バターン死の行進

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バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan)とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島日本軍に投降したアメリカ軍フィリピン軍捕虜民間人が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。

フィリピンでは、バターン半島が陥落した4月9日を、勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。


経緯[編集]

守備隊の降伏[編集]

1941年昭和16年)12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である、本間雅晴中将率いる第十四軍が、ルソン島リンガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのは、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。マッカーサーは12月24日、マニラ無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島コレヒドール要塞に立てこもった(米軍は撤退途中、人影があれば撃ち殺し、村があれば機銃掃射して皆殺しにした)。日本軍は翌1942年1月2日に、マニラの無血占領に成功した。その後、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒドール島を脱出した。

1942年(昭和17年)4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは、日本側の2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。なお、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。

なお、米軍部隊は、日本兵に使われるのは業腹だからと、多くのトラックを破壊した。死の行進となったのは、アメリカ軍が、敗走を防ぐために、トラックを、ことごとく破壊した事も要因のひとつである。壊さなかった部隊は、死の行進を歩むことなく、それで収容所まで行った。米軍兵士を輸送するには、米軍トラックしか方法が無かった。当時、日本軍にトラックは無く、アメリカ軍兵士を運ぶすべは歩かせるしか無かった。また、日本兵よりも、捕虜となった米軍兵士の方が圧倒的に多かったのである。

辻政信による捕虜殺害の偽大本営命令[編集]

2013年に刊行された『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望 祥伝社新書)によれば、大本営参謀であった辻政信が、このバターン戦終了時に大本営からの出張でバターンにあらわれ、全くの独断で捕虜への集団虐殺を企てたが未遂に終わるという事件があった。

辻政信はこの戦争は人種間戦争であるとして、アメリカ人は白人植民地主義者であるから、フィリピン人は同胞であるアジア人を裏切ったのだから処刑しろと扇動しており、独断で「大本営から」のものとする偽の捕虜処刑命令を出していた[1][2]今井武夫大佐は4月10日午前11時ごろ、第65旅団司令部の高級参謀松永梅一中佐から直通電話で、「バターン半島の米比軍高級指揮官キング少将は、昨日九日正午、部下部隊を挙げて降伏を申し出たけれども、日本軍は未だこれを全面的に承諾していない。したがって、米比軍の投降者は未だ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべしという大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ。」と伝えられた。今井は命令を拒否することを決意し、書面による命令を要求した後、万一書面による命令が交付された場合に備え、直ちに千人以上の捕虜を全て釈放してしまった。当時聯隊本部附中尉であった三好秀男によると、歩兵第百二十二聯隊長渡辺祐之介大佐は同様の命令を松永参謀から受け、重大な命令であるからと第65旅団長の奈良晃中将に電話で確認を取り付けた後、米比人捕虜約五百人を下士官に命じ、刺殺、銃殺させた。従軍中の台湾高砂族を指揮して、米比軍将校多数を殺害した者もいた。第十独立守備隊を指揮する生田寅雄少将の元にも第65旅団の高級参謀から電話で同様の命令が伝達された。驚いた生田は部下四名を招集し、一万名を超える捕虜の処遇を協議したが、結論が出ず、数日が経過した。その間に第十独立守備隊司令部高級副官の神保信彦中佐が自ら第十四軍司令部に出向き、この軍命令が司令官である本間雅晴中将の与り知らない物であることを探知し、危うく命令の実行を取り止めることができた[3]。命令の遂行を拒んだのは今井や生田だけではなかったが、完全にあるいは部分的に実行した者もいた。本間中将はこうした命令について死ぬまで知らず、彼の参謀長も戦後になり初めてその事実を知った[1]

辻のこの偽命令の策謀がもし成功していた場合、大東亜戦争戦域で最大級のジェノサイド事件になる恐れがあったが、このようにして幸いにもこの策謀は全体的にみて未遂に終ることになった[4]

