長崎市への原子爆弾投下

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座標: 北緯32度46分25.4秒 東経129度51分47.6秒 / 北緯32.773722度 東経129.863222度 / 32.773722; 129.863222[注釈 1] 長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分[注釈 2]に、アメリカ軍日本長崎県長崎市に対して投下した原子爆弾[注釈 3](以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。これは、実戦で使われた人類史上二発目の核兵器である[注釈 4]。この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した[注釈 5]

長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原爆投下を指すことが多い。

原爆投下から15分後に香焼島から撮影されたキノコ雲(松田弘道撮影)
原爆投下前の爆心地付近(長崎市浦上地区)
投下後の同一地点 目標が完全に破壊されている
破壊された浦上天主堂(1946年1月7日撮影)
荒野状態の浦上天主堂付近
破壊された寺院と仏像(原爆投下6週間後の1945年9月24日撮影)
『The General Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』。日本映画社撮影映像を米軍が編集したもの。

原爆投下時[編集]

テニアンから小倉上空[編集]

8月6日広島原爆投下作戦において観測機B-29グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。

その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた[1]

出撃機は合計6機であった[注釈 6]

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなったのである[注釈 7]

ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した[注釈 8]

先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。

硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった[注釈 9]。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにした。

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために、目視による投下目標確認に失敗する。なお、この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7km)の残煙と靄だといわれる(アメリカ軍の報告書にも、小倉市上空の状況について『雲』ではなく『煙』との記述が見られる)。この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言している[2]。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。

この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり[注釈 10]、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。

長崎上空[編集]

長崎に向かう途中、トラブルが発生した。グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。直後、「チャック! どこにいる?」という、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストとニアミス。危うく空中衝突をするところであった。

長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。

ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた[3]

補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した[4]。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。

「街が見える!」

Tally ho![注釈 11] 雲の切れ間に第2目標発見!」

スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、高度9,000mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘テニスコート上空、高度503mプラスマイナス10m[注釈 12]で炸裂した(長崎市松山町171番地)[注釈 13]

キノコ雲

ボックスカーは爆弾を投下後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティストから爆発の圧力、気温などを計測する3個のラジオゾンデ落下傘をつけて投下された[注釈 14]。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村(爆心地から11.6km)、田結村 (12.5km)、江の浦村 (13.3km) に落下した[注釈 15][5]

ボックスカーとグレート・アーティストはしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。

長崎を090158Zに有視界で爆撃した。戦闘機の迎撃も、対空砲火もなし。結果は「技術的には成功」といえるが、他の要素のため、次の行動に移る前に、会議が必要である。外見上の効果は広島と同じ。投下後の機内の故障により、沖縄に向かう必要あり。燃料は沖縄までしかない。

長崎市編『ナガサキは語りつぐ』岩波書店 1995年 91頁)[注釈 16]

この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っている[注釈 17]

帰還[編集]

ボックスカーは長崎市上空を離脱する際には残燃料約1000であり、計算では沖縄の手前120kmから80kmまでしか飛べないと考えられた。スウィーニーはエンジン回転を落とし降下しながら燃料を節約する方法で午後2時に沖縄県読谷飛行場に緊急着陸した[6]。残燃料は僅か26ℓであったという。着陸後、スウィーニーはドーリットル空襲で名を馳せたアメリカ第8航空軍司令官ジミー・ドーリットル陸軍中将と会談した。燃料補給と整備が終了したボックスカーとグレート・アーティストは17時過ぎに離陸、23時06分にテニアン島に帰還した。

長崎原爆の威力[編集]

長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。

長崎市は周りがで囲まれた特徴ある地形であったため、熱線爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。

仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、本州九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市若松市八幡市門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測される[注釈 18]

長崎原爆投下の背景と経緯[編集]

長崎原爆は自然界に極微量しか存在しない元素プルトニウム239を使用する。またプルトニウム原爆はウラン原爆とは異なる挙動を示すため、構造が全く異なるものが必要である。そのため、その開発はウランを使用する広島原爆とは違った道程を辿った。

超ウラン元素プルトニウム[編集]

プルトニウムの歴史は、まずウラン原子核原子番号92)の核分裂の実験の際に、原子番号93,94の元素の存在が予言されたことに始まる。1940年に原子番号93のネプツニウムが発見された。次いで1941年2月に原子番号94のプルトニウムがカリフォルニア大学バークレー校グレン・シーボーグにより発見された。

