華族
華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。
概要[編集]
江戸時代から明治時代になると、明治維新を推進する明治政府により、四民平等のもと、形式上は江戸時代の身分制度が廃止されることになったが、元公家、元武家、そして、伊藤博文に代表されるように国家に多大な功績をあげた一般市民らに対して、「華族」という身分と特権が与えられ(後述)、第二次世界大戦終結の2年後1947年の日本国憲法制定により消滅するまで、事実上、日本に身分制度は存続することとなった。
「華族」は、公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と呼ばれることがある。1869年(明治2年)に華族に列せられたのは、それまでの公卿142家、諸侯285家の計427家[1]。1874年(明治7年)1月に内務省が発表した資料によると華族は2891人[2][3]。
爵位制度以前[編集]
華族の誕生[編集]
明治2年6月17日(1869年7月25日)、岩倉具視の政策による版籍奉還と同日の太政官達54号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた[4]。公家137家・諸侯270家[注釈 1]・明治維新後に公家となった家5家[注釈 2]・維新後に諸侯となった家15家[注釈 3]の合計427家[注釈 4]は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族があった。
またこの後も新たな華族が加えられた。奈良興福寺の門跡や院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった26家は奈良華族と総称された。また、大久保利通の功により大久保家が、木戸孝允の功により木戸家が[注釈 5]、広沢真臣の功により広沢家が[注釈 6]、それぞれ明治天皇の特旨によって華族になったが、華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの3家のみである。さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫[注釈 7]も天皇の特旨によりこの時代に華族となっている。
華族の名称[編集]
華族という名称が採用された経緯ははっきりとしない。華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」・「名族」・「公族」・「卿家」などの案を持っていた。討議の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。
明治以前までは華族といえば公家の家格を表す名称で、摂家5家に次ぐ第2位の家格である清華家7家の別称だった。
平安時代末期までは家柄のよい者を指す言葉として用いられていた。
華族制度の整備[編集]
11月20日、旧・諸侯の華族は原則東京に住居することが定められた。ただし地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。また同月には旧・公家の華族の禄制が定められ、また華族はすべて地方官の貫属とする旨が布告された。
1871年(明治4年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ってその模範となることが求められた。また諸侯華族は2月20日にすべて東京府の貫属となった。7月14日には廃藩置県が行われ、知藩事としての地位も失った。
1874年(明治7年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。1877年(明治10年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。
1876年(明治9年)、全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別なく、系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。1878年(明治11年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。
また、1876年にはお雇い外国人の金融学者パウル・マイエットとこれを招聘した木戸孝允が共同で、華族や位階のための年金制度を策定した。40万人の華族に年間400万石(720万ヘクタール分)の米にあたる資金を分配することになり、最終的に7500万円分(現代で1.5兆円)が償還可能な国債のかたちで分配された[5]。
1878年(明治11年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。1882年(明治15年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。
岩倉は政治的には伊藤と協力関係にあったが、伊藤や木戸が構想した将来の議会上院形成のために華族を増員すること、具体的には維新の功労者を華族に加えることには強い拒否反応を示した。岩倉はそもそも華族が政治に参加することに反対だった。しかし1881年(明治14年)に国会開設の詔が出されると、岩倉もようやく伊藤の方針に同意した。岩倉の死後は、伊藤を中心に設置された制度取調局で華族制度の整備が進められた。
叙爵[編集]
爵位制度の検討[編集]
華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。1869年(明治2年)5月には華族を「公」・「卿」・「太夫」・「士」の四つに分け、公と卿は上下の2段階、太夫と士は上中下の3段階という計9等級に分ける案が三職会議から提出された。1871年(明治4年)9月には正院から左院に、「上公」・「公」・「亜公」・「上卿」・「卿」の5等級に分ける案が下問された。これを受けた左院は10月に、「公」・「卿」・「士」の3等級に分ける案を提出した。1876年(明治9年)には法制局が「公」・「伯」・「士」の3等級案を提出し、西南戦争以前は3等級案が主流となっていた。
