柔道

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柔道(じゅうどう)とは、「柔」(やわら)の術を用いての徳義涵養を目的とした芸道武道のことである。現代では、その修養に用いられる嘉納治五郎流・講道館流の柔術技法を元にした理念を指して「柔道」と呼ぶことが一般化している。柔道は、投げ技、固め技、当身技を主体とする武術・武道、そしてそれを元にした社会教育的な大系となっている。

  1. 日本伝講道館柔道 - 世界的に普及している柔道でオリンピック種目にもなっている
  2. 七帝柔道高専柔道
  3. 起倒流柔道
  4. 直信流柔道

本項では1を詳述する。


柔道
じゅうどう
Haraigoshi.jpg
使用武器 なし
発生国 日本の旗 日本
発生年 1882年明治15年)
創始者 嘉納治五郎
源流

天神真楊流

起倒流柔道
主要技術 投げ技固め技当身技
オリンピック競技 有り1964年1972年 - )
公式サイト 全日本柔道連盟
国際柔道連盟 (IJF)
  

柔道(じゅうどう)、日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)は、幼少時代から柔術修行に打ち込んだ嘉納治五郎が様々な流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の「柔よく剛を制す」という心身の力をもっとも有効に活用した原理を完成させ、1882年明治15年)にその考察から創始した武道である[1]

目次

概説[編集]

古武道柔術から発展した武道で、投げ技固め技当身技を主体とした技法を持つ。明治時代に警察学校に普及し、第二次大戦後には国際柔道連盟の設立やオリンピック競技に採用されるなど広く国際化に成功している。多くの国では「Judo=講道館柔道」となっているため、今日では単に「柔道」と言えばこの柔道を指す[2]

今日ではスポーツ競技格闘技にも分類されるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体・精神の鍛錬と教育を目的としている[3]

柔道の国際統括団体国際柔道連盟では2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている[4]

歴史[編集]

柔術から柔道成立まで[編集]

飯久保恒年から嘉納治五郎に授与された「日本伝起倒柔道」の免状(明治16年)。柔道という用語は嘉納が学んだ起倒流ですでに使われていた。

古くは、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。

明治10年 に、天神真楊流の福田八之助に入門し、、当身技(真之当身)を中心として関節技絞め技といった捕手術の体系を持ち、乱捕技としての投げ技固技も持つ天神真楊流を稽古した。

また、捨身技を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた起倒流柔術を稽古した。

天神真楊流起倒流柔道乱捕技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。

もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例[5]などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。

嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが、当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。

講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる[6]。柔道のまとめ採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる[7]

その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道(日本武道、日本九大武道(日本武道協議会加盟九団体))の筆頭に名を連ねている。

警察と柔道[編集]

明治21年頃の警視庁武術世話掛。最前列の左から2人目は後に講道館史上初の柔道十段となる山下義韶

嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(昭和3年(1928年)『作興』に連載)によれば、明治21年(1888年)頃、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と試合し2〜3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。

また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。

この試合の後、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛を採用した為、全国に広まっていったという(なお該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗結果について明白な史料はなく、山下義韶の回想記(雑誌『キング』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に講道館四天王西郷四郎(小説「姿三四郎」のモデル)が好地円太郎に山嵐で勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある)。

現在も日本の警察官は柔道又は剣道(女性のみ又は合気道)が必修科目となっている。警察学校入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。警察署では青少年の健全育成のための小中学生を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。

学校体育と柔道[編集]

日本の学校教育においては、1898年旧制中学校の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。太平洋戦争後、占領軍(GHQ)により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、昭和25年(1950年)に文部省新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで昭和28年(1953年)の学習指導要領で、柔道、剣道相撲が「格技」という名称で正課の授業とされた。

平成元年(1989年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。平成24年(2012年)4月から中学校体育で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)。

部活動としてほとんどの中学校高等学校に「柔道部」があり。学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体が殆ど無く、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道(や、他スポーツ)の指導、練習を受けるのが一般的となっている。

社会体育としての柔道[編集]

民間道場での活動のほかに、企業実業団活動が行われている。柔道がオリンピック種目となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、現在は警察柔道を凌ぐ勢力となっている。

国際的競技としての普及[編集]

国際的競技としての柔道においても礼節は重んじられている

柔道の試合競技はオリンピックでは、1932年ロサンゼルスオリンピック公開競技として登場し、1964年東京オリンピックで正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級でオランダアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も、1988年ソウルオリンピックで公開競技、1992年バルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。

世界選手権は、1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は、明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「型」が中心であった。1979年夏に、日本女子の一線級と西ドイツのジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で、二人が負傷、ドイツ選手との腕力の差は、日本の柔道関係者に衝撃を与えた[8]

現在は、世界中に普及し、国際柔道連盟の加盟国・地域も199カ国ある(2007年9月現在)。日本以外では、欧州ロシアブラジルで人気が高く、特にフランスの登録競技人口は50万人を突破し、全日本柔道連盟への登録競技人口20万人を大きく上回っている。ただし幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない。

また、この登録人口そのものに関しても、一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全日本柔道連盟の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが現在は全く柔道着どころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいる。講道館でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違うので注意する必要がある。故に「柔道人口」を把握することはほぼ不可能で、推定でしかないのが実状である。

稽古方法[編集]

講道館柔道において稽古は、主に乱取りによって行われる。嘉納治五郎はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず、各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納は師範は、次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱取を主とし形を従とするに至ったのは、必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」。

また、嘉納は柔道の修行の方法を四種、「形」と「乱取り」の他に「講義」と「問答」についても挙げている。講義により、技の道理を解剖学、生理学、物理学などの観点からも学び、勝負上必要な心の修め方、心身鍛練に関する注意心掛けなどをまた学び、心理学、倫理学などの観点からも学び、それらについて時間を費やして説き及す必要性について嘉納は説く。またや勝負事があり修行者の心が勇んでいるときにはその場に適する話をし、祝日、寒稽古の開始式などにはそれ相応の講義をし、平素においては礼儀作法、人としての一般の心得など講義する必要を説く。そして問答により修行上の理解、応用を深めることの重要性について言及している。柔道の修行目的の「練体」「勝負」「修心」のうちの、徳性を涵養する、智力を練る、勝負の理論を世の百般に応用する、人間の道を講ずることを目的とする「修心法」についての内容を多く含む修行法となっている。

技術体系[編集]

講道館柔道の技は「投技」「固技」「当身技」の3種類に分類される。投技は天神真楊流起倒流乱捕技をもとにしている。

固技や絞技は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる[9]
投技の過程を崩し、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。

またこれと平行して、一般的には、立技寝技にも分類するが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防のことであり、固技と同義ではない。絞技関節技は立ち姿勢でも施すことが可能である。

練習形態は乱取りがあり、形と乱取りは車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取りによる稽古を創始当時から重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取り・試合では「投げ」「固め」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していく事となった。

試合で用いることができるのは、投げ技と固め技であり、講道館では96本としている。しかし、実際のポイントになる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。またIJFルールの改正によって寝技の攻防時間が短縮し決着の早期化が計られたことと、主に外国選手による捨て身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。

投技[編集]

投技とは理合いにしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技、腰技、足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技、横捨身技に分かれる。また、関節を極めながら投げると反則ではないが投技とはみなされない。詳しくは投技を参照。

固技[編集]

固技(かためわざ)には抑込技絞技関節技がある。

主に寝技で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)

固技のうち関節技は、肘以外はあまり採用されず、乱取や試合では肘以外に関節技をほどこすことは反則とされている。立技での関節技もほとんど行われていない。抑込技は、寝技の場面での攻防を続けるために、うつ伏せでなく、仰向けに抑えるのが特徴である。

絞技は、天神真楊流から多様な方法が伝わっており、柔道を首を絞めることを許すという珍しいルールを持った競技にしている。

創立当初、寝技はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。

分類

講道館柔道では固技が全部で29本あり、抑込技(おさえこみわざ)7本、絞技(しめわざ)12本、関節技(かんせつわざ)10本である。IJFルールでは一部異なるものがある。

抑込技(7本)

相手の体を仰向けにし、相手の束縛を受けず、一定時間抑える技。

絞技(12本)

頸部すなわち頚動脈気管を、腕あるいは柔道着の襟で絞めて失神または「参った」を狙う技(胴絞は足でどうを絞める技で、乱取りでは禁止技である)。指や拳、帯、柔道着の裾、直接足などで絞めること及び頸椎に対して無理な力を加えることは禁止されている。

関節技(10本)

関節を可動域以上に曲げたり伸ばしたりして苦痛を与える技。乱取りでは肘関節のみが許されている。

腕挫膝固

上記以外の技

  • 後袈裟固(うしろけさがため)IJFルールの技名。
  • 枕袈裟固 俗称。(崩袈裟固に含める。)
  • 浮固(うきがため)IJFルールの技名。ただし、明治時代の技[10][11][12]とは異なる。
  • 小手挫小手捻) 明治時代に存在し、削除されたが、講道館護身術に再採用された。
  • 小手返 講道館護身術にある。
  • 首挫 削除されたが、明治時代には存在した。
  • 逆指 削除されたが、明治時代には存在した。
  • 足挫 削除されたが、明治時代には存在した。
  • 足詰 削除されたが、明治時代には存在した。

当身技(あてみわざ)[編集]

当身技は、天神真楊流の技術を踏襲している。

当身技もしくは当技(あてわざ)とは、急所といわれる相手の生理的な弱点などを突く打つ蹴るなどの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、の中で用いられる。そのため柔道では当身技が禁じ手・反則技として除外されたと思われている。講道館では極の形・柔の形、講道館護身術などに含まれる柔道の当身技について、「当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところ(編注:急所のこと)という認識は天神真楊流から伝えられてきたものである」としている[13]。極の形、柔の形は精力善用国民体育の形・相対動作の元になっている。極の形は、初め天神真楊流から引き継いだ形を元にしており真剣勝負の形と呼ばれていたが、武徳会時代に嘉納治五郎を委員長とし武徳会参加全流派からの代表を委員とした日本武徳会柔術形制定委員会によって講道館の真剣勝負の形を元に長時間の白熱した議論がなされ、柔術緒流派の技を加えて柔術統一形としての今の形となった。

一方、空手界側から柔道の当身技のうち精力善用国民体育の形・単独動作の当身技は唐手(現・空手)の影響を受けているという説が唱えられている[14]点についても下に記載する。

当所・急所[編集]

当所(用いる部位)

臂(うで):

  • 指先当(ゆびさきあて):突出、両眼突
  • 拳当(こぶしあて):斜当、横当、上当、突上、下突、後突、後隅突、突掛、横打、後打、打下
  • 手刀当(てがたなあて、手掌の小指側縁):切下、斜打
  • 肘当(ひじあて):後当

脚(あし):

  • 膝頭当(ひざがしらあて):前当
  • 蹠頭当(せきとうあて、足蹠の前端):斜蹴、前蹴、高蹴
  • 踵当(かかとあて):後蹴、横蹴

※上記は嘉納治五郎『柔道教本』(1931年)の分類に拠る。

急所 急所は、天神真楊流の名称を踏襲している。

天倒、霞、鳥兎、獨鈷、人中、三日月、松風、村雨、秘中、タン中、水月、雁下、明星、月影、電光、稲妻、臍下丹田、釣鐘(金的)、肘詰、伏兎、向骨。

当身技は形の中で教授されるが、現在では昇級・昇段審査においても行われる事が稀である為、柔道修行者でもその存在を知らない事も多く、また指導者も少ない。

当身技と体育[編集]

精力善用国民体育[編集]

嘉納治五郎の体育と当身技を合わせた論考は、明治42年7月発行『中等教育』掲載の小論「擬働体操について」にある四方蹴と四方当についての記載や、『柔道概説』(大正2年)[15]などと続いて行き、昭和に入ってからは「攻防式国民体育」(昭和2年)として精力善用国民体育の形が発表され、『精力善用国民体育』(昭和5年)や『柔道教本』(昭和6年)等も併せて昭和2年から6年の間に発表された一連の著作で夥しい言及がなされている[16]

研究成果は「精力善用国民体育の形」(単独動作・相対動作)としてまとめられたが、この形の制定理由について、嘉納治五郎は「私がこの国民体育を考察した理由は、一面に今日まで行われている柔道の形・乱取の欠陥を補おうとするにあるのだから、平素形・乱取を修行するものも、そこに留意してこの体育を研究もし、また実行もしなければならぬ」[17](昭和6年)と述べ、従来の講道館柔道の稽古体系に不足していた点を補う目的があったと述べている。

