シベリア抑留

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリアなどソ連各地やソ連の衛星国モンゴル人民共和国などへ労働力として連行され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。男性が多いが女性も抑留されている[1]。
ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島で戦後にかけて抑留された日本人は約57万5千人に上る[2]。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した[3]。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人[4]。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ソ連の継承国であるロシア連邦のエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した[5]。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている[6]。
シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した[7]。だがソ連占領下の南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否確認や帰国の意向調査を妨害し続けた[7]。
背景[編集]
ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった[8]。スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。
初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56 %が死亡した[9]。
スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[10][11]。ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[12]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[13]。
これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特に独ソ戦で捕虜となったドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[14]。
経緯[編集]
ソ連軍侵攻と停戦[編集]
第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、日本の実質的支配下にあった満洲帝国との国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満洲および当時日本領だった朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。
8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。
これらの行動は、ソ連と米英のヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満洲においては旅順租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満洲鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[15]。ソ連軍占領地域の確定過程としては、日本降伏直後の8月15日にトルーマンから日本軍が極東ソ連軍に降伏する範囲として満洲、朝鮮半島北部、南樺太とする旨がマッカーサーとスターリンに打電され、8月16日にスターリンが千島列島と北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線の北東側)を含めることを提案、8月18日トルーマンが千島列島分についてのみ同意し、北海道北半分については拒否して決着した、というものである[16]。
日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、満洲を管轄していた関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満洲帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍との全ての戦闘が終わった。
満洲では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった[17]。
抑留の決定[編集]
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、『国家防衛委員会決定 No.9898』に基づき、日本軍捕虜50万人をソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[18]。
関東軍密約説[編集]
8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満洲に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の『ワシレフスキー元帥ニ対スル報告』を作成した。この報告書は、関東軍参謀だった草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍の山田乙三総司令官と秦彦三郎総参謀長の決定を受けて作成し、ソ連側に送付したものだという[19]。
同日、「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した『關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告』が作成されソ連側に送付された。この書類を作成したと噂された大本営参謀の朝枝繁春は、偽造されたものだと主張している[20]。
ソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長の斎藤六郎や、近代史が専門のノンフィクション作家保阪正康らによって主張されている。ロシア側はそのような史料を公開していない。この交渉に同行した瀬島龍三は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している[21]。
北海道代償説[編集]
8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」という理由であった。
しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された『国家防衛委員会決定 No.9898』は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい[22]。
政治記者の細川隆一郎の主張によれば、スターリンは北海道を侵略する気であり、それを察知したトルーマンは、スターリンに「もし、ソ連軍が北海道に侵略するようなことでもあれば、残りの原爆をモスクワに投下する」と警告し、スターリンは北海道侵略を諦めたという[23]。
移送[編集]
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際、多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、既に離隊していた男性も強引に連行した。
日本人捕虜は、まず満洲の産業施設にあった工作機械を撤去してソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満洲民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。
行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、絶望したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵は「ダモイ」(帰れるぞ)と叫び、捕虜を貨車に乗せたという[24]。
抑留被害者の総数[編集]
日本の厚生労働省は、抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡したとしている[2]。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[25]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[26]。
移送先[編集]
シベリア以外にも、中央アジア、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連領内各地のほか、ソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国でも抑留と強制労働が行なわれた。日本の厚労省によると、「病弱」等の理由で、ソ連国内から、ソ連軍が進駐した旧満洲や朝鮮半島北部に送られた日本人が約4万7000人いる[2]。その後、旧満洲は国共内戦を経て中国共産党が制圧して中華人民共和国の一部となり、朝鮮半島ではソ連の支援を受けて朝鮮民主主義人民共和国が成立し、戦後日本を含む西側諸国と分断され、詳細は不明な部分も多い。両地域では日本の敗戦直後、日本軍民はソ連軍だけでなく地元住民からも襲撃対象となった(「二日市保養所」「中国残留日本人」参照)。
ソ連側の史料が全面提供されない中、厚生省援護局(現:厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所超の収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。地図類をまとめる[35]。日本政府による遺骨収集がソ連国内数か所において許可されており[いつ?]、その進展によってより正確な収容所の位置、抑留者数、死亡者数が解明されることと期待される[36]。
宮脇淳子は「シベリア抑留」という言葉について、実際にはシベリア以外にも抑留されていたことから、正確には「ソ連抑留」あるいは「共産圏抑留」と言うべきとしている[37]。

収容所での生活[編集]
シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[注釈 2](犠牲者数に関しては後述)。これは日本軍における太平洋戦争中の捕虜の死亡率とさして変わらないとの話もあるが、問題はそのほとんどが最初の1年目に集中しているという。収容所暮らしそのものの過酷さは多く語られるものの、反面、日本兵どうしのリンチ等を別として、ソ連兵らから陰惨あるいは執拗な虐待を受けたといった話は意外と少ない。また、中央アジア南方などの気候の温暖な地域では暮らしは必ずしも過酷なものではなかったという。
とはいえ、シベリア抑留者の圧倒的多数が送られた地域は、冬には日本人が経験のないような酷寒となる地域であった。ここで、独ソ戦後の再建を図るソ連は木の伐出しを主に、その他建設作業等の労働に日本兵を使うことになった。
長勢了治は、飢餓・重労働・酷寒が三重苦で、なかでも飢餓こそが最大の問題で、あとの二つがこれに加わって死者を出したとする。長勢は、本来のソ連収容所の給食基準にしたがって糧食が出されていれば、もっと重労働や酷寒にも耐えられ死者も減っただろうとする。実際には初めから十分な糧食が送られていなかった、収容所内のソ連側管理者によるピンハネなどで十分な給食がなされなかったというのである。栄養不足と寒さから朝になると寝ていた者が死んでいたとの話も多い。また、酷寒の中で木を伐り出した際、倒木のときには合図を送り合うことになっていたが、酷寒と餓えのために十分な声が出せない、体が十分に動かせない等のことで倒木事故に遭うこともあったと伝えられる。(なお、事故に遭った者が病院に送られ、きちんとした治療を受けたという話は帰還者からも語られることがある。)
死亡者の8割は初年度の冬を超えるまでに亡くなったとも言われる。この初年度の死亡率の高さにはソ連側も驚いたとされる。ソ連は対ソ戦で多数の労働人口を失っており、彼らも日本軍兵士らを労働力として期待していたのである。ロシア人らは自分らと同等もしくはそれ以上に食料を与え、同じ寒さの中で働くのに日本人の犠牲者が多いことを訝っていたという話もあり、長勢は慣れない黒パンと雑穀などが日本人に合わなかったと見ている[38][注釈 3]。いずれにせよ、食料の問題は死亡率の高さから改善され、二年目からは死亡者は激減している。