1878年(明治11年)2月4日、法制局大書記官尾崎三良と少書記官桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」・「侯」・「伯」・「子」・「男」の5等級案が提出された。これは五経の一つである『礼記』の王制篇に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあるのにならったものである。
華族令発布による爵位制度の発足[編集]
1884年(明治17年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された[注釈 8]。
爵位の基準は、1884年(明治17年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、維新期の勲功を加味された一部の華族を除いては、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元・対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」が選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。
また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族の臣籍降下によって華族は増加した。
爵位制度の概要[編集]
爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位した。土地の所有権を示すヨーロッパや中国の爵位と異なり、この爵位は家に対して与えられるものであり、複数の爵を一人の個人が所有することや、同じ家族内で別の爵位を名乗るような事態は存在しなかった。
爵位の上下により、叙位や宮中席次などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で従一位になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は貴族院議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。
英語呼称[編集]
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ英国のprince、marquess、earl、viscount、baronに相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは王族に与えられる爵位であるため、近衛文麿公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と日本語訳されるのは、通常はdukeである。
叙爵基準による最初の叙爵[編集]
- 公爵
- 侯爵
- 伯爵
- 公家からは大臣家、大納言の宣任の例が多い[注釈 12]堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当となった。
- 公家の東久世家は参議を極官とする羽林家で大納言宣任の例も皆無だったが、維新における東久世通禧の功が特に考慮されて伯爵となった。また武家の対馬藩は数千石余で、肥前国内の飛地1万石を併せても表高の2万石を下回っていたが、藩主宗家は朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった。平戸藩主松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であることから明治天皇の外戚に当たることが考慮されたものとみられる。
- 西本願寺・東本願寺の世襲門跡家だった両大谷家も伯爵となった。
- 「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道・山縣有朋・大山巌などの維新の元勲も伯爵に叙された。
- 子爵
- 男爵
- 「一新後新たに家を興したる者」が多く含まれる。
- 明治維新後に堂上公家に組み入れられた奈良華族は男爵相当となった。
- 明治維新後に石直しなどの申告により1万石を越えると申請し、諸侯大名に取り立てられた元・交代寄合(旗本)のいわば新規の諸大名[注釈 13]は、元来大名であった者が与えられた子爵ではなく、男爵とされた。同じく独立した大名とされた旧徳川御三家の御附家老諸家なども、諸侯ではあるが一段落ちる男爵とされた。5万石という並の大名家を上回る知行を有していた加賀藩家老家などの、大藩の家老家からものち男爵に叙せられる家が出た。
- 地下家で最も家格が高い局務家の押小路家と官務家の壬生家の2家は、堂上家に準じて男爵を与えられた。出納家の平田家[注釈 14]以下他の地下家はすべて士族として扱われた。
- 大社の由緒の長い世襲神職家14家[注釈 15]、浄土真宗系の世襲門跡家4家[注釈 16]も男爵となった。
- 琉球王家の尚氏の分家だった伊江家と今帰仁家の2家も男爵となった。
- 「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者のうち伯爵・子爵相当とみなされなかった者の家が男爵に叙せられた。
- 「先祖が南朝の功臣である」として男爵となった家もある。柳川藩士であった名和氏は名和神社の宮司となり、男爵位を授けられた。内大臣・久我建通の四男の通城は南朝忠臣であった北畠家を家名復興して相続し男爵となった。肥後国の米良氏は無高だが交代寄合という特殊な家であったが、南朝の忠臣であった菊池氏の子孫であるとして菊池に改姓、菊池武臣が男爵となった。
華族取立に関する問題[編集]
華族になれるとされた基準は曖昧であり、様々な問題が発生した。華族となれなかった人物やその旧臣などの人物は華族への取り立てを求めて運動を起こしたが、多くは成功しなかった。松田敬之は900名に及ぶ華族請願者をまとめているが、和歌山県の平民北畠清徳のように旧南朝功臣の子孫を称して爵位を請願したが、系譜が明らかではないとされ拒絶された例も多い[6]。また家格がふさわしいと評価されても相応の家産を持っていることが必要とされた[7]。
旧・諸侯による運動[編集]