精力善用国民体育の形には、単独動作と相対動作がある[注釈 1]。下記の形は1930年(昭和5年)発行の嘉納治五郎『精力善用国民体育』による分類であるが、時期によって分類の仕方に多少の差異がある[19]

単独動作:

  • 第一類:五方当(前斜当、横当、後当、前当、上当)、大五方当(大前斜当、大横当、大後当、大前当、大上当)、五方蹴(前蹴、後蹴、前斜(左右)蹴、前斜(左右)蹴、

高蹴)。

  • 第二類:鏡磨、左右打、前後突、上突、大上突、左右交互下突、両手下突、斜上打、斜下打、大斜上打(甲乙)、後隅突、後打、後突前下突。

相対動作:

  • 第一類:居取(両手取り、振り放し、逆手取り、突掛け、切掛け)、立合(突上げ、横打ち、後取り、斜突き、切下し)。
  • 第二類:柔の形(突出、肩押、肩廻、切下し、片手捕、片手上、帯取、胸押、突上、両目突)。


精力善用国民体育に対する空手界からの主張[編集]

また、この形に使用されている当身技、特に単独動作の当身技については、嘉納治五郎の唐手(現・空手)研究の成果によるものとの空手界からの指摘がある[20]

1922年(大正11年)5月、船越義珍文部省主催の第一回体育展覧会に唐手を紹介するために上京してくる。その第一回体育展覧会における唐手の演武の実現は船越からの頼み込みを受け、その同郷の先輩であった東京高等師範学校教授の金城三郎の懇願を通して、当時大日本体育協会名誉会長として本大会主催者であり東京高等師範学校前学校長であった嘉納治五郎の斡旋により実現したものであった。

同年6月、嘉納は船越を講道館に招待して、唐手演武を参観した。その際全ての演武が終了すると、嘉納は師範席から立ち上がり、「形」の運足法や組手形の要領について鋭い質問した。当時、講道館には柔術や拳法の家系や流派出の専門家も沢山おり質問も専門的なものであった。船越と共に唐手の演武を行った儀間真謹は嘉納の質問の鋭さ、具体性に舌を巻きその際の緊張感について述懐している[21]

嘉納が唐手に興味をもったきっかけは、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたときであったとされ、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」という[22]

また、1911年(明治44年)、沖縄県師範学校の唐手部の生徒6名が修学旅行で上京した際、嘉納治五郎に招かれて講道館で唐手の演武、形の解説、板割りなどを行った。このときも「柔道元祖嘉納先生をして嘆賞辟易せしめた」という[23]。これは船越が上京する11年前の出来事であった。また、嘉納が沖縄を訪問した際には、本部朝基を料理屋に招いて唐手について熱心に質問するなど[24]、唐手に対して並々ならぬ関心を抱いていた。

嘉納は、「乱取だけでは、当身の練習ができぬ」と述べ[17]、当身技を研究した。講道館で唐手演武をした儀間真謹によれば、「この形(精力善用国民体育の形)の中には、沖縄唐手術の技法が随所に用いられている」と指摘し、その研究成果は精力善用国民体育の形としてまとめられた、と考えている[25]

ただし、嘉納が明治42年に発表した「擬働体操」には竪板磨、四方蹴、四方当など、精力善用国民体育の形に含まれる鏡磨、五方蹴、五方当の原型とも考えられる動作が既に紹介されている。

なお、嘉納の船越義珍本部朝基宮城長順摩文仁賢和等への接近やその上京への斡旋、協力などを通し、1936年には唐手の名称改め空手は嘉納の斡旋によって大日本武徳会の柔道部門への入部が認められることになる。空手の本土における上陸、全国的な普及活動の糸口となったのが講道館での演武会であり、それが近代空手道の出発点となる[26]

武術としての柔道[編集]

今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観は元々幅の広いものであった。嘉納は柔道修行の目的を「修心法」「体育法」「勝負法」(時に「慰心法を含む」)とし、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う下段の柔道では、攻撃防御の方法を練習すること、中段の柔道では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、上段の柔道では終極的な目的として下段、中段の柔道の修行で得た身体精神の力を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした[27]。武術としての柔術(勝負法)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(体育法)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(修心法)を同時に狙いとしていた。

その一方で嘉納は武術としての柔道について「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く海外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており[28]、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ武術を拵えたいとの考えも持っていた。

勝負法の乱取り[編集]

嘉納は柔道に柔術のもつ武術性を求めていたが、しかし勝負に効き目ある手(当身技)が危険であり教えることが難しいため、従来の柔術諸流派と同じ様に「専ら形に拠って練習」 しなければならぬとした。しかし形だけではなく、そこから進めた、乱取りを工夫すべきという考えを嘉納はもち早くから続けた。 1889年の講演「柔道一班並二其教育上ノ価値」の中において、嘉納は当身を含み対処する柔道の「勝負法の乱取り」の可能性、構想について述べている。「初めから一種の約束を定めていき又打ったり突いたりする時は手袋の様なものをはめてすれば、勝負法の乱捕も随分できぬこともない。形ばかりでは真似事のやうで実地の練習はできないから、やはり一種の乱捕があったほうがよい。」とし勝負法の技を実演している。 その際、勝負法の形のうちから簡単な技として5つほど、

  • 対手が右の手で打ってくるのを捌き対処し腰で投げる。
  • 対手が右の手で打ってくるのを捌き対処しその手先を捕り捩り対手を縛る。
  • 対手が突いてくるのを捌き対処し対手が引いたのを入り込んで咽喉を絞める。
  • 対手が横から打ってくるのを捌き対処し咽喉を絞めるなり急所に当てなりする。
  • 対手が蹴ってくるのを足先を捕り捌き対処し投げる。または固める。

を実演し、またその上に種々込み入った手があり大抵の場合に応ずることを目的とするものであることを説明する。

古武道研究会[編集]

また、嘉納は古流柔術の定義について「無手或は短き武器を持って居る敵を攻撃し又は防御するの術」とし、柔道の修行・技術についても「その修行方法は攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し斯道の真髄を体得することである」「攻撃防御の練習、柔道でいう攻撃は、便宜上、投、固、当の三種に分けることとしている。投とは場合場合でいろいろの動作をして対手を地に倒すことをいい、固とは絞業、関節業、抑業の区別はあるが、要するに対手の体躯、頸、四肢などに拘束を加えて動けなくしまたは苦痛に耐えられぬようにすることをいい、当とは手、足、頭、時には器物または武器をもって対手の身体の種々の部分に当て苦痛を感じしめ、または死に至らしめることをいうのである。そうして防御とはこれらの攻撃に対して己を全うするために施すいろいろの動作をいうのである。」[29]と述べている。柔道の当身の中に武器術、対武器術の概念を含むことを述べている。嘉納は理想の柔道教師の条件として、「無手は勿論、棒、剣を使う術においても攻撃防御の術に熟練し、勝負上の理論も心得、同時に体育家として必要な知識を有し、且つその方法にも修熟し、また教育家として必要な道徳教育の理論にも通暁し、訓練の方法にも達し、のみならず柔道の原理を社会生活に応用する上において精深なる知識を有し、方法をわきまえている」[30]人物としている。嘉納の理想としての柔道の攻撃防御の修行には無手のみではなく武器術を含むものであったことが伺える。

嘉納はそのような修行形態を再試行する目的で、1928年に講道館内に「古武道研究会」を立ち上げ、柔、剣、棒、杖術等の古い武術の保存と柔道としての体系化への研究に進んでいる。

参加メンバーの望月稔は、古武道研究会について「武術が殺傷の技術であったのに対し、武道は青少年の体育、徳育、知育に志向した教育手段として近代化されたものである。従って技術的には殺傷の技としては有効であっても、体育的には不適当と見做された多くの技が全て淘汰されてしまった。嘉納治五郎先生は大正の末期から、之に対する再検討に入られて、当時既に消滅に瀕していた古流武術の保存に力を入れられたのである」[31]と述べられている。

離隔態勢の柔道[編集]

嘉納亡き後も、嘉納の求めた「離れて行う柔道」の試行は望月稔や富木謙治などに引き継がれ、1942年に講道館2代目館長南郷次郎時代に講道館において「柔道の離隔態勢の技の研究委員会」が設置されている。中でも富木謙治による離れて行う柔道の当身と立ち関節を主体とする「離隔態勢の柔道」の研究は、講道館護身術や合気道競技(柔道第二乱取り法)などとしてまとめられることになる。

海外へ渡った柔道家[編集]

また一方で嘉納の志向した武術としての柔道とは異なる流れとして、海外に渡り柔道普及活動の一環で異種格闘技を戦い名声を上げた谷幸雄前田光世などの活躍もある。

世界を戦い渡り歩いた前田光世は旅先から日本にいくつかの手紙を送っており、幾多の戦いを通しての異種格闘技戦の「セオリー」が詳細に記録されている。そこでは前田が対峙したレスリング(西洋角力)やボクシング(拳闘)に対する歴史的分析、対策、勝負時の条件等を考察している。前田はレスリング、ボクシングの油断ならない面倒であることを述べながら、同時に柔道こそ世界最高の総合的かつ実戦的な格闘技だという自負を語る。「我が柔道は西洋の相撲(WRWSTLING)や拳闘(BOXING)以上に立派なものであることは僕も確信している。拳闘は柔道の一部を用いているだけで、護身術としては幼稚なものだ。(中略)(拳闘は)個人的なゲームで、八方に敵を予想した真剣の護身術ではない。だから体育法としても精神修養法としても、また理詰めの西洋人流に科学的に立論しても、我が柔道と彼らの拳闘とは優劣同日の談にあらずである。」前田はその言説において柔道=護身術と明確に定義しており、その体系にレスリング、ボクシング技術や当て身の突きや蹴りを内包するものという主張が見受けられる。[32]

フランス柔道の父川石酒造之助「川石メソッド」などの例からも、海外に渡った柔道家の残した柔道技術の中には現在国内においては失われたものもあることが伺える。

世界の軍隊格闘技・近接格闘術における影響[編集]

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界の軍における格闘技というのは基本的に軽視されていた。

戦争はほとんど砲と銃で戦う時代であり、この時代の近接戦闘と言えば主に騎兵が使う軍刀(サーベル)と、歩兵がライフルに装着(着剣)して槍のように使う銃剣で戦うことだった。しかし第一次世界大戦では、大規模な塹壕戦が繰り広げられた。塹壕内での極めて近い距離、狭い場所での戦闘が頻発したことで近距離向きの銃器や手榴弾以外に、敵に悟られないように塹壕に侵入していくことも重要だったため、音を出さない白兵戦用の武器も重視された。そうした白兵戦で敵に対処するために防御側も同様の至近距離での戦闘技術が必要となった。このため各国で近接戦闘の工夫がされていった。塹壕戦によって近い距離で戦う武器術や格闘技術が求められるようになっていったのがこの時代の最大の特徴であり、軍における訓練では近接戦闘のために既存の格闘技を取り入れるようになった。第一次大戦を境に軍隊格闘技近接格闘術の基として注目された格闘技の一つに日本の柔道や(古流)柔術がある。そしてこの時期の徒手格闘術はボクシングや柔道が中心となっている。

柔道や柔術の海外への伝播はちょうど第一次世界大戦前であり、多くの柔道家・柔術家が海外に渡って普及活動を行っている。アメリカなどでは第一次大戦前、柔術ブームとでも呼ぶべき現象が起きていた。またそこには当時、日清・日露戦争での勝利に対して世界から向けられた日本への興味、東洋趣味からの観点や、嘉納治五郎の教育者の立場からの部下にあたるラフカディオ・ハーン小泉八雲)などによる柔道(柔術)の海外への紹介、また嘉納治五郎自身の渡欧の影響なども柔道・柔術ブームへの影響が見受けられる。 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの信頼を得て合衆国海軍兵学校の教官として講道館柔道を教えた講道館四天王の一人山下義韶(のちの史上初の十段位)などの例や、講道館柔道を学びロシアにおいてサンボの創始者となったオシェプコフの例などから、米露英仏など各国で柔道は軍隊近接格闘技要素に取り入れられていった。

国内における軍隊格闘技としての採用・影響[編集]

