涼月 (駆逐艦)

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Japanese destroyer Suzutsuki November 1945.jpg
艦歴
計画 1939年度(マル4計画
起工 1941年3月15日
進水 1942年3月4日
竣工 1942年12月29日
除籍 1945年11月20日
その後 船体は福岡県若松港の防波堤
要目(計画)
排水量 基準:2,701英トン
公試:3,470トン
全長 134.2m
全幅 11.6m
吃水 4.15m
機関 ロ号艦本式缶3基
艦本式タービン2基
2軸 52,000馬力
速力 33.0ノット
航続距離 18ノットで8,000海里
燃料 重油:1,080トン
乗員 263名(戦時増員時約450名)[1]
兵装
(1944年[2]
65口径10cm連装高角砲 4基8門
九六式25mm機銃 3連装5基
同単装4挺、単装据付座10基
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
九五式爆雷 54個
電探
(1944年[2]
21号電探1基
13号電探1基
水測兵装 九三式探信儀1基
(九三式水中聴音機1基)[3]

涼月[4](すずつき)は、日本海軍駆逐艦秋月型駆逐艦の3番艦である。太平洋戦争末期には涼月型という表記も見られた[5]。艦名は片桐大自の研究によれば「さわやかに澄みきった秋の月」[6]凉月という表記も見られるが[7][8]、公文書上「涼月」と命名されており「凉月」への改名や訂正の記録は存在しない。艦名はあきづき型護衛艦すずつき」に継承された。

特徴[編集]

1944年に魚雷により艦首を亡失した後、新造した艦首と艦橋を接合したが、この際に新造部分は原型の丸みを帯びた形状とは異なる直線的な形状となった。特に角ばったその艦橋は、就役した秋月型・冬月型・満月型で他に持つ艦がなく、未成に終わった清月以降の設計図によるものと考察されているが、晩年の涼月の外見上の大きな特徴となっている。

また増備時期が明らかでないが、狭義の秋月型で唯一、艦橋左右に機銃台を設け25mm機銃3連装を装備し、最大で25mm機銃3連装を7基装備したと考えられている。この位置への機銃台は冬月型・満月型で後日増備されたものである。

艦歴[編集]

建造経緯[編集]

1939年(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦[9]1941年(昭和16年)3月15日三菱重工業長崎造船所で起工[9]。1942年(昭和17年)1月20日、建造中の秋月型駆逐艦に涼月夕雲型駆逐艦高波の艦名が与えられた[4]。同日附で「涼月」は秋月型に、「高波」は夕雲型に類別される[10]1942年(昭和17年)3月4日、進水[9]。 9月10日、陽炎型駆逐艦2番艦不知火駆逐艦長赤澤次壽雄中佐(同艦は7月5日グロウラーに雷撃され大破)は、涼月艤装員長に任命される[11]。「涼月」は同年12月29日に竣工[12][9]佐世保鎮守府[13]。同日附で秋月型2隻(涼月、初月)、夕雲型大波は警備駆逐艦に定められた[13]

昭和18年[編集]

竣工後、横須賀鎮守府部隊に編入される[14]。本艦は佐世保から横須賀に回航され、1943年(昭和18年)1月9日、横須賀着[14]。機銃増設工事を行う[14]。 秋月型2隻(涼月、初月)は1月15日付で第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)に編入され、第十戦隊(司令官木村進少将・40期)・第61駆逐隊(前年10月7日編制、駆逐隊司令則満宰次大佐[15])に配属される[16]。 第61駆逐隊は秋月型1番艦秋月、2番艦照月の2隻で編成されていたが[17]、「照月」は前年12月12日に第二水雷戦隊旗艦としてガダルカナル島輸送作戦従事中に沈没しており[18]、涼月・初月の編入にともない第61駆逐隊から除籍されている[16]。第61駆逐隊は秋月型3隻(秋月、涼月、初月)で編制されることになった。

1月15日、横須賀を出発して呉に回航[14]。 航海中の1月16日未明、61駆(涼月、初月)は潮岬沖で浮上していたアメリカ潜水艦ハダック (USS Haddock, SS-231) を発見するも逃げられた[19][20]。 1月19日、「秋月」が米潜水艦ノーチラス(USS Nautilus, SF-9/SS-168)の雷撃で大破[21]、その際に木村司令官は負傷したため、1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に任命された[22]。 ひきつづき内地にあった「涼月」は、2月1日から15日まで呉海軍工廠において機銃増備などの工事を受ける[23]。この間の2月3日、第61駆逐隊司令は則満大佐から大江覧治大佐(前職第19駆逐隊司令)[24]に交代した[25]。 2月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)はトラック泊地から佐世保へ回航中の艦隊(第三戦隊司令官栗田健男中将、金剛榛名日進利根時雨)を出迎えた[26][27]

