シベリア抑留

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シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した[1]。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている[2]

背景[編集]

ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった[3]スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56 %が死亡した[4]

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談ウィンストン・チャーチル炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[5][6]ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[7]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年ジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[8]。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[9]

経緯[編集]

ソ連軍侵攻と停戦[編集]

第二次世界大戦末期の1945年昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連・アメリカイギリスヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順租借権の回復および大連港や中東鉄道南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[10]

日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった[11]

抑留の決定[編集]

スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[12]

関東軍密約説[編集]

8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦彦三郎の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという[13]。また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという大本営参謀・朝枝繁春本人は、この文書が偽造されたものであると主張している[14]

なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長・斎藤六郎や近代史が専門のノンフィクション作家・保阪正康らによって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。またこの交渉に同行した瀬島龍三は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している[15]

北海道代償説[編集]

8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道分割占領留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい[16]

移送[編集]

占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。

日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、絶望したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び、捕虜を貨車に乗せたという。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。

一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[17]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[18]

移送先[編集]

シベリア以外にも、モンゴル中央アジア北朝鮮カフカス地方バルト三国ヨーロッパロシアウクライナベラルーシなどソ連の勢力圏全域や中華人民共和国にも送り込まれたという証言があるが、ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。[19] 日本政府による遺骨収集がソ連国内数か所において許可されているので、その進展にしたがいより正確な収容所拠点、抑留者数、死亡者数が解明されることと期待される。[20]

ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。厚生省作成地図には各地点の抑留日本兵の動員数、死亡者数が含まれるが、地名はカタカナのみで記されてあったため、米国、英国ならびにソ連において発行されたソ連地図を参照し、地名を特定した。 (厚生省援護局。「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省。1976年。p56。厚生省社会・援護局50年史編纂委員会。「ソ連邦・モンゴル(外蒙古)内各地点死亡者発生状況概見図」『援護50年史』。ぎょうせい。1997年。pp524-525。 A)Union of Soviet Socialist Republic. Compiled and drawn in the Cartographic Section of the National Geographic Society for the National Geographic Magazine. Grovesnor, Gilbert. Ed. Washington. U.S.A. 1944. B)U.S.S.R.and Adjacent Areas 1:8,000,000. Published by Department of Survey, Ministry of Defense, United Kingdom. British Crown Copyright Reserved Series 5104. U.K. 1964. C)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U. K. 1973. D)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U.K. 1976. E)Soviet Union. Produced by the Cartographic Division. National Geographic Society. National Geographic Magazine. Grovesnor, Melville B. Ed. Washington. U.S.A. 1976. F)Union of Soviet Socialist Republic. Moscow News Supplement. Main Administration of Geodesy and Cartography under the Council of Minister of the USSR. U.S.S.R. 1979.)

収容所での生活[編集]

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[21](犠牲者数に関しては後述)。

一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として「日本しんぶん」が発行された。 「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった(シベリア天皇浅原正基[22]袴田陸奥男[23] [24])。また日本共産党委員長志位和夫伯父志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる[25]

共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊し上げや露骨な暴行を行った[26]。抑留中に起きた事件として「暁に祈る」事件がある。

共産主義の労働ノルマに対する報酬資本主義との違いゆえ、捕虜達の中にはストライキを起こした例もある[27]

ハバロフスク裁判[編集]

1949年12月に戦犯裁判としてハバロフスク裁判が行われ、関東軍司令官の山田乙三731部隊が裁かれた。ボンダレンコはこのハバロフスク裁判について国際法違反だと述べている[28]

日本側の対応[編集]

1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。

1952年(昭和27年)に緑風会高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている[29]

1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭いを、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、記者会見国会での報告で「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」などと虚偽の説明を行った。元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追求を受けている[30][31]

帰国[編集]

1947年(昭和22年)から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。

1950年(昭和25年)には、一部の引揚者の帰国が遅れたのは日本共産党書記長徳田球一の要請として、国会で問われた徳田要請問題が起こった。

中華人民共和国への移管[編集]

最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者もおり、洗脳による「改造」教育が行われた[32]

ソ連への残留[編集]

また、ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、などで帰国せずにソ連に残留して帰化した例(川越史郎など)もある[33]。ソ連にとどまった総数は約1,000人とみられ、2017年(平成29年)時点でもロシア北西部レニングラード州に、満州国軍軍曹北海道出身の田中明男が存命であることが明らかになった。田中の回想によると、1950年代に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として迫害抑圧)される」と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたという[34][35]

犠牲者数[編集]

ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[36]。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[37]

日本の厚生労働省は2017年(平成29年)現在でも、ロシア連邦などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の氏名などの名簿更新を続けている[38]

賃金未払い問題[編集]

国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[39]

国家賠償訴訟

シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年(平成21年)10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[40]

シベリア特措法

旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年(平成22年)5月21日に本会議で可決。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される[41][42]

遺骨収集事業[編集]

冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、遺骨収集事業が進められ、遺骨のDNA型鑑定などによって2010年(平成22年)までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡された[43]

現地慰霊碑[編集]

厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている。

ロシア[編集]

ウズベキスタン共和国[編集]

グルジア共和国[編集]

被害者・関連団体[編集]

  • 全国抑留者補償協議会(全抑協 1979年結成、シベリア特措法成立と会員の高齢化により2011年5月解散)
  • 近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会
  • 財団法人全国強制抑留者協会

抑留者による記録[編集]

