セント・ジョージ岬沖海戦

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セント・ジョージ岬沖海戦
USS Charles Ausburne (DD-570).jpg
米駆逐艦チャールズ・オースバーン
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年11月24~25日
場所:ソロモン諸島、ブカ島
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
香川清登大佐
山代勝守大佐
アーレイ・バーク大佐
バーナード・L・オースティン中佐[1][2][3]
戦力
駆逐艦5 駆逐艦5
損害
駆逐艦3沈没、戦死647 なし
ソロモン諸島の戦い

セント・ジョージ岬沖海戦は、1943年11月24日から25日にかけて行われた太平洋戦争大東亜戦争)中の海戦日本軍ブカ島への輸送部隊(駆逐艦5隻、司令香川清登大佐)とアメリカ艦隊(フレッチャー級駆逐艦5隻、アーレイ・バーク大佐)[4]がブカ島西方、ニューアイルランド島セント・ジョージ岬東方海上で交戦し、日本側の駆逐艦3隻が沈没した[5]。 セント・ジョージ岬沖海戦はアメリカ側の呼称であり、この海戦の日本側名称は存在しない[6]、若しくはブカ島沖夜戦ブカ輸送における夜戦[7]とされる。

ソロモン諸島の戦いおよびソロモン、ビスマルク諸島水域における最後の海戦であるが、最後の水上戦闘ではない。このことも含め、ラバウルを基点とする、鼠輸送など駆逐艦による行動の終末などについても簡単に述べる。

背景[編集]

1943年(昭和18年)11月1日、アメリカ軍ブーゲンビル島タロキナ岬へ上陸する。これに対し日本軍は航空攻撃(「ろ号作戦)や水上部隊出撃(ブーゲンビル島沖海戦)で対抗しようとしたが成果はあがらなかった(ブーゲンビル島沖航空戦[8]。後詰めで来援した第二艦隊司令長官栗田健男中将を指揮官とする遊撃部隊は、11月5日と11日のラバウル空襲で損害を受け、トラック諸島に引き揚げる[9]。遊撃部隊、第二水雷戦隊(司令官高間完少将)、第十戦隊(司令官大杉守一少将)が去った後、ラバウル方面に残留する主要水上部隊は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治少将)だけとなり、11月19日付でブーゲンビル島沖海戦前後で名乗っていた「第二襲撃部隊」という部署名称を「襲撃部隊」に改めた[10]。11月15日以降、第三水雷戦隊には新戦力として二水戦所属の第三十一駆逐隊(司令香川清登大佐。同隊所属の駆逐艦長波はラバウルで航行不能状態)が編入されるが[11]、主だった任務は戦闘ではなくブカ島ニューブリテン島中部などに対する輸送となっていた[12]

11月17日未明、ブカ島の飛行場は「巡洋艦数隻」による砲撃を受けたと通報[13]。実際にはこの時、駆逐艦ダイソン (USS Dyson, DD-572) が単艦で艦砲射撃を行っていただけだった[14][15]。それでも進攻への警戒のため、第十七師団酒井康中将)の一部である歩兵第八十一連隊の残員を戦力強化のためにブカ島へ緊急輸送することとなり[13]、代わりにブカ島にいた海軍航空隊の要員を後退させることを企図した[16]

第一回輸送は吹雪型駆逐艦天霧に陸兵304名と物件12トン、姉妹艦夕霧に陸兵292名と物件11トン、睦月型駆逐艦卯月に陸兵279名と物件11トンをそれぞれ搭載して輸送隊とした[17]。これを香川大佐の第三十一駆逐隊(駆逐艦大波巻波)が警戒隊として随行し、全体の指揮は香川大佐が執った[13]。11月21日13時30分にラバウルを出撃し[13]、20時15分にブカ島に到着する[13]。ここで陸兵と輸送物件を降ろし、代わりに陸兵238名、海軍要員417名、捕虜2名を乗せて[18]ブカ島を離れ、11月22日5時30分にラバウルに帰投した[13]。この第一回輸送の動きをアメリカ側が察知していたかどうかは定かではないが、ともかく第一回輸送は全く妨害を受けることなく成功した。

参加艦艇[編集]

日本海軍[編集]

  • 輸送隊(山代勝守大佐):駆逐艦天霧、夕霧、卯月
  • 警戒隊(香川清登大佐):駆逐艦大波、巻波

アメリカ海軍[編集]

戦闘経過[編集]

