秋月型駆逐艦

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秋月型(乙型)駆逐艦
秋月
公試運転中の秋月
艦級概観
艦種 一等駆逐艦
艦名 月型
前級 夕雲型
次級 島風型
性能諸元
排水量 基準:2,700トン
公試:3,470トン
満載:3,878トン
全長 134.2m
全幅 11.6m
吃水 4.15m(公試状態)
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 33.0ノット
航続距離 18ノットで8,000カイリ
燃料 重油:1,080トン
乗員 315名[1]
兵装(新造時) 65口径10cm連装高角砲 4基8門
25mm機銃 連装2基
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
爆雷投下台6基
九五式爆雷×54
兵装(1944年[2] 65口径10cm連装高角砲 4基8門
25mm機銃 3連装5基、単装13基(推定)、単装取付座7基
13mm機銃 単装4基
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
(九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
爆雷投下軌条2基
九五式爆雷×54

秋月型駆逐艦(あきづきかたくちくかん)とは、太平洋戦争中、日本海軍が対空戦闘用に建造した駆逐艦である。計画時の名称から「乙型駆逐艦」、各艦名から「月型」とも呼ばれる[3]。第四次海軍軍備充実計画(マル4計画[4])で6隻、出師準備第一着作業建艦計画(マル急計画)で10隻、第五次海軍軍備充実計画(マル5計画)で16隻(後に改マル5計画へ改訂の際23隻に増加)の合計39隻の建造が計画され、それらのうち12隻が竣工した。

なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき[5])型」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)[6])型」として区別するものもあるが、日本海軍の正式な類別は「冬月」および「満月」も『秋月型駆逐艦』である[7][8]。本稿では便宜上の分類も一括記載する。

マル5計画艦(仮称艦名第770号艦から同第785号艦)および改マル5計画艦のうち最後の7隻(仮称艦名第5077号艦から同第5083号艦)については改秋月型駆逐艦を参照のこと。

概要[編集]

開戦前、航空機の脅威の認識に差はありつつも、航空機対策として各国では軍艦に対空機銃や高角砲を装備するようになった。その中ではイギリス海軍1935年(昭和10年)から旧式化していたC級軽巡洋艦の中から状態が比較的良好な艦を防空巡洋艦に改装し、当時としては破格の防空能力を備えた艦を誕生させた。これに影響を受けた各国海軍は防空専門艦の建造や、既存の旧式艦の改装を計画し始め、C級巡洋艦の改装で経験を得たイギリス海軍はその後ダイドー級軽巡洋艦の建造を実行に移し、アメリカ海軍もまた防空専門艦の建造計画を推進し、結果アトランタ級軽巡洋艦を建造した。

日本海軍でも旧式化していた天龍型軽巡洋艦[9]5,500t級軽巡洋艦を改装し防空巡洋艦とする案も出され、昭和天皇にも奏上した[9]。実際、候補になった艦の船体のサイズはC級軽巡と類似しており、また、川内型軽巡洋艦長良型軽巡洋艦を除く軽巡は老朽化のため退役が予定されていたため理論上可能であった。だが、当時の日本海軍は水雷戦隊の編成を優先しており、退役予定の艦も必要ならその任務に動員する予定だったため、この改装案は見送られた。 他にも、多額の予算をつぎ込んで候補の船を改装しても、能力不足となってすぐに第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。また、イギリス海軍の様に第一線での任務をこなせなくなった艦を船団護衛等の輸送船護衛任務に投入することを考慮していなかったため、それを実行しても費用対効果が低いと判断された。他にも新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、建造コストの高さから防空巡洋艦の建造計画は中止された。

ただし、防空艦の必要性は認識していたようであり、建造コストが安くできる駆逐艦で防空艦を実現することが計画された。そういった経緯を経て、1939年(昭和14年)本型の建造が開始されたのである。設計主務者は松本喜太郎である。最終的に日本海軍は乙型駆逐艦(本型)を量産し、大和型戦艦改大和型戦艦・航空戦隊の護衛に配備する予定だった[10]

特徴[編集]

当初の要求では、

  • 最大速度35ノット
  • 航続距離18ノットで1万カイリ
  • 魚雷発射管を装備しない

とあり、艦種も「直衛艦」となっていたが、速度と航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになる。最終的に、最大速度は33ノット、航続距離は8,000カイリと縮小されることになるが、軍令部が対艦戦闘もできるように魚雷装備をもとめたため、4連装魚雷発射管の装備が決定し、艦種は「駆逐艦」に変更されて建造されることとなった。

長10センチ高角砲[編集]

従来海軍が採用していた八九式40口径12.7センチ高角砲に替わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している。この砲は、口径サイズこそ以前のものより小さいが口径長は長く、より長射程、高初速の砲となった。通説では、砲身そのものの寿命(砲身命数)は短く、12.7センチ砲が約1,000発なのに対し、10センチ砲は350発と三分の一程度となっており、寿命の短さの対策として砲身を艦の設備でも交換できる用にしたと言われているが、それを実現すると構造が複雑化するため、実際はその設計が行われなかったとも言われる。仮にできたとしても予備砲身を積んだ記録が確認できないため、少なくともそういった運用は考慮されていなかったと思われる。

