イル川渡河戦

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イル川渡河戦
第二次世界大戦太平洋戦争
GuadTenaruSandbar.jpg
1942年8月21日の戦闘後、イル川砂州に横たわる一木支隊将兵。
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1942年8月21日
場所ソロモン諸島ガダルカナル島
結果連合軍の勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国,
イギリスの旗 英領ソロモン諸島
日本の旗 大日本帝国
指導者・指揮官
A.ヴァンデグリフト
クリフトン・ケイツ英語版
百武晴吉
一木清直  
戦力
3,000[注 1] 917[1]
損害
戦死 41–44[注 2] 戦死 774–777
捕虜 15[注 3][注 4]
ソロモン諸島の戦い

イル川渡河戦(イルがわとかせん、英語: Battle of the Ilu River)は、太平洋戦争中の1942年昭和17年)8月21日ガダルカナル島において日本軍アメリカ合衆国海兵隊を主力とする連合国軍との間に起きた陸上戦闘テナルの戦い英語: Battle of the Tenaru)、アリゲーター・クリークの戦い英語: Battle of Alligator Creek)とも呼ばれ、ガダルカナル島の戦いにおける日本軍最初の大規模反攻でもあった。

アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将を指揮官とする米海兵隊第一海兵師団は、1942年8月7日ガダルカナル島に上陸し、ルンガ岬に日本軍が建設中であったヘンダーソン飛行場を奪取してこの防衛にあたっていた。一方、同飛行場の奪還と、ガダルカナル島からの連合軍一掃のための先遣隊として派遣された一木清直大佐率いる一木支隊第1梯団は8月19日未明に同島に上陸、このときガダルカナル島全体の連合軍側の戦力はおよそ11,000名であったが日本軍側はこれを2,000名程度と少なく見積もっていた。一木支隊は上陸地点のタイボ岬から西進し、20日深夜にルンガ東部のイル川(米軍呼称:アリゲーター・クリーク)西岸に陣を構えていた米海兵隊に遭遇、21日未明から戦闘が始まったが、兵数・火力に圧倒的な差があり一木支隊は多大な損害を被った。さらに米海兵隊は夜明けを待って残存兵を包囲殲滅し、21日午後一木支隊は壊滅した。この戦いで917名いた一木支隊第1梯団のうち、生き残ったのは後方に待機させ戦闘に直接参加しなかった約100名を含む128名だけであった。指揮官一木大佐も死亡したが、最後の状況については諸説あり定かではない。

日本軍はこの戦いの後、上陸したガダルカナル島の連合軍戦力が当初の想定を超える規模であることを知り、ヘンダーソン飛行場奪還のため逐次部隊を送り込んでいった。

背景[編集]

1942年8月7日、米軍はソロモン諸島内のガダルカナル島ツラギ島およびフロリダ諸島に上陸した。これは、これらの島嶼が日本軍の軍事基地となって米豪間の補給ルートを脅かすことを阻止するためであり、他方ニューギニアの戦いを支援して最終的には日本軍のラバウル基地を孤立させるための拠点とする意図もあった。この「フロリダ諸島の戦い」がその後6ヵ月の長きにわたるガダルカナル島の戦いの始まりである[2]

第1海兵師団ヴァンデグリフト少将

連合軍は奇襲を成功させ、初期目的であるツラギ島とその近隣島嶼を確保、8月8日の日没までにはガダルカナル島ルンガ岬に日本軍が建設中で完成間近であった飛行場を占拠した[3]。8日夜、米輸送船からの物資揚陸作業中、輸送船を護衛していた連合軍艦隊が日本海軍三川軍一中将率いる第八艦隊の巡洋艦7隻、駆逐艦1隻と交戦、連合軍側は巡洋艦4隻(米3隻、豪1隻)が撃沈、米巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が大破するなど多大な損害を被った。(第一次ソロモン海戦。)リッチモンド・K・ターナー少将は8月9日夕刻までに、残る重機、食糧、兵の揚陸を断念し海軍戦力すべてを撤退させた。このとき、32門の75mm榴弾砲105mm榴弾砲からなる砲兵大隊は揚陸済みであったが、食糧は5日分しか揚陸できなかった[4][5]

