日本軍

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Merchant flag of Japan (1870).svg 日本の軍隊
War flag of the Imperial Japanese Army.svg
陸軍の軍旗
Naval Ensign of Japan.svg
海軍の軍艦旗
創設 1871年(明治4年)
解散 1945年(昭和20年)
本部 陸軍省:東京都牛込区
(現在の東京都新宿区
海軍省:東京都麹町区
(現在の東京都千代田区
指揮官
大元帥 明治天皇
大正天皇
昭和天皇
陸軍大臣
海軍大臣
下村定(最後)
米内光政(最後)
参謀総長
軍令部総長
梅津美治郎(最後)
豊田副武(最後)
総人員
徴兵制度
関連項目
歴史
陸海軍の階級
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日本軍(にほんぐん、にっぽんぐん)は、広義には大日本帝国が有していた軍隊のことである。大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍を示す。

概略[編集]

第二次世界大戦の敗戦により解体されたため、戦後は旧日本軍(きゅうにほんぐん、きゅうにっぽんぐん)、旧軍(きゅうぐん)などと略称する。

また、戦前からの名称・呼称としては陸海軍(りくかいぐん)、帝国陸海軍(ていこくりくかいぐん)、国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん、すめらみくさ)、官軍(かんぐん)などがある[1]

戦後、日本の防衛組織として創設された「自衛隊陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊)」については、日本国内では「日本軍」と称されることはほとんどない。日本語以外の言語地域では正式には英語名称で「Japan Self-Defense Force」など「自衛隊」に相当する語で表現するが、「日本軍」に相当する語(「Japanese Military」、「Japanese Armed Forces」など)で表す場合もある。本項では「旧日本軍」について詳述する。

組織[編集]

天皇統帥の下に陸軍海軍があり、それぞれ陸軍大臣海軍大臣軍政について天皇を輔弼し、参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が軍令を統括した。陸軍の総軍方面軍司令官師団長、海軍の艦隊司令長官・鎮守府司令長官は天皇に直隷する親補職として軍隊部隊)を指揮統率した。独立した空軍(日本空軍)は存在せず、陸海軍にそれぞれ航空部隊があり各個の軍・艦隊等に隷属し運用されていた(陸軍航空部隊海軍航空部隊)。

概ね昭和10年代初めの平時編制として、陸軍は内地東部中部西部に区分されてそれぞれの地域に防衛司令部が設置され、また、内地に14個師団北海道に1個師団が配備されていた。朝鮮には朝鮮軍司令部と2個師団が、台湾には台湾軍司令部と台湾守備隊が、関東州満州には関東軍司令部と関東軍守備隊が置かれている。海軍は平時編制ではまず艦船を現役艦と予備艦に分け、現役艦を以って第一艦隊第二艦隊から構成される連合艦隊、または警備艦として鎮守府に所属した。

天皇最高指揮官たる大元帥

管区[編集]

陸軍は、本国(内地)と外地(朝鮮台湾などの大日本帝国外地)の一部を管区で区分した。

1873年(明治6年)から1888年(明治21年)までは軍管師管、1888年(明治21年)からは1896年(明治29年)まで師管・大隊区、1896年(明治29年)から1940年(昭和15年)までは師管・連隊区、1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)までは軍管区・師管・連隊区、1945年(昭和20年)に軍管区・師管区・連隊区という階層で大きな区分と小さな区分を設けた。各地にある部隊は原則として所在する管区から徴集された兵士で構成された。

海域も領海を海軍区によって区分して、そこに軍港要港を置いた。軍港が横須賀とされた第一海軍区、とされた第二海軍区、佐世保とされた第三海軍区、舞鶴とされた第四海軍区に分けて、これをさらに陸上区画と海上区画に分けた。各海軍区は軍港の鎮守府が管轄して要港は警備 府が置かれた。

歴史[編集]

起源[編集]

日本では江戸時代後期に蘭学の興隆によりヨーロッパの軍制が部分的に紹介され、嘉永6年(1853年)の黒船来航などで対外的脅威により、江戸幕府や諸では西洋式軍隊の創設を開始する。幕府はフランス式陸軍を採用し、軍事顧問を招いて装備の導入や軍隊(幕府陸軍幕府海軍)の編成を行い、長州藩薩摩藩佐賀藩でも軍制改革が行われた。江戸時代の幕藩体制においては軍事に従事するのは武士階級のみであったが、長州藩で設立された奇兵隊などは、農民町人などが混成した民兵部隊であった。慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還王政復古により江戸幕府は消滅し明治新政府が誕生。慶応3年11月(1867年12月)、薩摩藩寺島宗則は、土地と人民を朝廷に返還するよう求める建白書を藩主の島津忠義に提出[2]