砲の性能は高く、最大射程19,500メートル・最大射高14,700メートル・発射速度毎分19発[11]というものであり、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。だが、揚弾薬装置も長時間の使用で故障を生ずる可能性があり、その場合は人力で運ばねばならなかった[12]。 砲側照準による目標の捕捉も可能であるが、実戦では難しいのが実情だった[13]。 性能面では申し分のないものであったが、生産能力の関係から、秋月型と同時期に計画された空母大鳳や軽巡大淀に装備するのが精一杯であり、装備できた艦は少数に留まった。ただし、大鳳と大淀では秋月型のような密閉砲塔型ではなく波除けや煤煙除けを目的とする簡易的な防盾を設けたものとなっている。

なお、制式採用された中では最新の九四式高射装置が備え付けられていたが、米軍の射撃指揮装置・MK(マーク)37射撃指揮装置(GFCS)がレーダー測距を可能としていたのに比し、射撃用レーダーを持たず、対空目標との距離測定及びその照準追尾は光学による人力であり、高角砲のコントロールも人手に拠ったため射撃の精度は乗組員の錬度に頼る点が大きかった。当初の計画では九四式高射装置は前部と後部の2箇所に計2機装備するとなっていたが、実際には艦橋上の前部にのみ装備されて1機で全砲塔の射撃を指揮することとなり、後部に装備した艦は無かった[14][15]。後部高射装置部分には外筒のみ装着されていたが中身はなく、測距儀の出っ張りも無かった。この部分は後の機銃増備時に機銃台に転用された。

電探[編集]

秋月型では、秋月照月涼月の竣工時には電探は装備されていなかった。

秋月では1943年8月26日付訓令により、1943年11月はじめまでに前マスト上に21号電探を1基追加装備した[16]。これに伴い前部マストが設計変更されている[17]初月から冬月は竣工時から21号電探を装備しており[18]涼月も同時期に増備したと考えられる。21号電探は大型の対空電探であり、戦艦・航空母艦といった大型艦から装備が始まり、後に巡洋艦にも装備されるようになったが、駆逐艦で装備したのは秋月型のみである[19]

秋月では1944年7月上旬、後マスト上に13号電探を1基追加装備した[20]。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」にて、他の秋月型各艦でも同様に増備されていたことが確認できる[21]。13号電探は小型・軽量な対空電探だったため、他の駆逐艦にも装備された。

1944年10月のレイテ沖海戦の前後に、前マストから21号電探を撤去し、跡に13号電探1基と22号電探1基を増備した艦がある。13号電探は前後あわせて2基となる。涼月冬月では時期が不明だが写真でこの増備されたことが確認できる。霜月戦闘詳報で両方とも装備している事がわかる。春月以降の艦は新造時よりこの形態をとった[22]秋月はこの増備を行う前に戦没した[23]。22号電探は小型・軽量な対水上電探で他の駆逐艦にも装備された。

他の日本海軍の艦艇全般に共通することだが、電探を装備していても主砲・機銃を電探に連動させる照準装置が開発されていなかったことは秋月型でも同じだったため、射撃における電探の効力は限定されたものとなった。それでも機数・編隊・方向・距離がわかるため、対空戦闘には不可欠の装備となっていた[24]

機関配置[編集]

秋月型以前の駆逐艦の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」とし、それぞれを隔壁で分離するという配置であった。しかし本艦は、ボイラーの後に「左舷側タービン+減速機」その後ろに「右舷側タービン+減速機」となっている。通常の配置だと、艦のスペースを有効に使える代わりに、どれかにトラブルや被弾すると航行不能になるのに対し、後年建造される松型駆逐艦が採用するシフトエンジン方式ほどではないが、ボイラーが破壊されない限り、航行ができ残存性が高まることになる。ただしレイテ沖海戦で小沢機動部隊に所属していた「霜月」は至近弾による浸水を左舷機械室外側の重油タンクが喰いとめた例を紹介し、重油タンクのない右舷側後部で浸水があった場合、機械室が一気に浸水する危険性を指摘している[25]

また、巡洋艦夕張以降採用されている「誘導煙突」を、駆逐艦として初めて(そして唯一)採用しており、艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、ラバウル方面に配備された「照月」「新月」を目撃したアメリカ軍は、「日本軍は夕張を量産している」と誤報を出したという。[要出典][26]

艦名・戦歴[編集]

1942年(昭和17年)6月、1番艦秋月が竣工。以降、終戦までに12隻が竣工するが、8番艦「冬月」以降は工期短縮のため、日本海軍独特の各所の曲線曲面形状を取りやめ、直線平面形状となっている。実際そういった簡略化による性能低下は無視できる程度だったといわれる。また仮称艦名第365号艦(「満月」)以降は、鋼材規格の低下も実施された。なお、下記のサブタイプ分けは資料によって諸説ある(後述参照)。