第二回輸送は第一回輸送と同じ顔ぶれで行われ、11月24日13時30分にラバウルを出撃[20]。輸送隊は天霧に陸兵291名と海軍要員2名、物件12トンに軍犬15匹、夕霧に陸兵303名と海軍要員2名および物件10.4トン、卯月に陸兵316名と物件10.5トンをそれぞれ載せ[21]、輸送物件は甲板上に搭載して大発を曳航しながらの航行であった[22]。20時49分にブカ島に到着し、陸兵と輸送物件を降ろし引き揚げ陸兵21名と海軍要員688名、捕虜1名を収容する[21]。警戒隊は沖合いで敵襲に備えていたが[20]、22時24分に魚雷艇群を発見して交戦し、これを追い払う[20]。22時45分、収容を終えた輸送隊はブカ島を離れ[20]、警戒隊が輸送隊の3海里から4海里先を航行してラバウルに向かった[20]

アメリカ軍がいつ日本側の動きを察知したのかは定かではないが、11月24日の午後までには第3艦隊の情報部が「東京急行」の動きを察知し、参謀は無線連絡でニュージョージア島アルンデル島英語版の間にある泊地で燃料補給中[20]の第23駆逐部隊を呼び出し、以下のような指令を発した。

31ノット・バーク、ブカ - ラバウル撤退線を横切れ・・・・・・敵が探知した場合は、貴官はなすべきことを知っているはずだ — E・B・ポッター『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』415ページ

参謀は、再三にわたって「31ノット出せる」と報告していたバーク大佐をからかうつもりでバークの名前の前に「31ノット」を付け加えて「31ノット・バーク」と命名して電文を発信し、「31ノット・バーク」は以後バーク大佐の愛称として広く知れ渡る事となる[23]。また、バーク大佐にとってもこの迎撃戦は一つの機会であった。これよりさかのぼる事約3ヵ月半前、バーク大佐はポエニ戦争でのシピオウ・アフリケイナスの戦法に範を得て、日本海軍の夜戦戦術に対抗できる戦法を練り上げていた[24]。しかし、この戦法を引っさげて戦いに望む前に、一時的に駆逐艦から離れる事となってその機会を得なかった[25]。直後に起こったベラ湾夜戦では、後任のフレデリック・ムースブラッガー中佐がバーク大佐の戦術を理解して戦い、完勝劇を収めた。ここに、自ら考案した戦法を自ら駆使する機会が到来したのである。第23駆逐部隊は15時30分に泊地を出撃して30ノットの速力でブカ島西方に急行する[20]。ところが、全艦の給油が完了しないうちに司令を受けて出撃したため、可動全力の出撃とはならなかった[26]。また、攻撃に失敗した時に備えて魚雷艇群を先行させた[20]。警戒隊が22時24分に発見して交戦した魚雷艇群とは、この先回りしていた魚雷艇群のことである[20]

23時41分、第23駆逐部隊中のバーク大佐直率の第45駆逐群は、警戒隊の2隻をレーダーで探知する[16]。続いて23時56分、バーク大佐は指揮下のチャールズ・オースバーン、ダイソン、クラクストンに警戒隊の側方から魚雷を発射させて避退する[27][28]。後続のオースティン中佐の第46駆逐群は、頃合を見計らって砲撃できるよう態勢を完了している[21]。一方の警戒隊と輸送隊は、第23駆逐部隊になんら気づくことなく直進を続けていたが[27]、輸送隊からは先行する警戒隊の姿は全く見えなかった[22]。11月25日0時2分、第45駆逐群から発射された魚雷は、バーク大佐の「計算したとおりの魚雷の到達点」[21]にさしかかった警戒隊を襲い、3本が命中[28]。大波は0時6分に早くも沈没して[20]巻波も約20度傾斜する[20]。そこに第46駆逐群が襲い掛かり、集中砲火を浴びた巻波も1時ごろに沈没していった[20]。巻波は沈没寸前に魚雷を発射し、そのうちの1本はコンヴァースに命中したが不発だった[29]

輸送隊を指揮していた山代大佐は、前方に火柱が上がるのを見て面舵に針路をとらせ戦闘配置を令する[20][22]。しかし、0時30分頃から第45駆逐群からの砲撃を受ける[22][27]。煙幕を張るなどをして逃走を図るうちに卯月は西方へ避退し[20]、夕霧は反撃に出て発砲の閃光を目標に魚雷9本を発射する[20][22]。魚雷は命中爆発したように見えたが[20]、間もなく集中砲火を受けた夕霧は後部から沈み始め、1時30分頃に沈没した[20][22]。卯月は不発弾1発が命中したが[30]大事無く、2時30分に天霧と合同して5時30分にラバウルに帰投した[20]。バーク大佐は2時5分頃まで残敵掃討を行っていたが、日が昇ってからのラバウルからの空襲を警戒して引き揚げた[28]