この頃の世界情勢は1939年9月にヨーロッパ第二次世界大戦が勃発しており、またその頃に亡命物理学者レオ・シラードF・D・ルーズベルト大統領宛に原爆開発の歴史的な進言書(アインシュタイン=シラードの手紙)を送っていた。

プルトニウムが兵器原爆の原材料としての関心を集めるのも時間の問題であった。

なお1940年3月には「フリッシュ&パイエルス覚書」 (Frisch-Peierls memorandum) により、原爆の実現可能性が示されており、核分裂のエネルギーを利用する軍事研究が既に始まっていた。

プルトニウム生産原子炉[編集]

前述の通り、プルトニウムは自然界に極微量しか存在しない超ウラン元素である。従いプルトニウム原爆の第一の関門は如何にしてプルトニウムを生産するかである。プルトニウムはウラン238中性子を吸収し、二段階のベータ崩壊を起こしてプルトニウム239に変換することにより生成する。この過程を効率よく行う課題があった。

1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争大東亜戦争)が勃発した。この直後、シカゴ大学アーサー・コンプトンは「冶金研究所」(Metallurgical Laboratory, 隠蔽のために無関係な名称が付けられた)にてプルトニウムの研究を開始する。研究のため、コンプトンはエンリコ・フェルミ、レオ・シラード、グレン・シーボーグなど核分裂の研究者をシカゴ大学に呼び集めた。

1942年5月、プルトニウム増殖の技術研究の原子炉シカゴ・パイル1号 (CP-1) の開発が開始した。原子炉CP-1はシカゴ大学キャンパス内のアメフト場 (Stagg Field) に作られ、その年の12月にはパイルは臨界実験に成功する。1942年8月には、シーボーグは計量可能量のプルトニウムの分離に成功する。しかしCP-1はプルトニウムの実生産にはスケールが小さすぎるため、直ちに実生産プラントの計画が始まった。プルトニウム原爆の製造に必要量のプルトニウムを生産するためには、巨大設備が必要であることが判明した。

なお、1942年5月にはジェームズ・コナントJames Bryant Conant, ハーバード大学総長およびNational Defense Research Committee議長)より、ウラン原爆とともにプルトニウム原爆の開発に着手するよう、科学研究開発局局長のヴァネヴァー・ブッシュに進言している。

ブッシュらは巨費を要する原爆の開発・製造を国家事業とするようにルーズベルト大統領に提言し、大統領はこれを承認した。これをうけ、1942年9月にレズリー・グローヴスを統括指揮官とする秘密国家プロジェクト「マンハッタン工兵管区」が開始された。通称マンハッタン計画と呼ばれる原爆の開発・製造プロジェクトである。

マンハッタン計画の下、プルトニウム生産の巨大プラント建設が始まった…

長崎原爆投下都市の選択[編集]

被爆以前の長崎[編集]

1570年、日本初のキリシタン大名とされる大村純忠による長崎開港以降、それまで一寒村に過ぎなかった長崎はポルトガル中国との海外貿易の拠点として飛躍的に発展、長崎港に注ぐ中島川沿いを中心に街が形成されていった。1641年には、ポルトガル人が追放され「空き物件」となっていた出島(1636年完成)に平戸からオランダ商館が移転。1859年の開国まで、西洋との唯一の窓口となる。

一方原爆が投下された浦上地区は、中島川流域とは金比羅山標高360m)で隔てられていた(原爆被害を考える上でこの地理関係は重要である)。長崎港に注ぐ浦上川の下流に新田塩田が開発されたが、長崎街道の「脇道」である時津街道が通る一農村に過ぎなかった。しかし、多くのキリシタンが地下組織を作り、禁教下も独自の信仰を守り続けた隠れキリシタンの里であった。

明治維新後、これまで「裏道」に過ぎなかった浦上地区には九州鉄道(現:長崎本線)が敷設され開発が進む。長崎も「西洋との唯一の窓口」という役割は終えたが、長崎海軍伝習所の流れを汲む造船業や、上海など大陸と日本を結ぶ船舶航路の拠点として発展を続ける。長崎港口に浮かぶ伊王島高島端島(軍艦島)では石炭が見つかり、鉱山として開発され、多くの労働力も集まった。主力産業であった造船、鉱業は三菱財閥により支えられており、企業城下町でもあった。