3月22日、駆逐艦4隻(第61駆逐隊《涼月、初月》、第15駆逐隊《陽炎》、第27駆逐隊《夕暮》)は[28]第二航空戦隊(司令官角田覚治中将・海兵39期)の空母2隻(隼鷹飛鷹[29]、第八戦隊(司令官岸福治少将)の重巡洋艦2隻(利根筑摩)を護衛して瀬戸内海を出撃し[30][31]、3月27-28日にトラック諸島に到着[32][33][34]。 この頃、ソロモン諸島ニューギニア方面への航空攻勢作戦である「い号作戦」の計画が進められており、パイロットはもちろんのこと、整備員など航空要員をラバウルに輸送する必要があった[35]。4月2日、「初月」とともにラバウルへの航空要員輸送のためトラックを出撃[14]。4月4日にラバウルに到着後直ちに出港、4月6日にトラックに帰投した[23][14]。4月中旬から5月中旬にかけては、トラックに出入りする艦船への護衛任務につく。

5月12日、連合軍はアリューシャン列島アッツ島に上陸を敢行、アッツ島の戦いが始まった[36]。連合艦隊は主戦力を東京湾に集結し北方作戦に備えることを決定[37]。前連合艦隊長官山本五十六大将(元帥、海兵32期)の遺骨(4月18日海軍甲事件で戦死)内地帰還を兼ねて、大和型戦艦2番艦武蔵古賀峯一連合艦隊長官座乗)がトラック泊地より内地へ帰ることになる[37][38]。5月17日、駆逐艦5隻(第61駆逐隊《涼月、初月》、第24駆逐隊《海風》、第27駆逐隊《時雨有明》)は戦艦3隻(武蔵、金剛榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)を護衛してトラック泊地を出発[39]。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)[37][40]。 6月上旬、本艦は西日本へ移動し、6月19日から5日間、呉で入渠[14]。 6月21日、第十戦隊司令官は小柳少将から大杉守一少将に交代[41]。 6月30日、内地回航中に船体断裂に見舞われた「秋月」は長期修理を余儀なくされて第61駆逐隊から除籍(7月5日長崎到着)[21]、同隊は秋月型2隻(涼月、初月)となった[42]

7月8-9日、南海第四守備隊を各艦に便乗させ、空母4隻(瑞鶴翔鶴瑞鳳冲鷹)、水上機母艦日進、重巡洋艦3隻(利根筑摩最上)、軽巡洋艦2隻(大淀阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月初月》、夕雲型駆逐艦《玉波》)は日本本土を出発した[43][44][45]。暗号解読や僚艦からの通報により、2隻の米潜水艦ティノサ(USS Tinosa, SS-283)とポーギー (USS Pogy, SS-266)がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた[46]。ティノサは距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊は被害なくトラック泊地に到着した[46]

トラック着後、第61駆逐隊は機動部隊第一部隊の指揮下に入る[47][48]。 7月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)は第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊旗艦阿賀野、巡洋艦2隻(最上大淀)、第4駆逐隊(萩風)、第17駆逐隊(磯風)と共にトラックを出撃[49]。 ラバウル到着後、61駆(涼月、初月)は十戦隊から分離、7月22日にブカ島に到着する[50]。輸送任務を成功させ、26日にトラック泊地へ戻った[51][14]。なおブーゲンビル島へ向かった日進隊(日進、萩風〔第十戦隊旗艦〕、嵐、磯風)の分隊はアメリカ軍機の空襲を受け、日進は撃沈された[52]

その後、7月時下旬から9月上旬にかけてはトラックとラバウル、クェゼリン環礁との間で輸送任務に従事しつつ[12]、タンカーや香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」などの護衛も行った[53][14]。 8月15日、第61駆逐隊に秋月型6番艦「若月」が編入され、3隻編制(涼月、初月、若月)となった[54]。「若月」は第二水雷戦隊や第十戦隊僚艦(秋雲、夕雲、天津風、初風)と共に主力艦部隊(大和長門扶桑愛宕高雄)等を護衛して8月23日トラック泊地着[55]。秋月型3隻を揃えた第61駆逐隊は、9月と10月、機動部隊に随伴してマーシャル諸島方面へ出撃したが、会敵の機会がなかった[56]。 10月31日、修理を終えた「秋月」が第61駆逐隊に復帰、同隊はようやく秋月型4隻編制となった[57]

11月10日、ラバウルからトラックに向かっていた輸送船団がアメリカの潜水艦スキャンプ (USS Scamp, SS-277) の魚雷攻撃を受け、輸送船東京丸(摂津商船、6,484トン)が沈没の危機に瀕したとの報を受け、初月とともにトラックを出撃した[58]。現場に到着して東京丸の援護にあたったものの、同船は浸水がひどくなって11月12日に沈没した。 東京丸の沈没に先立つ同じ11月12日の朝、スキャンプは11月5日のラバウル空襲で損傷を受けトラックに戻る途中の十戦隊旗艦「阿賀野」に魚雷を命中させて航行不能に陥らせた。東京丸の援護を終えて間もなく「涼月」は阿賀野・浦風の救援に駆けつけ[59]、軽巡2隻(能代、長良)、護衛駆逐艦(涼月、初月、浦風、藤波、早波)という戦力で阿賀野をトラックまで護衛した[60]。12月1日、姉妹艦の「秋月」がトラック泊地に到着する。 12月3日、阿賀野損傷時に負傷した大杉司令官は退任、木村進少将(初代第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官職に就いた[61]。 12月7日、重永主計大佐(重巡筑摩艦長)指揮のもと、61駆(涼月、初月)は大型艦2隻(瑞鶴、筑摩)を護衛してトラックを出港し、12月12日にに到着[62][63]、第61駆逐隊は再び分散した。