海戦の後[編集]

この戦闘で日本側は「大型駆逐艦一隻轟沈 魚雷艇二隻撃沈一隻撃破」などの戦果を報じたが[31]、実際の戦果はゼロだった。海戦後、伊号第一七七潜水艦(伊177)伊号第一八一潜水艦(伊181)が遭難艦乗員の救助にあたり、伊177は夕霧の乗員および便乗者278名を[32]、伊181は同じく11名をそれぞれ救助した[28]。これとは別に、巻波乗員のうち28名は11月29日、カッターでニューブリテン島沿岸ズンゲン地区に漂着して救助された[28]。それ以外、大波の乗員は駆逐艦長吉川潔中佐以下全員が戦死し、夕霧は駆逐艦長尾辻秀一少佐以下155名と便乗者129名が戦死した[22][27]。戦死した吉川中佐はこれまでの戦功が評価され、二階級特進して少将に任ぜられた[33][34]。バーク大佐は後年、「燃料補給があと15分遅れていたら。この海戦は生起しなかったであろう」と回想している[28]。一方、駆逐隊司令仲間では「暗号が解読されていた」との噂が流れていた[28]

この海戦以後、駆逐艦による輸送作戦はアドミラルティ諸島や従前から行われていたニューブリテン島へのものに限られるようになった[35]。一連の輸送にはラバウル航空隊からの戦闘機が護衛に就いていた[36]。しかし、1944年に入る前後からラバウルの燃料不足が深刻となり、一時は駆逐艦をトラック諸島に全て引き揚げさせ、2月17日ごろには再びラバウルに揃って進出させる予定だった[36]。ところが、その2月17日にトラック島空襲があり、同島配備の航空機は大損害をうける[37]。それに伴って連合艦隊はラバウル所在の第十一航空艦隊(司令長官草鹿任一中将/南東方面艦隊長官兼任)に対し、トラックに航空戦力を集中するよう命令した[38]。ラバウル航空隊は事実上その幕を閉じてトラックに撤退する事となった[39]。 第三水雷戦隊司令部は航空援護なき輸送作戦は困難との判断に達し[39]、2月20日に行われた睦月型駆逐艦夕月水無月によるガブブ地区への輸送を最後に輸送作戦は取り止められ[39]、夕月と水無月も輸送任務終了後はラバウルには戻らずパラオに向かった[39]。以降、ラバウルに駆逐艦以上の水上艦艇の姿を見ることはなくなった。

同20日、航空部隊地上要員約400名(第二航空戦隊や第751航空隊の基地員や整備員)は救難曳船「長浦」(速力15ノット、812トン)、輸送船「興和丸」(三光汽船、1,106トン)、輸送船「黄海丸」(三井船舶、3,871トン)に分乗し、駆潜艇38号と駆潜特務艇48号に護衛されてラバウルを出発、パラオにむかった[40]。21日夕刻、ニューギニア方面から飛来したB-25双発爆撃機により輸送船2隻は撃沈され、駆潜艇38号も損傷した[41]。48号は生存者を乗せてカビエンにむかった[41]。 一方、日本軍の水上兵力および航空兵力の衰微を目の当たりにしたアメリカ海軍は、駆逐部隊にラバウルやカビエンなどへの艦砲射撃を行わせるようになった[42]。バーク大佐指揮下の第23駆逐部隊はハルゼー提督の命令に従い、カビエンへの艦砲射撃ニューブリテン島周辺の海上交通遮断作戦を実施した[43]2月22日午前10時頃、フレッチャー級駆逐艦5隻の第23駆逐部隊はカビエン近海で「長浦」(25mm機銃2丁、定員64名、便乗者約260名)を発見し、これを撃沈した[44]。生存者は日本側資料14名、米軍資料75名[45]。同日夕刻、第23駆逐部隊はラバウルから航空要員を乗せてトラックに向かう途中の敷設艇夏島」を発見し、これを撃沈した[45][46]。この戦闘が、ソロモンおよびビスマルク諸島水域における事実上最後の水上戦闘となった。

脚注[編集]

