クラ湾夜戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
クラ湾夜戦
Helena and St. Louis in action at Kula Gulf, seen from Honolulu
軽巡洋艦ホノルルから撮影された、クラ湾夜戦で砲撃中のヘレナあるいはセントルイス
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年7月5日-6日
場所:ソロモン諸島、クラ湾コロンバンガラ島ニュージョージア島の間)
結果:日本軍の輸送作戦は一応成功も、物資全ての陸揚げは失敗
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
秋山輝男少将  ヴォールデン・L・エインスワース少将
戦力
駆逐艦10 軽巡洋艦3、駆逐艦4
損害
駆逐艦2沈没 軽巡洋艦1沈没
ソロモン諸島の戦い

クラ湾夜戦(クラわんやせん、: Battle of Kula Gulf[1][2])は、太平洋戦争大東亜戦争)中、ソロモン諸島1943年7月5日 - 6日に生起した日本軍アメリカ軍との間の海戦のこと。なお、ここではクラ湾夜戦の前夜にクラ湾で行われた水上戦闘についても合わせて述べる。

背景[編集]

ソロモン諸島の戦いのうち、1942年11月30日から12月1日にかけての深夜に起こったルンガ沖夜戦で、カールトン・H・ライト少将(アナポリス1912年組)率いる第67任務部隊英語版田中頼三少将の第二水雷戦隊の一隊によって重巡洋艦群が手痛い損害を受けた。南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は第67任務部隊の立て直しを図り、12月10日付でヴォールデン・L・エインスワースをライトの後任として第67任務部隊司令官に据えた。軽巡洋艦を中心に再建された第67任務部隊は、エインズワースに率いられガダルカナル島から日本軍を追い出す最後の戦いの支援に任じた。特にニュージョージア島ムンダに新たに建設されていた日本軍飛行場に対する艦砲射撃を行った戦闘行動は「エインズワース・エクスプレス」とも呼称され、歴史家サミュエル・E・モリソンに「基地攻撃に関する長期間にわたるお手本」と評された。1943年3月に入り合衆国艦隊の再編成が行われて南太平洋部隊は「第3艦隊」と呼称されるようになり、水陸両用戦部隊以外は「第36任務部隊」と改められた。 エインズワース少将率いる第36任務部隊は「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡にてアーロン・S・メリル少将率いる第68任務部隊と交互に行動することになった。3月5日深夜から3月6日未明にかけて行われたビラ・スタンモーア夜戦ではメリル少将の第68任務部隊がコロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた日本海軍の駆逐艦部隊をレーダー射撃による一方的な戦闘により撃沈した。

また5月8日にもコロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)が触雷により全滅するということがあった。

一方でソロモン方面にいた主な有力なアメリカ艦隊は上記の二つのみであり、前年のガダルカナルを巡る戦闘で多数の航空母艦を撃沈もしくは大破させられたため1943年5月から10月までソロモン方面で行動可能なアメリカ海軍の正規空母はサラトガ1隻程度しかおらず航空戦力はもっぱら基地航空隊に頼っていた。このため6月から7月に限っては急遽イギリス海軍から借り受けた空母ヴィクトリアスがニュージョージア島の戦いを支援した。

またニュージョージア島侵攻は5月中句に予定されていたが、ヨーロッパ戦線でのイタリア本土上陸作戦の準備と大西洋の船団護衛に多量の航空機と艦艇が回されたため、ニュージョージア島侵攻は6月初に、ついで6月30日に延期になった[3]

6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し占領した。

レンドバ島を占領する意味は、ここに重砲を据えてムンダ飛行場へ直接砲撃が可能になるということであり、いわば「不沈砲台」とするものであった[4]。しかし、日本軍はその事を理解しておらず、わずか120名の守備隊はリッチモンド・K・ターナー少将率いる水陸両用部隊に一蹴されたのである[5]。引き続きレンドバ島の重砲の援護下、ニュージョージア島攻略部隊は続々と舟艇機動によってムンダ東方海岸に殺到する。ところが、攻略部隊はジャングル内で日本軍側の縦深防御に手を焼いて進撃は進まなかった[5]ウィリアム・ハルゼー大将の南太平洋部隊(第3艦隊[6])内部では、この戦いをちょうど80年前の南北戦争時のビックスバーグの包囲戦になぞらえ、包囲戦が終結した7月4日には同じように勝利を手にする事ができるだろうと考えていたが、この目論見も外れる形となった[7]

