ビスマルク海海戦

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ビスマルク海海戦
Burning Japanese Ship (Battle Of The Bismarck Sea).jpg
炎上する旭盛丸。(大同海運:5,493総トン)
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年3月2日~1943年3月3日
場所ビスマルク海
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オーストラリアの旗 オーストラリア
指導者・指揮官
日本草鹿任一中将
日本三川軍一中将
日本木村昌福少将
アメリカ合衆国エニス・ホワイトヘッド大佐
戦力
駆逐艦8
輸送船8
基地航空隊
重爆撃機39
中型爆撃機41
軽爆撃機34
戦闘機54
魚雷艇10
損害
駆逐艦4沈没
輸送船8沈没
重爆1(乃至2)
戦闘機3(乃至4)
ニューギニアの戦い
日本軍の行動図

ビスマルク海海戦(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)3月2日から3月3日に、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で、連合国軍が日本軍の輸送船団に対し航空攻撃を行ったことで発生した戦闘。 日本側の輸送作戦の名称は「第八十一号作戦」である[1][2]。 この戦闘で日本軍の輸送船団は壊滅(輸送船8隻沈没、駆逐艦4隻沈没)、ダンピール海峡の悲劇と呼称された[3]

背景[編集]

第八十一号作戦[編集]

1943年(昭和18年)2月1日から7日にかけて日本軍はガダルカナル島から撤退した(ケ号作戦[4]。同時期、連合軍はニューギニア島方面でも攻勢に出ており、日本軍はパプアニューギニア方面の戦いでも窮地に追い込まれる[4][5]。1月2日には東部のブナ守備隊が玉砕した(ポートモレスビー作戦[6]。そこで日本軍は連合軍の次の攻撃目標と予測されるパプアニューギニア(ニューギニア島東部)各拠点に陸軍部隊を送り、侵攻に備えることにした[2][7]

1943年1月5日のラエへの最初の輸送作戦「第十八号作戦」は成功し、歩兵第102連隊からなる岡部支隊が現地に到着した。

第18号作戦の次に行われた輸送作戦を第八十一号作戦という[8][9]

第八十一号作戦は三段階の作戦で構成されていた。陸軍第四十一師団をニューギニア中部北岸ウェワクへ輸送する『丙三号作戦』(2月下旬)と[10]、前述の陸軍第51師団ラエに輸送する『八十一号作戦ラエ輸送』(本項目)、陸軍第二十師団をニューギニア島北岸マダンへ輸送する作戦である[10][11]。 南東方面部隊と第八方面軍間の協定に基づき、2月21日に現地協定が結ばれる[12]

日本海軍航空隊(一式陸上攻撃機主力)は連合軍の航空戦力を弱体化させるため[13]ポートモレスビーおよびラビ方面の連合軍飛行場を、日本陸軍航空隊(九九式双発軽爆撃機主力)[13]はワウとブナ方面の攻撃を行う[14]。だが日本海軍が同方面の航空兵力を半分集結させても、戦闘機約60、艦爆10、陸攻20、水上機10程度だったという[14]。輸送船団8隻を護衛するには戦闘機約200が必要とされたが同方面の日本陸軍戦闘機(一式戦闘機)は約90機しかなく、陸軍側は連合艦隊零式艦上戦闘機の派遣を依頼[6]。トラック在泊の第一航空戦隊瑞鶴瑞鳳)より瑞鳳零戦隊のみカビエンに進出して作戦に協力することになった[6]

現地では1月27日に岡部支隊がワウに侵攻していたが2月24日までに撤退していた。ウェワク輸送に関しては、2月20日から26日にかけて約1万3600名の陸兵と輸送物件の揚陸に成功した[15][16]

第八十一号作戦ラエ輸送は、南東方面艦隊第十一航空艦隊)司令長官草鹿任一中将が指揮する[17]。 第三水雷戦隊司令官木村昌福少将[9]を護衛部隊指揮官とする駆逐艦8隻(第11駆逐隊《白雪》、第19駆逐隊《浦波敷波》、第8駆逐隊《朝潮荒潮》、第9駆逐隊《朝雲》、第16駆逐隊《時津風雪風》)、輸送船8隻(陸軍輸送船7隻《大井川丸、太明丸、建武丸、帝洋丸、愛洋丸、神愛丸、旭盛丸》、海軍運送艦1隻《野島》)の船団が編制され[18][13]、同船団上空警戒は、ラバウルニューブリテン島)とカビエンニューアイルランド島)の第204空や第253空および空母瑞鳳航空隊(カビエン配備)の零戦合計60機以上、陸軍戦闘機60機以上が担当する[12][19][20]