昭和19年[編集]

12月12日、第61駆逐隊司令は大江大佐から泊満義大佐に交代した[64](大江大佐は12月26日附で重巡洋艦摩耶艦長)[65]。 修理後の12月23日、第61駆逐隊(涼月、初月)はウェーク島に送られる独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力を乗せた特設巡洋艦赤城丸日本郵船、7,389トン)を護衛して呉を出撃し、1944年(昭和19年)1月1日にウェーク島に到着した[66][67]。 第一回輸送を終えて1月9日に呉へ帰投[14]。1月10日附で涼月駆逐艦長は赤澤次壽雄大佐から瀬尾昇中佐(太平洋戦争開戦時の駆逐艦「時雨」艦長)に交代[68]。今度は砲兵大隊と工兵隊、衛生隊を赤城丸に乗せて1月15日に呉を出撃した[67][14]。 しかし、翌1月16日10時45分ごろに北緯32度15分 東経132度26分 / 北緯32.250度 東経132.433度 / 32.250; 132.433[69][12]沖の島西方海上に差し掛かったところでアメリカの潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187) の魚雷攻撃を受けた。スタージョンは艦首発射管から魚雷を4本発射し[70]、4つの命中音を確認した[71]。魚雷は「涼月」の前部と後部に1本ずつ命中し、火薬庫を誘爆させて前部は煙突より前方約34メートルを亡失、後部は118番フレームより後約46メートルを亡失した[72]。田口正一大佐(初月艦長)は涼月轟沈と思ったほどである[73]。泊61駆逐隊司令、瀬尾駆逐艦長以下121名(89名は便乗中陸軍兵)が戦死[66]。生存者の中で最上級者は掌機長の機関特務中尉だった[74][73]。罐室と機械室だけとなった「涼月」は「初月」に曳航されて退避を開始[73]宿毛湾に到着後、電纜敷設艇釣島と特設掃海艇第六玉丸(西大洋漁業、275トン)の協力を得て[75]、1月18日に呉へ帰投した[14]。調査した造船士官は、艦橋下方後部寄りの第一缶室の隔壁が設計通りの強度を示したため沈没を免れたと述べている[76]。 1月19日から呉海軍工廠において復旧工事が行われた(8月3日まで)[74][77]。この復旧に際し、外見上の特徴となる直線形状の艦首、角ばった艦橋を持った。 涼月大破時に戦死した泊司令の後任第61駆逐隊司令として、3月20日附で天野重隆大佐(前職第10駆逐隊《秋雲風雲朝雲》司令)が任命され、後任の第10駆逐隊司令は赤澤大佐(涼月初代艦長)となった[78]

7月7日附で天野61駆司令は一時的に涼月艦長を兼務[79]。7月10日、涼月駆逐艦長として杉谷永秀中佐(陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」沈没時艦長)[80]とする人事が発令[81]。戦列復帰後の「涼月」は瀬戸内海で訓練を行う。ところが、61駆2隻(涼月、若月)は第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)より、大分から台湾基隆への輸送作戦(艦載機基地用物件および人員)を命じられる[82][83]台湾沖航空戦の最中であり、また悪天候の豊後水道を夜間通過することになるため、涼月幹部達は小沢艦隊司令部に猛抗議したものの却下された[82]。 10月16日22時10分、北緯31度29分 東経131度54分 / 北緯31.483度 東経131.900度 / 31.483; 131.900[84]都井岬沖でアメリカの潜水艦ベスゴ (USS Besugo, SS-321) の雷撃に遭った。ベスゴは浮上攻撃にて[85]「ジグザグ航行をしている2隻の重巡洋艦」[85]に対して艦首発射管から魚雷を6本発射[85]、2分後、「重巡洋艦」の艦橋前に命中の水柱が立つのを見た[85]。涼月側は電波探知機(逆探)でベスゴのレーダーを探知していたが、悪天候のため雷跡を発見するのが遅れたのである[86]。この攻撃で艦首と一番砲塔下左舷に魚雷が命中し、艦首部は18番フレームから前を切断、一番砲塔下に命中した魚雷は不発だったが船体に亀裂を生じさせた[74]。戦死者2名[87][88]。「涼月」は九州沿岸沿いに北上して呉に退避する[86]。10月17日から11月11日まで呉海軍工廠で修理を受けた[14]。 この頃、秋月型8番艦「冬月」もアメリカの潜水艦トレパン (USS Trepang, SS-412)の雷撃で艦首を喪失しており、秋月型2隻(涼月、冬月)は並んで修理を受けた[89]。修理中の10月24-26日に起きたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗、第61駆逐隊では小沢機動部隊に所属していた2隻(秋月、初月)が沈没し、天野駆逐隊司令も戦死した。11月8日、秋月型2隻(涼月、霜月)は第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向伊勢)と共にシンガポール~リンガ泊地へ進出予定であったが、出撃直前に本艦の新造艦首部分で浸水事故が発生、出撃機会を逸した[90]。その後、「霜月」は11月25日にボルネオ島方面で米潜水艦に撃沈された[91]