その後、旧幕府を擁護する勢力と朝廷が対立し、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発。慶応4年2月(1868年3月)、島津忠義御親兵創設の費用として10万石を「返献」。薩摩、長州、土佐は軍事力を中核として朝廷を助け、諸藩もこれに従い、旧幕府勢力と戊辰戦争を戦った。

創設[編集]

戊辰戦争で勝利した板垣退助は、御親兵の創設を構想して、明治2年5月(1869年6月)、旧幕側フランス人将校・アントアンや、旧伝習隊沼間守一らを土佐藩・迅衝隊の軍事顧問に採用。フランス式練兵を行い、さらに国民皆兵を断行するため、明治3年12月24日(1871年2月13日)、全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した[3]。こうして、幕府により導入された西洋式軍制は明治新政府に引き継がれ、新政府は富国強兵を国策に掲げ、明治4年(1871年)2月には長州藩出身の大村益次郎の指揮で明治天皇親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵6,000人を創設。常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保した。この御親兵近衛師団の前身にあたる[3]

発展[編集]

明治4年(1871年)4月の設立当初は鎮台制と呼ばれる組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱西南戦争など内乱鎮圧を主たる任務とした。徴兵制度の施行に伴い国民軍としての体裁を整えていった。その後陸軍は鎮台を廃止し師団制に移行。海外において外国軍隊との戦争を行いうる軍制に移行した。設立の基礎が明治維新時の薩長軍であったために永らく藩閥支配が払拭できず、陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固めた。明治5年(1872年)に陸軍省が兵部省から分離し、明治11年(1878年)には参謀本部が独立する。新政府は廃藩置県や廃刀令で武士階級を事実上消滅させた後、明治6年(1873年)に徴兵令を施行する。陸軍卿には奇兵隊出身の山縣有朋海軍卿には勝海舟が就任する。山縣は普仏戦争1870年)でプロイセンが勝利した事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行った。海軍は当初からイギリス式の軍制に倣って編成された。

陸海軍共に初期の仮想敵国ロシアであったが、日露戦争後は陸軍はロシア革命後のソビエト連邦を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なして軍備をすすめた。明治期においては兵器類はフランスやイギリスなどから購入していたが、日露戦争前後からは小火器を筆頭に次第に国産化がすすみ、明治期末から大正期にはアジア軍事大国として列強の一員となった。

軍事機構の問題[編集]

政戦略の不一致[編集]

国家が国防方針を策定する場合には国家戦略軍事戦略との整合性が重要であり、この整合を「政戦略の一致」と言う。大正・昭和に入ると、日本軍の統帥権の独立を巡って軍部が政府と対立するという深刻な政軍関係上の問題が発生することになり、この政治的対立によって政戦略の不一致がもたらされることになった。

明治22年(1889年)に制定された大日本帝国憲法第11条にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という文言は、統帥権すなわち軍事作戦に関する命令・実行の権限が、行政・司法・立法から独立していることを保障したものとする憲法解釈が次第に行われるようになる。これは立憲君主制に基づいた、陸軍は陸軍大臣の輔弼(ほひつ)、海軍は海軍大臣の輔翼(ほよく)責任のもと政府と陸軍省・海軍省の統制下にあり、統帥大権も統治大権と同じく大臣の補弼責任の下にあり、決して統帥大権の独立を保障するものではないという解釈に反し、総理大臣帝国議会が軍事に干渉することは出来ず、政治と軍事が対等の地位に定められることになった。

これは満州事変支那事変日中戦争)で軍が政府の方針を無視して独走し、それを政府が追認するという事態が生じた。また、昭和期に入って軍部大臣現役武官制が復活したことによって、軍部が陸海軍大臣を推薦しなければ内閣が組織できなくなり、軍部の政治権力の強化に利用されることにもなった。

この統帥システムはプロイセンの軍制を模範として考案されたものであり、軍隊が政治指導者の政治的意図で利用されることを防いだり、作戦行動の秘密を保全する目的があった。しかし、実際には大日本帝国憲法の統帥権の独立は政略不一致をもたらす大きな要因となった[4]

統合運用の障害[編集]

統合運用とは軍種間で脅威認識や国防方針を一致させ、平時においては共同の作戦計画準備や訓練を行うことによって、統合化を行ったうえで運用する方式である。大日本帝国憲法第11条での陸海軍の並立の規定は、歴史的な陸海軍の政治対立もあって、この統合運用体制の確立を阻害する一因となった。