ガダルカナル島に上陸した海兵隊第1海兵師団は、はじめ奪取した飛行場のあるルンガ岬周辺に防衛線を構築することに注力し、物資の搬入と飛行場の完成を急いだ。指揮官ヴァンデグリフト少将は防衛線内に約11,000名を配置し、4日間かけて物資を揚陸地点から防衛線内に分散した集積場へと運び込んだ。飛行場の建設工事は主に日本軍の残した資材を使用して進められた。8月12日、飛行場はミッドウェー海戦で戦死した米海軍パイロット、ロフトン・ヘンダーソン少佐の名をとってヘンダーソン飛行場と名付けられた。日本軍からの鹵獲分もあり、食糧は14日分にまで増えたが、限られた食糧を節約するため1日の食事回数を2回に制限したという[6][7]

歩兵第28連隊 一木清直大佐盧溝橋で勇名をはせた。

連合軍のガダルカナル島上陸に対し日本海軍は陸軍に協力を要請、陸軍は百武晴吉中将を司令官とするラバウル第17軍にガダルカナル奪還の任を命じた。だが第17軍はこのときニューギニアの戦いに部隊を参加させていたため、ソロモン南部へはパラオ諸島川口支隊川口清健少将、歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)、フィリピンの青葉支隊(那須弓雄少将、第2師団歩兵第4連隊主力基幹)、内地転属のためグァム島に待機中であった一木支隊(一木清直大佐、第7師団歩兵第28連隊基幹)[8]を投入することとした。各隊は直ちにガダルカナル島へ向かったが、距離の近かった一木支隊が最初に到着した[注 5]

8月12日、日本軍はガダルカナルの米海兵隊の位置を確認するためラバウルから航空偵察を行ったが、開けた場所には米兵がほとんどおらず、近海にも大型艦船が認められなかった。このことから大本営は、連合軍は部隊の大部分を撤退させたものとみたが、実際には連合軍は撤退などしていなかった[9]。なお大本営が8月13日に第17軍に打った電報では「ソロモン群島要地奪回には(中略)できれば一木支隊と海軍陸戦隊のみで、すみやかに奪回するを可とせざるやと考えている」とあり、戦況を楽観視していたことがうかがえる[10]。百武中将は、一木支隊約2,300名から900名を先遣隊として速度の速い駆逐艦で直ちにガダルカナル島に上陸させ、連合軍陣地を攻撃しルンガ岬の飛行場を奪還せよと命じた。後続の第2梯団は別途低速の輸送船で送り込まれることとなった。一木支隊第1梯団はトラック島にある日本軍海軍基地を経由してガダルカナルへと向かったが、このとき一木大佐は「2,000名から10,000名の米兵が上陸拠点をすでに掌握しており、正面からの攻撃は避けるべきである」との説明を受けた[11]

8月19日01:00、有賀幸作大佐(第四駆逐隊司令)に指揮された陽炎型駆逐艦6隻(旗艦/萩風浦風谷風浜風陽炎)に乗船した一木大佐以下916名からなる第1梯団は、食料7日分を携行してルンガ岬の約35km東にあるタイボ岬に上陸した[注 6]。上陸後、一木大佐は約100名の兵を後方の守備に充て、残り約800名を率いて行軍を開始、19日の日没前にはルンガ防衛線からおよそ14km東の地点まで到達した。一方ルンガの米海兵隊は、日本軍がガダルカナル島に上陸したとの情報を得ていたが、状況をより正確に把握するため更なる情報収集に努めた[12]。なお第17駆逐隊3隻(浦風、谷風、浜風)はラビの戦いに従事するためすぐにラバウルへ向かい、残3隻はB-17爆撃機の空襲により「萩風」が大破、「嵐」と共にトラック泊地へ撤収、同方面に残る駆逐艦は「陽炎」1隻となった。

戦闘[編集]

前哨戦[編集]

英領ソロモン諸島沿岸監視員マーティン・クレメンス(中央)と現地警備軍。ガダルカナルの戦いを通じて連合軍の偵察員・案内役として活躍した。

イギリス領ソロモン諸島保護領守備軍(BSIPDF)の士官で沿岸監視員であるマーティン・クレメンス英語版の指揮の下、英領ソロモン諸島保護領警察隊ジェイコブ・C・ヴォウザ元上級曹長らをはじめとするソロモン諸島の沿岸監視員やその他の情報機関からの報告によって、日本軍がガダルカナル島に上陸しルンガ岬の東側を行軍中であることが明らかとなっていた。8月19日、更なる情報収集の為チャールズ・ブラッシュ大尉率いる海兵隊偵察部隊60名と4名の現地人スカウトがルンガ防衛線の東側の調査にあたった[13][14]