共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、日本共産党の隠れ党員だったりした捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として『日本しんぶん』が発行された。
「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせることもしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった。また志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる[39]。
共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊し上げや露骨な暴行を行った[40]。彼らは捕虜達からシベリア天皇と呼ばれた。
有名な者には浅原正基[41]、袴田陸奥男[42][43][44][45][要ページ番号]がいる。
当初は収容所側も多くがノルマ達成のため、統制に都合が良いとみて元日本軍の旧階級による上下構造の温存を事実上認める措置をとっていた。しかし、2年目の冬からある収容所で新聞が発行され出したこと等をきっかけに民主運動が起き、その話が伝わると、これが寧ろ利用できると考えたのか、他の収容所でも民主運動を後押しする方向に転換している。シベリア抑留での死者は大部分が1年目に集中しており、こうなると、死者が多く出たのはむしろ元日本軍の旧上官クラスによる支配構造の結果ではないかという気もするが、民主運動は2年目の冬の1月に入った頃から始まっており、死者の減少は主にソ連側による食料を中心とする待遇の改善があった結果だと見られる。
ただし、抑留中に多数の死者が出た事件として知られるものに「暁に祈る」事件がある。この事件は、自分に任せればノルマを超える成果を達成してみせると、自身を収容所側に売り込み、抑留者らの隊長となった旧日本軍下士官(元憲兵曹長)によって引き起こされている。この事件はソビエト・モンゴル地区で起こっており、モンゴル地区では民主運動はなかったという[46]。
共産主義の労働ノルマに対する報酬、資本主義との違いゆえ、捕虜達の中にはストライキを起こした例もあり、小峰国保は不当に仕事量を増やされていたことが発覚し、待遇は後に改善されたと記す[47]。
ウズベキスタン[編集]
ソビエト連邦構成共和国の一つであったウズベク・ソビエト社会主義共和国では、約23000人もの日本人捕虜が現在のウズベキスタンの地に強制連行され、そこで強制労働させられた[48]。公式データによると、3000人から5000人もの日本人捕虜はダムや水力発電所、ベカバードからタシュケント迄の運河の建設を命じられたという[48][49][50][51]。
彼らは掘削機が無い中、ウズベク人、ロシア人、ドイツ人と共に厳しい肉体労働を強いられ、土壌は手で整備しなければなかった。実際に配給を行ったボキ神父によれば「彼らは毎日3食たった600グラムのパン一つしか与えられなかった中、懸命に働いた[48]。」と彼らの勤勉さを大いに評価した[48]。
ハバロフスク裁判[編集]
1949年12月に戦犯裁判としてハバロフスク裁判が行われ、関東軍司令官の山田乙三や731部隊が裁かれた。ボンダレンコはこのハバロフスク裁判について国際法違反だと述べている[52][53]。
日本側の対応[編集]
1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年(昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。
1952年(昭和27年)に緑風会の高良とみが収容所を訪問した。このとき健康な者は営外作業に出され、重症患者は別の病院に移されるなどの収容所側による工作が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな魚釣りか町へ映画を見に行った」と平然と応えている[54]。
1955年(昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった社会党左派の国会議員らによる収容所の視察が行われた。視察は全てソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、調理場の鍋にあったカーシャを味見した戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな臭い粥を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。
過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握り潰し、記者会見や国会での報告で「"戦犯"たちの待遇は決して悪くはないという印象を受けた。一日八時間労働で日曜は休日となっている。食料は一日米三百グラムとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気が配られているようだった[55]」などと虚偽の説明を行った。
元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の野溝勝らは海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会で追及を受けている[54][56]。
帰国[編集]
1947年(昭和22年)から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた[要出典]。
1949年(昭和24年)5月20日、ソ連政府は本年5月から11月まで全員引き揚げるだろうと発表。その数を9万5千人とした。この時点で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と日本政府が把握していた抑留者数は、約40万8700人としており食い違いが生じた[57]。
1950年(昭和25年)には、一部の引揚者の帰国が遅れたのは日本共産党書記長徳田球一の要請として、国会で問われた徳田要請問題が起こった。
中華人民共和国への移管[編集]