明治初期には兵部卿が陸海軍の軍令と軍政を一元的に統括していたが、明治5年(1872年)に軍隊の巨大化に伴って軍政機関が陸軍省と海軍省に分けられた。明治11年(1878年)には軍令機関の参謀本部が設置されて三元化する。明治19年(1886年)に陸海軍統合軍令機関である統合参謀本部(国防省防衛省に相当)に類するものが設置されることが決定したが、後に陸軍参謀本部と海軍参謀本部に再び軍令機関が二元化した[5]。明治36年(1903年)には海軍の軍令機関である軍令部が設置され、その後に陸海の軍令・軍政の統一的な統制を行う機関は昭和20年(1945年)の解体まで整備されることはなかった[4]。この統合運用の体制の不備は陸海軍の国防思想の不整合、作戦行動における不和、時には陸海軍の内部対立までをも生み出し、旧日本軍の統合運用を決定的に困難なものにした。

軍隊文化・行動様式[編集]

クーデター志向[編集]

  • 兵火事件(1930年) 仙台教導学校にいた陸軍将校大岸頼好が「東京を鎮圧し宮城を護り天皇を奉戴」「結局はクーデター」などと書かれた文書を配布し憲兵隊摘発[6]

独断で勝手に行動[編集]

昭和天皇は軍が勝手に動くのを「下剋上」と表現し繰り返し批判したという[7]

私的制裁[編集]

私的制裁は度々禁止されたが、繰り返された。

  • 1941年2月26日付、北支那方面軍司令部「北支那方面軍健兵対策」[8]で「私的制裁を絶滅す」
  • 1941年12月7日付、陸軍次官木村兵太郎名で出された「私的制裁絶滅に関する陸軍一般へ通牒」[9]で「近時特編部隊の増加に伴ひ私的制裁激化の傾向を看るは寔寔に遺憾に堪へざる所なり」
  • 1943年12月22日付、森集団(ビルマ方面軍のこと)参謀長名で出された「私的制裁根絶に関する件通牒」[10]で「多年の因習に囚れ私的制裁を敢てし…極めて遺憾とする所なり」「将来此種事犯の発生に方りては…監督上の責任も強く糺弾」
  • 1944年1月28日付、陸軍次官名で出された「軍紀風紀の振粛に関する件陸軍一般へ通牒」で「私的制裁の弊害は虞るべきものあるに拘らず此の弊風の刷新せられざるや極めて久し」[11]
  • 沖縄の独立歩兵第12大隊第5中隊陣中日誌(1945年1月)「五、本週中隊長要望事項 一、初年兵の私的制裁の撲滅 ニ、敬礼の厳正」[12]

連帯責任[編集]

  • 昭和十七年六月十二日、教育召集令状が届けられ西部第五三部隊へ入隊したら、無線通信隊だった。…内務班に帰れば古兵から「お前達は昼間楽をしているから」と叩かれる。自分では納得出来ない、連帯責任だと叩かれる。…他の者との連帯責任で、食事当番に間違ったら古兵ばかりでなく班長にもやられる。[13]
  • 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。…少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。[14]
  • 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。…陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。…三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。[15]

初年兵が古年兵や上級者の世話[編集]

  • 新しい新兵が入ってくるまでの約一年間は、新兵は自分の戦友となった古兵の衣服の洗濯、軍靴の手入れ、銃剣の手入れ、食事の用意など一切の面倒をみることになるのです。ですから、古兵は本当に軍隊用語の「神様」で、新兵はただ古兵となる日を思いつつ一年間、じっと辛抱するのです。[16]
  • 古年兵の銃剣の手入れ、軍靴の手入れと、これこそ初年兵の泣き場のひとときでした。特に北満の赤土は軍靴にくっついて離れず、これこそ初年兵の大きな苦労の種でした。[17]
  • 教育演習や討伐から帰隊すると、初年兵は、われ先にと班長や助手の脚絆を解き、小銃、軍靴の手入れをしてやるものです。班長や助手はまるで神様扱いで楽でよろしかったでしょうが、初年兵にとっては大変な仕事でした。そして班内に戻れば、古参兵の銃の手入れから洗濯物を、そして自分の物と、まったく手が廻らぬ超多忙でありました。その為自分の銃の手入れや点検、被服の手入れなどには落ち度が出て来ることもあります。[18]

大声が大事[編集]

1937年に京都の歩兵第9連隊に入隊した元兵士は「班内から一歩外に出る時は必ず『○○二等兵、厠へ行って来ます」また入室の時は『○○二等兵、入浴より戻りました』と大きな声で発表します。声が小さいと古年兵から『今なにか虫の声がしていた、今一度官姓名を名乗れ』と再度申告させられました」と回想する[19]