11月15日附で第61駆逐隊は解隊され、「涼月」と「若月」(多号作戦に参加して11月11日沈没、書類上在籍)は第41駆逐隊(冬月、霜月)に編入された[92]。駆逐隊司令脇田喜一郎大佐[93]。だが、「霜月」も11月25日に米潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS-244) の雷撃で撃沈され(前述)、第三十一戦隊司令官江戸兵太郎少将戦死、脇田駆逐隊司令も戦死した[94]。第41駆逐隊は秋月型2隻(涼月、冬月)で行動することになった[95][96]。 なお同日附で第十戦隊も解隊されており、第17駆逐隊や第41駆逐隊等の残存部隊は以降第二水雷戦隊(司令官不在[97])に編入された[98][99]。上記のように被雷と損傷修理のため、秋月型2隻(涼月、冬月)はマリアナ沖海戦レイテ沖海戦には参加できなかった。また、多号作戦支援部隊に編入されていたが、実際に作戦には投入されなかった[100]

11月23日、駆逐艦3隻(秋月型《涼月、冬月》、松型駆逐艦》)はマニラ方面への緊急輸送作戦に参加する隼鷹型航空母艦1番艦「隼鷹」を護衛して呉を出撃[101]。11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げする[102]。12月3日、馬公に到着して日本に戻る金剛型戦艦3番艦「榛名」と合流する[103]。同艦はシンガポールで座礁し艦底に損傷を受けた状態であった[104]。 12月6日、馬公を出港して日本本土に向かう[14]。12月9日未明の佐世保に入港直前、部隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見される。涼月側は敵潜水艦の待ち伏せが懸念される男女群島東方海面の黎明前航行を避けるよう「榛名」に意見具申したが、無視されていた[105]。直後、「隼鷹」はレッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の魚雷が2本命中して中破[106]、続いて「槇」がシーデビル (USS Seadevil, SS-400) かプライス (USS Plaice, SS-390) の雷撃により損傷した。この輸送作戦の際、冬月ともども荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した[100][107]。呉に帰投後、12月27日まで呉海軍工廠で修理が行われ、修理完了後は瀬戸内海で訓練を行った[100]

昭和20年[編集]

坊ノ岬沖海戦における涼月
坊ノ岬沖海戦における涼月の損傷図

1945年(昭和20年)はじめもしくは1944年末ごろ、艦橋左右に機銃台を増設し25mm3連装機銃2基を増備した(合計7基)。また前マスト上の21号電探を撤去し、跡に22号電探1基・13号電探1基を設置(13号電探は合計2基)。

1945年(昭和20年)2月20日、第41駆逐隊は北号作戦で日本に戻ってきた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将(海兵45期)以下の第二水雷戦隊司令部の指揮下に正式に入った [108]。3月1日、第41駆逐隊司令として夕雲型3番艦「風雲」初代艦長等を歴任した吉田正義大佐が着任[109]。3月10日附で杉谷大佐(涼月艦長)は第52駆逐隊司令へ転任、新艦長として平山敏夫中佐(夕雲型駆逐艦早霜沈没時艦長等[110])が着任した[111]。原田(涼月)機関長は駆逐艦朝霜機関長からの転勤だった[112]。 3月19日の呉軍港空襲では、広島湾にて戦艦大和の護衛についた[113]。3月29日、海上特攻隊(指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官/海軍中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した[114]。敵水上艦隊との戦闘が行われる場合、第41駆逐隊(冬月、涼月)は第一遊撃部隊(1YB)第一部隊(1NB)となり、大和の直衛艦として行動する予定だった[115]

4月6日15時、海上特攻隊(第一遊撃部隊)は第二艦隊長官伊藤整一中将指揮下、第一航空戦隊大和)、第二水雷戦隊〔軽巡《矢矧》、第17駆逐隊《磯風雪風浜風》、第21駆逐隊《朝霜初霜》、第41駆逐隊《冬月涼月》)という戦力で徳山を出撃[116]。19時50分からの第一警戒航行序列では、本艦は「大和」(旗艦)の右側を占位し[117][118]、翌4月7日6時に第三警戒航行序列に切り替わってからは「大和」の左後方に位置した[119][120]。 午前中、夕雲型16番艦「朝霜」(第21駆逐隊司令小滝久雄大佐座乗)が機関故障により落伍[121]。12時30分前後にアメリカ軍機に襲撃されて沈没した[122]。「涼月」からは「朝霜」のマストだけが見えていたという[123]