最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した〈念書組〉と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満洲国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者もおり、洗脳による「改造」教育が行われた[58][59]。
ソ連への残留[編集]
また、ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係したり、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかったり、現地の人間と恋仲になったり[注釈 4]などして帰国せずにソ連に残留して帰化した例もある(川越史郎など[61])。また、ソ連側から帰国を認められなかった例もある(蜂谷彌三郎[62])。ソ連に留まった総数は約1千人とみられ、2017年(平成29年)時点でもロシア北西部レニングラード州に、満洲国軍元軍曹で北海道出身の田中明男が存命であることが明らかになった。田中の回想によると、1950年代に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として迫害(抑圧)される」と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたという[63][64]。
犠牲者数[編集]
ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[4]。従来、多く語られる死者数は約6万人である。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[65][要ページ番号]。
シベリア抑留中にソ連の軍事法廷で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)[66][67]。
日本の厚生労働省は2019年(令和元年)現在でも、ロシア連邦などから提供された新たな資料を基に、旧ソ連や満洲での死亡が判明した日本人の氏名等の名簿更新を続けている[68]。
収容所での身分差別[編集]
抑留初期の収容所には旧軍制度がそのまま持ち込まれ、旧軍の階級的な身分差別と将校特権が大手を振ってまかり通ったため、下級兵士は「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重の苦しみの淵にあえぐことになった[69]。将校は国際法[70]によって捕虜労働を免除されている[69]。
元ジャーナリストの白井久也によれば「将校は旧軍時代と同様に、兵隊に対して宮城遥拝、軍人勅諭の奉唱、軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを強要、配給食料のピンハネを行い、些細なことで私的利裁の雨を降らした。揚げ句の果ては帯剣の代わりに棍棒を持って、作業現場で兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督と化し[69]」、そのことが下士官以下の死亡・未帰還率の高さに影響したのだと主張する。
賃金未払い問題[編集]
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[71]。
- 国家賠償訴訟
シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年(平成21年)10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[72][リンク切れ][73]。
- シベリア特措法
旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年(平成22年)5月21日に本会議で可決。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される。この件は2010年(平成22年)5月20日の参院総務委員会で佐藤泰介委員長により提案された[74][75]。
慰霊・追悼[編集]
遺骨収集事業[編集]
冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現:厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、遺骨収集事業が進められ、遺骨のDNA型鑑定などによって2010年(平成22年)までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡された[76]。その後、2019年に厚労省は1999年から2014年の間に戦没者の遺骨の収集事業で、終戦後にシベリアに抑留されて死亡した日本兵の遺骨約650人分を国内に持ち帰ったが、2018年に専門家の指摘を受けて16人分の遺骨のDNA鑑定をしたところ、日本人でないことが判明し、残る遺骨についても約600人分が日本人でない可能性があるということを認めたが、厚労省はNHKが調査報道でこの事実を明らかにするまで公表しなかった[77][78]。取り違えの疑いを14年前に把握しながら、ロシア側と協議せず事実上放置していたため信頼関係を損ねたとして日本の遺骨調査団の派遣がロシア側の意向で中止になった[79]。
日本国内での追悼[編集]
全国抑留者保障協議会(全抑協)などが2003年に始めた「追悼の集い」が千鳥ケ淵戦没者墓苑で毎年8月23日続いている[80]。終戦後の抑留による犠牲者と戦没者の違いを強調する意味もあり、全国戦没者追悼式(終戦の日の8月15日開催)とは別に、スターリンが抑留命令を出した8月23日に開いている[80]。
現地慰霊碑[編集]
厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている[要出典]。
トルクメニスタン[編集]
ユネスコ記憶遺産[編集]
舞鶴引揚記念館に収蔵するシベリア抑留と引揚関係資料『舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』は2015年(平成27年)10月10日、「ユネスコ記憶遺産」に登録された[81][注釈 5]。
被害者・関連団体[編集]
- 全国抑留者補償協議会(全抑協 1979年結成、シベリア特措法成立と会員の高齢化により2011年5月解散)