日本においては明治維新、柔道創設以降、陸軍士官学校、海軍兵学校等の軍学校で柔道が取り入れられ盛んに行われた。またそれとともに大日本武徳会で講道館柔道が柔術部門を統一する立場となる役割の流派として正式採用され、大日本武徳会武道専門学校で稽古が行われた。

嘉納治五郎の没後、第二次世界大戦が起こり戦況が拡大するにつれ、昭和十七年に従来の大日本武徳会は改組が行われ、内閣総理大臣東条英機を会長とする大日本武徳会(新武徳会)が結成される。戦況が深刻になるにつれ、学校においても明治以来の「体操科」は新たに「体錬科」と名称を変える。政府主導の国民学校体錬科においては皇国思想の養成と戦技能力の鍛錬が求められた。体錬科の教材として「教練」、「体操」(徒手体操、跳躍、懸垂、角力(相撲)、水泳など)、「武道」(剣道、柔道、銃剣道)が課せられ、柔道と剣道は偏ることなく併せて行い、常に攻撃を主眼として行うことが説かれた。 体錬科武道の柔道の内容は、「基本」として「礼法」、「構」、「体の運用」、「受身」、「当身技」が教えられ、「応用」として「極技」、「投技」、「固技」があった。この当身技は、精力善用国民体育の単独動作の技であり、極技は相対動作の技と一致している。柔道技術の中の当身技が「基本」として重視され、戦時下において、柔道は実戦を目的とした教材に変えられたと言える。[33]

大戦の終戦に伴い、日本の民主化政策の一環としてGHQとその一部局であるCIEによって「武道」の実施に対する処置が検討された。CIEは武道を軍事的な技術(Military Arts)とみなし、国民に軍国主義を養成するものとして警戒した。これに伴い武道という枠組みに位置付けられていた柔道は、剣道や弓道同様に禁止された。(武道禁止令)

さらに戦時中に軍による統制を受けていた大日本武徳会も「依然軍国主義的団体としての建前をとっている」とされ解散を余儀なくされた。

しかし柔道復活の陳情は相次ぎ多く、文部省による請願書による

  1. 教育的価値について、
  2. 実施方法について、
  3. 審判について、
  4. 一般人の関心について、
  5. 競技会について、
  6. 柔道界の組織について、

の説明、改革案が総司令官に提出される。そこで提示された新しい柔道は、“競技スポーツ”として向かう下地があったと言える。これに対しGHQから「学校柔道の復活について」という覚書が日本政府に出され、CIEからの注意事項として「実施してよい柔道とはあくまでも大臣の請願書に規定された柔道であること」とされた上で、その復活が認められる。

しかし当身技、関節技等の中で危険と思われる技術を除外する旨が請願書には含まれており、その当身技や関節技を中心に構成された精力善用国民体育は武術的色彩が強いということで行われなくなってしまうこととなる。

嘉納治五郎が生前に考案し発表した精力善用国民体育は、GHQの警戒した武術的側面のみではなく、体育として徳育としても従来の柔道を補完するものであり、練習法においても単独練習を可能にするものであり、嘉納の柔道の精神、「精力善用・自他共栄」の思いを強く含むものであった。

嘉納の万感の思いのこもった精力善用国民体育が、占領期間中の禁止・制限が解かれることなく占領後もなおも軽視されていることを惜しむ声はいまだにある。[34]

国際柔道協会(プロ柔道)[編集]

戦後、日本の敗戦のため行われたGHQによる占領政策としての柔道のスポーツ化の流れの一方で、再び武術・武道としての柔道の再生を求める動きとして、1950年に、その乱取り競技内においてもほぼ全ての関節技の解禁などの実験的ルールを採用した武道・武術を志向した国際柔道協会(プロ柔道)も興っている。

体育としての柔道[編集]

日本伝講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、武術家としてその実績から「維新以降百年の柔術界の最高の偉人」[35]と評される武術・柔術界の第一人者であった。

それと共に、教育界における教育者としての観点からも、若くして学習院大学教頭や東京高等師範学校(のちの東京教育大学を経た現・筑波大学)校長などを歴任し、灘中学校灘高校の設立にも尽力するなど第一人者であった。

また体育面・日本体育における観点においても「日本体育の父」、「教育上、体育を尊重し、体育の地位の向上をせしめたる卓見と努力は、他に比較すべき人を見ない」[36]と言われるように卓越した見識を持ち、アジア初のオリンピック委員、大日本体育協会初代会長などの実績からも見られるように、嘉納は武術家・武道家としての面以外にも教育者としても卓見であり、また西洋の他の格闘技や体育・体操・スポーツへの知識、造詣も深くあった。

嘉納が古流柔術の修行を修め、柔道が創始された明治初期の日本では、一刻も早く欧米列強に肩を並べ対峙できるよう近代化を推し進めることが至上命令とされ、「富国強兵」「殖産興業」というスローガンによって強い国家を構築することが重要な国策となっていった。国民の「体力の向上」が国家的課題となり、それは教育界においても、いわゆる「国民体育」の概念の下で身体鍛錬が重視され、そのための具体的な内容と方法が模索され続けた。

学校教育では、体育が実施されるようになり、その中心教材には欧米に倣って西洋式の体操が位置づけられた。医学・生理学に根拠を持つ体操を採用した文部省では、体操を万能とする体育観が支配的となった。

明治10年代頃から国内の学校教育の場への武術の正科採用を推す声が武術家を中心に出されるようになり、ついに明治16年文部省は体操伝習所に対し剣術や柔術の教育に対する利害適否を調査するよう通達した。

そこで行われた剣術、柔術への、実施、医学的検討、視察、調査の結果として、明治17年10月、体操伝習所は次のような結論を出した。

二術(剣術、柔術)の利とする方

  1. 身體の発育を助く。
  2. 長く體動に堪ふる力量を得しむ。
  3. 精神を壮快にし志氣を作興す。
  4. 柔惰の風恣を去りて剛壮の姿格を収めしむ。
  5. 不慮の危難に際して護身の基を得しむ。

害若くは不便とする方

  1. 身體の発育往々平均均一を失はん。
  2. 實習の際多少の危険あり。
  3. 身體の運動適度を得しむること難く強壮者脆弱者共に過剰に失し易し。
  4. 精神激し易く輙もすれば粗暴の氣風を養ふべく。
  5. 争闘の念志を盛にし徒らに勝を制せんとの風を成しやすし。
  6. 競進に似て却て非なる勝負の心を養ひがちなり。
  7. 演習上毎人に監督を要し一級全體一斉に授けがたし。
  8. 教場の坪数を要すること甚大なり。
  9. 柔術の演習は単に稽古着を要するのみなれども剣術は更に稽古道具を要し、且つ常に其衣類及道具を清潔に保つこと生徒の業には容易ならず。

その理由から

  1. 学校体育の正課として採用することは不適当なり。
  2. 慣習上行われ易き所あるを以て彼の正課の体操を怠り専ら心育のみに偏するが如き所に之れを施さば其利を収むることを得べし。

とされ、武術の正課体操教材化はならなかった。

その5年後にあたる明治22年、当時29歳であった嘉納治五郎は大日本体育協会の依頼により、文部大臣榎本武揚やイタリー公使らの出席を仰ぎ、「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」と題して講演を行った。

講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」においては、明治17年の体操伝習所答申に沿う形で構成されており、害若しくは不便とする方として挙げられた条件を一つ一つクリアーしていく形で構成されている。

そこでは講道館柔道を従来の(古流)柔術から更に進めた柔道勝負法、柔道体育法、柔道修心法の分類により、修行目的、効用、修行方法を分けて考えた上で構成された。講道館柔道では「体育、勝負(武術の真剣勝負の方法)、修心の三つの目的を持っておりまして、これを修行致しますれば体育も出来勝負の方法の練習も出来、一種の智育徳育も出来る都合になっております。」と述べて、柔道の目的として体育と勝負と修心の三つを挙げ智徳体を学べる、と説いた。

講道館柔道の独自性・理論的大系・教育界における影響力は、この嘉納の講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」によって公に知るところとなり、武術改め武道の教育の場における正規採用に大きな影響を与えていくことになる。


「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において、柔道体育法の効用は乱取りと形の両立で説かれる。

乱取りにおいては「身体の強化」や、実践者が「興味・面白み」を得られるという点、「主体性の育成」の点から価値を説く。

形においては、学校体育の主目的たる「身体の調和的発達」の観点、「乱取」を補完するものとして必要性を強調し、老若男女が実施可能なものとしてしつらえ、「大衆性」や「生涯性」を備えた体育法として位置づけた。

体育法における乱取りと形に嘉納は工夫をこらすことになる。

従来の乱取りは体育としての利点がある反面、初学の者が方法を誤ると運動が過激になり過ぎ危険を生じることも懸念される。そのため嘉納は、子どもの発達段階と技の難易度を考慮した乱取技の指導順序を示して、学校柔道に適した段階的指導の方法を整備していく。

また柔道における形はその目的から、それぞれ乱取りの形(投げの形、固めの形)、体操の形(柔の形、剛柔の形)、真剣勝負の形(極の形、講道館護身術、女子柔道護身法)、古式の形など目的用途ごとに分けられるが、嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法の目的に沿うものとして、その中から体操の形として体育法の形第一種(剛柔の形)、体育法の形第二種(柔の形)を挙げる。昭和期に入るとさらに改良を加えた「精力善用国民体育(の形)」を嘉納は考案し、学校柔道において「形」から「乱取」へという教習課程を確立していくことになる。

また嘉納は「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」において柔道体育法として乱捕を体操に用いる際に怪我がないために、また道場を離れた日常においても車から転げ落ちたり梯子を踏み外したり他人から害を加えられかかったりしたとき危険を避けることの出来る利益のあることとして、危険を避ける方法として種々の受身の方法論と重要性を説明している。

このような嘉納による学校柔道における教授内容・方法を整備・確立するための工夫の過程に共通する視点は、「易しいものから難しいものへ」ということである。それは、初学の者を対象とする学校柔道における段階的指導の観点の一環として捉えることができる。

嘉納は柔道の体育法の目的・優位性・効用として、「強・健・用」(強化・調和的発達・実用性)を挙げる。

昭和5年嘉納は「理想的体育」として次の条件・内容を述べている。

  1. 筋肉としても、内臓としても、身体を円満均斉に発達せしめて、なるべく危険の伴わないこと。
  2. 運動はいちいち意味を有し、したがって熟練がこれに伴い、かつ其の熟練が人生に用をなすものであること。
  3. 単独でも団体にても出来、老若男女の区別なく実行し得らるること。
  4. 広い場所を要せず、なるべく簡単なる設備で行い得られ、服装のごときも平素のままで行い得らるること。
  5. 時間を定めて行うも、随時零砕の時間を利用して行うも、人々の境遇上および便宜上自由になし得ること。

また柔道修行における必要な医学・生理学的根拠を学ぶ方法・場としては柔道の修行法の一つ「講義」を設け、それによって補完する必要のあることを嘉納は述べる。柔道修行におけるその強度の違い、真剣勝負(武術)、競技、教育目的の体育、はその修行方法、修行者を考慮して行われるべきものである。

武術としての真剣勝負の柔道勝負法の修行は、「柔道勝負法とは、人を殺そうと思えば殺すことが出来、傷めようと思えば傷めることが出来、捕えようと思えば捕えることが出来る。又相手がその様なことを仕掛けてきた時、自分は能く之を防ぐことの出来る術の練習である。要約すると肉体上で人を制し、かつ人に制せられない術といえよう。」と嘉納は説明するものであり、急所への当身技、武器術を含む柔道の勝負法の修行方法は「たやすいものではない」と嘉納は述べる。

またチャンピオンシップにもとづいた競技中心の柔道においては「強い選手を育てること」に主眼が置かれる「強者のための柔道」であり、そこには弱者に対する配慮はほとんど行われない可能性があるという指摘がある。その一方で教育として行われるべき学校柔道は初学の者を対象としており、競技として行うことはできない「弱者」(例えば、子どもたち)に適した指導がなされるべきである。各々の柔道の修行目的、修行方法を見極める必要がある。

修心(教育・精神修養・応用)としての柔道[編集]

講道館柔道の創始者嘉納治五郎は、明治22年に行われた「柔道一班並ニ其ノ教育上ノ価値」の講演において、柔道の三つの目的「柔道勝負法」「柔道体育法」「柔道修心法」のうち、「柔道修心法」について主に三つの効用を挙げる。