一方の日本軍側は、6月29日深夜に呂109がレンドバ島を目指す輸送船団を発見し、これを受けて第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に対してレンドバ島突入を命じる[8][9]。秋山少将は本来の戦隊旗艦である川内型軽巡洋艦1番艦川内[10]に代え、3ヶ月前に就役した新鋭の秋月型駆逐艦5番艦新月に将旗を翻し、駆逐艦3隻(望月皐月夕凪)を率いてレンドバ島沖に向かった[10]。これとは別の駆逐艦部隊(天霧初雪長月三日月および水無月)がレンドバ島近海に先行して輸送船団を捜し求めていた[10]。しかし、スコールに見舞われて敵を発見することが出来ず、新月はブインに、その他の駆逐艦はブカ島にそれぞれ帰投した[10]。第三水雷戦隊は翌7月2日にも再度レンドバ島突入を行う。この時は3隻(夕張、夕凪、三日月)からなる陽動隊を別に編成し、駆逐艦6隻(新月《三水戦旗艦》、天霧、初雪、長月、皐月、望月)は7月2日16時にブインを出撃して、日付が7月3日になろうとする頃にレンドバ島沖に到着[11]。この時もまた敵艦艇を発見することはできず、レンドバ島に対して艦砲射撃を行い引き揚げた[11]

レンドバ島占領は、第八方面軍今村均中将)にコロンバンガラ島の防衛強化の重要性を再認識させた[12]。 3日にムンダの日本軍南東支隊司令部で会議が開かれ、陸軍は海軍に「ニュージョージア島防衛にこだわった責任を取って支援部隊を送れ」と要求したが、海軍からは「ラバウルの航空部隊は(先月末のルンガ沖航空戦により)消耗しており、艦隊は燃料不足で出撃できず」と返答された。さらに陸軍の佐々木支隊長がレンドバ島へ逆上陸して重砲を破壊することを提案し海軍に協力を求めたが、上陸に必要な大発はアメリカ軍の砲撃で破壊されており実行は不可能だった。 ニュージョージア諸島は喉元に刃物を突きつけられた状態となって輸送が困難になることが予想されたため、防衛強化のために速射砲と陸兵1,300名、大発15隻分に相当する物件をコロンバンガラ島に輸送する事とした[13]。輸送は二度の鼠輸送によって行われることとし、7月4日と7月5日に駆逐艦4隻ずつを送り込むことになった[14]。一方、アメリカ軍側もムンダ攻撃の支援のため、ニュージョージア島のクラ湾に面した地域に対しても上陸作戦を行う事となり、アメリカ第37歩兵師団三個大隊を乗せた高速輸送艦を主体とする輸送船団と、ヴォールデン・L・エインスワース少将率いる火力支援担当の第36.1任務群を送り込む事となった[15]

7月4日深夜の戦闘[編集]

参加艦艇[編集]

日本海軍[編集]

  • 第三水雷戦隊[14]
駆逐艦:長月、皐月、新月、夕凪

アメリカ海軍[編集]

輸送船団は省略

  • 第36.1任務群
軽巡洋艦:ホノルル(任務群旗艦)、ヘレナセントルイス
駆逐艦:ニコラスストロングオバノンシャヴァリア

戦闘経過[編集]

