ウィルタ
Uilta, Orok | |
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ウィルタ民族 | |
総人口 | |
推定346人(ロシア国内) | |
居住地域 | |
ロシア(サハリン州/北樺太)、日本(網走市、札幌市) | |
言語 | |
ロシア語、ウィルタ語、日本語 | |
宗教 | |
正教、シャーマニズム | |
関連する民族 | |
アイヌ、ニヴフ、ウリチ、ナナイ |
ウィルタ(ウィルタ語: уилта、ロシア語: Ороки)は、樺太東岸(中部・幌内川と北部・ロモウ川の流域)の民族で、ツングース系である。アイヌからはオロッコ (Orokko) と呼ばれた。本来の言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語である。なお、言語学者を中心にUiltaを「ウイルタ」と書くこともある。
概要[編集]
樺太東岸、中部の幌内川と北部のロモウ川の流域に暮らし、シベリアのツングース系諸族と交流(山丹交易)をもったほか、樺太北部のニヴフ、南部のアイヌとも交易をしていたと伝えられている。
第二次世界大戦前に日本領だった南樺太に居住していたウィルタは樺太戸籍に登録されて樺太土人として扱われて内地人と区別されていたが、日本国籍を持っていた。太平洋戦争末期、南樺太はソビエト連邦に占領され、戦後、ウィルタの一部は北海道(網走市など)へ移住するなどした。日本では終戦後の1945年に樺太戸籍にあったウィルタの参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。
下記の「日本のウィルタ人一覧」にある通り、その文化を伝える活動をした人もいた。1978年の時点では網走市に6世帯13人いたという調査結果が得られている。
ウィルタが守り神としていた木偶の制作を受け継いでいる大広朔洋によると、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの義妹であった北川アイ子が2007年に死去して以降、日本にウィルタを名乗る人はいないという[1]。
ロシア連邦による2002年(平成14年)の国勢調査によると、346人がオホーツク海沿岸の樺太北部および南部のポロナイスク(旧敷香町)近郊に居住している。
歴史[編集]
日本には、江戸時代に樺太を踏査した間宮林蔵の報告によって知られた。
1975年(昭和50年)には、ウィルタ民族の人権や戦後補償の問題を解決する趣旨によりオロッコの人権と文化を守る会が設立、翌年12月にウィルタ協会が設立された。
生活[編集]

ウィルタの特徴的な生業は元来、トナカイ牧畜や狩猟、漁労であった。ただギリヤークにくらべると山での生活が多く、漁撈は少ないことが昭和10年代のサハリンを調査した研究者によって報告されている[2]。
伝統的住居はエヴェンキ(キーリン)やオロチョンなど他のツングースと同様、比較的細い木の幹の柱を何本も組んで、外部を毛皮で覆った円錐形の天幕式住居であった。
衣服の内、肌の上に着る物は、魚皮で作っていた。キツネの皮を利用した手袋なども用いていた。
「イルガ」と呼ばれる切り紙模様の文化がある[3]。
日本のウィルタ民族の著名人[編集]
- 北川ゴルゴロ・・・日本名:北川 五郎、ウィルタ名:Daxinnieni Gorgolo、1899年頃 - 1978年 シャーマン。樺太出身。
- 佐藤チヨ・・・ウィルタ名:ナプカ、1910年? - 1985年)釧路市で死去。
- ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ・・・日本名:北川源太郎、ウィルタ語名:Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu, 1926年頃(戸籍上:1924年(大正13年)3月17日) - 1984年7月8日)民族研究家。樺太出身。
脚注[編集]
- ^ a b 大広朔洋「北方民族の祈りを彫る◇ウィルタ族の木偶モチーフ 網走で制作続ける◇」『日本経済新聞』朝刊2018年7月19日(文化面)2018年9月12日閲覧
- ^ 犬飼哲夫『北方文化研究報告第四輯 樺太オロッコ海豹猟』北海道帝国大学、1941年、P.17。
- ^ 7つの海と手しごと《第5の海》 「オホーツク海とウイルタのイルガ」 - 世田谷文化生活情報センター 生活工房
参考文献[編集]
- 『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』(田中了、D.ゲンダーヌ、現代史出版会、1978)
- 『新サハリン探検記』(相原秀起、社会評論社、1997)
- 『トナカイ王 北方先住民のサハリン史』(N.ヴィシネフスキー、小山内道子訳、成文社、2006)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ウイルタ協会のブログ - ウェイバックマシン(2019年11月1日アーカイブ分)
- ジャッカ・ドフニ(北海道水産林務部水産局水産経営課 漁村ふれあい検索)
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