信仰の自由を得た浦上の信徒らは、1914年、約30年の歳月を費やし、東洋一のロマネスク様式の名建築とも評された浦上天主堂を建立する。1920年に浦上が長崎市に編入された後も、長崎電気軌道の延伸などもあり、三菱製鋼所や三菱兵器工場などの工場施設、長崎医科大学長崎商業学校鎮西学院などの文教施設、競馬場刑務所などの公的施設が整備、拡充されていった。 長崎市の人口数は1940年の調査で252,630で全国11位、九州では福岡市八幡市に次ぐ人口数の都市であり、戦後に約100万人の人口になる仙台市千葉市よりも当時は多かった。

原爆投下直前[編集]

朝から警戒警報が出ており、一旦は避難した市民も多かったが、午前10時過ぎには解除されたため、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、は、軍需工場の作業に戻ったとされる。長崎原爆戦災誌によると、広島の新型爆弾の惨状を聞いた永野若松県知事は8日夜、警察の部課長や署長を官舎に集め、同じ爆弾が長崎に落とされる恐れもあるとして、明日にでも会議を開いて対策を検討しようと指示を出した。そして9日、避難命令が一番いいと考えた永野知事は会議を招集したものの、空襲警報が出て(9日朝の時点)警察幹部は長崎市立山の県防空本部(立山防空壕)を動けなかったため、知事が自ら同本部へ駆けつけ、会議を始めた途端に爆弾が投下され、壕内の電気が消え真っ暗になった。とされている。また同盟通信社長崎支局では、当日午前11時に県の防空課長から、新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいとの招集があったとされる。原爆投下はその数分後であり、原爆投下直前に「長崎市民は全員退避せよ」との臨時ニュースが福岡、熊本、佐賀3県のラジオ放送で流れたことも分かっている[7]。その臨時ニュースは、「総退避」の叫び声が流れる中、原爆の投下と同時に無変調となった。

長崎原爆の被害[編集]

原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させた。爆心地である浦上地区は長崎市中心部から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であり、広島市の場合と異なり県や市の行政機能は全滅を免れている[注釈 19]。浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時に告解ゆるしの秘跡)を行っていたが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。

長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと言われている[注釈 20]

特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張などで広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したという事例(二重被爆)も確認されている[注釈 21][8]

被爆後の救援[編集]

逃げる被爆者たち(山端庸介撮影)
復旧した長崎本線1946年米国戦略爆撃調査団撮影)。画面中央は未復旧の長崎電気軌道の線路である。

当時、長崎県庁の防空本部は、市内諏訪神社下の山腹に設けられた地下壕にあり、被爆時たまたまここで空襲対策会議中だったこともあって、県知事以下の防空本部機構は健在であった。しかしながら、被爆直後現地とは一時通信が途絶し、また火災が急速に拡大する中で救護活動の立ち上がりは困難を極めた。

現地では、薬品や器材が不足する中、生き残った永井隆を初めとする医師看護師たちによって救護活動が開始されたが、原爆は事前に定められていた医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。所轄警察署(稲佐署・長崎署)や警察警備隊からも救護隊が出動したが、道路の途絶や激しい火災が活動の立ち上がりを阻んだ。こうした混乱の中、国鉄の救援列車(市内被爆のため長与駅で抑止されていた下り旅客列車を転用したもの[注釈 22] )が、原爆投下から僅か3時間後で炎がまだ燃え盛る爆心地近くまで接近し、多数の負傷者を乗せて沿線の病院などへ搬送した。

夕方には、近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の警防団などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請した。救援列車は、夜半頃までの間、最初の列車を含めて4本が運転され、負傷者を諫早、大村、川棚、早岐方面の医療施設へ搬送した。

長崎原爆の遺跡・祈念碑・場所など[編集]

浦上天主堂に於ける慰霊祭, 昭和20年11月23日

長崎市では被爆建物の保存よりも復興を優先的に実施したと言われている。そのため、浦上天主堂をはじめとする被爆建物のほとんどが取り壊され、原爆ドームのような被爆の状況を視覚的に理解できる遺構は極めて少ない。遺跡の文化財指定の機運が高まり、長崎原爆遺跡が2013年に国登録記念物、2016年に国史跡に指定された。

北九州市(旧小倉市)の祈念碑[編集]