  • 徳目の涵養
  • 知育
  • 勝負の理論の応用

①徳性を涵養する[編集]

嘉納は日本における古くからの高等教育の手段とされて来た武芸の精神を受け継ぐ柔道の修行によって、自ら「自国を重んじ」「自国の事物を愛し」「気風を高尚にし」「勇壮活発な性質」などの徳性を涵養することが出来るとする。また、礼に始まり礼に終わる柔道の修行は正しい礼儀作法を身に付け、かつ、自主、沈着、真摯、勇気、公正、謙譲等の諸徳目を涵養することが出来るとする。しかし、これらの徳性の涵養は、柔道の修行の固有の性質から自然に涵養することのできるものと、柔道に関係ある総ての外囲の事柄を利用して、特に徳育上の教育を施してその目的を達するものとがあり指導上留意する必要があるとした。前者は柔道修行のうち「乱取り」「形」から学び、後者は柔道修行の「講義」と「問答」の修行によって学ぶ必要性がある。


嘉納の述べる柔道修行から学べる徳目の例を具体的に挙げると次のようになる。

  • 気風が高尚であること
  • 驕奢の風を嫌うこと
  • 正義を重んずること
  • 道のためには艱苦をいとわず、容易に身命をなげうつ覚悟があること
  • 公正なること
  • 礼儀を守ること
  • 信実なること
  • 身体を大切にすること
  • 有害な情を制止すること
  • 艱苦に耐える習慣を養うこと
  • 耐忍の力を強くすること
  • 勇気を富ませること
  • 教えを受けることと自ら考究することの関係を知らせること
  • 準備すること
  • その他である。

②智力を練る[編集]

嘉納は柔道の修行、柔道修心法を通じて会得を目指す智力について多くある中で一部分として主に次のように挙げる。

「観察」、「注意」、「記憶」、「推理」、「試験」、「想像」、「分類」、「言語」、「大量(新しい思想を嫌わず容れる性質と種々さまざまなことを同時に考えて混淆せしめぬように纏める力の二つ)」、「その他」となる。

③勝負の理論を世の百般に応用する[編集]

嘉納は柔道の修行について、勝負道の追求でもあり、勝負に勝つことが重要な目標になるともする。その勝負に勝つための理論は、単に勝負のみでなく、世の政治、経済、教育その他一切の事にも応用できる物であるとする。その応用の部分は修心法の中でも随分面白くもあり有益であると嘉納は説く。嘉納の挙げる勝負の理論の応用の例について要約すると次のようになる。

自他の関係を見ること 迅速な判断 先を取れ(先の先、先、後の先) 熟慮断行 先を取られた時のなすべき手段 我を安きに置き、相手を危うきに置くこと 止まることを知ること 制御術 その他 等である。また、練習の必要 駆け引き 彼我の接触 眼の着けどころ おのれを捨てること 注意、観察、工夫 最善を尽くす 進退の仕方 あらゆる機会を利用する 格外の力に応じる時の心得 業に掛った時の心得なども嘉納の発言・著作から伺い知ることが出来る。

嘉納はこれらの教えは、単に柔道勝負の修行のみでなく、総て社会で事をなす上で大きな利益の有るものであるとした。

最後に最も肝要なる心得の一つとして「勝ってその勝ちに驕ることなく、負けてその負けに屈することなく、安きに在って油断することなく、危うきにあって恐るることなく、唯々一筋の道を踏み行け」の教えを強調して、いかなる場合においても、その場合において最善の手段を尽くせということを嘉納は強調する。 [37]

フランスの柔道教育の応用[編集]

柔道は世界的に普及が進み大きく広がり受け入れられる中で、フランスにおいても幅広く受け入れられ、その教育的効用も受け継がれている。

その背景について、次のような意見がある。

「東洋文化の象徴でもある柔道。だが、フランスには受け入れる土壌もあった。粟津(粟津正蔵)の教え子で、75年にフランス初の世界王者(男子軽重量級)になったジャン=リュック・ルージェ仏柔連会長は「礼儀を重んじる柔道の武士道とフェンシングに代表される騎士道には共通点がある。国民性に合っていた」と指摘する。」[38]

またフランス柔道には、武士道と騎士道を融合させた「8つの心得」があり、教育的目的、価値として重視される。

そのフランス柔道における「8つの心得」として、

「友情」「勇気」「謙虚」「礼儀」「誠意」「名誉」「尊敬」「克己」が挙げられる。

そこには新渡戸稲造が『武士道』において挙げる徳目の、「義」「勇気・敢闘及び忍耐の精神」「仁・惻隠の情」「礼儀」「誠実・信実」「名誉」「忠義」「克己」と通ずるものであることが分かる。

また、フランスにおける柔道の指導者資格は国家的ライセンスとなっており、その300時間に及ぶ講習は柔道の座学として、医学的見地などや修心的要素も学ぶものであり、嘉納の挙げる柔道修行法の一つ「講義」の応用となっていると言うことが出来る。

残心[編集]

残心(ざんしん)とは日本の武術、武道および芸道において用いられる言葉であり、武術、武道としての柔道における残心は、「相手を投げた後、相手の反撃に備える態度と心構え」[39]等、技を決めた後も心身ともに油断をしないことを言う。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。

投げ技で崩れず態勢を保つ、立技から寝技へのスムーズな移行、相手の当身を意識する、当て身を含む形の技法においてはとどめの当て身を入れる動作をする等も柔道における残心となる。なお、柔道の投げ技には捨て身技も含まれており、寝技の攻防技法も含まれ、形の技法の中には居取り技も含まれるため、常に立ち姿勢で残心を取る訳ではないことを留意する必要もある。

講道館柔道の母体の一つになっている天神真楊流においては、技を行う前の心構えとして「前心」、技の挙動中の心の動きとして「通心」、挙動を終わって我が目を相手に注ぐこととして「残心」を説き、前心、通心、残心まで気を抜いてはいけないことを説いている。[40][41]

また、残心は、茶道や日本舞踊など日本の芸道にも用いられるように、柔道における礼法にも通じる。何があっても興奮せず、油断せず、ゆとりを持ちながら周りを意識し、感情を抑えて冷静な態度・平常心を保ち、謙虚に勝敗を受けとめ、相手の気持ちを考えることができる。実戦から生まれたこのコンセプトは、確実なことがないという覚悟と同時に、倒した敵に対する懺悔と敬意を表す。[42]

安全面において:全日本柔道連盟主催の安全指導講習において、体育としての指導、初心者指導における柔道の「受け身」を指導する際、安全に受け身が取れるために、安全面でのキーワードとして

(1)危険な時は自ら倒れる「潔さ」

(2)相手を投げる時は倒れない「残身(心)」

(3)互いの柔道衣を引っ張り合ってバランスを保つ「命綱」

の大切さを強調している。

娯楽や美育,幅広い目的の慰心法としての柔道[編集]

嘉納治五郎は1889 (明治22) 年に大日本教育会において文部大臣らを招き、「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」と題した講演を行い,柔道の目的として体育,勝負,修心を挙げて、「此學科ヲ全國ノ教育ノ科目ノ中ニ入レマシタナラバ目下教育上ノ缺点ヲ補フコトノ出来ル」と述べ,全国の教育機関,とりわけ中学校への採用と国民への普及を主張していく。

こうした嘉納の活動や剣道界の尽力により,1911 (明治44) 年に撃剣・柔術が正課採用を果し,柔道は日本の中学校における正科になる。その後,嘉納は柔道の目的として慰心法を含めて発表し,さらに新しい要素(運動の楽しさ,乱取,試合,そして形を見る楽しみ,芸術形式としての形による美育を含む)を柔道に付け加え柔道における幅広い目的を主張していく。

嘉納は当時国内において採用されていた西洋式の普通体操に面白みが無く学校卒業後に長く続けられないことに関する当時の教育家からの不満と、柔道の様々な利益,逆に競技運動は面白く長く続けられるという社会的背景から慰心法の新しい発想を生み出した。

1913 (大正2) 年,嘉納は「柔道概説」に「柔道は柔の理を応用して対手を制御する術を練習し,又其理論を講究するものにして,身体を鍛錬することよりいふときは体育法となり,精神を修養することよりいふときは修心法となり,娯楽を享受することよりいふときは慰心法となり,攻撃防禦の方法を練習することよりいふときは勝負法となる」と記し,柔道は「柔の理を原理とし,身体鍛錬には体育法,精神修養には修心法,娯楽には「慰心法」,そして攻撃防御の習得には勝負法となる」と説いた。

「慰心法」の内容は「慰心法とは柔道を娯楽として修行する場合をいふ。眼の色を楽み耳の音を楽むが如く,筋肉も亦運動して快楽を感ずるものにして,人が他の人と筋肉を使用して勝負を決する如きは更に大なる快楽のこれに伴ふこと論を侯たざるなり,且自ら其の快楽を感ずるのみならず其勝負の仕方,業の巧拙等を味ひてこれを楽み得る素養ある人は,他人の勝負を見ても快樂を感ずるはまた當然のことなり。殊に名人の試合及起倒流扱心流の形,講道館五の形,柔の形の如きものに至りては,眞に勝負の形たる性質を離れ自ら美的情操を起さしむるものにして,其の見る者に快楽を感ぜしむるや大なり。かく單純なる筋肉の快楽より高尚なる美的情操に至るまで快楽を得るを目的として修行するは,これを慰心法として柔道を修行すといふ」と述べ、

  1. 運動や勝負の楽しみ
  2. 他人の勝負や技の巧拙を見る楽しみ
  3. 他人の形を見る楽しみ

などを例に挙げた。

また,修行に際しては「柔道はかく四様の着眼点より修行するを得るものなれど,實際に於てはこれを兼ね修むるを得策とす・・・(中略)・・・慰心法として修むるときも亦同様にして,実益の伴はざる娯楽は人事多端の世に於て多くこれを貧ることを得ざるものなれど,種々の實益を伴ふ柔道の娯楽は,これを享くること多きも益を得ることありて毫も其弊を見ず」と述べ,慰心法以外の目的を兼ねて練習を行うことで楽しみながらも体育や勝負,修心上の利益を得ることが出来ると主張した。

しかしその後、嘉納の言説の中から「慰心法」の名称は見られなくなり、再び「体育法」「勝負法」「修心法」を中心としたものになっていく。それでも1915年3月の「立功の基礎と柔道の修行」の中に見られるように体育法としては①運動の種類が多く老若男女に適する②多目的で興味が尽きない③実生活に役立つといった3つの利点を挙げた。

嘉納は②について「柔道は他の運動に比して最も多くの目的を有し,従って先から先へと尽きぬ興味がある。一体育そのものより外に目的のない運動やその目的の明かでない運動は,興味を感じないものである。興味のない運動は,人に持績して行はせることも出来ず,熱心に練習させることも出来ず,体育の方法として価値の少ないものである。然るに柔道は身体を強健にする外に,己を護り人に勝つことを目的とし,五體を自由自在に動作させることを目的とし,精神の摩礪を目的として居る為に,競争の興味,業の熟練の興味,人格向上の興味,美的感情の養成,その他言ひ蓋せぬ程多様の興味を喚起し知らず識らずの間に体育上の功果を収めることが出来る」と述べ,競技の楽しさを魅力の1つに挙げている。このように「慰心法」の名称は消失するが,その内容は柔道奨励の一手段として位置づけられていく。

しかし明治後期から対校試合の隆盛と共に試合に対する学生の関心は高まる一方で、学生間の紛擾や学校間の対立などが生じることになる。やがて大正後期になると高等専門学校柔道大会が活況を呈し,学生が母校の名誉のために過熱し,様々な弊害が現れてくることになる。それらに対し,嘉納は慰心法に代わり、状況の改善策を講じ,柔道を本来のあり方へ戻そうと腐心していくことになる。

時代はさかのぼり第二次大戦後には軍事的色彩が強しとして一時禁止されていた柔道であったが,1949 (昭和24) 年には全日本柔道連盟が結成され,翌年(1950) には学校柔道も解禁される。