秋山少将以下第三水雷戦隊司令部は出撃せずブインにて作戦を指揮[14]。第二十二駆逐隊司令金岡国三大佐に率いられた駆逐艦4隻は、7月4日16時40分にブインを出撃した。チョイスル島南岸沿いに南に下り、ニュージョージア海峡を縦断してコロンバンガラ島東岸に取りつく[14]。クラ湾に入りつつあった22時15分、左舷前方10キロ先に艦砲射撃中の敵艦隊を発見[14]。この敵艦隊、つまり第36.1任務群は駆逐艦を2隻ずつ前後に配した陣形を取り、ニュージョージア島バイロコの呉第六特別陸戦隊に対して砲撃を行っていた[16]。その最中、輸送船団の護衛にあたっていた駆逐艦ラルフ・タルボット (USS Ralph Talbot, DD-390) のレーダーが北方に目標を探知[16]。だが、第36.1任務群はUターンをして右砲戦で艦砲射撃を続けた。第36.1任務群を魚雷の射程圏内に入れた金岡大佐は海戦を行う事を決心し、22時25分に魚雷発射を命じる[13]。長月が6本、新月と夕凪が4本ずつ発射し[13]、そのままクラ湾から去っていった。その後、機を見て再度の攻撃と揚陸を試みるも、最終的には物資揚陸を断念して7月5日6時にブインに帰投した[14]

エインスワース少将はラルフ・タルボットに探知した目標について報告させようとしたが[17]、間もなくストロングの右舷に魚雷が命中する[18][2]。バイロコの呉第六特別陸戦隊は伊勢型戦艦2隻(伊勢日向)から下ろした14センチ砲を有していたが[19]、その14センチ砲も第36.1任務群に対して砲撃を行い、ストロングに三発の命中弾を与えた[18]。ストロングは大破し、シャヴァリアが艦首をストロングに接触させつつも[20]乗員240名を救助した後、搭載していた爆雷が爆発して沈没した[18]。エインスワース少将はこの攻撃を潜水艦によるものと信じていた[2]。第36.1任務群は救助作業に一区切りをつけると、急遽ツラギ島に退却した[2]

戦闘の後[編集]

第三水雷戦隊は駆逐艦1隻を撃沈する戦果を挙げたものの、本来の目的である輸送任務は果たせなかった。そこで、7月5日に予定されていた輸送作戦では第二水雷戦隊伊崎俊二少将)からの応援艦を加えて部隊規模を大きくし、増援部隊全力を挙げて決行される事となった[13][21]。一方のアメリカ軍側は駆逐艦1隻を失ったものの上陸作戦には成功し、コロンバンガラ島に対する圧力をいっそう強める事となった。

参加艦艇[編集]

日本海軍[編集]

  • 第三水雷戦隊[22]
支援隊:新月(旗艦)、涼風谷風
第一次輸送隊:望月、三日月、浜風(「夕凪」)
第二次輸送隊:天霧、初雪、長月、皐月

輸送隊は陸兵2,400名、物件約180トンを搭載[23]

アメリカ海軍[編集]

  • 第36.1任務群[24]
軽巡洋艦:ホノルル(任務群旗艦)、ヘレナ、セントルイス
駆逐艦:ニコラス、オバノン、ジェンキンスラドフォード

戦闘経過[編集]

ヘレナの生存者を乗せた駆逐艦ラドフォード
放棄された長月(1944年5月8日撮影)

第三水雷戦隊は当初、軽巡夕張を旗艦として出撃する予定であったが、7月5日にショートランド泊地に入りつつあった時に触雷し、作戦から除外されて新月を旗艦とした[25][26]。また、第一次輸送隊に名を連ねていた夕凪は出撃しなかった[27]。17時35分、ブインを出撃[22]。前夜と同様にチョイスル島沿いに南に下り、22時23分に第一次輸送隊を分離させてコロンバンガラ島東岸に先行させる[22]。一方の第36.1任務群はツラギに到着し、給油作業を行っていた[24]。そこに新手の「東京急行」出発の報がもたらされる。ハルゼー大将から情報を受け取ったエインスワース少将は、急遽コロンバンガラ島近海に引き返すこととした[2]。ただし、シャヴァリアは艦首損傷とストロング乗員の上陸のため任務群から外され、代わりにジェンキンスとラドフォードを任務群に加えた[20]。第36.1任務群は視界の悪い海域を29ノットの高速で北上し、クラ湾に差し掛かる頃に25ノットに速力を落として会敵に備えた[20]。エインスワース少将は当夜の戦法について、まず軽巡洋艦にレーダー射撃によって先制攻撃を行い、魚雷回避のため軽巡洋艦を退避させた後、駆逐艦に突撃させるという戦法を採用した[28]