秋月型[編集]

秋月(あきづき)
1942年6月11日舞鶴工廠で竣工。竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため、駆逐艦2隻(浦風)と共に空母「瑞鶴」の護衛として出撃。その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきたB-17を1機撃墜した。第四水雷戦隊旗艦として行動中、空襲を受けて中破する。修理後は第十戦隊旗艦として鼠輸送に従事。1943年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中。かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然、艦橋下の構造物が切断した。やむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し長崎に帰還、建造中だった霜月の艦首を流用して接合することで修理工期短縮を図ったが、それでも修理に9ヶ月を要することになる。
1944年10月25日エンガノ岬沖海戦に参加、機動部隊の援護射撃中爆発、沈没する。これは、「味方空母(瑞鳳)に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも、「味方が打ち上げた高角砲弾の破片、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した(当時の艦長の憶測)」ともいわれている。また、機関科士官として秋月に乗り込んでいた山本平弥は、著書「防空駆逐艦『秋月』爆沈す」(光文社NF文庫)の中で、敵機の爆弾命中による魚雷誘爆が原因という説を唱えている。一部の書籍ではアメリカ軍潜水艦の攻撃によるとするものがあるが、雷撃した時刻と沈没した時刻との関係からこれには否定的な見解が多い。
照月(てるづき)
1942年8月31日三菱長崎造船所で竣工。同年10月、南太平洋海戦に参加する。同年11月中旬の第三次ソロモン海戦は二度の夜戦に参し、撃沈された金剛型戦艦2隻(比叡霧島)から乗組員を救助する。ガダルカナルへの物資輸送の警戒艦旗艦(第二水雷戦隊司令官田中頼三少将座乗)として行動中の12月12日、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没する。
なお、アメリカ軍は秋月型を当初はTERATSUKI class[27]、終戦近くになってTERUTSUKI class[28]と呼んだが、これらは綴りが異なるものの本艦の名が元になっている。
涼月[29](すずつき)
1942年12月29日三菱長崎造船所で竣工。完成後物資輸送護衛などの任務に就き、1944年1月16日に米軍潜水艦の魚雷により艦首の大部分と艦尾を喪失し僚艦に曳航され呉海軍工廠に帰還し修理、同年10月17日にも米軍潜水艦の魚雷により艦首の一部を喪失するが撃沈されず帰投している。艦首の復旧時に新造された艦橋は、形状を簡易化した角ばったものとなった。これは「清月」以降の設計図によるものと考察されているが[17]、就役した艦でこの形状を持つものは涼月のみである。しかし、捷一号作戦直前に冬月と共に雷撃の損傷のため参加できず、菊水作戦時には大和と共に出撃。戦闘中に艦橋近くに直撃弾を受け、大浸水を来たす。戦闘終了後、火災のため弾薬の一部が誘爆し艦が前方に傾斜したため前進不能になり、駆逐艦長判断によって後進での航行を余儀なくされる、磁気コンパスが狂い南東に進む、海図が全て燃え乗組員の記憶で日本地図を作成する、さらに雷撃を受けるも後進での操艦により難を逃れるなど、佐世保に満身創痍で帰投した逸話が残る。すでに沈没したと思われており、生還の知らせは驚きをもって迎えられた。直ちにドックへ入れられたが、ドックの排水を待つことができず着底してしまうという、まさにギリギリの帰還だった。帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。1948年解体。船体は冬月と共に福岡県若松港の防波堤となり、軍艦防波堤と呼ばれた。
初月(はつづき)
1942年12月29日舞鶴工廠で竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦。1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦には瑞鶴の護衛艦として参加。瑞鶴沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡五十鈴と共に千代田乗員の救助に向かう。その救助作業中、ローレンス・T・デュボーズ少将指揮するアメリカ艦隊(重巡3・軽巡1・駆逐艦12)が接近し砲戦となる。初月は撃沈されたが、実に2時間にわたり敵を拘束することになり、若月、五十鈴は無事に帰還できた。この戦闘で、米軍巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、前述のデュボーズ少将は麾下駆逐艦からの報告と併せ、初月を戦艦か少なくとも阿賀野型巡洋艦であると主張していた。またこの時瑞鶴乗員救助中の内火艇が取り残されて漂流、21日目に台湾に流れ着き瑞鶴乗員17名、初月乗員8名が生還している。
新月(にいづき)
1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第11水雷戦隊、続いて第8艦隊に所属してラバウルへ進出。7月6日、第三水雷戦隊旗艦としてコロンバンガラ島への輸送任務中、米艦隊との夜間水上戦闘で沈没、第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将と共に全将兵戦死(クラ湾夜戦)。本型の中で、最も短い生涯を遂げた艦である。
若月(わかつき)
1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。実戦初参加はマリアナ沖海戦で、初月・五十鈴とともに参加。大鳳沈没時には、小沢治三郎を救助する。続くエンガノ岬沖海戦後の救助作業時のアメリカ艦隊との遭遇戦では、無事生還するも約半月後の1944年11月11日、オルモック輸送作戦における船団護衛中米軍機の攻撃を受け沈没。
霜月(しもつき)
1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。建造中に舞鶴工廠からのボイラーの配送待ちで工事が遅延していたところ、回航された秋月に本艦の艦首を移植したため工期がさらに遅延する。マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦に参加。1944年11月25日、第三十一戦隊旗艦として行動中、米潜水艦の雷撃を受け沈没。

