バターン死の行進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan英語: Bataan Death March)とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島日本軍に投降したアメリカ軍フィリピン軍捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。

フィリピンでは、日本がアメリカ軍を破ってバターン半島を陥落させた4月9日を2009年から勇者の日タガログ語版英語版 (タガログ語: Araw ng Kagitingan) としてフィリピン・アメリカの戦士を称える休日として定めている。

経緯[編集]

守備隊の降伏[編集]

1941年昭和16年)12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である、本間雅晴中将率いる第十四軍が、ルソン島リンガエン湾に上陸した。フィリピン防衛の任に当たっていたのは、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)であった。マッカーサーは12月24日、マニラ無防備都市宣言を行った後マニラから撤退、バターン半島コレヒドール要塞に立てこもった。日本軍は翌1942年1月2日に、マニラの無血占領に成功した。その後、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーはコレヒドール島を脱出した。

1942年(昭和17年)4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領した。降伏したエドワード・P・キング少将率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となった。これは、日本側の2万5千名との捕虜数予想を大きく上回るものであった。なお、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていた。

なお、米軍部隊は、日本軍に鹵獲されて使用されることを防ぐため、多くの武器やトラックを破壊した[要出典]壊さなかった部隊は、死の行進を歩むことなく、それで収容所まで行った[要出典]米軍兵士を輸送するには、米軍トラックしか方法が無かった[要出典]当時、日本軍の保有するトラックは少なく、アメリカ軍兵士を運ぶすべは歩かせるしか無かった。また、日本兵よりも、捕虜となった米軍兵士の方が圧倒的に多かった[要出典]

辻政信による偽命令[編集]

2013年に刊行された『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望、祥伝社新書)[要ページ番号]によれば、大本営参謀であった辻政信が、このバターン戦終了時にバターンにあらわれ、捕虜の集団処刑を企てる事件があったという。

辻は、この戦争は人種間戦争であるとして、「フィリピン人は、同胞であるアジア人を裏切って白人植民地主義者であるアメリカ人に味方したのだから処刑しろ」として、独断で「大本営から」のものとする偽の捕虜処刑命令を出したという[1]今井武夫に電話で捕虜処刑命令を伝えた松永梅一の談によると、辻政信が処刑命令を口頭で伝達して歩いていた。[2]。辻から偽命令を受け取った第65旅団の参謀らは直通電話で連隊長らに命令を広め、一部では実際に捕虜の処刑が発生したという。

今井武夫大佐は4月10日午前11時ごろ、第65旅団司令部の高級参謀松永梅一中佐から直通電話で、「日本軍は米比軍の降伏を全面的に承諾していない。したがって、米比軍の投降者は未だ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊は手元にいる米比軍投降者を一律に射殺すべし」という大本営のもととされる命令を受け取ったが、今井はこれを拒否することを決意し、書面による命令を要求しつつ、直ちに千人以上の捕虜を全て釈放した。他にも、第十独立守備隊隊長の生田寅雄少将は、同様の命令を伝達されたが、部下と協議中に、部下がこの命令が偽物であると確認したため、実行を取り止めた[3]。本間中将はこうした命令について死ぬまで知らず、彼の参謀長も戦後になり初めてその事実を知った[1]

一方、渡辺祐之介大佐率いる歩兵第百二十二連隊では、第65旅団長の奈良晃中将に電話で確認できたため、捕虜約五百人を下士官に命じ、刺殺、銃殺させたという。麾下には従軍中の台湾高砂族を指揮して、アメリカ・フィリピン両軍の将校多数を殺害した者もいた。今井や生田のように命令を拒んだものもいたが、このように完全に、あるいは部分的に実行した者もいた。前掲書の著者である渡辺望は、辻のこの策謀がもし完全に成功していた場合、大東亜戦争戦域で最大級のジェノサイド事件になる恐れがあったとしている[4]

ただし、このような偽命令の虐殺を企画した辻政信は、#戦犯裁判にも記しているように、戦犯として逮捕・起訴されることはなかった[5]

日本軍の捕虜後送計画と実態[編集]

死の行進のルート

日本軍の捕虜後送計画は、総攻撃の10日前に提出された[6]ものであり、捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。捕虜は一日分の食料を携行しており、経由地のバランガまでは一日の行程で食料の支給は必要ないはずであった。実際には最長で三日かかっている。バランガからサンフェルナンドの鉄道駅までの区間では200台のトラックしか使用できなかったが、全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。しかし、トラックの大部分が修理中であり、米軍から鹵獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に充てねばならなかった。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88kmを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。この区間の行軍が『死の行進』と呼ばれた。