同じころ、一木支隊も敵情視察と前線の連絡拠点確立のため、38名の偵察部隊を出した。8月19日12:00ごろ、コリ岬付近にてブラッシュ大尉の偵察部隊が日本軍斥候兵を視認、待ち伏せ攻撃を仕掛けた。日本軍側は33名死亡、生き延びた5名はタイボ岬へと退却した。米海兵隊の損害は3名死亡、3名負傷であった[注 7]

偵察部隊の士官の遺体から得た書類などから、上陸した日本軍は比較的大きな部隊に所属していることが明らかとなった[15]が、その兵力の具体的な規模や日本軍の攻撃がいつ始まるのかといった情報は得られなかった[16]

これらの情報から、米軍海兵隊はルンガの東方からの攻撃を想定し、防衛線東部の防備を固めていた。なお米軍公式戦史では、ルンガ防衛線の東部防衛地点をテナル川に同定しているが、テナル川は戦闘の発生した場所の更に東側に位置しており、実際にルンガ防衛線の東部を形成していたのはイル川である。イル川は連合軍側ではアリゲーター・クリークと呼ばれていたが、この呼称には二つの過ちがある。まず、ソロモン諸島にはアリゲーターは生息しておらず[注 8]クロコダイルしかいないこと、また、クリーク(Creek:入江)と言いながらも実際は海と幅7m - 15m、長さ30mの砂州で分かたれたであったことである[17]

第1海兵連隊クリフトン・ケイツ英語版大佐は第1・第2大隊をイル川の西岸に沿って配置した[18][19]。さらに第1特殊兵器大隊100名にキャニスター弾(対人用散弾)を装備した37mm対戦車砲2門を備え、イル川砂州の守備にあたらせ、イル川東岸と砂州を事前に標的に据えさせ、砲兵隊の観測兵を海兵隊陣地前線に配置した[20]。海兵隊はこの守備固めに20日丸一日を費やし、日没までに可能な限り守備を整えた[18]

偵察隊全滅の報を受けた一木大佐は遺体埋葬の為1個中隊を先遣した後、19日夜間も行軍を続け、8月20日04:30にはルンガ岬の米軍陣地から東に数キロの地点まで到達した。一木支隊はこの位置で行軍を一旦停止し、同日夜間の攻撃に備えた[21]

攻撃[編集]

8月21日の戦場図

8月20日深夜、午前零時をちょうど過ぎたころ、一木支隊本隊はイル川東岸に到着したが、驚くべきことに対岸には米海兵隊の陣地が構えてあった。ルンガ岬の飛行場からこれ程離れた場所に米軍陣地があることは想定していなかった[22]。米軍の背後をつくつもりが、強固な守備陣地の正面からの攻撃となったのである。一方の米海兵隊は、日本兵がイル川に向けて進軍する際のカチャカチャいう音や話し声を偵察兵(聴音哨)が聞きつけており、日本軍接近を察知済みであった。

8月21日01:30、一木支隊はイル川西岸に対して攻撃を開始し、第一波の100名がイル川を渡って海兵隊陣地に突撃した[23]が、キャニスター弾を装填した37mm榴弾砲と機銃の猛射に遭い、ほとんどの兵は砂州を渡る際に倒された。海兵隊陣地にたどり着いた兵もわずかにおり、白兵戦を挑むなどして機銃陣地を確保したものもあった。日本軍の機銃射撃と小銃射撃によって戦死した米海兵隊銃手もいた[24]。だが、米軍前線を突破した日本兵も、その直ぐ後ろに待機していた中隊の攻撃に遭い、機銃陣地を確保し続けることはできなかった。一木支隊の最初の攻撃は100名余りの損害を出し、開始から一時間足らずで一旦停止することを余儀なくされた[25][26]

02:30、日本側の第二波として、150名から200名の日本兵がイル川砂州を超えるべく再攻撃を掛けたが、またもや米軍の火力の前に一掃された。このとき、生き延びた士官が一木大佐に残存兵をまとめて撤退すべきであると進言したが、一木大佐はこの進言を退けた[27]