冬月型[編集]

冬月(ふゆつき[5]
1943年10月1日、『秋月型』に類別[7]。1944年5月25日、舞鶴工廠にて竣工。菊水作戦時には大和と共に出撃。帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎える。戦後工作艦として使用。1948年解体。船体は涼月と共に若松港の防波堤となる。
春月(はるつき)
1944年12月28日、佐世保工廠にて竣工。瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。復員船として使用されたあと、1947年9月25日に戦時賠償艦としてソ連へ引き渡される。ソ連では駆逐艦「ヴネザープヌィイ」として短期間運用されたのち、練習艦「オスコール」として1955年まで運用、その後標的艦や海上施設として運用、1969年6月4日に除籍され解体された。
宵月(よいづき)
1945年1月31日、浦賀船渠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦として雪風と共に中華民国に引き渡され、中華民国艦「汾陽」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、後の研究で、この写真は引き渡された雪風(丹陽)に搭載替えされた時点のものであることが判明した。
夏月(なつづき)
1945年4月8日、佐世保工廠にて竣工。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡されたが日本国内で解体される。

満月型[編集]

満月(みちつき[6]、仮称艦名第365号艦)
1945年1月3日、佐世保工廠で起工。2月5日、『秋月型』に類別[8]。4月17日に工程16%で工事中止。1948年2月に解体終了。
花月(はなづき、仮称艦名第366号艦)
1944年12月26日、舞鶴工廠にて竣工。天一号作戦のため出撃した第一遊撃部隊を豊後水道まで護衛する。戦後復員輸送に従事。1947年戦時賠償艦としてアメリカに引き渡され、青島で調査された後、1948年2月3日に五島列島沖で実艦的として処分された。本艦以降竣工した艦は、艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。

建造中止艦[編集]

戦時補充計画(マル急計画)での建造中止艦(仮称艦名 - 予定艦名 - 備考)

  • 仮称艦名第367号艦 - 清月 - 舞鶴工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止
  • 仮称艦名第368号艦 - 大月 - 佐世保工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止
  • 仮称艦名第369号艦 - 葉月 - 舞鶴工廠で建造予定、1944年12月14日建造中止

改マル5計画での建造計画艦(仮称艦名 - 予定艦名)

  • 仮称艦名第5061号艦 - 山月(やまづき)
  • 仮称艦名第5062号艦 - 浦月(うらづき)
  • 仮称艦名第5063号艦 - 青雲(あおぐも)
  • 仮称艦名第5064号艦 - 紅雲(べにぐも)
  • 仮称艦名第5065号艦 - 春雲(はるぐも)
  • 仮称艦名第5066号艦 - 天雲(あまぐも)
  • 仮称艦名第5067号艦 - 八重雲(やえぐも)
  • 仮称艦名第5068号艦 - 冬雲(ふゆぐも)
  • 仮称艦名第5069号艦 - 雪雲(ゆきぐも)
  • 仮称艦名第5070号艦 - 沖津風(おきつかぜ)
  • 仮称艦名第5071号艦 - 霜風(しもかぜ)
  • 仮称艦名第5072号艦 - 朝東風(あさごち)
  • 仮称艦名第5073号艦 - 大風(おおかぜ)
  • 仮称艦名第5074号艦 - 東風(こち)
  • 仮称艦名第5075号艦 - 西風(にしかぜ)
  • 仮称艦名第5076号艦 - 南風(はえ)
  • 仮称艦名第5077号艦 - 北風(きたかぜ)[30]
  • 仮称艦名第5078号艦 - 早風(はやかぜ)
  • 仮称艦名第5079号艦 - 夏風(なつかぜ)
  • 仮称艦名第5080号艦 - 冬風(ふゆかぜ)
  • 仮称艦名第5081号艦 - 初夏(はつなつ)
  • 仮称艦名第5082号艦 - 初秋(はつあき)
  • 仮称艦名第5083号艦 - 早春(はやはる)

駆逐隊の変遷[編集]

秋月型は戦時中に建造されたため、戦没と新造艦の編入が錯綜し、フル編成が完結する機会は少ない。新月は駆逐隊編入の機会がないまま、第八艦隊に単艦で編入されて戦没している。秋月型最終ロットが竣工する頃には、すでに艦隊行動が不可能になっており、駆逐隊も解隊されるものが続出した。このため、春月は当初より護衛戦隊の第103戦隊旗艦、花月は第31戦隊旗艦となっており、新月と合わせ3隻が駆逐隊に属していない。結果的に第六十一駆逐隊・第四十一駆逐隊の2個駆逐隊が編成された。機動部隊である第三艦隊第10戦隊での活動がほとんどを占め、戦争末期には第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、主力駆逐艦らしい戦歴を重ねている。