長崎の鐘(後ろの建物は北九州市立中央図書館

前述した通り、8月9日当時の原爆投下第一目標は当時の小倉市であった。しかし天候不順など様々な要因が偶発的に重なり、小倉市は原爆投下を免れ、第二目標の長崎市に落とされた。戦後この事実が明らかにされた小倉市では、当初の予定通り小倉市へ原爆が投下された場合、目標とされていた旧小倉陸軍造兵廠跡地の勝山公園に祈念碑を立てた。その後長崎市から「長崎の鐘」が贈られ、毎年8月9日に原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行っている。

長崎原爆をテーマとした作品[編集]

小説[編集]

戯曲[編集]

詩集[編集]

  • 山田かん『山田かん詩集』など
  • 詩・福田須磨子、下田秀枝、筒井茅乃、香月クニ子、朗読 吉永小百合『第二楽章 長崎から』1999

歌集・句集[編集]

随筆・手記[編集]

  • 永井隆長崎の鐘』1949、『この子を残して』
  • 筒井茅乃(永井隆の実娘)『娘よ、ここが長崎です』
  • 秋月辰一郎『長崎原爆記』1966
  • 福田須磨子『われなお生きてあり』1967
  • 美輪明宏『紫の履歴書』1968
  • 秋月辰一郎『死の同心円』1972
  • 調来助『長崎原爆体験 医師の証言』1982

映画[編集]

山田洋次『母と暮せば』2015

音楽[編集]

絵本[編集]

写真集[編集]

  • 土門拳東松照明『hiroshima-nagasaki document』1961
  • 東松照明『<11時02分>NAGASAKI 』1966
  • 山端庸介『長崎ジャーニー・ 山端庸介写真集』1995
  • 写真 山端庸介、林重男松本栄一、H・Jピーターソンほか、長崎市編『被爆記録写真集』1996

TVドラマ[編集]

ラジオドラマ[編集]