米兵達は降伏した時点で既に激しく疲弊していた。日本軍に降伏したとき、バターン半島のアメリカ兵の五〇パーセントは戦傷やマラリアのために、医師の手当てを要する体調だった[7]。したがって、短距離を歩くことさえ不可能ではないとしても極めて困難だったが戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられた。日米ともにコレヒドールではマラリアやその他にもデング熱赤痢が蔓延しており、また食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将はタルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設した。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、日本軍も捕虜にまわす食料の余裕は無かった。さらに炎天下で行進が行われたために、約42Kmの道のりで多くの捕虜が倒れた。このときの死亡者の多くはマラリア感染者とも言われる。

当初の捕虜輸送案
区間 距離 備考
1.マリベレス~バランガ 約30km
2.バランガ~サンフェルナンド 約53km トラック200台での輸送(一部のみ)
3.サンフェルナンド~カパス 約48km 鉄道での輸送
4.カパス~オドネル 約12km

この表のように、捕虜が歩くのは1と4の区間だけであり、バランガとサンフェルナンドには野戦病院を設置し、その他数キロごとに、救護所や休憩所を設置して傷病兵を手当てする計画であったが、上記のように、当初日本軍が想定していた事態を大きく上回った。その後、日本軍の管理するオードネル捕虜収容所に収容された捕虜が数か月の間に、劣悪な環境により食糧・医薬品の不足や水の不足により、最終的にここでも万単位の死者(アメリカ兵は1000人単位の死者)が出たため、連合国側は死の行進と含めて戦後裁判の対象とした[8]

捕虜の扱い[編集]

辻政信による前述の偽命令の虐殺以外に、(すべてではないが)捕虜に対する行進前・行進中の非人道的行為が殺害も含めて行われたことが、以下の様に日本側・アメリカ側の記録に残る。行進中については、トラックで運ばれた者や行進の先頭にいた者以外に対して虐待行為があったと言われる。

この背景として、日本側に捕虜になることを恥ずべきものとする考えがあり、降伏した米兵を軽侮する考えがあった[9]。日本兵は、軍隊内の部下への暴力的制裁が習慣的に行われていたため、軽侮の対象である捕虜に対しても暴力を振るい、殺害した例もあるとされ、実際にその過酷さは生存捕虜の複数の証言で述べられており、日本の軍人の証言でも記録に残っている[10]。また、捕虜への暴力の原因については、行進中に早く歩けなどの日本兵の命令を聞かなかったときであり、捕虜の証言ではさしたる理由のない場合であったという[11]

行進中の捕虜の待遇は部隊によって異なるとみられるものの、捕虜は「食糧や飲料水の提供は非常に少なく、灼熱のなか休みも殆どなく歩かされ」て、「夜は収容可能人数の倍の人数で倉庫に押し込まれて」「用便も立っている場所で行われざるを得なかった」と証言される[12]

収容所にたどり着いたのは、捕虜となった約7万6千人の内、約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、そして日本軍の処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易だったとされる。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かったとされている。

戦後[編集]

戦犯裁判[編集]

第二次世界大戦後、マニラ軍事裁判極東国際軍事裁判において、第14軍の司令官の本間雅晴や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は、死の行進の責任者として有罪の判決が下り、死刑に処された。既に述べたように、バターン陥落後に捕虜への人道的な扱いを命じたことや人道主義者であるとアメリカ側の記録にも認知されていた本間であるが[14]、その本間が、戦時中の部下の捕虜への過酷な待遇や残虐行為について知らなかったのは本当であり、軍事裁判で初めて事実を知ることとなった。偽の殺害命令を出して虐殺をおこしたとされる辻政信中佐は、終戦時にバンコクで僧に変装して潜行し、インドシナ・中国を経て1948年5月に日本に帰国、数人の元高級将校に匿われて戦犯追及を逃れていた。GHQは辻を戦犯容疑者の逮捕リストから削除し、辻をGHQ参謀第2部(G2)のエージェントとして利用し、結局辻が戦犯として逮捕・起訴されることはなかった[15]

反論[編集]