1939年に敦賀の歩兵連隊に入営した元兵士は「内務班から一歩外へ出る時は、必ず大きな声で『○○二等兵!厠(便所)へ行って来ます!』と叫ぶ。帰って来た時も『同じく帰って来ました!』と叫ぶのです。すべて大きな声で復令、復唱することです」と述べる[20]

1944年満州の関東軍一九三部隊に入隊した元兵士は「『○○二等兵!厠に行って参ります』。意地の悪い古参兵が『聞こえんぞー』『○○二等兵!厠にいって参ります』『声が小さいッ!どこへ行く!』『○○二等兵!……』三、四回大声で叫ぶようにすると『よーし』」と回想する[21]

1943年に特別志願兵として舞鶴海兵団に入った元兵士は掃海艇で12センチ砲の「照尺」を主に担当したが、「自分は照尺が主でした。そしてこれには第一番に大きな声が要求されます。何日いかなる時も水兵さんは『大声』で言葉を発すべしでした」と述べている[22]

暗記が大事[編集]

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」[23](1912年)には「要するに軍隊の学科は、一々諳唱的に覚えざる可からず。突然中隊長などより『お前連隊長の官姓名を言って見』などゝ問はれたる時は『ハイ、歩兵第五十連隊長陸軍歩兵大佐長谷川達海殿』と、声張り揚げて語尾明晰に即答せざる可からず。又『経理部員の襟票は何色か』などゝ問はれたる時は、『ハイ、銀茶であります』と高声に即答せざる可からず。総て軍隊の言葉使は、出来る丈高声に、而も語尾明晰なるを要す。若し忘れたる時は『ハイ、忘れました』と高声に活発に即答すればよし、考へて愚図々々などし居れば、直に大目玉を頂戴す」とある。

1939年に善通寺の山砲第40連隊に入隊した元兵士は「入隊後、馬に次いでの思い出は、軍隊手帳に記されている『軍人勅諭』です。入隊すると一週間以内に暗記せよとのことでした。私は夜の消灯後、便所で軍隊手帳を持って努力したので、三日で成功し、班長さんにほめられました」と回想する[24]

1939年に甲府第419連隊第9中隊に入隊した元兵士は中国河南省で初年兵教育を受けたが、「教育の内容の第一は、覚えなくてはならないということです。『軍人に賜った勅語』『五箇条の御誓文』などで、便所でも暗記をするという状況で、頭の悪い人も良い人もいますが、絶対覚えなくてはならないということでした」と語っている[25]

1939年に高射砲第10連隊第3中隊に入隊し関東軍でノモンハン事件を経験した元兵士は、「入営し、まず覚えなければならないのは上官、特に直属上官の名前であります。即ち連隊長、中隊長であり、更に大切なのが連隊長の方針であります」とする[26]

1941年に近衛歩兵第2連隊に入隊した元兵士は、「三カ月の検閲が終わると近衛本来の教育である。守則の教育です。大宮御所七〜八カ所、宮城に十四カ所ほど、それぞれ勤務の守則が違う。この違う守則は全部暗記し動作も修得しなければならない。どこへ立哨戒してもよいように教育を受けねばならない…いろいろなことを想定して全部教育を受ける。どこの守則を、どこの守則は、と問われる。覚えられない人もあったが、だんだんに覚えた」と回想している[27]

1942年徴兵検査を受け中国の第234連隊第12中隊に配属された元兵士は、「学科は軍人勅諭と戦陣訓。広島当時一年余、朝の青年学校を経験しただけなので学科で頑張らねばと、以前より勉強していたので大いに助かった。入隊間もなく『勅諭と戦陣訓言える者は手を挙げよ』と言われ、躊躇せず手を上げたが、自分一人だったので鳥肌が立った」と述べている[28]

5分前行動[編集]

  • いまでもフッと「ドンガメ」乗りのころを思い出すが、「急速潜航ベーント開け」「急速浮上メーンタンクブロー」、活気のある総員配置についた行動号令。人港用意、前部ハッチ開け、何事にも「五分前」精神は風化なく、今も懐かしい教訓である。[29]
  • 昭和十四年六月海軍を志願し佐世保海兵団に入りました。海軍の一員となるや「早朝総員起こし五分前」に始まり起床以後、食事から休憩就寝に至るまで総て「五分前精神の涵養」でしたし[30]
  • 昭和十七年五月一日…佐世保第二海兵団相の浦分団に無事入団しました。…私達は兵科でしたので、寝るも起きるも、すべて「総員起床五分前」のラッパの合図で釣床降ろし、釣床納め等です。数回一番後にでもなったら平手打ちを食らうのです。[31]

早飯早糞早走り、3歩以上は駆け足[編集]