12時32分、アメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)からの艦載機の第一波がやってくる[124]。度重なる転舵で輪形陣が崩れる中、「涼月」は「大和」の左舷後方に位置して掩護を続けた[125]。 第一波の空襲が終わりに近づいてきた13時8分(涼月艦橋の電気時計の停止時間。実際の被弾時間は不明[126])、空母エセックス (USS Essex, CV-9) のSB2C「ヘルダイバー」4機[127]から投じられた150キロ爆弾のうち一発が艦橋前に命中して船首楼甲板、上甲板、右舷側外板に大破口が生じ[128]、他の二発が後方への至近弾となった[127]。命中弾により火災が発生し、海図も方面違いの5枚を残して全て焼失、通信装置を失い、ジャイロコンパスも破損した[129]。一番砲塔、二番砲塔も大破し、弾薬庫は一番砲塔のもの以外は全て浸水した[130]。艦内電源が断たれたため消火活動を開始するまでに時間がかかり、二番砲塔の誘爆を招いてしまったという[131]。冬月は13時15分に『涼月火災中ナルヲ認ム』と記録している[132]。 この時点で第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員に被害はなく、第二罐室による20ノットが発揮可能だった[133][134]。操舵装置の破壊と速力指示機の故障により「涼月」は右旋回を続けていたが、このとき、「大和」が左舷に回頭したため、2隻は50m程まで接近した[135]。涼月側は後進をかけ、衝突は直前で回避されている[136][133]。「涼月」からは「大和」に舵故障の旗流信号(D旗)が上がっているのが見られた[137]

13時30分頃よりアメリカ軍機動部隊艦載機の第二波攻撃がはじまった。アメリカ軍攻撃隊の報告によれば、当時の第二艦隊は健在の大和直衛群(大和、冬月、初霜、雪風、霞)、航行不能の「矢矧」(第二水雷戦隊旗艦)および救援の「磯風」(第17駆逐隊司令駆逐艦)に分離し、その間に軽巡洋艦1隻が航行していた[138]。これは、「涼月」を軽巡洋艦と誤認したものとみられる。この攻撃で大和・矢矧が沈没、損傷を受けた「磯風」は自力で北方へむかった。涼月戦闘続行不能と判断した平山(涼月艦長)は、大和沈没後の14時30分頃から単艦で帰投開始[139][133]。通信装置は破損しており、作戦中止命令は受信できなかった。「涼月」は被弾により艦首が沈下(前方傾斜10度)、中央部も海面から甲板まで数十㎝という状態で前進すると船体が潜ってしまう状態だった[140]。そこで機関長は「後進強速黒二〇[133](後進強速の回転数に20回転プラス)」の紙を機械室や罐室にはりつけた[141]。9ノットの速力を安定して発揮[142]。この時、空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) のTBF「アヴェンジャー」が魚雷を放ってきたものの、命中しなかった[143]。海図焼失、コンパス破損の状況ながらも涼月は日本本土を目指した。その際、涼月側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦』に手旗信号で方向を教えてもらい、北東へ針路をとったとしているが[144]、酒匂(初霜艦長)の回想では初霜が「涼月」の後方について針路を指示したとなっている[145]。 14時55分に「右舷至近弾大破火災 目下消火中」と打電したものの[146]、火災が一晩中鎮火しなかった為、アメリカ潜水艦に発見されることを誰もが恐れていたという[133]。実際に雷撃されたが、艦尾前方を通過していったという回想も残されている[147]。15時15分には駆逐艦「初霜」に対して突入作戦が続行中かどうか信号で交信したが、「不明」との返事をもらう[148][149]。次いで15時25分には「冬月」に対して二軸運転で航行可能な旨を報じた[150][149]。17時30分、「涼月」は洋上に停止して応急修理を行う「磯風」と遭遇した[151]

同時刻、軽巡「矢矧」沈没後、「初霜」に救助されていた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は、「初霜」を二水戦旗艦として遊撃部隊の指揮を吉田正義大佐(第41駆逐隊司令、冬月座乗)から継承した[152][153]。初霜(二水戦司令部)は「磯風」の曳航準備を進める陽炎型8番艦「雪風」(第17駆逐隊)に対し、磯風処分を下令した[154][155]。第17駆逐隊および「雪風」の磯風曳航の意見具申を二水戦司令部(初霜)は却下し、「磯風」は「雪風」に処分された[155]。 また二水戦司令部(初霜)は「冬月」に対しても『涼月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ』と命ずるが、同時に『状況ニ依リテハ涼月ヲ処分シテ差支ナシ』とも通達している[156][157]。日没後、「涼月」を護衛もしくは処分するため「冬月」が捜索を開始したが[158]、見つけることは出来ず、すでに先行していると推定された[159][157]

