テコンドー

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テコンドー
テコンドー
WT テコンドーのスパーリング競技
WT テコンドーのスパーリング競技
別名 跆拳道
競技形式 一対一対戦
使用武器 なし
発生国 大韓民国の旗 大韓民国
源流 松涛館空手
流派 WTF, ITF
主要技術 蹴り(突きも一部認められる)
オリンピック競技 あり (2000年 - )
  
テコンドー
各種表記
ハングル 태권도
漢字 跆拳道
発音 テックォンド
日本語読み: たいけんどう
2000年式
MR式
英語
Taegwondo
T'aekwŏndo
Taekwondo, Taekwon-Do
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テコンドーまたは跆拳道(たいけんどう)は、韓国で創始されたスポーツ格闘技の一種である。日本松涛館空手をルーツとしており、空手と比べて多彩な蹴り技が特徴。「跆拳道」の「跆」は、踏む・跳ぶ・蹴る等の足技、「拳」は突く、叩く、受ける等の手技、「道」は武道を意味する。2016年の時点では世界206ヶ国に普及しており、競技人口は7000万人を数える[1]大韓民国国技となっている。

概説[編集]

テコンドーが発達してきた過程には「伝統」と「スポーツ」の2つの側面がある。これらはいずれも不可欠であり、その境界線はしばしば曖昧でもある。

  • 「伝統としてのテコンドー」は、1950年代から1960年代にかけて韓国の軍隊で定着化した格闘技としての部分や、韓国の歴史に因んだ名称や象徴を多く持つ「」に見られる。
  • 「スポーツとしてのテコンドー」は、1950年代以降の数十年の間に確立された現代的な部分、すなわちスピード性や(オリンピックのスパーリングにあるような)競技性に見られる。

ITFWTF、の2つの系統や、派生団体の間には教義・技術面での違いこそあるが、脚力と脚のリーチを生かした移動姿勢からの蹴り技に重点が置かれている点は共通している。最も明確に両団体の違いを見て取れるのは、競技としてのスタイルとルールの違いである。テコンドーのトレーニングでは主として防御、蹴り、突き、手刀を身に着ける。一部の道場や教室では、ハプキドーやハンムドーといった護身術も指導されている。

具体的な競技人口は1980年代末の時点でITFに約1,500万人、WTFに約3,000万人の合計、約4,500万人である[2]。アメリカなどでは「KARATE」の看板が掲げられていても、実際に道場に入ってみると韓国国旗を掲げて、テコンドーをしているというケースにジャーナリストの岩上安身も遭遇しており、実際の競技人口は公称よりも多いという[2]。日本テコンドー協会(WTF系)の島田明男によると東洋の武道の中で最初に欧米に渡ったのが空手であるため、東洋の格闘技=空手のイメージが強く、テコンドーを教えていながらも空手を名乗っている道場が多くあるという[2]。テコンドーがアメリカに入ったのは1960年代で、その後急速に普及していき、島田が渡米してテコンドーと出会った時点での普及率は約50%、現在(1987年時点)では全米の武道人口のうち70%をテコンドーが占めているという[2]。 また、島田は自身がテコンドーの前に空手をしていた経験から武道としての実戦性をみれば日本の空手は凄まじいものがあるが、テコンドーを実戦性で空手などの日本の武道と比較する意味はなく、テコンドーは純然たるスポーツ競技だと述べている[2]。 ITF系は初期のテコンドーを受け継いでおり武道としての色彩が濃いが、WTF系は、オリンピック競技化を明確な目標として実戦性を犠牲にしてでもスポーツとしての面白さ、分かりやすさを追求していった[2]。また、当時、普及度において先行していた空手がIOC(国際オリンピック委員会)に承認されれば類似するテコンドーのオリンピック競技化は困難となるため、韓国はテコンドーのスポーツ化をすすめると同時に国家的なバックアップのもと、指導者と選手を育成して海外普及に努めた[2]。その結果、1970年の時点で統一組織をつくり、世界大会を開催していた空手を追い上げ、73年に世界大会を開催、80年にはIOCに加盟し、86年のアジア大会で空手に先んじて正式競技となり、88年のソウルオリンピックではオープン種目として採用されることになった[2]。 「武道としての実戦性を犠牲にしても、スポーツとしてのわかりやすさ、面白さを追い求めていった韓国の戦略が、伝統に固執する日本の空手を引き離してしまった」と岩上は結論付けている[2]