- 江戸幕府第15代将軍でかつ内大臣でもあった徳川慶喜は、幕府滅亡後に徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲って同家の隠居扱いとなっていたが、1902年(明治35年)になって養子・家達とは別に公爵を授けられ、宗家とは別家(徳川慶喜家)を創設した。
- 請西藩主林忠崇は戊辰戦争で旧幕府側についたことを理由に改易され、維新前に諸侯だった大名家中、唯一士族に編入された[7]。旧・家臣や領民が長く叙爵運動を続け、1894年(明治27年)になって忠崇の甥である林忠弘が、本来よりも1つ低い男爵に叙せられた[7]。
- 越前松平家福井藩の御附家老の本多家は、陪臣とされ旧・大名としての待遇を受けることができず、当主の本多副元は華族ではなく士族とされた。これを不服とした旧家臣・旧領民らによって暴動(武生騒動)が勃発した。武生騒動は多くの処罰者を出したが、それらの運動の結果、本多家は徳川御三家の附家老と同じく1879年(明治12年)に改めて華族に列せられ、1884年(明治17年)に男爵に叙された。
旧・南朝功臣による運動[編集]
特権[編集]
司法[編集]
華族や勅任官・奏任官は1877年(明治10年)の民事裁判上勅奏任官華族喚問方(明治10年10月司法省丁第81号達)により民事裁判への出頭を求められることがなく、また華族は1886年(明治19年)の華族世襲財産法により公告の手続によって世襲財産を認められ得た。
特権[編集]
その他、宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている[8]。
- 爵の世襲(華族令第9条)[9]
- 家範[注釈 17]の制定(華族令第8条)
- 叙位[注釈 18](叙位条例、華族叙位内則)
- 爵服の着用許可(宮内省達)
- 世襲財産の設定(華族世襲財産法)[9]
- 貴族院の構成(大日本帝国憲法・貴族院令)[9]
- 特権審議(貴族院令第8条)
- 貴族院令改正の審議(貴族院令第13条)
- 皇族・王公族との通婚(旧皇室典範・皇室親族令)
- 皇族服喪の対象(皇室服喪令)
- 学習院への入学(華族就学規則)
- 宮中席次の保有(宮中席次令・皇室儀制令)
- 旧・堂上華族保護資金(旧・堂上華族保護資金令)
財産[編集]
1886年(明治19年)に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、1915年(大正4年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は、旧堂上華族保護資金令[注釈 19]により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。
教育[編集]
学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。
貴族院議員[編集]
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。
また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。
なお、華族には衆議院議員の被選挙権はなかったが、高橋是清のように隠居して爵位を息子に譲った上で立候補した例がある。
皇族・王公族との関係[編集]
同年定められた旧皇室典範と皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者[注釈 20]に限定された(1918年(大正7年)の旧皇室典範の増補により皇族女子は王族または公族に嫁し得ることが規定された)。
また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。
身分[編集]
爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された[注釈 21]。しかし女戸主は1907年(明治40年)の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている[10]。また有爵者は原則として隠居を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により民法と同様の隠居が可能になった[11]。
華族令によると、華族とされる者は有爵者のみであるとされていたが、皇室典範にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘が行われた[12]。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、帝室制度調査局による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった[13]。また1907年(明治40年)の華族令改正より、華族とされる者は家督を有する者および同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻などにより分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、妾はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった(皇族も同様で、大正天皇の実母である柳原愛子は皇族ではない)。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。
華族身分の剥奪・返上[編集]
奈良華族などの財政基盤が不安定であった家や、松方公爵家・蜂須賀侯爵家のように当主のスキャンダルによって華族身分を返上することも行われた。多くの場合、自主的な返上にとどまるが、土方伯爵家(土方与志)の例(スキャンダルは治安維持法関連だが、没収時はソ連にいたため逮捕はされず。)などは華族身分が剥奪されている。また、華族令では懲役以上の刑が確定すれば自動的に爵位を喪失するものとされていた。
統制[編集]
華族は宮内大臣と宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。