一木支隊はイル川東岸で部隊を再編成し、迫撃砲による砲撃を開始した[28]。これに対し、米海兵隊も75mm砲と迫撃砲でイル川東岸に砲撃、応戦した[29]。5:00頃、日本は3度目の攻撃を仕掛けた。このときはイル川渡河ではなく、北の海側から廻り込んで西岸を攻撃しようとした。だがこの迂回攻撃は直ぐに米軍に察知され、浜辺一帯は重機関銃と砲兵の砲撃を浴びた。一木支隊は三たび甚大な被害を被り、迂回攻撃をあきらめ東岸に撤退することを余儀なくされた[30][31]。この後1-2時間程、イル川を挟んで至近距離での銃撃による応酬が続いた[32]

21日の戦闘後、イル川の砂州に半ば埋まって横たわる一木支隊の将兵

一木支隊は既に壊滅的な被害を被っていたが、依然としてイル川東岸に留まり続けていた。撤退できなかったのか、あるいは撤退するつもりがなかったのかは不明である[33]8月21日明方、米軍士官は如何にして戦闘を継続するか協議し、結論として日本軍を追い詰め、攻撃を仕掛けさせてから返り討ちにすることにした[34]。第1連隊第1大隊のレナード・クレスウェル中佐は、戦闘地域からイル川を溯上、一木支隊を南方と東方から包囲しイル川東部のココナッツ林に追い込んだ[32]。また、ヘンダーソン飛行場からの航空機による機銃掃射で日本軍をココナッツ林に足止めし、午後になってから投入された5輌のM3軽戦車が砂州を超えてココナッツ林を攻撃した。戦車は機銃とキャニスター弾の砲撃でココナッツ林に猛射を浴びせ、横たわる日本兵を生死を問わず押しつぶしていった。ヴァンデグリフト少将は、戦車攻撃が終わった時の様子を「戦車の後ろ側はまるで挽肉器(meat grinder)のようであった」と書き残している[注 9]

21日17:00には一木支隊の抵抗も止み、戦闘は終了した。一木大佐の最期については、戦闘中戦死した、また自決したなど記録によって異なる[注 10][注 11][注 12]。戦闘終了後、物見高い米兵が戦闘後戦場を見て回った際、負傷した日本兵に近づいたところを撃たれ、死亡するものも出た。このため、その後海兵隊はすべての日本兵の遺体を撃ち、銃剣で刺した。負傷し意識不明であった日本兵15名が連合軍の捕虜となった。戦闘を生き延び後方に逃れた一木支隊の兵は30名程で、タイボ岬に待機していた第1梯団後方部隊に合流した[注 13]

影響[編集]

米軍・連合軍にとってイル川渡河戦での勝利は心理的に重要な意味をもっていた。連合軍の兵士はこれまでの太平洋戦線および東アジア戦線の地上戦において日本軍に負け続けてきたが、この戦いの勝利によって日本軍を地上戦においても打ち負かすことができることを知った[35]。また連合軍はこの戦いで「日本兵は敗北しても降伏することを良しとせず、負傷し倒れてもなお連合軍兵を殺しにかかる」という、太平洋戦争終戦まで通じる戦訓を得た。この点についてヴァンデグリフト少将は次のように述べた。「私はこのような類の戦いを見たことも聞いたこともなかった。彼らは降伏を拒む。傷ついた日本兵は米兵が調べに来るのをじっと待ち、近づいた米兵を手榴弾で自らの体ごと吹き飛ばすのだ[36]。」ガダルカナルに機関銃手などとして従軍したロバート・レッキーは回顧録『Helmet For My Pillow(ヘルメットを枕に)』で「我々の連隊は900名ばかりの日本兵を倒した。ほとんどは銃火の前に塊となったり、山積となったりして倒れた。まるで日本兵は集団じゃないと死なないかのようだった。戦闘後、死体の間では戦場の"みやげもの"を探そうとする奴らが動き回っていた。ブービートラップがあるので慎重に歩き回り、見つけた遺体を裸にしていた[37]。」