歴史[編集]

1955年4月11日、「テコンドー」という名称は崔泓熙(チェ・ホンヒ) が日本留学中に学んだ松涛館空手を元に独自の工夫を加えて、正式に命名された[3]

「テコンドー」命名以前[編集]

1940年代中盤の朝鮮半島では韓国併合後に日本から伝わった空手が「コンスドー(空手道)」、「タンスドー(唐手道)」などの呼称で普及しはじめた。当時の主な道場勢力は以下の通りである。

  • 青涛館(1944年 - )
    初代館長は李元国(イ・ウォングク)で、日本留学中に松武館の盧秉直とともに松濤館へ入門、船越義珍に師事。朝鮮戦争勃発時、軍の召集を拒み日本へ密航した。青涛館の分館として4つの道場が派生した。
  • 吾道館
館長は崔泓熙(チェ・ホンヒ)陸軍少将。軍隊内でその教義を広め、民間道場とは一線を画していた。「テコンドー」の名称が決まるまでは自らの雅号「蒼軒」に因んで「蒼軒流唐手」と称していた。ベトナム戦争時は657名のテコンドー師範を同地に派遣した。
  • 国武館
  • 正道館
  • 青龍館
  • 松武館(1946年 - )
    館長は盧秉直(ノ・ピョンジク)。日本留学中に青涛館の李元国とともに松濤館へ入門、船越義珍に師事。後に大韓テコンドー協会の第5代会長に就任。
  • 朝鮮研武館空手道部 / 智道館(1946年 - 1967年
    館長は田祥燮(チョン・サンソプ)。柔道道場内に発生。後年、智道館に改称。
  • YMCA拳法部 / 彰武館(1946年 - )
    館長は尹炳仁(ユン・ピョンイン)。後に智道館と親交を深める。後年、彰武館に改称。この分館として講徳院、韓武館等がある。
  • 武徳館
    館長は黄琦(ファン・ギ)。鉄道局内のクラブとして発生。黄琦は南満州中国武術を学んだとしている。後に「手搏道(スバクドー)」の名称で普及、大韓手搏道会の前身にあたる。

「テコンドー」命名[編集]

1950年代、韓国内の武道団体統治の動きは武道自体の名称統合の流れを生み、「テコンドー」が命名される。国政の動乱の中で一度は解体されるも、命名者崔泓熙の活動により復活を果たす。

  • 1950年 - 朝鮮戦争が勃発。臨時首都のあった釜山で「大韓空手道協会」が創立される。中央審査委員の資格が付与されないことを理由に、武徳館館長の黄琦と青涛館館長の孫徳成(ソン・トクソン)が脱退。
  • 1953年 - 黄琦、「大韓唐手道協会」を独自に発足。
  • 1954年 - 崔泓熙陸軍少将を含む第29歩兵部隊が李承晩大統領の前で演武を行う。空手を知らない大統領はテッキョンと断定したままこれを賞賛、軍内での普及を宣言。崔泓熙は反日の立場を取る大統領に向かって日本の武道である空手とは言えず、またテッキョンとも違うことから自らが創始した武道であると伝える。

これは当時の軍国・民族主義的風潮への配慮(空手が日本を想起させる、現在に至る反日教育下)もあったため名目上テッキョンの名前を利用した。武道としては空手の派生であるとされる。