以下の様な日本側の反論があり、それに対する元捕虜の反論もある。

  • アメリカが糧秣の余裕のあるうちに降伏しないことが問題であり日本は一生懸命に捕虜対策を行った[16]
  • 捕虜を比較的食糧などを補給しやすい地域に徒歩で移動させなければならない事情にあったので、つまり生かすための行進だった。もとより、衰弱したための多数の死者は軍の本意ではなかった[17]
  • 次の章の元日本軍兵士の証言でも述べられているように、「捕虜の数が多すぎた」[18]、「日本側も戦闘で疲労して重い物を背負って行進した」のに多く米人側が倒れたのは「自堕落」[19]・「軍の常識の違い」[20]である。オードネル捕虜収容所での多くの捕虜病死に関連した誤解[21]
  • 「行進した距離は1日平均14kmとさほど長距離でない」[22]という意見がある。体験例として「この距離を歩いただけでは死なない」とジャーナリストの笹幸恵は、「栄養失調」の状態であった自身つまり女性が実際に同じ経路を数日かけて踏破できたことから主張し、『文藝春秋』に『「バターン死の行進」女一人で踏破』というルポを発表した。そして戦犯裁判において「虐待行為」として裁かれた行為についても、戦犯裁判自体の公正性に問題があるとして疑問であると論じた[23]。しかし、このルポに対し当時行進に参加したというアメリカ人元捕虜のレスター・テニーは同じく『文藝春秋』に「前提条件の違い」・「事実の間違った認識」について厳しい反論を提示した。笹は健康が万全でなかったというが、宿泊・食事ともに十分な条件だった笹と違い、当時の捕虜は、まず健康状態が非常に深刻であり、しかも#捕虜の扱いにあるように食事、休憩、睡眠などが過酷な状況であり、水分補給は水をほとんど携帯していなかったり、妨害されたりして十分にできず、中には水を飲もうとして殺害された者もいたと反論し、同時に自分たちが日本兵に受けた激しい暴力についても述べた[24]
  • 日本側によるティータイムまであった行進であり、診療行為も行われた[25]ので人道的だったという反論がある。ただし、このお茶、そして食糧配布の話は、アメリカ側の証言にもあるが、むしろ十分ではない例の中に記載されている[26]

元日本軍兵士の証言[編集]

以下は、主にこの事件に係る日本側反論に関する旧日本軍の軍人の証言である。

吉本隆明は、フィリピンにいた元日本軍兵士の証言として以下の発言を紹介し[27]、「それだけ、軍隊における常識も、アメリカと日本では違っていたということ」と評している[28]

日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったと言われているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くのは当たり前。いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ。

第2次バターン攻略戦に参加した元日本軍兵士の次のような証言がある[29]

(前略)夜が明けてみると、前方の山から白旗を掲げたアメリカ兵がゾロゾロと出てくるではないか。第四分隊、こちらは総勢一三人、敵のアメリカ兵は何百、何千と雲霞のように山から下りてくる。まずこの光景を見て我々は腰を抜かさんばかりに驚いた。武装解除されているので武器は所持していなかったが、キャラメルやタバコをくれたり、チョコレートをくれたり、我々のご機嫌を取ってくる。(中略)一人の日本兵が三〇〇人近いアメリカ兵を引率しているのである。後ろからブスッとやられたらそれきりである。気味の悪いこと、この上なしである。もしこれが日本兵とアメリカ兵の立場が逆になっていたら、一三人くらいの敵ならアッと言う間に殺していたであろう。(後略)

第65旅団歩兵第百四十一聯隊長(階級は大佐)として、バターン死の行進に従軍した今井武夫は次のように、当時の日本軍の状況について証言し反論している[30]

バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルソン島の戡定作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給難と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽くしていた。その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため、日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が続出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶予も許さず、休養の暇もなかった。われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁(キロメートル)行軍せねばならなかった。窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃までに、目的地に到着するよう、行軍計画を立てたが、落伍兵を激励しながら行軍するのは、全く容易でなかった。然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。米軍は戦時中国民の敵愾心を昂揚するため、政略的に「死の行進」を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の残酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。明かに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかもしれない。

日米の民間交流・日本の謝罪[編集]

日本の民間団体であるPOW研究会は、2002年から、連合国軍人で日本軍の捕虜となった人々の待遇などの実態調査やかつての捕虜との交流を行ったが、その結果、バターン行進生存者の捕虜の来日も実現した[31]2009年平成21年)5月に、藤崎一郎駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」の年次総会に出席し、日本国政府を代表して、バターン死の行進について謝罪した。また2010年(平成22年)9月13日にも、外務大臣岡田克也が元捕虜と外務省で面会し、謝罪している[32]