講道館の三代目館長となった嘉納履正は著書『伸び行く柔道一戦後八年の歩み一』において「スポーツとしての柔道」と題し「快適なスポーツとして柔道の練習方法を考へる場合,必ずしも鍛錬主義が全面的によいとは言へず, 教育的な見地からその対照によっては再考すべき点もあるであらう。講道館柔道を一部では,旧弊な非スポーツ的なものであるといふ様な誤解もあるが,遠く明治四十三年に嘉納治五郎の書いた柔道の説明の内に, 柔道は・・・(中略) ・・- 娯楽を享受する事より云ふ時は慰心法となり・・・(中略)・・・とある様に娯楽としての柔道の面も唱ってゐるので,決して講道館柔道は単なる武道的な厳しい面を強調するものでなく,心を慰むるものとして,則ちスポーツの字義通りの内容をも具備するものである」と述べ,これまでの柔道は勝負や精神面が強調され過ぎたが,娯楽の意義も今後大切であると説いている。柔道「慰心法」の存在と意義を再認識する時ともいえる。[43]

段級位制[編集]

講道館柔道では段級位制を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。

段位制は囲碁将棋において古くから行われていたが、それを武道・格闘技で最初に導入したのは、嘉納治五郎の講道館柔道である。その後大日本武徳会が、警視庁で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・剣道弓道に導入した(なお、武徳会は戦後GHQにより解体されたため、1948年には武徳会で取得した段位を講道館の段位として認める特例が取られた[44])。

初段が黒帯というのは広く知られており、クロオビは英語圏でも通用する単語となっていて、米国では黒帯を英訳した『Black Belt』という雑誌も発行されている。元々、柔道のは洗濯しないのが基本であり、稽古の年月を重ねるうちに黒くなっていく事から、黒帯が強さの象徴となったのであり、茶帯が白から黒に至る中途に設定されているのはこの残存形式であるとも言われる。

柔道の創始者である嘉納治五郎は『柔道概要』の中で「初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし」と述べている通り上限は決められていない。ただし十段よりも上へ昇段した前例はなく、今日では十段が事実上の最高段位になっている[45]。そもそも段位は柔道の「強さ」のみで決まるものではないため、高段者になればなるほど、名誉段位という意味合いが強くなっている。実際に、昇段の為の条件(競技成績・修業年限・審判実績など)が明文化されているのは八段までで、九段の昇段については存命の九段所有者が審議して決める事になっており、十段については講道館長の裁量に任されるなど、基準が非常に曖昧になっている[45]。一方、現役選手では一般に四、五段までが殆どで、これは全日本柔道選手権オリンピック柔道競技世界柔道選手権、春・秋の講道館紅白試合の技量抜群者に与えられる「特別昇段」の段位上限や、年齢・修行年限などの制限が課されているためである。実際にオリンピック2連覇で世界選手権を7度制した谷亮子も、現役時代の段位は四段であった。

なお、2012年現在での講道館十段所有者は、山下義韶磯貝一永岡秀一三船久蔵飯塚国三郎佐村嘉一郎田畑昇太郎岡野好太郎正力松太郎中野正三栗原民雄小谷澄之醍醐敏郎安部一郎大沢慶己(昇段年順)の15人のみで、柔道入門者12万人に1人と非常に狭き門となっている[45]。また国際柔道連盟での十段所有者は、アントン・ヘーシンクオランダ)、チャールズ・パーマーイギリス)、ジョージ・カー(イギリス)の3人となっている。他にもフランス柔道連盟のアンリ・クルティーヌ、オランダ柔道連盟のnl:Jaap Nauwelaerts de Agéが十段位を取得している。女子では十段は福田敬子(在アメリカ)ただ1人(2011年8月に昇段)である(講道館は九段)。

昇級・昇段のためには全国の各団体が講道館の認可を受けて行う昇級試験・昇段試験を受験する必要がある。級においては試験は受験者同士の試合形式で行われ、結果が優秀であった場合は飛び級も認められる。初段以上では、試験は試合・柔道形の演武・筆記試験の3点の総合成績で判定を行うのが基本であるが、実施母体により異なる場合もある。(注下記)初段の試験に合格した時点で正式に講道館への入門を認められ、会員証が発行されると共に黒帯の着用が認められる。

柔道の段帯
女子用帯

成年部(原則13歳以上)の場合の帯と段級位の関係は以下のようになっている(四級以下については、道場によって違いもある)。

※六段以上は黒帯でも構わない。

少年部(原則13歳未満)の場合の帯と級位の関係は以下のようになっている。

  • 初心者:白帯
  • 五級:黄帯
  • 四級:橙帯
  • 三級:緑帯
  • 二級:紫帯
  • 一級:茶帯

また女子部は国内ルールでは1/5幅の白線入りだが、国際ルールでは男女とも同じものを用いる。なお日本国内の大会では、国際ルールを用いる試合であっても、女子は講道館の段位であるとして白線入り帯を締める事になっている。

柔道競技[編集]

試合[編集]

講道館柔道は(かた)、乱取(らんどり)によって技術を修行するように示されている。しかし現代の競技大会における「柔道」とはほぼ乱取を意味するものであり、形については国民の認識も薄い。

このことから1990年代以降は「形」の競技化が進められ、次項にて説明する形競技も行われるようになった。

形試合[編集]

形の競技化、試合も始まっている。ヨーロッパでは2005(平成17)年に欧州柔道連盟が第1回欧州柔道「形」選手権大会をロンドン郊外で開催した。さらに東南アジア地区のSEA (South East Asia) Gamesでは、2007年から投の形と柔の形が実施されている。

日本国内では、1997年(平成7年)には講道館と全柔連が全日本柔道形競技大会を開催したことで、形の競技化が始まった。10回(10年)の国内選手権大会を経てからは、形の国際大会開催の機運が高まり、第1回講道館柔道「形」国際大会が2007年に講道館大道場で開催された。ここでは五の形、古式の形を除く、5種類の形が採用されたが、すべて日本チームが優勝した。2008年11月には、国際柔道連盟がIJF形ワールドカップをパリで開催したが、投の形では優勝を逃している。

2009年10月には第1回世界形選手権大会マルタで行われ、こちらは5種目とも日本勢が優勝した。第2回世界形選手権大会は2010年5月、ブダペストで行われ、日本チームは全5種類の形で優勝した。

大会[編集]

大会のレベル[編集]

講道館柔道の試合は、通常、年齢と体重によって制限されており、男女も別である。年齢には下記のように制限がある。

  1. マスターズ:30歳以上
  2. シニア
  3. ジュニア:15歳以上21歳未満
  4. ユース
  5. カデ:15歳以上18歳未満

主な大会[編集]

体重別階級[編集]

柔道は本来無差別で争われるべきという考えに基づいていたため、講道館柔道では無差別を除くと段別・年齢別がその区分の中心であった。しかし、東京オリンピック開催を機に、体重による区分を軽量級、中量級、重量級の3階級設けたのが最初である。講道館柔道では現在8つの階級に分かれているが、主催者や競技者の年齢によって異なることがある。国際大会では、シニア、ジュニア、カデなどで制限が異なる。

シニアの個人戦
男子
60 kg 以下 60〜66 kg 66〜73 kg 73〜81 kg 81〜90 kg 90〜100 kg 100kg 超 無差別
女子
48 kg 以下 48〜52 kg 52〜57 kg 57〜63 kg 63〜70 kg 70〜78 kg 78kg 超 無差別
シニアの団体戦
男子
66 kg 以下 66〜73 kg 73〜81 kg 81〜90 kg 90kg 超
女子
52 kg 以下 52〜57 kg 57〜63 kg 63〜70 kg 70kg 超
世界ジュニア

大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上21歳未満。

男子
55 kg 以下 55〜60 kg 60〜66 kg 66〜73 kg 73〜81 kg 81〜90 kg 90〜100 kg 100kg 超
女子
44 kg 以下 44〜48 kg 48〜52 kg 52〜57 kg 57〜63 kg 63〜70 kg 70〜78 kg 78kg 超
世界カデ

大会開催年の12月31日時点で年齢15歳以上18歳未満。

男子
50 kg 以下 50〜55 kg 55〜60 kg 60〜66 kg 66〜73 kg 73〜81 kg 81〜90 kg 90kg 超
女子
40 kg 以下 40〜44 kg 44〜48 kg 48〜52 kg 52〜57 kg 57〜63 kg 63〜70 kg 70kg 超

無差別は世界柔道選手権大会にはあるが、オリンピックの種目ではない。また日本で一番格式のある全日本柔道選手権大会は無差別で行われる。

国際大会の敗者復活トーナメント戦[編集]

また、オリンピック世界柔道選手権大会では、敗者復活トーナメントも行われる。これは予選トーナメントで敗れた選手の中から、ベスト4の選手と直接対決した選手が出場できる。そして復活トーナメントを勝ち上がった選手と準決勝で負けた選手が銅メダルを争うことになる。このため銅メダルが必ず2つ出る。国際オリンピック委員会は他の競技との兼ね合いから1つにするように通達している[注釈 2]が、国際柔道連盟はこれを拒否している。

2012年のロンドンオリンピックからは敗者復活戦のシステムが変更になり、準々決勝の敗者のみが出場でき、敗者復活戦の勝者と準決勝で負けた選手で銅メダルを争うことになった。

一方で国内の大会である、全日本柔道選手権大会全日本選抜柔道体重別選手権大会では行われていない。

柔道競技のルール[編集]

日本において、現在の試合ルールは講道館柔道試合審判規定(以降、講)と国際柔道連盟試合審判規定(以降、国)がある。現在は国内でもほとんどの試合が国際規定で行われているが、試合のレベルなどにより、国内独自の方法や判定基準が採用されている。

試合場[編集]

試合場内は、9.1m×9.1m(5間)(講1条)、もしくは8m×8mから10m×10m四方(国1条)のの上(「試合場」は、講14.55m(8間)、国14〜16m四方の場外を含めた場所をいう。)。試合は、試合場内で行われ、場外でかけた技は無効となる。場外に出たとは、立ち姿勢で片足でも、捨身では半身以上、寝技では両者の体全部が出た時をいう。ただし、技が継続している場合はこれにあたらない(講5条、国9条)。

試合の技[編集]

講道館規定67種類、国際規定66種類の「投技」と29種類(講道館、国際共)の「固技」を使って、相手を制する事を競う。当て身技は使えない。

審判員[編集]

審判員主審1名、副審2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。2014年から試合場の審判は1人となる。副審2名は審判委員席でビデオを確認しながらサポート役に徹する。ジュリー(審判委員)は試合場の審判と無線でコミュニケーションを取り合うことになるが、必要とみなされた場合を除き技の評価などへの介入は控える[46]。審判に抗議する事はできない(講16条)。

試合[編集]

試合は立ち姿勢から始まる(講10条)。一本勝負であり(講9条)、「一本」の場合残り時間にかかわらずその時点で試合は終了する。2度の「技あり、「技あり」と相手の反則「警告」(講)(3度の「指導」(国))を合わせた「総合勝ち」の場合も「一本」と同等に扱う。「技あり」2回の総合勝ちによる一本の場合は通常「合わせて一本」と主審がコールする。

試合時間内に両者とも「一本」に至らない場合には、それまでの技の優劣の差で「優勢勝ち」を決する。この優劣の差には「指導」による得点も加味される。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合には、ゴールデンスコア方式として、試合を延長し一方が有効な技を決めるか相手に宣告された反則(指導2回以上)による得点が入った時点で試合終了となる(ただし講、国ともに、ゴールデンスコア方式で行うとは明記されていない)。それでもなお時間切れになった場合は主審および副審の「判定により「優勢勝ち」が告げられる。大会の規定によっては引き分けとする場合もある。

試合時間[編集]

3分から20分の間で予め定められる(講12)。国体は成年男女、少年男女ともに4分。全日本選手権は6分。国際規定では、マスターズ3分(60歳以上は2分30秒)、シニアの場合、男子は5分、女子は4分、ジュニアとカデも4分と決められている。「待て」から「始め」、「そのまま」から「よし」までの時間はこれに含まれない(講12条、国11条)。また、試合終了の合図と共にかけられた技は有効とし、「抑え込み」の宣告があれば、それが終了するまで時間を延長する(講14条、国14条)。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合にはゴールデンスコアとなり、どちらかが技か指導でポイントを挙げるまで試合は続行される(旗判定の廃止)[46]

技の判定[編集]

有効な技は、「一本」、「技あり」、「有効」の3つの判定で評価される。以前の国際規定では判定の種類に「効果」があったが、ルール改定により2009年1月1日から正式に廃止された。講道館規定ではもともと「効果」の判定はなかった。判定の優劣は「一本」に準ずる技の判定が「技あり」、「技あり」に準ずる技の判定が「有効」である。また、「技あり」2つで「一本」となるが、「有効」は何回とっても上位の「技あり」に及ばない。