  • 1954年12月 - 崔泓熙、自らが訓練してきた武道の名称を「テコンドー(跆拳道)」に決定。
  • 1955年4月11日 - 崔泓熙が名称制定委員会を招集、テコンドーの名称が李承晩大統領によって公式に認定される。
  • 1959年9月3日 - 崔泓熙、大韓空手道協会を「大韓テコンドー協会」に改称。
  • 1960年 - 李承晩大統領が経済政策に失敗し、4·19革命で国外に追われる。黄琦、大韓唐手道協会を「大韓手搏道会」へと改称、大韓民国文教部体育会への登録を果たす。
  • 1961年 - 崔泓熙の後輩にあたる朴正煕らによって引き起こされた5·16軍事クーデター後、政権が朴正煕が率いる国家再建最高会議に掌握される。新政権樹立後、以前の文教部登録が無効となり、国家再建最高会議が団体の文教部への再登録を求めたことから再び統一名称問題が持ち上がる。
  • 1961年9月 - 名称統合会議が開催され、テコンドーの「跆(テ)」と空手の「手(ス)」を繋いだ「跆手道(テスドー)」という名称に決定。組織名は「大韓テスドー協会」に改称される。
  • 1962年 - 蔡命新中将が初代大韓テスドー協会会長に就任。黄琦、智道館の尹快炳(ユン・ケビョン)を伴い、大韓テスドー協会から正式に脱退。崔泓熙、軍職を解かれマレーシア初代韓国大使に任命される。
  • 1964年 - 韓国に帰国した崔泓熙は大韓テスドー協会の会長に就任。テコンドーの名を復活させる活動を開始。
  • 1965年 - 崔泓熙、英文によるテコンドーの教本を発刊。
  • 1965年3月18日 - 崔泓熙、統合宣言式を開催し「大韓テコンドー協会」を主張。式には黄琦も参加したが統合の無効を主張、独自に「大韓手搏道会」を活動させる。
  • 1965年8月5日 -大韓テスドー協会、「大韓テコンドー協会」に改称される。

系統の分岐[編集]

再び会長職についた崔泓熙も1年あまりでその地位を退き、新たに創立された国際テコンドー連盟 (ITF) の総裁に就任。一方、大韓テコンドー協会は韓国国技を担う位置付けを獲得していく。こうしてテコンドーは2つの系統に分かれて発展していくことになる。

  • 1966年 - 崔泓熙、大韓テコンドー協会会長を理事らによる不信任によって退陣。第5代会長に松武館館長の盧秉直(ノ・ピョンジク)が就任。同年、韓国、アメリカ、西ドイツ、イタリアなど9カ国の組織の承認を得て、国際テコンドー連盟(ITF)が創設され、総裁に崔泓熙が就任。式典はソウルの朝鮮ホテルで行われた。
  • 1967年 - 朴正煕大統領の意思の下、大統領警護室補佐官の金容彩が大韓テコンドー協会の第6代会長に就任。
  • 1968年 - 大韓手搏道会、ソウルで第1回世界大会を開催。
  • 1971年 - 朴正煕大統領により、テコンドーが国技の揮毫を受ける。
  • 1973年 - 世界テコンドー本部総本部道場国技院が開館。同年、崔泓熙がカナダへ亡命、その際ITF本部をトロントへと変更し、これを受けて韓国が独自に世界テコンドー連盟 (WTF)を設立。
  • 1973年5月 - WTF、ソウルで第1回世界大会を開催。
  • 1974年10月 - ITFカナダモントリオールで第1回世界大会を開催。
  • 1980年10月 - ITFテコンドーが北朝鮮へ普及開始、これを機に旧東側諸国への普及が本格化する。

オリンピック競技化[編集]

1970年代に韓国国技の位置付けを確立したWTFテコンドーは、1980年代に入りオリンピック競技化への一途を辿ることとなった。

近年[編集]

団体[編集]

テコンドーの主要団体として、ITFと、WTF の2つがあり、異なるシステム(級位・段位等)とスタイル(技、型、試合ルール等)を持っている。また、特に欧米ではいずれかにルーツを持ちながら独自に派生した新興団体も一部存在する。

ITF[編集]

ITF の代表的なスタイルの防具

国際テコンドー連盟 (International Taekwon-Do Federation) は、1966年3月22日に9ヶ国の承認を受けて韓国のソウルで発足し、初代総裁は崔泓熙が務めた。ライトコンタクト制のルールで、下段攻撃は禁止されているが顔面への拳攻撃は許容されている。防具は手足のみに着用し、ベースとなった空手により近い。