作戦実施にあたり、木村少将(三水戦司令官)は本来の旗艦(川内型軽巡洋艦1番艦「川内」)から白雪型駆逐艦白雪」(第11駆逐隊)に乗り換えた[21]。(秋月型駆逐艦以前に開発された日本海軍の駆逐艦全てに言えることであるが)護衛の駆逐艦はどれも対空装備は機銃程度しか積んでおらず、高角砲は無かった。また各駆逐艦にも陸軍兵と補給物資搭載の指示がなされた[8]

日本軍の作戦では、2月28日(3月1日午前0時0分)にラバウルを出航し、3月3日夕刻にラエ到着・揚陸予定であった[22][8]。事前に敵航空戦力を空爆により弱体化させる計画であり、夜間爆撃がラビ及びポートモレスビーに対して行われたが、前述のように航空戦力の過少と天候不良により不十分であった[14][2]軍令部は「輸送船の半分に損害はあるかもしれぬ」と判断している[1]ラバウルに本拠地を置く日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊、司令長官草鹿任一中将《南東方面艦隊司令長官兼務》)は、3月3日当日に青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」と雷撃訓練を行うような状態だった[1]。 上級司令部(大本営、軍令部、連合艦隊、南東方面艦隊《第十一航空艦隊、第八艦隊》)主導の作戦に対し、護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐は、八十一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀神重徳大佐に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたが、神大佐から「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と回答されたという[23]。もっとも、本作戦はラエ輸送作戦を主張する陸軍と、マダンもしくはウェワク輸送を主張した日本海軍(連合艦隊)の、妥協の産物でもあった。

連合軍の準備[編集]

一方、連合軍も日本軍がラエ地区の防禦を固めると考え、反跳爆撃(skip bombing)により輸送の阻止を試みた[9]。これは低空で爆弾を投下して海面でジャンプさせ目標に命中させる方法で、水平爆撃に比べ命中率が高い[13]。反面、低空飛行により対空砲火を受ける確率も高くなるが、増設機銃により敵艦の対空能力を弱めることで被害減少を図った。また対空装備の乏しい駆逐艦を日本軍が船団護衛に使用するという情報も連合軍は入手していたとされる。連合軍は3月5日ごろに日本軍がラエに上陸すると判断し、アメリカ陸軍航空隊オーストラリア空軍ポートモレスビーブナに航空機を集結して3月1日には攻撃準備を完了した。

戦闘[編集]

日本軍の輸送船8隻(陸軍第十八軍司令官安達二十三陸軍中将を含む約6900名)と護衛の駆逐艦8隻(増援部隊指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官)からなる輸送船団は、2月28日午後11時30分にラバウルを出航した[12][18]。船団の速力は9ノット程度だった[18]。 出航後、各輸送船では食糧庫の中のものを全て厨房へ卸したため、乗船部隊には毎日のように御馳走が振る舞われたという。一方で発狂者が続出した[24]

3月1日午後2時15分、連合軍のB-24爆撃機がビスマルク海で船団を発見、接触を続けた[25][18]ポートモレスビーにはB-17重爆撃機約55、B-24重爆60、B-25中爆約50、B-26中爆約40、A-20軽爆約30、戦闘機計330機が配備されており、ここから戦闘機154機、軽爆34機、中爆41機、重爆39機、計268機が出撃準備を整えた[25]。3月1日の段階では、日本軍輸送船団の位置は攻撃圏外にあると判断された[25]

3月2日朝、船団はニューブリテン島西端グロスター岬北東海面を航行していた[12]。午前8時以降、B-17爆撃機十数機と護衛戦闘機が襲来、B-17隊は船団を高度2000mで水平爆撃し、輸送船1隻(旭盛丸)が沈没(午前9時26分)[12][26]。駆逐艦2隻(第9駆逐隊《朝雲》、第16駆逐隊《雪風》)が旭盛丸兵員1500名中918名(第51師団長中野英光陸軍中将含む)を救助し、船団から先行してラエへ向かった[12][27]。B-17は1機が撃墜され、14機が損傷した[13]。 この事態を受けて、第八艦隊司令長官三川軍一中将は待機していた駆逐艦「初雪」(第11駆逐隊)に出撃と救援を命じた[28]。 午後にはB-17爆撃機8機による攻撃があり、運送艦1隻(野島)が損傷したが、戦闘航海に支障はなかった[29]。連合国軍は、最初の出撃部隊8機が輸送船2隻撃沈、後続の20機が輸送船3隻炎上、夜中に1機が命中弾2発を報告している[25]。駆逐艦2隻(雪風、朝雲)は日没後ラエに到着し、兵員を揚陸後、船団護衛に戻った。輸送船団は予定より2時間はやく進んでいたため、時間調整と偽装のため一旦針路を西方にとり、日没後にビディアス海峡(ロング島とウンボイ島の間)を通過する[12]。だがオーストラリア軍のPBYカタリナ飛行艇は夜間も触接を続け、船団の行動を逐次報告していた。