- 近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会
- 財団法人全国強制抑留者協会
- 引揚を記念する舞鶴全国友の会
抑留者による記録[編集]
- 当事者による手記(小説は除く)
- 石原吉郎『望郷と海』(1997年、筑摩書房) ISBN 9784480083593
- 伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835539515
- 井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社) ISBN 9784286032665
- 乾常美『捕虜の文化』(所収『捕虜体験記(3)ウラル』以西篇』ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編、平文社、1984年(初版)、1998年(重版))
- 井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社) ISBN 4286085600
- 今川順夫『私のシベリア抑留 地獄の記録 - 負けてたまるかの奮闘記』(2011年、岐阜新聞社) ISBN 9784877971663
- 内村剛介『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』(1967年、講談社 / 講談社文芸文庫) ISBN 4061982605
- 宇野宗佑『ダモイ・トウキョウ』(1982年、シベリア抑留叢書)
- 蝦名熊夫著・蝦名賢造編纂『シベリア捕虜収容所 四年間の断想 死の家の記録』(1989年、西田書店)
- 大塚茂『ダモイの道は遠かった』(1995年、国書刊行会) ISBN 9784336037282)
- 小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、光人社NF文庫) ISBN 4769827121
- 川越史郎『ロシア国籍日本人の記録 - シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』(1994年、中公新書) ISBN 4121011732
- 川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社) ISBN 9784835501543
- 川堀耕平『カラガンダ第八分所 - 中央アジア抑留記』(2008年、溪水社) ISBN 9784863270190
- 草地貞吾『地獄遍路』(1958年、日刊労働通信社シベリヤ叢書)
- 後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社) ISBN 9784861100543
- 後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会) ISBN 9784336022516
- 斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫) ISBN 9784769825067
- 坂間文子『雪原にひとり囚われて - シベリア抑留10年の記録』(1975年、講談社)
- 佐藤千一『シベリアさすらいの記 一抑留兵の体験記』(1993年、日本図書刊行会) ISBN 978-4773317688
- 佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社) ISBN 9784835543055
- 佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、彩流社) ISBN 9784882025955
- 坂本義和 (社会運動家)『ラーゲリ物語』(2000年、みるめ書房)
- 信田守夫『シベリア捕虜紀行』(2006年、文芸社) ISBN 9784286011295
- 新宮富士郎『大陸の孤島 - シベリア抑留記』(2008年、文芸社) ISBN 9784286041711
- 杉本四郎『シベリア抑留の思い出記』(2011年、文芸社) ISBN 9784286100517
- 鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、明石書店)
- 鈴木良男『遥か青春シベリア』(1995年、共和印刷企画センター)
- 宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、東京図書出版会) ISBN 9784862233981
- 平和祈念事業特別基金 (編)『シベリア慰霊訪問記』與田純次 他多数(1994年、1997年、1998年、平和祈念事業特別基金編)
- 全国強制抑留者協会 (編)『シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編)』寺田新次郎 (1991年、平和祈念事業特別基金〈平和の礎第12巻〉)
- 増補版 全国強制抑留者協会『平和の礎 : シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦』 (1993年、全国強制抑留者協会)
- 高木啓太郎『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』(1983年、サン文庫)
- 高杉一郎『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、岩波文庫) ISBN 4003318315
- 竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫) ISBN 9784769823063
- 棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会) ISBN 9784890391844
- 中村信一『ウラジオストック物語 - シベリア抑留体験記』(2004年、新風舎) ISBN 9784797442854
- 西尾康人『凍土の詩 - シベリア抑留八年、爪で書いた記録』(1995年、早稲田出版) ISBN 9784898271636
- 西本諦了『命めぐまれ、今を生きる - シベリア・ウクライナ抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835533100