4月8日朝、「冬月」は各隊に単独帰投中の「涼月」の掩護を要請した[160][157]。9時32分、指宿航空隊機により、佐多岬の262度140海里の地点を北上しているのが発見される[161]。昼前には1隻の漁船から「われ貴艦の側方を護衛する」と手旗信号をおくられ、涼月乗組員一同を苦笑させた[162]。14時30分、ついに佐世保に帰投する[163][157]。帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが[164]、突然の帰還に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎した。しかし佐世保入港時に後進から前進に切り換えたことで浸水が進行[165]、係留中にも浸水が止まらなかったので大急ぎでタグボートを手配されて18時30分に第七船渠に収容することができたが[166][167]、排水を待ちきれず第七船渠内で着座してしまった[130]。大破した前方区画のうち、前部弾薬庫は区画内部から防水処置がされたため沈没を免れる[164]。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った3名の乗員は、後に酸欠死している状態で発見された[164][133]。また涼月砲術長によれば、3名のうち江藤虎蔵(二等主計兵曹)は短刀で自決していたという[168]。 本海戦において涼月は戦死者57名、負傷者34名を出した[130]

予備艦[編集]

本艦の修理に必要な期間は約3ヶ月と算出された[169]。5月5日完成を目標に、停泊に差し支えない程度のものが行われ[170]、次いで本修理の施工に関しては昭和20年度中には実施しない事が決まった[170]。破口はそのままに角材で補強され[128][171]、一番砲塔と二番砲塔、機銃を撤去[130]。6月10日に佐世保を出発、後部砲塔二基のみ砲側照準で射撃可能な状態となって相浦に係留された[172]。岸まで板桟橋を渡し、機関に火は入れず陸上より給電を行った[173]。この頃、坊ノ岬沖海戦被弾時に焼失した涼月神社(艦内神社)を再建するため、若手士官を伊勢神宮に派遣して御神体を拝領した[173]。 7月5日附で、「涼月」は第41駆逐隊から除かれた[174]。同日附で第四予備艦となった[175][176]。当時の乗組員は約100名ほどで、農耕隊と漁撈隊を編制すると、開墾や、貰い受けた漁船を活用して食糧調達を行う[177]。その間の7月と8月に対空戦闘を行い、うち8月の対空戦闘でP-51「ムスタング」1機を高射砲で撃墜した[177]。11月20日、除籍[14]

戦後は損傷のため復員輸送艦としては使用されず、1948年(昭和23年)4月から5月にかけて旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で解体[178]。船体は駆逐艦冬月、柳(桃型駆逐艦)とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された[7]。現地では軍艦防波堤と呼ばれ親しまれたが、その後完全に埋められた。現在は響灘臨海工業団地内の若松運河出口付近に、柳(初代)の船体の一部と案内板を見ることができる。一方、冬月と涼月の船体暫くの間内部に入ったりすることが可能であったが、現在は完全に埋めたてられ確認することはできない。

「涼月」は戦争を通じて三度の被害にあったがいずれも生還し、秋月型駆逐艦の中で一番の長命であった。

※脚注なき限り『艦長たちの軍艦史』354-355頁による。

艤装員長[編集]

  1. 赤澤次壽雄 中佐:1942年9月10日[11] - 12月29日[179]

駆逐艦長[編集]

  1. 赤澤次壽雄 中佐:1942年12月29日[179] - 1944年1月10日[68]
  2. 瀬尾昇 中佐:1944年1月10日[68] - 1944年1月16日戦死、以後1944年7月7日まで艦長を置かず。
  3. (兼)天野重隆 大佐:1944年7月7日[79] - 7月10日[81] (本職:第六十一駆逐隊司令)[78]
  4. 杉谷長秀 中佐:1944年7月10日[81] - 1945年3月10日[111]
  5. 平山敏夫 中佐:1945年3月10日[111] - 1945年5月18日[180]、以後艦長を置かず。

登場作品[編集]

『軍艦防波堤へ―駆逐艦凉月と僕の昭和二〇年四月』(澤章)
沖縄での海上特攻を描いた小説。作者は最後の艦長である平山中佐の孫にあたる。

脚注[編集]