23時3分、新月は左20度5キロ先に敵艦隊を発見する[22]。23時18分にUターンののち[22]、23時43分に第二次輸送隊を分離[22]、その直前の23時36分にホノルルのレーダーが左前方に第三水雷戦隊を探知した[20]。23時48分、新月が同航する巡洋艦3隻、駆逐艦2隻を発見するに及び[23]、23時52分に全軍集結を命じたef name="sand" />。23時54分、エインスワース少将は指揮下全艦艇に攻撃を命じる[20]。当面の目標を支援隊とし、一斉射撃を行った[23]。23時56分、米艦隊はレーダーに映った最も大きな目標(新月)だけを目標としたため、新月は第36.1任務群からの砲撃を一身に浴び、日付が変わった0時6分には舵が故障した上、火災が発生[23]。そのまま行方不明となった。第36.1任務群が砲撃を加えてもなんら反撃がなかったことから、エインスワース少将は筋書き通りに事が進んでいると判断し[29]、次の行動を移ることとした。しかし、新月に砲撃が集中した結果、後続2隻(涼風、谷風)にはこの時には砲弾が降り注がず、アメリカ側は数の利を生かせなかった[30]。 23時57分に2隻(涼風、谷風)は魚雷をそれぞれ8本ずつ発射して再装填のため一旦戦場を離脱した[31][32]。0時2分、魚雷は第36.1任務群を襲い[31]、ヘレナに魚雷3本が命中した。1本は艦首部に命中して艦首をもぎ取り[32]、2本は船体中央部のほぼ同一箇所に命中[33]。これによりヘレナの船体はV字型に裂け、そのまま沈没していった[34]。後続のセントルイスはヘレナへの追突を防ぐため右側に針路を取って戦場から一時離脱した[35]。オバノンは第二次輸送隊と思しき目標に向けて魚雷を5本発射したが、命中しなかった[36]

再装填のため一旦戦場を離脱した2隻(涼風、谷風)であったが、涼風は火災事故を起こし[37]、一番砲が使用不能となった。さらに、機銃弾庫に被弾して第二次攻撃に遅れをとった[38]。谷風も魚雷次発装填装置の故障のため、戦場に戻るのに手間取り[39]、艦首に不発ながら命中弾を受けて損傷した[37][40][38]。2時ごろには戦場に引き返したものの、新月も敵艦隊も発見できなかったので帰投することとした[23]。また、全軍集結で集合した輸送隊のうち、第一次輸送隊の望月は触礁事故と大発の曳航索を推進器に絡ませたことにより遅れをとる[41]。それでも、揚陸作業を終えて西方に向かった[23]。第二次輸送隊は天霧が魚雷攻撃を、初雪が砲撃をそれぞれ行う[36]。反撃により初雪が二発の不発弾を受けて損傷した後、揚陸地に向けて反転した[23]。長月と皐月も突撃した天霧および初雪に続くも、敵情が分からなかったので先んじて揚陸作業に戻る[41][23]。しかし0時49分に長月がコロンバンガラ島ベネット入江に座礁した[41]。揚陸作業と同時に皐月による引き降ろし作業が行われたが成功せず、4時23分には引き降ろし作業が打ち切られた[41]。天霧および初雪も3時前には揚陸作業を済ませるが[23]、ヘレナの生存者を救助中のニコラスとラドフォードからの砲撃を受けたため反撃を行う[22][36]。天霧は魚雷5本を発射し、1隻に命中と判断されたが[22][42]、実際にはラドフォードの艦尾をかすめ去っただけだった[43]。西航中の望月もまたニコラスとラドフォードからの砲撃を受けるが、煙幕を張って退却していった[43]。2隻(天霧、初雪)はベララベラ島南岸沿いを通り9時に[22]、3隻(谷風、浜風、三日月)は7時30分[22]、2隻(涼風、望月)は9時15分[41]、そして皐月が10時に[41]それぞれブインに帰投した[22][41]。ベネット入江で座礁中の長月は7月6日の朝、SBD「ドーントレス」TBF「アベンジャー」B-25 の爆撃を受けて放棄された[43]。新月・長月の生存者はコロンバンガラ島に上陸し、同地の横須賀第七特別陸戦隊に編入された[43]