この戦いは、これまでの戦闘で無敵であり、敵軍に対し優位にあると信じていた日本兵の心理にも重大な影響を及ぼした。8月25日の夜までに、一木支隊の生存兵はタイボ岬へ帰還し、ラバウルの第17軍に無線で「一木支隊は飛行場を目前にしてほぼ全滅した」と伝えた。だが陸軍上層部はこの報を信じず、ヘンダーソン飛行場奪還作戦を続行し、部隊を追加投入した[38]。次なる日本軍の大規模反撃は、約3週間後の第1次総攻撃ムカデ高地の戦い血染めの丘の戦いエドソンの丘の戦いとも)であり、日本軍は飛行場奪還を期して、イル川渡河戦を上回る川口支隊約6,500名を投入したのであった。

この戦いを題材とした作品[編集]

イル川渡河戦(テナルの戦い)は、スティーヴン・スピルバーグトム・ハンクスが製作総指揮に名を連ねるHBOのドラマ『ザ・パシフィック』の「第1章〜ガダルカナル 前編〜」クライマックスシーンで映像化されている。だが、ドラマでは実際に起きたことをそのまま完全に再現しているわけではない。ドラマでは海兵隊機関銃手ロバート・レッキーが、装填手と共にM1917重機関銃を動かすシーンがあるが、実際には機関銃座は固定されていた。さらにドラマと違い、機関銃座は戦闘が激しかった場所からもっと離れた場所にあった。 なお、このとき日本軍の攻撃の真正面にいたのは海兵隊リー・ダイヤモンド伍長、ジョン・リバース一等兵とアルバート・シュミット二等兵の3名であり、この3名により200名以上の日本兵が戦死したとされる。この戦闘で3名は名誉勲章(メダル・オブ・オナー)に次いで高位である海軍十字章を受章しているが、リバース一等兵は戦死、シュミット一等兵は手榴弾を受け片目を失明、もう片方の視力もほとんど失い、ダイヤモンド伍長は戦闘が始まってすぐ腕に被弾した後さらにシュミットの視力を奪ったのと同じ手榴弾によって片腕を失う重傷を負った[39]。 後にアルバート・シュミットの自伝的映画『Pride of the Marines(海兵隊の誇り)』が製作され1945年8月に公開となっており、この戦いも映画の重要な場面として描かれている。

脚注[編集]

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注釈

  1. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 14–15, Jersey, Hell's Islands, p. 209. この戦闘には、海兵隊3大隊(各大隊約900名)の他、特殊兵器部隊、師団砲兵隊などが参加した。
  2. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 71. Smithによると、38名は戦闘中に死亡、3名はブラッシュ大尉率いる部隊の偵察任務中の戦死である。Frankによると、41名が戦闘中に死亡、偵察任務では3名死亡とされている。
  3. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 73. Smithによると、第1梯団917名のうち生存者は128名、捕虜15名であるので、差し引き774名が戦死したものとしている。
  4. ^ Frank, Guadalcanal, p. 156 & 681. Frankによると戦死777名である。
  5. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 88, Evans, Japanese Navy, p. 158, and Frank, Guadalcanal, p. 141–143. 「一木支隊は北海道第7師団を基幹として編成された。第2師団を基幹とする青葉支隊は仙台青葉城からその名をとった。一木支隊は当初ミッドウェー島の侵攻・占領のため充当された部隊であったがミッドウェー海戦の敗北によって同侵攻作戦が頓挫、本土へ帰還するところガダルカナル戦に投入された。なおEvansの著書では、田中頼三が一木支隊をミッドウェー海戦の後グァム島に降ろしたと述べている。一木支隊はグアムからトラック島を経由する形でガダルカナル島へと輸送された。
  6. ^ Evans, Japanese Navy, p. 161, Frank, Guadalcanal, p. 145, Jersey, Hell's Islands, p. 204, 212, Morison, Struggle for Guadalcanal, p. 70, and Smith, Bloody Ridge, p. 43. 第1梯団は北海道旭川の第7師団歩兵第28連隊第1大隊(大隊長蔵本信夫少佐)を基幹とする。タイボ岬は日本海軍の前哨基地で200名程の海軍兵がおり、一木支隊の上陸を支援した。
  7. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 100, Jersey, Hell's Islands, p. 205, and Smith, Bloody Ridge, p.47.この戦死数はイル川渡河戦全体の両軍の戦死者数に含まれている。なお、日本軍斥候部隊の隊長は渋谷好美大尉であった。
  8. ^ アリゲーター科のワニが生息するのは、南北アメリカ大陸と中国長江などである。
  9. ^ Gilbert, Marine Tank Battles, p. 42–43, Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 106, Jersey, Hell's Islands, p. 212, and Smith, Bloody Ridge, p. 66. 戦闘に参加した戦車は4輌だけであったとする資料もある。
  10. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 71–72. Smithによると、戦闘を生き延びた日本兵のほとんどは、一木大佐は自決ではなく戦死したと主張している。戦闘の後、負傷した日本軍士官は、死んだふりをして近づいた米兵を射撃し重傷を負わせ別の米兵アンディ・ポリニー(Andy Poliny)に殺された。ポリニーはこの人物が一木大佐であったと信じている。
  11. ^ Frank, Guadalcanal, p. 156. Frankは、「戦史叢書によると一木は切腹して自決したとある」としている。しかし日本軍生存兵には、一木大佐が米軍陣地に突撃したのを最後に目撃したと証言するものもいる
  12. ^ 川口 (1960),p.197。川口支隊を率いた川口清健の手記では「一木大佐は軍旗を処分した後立派に自決した」とある。
  13. ^ Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 291 and Smith, Bloody Ridge, p. 43 and 73. 戦闘前100名程が後方の守備に置かれたことと、戦闘を生き延びた兵は128名であるとの記録があるので、30名程が戦闘を生き延びて後方に逃れたものと推測できる。