  1. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録154頁
  2. ^ a b 機銃、電探数は『日本駆逐艦物語』p281の「あ号作戦後の駆逐艦兵装状況一覧表」による。1944年6月30日の調査。
  3. ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたらしい。装備時期は不明。『歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦』p39、『写真 日本の軍艦 第11巻』p158による。
  4. ^ a b #達昭和17年1月pp.24-25『達第十八號 昭和十五年度及昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、潜水艦四隻、掃海艇一隻、敷設艇二隻及掃海特務艇三隻ニ左ノ通命名ス|昭和十七年一月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 一等驅逐艦 涼月(スズツキ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 一等驅逐艦 高波(タカナミ)|(以下略)』。命名に係る本令達で用いられている漢字はであってではない。
  5. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030103300, pp.49『六.防禦 (イ)凉月型ニ於テハ中部ニ吐水口少シ増設ノ要アリ』
  6. ^ 片桐, 348ページ
  7. ^ a b #終戦と帝国艦艇53頁『(36)駆逐艦"凉月"』
  8. ^ 涼月の戦友会が「凉月会」という名称を使用しているほか、軍艦防波堤の案内板(File:Gunkannbouhatei explanation.jpg)も涼月の表記を使用している。戦闘詳報でも涼月と凉月の混同が見られる。
  9. ^ a b c d #ハンディ判艦艇写真集18p.16『秋月型建造工程一覧表』
  10. ^ #内令昭和17年1月(3)p.6『内令第百十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年一月二十日|海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「巻波」ノ下ニ「、高波」ヲ加ヘ同秋月型ノ項中「照月」ノ下ニ「、涼月」ヲ加フ(以下略)』
  11. ^ a b 昭和17年9月10日付 海軍辞令公報(部内限)第939号 p.34』 アジア歴史資料センター Ref.C13072086800 
  12. ^ a b c #秋月型(潮2015)76-78頁『涼月』
  13. ^ a b #内令昭和17年12月(5)p.18『内令第二千四百二十八號 驅逐艦 涼月 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|驅逐艦 大波 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 涼月 驅逐艦 初月/舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 大波|右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年十二月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #ハンディ判艦艇写真集18p.32(駆逐艦『秋月型』行動年表)◇涼月◇
  15. ^ 昭和17年10月7日付 海軍辞令公報(部内限)第959号 pp.45-46』 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 
  16. ^ a b #内令昭和18年1月(2)p.7『内令第十九號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、照月」ヲ「秋月、涼月、初月」ニ改ム』
  17. ^ #内令昭和17年10月(1)p.33『内令第千八百六十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月七日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十四驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第六十一驅逐隊|秋月、照月|』
  18. ^ #秋月型(潮2015)75-76頁『照月』
  19. ^ 『大阪警備府戦時日誌』C08030498600, pp.19,33 、「SS-231, USS HADDOCK」p.67,68 、遠藤, 200ページ
  20. ^ #秋月型(潮2015)85-86頁『初陣ついに飾れず』
  21. ^ a b #秋月型(潮2015)73-75頁『秋月』
  22. ^ 昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1040号 p.14』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089500 
  23. ^ a b 遠藤, 200ページ
  24. ^ 昭和18年1月25日(発令1月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1041号 pp.20-21』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089500 
  25. ^ 昭和18年2月3日(発令2月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1047号 pp.41-42』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089600 
  26. ^ #S1709三戦隊日誌(2)p.37『一五(天候略)一一〇〇「トラツク」発/一四一五2sf15dg解列「トラツク」ニ引返ス/一二五五ヨリ一七二〇迄之字運動|3S 8S 2sf鳥海冲鷹日進及駆五ヲ率ヰ内地ニ回航』
  27. ^ #S1709三戦隊日誌(2)p.38『一九(天候略)〇六一〇鳥海冲鷹嵐大波分離/〇六一五61dgト合同/〇七二〇ヨリ一七五〇迄之字運動/〇九〇〇8S日進分離/一四三〇鹿空ト航空戰教練実施|大隅海峡通過』
  28. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.7『夕暮(略)二十一日同地発佐伯着二十二日同地発陽炎初月涼月ト共ニ2sf及8Sノ護衛ニ任ジツツ(GF電令第一三三號KdB電令作第五七號)二十七日「トラツク」着』
  29. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.37『二二(天候略)一.夕暮一一三〇トラツクニ向ケ佐伯発|一.夕暮陽炎初月凉月ト共ニ2sf 8Sノ直衛ニ任ジツツ佐伯発トラツクニ回航ス(GF信電令第一三三號KdB電令作第五七號)/二.五月雨〇五四五第二長安丸救難警戒ニ任ズ』
  30. ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030367600, pp.46 、遠藤、200ページ
  31. ^ #S1801二水戦日誌(4)p.16『22日|一.1200 2sf、8S、61dg(涼月)夕暮15dg(陽炎)「トラック」ニ向ケ佐伯発』
  32. ^ 木俣『日本空母戦史』452ページ
  33. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)pp.29-30『(ハ)作戦指導 前月ニ引続キ三月二十一日迄内地ニ在リ整備補給竝ニ諸訓練ニ従事/三月二十二日2sf司令官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ内海出撃「トラツク」ニ回航二十七日着尓後同地ニ警泊待機諸訓練ニ従事』