3月3日の船団防空の取り決めは、日の出から午前11時半までは日本海軍の受け持ちだったため、零式艦上戦闘機15機前後が1時間交代で哨戒を行う予定だった[30][13]。空襲時、警戒交代が重複したため、計41機の零式艦上戦闘機が警戒にあたっていたという[31][32]。一方、ラエに先行していた駆逐艦2隻(朝雲、雪風)は船団は揚陸に成功[27]。この2隻も船団本隊に戻ってきた[33]。日本艦隊は、輸送船7隻が右3隻-左4隻の並行縦陣を形成し、その輸送船集団の左右を駆逐艦3隻が守るという陣形を形成していた。まず最右列に先頭より浦波→朝潮→朝雲の順番で駆逐艦3隻が配置され、、中央右列に先頭から駆逐艦「白雪」(三水戦司令官旗艦)と輸送船3隻(帝洋丸、愛洋丸、神愛丸)、中央左列に駆逐艦「敷波」と輸送船4隻(大井川丸、太明丸、野島、建武丸)、最左列に時津風→荒潮→雪風の順番で駆逐艦が護衛していた[31]

午前7時30分以降、ニューギニアのクレチン岬南東約14海里(約25km)、サラモアから東方約60海里(約110km)地点を航行する日本軍輸送船団に対し、P-38ライトニング双発戦闘機カーチスP-40戦闘機に護衛された連合国軍機大部隊が突入する[30]。連合国軍機の機数については資料によって差異があり、ここではおおまかな機数のみ記述する。 まずブリストル・ボーフォート約10機が攻撃を試みたが零戦に阻止された。次いで連合軍の大編隊が襲来。ブリストル・ボーファイター13機が低空で進入し機銃掃射、B-17爆撃機13機が高高度から爆撃、これを連合国軍戦闘機約50が掩護する[25]。零戦隊はB-17隊を最大の脅威とみて迎撃のため高度を上げ、低空への対処が出来なくなる[34]。この時、零戦パイロットは撃墜したB-17爆撃機(瑞鳳零戦が体当たりしたとも)[35]から脱出した生存者の7名に対して機銃掃射を行った[36]。 続いて、高度をあげたB-25爆撃機13機が中高度で水平爆撃、B-25爆撃機12機が低空で反跳爆撃をおこなった。その後もA-20攻撃機12機、B-25爆撃機6機がさらに反跳爆撃をおこなった。結局、被害の大部分は低空から侵入した爆撃機の反跳爆撃によるものだった[37][38]。 輸送船7隻と駆逐艦3隻(白雪、荒潮、時津風)が被弾[39]。さらに舵故障に陥った「荒潮」は「野島」と衝突[39][40]。建武丸(三光汽船:953総トン)、愛洋丸(東洋汽船:2,746総トン)および駆逐艦「白雪」(第三水雷戦隊旗艦)が沈没、木村司令官は機銃掃射により重傷を負い、「敷波」に移乗して旗艦を変更した[39]。残存駆逐艦は沈没艦の生存者救助活動を攻撃後しばらく行っていた。しかし10時30分頃に敵機再来襲との報が入り、木村司令官(敷波座乗)は「救助作業中止、全艦一時避退せよ」との命令を下す。

ところが無傷であった第8駆逐隊司令駆逐艦朝潮(司令佐藤康夫大佐)は『我野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と発信[41]。単艦で「野島」の救援に向かった[37][42]。「野島」に近づいたところ、近くに航行不能となった僚艦「荒潮」が漂流しており、「朝潮」は「荒潮」の陸軍兵士と負傷者を収容して避退に移った(荒潮は残留乗組員により北方への退避を続行)[43][40]。 直後にB-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機が船団を攻撃、「神愛丸」(岸本汽船:3,793総トン)、「太明丸」(日本郵船:2,883総トン)、「帝洋丸」(帝国船舶:6863総トン、元ドイツ船Saarland)、「野島」が被弾沈没した。被弾し航行不能となっていた大井川丸(東洋海運:6,494総トン)はその夜、アメリカ軍魚雷艇の攻撃で沈没した[44]