参照

  1. ^ Frank, Guadalcanal, p. 147 & 681.
  2. ^ Hogue, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 235–236.
  3. ^ Morison, Struggle for Guadalcanal, pp. 14–15.
  4. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 49–56.
  5. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 11 & 16.
  6. ^ Shaw, First Offensive, p. 13.
  7. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 16–17.
  8. ^ Miller, The First Offensive, p. 96
  9. ^ Frank, Guadalcanal, p. 143–144.
  10. ^ 川口 (1960), p.197
  11. ^ Evans, Japanese Navy, p. 161, Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 98–99 and Smith, Bloody Ridge, p. 31.
  12. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 99–100 and Smith, Bloody Ridge, p. 29 & 43–44.
  13. ^ Frank, Guadalcanal, p. 148, Jersey, Hell's Islands, p. 205.
  14. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 62.
  15. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 62
  16. ^ Frank, Guadalcanal, p. 149.
  17. ^ Frank, Guadalcanal, p. 150.
  18. ^ a b Hammel, Carrier Clash, p. 135.
  19. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 67.
  20. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 102.
  21. ^ Frank, Guadalcanal, p. 149 & 151, and Smith, Bloody Ridge, p. 48.
  22. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 58.
  23. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 102, Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 290, and Smith, Bloody Ridge, p. 58–59.
  24. ^ Jersey, Hell's Islands, p. 210, Hammel, Carrier Clash, p. 137.
  25. ^ Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 68.
  26. ^ Frank, Guadalcanal, p. 153.
  27. ^ Smith, Bloody Ridge, p. 62–63.
  28. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 103.
  29. ^ Frank, Guadalcanal, p. 153, and Smith, Bloody Ridge, p. 63.
  30. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 103–104.
  31. ^ Hammel, Carrier Clash, p. 141.
  32. ^ a b Zimmerman, The Guadalcanal Campaign, p. 69.
  33. ^ Frank, Guadalcanal, p. 154 and Smith, Bloody Ridge, p. 66.
  34. ^ Hough, Pearl Harbor to Guadalcanal, p. 290.
  35. ^ Frank, Guadalcanal, p. 157.
  36. ^ Griffith, Battle for Guadalcanal, p. 107
  37. ^ Leckie, Robert Helmet For My Pillow Bantam Books Trade Paperback Edition 2010 pp.84-85
  38. ^ Frank, Guadalcanal, p. 158 and Smith, Bloody Ridge, p. 74.
  39. ^ Mark DiIonno (2010年2月21日). “HBO series illuminates N.J. Marine's book on World War II experience”. NJ.com. 2010年3月16日閲覧。

参考文献[編集]

日本語文献

外国語文献

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  • Gilbert, Oscar E. (2001). Marine Tank Battles in the Pacific. Da Capo. ISBN 1-58097-050-8. 
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  • Morison, Samuel Eliot (1958). The Struggle for Guadalcanal, August 1942 – February 1943, vol. 5 of History of United States Naval Operations in World War II. Boston: Little, Brown and Company. ISBN 0-316-58305-7. 
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外部リンク[編集]

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