日本軍の捕虜後送計画と実態[編集]

死の行進のルート

日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に提出されたものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に充てねばならなかった。(当時の日本製のトラックの信頼性は低く、現場では米国製トラックの方が重宝されていた。[5]。)結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88kmを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が『死の行進』と呼ばれた。

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、日本軍も捕虜にまわす食料の余裕は無かった。さらに炎天下で行進が行われたために、約42Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。

当初の捕虜輸送案
区間 距離 備考
1.マリベレス~バランガ 約30km
2.バランガ~サンフェルナンド 約53km トラック200台での輸送(一部のみ)
3.サンフェルナンド~カパス 約48km 鉄道での輸送
4.カパス~オドネル 約12km

この表のように、捕虜が歩くのは1と4の区間だけであり、バランガとサンフェルナンドには野戦病院を設置し、その他数キロごとに、救護所や休憩所を設置して傷病兵を手当てする計画であったが、上記のように、当初日本軍が想定していた事態を大きく上回った。

捕虜の扱い[編集]

トラックで運ばれた者や行進の先頭にいた者以外に対し、多くの虐待行為があったと言われる。この背景として、捕虜になることを恥ずべきものとする風潮が影響していた。また日本軍ではもともと戒告のために殴打することが日常的にあり、不服従とみると捕虜にも暴力を振るったのである。

収容所にたどり着いたのは捕虜となった約7万6千人の内、約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かったとされている。

戦後[編集]

戦犯裁判[編集]

戦後のマニラ軍事裁判等において、第14軍の司令官の本間雅晴や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。すでに述べたように、バターン陥落後に捕虜への人道的な扱いを命じた[7]本間は、戦時中の部下の捕虜への過酷な待遇や残虐行為について知らず、裁判ではじめて事実を知ることとなった。

反論[編集]

バターン死の行進は、アメリカの過剰な戦時広報であるという意見を持つ日本人も多く、日本軍の残虐性を否定する意見もある。また、バターンの報復とした日本人捕虜に対する虐待について、連合国からの謝罪がないことを問題視する声もある。

その反論の理由は、以下のとおりである。

  • 戦争終了後、そのまま捕虜を置き去りにはできないため、捕虜の移送は必要だった。(これは捕虜も認めている)
  • トラックがなく日本人も歩行しつつ護送したが、トラックがなかった原因はアメリカ側にもあり。(これも事実である)
  • 以下が、最も重要な反論である。
まず、1日平均14kmとさほど長距離でない行進であった[8]が、歩いただけでは死なない距離であったのではないか?なかには、歩いて移送中に動けなくなったのはアメリカ人の自堕落とする発言(後述の今井武夫の証言)もある。後述の笹幸恵の踏破体験(栄養失調の女性も踏破できた)を参照する意見がある。また、捕虜への医療・水・食糧の提供が(一律ではないが)行われたことは、捕虜の記録でも見られる。
  • そのうえで、戦時中の宣伝や戦後の裁判でアメリカ側が指摘したことは、本来戦争行為として当然のことを、戦犯裁判で有利にするためや日本軍に対する仕返しのために、虚偽・誇張によって正当化したのではないか?本間は捕虜の待遇に対して人道的な支持をしていたこと、本間が戦後の裁判のときまで知らなかったことからも疑える。