健在だった駆逐艦「朝潮」(第8駆逐隊司令駆逐艦)は、付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため集中攻撃を受けて航行不能となり、総員退去に追い込まれた[45]。朝潮乗艦者のうち一部(野島特務艦長松本亀太郎大佐を含む)は3日間の漂流の後に日本軍に救助されたが、朝潮艦長吉井五郎中佐のほか、荒潮艦長久保木英雄中佐、第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐以下299名は戦死した[46]。北方に退避した駆逐艦4隻(雪風、朝雲、浦波、敷波)は救援のため到着した駆逐艦「初雪」と合同、カビエン(敷波、朝雲、雪風)やラバウル(浦波、初雪)へ向かった[47][48]。 入れ違いで第2駆逐隊司令橘正雄大佐指揮下[9]の駆逐艦2隻(第2駆逐隊《村雨》、第9駆逐隊《峯雲》)がラバウルからコロンバンガラ島へ出撃して行った(2隻は3月5日ビラ・スタンモーア夜戦で沈没)[49][50]

駆逐艦「荒潮」は「雪風」が乗員を救助し船体は放棄[40][48]。翌日(4日)、B-17の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中、沈没した。乗員を「雪風」に移乗させたのち放棄されて漂流する「時津風」は、3月4日になり日本軍航空隊により爆撃されるも失敗、日本側は処分のため潜水艦を派遣する事態になる[51]。だが、同艦は同日午後、アメリカ軍機の攻撃で沈没した。 空母瑞鳳から派遣されていた戦闘機隊は18機(文献によっては15機)[6]が戦闘に参加し(当初15機、増援3機)[52]、2名が戦死した[53][54]。日本側全体では戦闘機5機が自爆乃至未帰還となっている[55]

この時連合軍は漂流する日本軍将兵を虐殺したとされる。日本軍潜水艦(伊17)を追い払ったアメリカ軍魚雷艇複数隻が、救助作業中の日本軍小型艇を撃沈したのち、機銃掃射を加えたのである[3][56]。連合軍側は後に、日本軍兵士は救助されると速やかに現場へ復帰する[57]、捕虜となったとみせかけて米兵に襲いかかる[3]、先のB-17爆撃機の生存者への機銃掃射に対する報復[58]等の理由をあげ、この行為を正当化した[3]

日本陸軍は大発動艇部隊を派遣したか、3月3日の救助は米軍機の妨害で失敗、3月4日以降は救助を実施した[27]。 日本海軍は、「時津風」雷撃処分および生存者救助のため潜水艦を派遣[59]伊号第十七潜水艦は3月4日深夜現場着[60]。派遣された呂101呂103のうち、呂101は45人を収容したものの、呂103は座礁事故を起こして引き返した[61]。 3月6日、負傷した木村昌福少将は第三水雷戦隊司令官を解任され、後任司令官には江戸兵太郎少将が任命された[62]。伊十七号潜水艦[63]伊号第二十六潜水艦[64][65]は同日も救助活動を実施した。


結果[編集]

攻撃を受ける太明丸。船体に迷彩塗装が施されている。
日本の損失[66]
  • 陸軍輸送船7隻沈没
  • 海軍輸送船1隻沈没
  • 駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)沈没
  • 陸軍第十八軍司令部、第51師団主力6912名中約3000名の将兵が死亡

この他に搭載武器、弾薬、車両を失い、海軍も乗員、防空隊の多くを失った[67]。約2,500トンの物資を失った[13]

日本海軍はこの輸送作戦の失敗で、第51師団長以下875名がラエに上陸[13]。第18軍以下約2700名がラバウルに帰投。ニューギニア方面作戦に多大な支障をもたらした[68]。これはダンピールの悲劇と呼ばれた[13]。輸送船団の全滅は昭和天皇に上奏され、天皇は「失敗ノ原因ヲヨク研究シテ禍ヲ転ジテ福トスル様ニト」と伝えたという[69]。 本作戦を指揮した南東方面艦隊(第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将兼務)は、作戦失敗について「ポートモレスビー方面の連合軍基地に対する航空撃滅戦不徹底」を挙げている[2]高松宮宣仁親王(軍令部大佐、昭和天皇弟宮)は以下のように敗戦を分析している[1]