  • 内務班・初年兵教育・第五カ条 第一、早めし・早がけ・早ぐそ 第二、軍隊は「メンコの数」食事の事で、長年勤務した者が一番偉い 第三、要領を旨とすべし、員数の確保 第四、地方弁不使用。大声の軍隊語で話す 第五、兵器、衣服は陛下からの預かり物だ。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だと心得よ 右の五ヶ条は、初年兵の最大厳守事項でした。[32]
  • 翌十日朝、西部第八十四部隊の営庭は新入隊者の群で埋っていた。…第六中隊第五内務班は、歩兵・衛生兵の初年兵が約二十人、古兵は兵長殿はじめ二十五人位、合計四十五人程であった。朝礼、点呼、銃剣術、朝食、食缶返納、掃除、銃剣手入れ、通修整列、つまり、早飯、早糞、早走り、他の者より一秒でも早い者が勝ちである。[33]
  • 「早食い・早糞・早走り」は初年兵の必須条件だ。演習中の食事ときたら、有りっ丈のものを飯盒にぶち込んで、フォークでガァーッと口中へ押し込む。噛んでいたら暇がかかるし、早く腹がへる。これも戦闘間における給食の訓練である。初年兵は忙しい。たまに書く葉書一枚も消灯後便所へ行くふりをして、暗い電灯のなるべく近くを選んで、立ったままの走り書きである。[34]
  • 訓練は熾烈を極めた。然も凛冽の酷寒である。そして食缶洗いや洗濯の水の苦労は大変なものである。煙草一本吸う時間さえない、二個以上は整頓、三歩以上は駈足だ。[35]
  • 居住区(兵舎)内でも三歩以上あるく時は駆足で行かねば何が飛んで来るかわからない。とにかく厳格です。これに耐えきらずに脱走した者も何人かいた。上等兵以上は雨具をもって整列の号令が出ると、また逃亡かと不思議におもった。[36]

盗んででも「員数をつける」、泥棒の横行[編集]

  • 教育が済めばまた内務班の勤務が続く。先輩殿の衣服を洗濯し、干し、演習から帰り、取りに行けば洗濯物は無い。盗られたのだ。それを上官殿に訴えると「馬鹿もん、ボサッとしとるけん盗られるのだ」と反ってどなりつけられる。娑婆では人の物を盗った者が悪いのに、ここでは盗られた者がどなられる、困ったところだ。員数をつけるため自分も盗って来なければならない。員数員数の厳しきところである。[37]
  • 洗濯はたいたい夜の十時ごろからで、室内へ干しておくとよくぬすまれます。上級者のものをぬすまれるとまた(制裁を)やられる。洗濯物をよくぬすまれたり、ぎゃくにぬすみかえしたりしましたが、海軍ではぬすんだ者をドロボーといい、ぬすまれた方をベラボーといったりしました。[38]
  • 釘を打って取り付けているうち右に左にと曲がり使用不能になると隣の相手の釘を盗んで来なければ自分の任務が果たせない。まるで泥棒の集まりのような職場でした。軍隊と言うところは、支給された物品の員数観念が徹底していて、常に数だけは整えて置かなければならないと教育をされた。だから数が足りなくなったら、よその隊に行って盗んで来ても数を揃えると言うのである。[39]
  • 入隊前日の夕刻…出征祝賀の酒宴を盛大に催して下さいました。この席での話題は主として新兵時代の心得の指導でした。一、軍人は要領を本分とすべし 二、発声は大きな声で 三、支給品は盗まれたら盗み返せ と軍隊のOBは経験談を話してくれました。[40]

薬莢一つ無くしても全員で探す[編集]

  • 同僚の者が訓練中に三八式歩兵銃の一発の薬きょうを紛失したのだ。これを探すため一列横隊に並んで、薬きょうを雪の中へ足で踏んだものと判断して、雪を掻き分けながら探し続けたが見つけられなかった。時はもう夕方に入っており、手指は冷え切って真赤になり感覚はなくなりそうな状態だった。[41]
  • 寒さと教練にくたくたに疲れた。空薬莢を返納したが、初年兵の一人が「十四発分返納が一発足りない」と、班長が怒り、古参兵はうんざりした顔をする。どうなるかと思った。他の班は解散となり、第二班はそのまま演習場に引返しました。朝食抜きです。一列横隊に並んで演習場の雪を両手でかき分けながら午前中探しましたが出てきません。[42]
  • 擲弾筒で思い出すのは部品のリング(転輪)を落して、夕暮まで全員で捜すことを命ぜられたことであった。広い練兵場の中で、夕暮まで捜したが見付けることはできなかった。[43]