ただし、反論は、以下の理由から必ずしも有利ではない。

  • 生存した捕虜の証言(出版された書籍は脚注を参照)によると、行進前後も含む暴力行為や行進時の捕虜の健康状態、日本軍の対応、つまり大抵の場合、食料・水・睡眠・休憩の配慮は人道的とは言えない状況であり、歩行できないときの日本側の暴力行為は非常に過酷であったとされ、結果的に移送時に多くの死者が出たことからも捕虜に対する戦時国際法違反や非人道的行為はまぬかれにくい。移送時の死者以外に、辻の偽命令の虐殺や捕虜収容所での死亡という事実も存在する。もとより、捕虜の証言にも一部の部隊の日本側の対応については好意的な内容は存在するものの、日本側の対応の全体的な状況として見ると、非人道的行為の全否定はできない。なお、数多く残るアメリカ側の生存者の記録は非常に詳細かつ具体的であり日本側に有利な記載も存在するなどからして、日本人への一方的な感情や裁判工作のための「虚偽」であるとまで見なすことは困難である[9][10]
  • また、日本人の中には従軍した文化人(火野葦平や尾崎士郎)のように、実際の著書で日本軍の非人道行為を指摘した例もあるので、非人道行為を「幻」や「誇張」とまで見なすのは難しい[11]

ジャーナリストの笹幸恵は、『文藝春秋』(2005年12月号)に『「バターン死の行進」女一人で踏破』というルポを発表し、「栄養失調」の状態であった著者つまり女性が実際に同じ経路を数日かけて踏破できたことから「この距離を歩いただけでは死なない」と考え、また「虐待行動」もその公正性は戦犯裁判なので疑問であると論じた。このような実践的な体験は注目されうる。ただし、『文藝春秋』(2006年3月号)によると、このルポをアメリカの死の行進の生存者(レスター・テニー)が掲載直後に英訳を読んで、自身の受けた虐待の証言と共に、以下の理由で怒りを込めて反論した。つまり踏破時の条件(笹は栄養失調と言いつつ毎日食事をとり夜は宿泊して踏破したとみられるが、当時の捕虜は健康状態もより深刻で行進中は休憩・睡眠をまともにとれなかった等)が全く違う上に過去の事実の誤認(笹は行進中の捕虜は水筒を持参したとあるが実際はほとんどなく、行進中に近くの水を飲もうとして殺された捕虜もいた等)があることを例示した[12]


なお、以下は、兵士や将校などの日本側の証言の一部である。

吉本隆明は、フィリピンにいた日本軍元兵士の証言として、次のように紹介している[13]

日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったと言われているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くのは当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ

この証言について、吉本は「それだけ、軍隊における常識も、アメリカと日本では違っていたということ」と主張している[14]

第2次バターン攻略戦に参加した日本兵士によると、次のような証言がある[15]

(前略)夜が明けてみると、前方の山から白旗を掲げたアメリカ兵がゾロゾロと出てくるではないか。第四分隊、こちらは総勢一三人、敵のアメリカ兵は何百、何千と雲霞のように山から下りてくる。まずこの光景を見て我々は腰を抜かさんばかりに驚いた。武装解除されているので武器は所持していなかったが、キャラメルやタバコをくれたり、チョコレートをくれたり、我々のご機嫌を取ってくる。(中略)一人の日本兵が三〇〇人近いアメリカ兵を引率しているのである。後ろからブスッとやられたらそれきりである。気味の悪いこと、この上なしである。もしこれが日本兵とアメリカ兵の立場が逆になっていたら、一三人くらいの敵ならアッと言う間に殺していたであろう。(後略)

第65旅団歩兵第百四十一聯隊長(階級は大佐)としてバターン死の行進に従軍した今井武夫は次のように、当時の日本軍の状況について証言し反論している[16]

バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルソン島の戡定作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給難と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽くしていた。その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため、日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が続出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶予も許さず、休養の暇もなかった。われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁(キロメートル)行軍せねばならなかった。窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃までに、目的地に到着するよう、行軍計画を立てたが、落伍兵を激励しながら行軍するのは、全く容易でなかった。然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。米軍は戦時中国民の敵愾心を昂揚するため、政略的に「死の行進」を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の残酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。明かに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかもしれない。

日本の謝罪[編集]

2008年12月と2009年2月に、藤崎一郎駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」に対して、日本国政府を代表し、バターン死の行進について「村山談話」に則って公式に謝罪した。また2010年9月13日には、外務大臣岡田克也が元捕虜と外務省で面会し、現職の外務大臣として初めて謝罪している[17]