自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。
批判[編集]
華族制度は成立当初、一君万民の概念に背き、天皇と臣民の間を隔てる存在であり、華族は無為徒食の徒であるとして華族制度の存在に反対するものもいた。島地黙雷や小野梓元老院書記官が反対の論陣を張り、『朝野新聞』紙上で激しい論戦が繰り広げられた。『朝野新聞』は1880年(明治13年)に「華族廃すべし」と題した論説を掲載している。また政府内でも、井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している。
板垣退助も華族制度は四民平等に反するという主張を持っており、1887年(明治20年)に伯爵に叙された際も2度にわたって辞退した。しかし天皇の意志に背くことは出来ずに結局は爵位を受けたが、この時には華族制度を疑問視する意見書を提出している。また、1907年(明治40年)には全華族に対して華族の世襲を禁止するという意見書を配り、谷干城と激しい論争になった。死の直後には「華族一代論」を出版し、息子鉾太郎に遺言して襲爵手続きも行わせなかったため、板垣伯爵家は廃絶した。部落解放運動家の松本治一郎は広田内閣当時に衆議院議員として「不当にたてまつられる華族の存在こそは部落民が不当にさげすまれる原因であり華族制度を廃止すべきと思うがどうか」と質問した。
実際[編集]
財政[編集]

華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。
一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数10年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧・家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。
華族銀行として機能していた十五銀行が金融恐慌の最中、1927年(昭和2年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。
スキャンダル[編集]
華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮(柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。
進路[編集]
制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。
貴族院議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には醍醐忠順のように腰弁当徒歩で登院したり、嵯峨公勝のように登院に不熱心な議員も存在した[14]。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、家計の助けとなった。しかしこのことで、同爵間の議席のたらい回しが横行したり、水野直のように各家の生活上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した[15]。
陸軍士官学校には明治10年代(1877年(明治10年) - 1886年(明治19年))、華族子弟のための特別な予科(予備生徒隊)が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。大名・公家華族出身の有名な軍人としては、陸軍では前田利為や町尻量基や山内豊秋、海軍では醍醐忠重や小笠原長生らがいる。軍人華族はのちに、戦功により叙爵された職業軍人(とその子弟)が主となった。
進路として最も適性があったと思われる国家機関は、宮内省である。特に旧・堂上華族は、皇室(朝廷)との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代天皇も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては木戸幸一(商工省)や岡部長景(外務省)、広幡忠隆(逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかであったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、宮内省へ転じている。
学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川生物学研究所や林政史研究室(のちの徳川林政史研究所)を開いた徳川義親(植物学)、「蜂須賀線」で知られる蜂須賀正氏(鳥類学)、D・H・ローレンスを研究した岩倉具栄(英文学)らが代表例である。大山柏は父・巌の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。
珍しい進路に進んだ例としては、映画の小笠原明峰(本名・長隆、小笠原長生子爵嫡男)と章二郎(同・長英、次男)の兄弟、演劇の土方与志(本名・久敬、伯爵)が挙げられる。小笠原明峰は映画界に入ったことで廃嫡となり、土方はソ連での反体制的言動により爵位剥奪となった。
革新華族[編集]
昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。近衛文麿・有馬頼寧・木戸幸一・原田熊雄・樺山愛輔・徳川義親などが知られる。
廃止[編集]
1947年(昭和22年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。
当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(補則第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。昭和天皇は堂上華族だけでも存置したい意向であり、幣原喜重郎首相に対して「堂上華族だけは残す訳にはいかないか」と発言している[16]。自ら男爵でもあった幣原もこの条項に強いこだわりを見せており[注釈 22]、政府内では「1.天皇の皇室典範改正の発議権の留保」「2.華族廃止については、堂上華族だけは残す」という二点についてアメリカ側と交渉すべきか議論が行われたが、岩田宙造司法大臣から「今日の如き大変革の際、かかる点につき、陛下の思召として米国側に提案を為すは内外に対して如何と思う」との反対意見が出され、他の閣僚も同調したことから、「致方なし」として断念された[16]。結局、華族制度は衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。