  1. ^ Military Times, Hall of Valor "Bernard Lige Austin"” (英語). Military Times. 2011年8月10日閲覧。
  2. ^ #木俣水雷p.378
  3. ^ #ニミッツ、ポッターp.188
  4. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 150〔セント・ジョージ岬沖海戦〕
  5. ^ 城英一郎日記、346-347頁(昭和18年11月25日記事)〔 戦況。○ギルバート方面、敵は各島に地歩を固めつゝある如し。/○「ラボール」より「ブカ」に一大隊輸送、d×5 成功帰投の際、敵C、dと交戦、d×3(「巻波」「大波」「夕霧」)沈。 〕
  6. ^ 戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後、431ページ
  7. ^ #海軍水雷史p.545
  8. ^ 戦史叢書71 1974, pp. 129a-130タロキナ奪回を企図す
  9. ^ 戦史叢書71 1974, p. 122.
  10. ^ #三水戦1811(1)pp.6
  11. ^ #三水戦1811(1)pp.9
  12. ^ #三水戦1811(1)pp.12
  13. ^ a b c d e f #戦史96p.429
  14. ^ Dictionary of American Naval Fighting Ships "Dyson"” (英語). NAVAL HISTORICAL CENTER. 2011年8月10日閲覧。
  15. ^ #木俣水雷p.401 では第23駆逐部隊全力で砲撃したかのように書いているが、例えば部隊旗艦のチャールズ・オースバーンが砲撃を行ったという記述はない(Dictionary of American Naval Fighting Ships "Charles Ausburn(e)"” (英語). NAVAL HISTORICAL CENTER. 2011年8月10日閲覧。
  16. ^ a b #ニミッツ、ポッターp.187
  17. ^ #三水戦1811(2)pp.34,35
  18. ^ #三水戦1811(1)pp.35
  19. ^ a b c #木俣水雷p.401
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #戦史96p.430
  21. ^ a b c d #三水戦1811(2)pp.35
  22. ^ a b c d e f g #田村(2)p.94
  23. ^ #ポッターp.415
  24. ^ #ニミッツ、ポッターp.172,173
  25. ^ #ニミッツ、ポッターp.173
  26. ^ #木俣水雷p.403
  27. ^ a b c d #ニミッツ、ポッターp.188
  28. ^ a b c d e f g #戦史96p.431
  29. ^ #木俣水雷p.405
  30. ^ #田村(1)p.139
  31. ^ #三水戦1811(2)pp.39
  32. ^ 戦史叢書98 1979, p. 269「伊百七十七潜」
  33. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, pp. 180-181.
  34. ^ 太平洋戦争の提督たち 1997, pp. 161-162.
  35. ^ #戦史96p.487
  36. ^ a b #戦史96p.488
  37. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 256-257.
  38. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 257-258ラバウルより引き揚げ
  39. ^ a b c d #戦史96p.489
  40. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 259-260.
  41. ^ a b 撃沈戦記 2013, p. 261.
  42. ^ #木俣水雷p.409
  43. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 262-263米第23駆逐隊
  44. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 263-264あわれ「長浦」
  45. ^ a b 撃沈戦記 2013, p. 264.
  46. ^ Chapter VI: 1944” (英語). HyperWar. 2011年8月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030101400『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030101500『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030106200『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 第三水雷戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030106200『南東方面部隊襲撃部隊戦闘詳報 第一号』。
  • 石渡幸二「不滅の駆逐艦長吉川潔」『太平洋戦争の提督たち』中央公論社〈中公文庫〉、1997年12月。ISBN 4-12-203014-5
  • 海軍水雷史刊行会(編纂)『海軍水雷史』海軍水雷史刊行会、1979年。
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。
  • 木俣滋郎「20.救難曳船「長浦」」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社〈光人社NF文庫〉、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3
  • 城英一郎著『侍従武官 城英一郎日記』野村実編、山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター(共著)、実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年。ISBN 4-7704-0757-2
  • E・B・ポッター(著)、秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年。ISBN 4-7698-0576-4
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<5> ―第三段作戦中期―』第71巻、朝雲新聞社、1974年3月。
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
  • 歴史群像編集部編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡』第19巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5
    • (85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
    • (143-158頁)戦闘ドキュメント 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ64 睦月型駆逐艦』学習研究社、2008年。ISBN 978-4-05-605091-2
    • 田村俊夫『昭和19年の「睦月」型(第1部)』。
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年。ISBN 978-4-05-606020-1
    • 田村俊夫『昭和18年の特型の戦いと修理』。

関連項目[編集]