1974年10月、ITF第1回世界大会開催(カナダモントリオール)。以後、2009年まで16回の世界大会を開催。

2002年、初代総裁の崔泓熙没後、ITFはトラン・クァン派張雄派崔重華派の3派に分裂。

2010年、2010年ハイチ震災でトラン・クァン派ITF総裁没後、新総裁に副総裁であった9段師聖パブロ・トラステンバーグ(アルゼンチン国籍)が選出された。

2015年、張雄派のITF総裁に朝鮮テコンドー委員会副委員長リ・ヨンソンが選出された。

ITF三派[編集]

崔重華派[編集]

初代総裁崔泓熙が生前、越権行為を理由に除名した息子の崔重華(チェジュンファ/カナダ国籍)を総裁とする派閥。後に韓国派とに分裂。3派後継団体中その大会規模は小規模傾向にある。(2010年現在)

張雄派[編集]

崔泓熙が故郷の地であった朝鮮で死去後、その「遺言」を根拠に臨時特別総会をもって選出された朝鮮国籍のIOC理事である張雄(チャンウン)を総裁とする派閥。WTFとの統合案が暗礁に乗りあがり、旧来の南系師範が離脱している。大会開催国の傾向として旧東側諸国が目立つ。

トラン派[編集]

朝鮮での張雄(チャンウン)の総裁選出方法がITF憲章違反であるとし、従来の定期総会をもって選出された8段師賢トラン・トリュウ・クァン(カナダ国籍)を総裁とする派閥。3派後継団体中その大会規模が最も大きく大会開催国の傾向として欧米旧西側諸国に集中。(2016年現在)

WTF[編集]

WTF の公式防具 (胴、上腕、脛部用)

世界テコンドー連盟 (World Taekwondo Federation) は、1973年5月28日韓国国技院でおこなわれた設立会議を以って設立。限定フルコンタクト制のルールだが、防具は手足のみならず頭部、胴部にも着用する等安全性が考慮され、よりスポーツ性が高い。また、下段攻撃(ローキック等)や顔面への拳攻撃は禁止されており、連続の突きは点数にならないなど、より蹴り技に重点が置かれている。「足のボクシング」とも形容される[4]

オリンピック正式種目になっているのはスパーリング競技(キョルギ)のみだが、世界選手権では(プムセ; 品勢)、試割(キョッパ; 撃破)等の種目もおこなわれている。

日本における主要団体[編集]

日本国内での主要団体として、WTF の全日本テコンドー協会(AJTA)、全日本テコンドー連盟(AJTF)、ITFの(社)日本ITFテコンドー協会と北朝鮮派の日本国際テコンドー協会、他に分裂を繰り返す小規模団体(いずれも略称ITF-JAPANを使用)が存在し、また日本の ITF から派生した 日本テコンドー協会(JTA)が存在する。

WTF[編集]

  • 1999年 - 日本の主力WTF団体間の吸収合併がおこなわれるなど、主要な団体間での協力体制が樹立された。
  • 2004年 - 日本の主力WTF団体が2勢力に分裂。
  • 2005年 - 社団法人全日本テコンドー協会(AJTA)が設立。
  • 2006年 - 日本のWTF団体の統合が進む。
  • 2014年 - 福島や熊本など現執行と対立するテコンドー協会が一般社団法人全日本テコンドー連盟(AJTF)を新設。

ITF[編集]

  • 1982年 - 総裁崔泓熙が師範パク・チョンテをカナダから日本に派遣、東京府中市に初のITFテコンドー府中道場が誕生し、日本の普及が開始される。
  • 1983年7月4日 - ITF より認可を受け、日本国際テコンドー協会(JITF、初代会長全鎮植)が設立。
  • 2001年 - 日本国際テコンドー協会から日本テコンドー協会(JTA)が派生・独立。「フルコンタクト・テコンドー」を掲げ、独自に発展した。
  • 2004年 - ITFが3つに分裂した後、これに伴い日本のITFも分裂。分裂後に設立された団体は、(社)日本ITFテコンドー協会(トラン派)、国際テコンドー連盟日本協会(チェジュンファ派)。その後、四分五裂し小規模化を余儀なくされている。