脚註[編集]

  1. ^ a b トーランド (1970) 2巻「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」「4 死の行進」241頁-256頁、347頁
  2. ^ (今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 157-158頁)
  3. ^ 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 157-159頁
  4. ^ 渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』祥伝社新書、2013年[要ページ番号]
  5. ^ 林博史『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年 225-226頁
  6. ^ 上田敏明『聞き書きフィリピン占領』P.73 勁草書房 1990
  7. ^ 文藝春秋』2006年3月号、492頁。
  8. ^ 「バタアン死の行進」火野葦平p60-61 p69-79、「バターン死の行進」マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン 河出書房新社、2011年 p318
  9. ^ 「比島従軍記」西川佳雄 p.145 興亜書院(1943)
  10. ^ 「いっさい夢にござ侯 本間雅晴中将伝」角田房子 p.387 中央公論新社、「バターン「死の行進」を歩く」鷹沢のり子 p.81 筑摩書房
  11. ^ 「バターン死の行進」マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン p.235 河出書房新社、「バターン遠い道のりの先に」レスター・テニ― p.87-88 梨の木舎
  12. ^ 文藝春秋』2006年3月号、490頁。
  13. ^ バターン死の行進の証拠写真とされてきたが、2010年3月19日、AP通信は「バターン死の行進を撮影したものでなかった」として訂正するとともに検証記事を配信した。同通信によると、この写真は行進から数週間後に収容所にて撮られた、米兵の遺体を埋葬のため運ぶ様子を写したものであるという。[1]
  14. ^ マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン「バターン死の行進」河出書房新社、2011年, 521頁
  15. ^ 林博史『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年 225-226頁。
  16. ^ 「ルソンの苦闘」藤田相吉 p90-94
  17. ^ 「比島攻略作戦」戦史叢書 p431-432
  18. ^ 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(恩欠編)第1巻、第2部 聴取調査記録 「バターン死の行進」282頁 [2]
  19. ^ 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 163-164頁
  20. ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年[要ページ番号]
  21. ^ 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 163-164頁
  22. ^ 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』[要ページ番号]
  23. ^ 文藝春秋』2005年12月号[要ページ番号]
  24. ^ 文藝春秋』2006年3月号、489-492頁。
  25. ^ 溝口郁夫・本郷美則『「死の行進」なのになぜかティータイム!』「歴史通」2011年9月号 P167-P168
  26. ^ 「バターン死の行進」マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン p.264 河出書房新社、「バターン遠い道のりの先に」レスター・テニ― p.100-101 梨の木舎
  27. ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年, 27頁
  28. ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年[要ページ番号]
  29. ^ 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(恩欠編)第1巻、第2部 聴取調査記録 「バターン死の行進」282頁 [3]
  30. ^ 今井武夫『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』みすず書房、2009年, 163-164頁
  31. ^ http://www.powresearch.jp/jp/index.html
  32. ^ “岡田外相、元米兵捕虜に謝罪 「非人道的だった」”. 共同通信社. 47NEWS. (2010年9月13日). http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010091301000252.html 2013年5月22日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 御田重宝 『バターン戦 人間の記録』 徳間書店〈徳間文庫〉、1993年8月(原著1978年6月)。ISBN 978-4195676660
  • レスター・I・テニー 『バターン 遠い道のりのさきに』教科書に書かれなかった戦争 PART43、伊吹由歌子、柳由美子、奥田愛子、古庄信訳、梨の木舎、2003年3月(原著1995年)。ISBN 978-4816602078
  • ジョン・トーランド 『大日本帝国の興亡』2巻 昇る太陽、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 978-4150501020
    • 「五部 失われた希望 3 バターンを埋める捕虜」
    • 「同上 4 死の行進」
  • 児島襄 『太平洋戦争』上、中央公論新社〈中公新書〉、1963年11月ISBN 978-4121000842
  • 立川京一旧軍における捕虜の取扱い (PDF) 」 、『防衛研究所紀要』第10巻第1号、防衛省防衛研究所2007年9月ISSN 13441116
  • 今井武夫 『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』 みすず書房、2009年(原著1964年)。ISBN 978-4622074380
    • 「第三 比島バターン戦に参加 捕虜処刑の怪命令」
    • 「同上 密林戦とバターン死の行軍」
  • 映像 NHK「映像の世紀 第5集 世界は地獄を見た」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]