投技[編集]

一本:相手を制しながら、「背を大きく畳につくように」相当な「強さ」と「速さ」をもって投げた場合
技あり:相手を制しながら投げ、「一本」の要件「背を大きく畳につく」「強さ」「速さ」のどれか一つが部分的に欠けた場合
有効:相手を制しながら投げ、「一本」の要件「背を大きく畳につく」「強さ」「速さ」のどれか二つが部分的に欠けた場合
  • 改正前の国際規定では、相手を制しながら、相手の片方の肩、尻、大腿部が畳につくように、「強さ」「速さ」をもって投げた場合を「効果」としていたが、改正後は得点とならない。

固技[編集]

固技の勝ち方には次の3つがある(講37条、38条、39条)。(注:固技は抑込技、絞技、関節技の総称である)

1つ目は、抑込技で、国際審判規定では相手の背、両肩または片方の肩を畳につくように制し、相手の脚によって自分の身体、脚が挟まれていない場合で、20秒経過すると「一本」になる(講道館規定では30秒)。但し、先に(投げ技、固め技の)「技あり」ポイントを持っていれば、15秒経過すると「技あり」となり、「総合勝ち」となって、所謂「合わせて一本」になる(講道館規定では25秒)。同様に一定時間の抑込で以下のように技が判定される[46]

一本:20秒間(講:30秒間)抑え込んだ場合。
技あり:15秒以上20秒未満(講:25秒以上30秒未満)、抑え込んだ場合。
有効:10秒以上15秒未満(講:20秒以上25秒未満)、抑え込んだ場合。
  • 2009年にルールが改正される前の国際規定では10秒以上15秒未満抑え込んだ場合「効果」と判定されていた。

2つ目は、固め技で、相手が参ったと発声するか、その合図(相手の体もしくは畳を審判に分かるように2〜3回叩く)をすれば「一本」勝ちになる。

3つ目は、絞技と関節技で、技の効果が十分に現れた時である。

  • 3つ目の条件には、脱臼、骨折、「落ちる」等がこれにあたる。
  • 大会参加選手の程度によって、関節技や絞め技が完全に極まっていれば、安全の為、選手が「参った」をしなくても「一本」になる事がある。これを「見込み一本」という。これを採用するかどうかはその大会の前に決められる。
  • 中学生以下は安全のため関節技・三角絞め禁止(講・少年規定による)。
  • 小学生以下は安全のため絞め技・関節技禁止(同上)。

禁止事項に対する罰則[編集]

禁止事項に抵触する行為に対しては、審判から「指導」が与えられる。重大な違反行為に対しては「反則負け」が宣告される場合もある。「指導」に対しては違反行為の重さ(講)に応じて、相手側に得点が与えられる。ただし、2014年からの国際ルールでは、指導は3回目までポイントにならず、技のポイント以外はスコアボードに表示されないことになった(これにより、技ありと指導3を合わせた総合勝ちは成立しなくなった)。4回目の指導が与えられた場合は反則負けとなる。試合終了時に技のスコアが同等の場合は、指導の少ない方の選手を勝ちとする[46]。 以下の規定は講道館ルール。

「1回目の指導」(講)では、得点は与えられない。
2回目の指導(注意)」(講)では、相手側に「有効」の得点が与えられる。
3回目の指導(警告)」(講)では、相手側に「技あり」の得点が与えられる。
4回目の指導」(国)または「反則負け」(国、講)では、相手側に「一本」の得点が与えられる。

得点表示[編集]

得点表示の例(青(赤)が一本、白が技あり1回、有効1回の場合)

青 (B) /赤 (R) 1 0 0
I W Y
白 (W) 1 1

試合場やテレビ中継での得点表示は、有効な技の回数が、左から、一本 (I)、技あり (W)、有効 (Y) の順に表示される。上下に列記される場合もある。

上記の例の場合、一見100点満点のようにも見えるが、希な例として有効の回数が2桁になる場合がありうるので、これを「100点」「11点」とは読まない。このような読み方は、北京五輪頃のテレビ中継(民放)で盛んに推奨されていたが、誤りである。

競技・規定の変遷[編集]

  • 1900年(明治33年) - 講道館柔道乱捕試合審判規定制定。
  • 1924年(大正13年) - 「引き込み」を禁止。
  • 1929年(昭和4年) - 御大礼記念天覧武道大会柔道乱捕試合規定、審判員3人、姿勢・態度・技術等の基準による「優勢勝ち」制定。
  • 1951年(昭和26年) - 講道館柔道試合審判規定改正。(新しい競技規定として試合場、柔道衣の規格規定)
  • 1955年(昭和30年) - 講道館柔道試合審判規定改正、「技あり」後の「抑え込み」25秒で合わせ技一本等。
  • 1957年(昭和32年) - 講道館柔道試合審判規定改正。「技あり」と「警告」による勝ちを「総合勝ち」とする。
  • 1961年(昭和36年) - IJF体重別制。4階級。
  • 1967年(昭和42年) - IJF試合審判規定が制定・IJF体重6階級。
  • 1974年(昭和49年) - 国際規定改正に「有効」「効果」を採用。
  • 1975年(昭和50年) - ウィーン世界選手権から「効果」を採用。
  • 1977年(昭和52年) - IJF体重別制、8階級制。
  • 1982年(昭和57年) - 講道館試合審判規定・少年規定。
  • 1986年(昭和61年) - 第1回視覚障害者柔道大会開催(講道館)
  • 1995年(平成7年) - IJF技名称発表(100本)
  • 1997年(平成9年) - IJF総会でカラー柔道着導入可決。
  • 1997年(平成9年) - 講道館技名称発表(96本)
  • 1998年(平成10年) - IJF技名称発表(99本)
  • 1998年(平成10年) - 全国高校総体個人戦は体重別7階級になる。(於:高松)個人戦は予選リーグを廃止しトーナメントのみ。
  • 1998年(平成10年) - 全国中学校大会の女子団体戦(3人制)始まる。
  • 1998年(平成10年) - 全日本女子柔道ジュニア選手権大会始まる。(講道館)
  • 1998年(平成10年) - IJF公式大会として初めてブルー柔道着採用される。ワールドカップ(ミンスク)
  • 1999年(平成11年) - 全日本学生柔道体重別団体選手権大会開催。初の体重別団体戦開始。
  • 2000年(平成12年) - 福岡国際女子柔道選手権大会で全柔連初の審判ビデオ試行。
  • 2003年(平成15年) - 世界選手権大会の女子のシニア試合時間を5分に。国際規定の罰則を「指導」と「反則負け」に二分化。延長戦「ゴールデンスコア」採用。
  • 2008年(平成20年) - 国際規定「効果」を廃止。(2009年1月実施)
  • 2009年(平成21年) - IJFグランプリシリーズ及び世界ランキング制度が始まる
  • 2009年(平成21年) - 第1回学生柔道女子選抜体重別団体優勝大会開催。
  • 2009年(平成21年) - 嘉納治五郎杯国際柔道大会がIJFグランドスラム東京2009として開催。
  • 2010年(平成22年) - 国際規定「抱きつき」を規制[47]。また、「双手刈(タックル)」・「朽木倒」等の脚を掴む技を制限(禁止ではない)[48]
  • 2013年(平成25年) - 2013年2月のグランドスラム・パリから8月のリオデジャネイロ世界選手権までの期間、1人審判制、変則組み手や組み手争いに対する罰則強化、脚取りを含めた帯から下を掴む行為の全面禁止、旗判定の廃止、抑込技の時間短縮などの大幅なルール改正案が試験導入されることに決まった。この結果を検証して、正式導入されるか改めて協議されることになる[49][50][51]
  • 2014年(平成26年) - 2014年1月のコンチネンタルオープンからリオデジャネイロオリンピックが開催される2016年まで、国際大会において新たなIJF試合審判規定が導入されることになった[46][52]
  • 2014年(平成26年) - IJFは2015年から世界ランキングに入っている全ての選手に対して、他の格闘技大会へ参加することを禁じる方針を打ち出した[53]

公認審判員規定[編集]

柔道の公式試合は国内、IJFともに認定を受けた審判員が試合を司ることになっている。審判員は公認審判員規定によって資格が管理されている。国内の審判員はS、A、B、Cに分けられ、各審判員は研修会に参加して資格を維持している。国際はインターナショナル、コンチネンタルの2種類がある。

外部リンク

柔道の派閥[編集]

東海大学日本体育大学国士舘大学天理大学等をオピニオンリーダーとする全日本学生柔道連盟(学柔連)と講道館(東京教育大学(現筑波大学)等)の対立は政界をも巻き込み、1983年あたりから長く続いた。学士インテリ対町道場主&骨接ぎとも揶揄された。発端は正力杯国際柔道大会の運営に関する学柔連と全柔連のボタンの掛け違いといわれている。学柔連が全柔連を脱退するという事態から組織の分裂に問題が発展した。国際柔道連盟は当時松前重義東海大学総長が会長をつとめており、さらに学柔連側には山下泰裕ら主力選手が多くいた背景もあったので、全柔連も対応に苦しんだ。完全統一がなったのはニュージャパン柔道協会が講道館大阪支部となった1995年のときといわれている。

高専柔道(七帝柔道)[編集]

七帝柔道(高専柔道)は立ち技重視の講道館柔道に反発して明治時代に誕生した柔道である。

七帝柔道(高専柔道)では寝技を重視したスタイルを採用しており、膠着時の「待て」や「場外」の要素や「有効」・「技あり」などのポイント制度を極力排除しているのが特徴である。試合においても団体戦による勝ち抜き戦を基本としており、試合時間も講道館柔道(国際柔道)のそれに比べて長い。選手は旧帝国大学およびその系列の者が多く、対抗戦のほかに柔術総合格闘技などのバックボーンとして格闘技分野で主に活躍している。

今日では講道館柔道が国際柔道(Judo)としての地位を確立しており、またスタイルの違いや講道館が七帝柔道を異端視していることなどから、高専柔道(七帝柔道)の選手はオリンピックなどの国際競技柔道の大会に出場することは稀となっている。一方で、技術向上の目的で講道館柔道と高専柔道の練習を並行して行う修行者も多い。

派生してできた武道、格闘技[編集]

柔道から派生した武道として、前田光世から受け継がれたブラジリアン柔術の各派や日本拳法サンボ富木流合気道(合気乱取り)がある。日本拳法は、柔道家の澤山宗海が柔道では廃れてゆく当身技の練習体系を確立する為に創始した。サンボは講道館で柔道を学んだロシア人ワシリー・オシェプコフによりロシアに伝えられソ連時代にその弟子により国技として普及する。富木流合気乱取りは柔道の当身技と立ち関節技(離隔態勢の柔道)の乱取り化を進めようとしていた嘉納治五郎により、合気道の植芝盛平のもとへ派遣されていた富木謙治によりまとめられ、別名柔道第二乱取り法とも呼ばれる。早稲田大学教育学部教授であった富木は早稲田大学柔道部合気班の中で柔道の第二乱取り法として指導をしていた。他には柔道出身の極真空手家・東孝が興した空道も投げや寝技の中に柔道の影響が強く見られる。講道館で嘉納治五郎による古武道研究会で師事を受けた望月稔養正館武道にも嘉納の思想、柔道理論、影響は受け継がれている。欧州で競技の行われているヨーロピアン柔術にも柔道の影響が伝統空手の技術と共に見受けられる。

柔道と空手道の道衣[編集]

柔道は当初柔術の稽古着を着て稽古していたが、袖と裾の長い現在の柔道衣を作成し稽古するようになった。1922年、嘉納治五郎がプロデュースし、船越義珍に依頼して、講道館で空手(唐手)の演武、指導をした時に義珍が着用していたのが柔道衣である。その後、唐手と柔道は、動作も稽古内容も柔道とは違う為、柔道衣に徐々に改良がなされ、空手道に今のような空手道衣が誕生した。このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのは、そのためである(詳細は空手道#空手道衣)。

柔道衣の色は基本的に白のみとされている。しかし、試合で両選手とも白の柔道衣では観客にとって見分けがつきにくいという問題があったため、1997年に国際柔道連盟はカラー柔道衣の導入を決定し、それ以来国際大会では青の柔道衣が使われるようになり、日本で開催する時も国際試合に限り青の柔道着を着用を認めている。これに対し、日本はカラー柔道衣の導入に反対しているため、国内大会では白の柔道衣のみが使われている。