小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。廃止後、華族会館は霞会館(運営は、一般社団法人霞会館)と名称を変更しつつも存続し、2021年(令和3年)現在も旧・華族の親睦の中心となっている。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ このうち広島新田藩浅野家は廃藩後に華族となることを辞退した。
- ^ 松崎家(松崎万長家)・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家(北小路俊昌家)・若王子家(聖護院院家若王子住職家)。
- ^ 徳川御三卿のうち2家(一橋徳川家・田安徳川家)、徳川御三家の附家老家5家(成瀬家・竹腰家(尾張徳川家)、安藤家・水野家(紀伊徳川家)、中山家(水戸徳川家))、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩主吉川家、1万石以上の所領を持つ交代寄合6家(山名家、池田家、山崎家、平野家、本堂家、生駒家)、1万石以上の所領を持つ高家だった大沢家。ただし大沢家は所領の水増し申告が露見し1万石以下であることが確認されたことから、後に華族の身分を剥奪され士族に編入された。
- ^ 徳川御三卿の清水徳川家は当主不在であり、翌年に徳川篤守が相続した際に華族に列せられた。
- ^ 大久保家と木戸家は1878年(明治11年)5月23日に華族に列した。いずれも後に侯爵。
- ^ 広沢家は1879年(明治12年)12月27日に華族に列した。後に伯爵。
- ^ 南北朝時代の南朝方の忠臣だった新田義貞の功により新田家(新田岩松家)が、名和長年の功により名和家が、菊池武光の功により菊池家(米良菊池家)が、それぞれ華族になっている。いずれも後に男爵。なお、楠木正成の子孫は特定に至らなかった。
- ^ ただし、全ての華族が同時に叙爵されたわけではなく、戸主が女性であった家や終身華族・門跡華族・戸主が実刑を受けていた芝亭家などは叙爵が遅れた。
- ^ 清水徳川家で初め徳川篤守が伯爵、次代の徳川好敏が男爵となったが、これは篤守が爵位を返上ののち、家督を継いだ好敏が改めて自身の功績により男爵に叙せられたものである。
- ^ 大名家の表向きの石高である「草高」ではなく、実収を基準に決められた石高を現米とする。
- ^ 尚氏当主の尚泰の叙爵は翌年の1885年(明治18年)5月2日。叙爵内規では「旧・琉球藩王」となっている。
- ^ 中納言を一旦辞すことなく直に大納言に任じられることを「直任」といい、一旦中納言を辞した後に改めて大納言に任じられることよりも格上とみなされた
- ^ 成羽藩、矢島藩、村岡藩
- ^ 平田家は家格こそは押小路家・壬生家の次とされていたが、実質においては「地下官人之棟梁」として両家と同格扱いを受けていた。詳細は西村慎太郎『近世朝廷社会と地下官人』第一部「近世地下官人の組織と制度」第二章<近世地下官人組織と「地下官人之棟梁」>に詳しい。
- ^ 北島家・千家家(出雲大社)、到津家・宮成家(宇佐神宮)、河辺家・松木家(伊勢神宮)、津守家(住吉大社)、阿蘇家(阿蘇神社)、紀家(日前神宮・國懸神宮)、高千穂家(英彦山神社)、小野家(日御碕神社)、金子家(物部神社)、西高辻家(太宰府天満宮)
- ^ 渋谷家(佛光寺)、華園家(興正寺)、常磐井家(専修寺)、木辺家(錦織寺)。ただしいずれの門跡も当時は皇族や摂家から養子に入った者であった。
- ^ 華族の一族内に限って通用する法規
- ^ 有爵者、もしくは有爵者の嫡子が20歳になると従五位に叙せられる。
- ^ これは、題名が「旧堂上華族保護資金令」であり「堂上華族保護資金令」が廃止されたため「旧」を付しているのではない。明治45年皇室令第3号。
- ^ ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。大正天皇第2皇子の雍仁親王(秩父宮)が松平恒雄長女の節子(勢津子妃)と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(子爵会津松平家の当主は恒雄の兄の容大、その跡を恒雄の弟の保男が継いでおり、結婚に際して保男が勢津子の養父となった)。
- ^ 姫路藩主酒井家で、酒井文子が当主を務めたのち、満8歳で家督を譲られた忠興が同時に伯爵を授爵している。
- ^ 白洲次郎の各種述懐による。
出典[編集]
- ^ 浅見雅男 『華族誕生』リブロポート、1994年、24頁。
- ^ 神谷次郎、安岡昭男et al.、小西四郎(監修) 『幕末維新事典』新人物往来社、1983年9月20日、596 - 599頁。
- ^ 同じ時期の士族は188万3265人、卒7246人。旧・神官8914人、僧19万8435人、尼7680人。平民3151万4835人(このほかに樺太人2374人)。『幕末維新事典』による
- ^ 居相正広 『華族要覧(第1輯)』居相正広、1936年9月28日、21頁。doi:10.11501/1018502。
- ^ 昔の「1円」は今のいくら?1円から見る貨幣価値・今昔物語 三菱UFJ信託銀行。
- ^ 佐藤雄基「松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)」『史苑』第78巻第2号、2018年、109 - 110頁、doi:10.14992/00016470。
- ^ a b c 細野哲弘「一文字大名 脱藩す」『特技懇』第290号、特許庁技術懇話会、2018年、130 - 137頁。
- ^ 酒巻芳男「第11章 華族の特権」 『華族制度の研究 在りし日の華族制度』霞会館、1987年、301 - 331頁。
- ^ a b c 浅見雅男 『華族たちの近代』NTT出版、1999年、20頁。
- ^ 小林和幸 2013, pp. 75–76.