主な選手[編集]

※引退もしくは他競技に転向した人物も含む。

WTF[編集]

ITF[編集]

  • 金省徳(キム・ソンドク)
    七段。1990年の世界選手権ミドル級準優勝、1990年~92年にかけ、全日本テコンドー選手権大会・ミドル級3連覇、(他国内外にて入賞多数)。
  • 尾崎圭司
    三段。2000〜2002全日本大学テコンドー選手権大会・フルコンタクト無差別級優勝。神奈川大学テコンドー部出身。後に「K-1」や「Krush」などの立ち技格闘技にも参戦。
  • 厳斗一(オム・ドゥイル)
    五段。1988年世界テコンドー選手権大会・団体型の部金メダリスト、2001年全日本テコンドー選手権大会・ライト級優勝(他多数)。
  • 朴禎賢(パク・チョンヒョン)
    六段。1991年全日本テコンドー選手権大会・マイクロ級優勝、2012年ITF世界ベテラン・テコンドー選手権大会・64キロ級優勝(他多数)。
  • 黄秀一(ファン・スイル)
    七段。1992年世界テコンドー選手権大会・ライト級優勝、2010年ITF世界ベテラン・テコンドー選手権大会・ライト級優勝(他多数)。

その他の人物[編集]

[編集]

テコンドーには空手と同様に「」がある。ITFの型は「トゥル」、WTFの型は「プムセ(品勢)」と呼ばれる。

ITF[編集]

ITFには24の型(トゥル)があり、その名称は、朝鮮半島の歴史や神話の人物に因んだものとなっている。「サインウェーブ」と呼ばれる、移動時に上下に波打つ独特の動作が特徴。

  • 9級〜1級 - 天地(チョンジ)、檀君(タングン)、島山(トサン)、元曉(ウォニョ)、栗谷(ユルゴク)、重根(チュングン)、退渓(テェゲ)、花郎(ファラン)、忠武(チュンム)
  • 初段から - 廣開(クワンゲ)、圃隠(ポウン)、階伯(ケベク)、義菴(ウィアム)、忠壮(チュンジャン)、主体(チュチェ)、三一(サミル)、庾信(ユシン)、崔瑩(チェヨン)、淵蓋(ヨンゲ)、乙支(ウルチ)、文武(ムンム)、西山(ソサン)、世宗(セジョン)、統一(トンイル)

WTF[編集]

WTFの型(プムセ)には、章立てされた「太極(テグ)」や、韓国の地名に因んだ名称を持つ「高麗(コリョ)」「金剛(クムガン)」などがあり、国技院による統一教本に準じて標準化されている。

  • 8級〜1級 - 太極 1章〜8章 = (八卦の型)
  • 初段から - 高麗(コリョ)、金剛(クムガン)、太白(テベク)、平原(ピョンウォン)、十進(シップシン)、地跆(チテ)、天拳(チョンゴン)、漢水(ハンス)、一如(イルリョ)

オリンピック競技テコンドー[編集]

2000年シドニーオリンピックWTFテコンドーが正式競技種目として採用された際、競技開催上の変更・制約が適用された。

  • 階級の集約。本来、WTFテコンドーには男女それぞれ8階級存在するが、それぞれ4階級(男女あわせて8階級)に集約された。
  • 国ごとの出場枠の設定。1ヶ国の代表選手数は男女それぞれ2名までに制約された。その結果、韓国がメダルを独占していた状況から転じて、多彩な国々がメダルを獲得することとなった。オリンピックでこのように国ごとの出場枠が設定されている競技はテコンドーのみである。なお、2016年のリオデジャネイロオリンピックからは派遣可能な人数は最大5名となった。

起源[編集]