- 新田直人『シベリアの歌 - 続シベリア抑留体験記』(1987年、シベリア抑留者友の会) ISBN 9784897500225
- 萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社) ISBN 9784835570037
- 古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社) ISBN 9784286039954
- 穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫) ISBN 9784769826200
- 松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社) ISBN 9784773347623
- 三浦庸『シベリヤ抑留記 - 一農民兵士の収容所記録』(1984年、ちくま文庫) ISBN 978-4480024824
- 皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社) ISBN 9784876624201
- 村山常雄『シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿』(2007年、プロスパー企画) ISBN 9784861800214
- 村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、七つ森書館) ISBN 9784822809966
- 森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835535661
- 森本良夫『シベリア俘虜記 - 死と絶望からの帰還』(2001年、春秋社) ISBN 9784393436202
- 山川速水『ラーゲルの軍医 - シベリア捕虜記』(1984年、北風書房) ISBN 4795232245
- 山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ) ISBN 9784490206135
- 山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社) ISBN 9784906631445
- 勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、創美社) ISBN 9784420310444
- 渡邉雅彬『ダモイの虹』(2004年、新風舎 / 2009年、文芸社) ISBN 9784286072555
シベリア抑留に関連する作品[編集]
- 小説
- ソルジェニーツィン『収容所群島』(1973年 - 1975年)
- 山崎豊子『不毛地帯』(1976年 - 1978年、新潮社 / 新潮文庫) ISBN 9784101104409
- 胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』(1983年、文藝春秋 / 文春文庫)第89回直木賞 ISBN 9784167402013
- 辺見じゅん『収容所から来た遺書』(1989年、文藝春秋) ISBN 9784167342036
- 相沢英之『タタァルの森から』(1992年、米子今井書店) ISBN 9784896780130
- 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1994年 - 1995年、新潮社 / 新潮文庫)
- 鏑木蓮『東京ダモイ』(2006年、講談社 / 講談社文庫)第52回江戸川乱歩賞 ISBN 9784062764407
- 井上ひさし『一週間』(2010年、新潮社) ISBN 9784103023302
- ノンフィクション
- 端野いせ『未帰還兵の母』(1974年、新人物往来社)
- 端野いせ『岸壁の母』(1976年、新人物往来社)
- 辺見じゅん『収容所から来た遺書』(1989年、文春文庫)ISBN 9784167342036※ 講談社ノンフィクション賞・大宅壮一ノンフィクション賞
- 村尾靖子『クラウディア 奇蹟の愛』(2003年、海拓舎) ISBN 9784907727314※テレビドラマ『遙かなる約束』および戯曲『クラウディアからの手紙』の原案
- 松本宏『告発 シベリア抑留 - 国民に隠された真相』(2004年、碧天舎) ISBN 4883465012
- 辺見じゅん『ダモイ 遥かに』(2008年、メディアパル) ISBN 9784896100839
- 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか - 詩人・石原吉郎のみちのり』(2009年、〈岩波ジュニア新書〉) ISBN 9784005006182
- 村尾靖子『クラウディアの祈り』(2009年、ポプラ社) ISBN 9784591108536
- 小柳ちひろ『女たちのシベリア抑留』 (2019年、文芸春秋)
- 写真集
- 新正卓『沈黙の大地/シベリア』(1995年、筑摩書房)
- 絵本
- 安田清一 絵・文『絵本シベリア物語』(2007年、光村印刷〈Bee books〉)
- 村尾靖子・小林豊『クラウディアのいのり』(2008年、ポプラ社) ISBN 9784591104071
- 井上こみち『氷の海を追ってきたクロ』(2010年、学習研究社) ISBN 4052032810
- 神津良子・北野美子『氷海のクロ - シベリア抑留(語り継ぐ戦争絵本シリーズ)』(2011年、郷土出版社) ISBN 4863751117
- 戯曲
- 浅利慶太『ミュージカル異国の丘』(劇団四季)
- まきりか『音楽劇 君よ生きて』
- 鐘下辰男『クラウディアからの手紙』
- 漫画
- 滝沢聖峰『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』(1995年、大日本絵画) ISBN 9784499226479
- 本宮ひろ志『国が燃える』(2003年 - 2006年、集英社・ヤングジャンプコミックス) - 主人公の本多勇介が抑留された。
- おざわゆき『凍りの掌』(2012年、小池書院) ISBN 9784862258311 - 著者が実父のシベリア抑留体験を基に執筆
- 歌曲