第六十一駆逐隊[編集]

横須賀鎮守府に所属した秋月照月で編成した最初の秋月型主体の駆逐隊。第10戦隊に属して機動部隊の直衛を担うはずであったが、編成時の秋月は第四水雷戦隊旗艦としてガダルカナル島の戦いに参加。照月は南太平洋海戦以降、機動部隊と分離して第三次ソロモン海戦等の水上戦闘に参加した。涼月初月の追加を待たず照月が戦没したほか、秋月や涼月が長期間の修理を要する被害を受けており、4隻体制を維持すること自体が困難だった。若月の戦没により、残るは本土で修理を完了した涼月のみとなったために解散した。

昭和17年10月7日:秋月照月で編成[31]。第61駆逐隊司令則満宰次大佐[32]第三艦隊・第十戦隊。
昭和17年10月25日:秋月、第四水雷戦隊旗艦として行動中に損傷。内地帰投。
昭和17年12月12日:照月、ソロモン諸島で戦没。
昭和18年1月15日:涼月初月を編入、照月を除籍[33]
昭和18年1月19日:秋月(第十戦隊旗艦)、米潜水艦の雷撃により大破。第十戦隊司令官木村進少将負傷、小柳冨次少将に交代[34]
昭和18年2月3日:第61駆逐隊司令大江覧治大佐[35]
昭和18年6月30日:秋月を除籍、予備艦に指定[36]
昭和18年8月15日:第十一水雷戦隊での練成を終えた若月を編入[37]
昭和18年10月31日:秋月を再編入[38]
昭和18年12月12日:第61駆逐隊司令泊満義大佐[39]
昭和19年1月16日:涼月、高知沖で被雷大破。泊駆逐隊司令戦死。
昭和19年3月20日:第61駆逐隊司令天野重隆大佐[40]
昭和19年8月3日:涼月、修理完了。戦線復帰。
昭和19年10月16日:涼月、宮崎沖で被雷大破。レイテ沖海戦には秋月、初月、若月が参加。
昭和19年10月25日:レイテ沖海戦で秋月、初月戦没(天野駆逐隊司令戦死)[41]。12月10日除籍。
昭和19年11月11日:若月、オルモック作戦中に戦没(多号作戦)。涼月、修理完了、戦線復帰。
昭和19年11月15日:解隊、涼月と若月(書類上在籍)は第41駆逐隊に転出[42]

第四十一駆逐隊[編集]

マリアナ沖海戦に備えて単艦で第10戦隊に編入されていた霜月に、第十一水雷戦隊での練成を終えた冬月を加えて昭和19年7月15日に編成した。レイテ沖海戦前に冬月が大破したため、駆逐隊単位での行動はほとんどなく、六十一駆から転入した涼月と修理が完了した冬月が菊水作戦に参加したのが駆逐隊として唯一の作戦行動である。菊水作戦によって、両艦とも損傷を蒙ったため、稼動できるのは追加された宵月夏月だったが、燃料の払底のために活動することはなかった。終戦の日陽炎型駆逐艦雪風を編入している。戦後の武装解除時に解隊した。

昭和19年7月15日:霜月冬月で編成[43]。第41駆逐隊司令脇田喜一郎大佐[44]。第三艦隊第10戦隊。
昭和19年10月12日:冬月、被雷大破。レイテ沖海戦には霜月のみ六十一駆指揮下で参加。
昭和19年11月15日:第二艦隊第二水雷戦隊に転籍。解隊した第六十一駆逐隊より涼月若月(書類上在籍)を編入[42]
昭和19年11月19日:第三十一戦隊旗艦五十鈴大破。霜月を旗艦に指定。
昭和19年11月25日:南シナ海で霜月戦没。第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将および41駆司令脇田大佐戦死。
昭和20年1月20日:霜月、若月除籍[45]
昭和20年3月1日:第41駆逐隊司令吉田正義大佐[46]
昭和20年4月6日:菊水作戦に涼月、冬月参加。
昭和20年4月20日:連合艦隊直属第31戦隊に転属。
昭和20年5月20日:第十一水雷戦隊での練成を終えた宵月を編入[47]
昭和20年5月25日:第十一水雷戦隊での錬成を終えた夏月を編入[48]
昭和20年7月5日:涼月を除籍、同艦は第四予備艦となる[49]
昭和20年8月15日:解隊された第十七駆逐隊より雪風を編入[50]
戦後解隊。

秋月に関する通説[編集]

秋月が初戦でB-17重爆3機と遭遇し、前部砲塔と後部砲塔を別々の目標に指向して2機を撃墜した[51]