当事者による手記(小説は除く)
  • 伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、文芸社ISBN 9784835539515
  • 井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社) ISBN 9784286032665
  • 乾常美『捕虜の文化』(所収『捕虜体験記(3)ウラル以西篇』ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編、平文社、1984年(初版)、1998年(重版))
  • 井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社) ISBN 4286085600
  • 今川順夫『私のシベリア抑留 地獄の記録 - 負けてたまるかの奮闘記』(2011年、岐阜新聞社ISBN 9784877971663※品切れ
  • 内村剛介『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』(1967年、講談社 / 講談社文芸文庫ISBN 4061982605※品切れ
  • 宇野宗佑『ダモイ・トウキョウ』(1982年、シベリア抑留叢書)※品切れ
  • 蝦名熊夫著・蝦名賢造編纂『シベリア捕虜収容所 四年間の断想 死の家の記録』(1989年、西田書店)※品切れ
  • 大塚茂『ダモイの道は遠かった』(1995年、国書刊行会ISBN 9784336037282※品切れ
  • 小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、光人社NF文庫) ISBN 4769827121
  • 川越史郎『ロシア国籍日本人の記録 - シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』(1994年、中公新書ISBN 4121011732※品切れ
  • 川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社) ISBN 9784835501543
  • 川堀耕平『カラガンダ第八分所 - 中央アジア抑留記』(2008年、溪水社ISBN 9784863270190※品切れ
  • 草地貞吾『地獄遍路』(1958年、日刊労働通信社シベリヤ叢書)※品切れ
  • 後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社) ISBN 9784861100543
  • 後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会) ISBN 9784336022516
  • 斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫) ISBN 9784769825067
  • 坂間文子『雪原にひとり囚われて - シベリア抑留10年の記録』(1975年、講談社)※品切れ
  • 佐藤千一『シベリアさすらいの記 一抑留兵の体験記』(1993年、日本図書刊行会) ISBN 978-4773317688※品切れ
  • 佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社) ISBN 9784835543055
  • 佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、彩流社ISBN 9784882025955
  • 信田守夫『シベリア捕虜紀行』(2006年、文芸社) ISBN 9784286011295※品切れ
  • 新宮富士郎『大陸の孤島 - シベリア抑留記』(2008年、文芸社) ISBN 9784286041711※品切れ
  • 杉本四郎『シベリア抑留の思い出記』(2011年、文芸社) ISBN 9784286100517※品切れ
  • 鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、明石書店
  • 鈴木良男『遥か青春シベリア』(1995年、共和印刷企画センター)※品切れ
  • 宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、東京図書出版会ISBN 9784862233981
  • 高木啓太郎『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』(1983年、サン文庫)※品切れ
  • 高杉一郎『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、岩波文庫ISBN 4003318315
  • 竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫) ISBN 9784769823063
  • 棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会) ISBN 9784890391844
  • 中村信一『ウラジオストック物語 - シベリア抑留体験記』(2004年、新風舎ISBN 9784797442854※品切れ
  • 西尾康人『凍土の詩 - シベリア抑留八年、爪で書いた記録』(1995年、早稲田出版) ISBN 9784898271636※品切れ
  • 西本諦了『命めぐまれ、今を生きる - シベリア・ウクライナ抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835533100※品切れ
  • 新田直人『シベリアの歌 - 続シベリア抑留体験記』(1987年、シベリア抑留者友の会) ISBN 9784897500225※品切れ
  • 萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社) ISBN 9784835570037
  • 古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社) ISBN 9784286039954
  • 穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫) ISBN 9784769826200
  • 松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社) ISBN 9784773347623
  • 三浦庸『シベリヤ抑留記 - 一農民兵士の収容所記録』(1984年、ちくま文庫ISBN 978-4480024824※品切れ
  • 皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社) ISBN 9784876624201
  • 村山常雄『シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿』(2007年、プロスパー企画) ISBN 9784861800214※品切れ
  • 村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、七つ森書館ISBN 9784822809966
  • 森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835535661
  • 森本良夫『シベリア俘虜記 - 死と絶望からの帰還』(2001年、春秋社ISBN 9784393436202※品切れ
  • 山川速水『ラーゲルの軍医 - シベリア捕虜記』(1984年、北風書房) ISBN 4795232245
  • 山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ) ISBN 9784490206135
  • 山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社) ISBN 9784906631445
  • 勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、創美社ISBN 9784420310444
  • 渡邉雅彬『ダモイの虹』(2004年、新風舎 / 2009年、文芸社) ISBN 9784286072555
  • 與田純次 他多数『シベリア慰霊訪問記』(1994年、1997年、1998年、全国強制抑留者協会)

ユネスコ記憶遺産[編集]

白樺日誌(シベリア抑留者が白樺の皮に書いた日誌・舞鶴引揚記念館)

ユネスコ記憶遺産」に、舞鶴引揚記念館に収蔵するシベリア抑留と引揚関係資料『舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』が、2015年(平成27年)10月10日に登録された[44]舞鶴引揚記念館資料寄贈者の木内信夫、安田清一は日本初の生存作家となった。

シベリア抑留に関連する作品[編集]

小説
絵本
戯曲
漫画
歌曲
映画
テレビドラマ
その他

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院議員鈴木宗男君提出エリツィン前ロシア大統領の逝去に関する質問に対する答弁書”. 衆議院 (2007年5月11日). 2011年8月7日閲覧。
  2. ^ “シベリア抑留は「歪曲」 記憶遺産でロシア”. 日本経済新聞. (2015年10月23日). http://www.nikkei.com/article/DGXLAS0040008_T21C15A0000000/ 2016年8月23日閲覧。 
  3. ^ 村井淳 2010, pp. 118.
  4. ^ 村井淳 2010, pp. 121.
  5. ^ 白井久也 1994, pp. 37.
  6. ^ 戸松建二 2009, pp. 182.
  7. ^ ライナー・ホフマン山手治之 (2005年). “戦争被害者に対する補償――1949年以降のドイツの実行と現在の展開――”. 立命館法学. 2012年4月8日閲覧。、299p
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]