カラー柔道着の導入を巡る検討段階では、青以外にも赤・緑・黄などの様々な色・ナショナルカラーの柔道着の着用を自由に認めるようヨーロッパの柔道連盟など賛成の立場の国は強硬に迫った。最終的には見分けが付けばいいと言う事と、日本などの反対する立場の国々への配慮から、青のみの導入にとどまった。

プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦[編集]

1951年国際柔道協会(プロ柔道)木村政彦七段、山口利夫六段、加藤幸夫五段の日本柔道使節がブラジルに招かれた。この時、グレイシー柔術異種格闘技戦を行っている。

9月6日に加藤幸夫がリオデジャネイロエリオ・グレイシーと対戦。試合は10分3ラウンド、投げによる一本勝ちはなし、ポイント制無しの柔術デスマッチルールで行われ引き分けに終わる。9月23日に二人は再戦したが、8分目で加藤が下からの十字絞めで絞め落とされエリオの一本勝ちに終わった。すでにこの頃からブラジリアン柔術の寝技技術はかなり高いレベルにあったものと思われる。

雪辱戦として10月23日木村政彦がエリオ・グレイシーと対戦。だが、さすがのエリオも木村相手では子供扱いされた。木村が2R開始3分目で得意の腕緘に取りエリオは意識がなくなっていたため、兄のカルロスがストップを申し出し木村が勝利、日本柔道の名誉を守った。木村政彦は「鬼の木村」の異名を持ち、戦前から全日本選手権を13年連続保持、15年間無敗のまま引退した柔道家で、史上最強と言われる。木村は切れ味鋭い大外刈りで有名だが、寝技でも日本トップの力を持っていた。

この木村政彦とエリオ・グレイシー戦までの経緯、試合内容については「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が詳しく記述している。それによると、試合後は互いに2人が相手の強さと精神を称え合うものだったという。エリオは木村の強さに感動し、腕緘にキムラロックという名前をつけた。

柔道事故[編集]

まず、柔道の投技の基本は受の背中が大きく畳に着くように投げることだが、取は受を頭から落さないように投げ、多くの投技では受の体が畳に着く寸前に引き手を引いて受の体をわずかに引かなければならず、受は正しい受身(腕で畳を打って緩衝し、同時に顎を引いて固定し後頭部を打たないように護る)を身に付けなければならない。

しかし、取と受の双方若しくはいずれか一方が未熟な場合、受が頭部を畳にぶつけることがある。例えば大外刈りは、受が後ろ倒しになるという技の性格上、まだ正しく受身を取れない段階の人(初心者)にかけると後頭部を強打する危険性が高い。また、頭からの落下による事故原因の他に加速損傷(回転加速度損傷)が原因と思われる可能性も示唆されており、これは頭部に外力(極端な遠心力、加速度)が加わることで頭蓋骨に回転加速度がつき頭蓋骨内の脳が全体的に回転(一方向への偏り)することで脳と硬膜を繋ぐ橋静脈が破断、急性硬膜下血腫に至るという機序である[54][55][56]。他に間(日にち)を置かず頭部への強打によって起こる脳震盪(セカンドインパクト症候群)が原因となり脳が物理的ダメージを負う事で、障害、死亡などのリスクが高まる報告がある。

学校柔道事故事例
  • 2003年、須賀川市第一中学柔道部暴行傷害事件
  • 2004年、横浜市奈良中学柔道部暴行事件
  • 2007年7月、大阪府高槻市金光大阪高校柔道部の男子生徒(当時1年生)が練習中に脳震盪で倒れた3日後に昇段審査などの講習会に参加。模範演技後に頭痛を訴えるも取下げられ、会場に駆けつけた母親の119番通報で病院に搬送。急性硬膜下血腫を発症し遷延性意識障害による意識不明の寝たきり状態になり、後、本人を含む家族が、学校法人、全日本柔道連盟、大阪府柔道連盟を相手に計約4億円の損害賠償を求める。全柔連への請求を除き、大阪地裁(佐藤達文裁判長)にて約1億円の和解金を支払うことで合意。
  • 2009年、広島県の私立尾道高等学校1年男子生徒が柔道部の練習中に畳で頭を強打し急性硬膜下血腫を発症、高次脳機能障害を負う。後、被害者本人と両親が同校を運営する尾道学園に計約1億4400万円の損害賠償を求めた。2015年8月、広島地裁尾道支部(次田和明裁判官)は「事故を防ぐための適切な措置を講じる義務に違反した」として同学園に計約8150万円の支払いを命じた[57]
  • 2009年、滋賀県愛荘町立中学校柔道部の練習中、部員(当時12歳)が上級生との乱取り稽古後「声が出てない」との理由から柔道部顧問(当時27歳)の直接指導を受け。二度投げ一度締めの合わせ技を蒙った直後に失神、顧問が平手で叩くも搬送先の病院で硬膜下出血で意識が戻らないまま1か月後に死亡。
  • 2015年6月、福岡市立席田中学校柔道部の約束稽古中、大外刈をかけられた女子部員(当時13歳)が頭部を強打、意識不明に陥り、翌日搬送先病院で死亡。後、市は事故調査委員会を設置。
その他事例
判例

柔道事故の統計[編集]

2000年から2009年における中学生10万人当たりの平均死亡事例は柔道2.376人、2番目に高率なバスケットボールで0.371人であるとされ、学校における柔道の活動中の死亡事故発生率はバスケットボールや野球などのスポーツに比べて高いといえる。なお競技者人口からの死亡数の絶対値水泳陸上競技のほうが多い(独立行政法人日本スポーツ振興センターが平成2年から21年までに、学校内で柔道業や部活動で死亡し見舞金を支給したのは74件。陸上競技275件、水泳103件)。

学校での柔道の練習中に死亡する子どもの数は年平均4人以上というデータがあり、過去27年間で計110人の生徒が死亡、2009年から2010年にかけては計13人の死亡事故が確認されている[58]名古屋大学内田良准教授の調査では1983年から2010年の28年間に全国で114人が死亡、内訳は中学39人、高校75人で中高ともに1年生が半数以上を占め、14人が授業中での死亡とされる。後遺症が残る障害事故は1983年から2009年にかけて275件で、内3割は授業中での事故との調査報告が出ている[59][60]

大阪府警察学校の初任科生の柔道における頭部受傷事故発生の統計データが公表されています。出典[61]によると、以下の通りである。

昭和41年から段外者の初任科生にヘッドサポーター着装をはじめ、以後、頭部受傷事故発生総数が激減している。

前後 \(項目) 調査人員 頭部受傷者 発生率(注2) 発生率指数(注1)
着装前 昭和年度
38 753 10 1.3 100
39 666 19 2.9 223
40 672 18 2.7 208
2091 47 2.3 173
着装後
41 861 7 0.8 62
42 932 5 0.5 42
43 985 6 0.6 47
2778 18 0.65 50
着装後 材質変更(注3)
50 742 0 0 0
51 710 3 0.4 30
52 533 1 0.01 0.7
1985 4 0.13 10



注1. 発生率指数とは、昭和38 年を100 として以降の発生数の増減を指数で表わしたものである。

注2. 発生率とは調査対象が1年間で発生した頭部損傷者数の100 分率。

注3. 1974(昭和49)年にスポンジよりすぐれた吸収力を持つソフトロンを採用した。

この著者は、大阪府警柔道師範で、大阪府柔道連盟・副会長も含まれている。


この他に、柔道傷害の実態調査については、大阪府柔道連盟が取り扱った昭和52年5月から昭和53年8月までの間の調査結果に関して、次のとおり取りまとめられている。

中学生 高校生 大学生 警察官 一般
鎖骨骨折 1 3 0 2 0 6
上腕骨骨折 1 1 0 1 0 3
橈尺骨骨折
手指骨骨折 0 0 0 0 1 1
肋骨骨折 0 1 0 0 1 2
肩鎖関節 1 3 0 3 0 7
大腿骨
腓骨骨折 0 0 0 1 0 1
中足骨骨折 0 1 1 1 0 3
肘関節脱臼 2 0 0 4 1 7
5 9 1 12 3 30


出典 大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 61頁 奥村金昭 (大阪府柔道連盟理事 試合部傷害係)著 「柔道傷害の実態と負傷の傾向及び救急措置について」


大阪府立高校体育連盟柔道部が全国高校体育連盟柔道部の求めに応じて高校柔道の実態調査をした調査結果の中の1977(昭和52)年度1年間の柔道の事故件数は次の通りです。(調査の対象は第27回大阪高校新人柔道大会に参加した118校で、回答は89校)

授業 必修クラブ 部活動 対外試合 その他 合計
入院1ヶ月以上 1 1 2
入院1週間以上1ヶ月未満 8 9 2 19
入院1週間未満 9 4 4 17
その他学校安全会の適用を受けたもの 155 1 163 28 2 349
合計 173 1 177 34 2 387


出典 大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 71頁、72頁 「高校柔道の実態調査」 大阪高体連柔道部研究部より


1964(昭和39)年度の大阪府立高校におけるクラブ活動の傷害件数として、日本学校安全会大阪府支部資料に基づき、柔道209件、野球124件、ラグビー105件、 また、日本学校安全会大阪府支部調べの昭和51年度大阪府下全高校全日制男子のクラブ活動の傷害件数として、ラグビー443件、格技(主として柔道)382件、野球369件と報告されている。[62]

柔道事故と民事訴訟[編集]

柔道の事故に関して全国柔道事故被害者の会が存在する。部活動後や帰宅時に容態が急変した場合、回転加速度損傷は外傷が殆ど無い為に柔道事故と死亡の因果関係の立証が困難になる[63]

柔道事故対策[編集]

柔道事故に対して(財)全日本柔道連盟安全指導プロジェクト特別委員会を設け、事故予防や事故時の対応などを指導者に啓発してる[64]。同財団では柔道事故による見舞金制度が設けられており、死亡または1級から3級の後遺障害に見舞金200万円、障害補償として2000万円が支払われる。

ゴング格闘技』は2010年6月の七帝柔道大会の試合後に松原隆一郎(東大教授)と増田俊也(作家)を招き、全柔連ドクターと京大柔道部OBの医師を交えた4人による緊急鼎談を行い、「未然に事故を防げるように柔道界で一致団結して前向きに対策を練っていこう」という話にまとまった。京大OBからは、寝技中心の七帝柔道らしく「中学生はまだ体ができていないので、授業ではまず寝技だけを教えて、危険な立技は体ができてから教えても遅くないのではないか」との意見が出ている。ただし、高校2年生が寝技の基礎練習中に頸椎を損傷して首から下が不随の状態になっている事例もある[65]

名古屋大学大学院教育発達科学研究科の内田良准教授の調査によれば、日本の柔道現場では、安全対策に取り組んだ結果、2012年から3年間、死亡者はゼロとなったとしている[66]

柔道事故とNHK番組[編集]

「頭をぶつけると起きるから、頭をぶつけないようにすれば大丈夫」などと思っている指導者が多いが、その考え方は甘い[67]。たしかに頭をぶつけた場合も危険であるが、頭をぶつけていなくても頭に強い加速度が加わるだけでも頭蓋内出血が起き命にかかわることがある[67]

日本の文部省の対応は非常にずさんで誠意の無いものであり、日本国政府(文部省)は、柔道が原因となった加速損傷で死亡事後が起きるという事実を30年前に把握していたにもかかわらず、そうした事実を隠蔽し、指導現場へ伝えることが無かった[67]

日本国政府(文部省)は30年前に学校での柔道の指導中に起きた死亡事故で被害者家族から訴訟を起こされ、家族が「頭をうったと思われる」としたところ、文部省側は無罪を主張するために「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」ということを主張するために、わざわざ英語で書かれた論文を持ち出して自己弁護したにもかかわらず、自らの弁護のために持ち出した「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」という事実に基づいて対応策を打てば状況を改善できたはずであるにもかかわらず、その事実を全国の学校現場に伝える努力をまったくせず、結果としてその後に日本で100人以上の若者が命を落とすような状況を作り出していたのである[67]

さらに文部省は、「学校での柔道の指導中の事故を文部省に報告する必要はない」などとする(不適切な)きまりを数十年前につくってしまい、文部省に事故情報が集まってこない体制にしてしまった[67]。これによって、ますます危険が把握されず放置される状況が作り出された[67]