テコンドーの源流には日本の空手がある。創始者である崔泓熙は松涛館空手を学んでテコンドーを創始したとしている。また、韓国の国技院副院長はテコンドーは空手から派生したものであり、蹴りを主眼に置いて競技化したことで空手との差別化を図ったとしている。[5][6]

テコンドーの起源を韓国の古武術テッキョンに求める見方もあったが、韓国の伝統武術として普及させることを名目に宣伝されてきた経緯に依るところがある。[7]李氏朝鮮時代にはは盛んだったものの、文尊武卑体制化により武は軽視されており[8]、テコンドーの前身となる武道の普及が活性化した1940年代中盤の朝鮮半島に独自の武術が残っていたという裏付けはない。

テコンドーを扱った作品[編集]

漫画[編集]

テレビ番組[編集]

映画[編集]

  • テコンV』 - 1976年から韓国で劇場公開されたロボットアニメシリーズ。主人公がテコンドーの世界チャンピオンという設定で、彼が乗り込む巨大ロボット「テコンV」もまたテコンドーの技を駆使して戦う。日本の『マジンガーZ』に酷似していると言われている。
  • 『The Kick』 - 2011年公開の韓国・タイ合作映画で、邦題は『チョコレート・バトラー』。ただし、日本では劇場未公開。WTFテコンドーが題材に扱われた。
  • 『テコンドー魂 〜Rebirth〜』 - 2014年公開の日本映画で、日本国内では初の本格テコンドー映画。ITFテコンドーの全面協力によりアクション内容が作成された。主演俳優の井上正大は、元々前述の朴禎賢に師事したITFテコンドーの有段者であり、撮影にあたっては共演者も同様にテコンドーの指導を受けている。冒頭の大会試合の場面は、実際の全日本大会会場でロケが行われ、黄秀一などの技術指導関係者もエキストラとして参加している。

テレビゲーム[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ テコンドー発展の歩み - AJTA 全日本テコンドー協会
  2. ^ a b c d e f g h i 岩上安身世界を席巻するか"テコンドー"[リンク切れ]「スポーツ批評 4」窓社 1987年
  3. ^ International Taekwon-Do Federation Taekwon-Do History[リンク切れ]
  4. ^ 社団法人全日本テコンドー協会, テコンドーという競技, http://www.ajta.gr.jp/taekwondo/index.html [リンク切れ]
  5. ^ dongA.com 新東亜 (2004-10-27), 李ゾンウ国技院副院長、「テコンドーの歴史」衝撃告白!, 東亜日報, http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2004/10/27/200410270500063/200410270500063_1.html 2010年2月4日閲覧, "中国から日本へ入り、日本が改良して韓国へ入ってきた。テコンドーは空手の変形である。" 
  6. ^ dongA.com 新東亜 (2004-10-27), 李ゾンウ国技院副院長、「テコンドーの歴史」衝撃告白!, 東亜日報, http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2004/10/27/200410270500063/200410270500063_1.html 2010年2月4日閲覧, "空手から派生したテコンドーだが、蹴りを主眼に置いて競技化したことで、型や手動作に重きを置いた空手の陰から脱した" 
  7. ^ dongA.com 新東亜 (2004-10-27), 李ゾンウ国技院副院長、「テコンドーの歴史」衝撃告白!, 東亜日報, http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2004/10/27/200410270500063/200410270500063_1.html 2010年2月4日閲覧, "私も創始期にはテコンドーの起源をテッキョンとして本を執筆したことがあるが、海外に普及させる過程で昔からあった韓国の伝統武術だとすれば名分が立つからである。" 
  8. ^ Dr. Steven D. Capener PhD (1995), Problems in the Identity and Philosophy of Taegwondo and Their Historical Causes, Korean Journal, http://assets.teamusa.org/assets/documents/attached_file/filename/5008/HistoryofTaekwondo.pdf 2010年2月4日閲覧, "during the last half of the Choson dynasty, physical activity, especially of a martial nature, became all object of scorn and a sign of low breeding as seen in the royal court attitude of valuing learning and disregarding martial skill." 

関連記事[編集]

外部リンク[編集]