これは古賀彌(本艦初代艦長)が戦後記述した文章が基となっている。しかし艦艇研究家の田村俊雄は調査の中で、

  • 公式記録(「駆逐艦行動調書」)では、B-17撃墜は1機、消費弾薬は108発となっている[52]
  • 乗組員への聞き取り調査によると後部の高射装置は竣工時から未装備であった。また、初戦に限らずいかなる実戦でも分火を行った記憶が無い[52]
  • 秋月を建造した舞鶴工廠に勤務していた方々への聞き取り調査でも一部で未装備だったという証言があり、秋月公式図の写図には前部高射装置が実線、後期高射装置は一点鎖線で書かれている[52]
    • 秋月竣工直後に赴任した元技術大尉は「写図に実線で描かれていないのなら完成時に装備されていなかったことを示すもので、写図に誤りがあるとは考えられない」と語っている[52]

以上により、艦橋上の1基しかなく同時に2機の目標に照準を合わせることは不可能だったとしている[52]。 また別の記録として宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」では、9月29日に「秋月」がブカ島でB-17爆撃機2機と交戦、1機を撃墜し「防空駆逐艦の価値を始めて発揮せり」と記述している[53]

そのためアメリカ軍は秋月型には不用意に近づかないよう警告を発した。

このことについて田村は同じく調査の中で、

  • 基となるアメリカ側資料が自力調査しても全く見当たらず、海外の友人に協力してもらっているがそれでも見つからないこと。
  • 同じように警告に関する通説も海外の文献に登場しないこと。

以上から「通説は日本のみで言われていることではないか」と推測している[54]

「警報を発した」説は、福井静夫が雑誌「丸」昭和46年12月号に寄稿した記事にある。この記事において福井は「ソロモン海域に新鋭艦が出現したという警報は、ただちに全軍にたっせられたらしい。」と、あくまでも伝聞として記述している[55]

この項の参考文献[編集]

  • 田村俊夫、「駆逐艦『秋月』の実像」歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23『秋月型駆逐艦』、学習研究社、1999年、p79-110。

サブタイプの呼称について[編集]

秋月型駆逐艦は就役が戦時中だったため、後になればなるほど工期の短縮を図るために艤装の簡略化が進み、「同型艦」でありながら初期と後期の艦では外見上相違する部分がある。
日本海軍の艦艇類別等級表においては全隻『秋月型駆逐艦』であるが[7][8]、各艦が属するサブタイプの呼称は解釈によって見解や表記が異なる場合が多いため、以下にそれを列挙する。
  • 秋月から霜月まで
「秋月型」若しくは「秋月型原型」。
  • 冬月から仮称艦名第5076号艦まで
1. 全艦を「冬月型」。
2. 冬月から夏月までを「冬月型」、満月から5076号艦までを「満月型」。
3. 冬月から花月までを「冬月型」、仮称艦名第367号艦(予定艦名「清月」)から仮称艦名第5076号艦(予定艦名「南風」)までを「清月型」[17]
歴史群像のムック「太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦」では、花月も「冬月型」として大きな差異が無いとして含めている[注釈 1]。「清月型」以降は船体水上部や艦種の曲線を大幅に削除し、艦尾形状も外板の傾斜を廃止。四式水中聴音機を艦底に搭載し、それにより艦底は膨らんだ形となる予定だったとしている[17]
  • 仮称艦名第5077号艦以降
「超秋月型」[56]若しくは「改秋月型」。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #歴史群像付録にある『秋月型公式図 冬月型「花月」補音器室横壁構造』(昭和19年12月2日舞鶴工廠製図)では、花月の線図として四式水中聴音機補音器室の船体フレームの一部が掲載されている。しかし注記として「実際に搭載したか明らかではなく、図の通り船底部がふくらんだ船体として完成したかも確認されていない」としている。

出典[編集]

