金的、凶器などの反則を除く他のどんな形式の攻撃も有りのルールで、バーリトゥード形式で行われている。一方、K-1は立ち技系であり、打撃中心で寝技がない。詳細は、各リンク項目を参照のこと。)

2007年に猪木が旗揚げしたIGFでもK-1のトップファイターとプロレスラーの異種格闘技戦が行われている。

新日本プロレス以外の異種格闘技戦[編集]

猪木と常に比較されてきたライバルのジャイアント馬場率いる全日本プロレスでは、新日の格闘技戦全盛時から「純プロレス」を標榜して全く異なる路線が敷かれたが、2度異種格闘技戦が行われている。1度目は1986年1月1日後楽園ホールで行われた長州力トム・マギー戦。マギーはさまざまな格闘技を経験していたという触れ込みだったが、もともとは格闘技ではないパワーリフティングの世界チャンピオンであり、ミスター・ヒトの下でプロデビューしたばかりの新人レスラーだった。試合もロープワークが飛び出すなどほとんど通常のプロレスと変わらず、3ラウンド2分13秒(5分10ラウンド制)、ラリアットからの体固めで長州の勝利。2度目は1987年6月9日日本武道館で行われたジャイアント馬場対空手家のラジャ・ライオンとの試合。しかしまともな試合にならず、2ラウンド1分44秒(3分10ラウンド制)、馬場が十字固め(形は、後に佐々木健介が使うストラングルホールドαに類似)で勝利。これは猪木が推し進めた異種格闘技戦へのアンチテーゼであったともされる。

格闘技色を強く打ち出した第2次UWFでも異種格闘技戦が行われており、第2次UWFから派生したプロフェッショナル・レスリング藤原組UWFインターナショナルでも何試合か行われた。高田延彦はUWFインターナショナルを旗揚げした1991年12月に両国国技館で「格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックに勝利した。

大仁田厚FMWは正式名称である「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」が示すとおり、初期は格闘技路線を標榜しており、大仁田対レオン・スピンクス1992年5月24日)、大仁田対青柳政司などの対戦が行われている。FMWの場合、それまで「特別興行」もしくは「特別試合」という形で、いわばプレミア的な色合いを持たせて行われていた異種格闘技戦を、通常のプロレス興行にまで日常的にマッチメイクした点が斬新であった。ただし参戦する選手は、前述のように一線級や、無名であっても実力者がいた一方、なかにはその触れ込みすら怪しかったり、お話にならないほどに弱い選手もいた。一時期はデスマッチと共に「FMWの二枚看板」と位置付けられていた異種格闘技戦だったが、やがて団体がデスマッチ路線に特化すると共に、次第に行われなくなっていった。

全日本女子プロレスでも異種格闘技戦が行われていた。これは全女創業者である松永兄弟が格闘技経験者だったためである。猪木の異種格闘技戦が始まった1976年には「世界三大格闘技戦」と銘打ち、田園コロシアム池下ユミムエタイピンポン・ロカムヘンの試合など異種格闘技戦を行った。その後1990年代に入るとキックボクシングに近い格闘技戦を編み出し、レスラーのみならずシュートボクサーやキックボクサーとも対戦させ、WWWA世界格闘技王座も創設した。また、全女退団後のマッハ文朱も短期間ではあるが異種格闘技戦でリングに復帰している。

ジャパン女子プロレスも一時期「格闘技連合」としての再出発を目指していたため、異種格闘技戦が何度か組まれていた。

最近ではZERO1で異種格闘技戦が不定期ながら行われている。

2015年には「異種格闘技戦」を名乗るイベント「巌流島」が旗揚げされる。

その他[編集]

  • 前田光世がアメリカ、メキシコヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行った。この間柔道衣着用の試合では1000勝以上し、終に無敗であった。
  • 1921年にアメリカのプロレスラー、アド・サンテルが弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日し、講道館柔道に対戦を要求するが、講道館は対戦を拒否し、系列の弘誠館が受けてたち、4名の柔道家が対戦し、プロレス対柔道の異種格闘技戦が行われている。
  • 戦後すぐの時期に、ボクシング対柔道の格闘技戦である「柔拳」が興行として行われていた。
  • JBCのルールでは他のプロスポーツや格闘技との兼業を禁じているため、現役のJBC管轄下のプロボクサーが異種格闘技戦を行うことは不可能である。しかしJBC以外のコミッションからライセンス給付済みのボクサーが異種格闘技戦を日本国内で行った例は前出の猪木アリ戦や高田バービック戦、大仁田スピンクス以外にも幾つかある。ビクトル・ラバナレス村浜武洋ロベルト・デュラン船木誠勝トニー・ホーム橋本真也など。また、全日本柔道連盟も同様で全柔連所属選手の異種格闘技戦は行われていないが、他国の連盟で活動する柔道選手が日本で異種格闘技戦を行ったケースは存在しており、アレン・コージグンダレンコ・テレチコワらが該当する。
  • アメリカのプロレス界でも、全盛時を過ぎた一流ボクサーがプロレスラーとの試合を行うことがよくあったが、別に「格闘技世界一決定戦」というようなものではなかった。馬場はアメリカ武者修行時代にこの類の試合で元世界ライトヘビー級王者アーチー・ムーアと戦っている(馬場本人の話では、結果はムーア側のセコンド乱入による無効試合だったらしい)。
  • また、日本プロレスが健在だった時代、日本テレビ主導下で大晦日の目玉として馬場と1964年東京オリンピック柔道金メダリストアントン・ヘーシンクの異種格闘技戦構想が浮上していたが、実現には至らず。
  • アンドレ・ザ・ジャイアントは、猪木VSアリ戦のイベントの一環でプロボクサーのチャック・ウェプナーと戦ってリングアウト勝ちしている。
  • 佐山サトルは、マーク・コステロとグローブ着用で投げ技有りの試合を行っている(結果は6ラウンド判定負け)。
  • 1998年に「オカマムエタイ戦士」パリンヤー・ジャルーンポンと当時ネオ・レディース所属の女子プロレスラー井上京子の間で行われた異種格闘技戦は競技のみならず性別も越えた試合として「異種異性格闘技戦」と称された。
  • テレビ朝日から新日本プロレスに出向していた永里高平によると、異種格闘技戦はアメリカからタダのようなギャラで対戦相手を呼べる一方で、「水曜スペシャル」として高い視聴率を叩き出したため、経費が掛からない上にテレビ局に高く売りつけることができた。新日本プロレスがアリ戦実現でテレビ朝日に対して負っていた4億円の負債はあっという間に返すことができたという。
  • 猪木の側近として異種格闘技戦の企画、推進に当たった「過激な仕掛人」の新間寿は、後年「ある意味猪木は馬場さんがいたからこそアリと闘った。馬場さんのようにアメリカのプロレス界に強力なルートがあったら異種格闘技戦なんかやらなかったかもしれない」と語っている(門馬忠雄「全日本プロレス超人伝説」文春新書、P21)。

関連項目[編集]