創作能[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 平和公園に置かれている原爆落下中心碑の座標。この地点の上空、高度約500メートルの地点で、原子爆弾ファットマンが爆発した。
  2. ^ アメリカ軍の記録による投下時刻は午前10時58分
  3. ^ アメリカは長崎に投下した原子爆弾のコードネームファットマンFat Man)と名付けていた。制式名称はマーク3(Mk.3)核爆弾。
  4. ^ 現時点では実戦で使われた核兵器は広島・長崎の二発である
  5. ^ 原爆死没者名簿の人数は2009年8月9日現在で14万9266人。
  6. ^ 気象観測機は小倉へはB-29エノラ・ゲイ(ジョージ・マクォート George W. Marquardt 大尉)、長崎へはB-29ラッギン・ドラゴン(チャーリー・マクナイト Charles F. McKnight 大尉)が飛び、計測機としてB-29グレート・アーティストフレデリック・ボック Frederick C. Bock 大尉)、写真撮影機としてB-29ビッグ・スティンク(ジェームス・ホプキンズ James I. Hopkins 中佐)、予備機としてB-29フルハウス(ラルフ・テイラー Ralph R. Taylor 少佐)、爆弾投下機はB-29ボックスカーであった。
  7. ^ これらの機体の愛称は出撃時には機体に描かれていなかったため、唯一人これらの原爆投下作戦の取材許可を得ていた「ニューヨーク・タイムズ」の記者ウィリアム・ローレンスはこの交換のことを知らず、後の記事で「爆弾投下機はスウィーニー少佐の搭乗したグレートアーティスト号」としてしまい、これが原因で戦後しばらくの間は爆弾投下機の名前が間違って伝わることとなった。なおローレンスはこの原爆投下作戦に関する記事で1946年のピューリッツァー賞を受賞している。
  8. ^ なおボックスカーは出撃直前になって後部爆弾倉ブラダの予備タンクの燃料ポンプに故障が見つかり、2000ℓの燃料が使えないままになることが分かった。しかしスウィーニーは修理することは原爆投下作戦の延期に繋がると考え、ぎりぎりで帰還できると見込み、修理はせずに日本時間8月9日午前2時45分に離陸した。
  9. ^ スウィーニーは著書『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』において、会合できなかった理由はビッグ・スティンク機長のホプキンズ中佐のミスであり、作戦前の打合せをホプキンスが拒絶したからであると回想している。また、この合流失敗の際に、ホプキンズが「スウィーニーは止めたのか?」と通信したことから、テニアン基地では「スウィーニーは止めた」と受信し、作戦を中止し帰還するのだと考えたという。
  10. ^ スウィーニーの回想では、弾着を示す黒い塊が周囲にいくつも浮かんでいたということで、この時点でボックスカーは高射砲の射程圏内にあったと考えられる
  11. ^ 「攻撃目標視認」の意。「I have insight」と同義。
  12. ^ 1976年にアメリカ・オークリッジ国立研究所のジョージ・D・カーの検討による数値。
  13. ^ 当初の投下目標は市街地の中心を流れる中島川にかかる常盤橋だった。実際の爆心地一帯は、予定通り当初の目標上空で爆発した場合、被害地域の最北端と試算された場所であった。
  14. ^ 広島原爆投下時と同じく、この落下傘をつけたラジオゾンデを目撃した市民は多く、このことから戦後しばらくの間、原爆は落下傘をつけて投下されたものと考えられていた。
  15. ^ ラジオゾンデは諫早市で回収されたとする資料があるが、これは落下後に諫早市の海軍士官宿舎に送られたためである。
  16. ^ (原文)"Bombed Nagasaki 090158Z visually with no fighter opposition and no flak. Results 'technically successful' but other factors involved make conference necessary before taking further steps. Visible effects about equal to Hiroshima. Trouble in airplane following delivery requires us to proceed to Okinawa. Fuel only to get to Okinawa."
  17. ^ 広島市への原子爆弾投下時の映像が現像失敗などでほとんど残っていない現在、これは実戦に於いてほぼ唯一の原爆投下の映像である。この映像は1980年(昭和55年)に日本へ提供され、今でもテレビなどで用いられている。
  18. ^ 1945年7月16日アメリカ合衆国ニューメキシコ州アラモゴードホワイトサンズ射爆場で行われた世界史上初の核実験トリニティ』及び1946年マーシャル諸島ビキニ環礁で行われた核実験『クロスロード・エイブル』(「クロスロード作戦」を参照)の実験結果から、仮に東京都心上空で爆発させたと仮定した場合、山手線の内側を壊滅させるだけの強大な破壊力を有していた。したがって、現在の東京都心に対してファットマンによる昼間攻撃を行ったと仮定した場合、死者100万人を超す被害が想定される。 -- この想定には異論あり(ノート:長崎市への原子爆弾投下#ファットマンの威力参照)
  19. ^ 長崎市全体の家屋被害比率が広島市のそれより小さくみえるのはそのためである。このため香焼町など一部地域ではきのこ雲を見ているが直接的な被害を受けていない人間なども存在している。最終的に爆心地から3.4キロ離れた県庁付近まで延焼しているが、このあたりが火災発生地域のほぼ南端にあたる。貴重な建築物であったグラバー邸大浦天主堂などは被害を免れた。国宝であった広島城など、貴重な文化財のほとんどが破壊・消失した広島市とは対照的である。また、キリスト教徒が多い浦上が被災し、長崎の中心街に爆発による直接被害がなかったことが宗教的、地理的な感情にも結びつき、地域間の温度差を助長する結果となったとの指摘もある。
  20. ^ 幸運にも生還したオランダ人捕虜レネ・シェーファーは、後に『オランダ兵士長崎被爆記』と題した手記を出版している。この手記では、日本側の捕虜に対する対応が行き届いていたとする証言や、日本軍による連合軍捕虜虐待行為に対し(オランダ人による植民地住民に対する蛮行や、東京大空襲などの連合軍による国際法違反行為を例に出して)、心情に理解を示す記述が多く、本国オランダでの出版は出来ないでいた。その後日本の出版社に直接原稿を持ち込んで日本で最初に出版されたという。(『オランダ兵士長崎被爆記』p165記述より)
  21. ^ 1950年の被爆生存者資料によれば10名確認されている。
  22. ^ 被爆当日救援列車運行に当たった乗務員の証言によると[要出典]、最初に救援に入った第311列車(鳥栖駅6時40分発)は途中で15分の遅れが出たため長与駅の到着は11時。出発準備の最中に原爆投下があり、当時長与駅に隣接して設置されていた長崎管理部の職員が同乗して道ノ尾駅まで入ったのが12時頃。被爆者を乗せて13時頃出発し、諫早・大村・川棚の海軍病院に輸送した。この後14時頃に第807列車、16時頃に第317列車、19時頃に第329列車が救援列車として浦上川鉄橋直前まで入った(爆風により橋脚がずれたためこれより先には進めなかった)。さらにもう一本救援列車が運転されたとの話があるが、確認されていない。第311列車が所定のダイヤ通りの運行だと原爆投下時には浦上川鉄橋あたりを走行していたことになるが、途中での遅れのために後続の貨物列車が途中で先行し浦上駅で被爆。乗務員は全員死亡したという。