  1. ^ 秋月竣工時の乗員は263名
  2. ^ 秋月1944年10月25日戦没時点。歴史群像秋月型p.103。
  3. ^ #S2004二水戦日誌(3)p.17『四月六日〇九五六GF参謀長(宛略)海上特攻〔大和矢矧d×8(月型二隻、磯風型三隻、若葉型三隻)〕Y-2日夕刻豊後水道出撃列島線西側ヲ経テY日極内密ニ沖縄島ニ突入ス味方識別ニ留意アリ度Y日ハ8日ヲ予定|無電』
  4. ^ 本来は「○の中に漢数字の四」だが、丸付き数字は機種依存文字であるためこう表記する。以下同じ。
  5. ^ a b 海軍公報『10月(1)』第1画像 (昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。
  6. ^ a b #秘公報昭和20年2月(1)p.28『達第二二號 昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦四隻、潜水艦一隻及海防艦六隻ニ左ノ通命名ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 満月(ミチツキ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 栃(トチ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 若櫻(ワカザクラ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 矢竹(ヤダケ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第二百七潜水艦|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 第百七號海防艦|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 第二百二十三號海防艦 第二百二十九號海防艦|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 第百四十二號海防艦|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 第百六十號海防艦|三菱重工業會社長崎造船所ニ於テ建造 第百九十八號海防艦』
  7. ^ a b c #内令昭和18年10月(1)p.1『内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ|同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ|海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ』
  8. ^ a b c #秘公報昭和20年2月(1)p.45『内令第九六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年二月五日 海軍大臣|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「夏月」ノ下ニ「、満月」ヲ、同松型ノ項中「楡」ノ下ニ「、栃」ヲ、「初櫻」ノ下ニ「、若櫻」ヲ、「雄竹」ノ下ニ「、矢竹」ヲ加フ(以下略)』
  9. ^ a b #昭和14年度海軍御説明p.21『四.防空艦ニ改装豫定ノ天龍、龍田ヲ第一戰隊ニ編入致シマシタ』
  10. ^ #昭和22.25年度戦時編制案(昭和16年2月)p.25『別表第六 昭和二十五年度帝國海軍戰時編制案 聯合艦隊ノ部』
  11. ^ 歴史群像秋月型p.109〜110では、乗組員の証言として「揚弾器の性能が毎分15発であり、即応弾を打ち尽くせば毎分15発を超えて撃てない」「訓練では4秒1発を目標としたが実戦ではそれを下回った」とある。
  12. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)p.29『(二)一般ニ九八式十糎高角砲ハ軽妙ナルモ揚弾薬装置其他ノ故障多ク多弾発射ノ場合ハ強靭ナラザル点アリ一抹ノ不安ヲ感ズ』
  13. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)pp.24-25『(三)主砲ニ於テ高射器射法中ハ方向盤ニ依リ目標捕捉極メテ容易ナリシモ高射器故障ノ為砲側照準ニ移リシ後ノ目標捕捉状況ハ極メテ不良ニシテ今後演練ノ余地大ナリ』
  14. ^ #歴史群像p.86〜91
  15. ^ 「当初高射装置2基装備」「前後の主砲を分火可能」「後部撤去は生産が間に合わず修理も多かったため」等の通説は、「軍艦メカVol.4」p.10、「軍艦メカニズム図鑑」p.35等でも書かれている。
  16. ^ 歴史群像秋月型p.98〜99、p.102
  17. ^ a b c d #歴史群像p.13,25,143-156
  18. ^ 歴史群像秋月型p.9〜11。ただし初月はマスト形状は電探対応タイプだが電探そのものは写真には写っておらず、竣工と訓令の日時も前後している。
  19. ^ 軍艦メカ4 p.10
  20. ^ 歴史群像秋月型p.101、p.103
  21. ^ 日本駆逐艦物語p.276〜277
  22. ^ #歴史群像p.12〜13、p.18〜19、p.22〜25。軍艦メカ4 p.10
  23. ^ #歴史群像p.103
  24. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)pp.24-25『(ロ)敵機探知状況 電波探信儀ハ22號13號共敵機ノ来襲ヲ予想セラルル期間常時配員シ対空哨戒ニ全幅利用セシトコロ敵機ノ感度ハ22號ニ於テハ約120粁附近ヨリ13號ニ於テハ約100粁附近ヨリ現ハレ敵機ノ反射波ガ我ガ飛行機ニ比シ極メテ顕著ナル特徴ヲ呈スルニ依リ敵味方ノ識別容易ニシテ且其ノ機数編隊数モ概ネ判別セラレ対空戦準備ヲ整フルコトヲ得従ッテ戦闘力ノ発揮ニ遺憾ナキヲ得タリ 電波探信儀ハ対空戦上不可欠ノモノニシテ更ニ敵機来襲前ニ高角測空可能ナラシムルノ要切ナルモノアリ』
  25. ^ #霜月戦闘詳報(捷号)p.23『一.秋月型駆逐艦ニアリテハ是非共機械室外側ハ両舷共重油「タンク」若クハ空所ヲ設クル要アリト認ム。今次至近弾ニ依ル被害ハ左舷側ナリシタメ重油「タンク」ノミノ破損浸水ニテスミタルモ若シ右舷側ナリシナラバ忽ニシテ後部機械室浸水シ重大ナル結果ヲ招来シタルベシ』
  26. ^ アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月回付分 p.61では、“TERUTSUKI's closest design antecedent in the Japanese Navy appears to be the small, unusual cruiser YUBARI, commissioned over 20 year ago.”とデザイン面での関連が示唆されてはいるが、夕張の量産については言及していない。
  27. ^ アメリカ海軍Office of Chief of Naval Operations and Bureau of Aeronautics発行 Naval Aviation News 1943年9月15日号 p.2、アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 41-42 Supplement Aerial Views of Japanese Naval Vessels 1943年7月期回付分 p.19など。
  28. ^ アメリカ海軍Office of Naval Intelligence発行 ONI 222-J THE JAPANESE NAVY 1945年6月期回付分 p.61など
  29. ^ 海軍大臣達『1月』第24画像 (昭和17年1月20日付 海軍大臣達第18号)。命名に係る本令達で用いられている漢字はである。
  30. ^ 仮称艦名第5077号艦以下の7隻は改秋月型駆逐艦として計画
  31. ^ #内令昭和17年10月(1)p.33『内令第千八百六十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月七日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十四驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第六十一驅逐隊|秋月、照月|』
  32. ^ 昭和17年10月7日(発令10月7日付)海軍辞令公報(部内限)第959号 pp.45-46』 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 
  33. ^ #内令昭和18年1月(2)p.7『内令第十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、照月」ヲ「秋月、涼月、初月」ニ改ム』
  34. ^ 昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1040号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089500 
  35. ^ 昭和18年2月3日(発令2月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1047号 pp.41-42』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089600 
  36. ^ #内令昭和18年6月(6)pp.7-8『内令第千二百八十八號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年六月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、」ヲ削ル』-『内令第千二百八十九號 佐世保鎮守府予備驅逐艦 驅逐艦 秋月 右第二予備艦ト定ム|昭和十八年六月三十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  37. ^ #内令昭和18年8月(2)p.29『内令第千六百六十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「初月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ』
  38. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
  39. ^ 昭和18年12月13日(発令12月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1279号 p.28』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094800 
  40. ^ 昭和19年3月22日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1384号 p.25』 アジア歴史資料センター Ref.C13072096800 
  41. ^ 昭和20年1月7日(発令昭和19年10月25日付)海軍辞令公報(甲)第1686号 p.25』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  42. ^ a b #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、桐、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  43. ^ #内令昭和19年7月p.21『内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃|』
  44. ^ 昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  45. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  46. ^ 昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32』 アジア歴史資料センター Ref.C13072103700 
  47. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)p.22『内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ』
  48. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)p.29『内令第四百六十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十五日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「磯風、」ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「宵月、」ノ下ニ「夏月、」ヲ加フ』
  49. ^ #秘海軍公報昭和20年7月(3)p.1『内令第六〇〇號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年七月五日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「、涼月」ヲ削ル』
  50. ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2)p.28『内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ』
  51. ^ #秋月型(潮2015)10-11頁
  52. ^ a b c d e #歴史群像p.83-91
  53. ^ #戦藻録(九版)196頁
  54. ^ #歴史群像p.110
  55. ^ 日本駆逐艦物語p.211に同記事を再録
  56. ^ #歴史群像p.133-134