兵士の価値は一銭五厘、兵士より馬・武器が大事[編集]

  • 一路千葉県柏の第四航空教育隊へと向かった…班長の訓示では「お前達は消耗品である。一銭五厘(郵便葉書の値段)で幾らでも入ってくる。また、日に乾ききった桶である。これもみっちり締めなければ水が漏れる、水が漏れぬよう締め上げてやるから覚悟するように」と言われた。[44](1941年9月入営)
  • 昭和十六年十二月中旬、ついに来た白紙召集(教育召集)令状を受けとった。…呉軍港に碇泊している輸送船に乗船を完了した。ただちに出航である。客船ではなく貨物船である。設備はお粗末なもので、牛、豚並みである。この輸送船で思ったことは、静岡の第三十四連隊では、「お前達は一銭五厘並みだ、歩兵銃の弾丸は消耗品でもお前達より高価である。一発の弾丸でも貴重だ」と言われたことを思い出し、なるほど荷物並みで人間扱いではない、これが戦争かなと思った。[45]
  • 昭和十八年五月召集令状を受け取りました。…二年余りの馬との生活。人間より馬の方が大切に取り扱われていました。普段、馬の手入れや扱いをするとき、古兵から言われる言葉に「兵隊は一銭五厘の葉書で集められるが、馬は百円もする。人間より馬が大切だ」とあります。したがって馬の生死に関する疝痛を起こすと大変でした。[46]
  • そのような時に空襲を受けるようなことがあると、我々騎兵にとってはまことにみじめである。近くに林でもあれば馬をとばせてかくれるすべもあるが、はげ山の頂点ではただくつわをもって、じっと待つよりしかたがない。馬は活兵器である。これを手から放して自分だけ物陰にかくれることなど絶対に出来ないのだ。敵機の退散を待つばかりである。[47](1944年湘桂作戦で)
  • 昭和十九年七月、国境の饒河へ一個中隊二百名ぐらい移駐した。…そこで訓練です。その辺は湿地帯があり、木を切って組んで渡るが、馬が落ちると沈んでいく、もがきながら扇状の跡を残して沈んでいく。兵隊も一緒の時もある。兵は直ぐ降りればと思うが、馬は人命より大切とさえいわれている軍隊故、そうはいかない。[48]
  • 昭和十七年二月十日…弘前の部隊に入った。…大行作戦で河南省まで行ったりした。我々は火砲を持っているので山越えの時日本馬は大きいので崖から落ちたりした。大きな音がするので、見ると同年兵が手綱を持ったまま馬と一緒に落ちて行く。離せば助かるのに戦死してしまった。[49]
  • 内閣情報部「写真週報」1944年12月13日「御紋章と小銃 …制定された各式小銃にも前例に基づいて御紋章が記刻せられることとなって今日に至った…自己の身命を顧みず小銃を尊重擁護する至高の精神もまたこゝに発するのであって、実に畏き極みである」[50]
  • (1944年)一月二十五日 晴 中部二十二部隊(元歩兵第八連隊)に入隊。…消灯ラッパが鳴り響いてきます。…休む間もなく働き通しのうえ、怒鳴られ叱られ殴られて一日が終わります。カチッと音がします。「第二班の初年兵!起きろッ」やっと疲れた体を横にしての寝入りばな、整列した自分たちを不寝番の古参兵が睨みつける。「貴様たちは、よくものうのうと寝られるもんだな。この銃は畏くも天皇陛下から授けられたものである。その銃の撃鉄が起きていた、ということはこの鉄はまだ今まで働いていたんだ。鉄を手入れした貴様たちの全員の責任だ。鉄に、あなたを働かせて自分は寝ていて申し訳ありませんでした、と謝れ」[51]
  • 実は、その当時、このことが分かれば確実に死刑にされる菊の御紋章のある銃の木質部を焚いて暖をとり、それで私共は生き延びましたが、それができない多くの戦友達は、この四一〇〇メートルの山頂で凍死してしまいました。[52](ニューギニアのサラワケット越えで)
  • 昭和二十年六月八日、陸軍部隊五百人ぐらいを乗船させて移動中、バンガ海で島陰に隠れていたイギリスの潜水艦が発射した魚雷が、…さあ大変「救命具を海へ投げ込め」「海へ飛び込め」の大騒ぎとなりました。…陸軍の兵隊たちは銃を握り、片手で器具に掴まり泳いでいるので、目に付いた兵隊には「銃を捨てなさい!自分が死ぬぞ!」と叫び、銃を捨てさせました。菊の紋章が付いている歩兵銃をしっかり持っている兵隊さんに頭が下がりました。[53]

死の間際に「天皇陛下万歳」[編集]