  • 「ラエ」輸送船団失敗ノ原因ヲ思ツク儘ニ挙ゲレバ
    • 一、 戦闘機集中不十分。
    • 二、 事前、敵飛行場攻撃ヲセザリシコト
    • 三、 事前、敵情(偵察、通信判断)ニ対シ輸送計画変更シ得ザリシカ。
    • 四、 基地航空部隊陸攻ハ当日「青葉」ニ対シ雷撃教練ヲナシタル模様ナリ。又「ツラギ」夜間攻撃ヲナシタリ。之等ハ他日トナシ得ベシ。
    • 五、 基地航空部隊ノ直衛戦闘機兵力区分ハ予メ十二分ノ出シ得ル兵力ヲ部署スルヲ必要トス。前日ニナリ段々ニ兵力ヲ増加セリ。
    • 六、 輸送船ノ半数ハ損害アルモ、斯ク〔ノ〕如キ全滅ニ加フルニ駆逐艦ノ半数ヲ被害ヲ被ラシムルトハ考ヘナカツタ(中略)互ニ上級司令部ノ悪口ヲ云フ傾向ハ止メネバナラヌ。

もともとこの輸送作戦は航空の劣勢から無理があり、成功可能性よりも必要性を優先させたものであった(前述のように、軍令部は最初から輸送船団の被害を予測している)。また経験したことのない連合軍による多数機での銃撃、低空爆撃、中高度爆撃があり、南東方面艦隊参謀兼第十一航空艦隊参謀の三和義勇大佐は、3月4日の日誌に「余は敵のこの種の攻撃を予想せざりき、余の失敗なり、予想したりとせば、八十一号作戦は成り立たず」と残している[70]奥宮正武(当時海軍少佐、第二航空戦隊参謀)は作戦失敗の主因を『日本軍航空兵力の不足(一、日本陸軍の航空機が洋上作戦に不向きで、作戦可能機が著しく少なかった。二、海軍航空部隊がソロモン群島方面作戦とニューギニア方面作戦に従事して充分な数を集められなかった)』と指摘している[17]。 また作戦失敗の直接原因として直掩の戦闘機隊が中高度に配置されていたため、低空から進入する連合軍機に対処できなかったことも指摘される[44]軍令部は輸送船団による輸送を諦め、とりあえず大発動艇の輸送に頼ること、速力20ノット程度の高速輸送艇(第一号型輸送艦)を急速開発する事などを検討した[69]

本作戦を指揮した草鹿任一海軍中将(南東方面艦隊司令長官、第十一航空艦隊司令長官兼務)は、敗北の責任を問われなかった[17]

またビスマルク海海戦とビラ・スタンモーア夜戦の結果を受けて東部ニューギニア方面における連合国軍の陸海軍航空部隊および艦船部隊に打撃を加えるべく、い号作戦が実施されることになった[71][13]。軍令部作戦課長山本親雄によれば「い号作戦について軍令部から指示した記憶はない。八十一号作戦ラエ輸送の全滅は「い」号作戦決行の一つの動機になったと思う」という[72]