第36.1任務群は、前述のようにヘレナの739名の生存者を救助するためにニコラスとラドフォードを戦場に残し、また退去の際には3隻の救命ボートを海上に投下してツラギ島に退却していった。ニコラスとラドフォードは天霧、初雪および望月と交戦しつつも救助作業を行ったものの、全ての生存者を救助する事はできなかった。残りは救命ボートに分乗して漂流し、一部はベララベラ島にたどり着いて後刻味方駆逐艦によって救助された[35]

損害と海戦の後[編集]

  • 日本海軍の損害[41]
沈没:新月、長月
中破:天霧、初雪、谷風
小破:涼風、望月
秋山少将以下、第三水雷戦隊司令部全滅
  • アメリカ海軍の損害
沈没:ヘレナ

本来の目的であるコロンバンガラ島への輸送は、半数前後に相当する陸兵1,600名と物資90トンを揚陸するも、海戦の影響で全ての陸揚げには成功しなかった[42]。 駆逐艦谷風戦闘詳報では、アメリカ軍のレーダーの脅威を訴え[44]、またアメリカ軍巡洋艦の装備と能力を正当に評価[45]。『肉薄しないのは精神力の不足』と批判せぬよう指摘している[46]

ムンダ方面の戦闘は依然として厳しい状況であり、ニュージョージア島へ一部の兵力を移すこととなった[47]。この事により、その分だけコロンバンガラ島の兵力に穴が開くこととなるため、後詰め兵力を送り込む必要性が出てきた。そこで、7月9日にコロンバンガラ島への緊急輸送が行われ[48]、7月12日にも輸送作戦が行われるが、同日夜にクラ湾夜戦に似たような経過でコロンバンガラ島沖海戦が発生した。また、司令部が全滅した第三水雷戦隊の後任司令官として7月7日付で伊集院松治大佐(金剛型戦艦1番艦金剛艦長)が発令され[49]、7月10日に着任した[42]

エインスワース少将はハルゼー大将へ「7隻の日本軍艦を仕留めた」と報告し[2]、ハルゼー大将はこれに対し賞賛の返答を行った[50]。ヘレナの生存者の一部は後に12月20日に就役したクリーブランド級軽巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CL-81) の乗組員の中核を成した[51]。また、戦死者や負傷者に火傷の者が多かったので、以後暑い気候の海域でも、基本的に肌の露出が少ない服装を着用することが義務付けられた[35]。クラ湾夜戦から一週間後の7月12日、沿岸監視員が「東京急行」の通過を通報してきた[52]。ハルゼー大将はエインスワース少将に再度の出撃を命じ[52]、沈没したヘレナに代わってオーストラリアの軽巡洋艦リアンダー を編入した第36.1任務群はコロンバンガラ島近海へ出撃し、コロンバンガラ島沖海戦が発生したが日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出した。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター
    • 『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』 第三水雷戦隊司令部、C08030105800(『第三水雷戦隊戦時日誌』)
    • 『昭和十八年七月七日 駆逐艦谷風戦闘詳報第一号 昭和十八年七月五日昭和十八年七月六日「クラ」湾沖夜戦(『駆逐艦谷風戦闘詳報』)』。Ref.C08030753700。
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)』。Ref.C08030023200。
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8
  • 原為一ほか 『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』 潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • 当時「夕張」航海長・海軍少佐津田武彦『袖珍軽巡「夕張」ソロモンへの片道切符 船団を護衛して魔の海域に作戦する小型軽巡を襲った痛恨の一瞬
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4

脚注[編集]