  • 分隊長は私し〔ママ〕の身体に覆い重なってきましたので分隊長と呼んだが返事がありません。やられたなと感じた瞬間、突然、上半身を起し両手を挙げて「天皇陛下万歳」と二回叫んで再び私の上に倒れてきました。私は悔しくて涙が流れ声も出ません。[54]
  • よく「天皇陛下万歳」と唱えた人はいない「お母さん」だった。というけれども、〇〇班長をはじめ、何人かの人の「万歳」は現実に聞いていたし、実際に唱えた人が九死に一生を得て生還した実例は、我が部隊ではありました。[55]
  • 死に直面し天皇陛下万歳と叫ぶ者、悲壮な声でお母さ-んと母を呼びながら死んでいった者、それは今でも脳裏から離れません。[56]
  • 指揮班の〇〇上等兵が胸部貫通銃創。中隊長に抱かれて「やられてすみません……だんだん見えなくなりました……もう何も見えません」と虫の息。最後に声をふりしぼって「天皇陛下万歳!」と唱えて息絶えた。感激されてか中隊長は「よし、金鶏勲章だ」と大声で叫ばれた。[57]

階級より在籍年数、星の数よりメンコの数[編集]

  • 昭和十八年二月一日付で、一選抜の上等兵に進級しました。初年兵にとっては名誉なことですが、先輩や古参兵(中には札付きの万年古参兵もいる)をさしおいての進級はなかなか大変なものです。軍隊は「めんこの数」といって、階級より年数の多い方が幅をきかせる社会であるからです。[58]
  • 一年が過ぎた。上等兵に進級した。この時ほど何よりも嬉しく思ったことはなかった。本部付として対外的には他部隊の兵や下士官と接触の機会を持つ私の立場としては、無理からぬ事と思っていただきたい。しかし上等兵の星も対外的、外出時には格好良いが、自分の部隊内にあっては古兵には全然通用しないものと、しみじみと味わされたものである。[59]
  • 軍隊は階級がものを言うところですが、同じ中隊内、同じ班内ですとこれが通らないところです。「軍隊は飯の数」とも言われています。上等兵が一等兵に文句を言われたり、将校が下士官に叱られたり、私的制裁を受けたりしていたことは常識になっていました。「やい、伍長殿と奉っていればいい気になりやがって大きな面をするな。貴様、何年メンコ飯を食ってきたというんだ」と、任官ホヤホヤの若い伍長に一発かませるという光景はよく見かけました。[60]
  • 南京の下士候隊卒業の新品伍長の週番下士官殿にとっつかまり、いまにもピンタの一歩手前、命の綱と頼む兵長さんが現われ、週番の伍長に「わしが連れて行った。お前文句あるか」で終わりました。階級は下でも年次が古い、軍隊とは不思議なところです。[61](※兵長は伍長の一つ下の階級)

軍服は古着[編集]

  • その日のうちに着ていた私物は全部脱ぎ、支給品と着替えて兵隊らしくなった。しかし、支給された軍服はよくもこれまで耐えられたと思われる明治時代の製品であった。この詰襟の服は毎日の演習による破れがひどく、夜になると針と糸を出しては慣れぬ手つきで繕わなくてはならなかった。[62]
  • 私達、初年兵は、正月、部隊が帰って来た一月五日に正式に入隊しました。本隊が帰って来た時、その服装はボロボロでした。我々初年兵は支給されていた服を脱いで、ボロボロ服と交代、服も長靴も返納させられました。今度支給されたのは古い服で、修理したのや、血痕のあるものもありました。[63]
  • 内地で受領した新品の被服は全部脱がされ、古いよれよれの物と取り替えられ、編上靴もピカピカの新品は取り上げられ、代わりに支給されたのは皮のザラザラの靴の中に釘が出ている古い靴でした。そこで毎日釘を叩いて、ひっこめて演習に参加していましたが、二週間位たつと左足の平と腿が腫れて痛くなり、大隊本部の医務室へ二週間の入室となって、漸く痛みもとれ退室して中隊へ帰りました。早速、班長から「気合が抜けている」とビンタの嵐でした。[64]

足を靴に合わせる[編集]

  • 新しい軍服、靴など一式の支給と、着脱、手入れなどの指導を受けた。靴がうまくあわないのでがやがや騒いでいたら「軍隊では靴を足にあわせるのではなく、足を靴に合わせるのだ。多少のことは我慢せい」といわれた。自分は小柄のほうなので小さめのを選んでも、服も靴もだぶついていた。[65]
  • 私はいつも履いていた靴は今の二五センチでしたが、渡されたのは二七・五センチの靴でした。足を入れたらだぶだぶで靴の中で足が上下する。「これでは大きいので取り替えて下さい」と言ったら「軍隊では足に靴を合わせるのではなく、靴に足を合わせろ」と言われたことが忘れられない言葉でした。[66]
  • 同じ町内から三人が歩兵第四十八連隊(久留米)に入隊。…軍服は上下色の異なったようなお粗末な服で、靴も寸法が合わないものが支給され、その旨申し出たが「足を靴に合わせろ」と申し渡された。[67]