一方日本陸軍は1月の時点でラエまでの海路での輸送に限界を感じており、フォン半島の反対側のマダンからフィニステル山脈を内陸部へ迂回してジャングルを突っ切ってラエに至る全長300キロの自動車道路の建設を計画、2月から4月にかけて建設を開始したが作業は主につるはしともっこによる人力作業であり、9月になっても完成しなかった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d #高松宮日記6巻76-77頁『三月三日(水)晴、時〃曇』
  2. ^ a b c d #南東方面艦隊(2)pp.33-34『第五 第八一號作戰 「カ」號作戰ノ爲ニ準備セル部隊ハ「ケ」號作戰ノ概成ト共ニ「ソロモン」方面ヘノ輸送ハ不必要トナリ陸海軍中央協定ニ基キ同兵力ヲ「ニューギニア」方面ニ転送シ該方面ニ於ケル戰略態勢ヲ強化スルコトトナリ輸送ニ関シ第八方面軍ト協定ス(「ニューギニア」方面ニ対スル兵力輸送ニ関スル陸海軍間協定覺書 二月十三日) 第四十一師團主力ノ「ウエワク」附近揚陸及本作戰実施ノ爲陸軍航空部隊展開ニ必要ナル基地員及物件ノ「マダン」「スルミ」及「ツルブ」ニ対スル輸送ハ何レモ豫定通完了セルモ第十八軍司令部及第五十一師團ノ「ラエ」ニ対スル船團輸送ハ事前「モレスビー」方面ニ対スル航空撃滅戰ノ実施不徹底ニ禍セラレ敵空軍ノ大集團攻撃ヲ受ケ潰滅スルニ至レリ(詳細FBG戰斗詳報)第二十師團ノ「マダン」輸送ハ前項「ラエ」輸送ノ失敗ニ鑑ミ敵機ノ攻撃圏ヲ考慮シ揚陸点ヲ「ハンサ」湾ニ変更(NTF信電令作第二號)陸軍航空部隊ノ直衛下ニ三月十二日揚陸完了セリ』
  3. ^ a b c d #モリソンの太平洋海戦史225-226頁
  4. ^ a b #十人提督(下)15-16頁『ニューギニアでの防戦』
  5. ^ #奥宮ラバウル(学研M文庫)227頁『企図された八一号作戦』
  6. ^ a b c d #木俣空母445-446頁『瑞鳳飛行隊』
  7. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.4『一.ガ島撤収作戰直後の彼我兩軍の形成』
  8. ^ a b c #高松宮日記6巻50頁『○外南洋部隊(二四-〇八二四)作94号 増援部隊ハ陸海軍協定ニ基キ、駆逐艦八ヲ以テ、二-二八ラボール発、三-三ラエ着、「陸軍輸送船六、「野島」、陸軍海上トラック一」ノ護衛ヲ行フト共ニ、(イ)駆逐艦四 陸兵各150、防空隊(人員20及13m/m機銃三)及「ドラム」缶入糧食各50缶、(ロ)駆逐艦二 陸兵各150、ドラム缶入糧食各60缶、(ハ)駆逐艦二 陸兵各90、「ドラム缶」入糧食各60缶、ヲ輸送スベシ』
  9. ^ a b c d #十人提督(下)16-17頁『第八十一号作戦』
  10. ^ a b #奥宮ラバウル(学研M文庫)227頁
  11. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.5『斯くてニューギニヤ正面の戰略要點ラエ、サラモアの戰備に一大缺陥を生じたるを以て敵の進攻氣勢とも關連し速急に同方面の戰備を強化し確乎たる作戰基盤を造成するを目下の急務とするに至つた。因て第八方面軍は第五十一師團主力を断乎海上輸送を以てラバウルよりラエに直送するに決し左の計畫の下に之を實施することとなつた』
  12. ^ a b c d e f g #図説太平洋海戦史第3巻47頁
  13. ^ a b c d e f g h i j #木俣空母446-449頁『船団出発(二月二十八日)』
  14. ^ a b c #奥宮ラバウル(学研M文庫)229頁
  15. ^ #奥宮ラバウル(学研M文庫)230頁
  16. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.7『(二)ウェワク、マダン方面』
  17. ^ a b c #十人提督(上)310-312頁
  18. ^ a b c d #奥宮ラバウル(学研M文庫)242頁『魔の三月三日』
  19. ^ #高松宮日記6巻77-78頁『○第一空襲部隊(二-一九四二)三月二日』
  20. ^ #高松宮日記6巻84-85頁『○第一空襲部隊(三-一九四七)三月三日(概報244)』
  21. ^ #戦場の将器59頁
  22. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.5『(6)航路計畫 三月一日〇〇〇〇ラバウル發船團速力七節、ニューブリテン島北方接岸航路を執り三月三日一七〇〇ラエ泊地着直に揚搭、翌四日日出前揚搭完了、ラエ發往航を逆航ラバウル歸投』
  23. ^ 戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 68頁
  24. ^ #ダンピールの海114頁
  25. ^ a b c d e #図説太平洋海戦史第3巻50-51頁
  26. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.6『(略)翌二日〇八〇〇前後より敵大型機一〇機の爆撃を受け第五十一師団長乗船の旭盛丸被弾炎上約一時間にして沈没(人員物件は驅逐艦二隻に移載ラエに先行揚陸)した』
  27. ^ a b c #高松宮日記6巻96-97頁『八十一号輸送作戦(一)二日被爆沈没、旭盛丸遭難者ヲ搭載シ、二三二〇「朝雲」「雪風」入港、第五十一師団長以下約一〇〇〇名揚陸、〇一三〇出港。(二)三日〇八〇〇フィンシュハーフェン東南50′附近ニテ船団潰滅スルニ至リ、陸海軍協議ノ上、陸軍大発七隻、現場ニ派遣シ救助ニ向ハシメタルモ、敵機ノ妨害ヲ受ケ予定地点ニ到達セズ。四日夜間ラエニ皈着。(三)四日夜間大発ヲ以テサラモア東方40′圏ヲ捜索セシメタルモ漂流者ヲ見ズ(以下略)』