出典[編集]

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  1. ^ 当時の長崎県知事であった永野若松の証言(長崎市編『ナガサキは語りつぐ』40頁)によると、8月8日夜の警察との会議では、長崎はほとんど無傷に近いので、広島と同じ爆弾が長崎にも落とされるに違いないとの結論が出ていた。翌9日の午前9時前には気象観測機ラッギン・ドラゴンと思われる爆撃機に対する空襲警報も発令された後、爆弾投下直前の10時53分には2機が視認されており、スウィーニーの懸念のように、広島爆撃と同様の状況であることは日本側も察知していた。それにもかかわらず、有効な迎撃手段はとれなかったということになる。
  2. ^ 【原爆:投下の日「煙幕」…八幡製鉄所の元従業員が証言】(毎日新聞・2014年7月26日))、その時のコールタールの煙幕が煙と靄の正体であった可能性がある。
  3. ^ 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』242頁
  4. ^ レーダーモニター要員のビーザー中尉の回想でもアッシュウォース中佐がレーダー爆撃の命令を出す責任を取ったとしている。一方、スウィーニー少佐の回想ではレーダー(照準)で投下しようと提案したのはスウィーニーであり、アッシュウォース中佐は「わからんな」「精度に自信が持てるか?」と応え、スウィーニーがそれに対し「全責任を負う」と言ったとしている。出典:『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』242頁
  5. ^ これらのラジオゾンデには8月6日の広島原爆投下作戦にも同行した物理学者ルイ・アルヴァレらから、旧友である当時東京帝国大学教授であった物理学者嵯峨根遼吉に宛てた手紙が入れられており、原爆の威力について理解できるはずの嵯峨根から日本政府に降伏を働きかけるようにとの勧めが書かれていた。しかし、この手紙が嵯峨根博士に渡ったのは終戦後の9月になってからであった。檜山良昭の閑散余録 「第141回 原爆投下秘話 一通の手紙」 (2007年8月9日 手紙の写真あり)
  6. ^ 伊江飛行場とする説もあるが、スウィーニー少佐はその回想記の中では読谷管制塔を呼び出し着陸したとしている。チャールズ・W・スウィーニー 黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 2000年 249頁
  7. ^ 「長崎原爆戦災誌」の総説編の改訂版に収録共同通信2006年5月20日付[リンク切れ] また別証言で佐賀市内の学校でラジオを聞きながら同時刻を迎えた人の手記に、長崎からのラジオの叫び声が11:02に途切れ無音になったというものがある。
  8. ^ 厚生労働省(当時厚生省)では二重被爆の事例を確認していない状態が続き、二重被爆者は広島・長崎どちらかの被爆事例のみを被爆者手帳に記録されるのみであった。2009年3月23日に二重被爆体験者である山口彊(認定当時93歳)が、長崎市から初めてその事実を認定され、被爆者手帳に両市での被爆の事実を追加記述した。広島・長崎両県市では、「把握している限りでは二重被爆の事実を手帳に記述するのは初めて」のことだという。毎日新聞2009年3月24日付[リンク切れ]

参考文献[編集]

  • 秦郁彦『八月十五日の空 −日本空軍の最後−』文藝春秋 1978年
  • 長崎市編 長崎国際文化会館監修 『ナガサキは語りつぐ 長崎原爆戦災誌』岩波書店 1995年
  • 長崎総合科学大学平和文化研究所編、新版『ナガサキ −1945年8月9日』岩波ジュニア新書260(岩波書店、1995年7月)
  • 松元寛(まつもと・ひろし)著、新版『広島長崎修学旅行案内 −原爆の跡をたずねる』岩波ジュニア新書300(岩波書店、1998年5月発行)
  • チャールズ・W・スウィーニー 黒田剛訳『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 2000年
  • 渡辺浩(わたなべ・ゆたか)著『15歳のナガサキ原爆』岩波ジュニア新書416(岩波書店、2002年11月発行)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

長崎市によるWebページ[編集]

その他[編集]

報道機関・連載特集[編集]