- ^ 小林和幸 2013, pp. 66.
- ^ 小林和幸 2013, pp. 67–78.
- ^ 小林和幸 2013, pp. 76.
- ^ 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の昭和』中央公論新社〈中公文庫〉、243 - 252頁。ISBN 978-4-12203542-3。
- ^ 内藤一成 『貴族院』同成社、2008年、122頁。
- ^ a b “芦田均日記 憲法改正関連部分(拡大画像) 日本国憲法の誕生”. ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2020年10月15日閲覧。
参考文献[編集]
- 浅見雅男 『華族誕生 ―名誉と体面の明治』中央公論社〈中公文庫〉、1999年。ISBN 4-12-203542-2。
- 小林和幸「第一三帝国議会貴族院諮詢の「華族令」改正問題について(小名康之教授・松尾精文教授退任記念号)」『青山史学』第31号、青山学院大学文学部史学研究室、2013年、63 - 78頁、ISSN 0389-8407、NAID 120005433833。
- 『日本帝国国勢一斑. 第6回』内務省、1911年。doi:10.11501/805947。
- 香川敬三(總閲) 編 『岩倉公實記. 上卷』皇后宮職、1906年。doi:10.11501/781063。
- 多田好問 編 『岩倉公実記. 下巻 1』皇后宮職、1906年。doi:10.11501/781064。
- 多田好問 編 『岩倉公実記. 下巻 2』皇后宮職、1906年。doi:10.11501/781065。
主な関連書籍[編集]
- 浅見雅男『華族たちの近代』NTT出版、1999年(平成11年)/中公文庫、2007年(平成19年) ISBN 4-12-204835-4
- 小田部雄次『華族-近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社[中公新書]、2006年(平成18年) ISBN 4-12-101836-2
- 小田部雄次『華族家の女性たち』小学館、2007年(平成19年)、ISBN 4-09-387710-6
- 千田稔『華族事件録 明治・大正・昭和』 新人物往来社、2002年(平成14年) ISBN 4-404-02976-4
- 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年(平成21年) ISBN 4-06-288001-6
- 保阪正康『華族たちの昭和史』毎日新聞社、2008年(平成20年) ISBN 4-620-31918-X
- 『華族のすべてがわかる本 明治・大正・昭和』新人物往来社、2009年(平成21年)、ISBN 4-404-03728-7
- 「歴史読本」編集部 編『日本の華族』新人物往来社[新人物文庫]、2010年(平成22年) ISBN 4-404-03922-0
- 『皇族・華族古写真帖』新人物往来社、2003年(平成15年)、ISBN 4-404-03150-5
- 酒井美意子『ある華族の昭和史-上流社会の明暗を見た女の記録』主婦と生活社、1982年(昭和57年)
- 『大久保利謙歴史著作集3 華族制の創出』吉川弘文館、1993年(平成5年)
- 森岡清美『華族社会の「家」戦略』吉川弘文館、2001年(平成13年) ISBN 4-642-03738-1、上記2冊は大著研究
- 華族史料研究会 編『華族令嬢たちの大正・昭和』吉川弘文館、2011年(平成23年) ISBN 4-642-08054-6
- 歴史読本2013年10月号「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」歴史読本編集部