  28. ^ #高松宮日記6巻75頁『○第八艦隊司令長官(二-一〇四二)宛「初雪」、第三水雷戦隊司令官 速ニ出撃、「ラエ」輸送損傷輸送船ヲ救援スベシ。/○第九駆逐隊(二-一二三〇)きょくせい丸人員救助作業終了。大隊長以下将校57名、下士官兵765名、内負傷、陸軍76名。我今ヨリ追及ス』
  29. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.6『同日午後敵大型機八機の再度爆撃に依り野島至近弾を受けたが戰闘航海に支障なく任務續行…』
  30. ^ a b #奥宮ラバウル(学研M文庫)243頁
  31. ^ a b #図説太平洋海戦史第3巻48頁
  32. ^ #奥宮ラバウル(学研M文庫)244頁
  33. ^ #戦場の将器60頁
  34. ^ #空母瑞鳳生涯131頁
  35. ^ #S1801瑞鳳飛行機隊(1)p.50『牧正直|自爆|B-17×1ニ対シ体当リヲ以ツテ之ヲ撃墜セリ』
  36. ^ #Gillison692-693頁
  37. ^ a b #図説太平洋海戦史第3巻49頁
  38. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.6『〇八〇〇より新戰法(中型爆撃機に搭載した爆弾を低高度にて投下し其の水面反跳力を利用し艦船の舷側に命中せしめ舷側破口より浸水沈没せしめる方法)に依る猛爆撃を受け船團、護衛艦相次で被害を生じ〇八一〇頃迄に全輸送船炎上、驅逐艦二隻沈没、一隻大破するの大損害を蒙りラエ輸送の目的は完全に破砕せられた』
  39. ^ a b c #高松宮日記6巻81頁『三、護衛隊(イ)「白雪」〇九三五沈没(「敷波」救援)。(ロ)「荒潮」艦橋及二番砲被爆、舵故障、「野島」ト衝突、艦首大破、兵科士官全部戦死(「朝潮」救援)。(ハ)「時津風」機関室右舷ニ被雷、航行不能(「雪風」救援)、「敷波」「朝潮」「雪風」「浦波」「朝雲」被害軽微ナリ、戦闘航海差支ナシ。』
  40. ^ a b c #高松宮日記6巻86頁『○第十六駆逐隊(四-〇二一五)〇〇一五「荒潮」ノ現乗員全部約一七〇名、「雪風」ニ収容。同艦三日午前ノ空襲ニヨリ艦橋及二番砲被弾、舵取装置故障ニヨリ「野島」ト衝突、艦首圧潰ス。間モナク陸兵並負傷者ヲ「朝潮」ニ移乗セシメタル後、北方ニ避退中、午後再ビ被弾、航行全ク不能ニ陥リ漂流中「雪風」ニ発見セラレタルモノナリ。「雪風」到着時、既ニ左舷ニ約30°傾斜、上甲板水線水面ニ接シアル情況ニテ、漸次傾斜ヲ増大、放置スルモ自沈確実ナリト認メタルヲ以テ処分ヲ取止ム(以下略)』
  41. ^ 戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 61頁
  42. ^ #戦場の将器63頁
  43. ^ #高松宮日記6巻82頁『○増援部隊(四-〇一三五)二三一五「雪風」ハ「荒潮」ヲ発見、人員146名収容セリ。「荒潮」第二次攻撃ノ為更ニ大破、浸水、傾斜次第ニ増大シ沈没確実ト認ム。右ノ外、艦船其ノ他ヲ認メズ。〇一〇〇救援作業ヲ打切リ北上ス。燃料ノ関係上、カビエンニテ「川内」ヨリ補給ノ上、ラボール回航ス』
  44. ^ a b #図説太平洋海戦史第3巻52頁
  45. ^ #高松宮日記6巻106-107頁『○第八艦隊司令長官(八-一九三一)「野島」艦長(松本大佐)第八一号作戦概報』
  46. ^ #戦場の将器64頁
  47. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.6『午後残存驅逐艦四隻竝にカビエンより救援の爲來會した驅逐艦一隻を以て遭難者を捜索救助し四日〇〇四〇捜索を打切りダンピール海峡を北上カビエン及ラバウルに分離歸投した』
  48. ^ a b #高松宮日記6巻104-105頁『○増援部隊(六-一七一九)戦闘概報』
  49. ^ #高松宮日記6巻87頁『三月五日(金)晴(略)一九〇〇航空局長官(航空要員養成ニツキ)。「ムンダ」「コロンバンガラ」敵艦砲撃。「村雨」「峯雲」沈没。』
  50. ^ #奥宮ラバウル(学研M文庫)238頁
  51. ^ #高松宮日記6巻99頁『○南東方面艦隊(五-二三二五)』
  52. ^ #S1801瑞鳳飛行機隊(1)p.50『参加機種及ビ機數』
  53. ^ #空母瑞鳳生涯133頁
  54. ^ #S1801瑞鳳飛行機隊(1)p.49『自爆|2機/戰死者|2名』
  55. ^ #南東方面海軍航空作戦(3)p.33『3-3|ラエ増援部隊輸送部隊上空直衛 fc fb×100來襲|fc×5自、未/輸送船T×6全部炎上/d×3沈没|fb×10 fc×15ムンダ/f×10 ブイン/A-20×3 fc×24)ラエ|fb×2撃墜』
  56. ^ #高松宮日記6巻91-92頁『○伊一七潜(五-一八三五)一.〇五〇〇7°-28′S 148°-27′Eニテ短艇二隻ヲ発見近接中、敵魚雷艇二隻ノ来襲ヲ受ケ潜航、爾後二時間ニ亘リ追躡(爆雷攻撃三回)ヲ受ケ、短艇ハ魚雷艇ヨリ機銃掃射ヲ受ケオレリ。二.駆逐艦漂流地点附近捜索セルモ発見セズ。三.収容人員三四名(内重傷一)』
  57. ^ #Gillison694-695頁
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  68. ^ 戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 67頁
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  70. ^ 戦史叢書96巻南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後 68頁
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参考文献[編集]