旧日本軍関連年表[編集]

明治期[編集]

大正期[編集]

昭和期[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 明治時代最初期には「徴兵告諭」の「海陸二軍ヲ備ヘ」などで海軍を先に表記することもあったが、早々に陸海軍を併記する場合は陸軍を先に表記することに改められた。
  2. ^ 『忠義公史料』東京大学史料編纂所
  3. ^ a b 『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
  4. ^ a b 黒川雄三 『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)
  5. ^ 黒野耐『帝国陸軍の〈改革と抵抗〉』(講談社、2006年)
  6. ^ 斎藤三郎『右翼思想犯罪事件の綜合的研究 : 血盟団事件より二・二六事件まで』司法省刑事局、1936年、78‐79。
  7. ^ 日本放送協会. “繰り返し戦争を回顧 後悔語る|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB”. www3.nhk.or.jp. 2021年10月13日閲覧。
  8. ^ 5 北支那方面軍健兵対策 昭和16年2月26日 北支那方面軍司令部(1画像目)”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年10月9日閲覧。
  9. ^ 私的制裁絶滅に関する件”. 陸密綴昭和14年. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年10月9日閲覧。
  10. ^ 36.鳥教第6号 私的制裁根絶に関する件通牒 昭和19年1月31日”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年10月9日閲覧。
  11. ^ 軍紀風紀の振粛に関する件陸軍一般へ通牒”. 陸密綴昭和19年. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年10月9日閲覧。
  12. ^ 石91直中日命第5号 直轄中隊日々命令(3画像目)”. 独立歩兵第12大隊 第5中隊陣中日誌 昭和20年1月1日~20年1月31日. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年10月9日閲覧。
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  15. ^ 吾れ赤道越えて戦えり”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第10巻. 平和祈念展示資料館. pp. 340-348(p.341-342). 2021年10月30日閲覧。
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  17. ^ 私の軍歴”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第18巻. 平和祈念展示資料館. pp. 18-27(p.21). 2021年10月30日閲覧。
  18. ^ 想い出の軍隊生活”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第15巻. 平和祈念展示資料館. pp. 209-214(p.210). 2021年10月30にち閲覧。
  19. ^ 追憶”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第15巻. 平和祈念展示資料館. pp. 251-262(p.254). 2021年10月9日閲覧。
  20. ^ 北支、戦線の思い出”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第18巻. 平和祈念展示資料館. pp. 200-209(p.202). 2021年10月9日閲覧。
  21. ^ 私の軍隊生活(その三)”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第16巻. 平和祈念展示資料館. pp. 82-93(p.84). 2021年10月9日閲覧。
  22. ^ 悲愴なり第二十二掃海艇”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第16巻. 平和祈念展示資料館. pp. 552‐560(p.553). 2021年10月9日閲覧。
  23. ^ 山浦瑞洲『一兵卒乃告白』煙霞書屋、1912年、12‐13。
  24. ^ 砲兵従軍記”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第6巻. 平和祈念展示資料館. 2021年10月9日閲覧。
  25. ^ 中支と大島防衛 再度のご奉公”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第14巻. 平和祈念展示資料館. pp. 284‐292(p.287). 2021年10月9日閲覧。
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  64. ^ 私の足跡”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第14巻. 平和祈念展示資料館. pp. 233-237(p.234). 2021年10月30日閲覧。
  65. ^ ミンダナオ従軍回顧録”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第4巻. 平和祈念展示資料館. pp. 118-134(p.118-119). 2021年10月30日閲覧。
  66. ^ 私の戦記 -北支派遣軍谷第四二〇九部隊通信隊-”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第16巻. 平和祈念展示資料館. pp. 229-239(p.231). 2021年10月30日閲覧。
  67. ^ ビルマ「龍」救援補充隊として”. 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第11巻. 平和祈念展示資料館. pp. 67-78(p.67). 2021年10月30日閲覧。

参考文献[編集]

  • 防衛庁防衛研修所戦史部 『戦史叢書 陸海軍年表 付兵語・用語の解説』(朝雲新聞社、昭和55年)
  • 防衛法学会 『新訂 世界の国防制度』(第一法規出版、平成3年)
  • 黒川雄三 『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]