前述のような反論はあるものの、捕虜を非常に過酷な状況に置いたことや実際に起きた残虐行為から判断して、日本軍の戦時国際法遵守への怠慢行為や捕虜への人道上の配慮を欠いた事実は逃れられないとする意見は根強い。しかも人道主義の本間司令官の意思を蔑にして非道な行為が現場で行われたことは、本間の処刑という矛盾と共に問題視される。

脚註[編集]

  1. ^ a b トーランド (1970) 2巻「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」「4 死の行進」241頁-256頁、347頁
  2. ^ 今井武夫に電話で捕虜処刑命令を伝えた松永梅一の談によると、辻政信が処刑命令を口頭で伝達して歩いていた。(今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 157-158頁)
  3. ^ 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 157-159頁
  4. ^ 『蒋介石の密使 辻政信』渡辺望 祥伝社新書 2013年
  5. ^ “日本への違和感”. kaze no ko. [[kaze no koのブログ ]]. (2014年10月31日). http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/12750695.html 2015年3月15日閲覧。 
  6. ^ バターン死の行進の証拠写真とされてきたが、2010年3月19日、AP通信は「バターン死の行進を撮影したものでなかった」として訂正するとともに検証記事を配信した。同通信によると、この写真は行進から数週間後に収容所にて撮られた、米兵の遺体を埋葬のため運ぶ様子を写したものであるという。[1]
  7. ^ マイケル・ノーマン エリザべス・M・ノーマン『バターン死の行進』河出書房新社、2011年, 521頁
  8. ^ 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』[要ページ番号]
  9. ^ マイケル・ノーマン エリザべス・M・ノーマン『バターン死の行進』河出書房新社2011年
  10. ^ レスター・I・テニー 『バターン 遠い道のりのさきに』教科書に書かれなかった戦争 PART43 伊吹由歌子、柳由美子、奥田愛子、古庄信訳 梨の木舎2003年3月(原著1995年)
  11. ^ 火野 葦平『バタアン死の行進』小説朝日社 1952年
  12. ^ レスター・テニーの反論は、『文藝春秋』(2006年3月号)「三人の卓子 読者と筆者と編集者」488-492頁
  13. ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年, 27頁
  14. ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年[要ページ番号]
  15. ^ 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(恩欠編)第1巻、第2部 聴取調査記録 「バターン死の行進」282頁 [2]
  16. ^ 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 163-164頁
  17. ^ “岡田外相、元米兵捕虜に謝罪 「非人道的だった」”. 共同通信社. 47NEWS. (2010年9月13日). http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010091301000252.html 2013年5月22日閲覧。 

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 御田重宝 『バターン戦 人間の記録』 徳間書店〈徳間文庫〉、1993年8月(原著1978年6月)。ISBN 978-4195676660
  • レスター・I・テニー 『バターン 遠い道のりのさきに』教科書に書かれなかった戦争 PART43、伊吹由歌子、柳由美子、奥田愛子、古庄信訳、梨の木舎、2003年3月(原著1995年)。ISBN 978-4816602078
  • ジョン・トーランド 『大日本帝国の興亡』2巻 昇る太陽、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 978-4150501020
    • 「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」
    • 「同上 4 死の行進」
  • 児島襄 『太平洋戦争』上、中央公論新社〈中公新書〉、1963年11月ISBN 978-4121000842
  • 立川京一旧軍における捕虜の取扱い (PDF) 」 、『防衛研究所紀要』第10巻第1号、防衛省防衛研究所2007年9月ISSN 13441116
  • 今井武夫 『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』 みすず書房、2009年(原著1964年)。ISBN 978-4622074380
    • 「第三 比島バターン戦に参加  捕虜処刑の怪命令」
    • 「同上  密林戦とバターン死の行軍」

外部リンク[編集]