- 『異国の丘』(1948年、作詞:増田幸治、補詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、歌:竹山逸郎、中村耕造など)
- 『岸壁の母』(1954年・1972年、作詞:藤田まさと、作曲:平川浪竜、歌:菊池章子、二葉百合子など)
- 映画
- 『異国の丘』(1949年、制作:新東宝、監督:渡辺邦男、脚本:渡辺邦男・北沢誠)出演:花井蘭子・上原謙・大日方伝
- 『帰国(ダモイ)』(1949年、制作:東宝・佐藤一郎、監督:佐藤武、脚本:岸松雄)出演:堀雄二・池部良・藤田進・山口淑子
- 『私はシベリヤの捕虜だった』(1952年、制作:東宝、監督:阿部豊・志村敏夫、脚本:沢村勉)出演:北沢彪・土屋嘉男
- 『岸壁の母』(1976年、制作:東宝、監督:大森健次郎、原作:端野いせ、脚本:村尾昭)出演:中村玉緒・江藤潤
- 『ラーゲリより愛を込めて』(2022年、制作:東宝、監督:瀬々敬久、原作:辺見じゅん、脚本:林民夫)出演:二宮和也
- ラジオ番組
- テレビドラマ
- 『岸壁の母』(1977年、TBS / 松竹)出演:市原悦子・大和田獏
- 『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(1993年、フジテレビ)主演:寺尾聰
- 『遥かなる約束 〜50年の時を越えた運命の愛〜』(2006年、フジテレビ)主演:阿部寛・黒木瞳
- その他
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)のまとめた地図によれば、ソ連国内の収容所70か所超において抑留日本兵は強制労働に従事させられた[35]。
- ^ 当初から10万名は死亡したと言われ、グラスノスチ後に発見された資料によると40万人とも言われる。
- ^ 現地の穀物としてコウリャンが多く出されたが、これは日本人にとって消化が悪く、生延びるために排泄した便の中にある未消化のコウリャンを洗って再度食べたという思い出話を語る者もいる。現在でこそ、腸内細菌の関係で民族により消化できない、消化しにくいものがあるということが知られているが、当時の日本人にもコウリャンが日本人には消化が悪いくらいの意識はあったようだが、そこまで歴然とした差があるとは思わず、まして現地住民らには信じられなかったのではないかと思われる。現代日本人にも牛乳を多く飲むと腹を下す者は多いが、当時はそもそも牛乳を多量に飲めるような日本人自体ほとんど無く、日本人側でもそういう発想がまずなかったのではないかということに注意する必要がある。
- ^ ロシアの英字紙『シベリアン・タイムズ』によると、元日本兵が現地のロシア人女性と結婚するのは珍しいことではなく、クラスノヤルスク地方のカンスクでは50人の元日本兵がロシア人女性と結婚したと言われている[60]。
- ^ 同館に資料を寄贈した木内信夫[82]、安田清一[83]は日本初の生存作家となった。
出典[編集]
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- ^ 『戦後三十年 日本人を育てた歌』保富康午、松原史明、みやもり純(脚本・放送作家、原作者)、制作:民放ラジオ53社、放送日:1975年10月26日、doi:10.11501/10257941、国立国会図書館/図書館送信参加館内公開。
参考文献[編集]
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本文の典拠、脚注とリンクしています。主な執筆者名順。
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- 白井久也『ドキュメント シベリア抑留 - 斎藤六郎の軌跡』(1995年、岩波書店) ISBN 4000029541。
- 白井久也『検証 シベリア抑留』(2010年、平凡社新書) ISBN 9784582855159。
- 寺田新次郎 著「抑留所感」、平和祈念事業特別基金 編 『シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編)』 12巻、平和祈念事業特別基金、平和祈念事業特別基金〈平和の礎〉、1991年。 NCID BN06387849。[要ページ番号]
- 戸松建二「第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題 : 収容所における「民主化政策」をめぐって」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第10号、愛知県立大学、2009年、171-206頁、doi:10.15088/00000314、ISSN 13454579、NAID 110007326001。
- ウィリアム・F・ニンモ(Nimmo, William F.) 『検証 - シベリア抑留』時事通信社、1991年、[要ページ番号]頁。ISBN 9784788791060, 4788791064、NCID BN0600583X。
- 『シベリア天皇の全告白』 69巻5号、文芸春秋、1991年4月、140-147頁。
- ライナー・ホフマン、山手治之「ライナー・ホフマン 戦争被害者に対する補償--1949年以降のドイツの実行と現在の展開」(PDF)『立命館法學』2006年第2号、立命館大学法学会、2006年、552-569頁、ISSN 0483-1330、NAID 40007458302。コマ番号299。
- 村井淳「ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、どのように労働利用されたか」『研究論集』第91巻、関西外国語大学、2010年、117-135頁、NAID 110007531511。
- 吉田幸平 『シベリア捕虜の思想戦―日本人相剋の悲劇』中日出版社、2008年。 NCID BA87715057。[要ページ番号]、ISBN 9784885193118。
- 第1部(シベリア天皇と闘って;オルグの反ファシスト委員会権限のシベリア天皇として捕虜の上に君臨した理由;捕虜の管轄区分(四区分);栄養失調を巡るシベリア天皇(オルグ)死体の処理の無雑作;配給糧食一覧表 ほか)
- 第2部 衆議院考査特別委員会の証言速記録(日本共産党の在外同胞引揚妨害問題)
- “戦後日本はなぜシベリア抑留の痛みを忘れたのか”. ニューズウィーク日本版(2022年12月13日号). CCCメディアハウス. (2022-12-13).