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • レファレンスコード:C12070114100 海軍大臣達『1月』 (昭和17年1月)
    • レファレンスコード:C12070120400 海軍公報『10月(1)』 (昭和18年10月)
    • レファレンスコード:C12070510100 海軍公報『2月(1)』 (昭和20年2月)
    • 『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(1)』。Ref.C12070165700。
    • 『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年1月(2)』。Ref.C12070175100。
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    • 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(1)』。Ref.C12070181100。
    • 『昭和18年9~10月内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。Ref.C12070181500。
    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。Ref.C12070195500。
    • 『昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/11月(3)』。Ref.C12070497900。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。Ref.C12070503600。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/2月(1)』。Ref.C12070503800。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/5月(4)』。Ref.C12070505100。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/秘海軍公報昭和20年7月(3)』。Ref.C12070505700。
    • 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。Ref.C12070530000。
    • 『昭和14年度帝国海軍作戦計画及同戦時編制に関する御説明』。Ref.C14121205900。
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    • 『昭和25年度戦時編制案 昭和13年10月』。Ref.C14121176400。
    • 『昭和22年.25年度 帝国海軍戦時編制案 昭和16.2.1(別表第1~別表第6)』。Ref.C14121192600。
    • 『昭和19年10月25日 駆逐艦霜月戦闘詳報』。Ref.C08030590100。
    • 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030103200。
  • アメリカ海軍
  • 「歴史群像」編集部著、田村俊夫、水谷清高 『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』 学習研究社、1999年ISBN 4-05-602063-9
  • 雑誌「歴史群像」 太平洋戦史シリーズ Vol.45 『真実の艦艇史』 (学習研究社、2004年) ISBN 4-05-603412-5
  • 雑誌「丸」編集部『丸スペシャル No.19 日本海軍艦艇シリーズ 駆逐艦朝潮型 秋月型』(潮書房、1978年) 雑誌コード 8343-7
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』(光人社、1990年)
  • 雑誌「丸」編集部『軍艦メカ4 日本の駆逐艦』(光人社、1991年) ISBN 4-7698-0564-0 (新装版あり ISBN 4-7698-1527-1。同内容が『図解 日本の駆逐艦』ISBN 4-7698-0898-4としても刊行。)
  • 雑誌「モデルアート」 艦艇模型テクニック講座 vol.6 『日本海軍艦艇図面集 戦艦/駆逐艦/小艦艇篇』 (モデルアート社、1999年)
  • 福井静夫『日本駆逐艦物語』 (光人社、1993年) ISBN 4-7698-0611-6 (新装版あり ISBN 4-7698-1395-3
  • 秋元実・編 『ウォーターラインガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版 (静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂) JANコード 4945187990224
  • 森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』 (グランプリ出版、1995年) ISBN 4-87687-154-X
  • 片桐大自 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1988年。

関連項目[編集]