  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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    • 第二復員局残務處理部 『南東方面海軍作戦. 其の二(自一九四三年二月至一九四三年十月) info:ndljp/pid/8815617』、1947年2月。
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    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030022900。
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030023000。
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  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』 光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6
  • 奥宮正武 「5 草鹿任一中将 ― 長期の激戦に耐え抜いた勇将 ―」『太平洋戦争と十人の提督(上)』 朝日ソノラマ、1983年8月。ISBN 4-257-17030-1
  • 奥宮正武 『太平洋戦争と十人の提督(下)』 朝日ソノラマ、1983年8月。ISBN 4-257-17031-x
  • 奥宮正武 『ラバウル海軍航空隊』 学習研究社、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6
    • 第4部 二つの悲劇(昭和18年3月~4月) 第2章 ダンピール海峡の南方に沈んだ輸送船団
  • 桂理平 『空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり』 霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5
  • 木俣滋郎 『日本空母戦史』 図書出版社、1977年
  • 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』 講談社、1988年 ISBN 4-06-203742-4
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「地の軍人」<潜水艦「伊二六」艦長・横田稔大佐の証言>(太平洋戦争時、伊26潜水艦長、第一潜水戦隊参謀、伊44潜水艦長等を歴任)
  • 佐藤和正 「最高の傑作 <駆逐艦「時津風」ダンピールに逝く>」『艦と乗員たちの太平洋戦争 日本海軍と乗員はいかに戦ったか』 光人社、2004年9月(原著1984年)。ISBN 4-7698-2432-7
  • 重本俊一ほか 『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』 潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8
    • 当時「時津風」主計科員・海軍上等主計兵曹芝田博之『八方破れ「時津風」が演じたガダルの奇蹟 ガ島撤収作戦に一役かった時津風に訪れたダンピール海峡の悲劇
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日~九月』 中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6
  • 寺内正道ほか 『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』 潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0
    • 当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵桝谷克彦『ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と 反跳爆撃に斃れた第十六駆逐隊=時津風と雪風のビスマルク海海戦
  • 土井全二郎 『ダンピールの海 戦時船員たちの記録』 丸善ブックス、1994年ISBN 4-621-06007-4
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2
  • 豊田穣 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯』 光人社NF文庫、2004年(原著1983年)。ISBN 978-4-7698-2027-7
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 増田禮二『怨み深し血の海、ビスマルクの海』
  • サミュエル・モリソン大谷内一夫訳 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9
  • Douglas Gillison『Royal Australian Air Force 1939–1942』 Australian War Memorial、1962年 oclc=2000369

関連項目[編集]

外部リンク[編集]