関連項目[編集]
50音順。
関連資料[編集]
本文の典拠ではない資料。発行順。
- Hunter, Edward (1951). Brain-washing in Red China: the calculated destruction of n of men's minds. New York: Vanguard Press。
- エドワード・ハンター『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』福田実訳、法政大学出版局、1953年。
- Hunter, Edward (1956) BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it. Ambassador Books, Ltd., Toronto.
- Robert Jay Lifton. Thought Reform and the Psychology of Totalism: A Study of "Brainwashing" in China. New York: Norton, 1961.
- ロバート・J・リフトン『思想改造の心理―中国における洗脳の研究』(1979年、誠信書房)
- 宮沢 賢治『銀河鉄道の夜』改版(1969年、角川書店〈角川文庫1735〉ISBN 4041040035。
- 上杉千年「拝啓 広島県教育委員会殿 第5弾「広島解放区」にうごめく教員組合と校長会」『正論』1999年4月号。国立国会図書館書誌ID:4656305。
- 御田重宝『シベリア抑留』(1991年、〈講談社文庫〉) ISBN 9784061849402。
- 亀井励『シベリア抑留者と遺族はいま』(1992年、かもがわ出版) ISBN 9784876990672。
- 石崎誠一『シベリア抑留者 - 大統領の謝罪と抑留問題の決着』(1997年、全貌社) ISBN 4793801463。
- 白井久也・佐藤清『写真集 シベリア抑留 - 歴史の流れの中で』(1997年、ヒューマン社) ISBN 9784894611016。
- 坂本龍彦『シベリア虜囚半世紀 - 民間人 蜂谷弥三郎の記録』(1998年、恒文社) ISBN 9784770409768。
- 若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(1999年、明石書店)ISBN 9784750311807。
- ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち - シベリア抑留』(2001年、北海道新聞社) ISBN 9784894531352。
- エレーナ・カタソノワ『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか』(2004年、社会評論社) ISBN 9784784513109。
- 独活章『クロ物語 - 氷海に飛び込んだ犬』(2005年、けやき出版) ISBN 4877512942。
- 中村紀雄『シベリア強制抑留 - 望郷の叫び』(2005年、上毛新聞社出版局) ISBN 9784880589312。
- 栗原俊雄『シベリア抑留 - 未完の悲劇』(2009年、〈岩波新書〉) ISBN 9784004312079。
- 栗原俊雄『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、〈岩波ブックレット〉)ISBN 4002708047。
- 長澤淑夫『シベリア抑留と戦後日本 - 帰還者たちの闘い』(2011年、有志舎) ISBN 4903426491。
- 立花隆『シベリア鎮魂歌 - 香月泰男の世界』(2004年、文芸春秋) ISBN 4163657509。
- 阿部軍治『シベリア強制抑留の実態 - 日ソ両国資料からの検証』(2005年、彩流社) ISBN 9784779111068。
- 阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 - 抑留者たちの無念を想う』(2010年、彩流社) ISBN 9784779115738。
- 嶌信彦『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(2015年、角川書店) ISBN 9784041035375。
外部リンク[編集]
- ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について - 厚生労働省
- ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜 - ウェイバックマシン(2014年8月6日アーカイブ分)
- シベリア抑留死亡者名簿 - 村山常雄によるもの
- 旧ソ連抑留画集
- ソ連地域の引揚経緯表
- 『シベリア抑留問題』 - コトバンク