  1. ^ アメリカ海軍側の呼称
  2. ^ a b c d e f ポッター, 369ページ
  3. ^ ポッター, 355ページ
  4. ^ ポッター, 359ページ
  5. ^ a b ニミッツ、ポッター, 167ページ
  6. ^ ポッター, 368ページ
  7. ^ ポッター, 360ページ
  8. ^ 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.11
  9. ^ 木俣『日本水雷戦史』316ページ
  10. ^ a b c d 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.5
  11. ^ a b 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.12
  12. ^ 木俣『日本水雷戦史』317ページ
  13. ^ a b c d 『戦史叢書96』227ページ
  14. ^ a b c d e f 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.13
  15. ^ 木俣『日本水雷戦史』318ページ
  16. ^ a b 木俣『日本水雷戦史』319ページ
  17. ^ 木俣『日本水雷戦史』319、320ページ
  18. ^ a b c 木俣『日本水雷戦史』320ページ
  19. ^ 木俣『日本戦艦戦史』268、271ページ
  20. ^ a b c d e 木俣『日本水雷戦史』325ページ
  21. ^ 木俣『日本水雷戦史』322ページ
  22. ^ a b c d e f g h i j k 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.14
  23. ^ a b c d e f g h i 『戦史叢書96』228ページ
  24. ^ a b 木俣『日本水雷戦史』324ページ
  25. ^ 木俣『日本水雷戦史』322、323ページ
  26. ^ #軽巡二十五隻150-151頁
  27. ^ 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.28
  28. ^ 佐藤, 80ページ
  29. ^ 佐藤, 81ページ
  30. ^ #ニミッツの太平洋海戦史171頁
  31. ^ a b 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.6
  32. ^ a b 佐藤, 82ページ
  33. ^ 木俣『日本水雷戦史』326、327ページ
  34. ^ 木俣『日本水雷戦史』326ページ
  35. ^ a b c 木俣『日本水雷戦史』327ページ
  36. ^ a b c 木俣『日本水雷戦史』329ページ
  37. ^ a b 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.7
  38. ^ a b 木俣『日本水雷戦史』328ページ
  39. ^ 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.11,19,20,21,22
  40. ^ 『駆逐艦谷風戦闘詳報』C08030753700, pp.12,14
  41. ^ a b c d e f g h 『第三水雷戦隊戦時日誌』 C08030105800, pp.15
  42. ^ a b c 『戦史叢書96』230ページ
  43. ^ a b c d 木俣『日本水雷戦史』330ページ
  44. ^ #谷風蓮76号日誌(1)p.15『七.参考(イ)昭和十八年七月五日夜半「クラ」灣夜戰々訓所見』
  45. ^ #谷風蓮76号日誌(1)p.17『一.今次夜戰ニ於テハ驅逐隊自体ガ主隊兼補助部隊ニシテ戰果発揚ハ遍ニ駆逐隊自身ノ攻撃効果ニ依ラザルベカラザルガ如キ情況ニシテ徒ニ肉迫猛撃シ猪突盲進スルハ装備優秀ナル敵新式巡洋艦以上ノ部隊ニ対シテハ我ガ未ダ近迫セザルニ全滅シ何等戰果ナク敵ヲシテ名ヲ威サシムルノミナリ』
  46. ^ #谷風蓮76号日誌(1)pp.17-18『(B)最近ニ於ケル「ソロモン」方面局地夜戰ヲ研究セラルルニ当リ対勢図ヨリ見ル発射距離ノ大ヲ以テ直ニ肉迫攻撃ノ精神力不足ト謂フハ早計ナリ爾後ノ対勢変化ノ状況ヲ洞察シ其ノ時機ガ駆逐艦ノ戰力発揮ノ好機ナルヤ否ヤニ着眼ノ要アリト偲ム』
  47. ^ 『戦史叢書96』236ページ
  48. ^ 『戦史叢書96』236、237、245ページ
  49. ^ 昭和18年7月7日(発令7月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1167号 p.4』 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100 
  50. ^ ポッター, 370ページ
  51. ^ 中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』157ページ
  52. ^ a b 木俣『日本水雷戦史』332ページ

関連項目[編集]