こうした危険な状態が放置・隠蔽されていた実態が、中学校での武道必修化(結果として柔道必修化を選ぶ学校が多いと予測される)を目前とした2011年になって、明らかにする人が出て、問題として浮上してきた[67]

全国の体育教師のほとんどは、自身が柔道をした経験もない状態なのに、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまである[67]。指導者としてのレベルには全然達していない[67]。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される[67][注釈 3]。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない[67]

フランスは現在では、日本の3倍の柔道人口を持つ柔道大国である)、フランスではかつて起きた1名の死亡事故をきっかけとして、安全対策として、(競技者としてではなく)生徒に安全に柔道を指導するための国家資格を設立、救急救命や生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習・訓練を経なければ、決して柔道の指導はできないようにし[67]、例えばたとえ競技者として優秀でも受身の安全な指導ができなければ絶対に生徒の指導はできない、というきまりにした[67]。そうしたフランス政府の誠意ある姿勢と日本の文部省のずさんな態度は、非常に対照的で逆方向である[67]

日本柔道連盟でも、連盟内に医師グループはいたものの、その中に頭を専門とする脳神経外科医がおらず、柔道事故の内実をよく理解していなかった[67]

二村雄次(日本柔道連盟所属の医師、自身も講道館柔道六段)は、NHKのクローズアップ現代(2012年2月6日放送)で、武道必修化(柔道必修化)の前に、第三者による柔道事故検証のしくみ(システム)を事前に用意しておくべきで、そうすればもしも柔道指導中の事故が起きた場合は(文科省でもなく、事故を起こしてしまってから責任を回避しようとする現場の体育教師や校長などでもなく)第三者によって事故の実態を解明・分析し、そうすることで柔道事故の実態を解明し情報を蓄積すれば事故の防止策も打つことができる、と指摘した[67]

2012年、文部科学省の外郭団体日本スポーツ振興センター名古屋支所が、同競技機関誌で掲載予定していた柔道の部活動や授業中の死亡事故への注意を呼びかける特集記事について、「中学の武道必修化が始まる前の掲載は慎重にすべきだ」という本部からの指摘を受けて不本意ながら掲載を見送った[68]

感染症[編集]

2001年頃から肉体の接触で皮膚感染するトリコフィトン・トンズランス感染症(白癬菌の一種、いわゆる水虫、タムシ)が柔道及び、レスリング競技者間での集団感染の例が報告されている。皮膚科などの専門医にて治療が可能[69]

外部リンク

耳介血腫[編集]

いわゆる「柔道耳」「餃子耳」、専門医にて治療可。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 『柔道教本』(1931年)では「単独練習」と「極式相対練習」と表記している[18]
  2. ^ 他の競技では原則として、準決勝で敗れた国・地域同士による対戦。競技により行われず3位が2カ国となるものもある。
  3. ^ 関連項目:未必の故意

出典[編集]

  1. ^ 『DVDシリーズ柔道パーフェクトマスター』16頁。
  2. ^ JOCウェブサイトより
  3. ^ 講道館師範嘉納治五郎先生遺訓「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防禦の練習に由つて身体精神を鍛錬修養し、斯道の神髄を体得する事である。さうして是に由つて己を完成し世を補益するが、柔道修行の究竟の目的である。」
  4. ^ [http://www.ijf.org/
  5. ^ 菊池智之「松平定信の武芸思想に関する一考察-新甲乙流への道程-」『武道学研究』第23巻第3号、1991年3月、pp.10-23
  6. ^ 杉山重利 編著『武道論十五講』pp.75
  7. ^ 井上俊『武道の誕生』pp.7
  8. ^ 女子柔道に世界の試練「型」より腕力が課題 朝日新聞 1979年12月19日朝刊15ページ
  9. ^ 講道館(1995)『決定版 講道館柔道』講談社 第9章当身技、142ページ
  10. ^ 『柔道手引草』 磯貝一 武徳会誌発売所、明治43年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860056/22
  11. ^ 『通俗柔道図解』 有馬純臣 岡崎屋、明治38年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860394/72
  12. ^ 『柔道大意』 有馬純臣 岡崎屋、明治38年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860055/62 。小手挫、首挫~足詰も上記三書に収載。
  13. ^ 講道館(1995)『決定版 講道館柔道』講談社 第9章当身技、144ページ
  14. ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社、1986年、110、111頁参照。
  15. ^ 嘉納治五郎「柔道概説」『嘉納治五郎大系』第3巻、本の友社、1987年、114頁参照。
  16. ^ 『嘉納治五郎大系』第8 本の友社、1988年、参照。
  17. ^ a b 嘉納治五郎「精力善用国民体育と従来の形と乱取」『嘉納治五郎大系』第8巻 本の友社、1988年、214-219頁。
  18. ^ 嘉納治五郎『嘉納治五郎大系』第3巻、本の友社、1987年、3頁参照。
  19. ^ 嘉納治五郎『嘉納治五郎大系』第3、8巻 本の友社、1987-1988年、参照。
  20. ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社、1986年、110、111頁参照。
  21. ^ 藤堂良明『柔道の歴史と文化』不昧堂、2007年、131頁参照。
  22. ^ 『球陽』第18号、1909年、沖縄県公文書館所蔵。高宮城繁・仲本政博・新里勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、736頁参照。
  23. ^ 山内盛彬・諸見里朝保「唐手部記録」『龍潭』創立四十周年記念沖縄県師範学校学友会、1911年。高宮城繁・仲本政博・新里 勝彦『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、735頁参照。
  24. ^ 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」、小沼保編著『琉球拳法空手術達人・本部朝基正伝(増補版)』壮神社、2000年、87頁参照。
  25. ^ 儀間真謹・藤原稜三『対談近代空手道の歴史を語る』ベースボール・マガジン社、1986年、110頁参照。
  26. ^ 藤堂良明『柔道の歴史と文化』不昧堂、2007年、133頁参照。
  27. ^ 『柔道大事典』p.214
  28. ^ 『嘉納治五郎著作集 第2巻』p.105
  29. ^ 『嘉納治五郎著作集 第2巻』p.18
  30. ^ 『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』理想の柔道教師 p.92
  31. ^ 『柔道の歴史と文化』藤堂良明 p.127
  32. ^ 神山典士『グレイシー一族に柔術を教えた男 不敗の格闘王 前田光世伝』祥伝社、『前田光世の世界制覇』巻末 前田光世・筆「余が経験せる西洋角力」、『冒険世界』1911年10月1日発行 前田光世・投稿「余が経験せる拳闘」
  33. ^ 藤堂 良明『柔道 その歴史と技法』
  34. ^ 藤堂 良明『柔道 その歴史と技法』
  35. ^ 『古流柔術――その術理と知られざる秘技』寺尾正充
  36. ^ 『嘉納先生傳』横山健堂
  37. ^ 『武道十五講』
  38. ^ 『[第1部・フランス](上)AWAZUの柔道50年』 『[第1部・フランス](下)エリート育成 国主導』
  39. ^ 『和英対照柔道用語小事典』
  40. ^ 『天神真楊流柔術極意教授図解』
  41. ^ 『柔道大事典』
  42. ^ 柔道チャンネル 『柔道用語辞典』
  43. ^ 桐生習作『柔道「慰心法j の導入と嘉納治五郎の思想』
  44. ^ “全日本柔道連盟50年誌 第四部資料編 日本柔道史年表”. 全日本柔道連盟公式ページ (全日本柔道連盟). http://www.judo.or.jp/shiru/rekishi 
  45. ^ a b c “読むキーワード -十段 柔道、12万人に1人-”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2006年3月7日) 
  46. ^ a b c d e 国際柔道連盟試合審判規定(2014-2016)
  47. ^ いきなり抱きつく攻撃はダメ、柔道に新ルール 読売新聞 2010年9月6日
  48. ^ 国際柔道連盟(IJF)試合審判規定改正 (PDF)
  49. ^ 柔道国際大会、1人審判を試験導入へ 連盟会長が明言 日本経済新聞 2012年11月30日
  50. ^ 柔道、「脚取り」全面禁止へ…国際大会新ルール 読売新聞 2012年12月10日
  51. ^ ENG-Refereeing-Rules-2013-2016
  52. ^ 女子は4分間に短縮=柔道新規則 時事通信 2013年11月28日
  53. ^ 【柔道】国際連盟、柔道以外の格闘技大会出場禁止を通達 石井慧にも影響か スポーツ報知 2014年12月10日
  54. ^ 柔道の安全指導 2011年第3版 8-12頁 全日本柔道連盟
  55. ^ 遺族の思い、柔道界動かす 滋賀の柔道部員死亡から2年 asahi.com 2011年8月24日
  56. ^ 柔道のリスク知って 中学で必修化控えシンポ 滋賀 asahi.com 2011年11月28日]
  57. ^ 記憶・言語障害や視野狭窄…柔道練習で後遺症、学校側に賠償命令 読売新聞 2015年8月20日
  58. ^ http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2781906/6629423
  59. ^ 内田良「柔道事故ー武道の必修化は何をもたらすのかー学校安全の死角4(pdf)
  60. ^ 中高生114人、柔道で死亡していた…名大調査 (2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧
  61. ^ (講道館 昭和54年3月1日発行『柔道』平成10年8月号 第69巻 第8号 50頁~54頁 加藤俊雄著「昭和41年に考案したヘッドサポーターとその使用実態」)、(大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 44頁~46頁 加藤俊雄著「ヘッドサポーターの考案とその効果」)
  62. ^ 大阪府柔道連盟昭和54年3月1日発行『大阪の柔道』第2号 30頁 岩井邦利(大阪体育協会スポーツ少年団本部長)著 「スポーツ少年柔道について」
  63. ^ [2009年7月 http://judojiko.net/news/364.html 滋賀県愛荘町立秦荘中学校柔道部の事故]では、第1回口頭弁論の段階では町側は過失について争う姿勢を見せていた(町側が過失認める 愛荘の中学生柔道部員死亡訴訟京都新聞 2012年01月24日 22時30分)(中学柔道部死亡事故で元顧問の過失認める 滋賀・愛荘町 朝日新聞 1/25)
  64. ^ (2011年度) http://www.judo.or.jp/data/docs/print-shidou.pdf
  65. ^ 柔道部練習で高2が首脱臼、首から下が不随に(2012年1月18日 読売新聞)2012年1月30日閲覧
  66. ^ “柔道事故 死亡ゼロが続いていた――マスコミが報じない柔道事故問題「改善」の事実”. BLOGOS. (2014年12月7日). http://blogos.com/article/100654/ 2014年12月7日閲覧。 
  67. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p NHKクローズアップ現代 「“必修化”は大丈夫か 多発する柔道事故」20120206 [1]
  68. ^ http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120125/k10015523971000.html 柔道事故への注意記事 掲載見送り 1月25日 16時27分 2012年1月30日閲覧
  69. ^ 公益財団法人 全日本柔道連盟<タムシ>「皮膚真菌症(感染症)について」 Q & A http://www.judo.or.jp/data/data-shinkin.php

参考文献[編集]

関連項目[編集]

柔道家・技・用語[編集]

柔道を扱った作品[編集]

   姿三四郎(監督・黒澤明)映画 1943-

   續姿三四郎(監督・黒澤明)映画 1945-

   姿三四郎 (映画) 他、1955年版 配給東映、1965年版 配給東宝、1970年版 配給松竹、1977年版 配給東宝 と映画化されている。

   姿三四郎 (テレビドラマ) (6度にわたりテレビドラマ化されている。)

         (・1957年版 KRテレビ(現・TBSテレビ) 全32回 

         ・1962年版 NHK 全4回 

         ・1963年版 フジテレビ系 全26回 

         ・1970年版 日本テレビ系 全26回+総集編1回 

         ・1978年版 日本テレビ系 全26回 

         ・2007年版 テレビ東京系 スペシャルドラマ               

   姿三四郎(作画・本宮ひろし)漫画 1976-

   姿三四郎(キャラクターデザイン・モンキーパンチ 東京ムービー新社)アニメ 1981

   姿三四郎(キャラクターデザイン・ちばてつや 日本アニメーション)アニメ 1986

   柔俠伝・昭和柔俠伝・現代柔俠伝・男柔俠伝・日本柔俠伝・新柔俠伝

  (生誕編、熱闘編、風雲篇、怒濤編、躍進編、雄飛編)

外部リンク[編集]

公式
その他