  34. ^ #S1801二水戦日誌(4)p.6『3月22日-3月28日|使用兵力:陽炎(司令15dg)|被護衛艦艇:2sf(隼鷹飛鷹)、8S(利根筑摩)|行動:佐泊-「トラック」』
  35. ^ 木俣『日本空母戦史』453ページ
  36. ^ #叢書29北東方面529頁『アッツ島における状況』
  37. ^ a b c #叢書29北東方面550-551頁『聯合艦隊司令部等の作戦指導と機動部隊等の状況』
  38. ^ #S1701第八戦隊日誌(5)pp.49『(二)十七日GF長官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ「トラック」發横須賀ニ回航二十二日着…』
  39. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.14『一七(天候略)一.一〇〇〇武藏3S 8S 2sf(飛鷹)横須賀ニ向ケ「トラック」發61dg(d×2)27dg(d×2)24dg〇七〇〇出港右護衛ニ任ズ海風本日附主隊編入』
  40. ^ #S1801二水戦日誌(6)p.6『五月十七日 五月二二日|海風|武藏 3S 8S 2sf(隼鷹欠)|「トラック」→横須賀|海風主隊編入中』
  41. ^ 昭和18年6月21日(発令6月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1154号 pp.16-17』 アジア歴史資料センター Ref.C13072091700 
  42. ^ #内令昭和18年6月(6)pp.7-8『内令第千二百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年六月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「秋月、」ヲ削ル』
  43. ^ #S1709日進詳報(2)p.38『7月10日0530日進(宛略)日進玉波0500「トラック」ニ向ケ發|無電』-『7月14日0500瑞鶴→艦隊|日進冲鷹玉波嵐ハ列ヲ解キ日進艦長所定ニ依リ概ネ當隊ニ續行「トラック」ニ入泊スベシ|信号』
  44. ^ 木俣『日本水雷戦史』300ページ
  45. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)357、372頁『南海第四守備隊の南東方面への転用』
  46. ^ a b #木俣空母498-500頁
  47. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.17『(三)軍隊区分 機動部隊本隊[自十五日至二十六日 機動部隊第一部隊(十五日61dgヲ指揮下ニ入ル 十八日阿賀野(10S司令官)4dg磯風日進大淀最上ヲ指揮下ニ入ル)]』
  48. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.18『…翌十日機動部隊指揮官指揮ノ下ニ第八戦隊ヲ率ヰ0600同地發1230沖ノ島出撃「トラック」ニ回航15日着急速補給ヲ完了機動部隊第一部隊(8S 61dg)及第三部隊(日進)ヲ率ヰ14S(那珂)ヲ併セ指揮シ16日早朝「トラック」發ニテ搭載人員ヲ「ミレ」方面ニ輸送ノ予定ナシリ所…』
  49. ^ #S1701八戦隊日誌(6)pp.18-19『十九日第一部隊[8S、10S(阿賀野4dg(萩風嵐)61dg(涼月初月)磯風)大淀最上日進]ヲ率ヰ「トラック」出撃「ラバウル」及「ソロモン」方面軍隊輸送ヲ実施シ二十六日「トラック」ニ帰着セリ』
  50. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.37『乙部隊中「ブカ」行61dgハ二十二日1945「ラバウル」出撃後2300頃ヨリ「セントジョージ」岬南方ニ於テ一時敵哨戒機ノ触接ヲ受ケシモ其ノ後敵ヲ見ズ予定通行動「ブカ」ニ揚搭(守備隊長道下大佐以下455名及器材)ヲ了シ二十三日0800「ラバウル」ニ帰投本隊ニ合同セリ』
  51. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)573頁
  52. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.43『殊ニ4dg(萩風嵐)磯風日進ハ第十戦隊司令官直率ノ下ニ敵襲下航空機ノ熾烈ナル攻撃ヲ突破シ挺身「ブイン」輸送ヲ決行シ偶日日進ヲ喪失スルノ不運ニ際會セルモ…』
  53. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)386頁
  54. ^ #内令昭和18年8月(2)p.29『内令第千六百六十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六十一驅逐隊ノ項中「初月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ』
  55. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)10dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』
  56. ^ 『第八戦隊戦時日誌』C08030048800, pp.14,15,31,32,33 、木俣『日本空母戦史』504、508ページ
  57. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
  58. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.1
  59. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』C08030101500, pp.5,6,7
  60. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)430頁『「阿賀野」の被雷とその救難』
  61. ^ 昭和18年12月6日(発令12月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1274号 p.39』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094700 
  62. ^ #S1701第八戦隊日誌(8)p.26『(四)六日8S(筑摩)ハ聯合艦隊信令第六四五號ニ依リ兵器其ノ他ノ物件ヲ處理シ(弾薬等一部7Sニ還納以来)陸揚中ノ物件ヲ揚収回航準備ヲ完成、七日〇八〇〇8S(筑摩)瑞鶴61dg(涼月初月)ヲ率ヰ「トラック」發二三〇〇途中迄直衛トナレル谷風ヲ「トラツク」ニ皈投セシメ十一日一六〇〇豊後水道沖島通過十二日〇一〇〇呉ニ入港セリ』
  63. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)514-515頁『第八戦隊「瑞鶴」等の内地回航整備』
  64. ^ 昭和18年12月13日(発令12月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1279号 p.28』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094800 
  65. ^ 昭和18年12月27日(発令12月26日付)海軍辞令公報(部内限)第1287号 p.29』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
  66. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)570-571頁『独立混成第五聯隊の一部及び戦車第十六聯隊のウェーク進出』
  67. ^ a b 『戦史叢書13』472ページ
  68. ^ a b c 昭和19年1月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1296号 p.46』 アジア歴史資料センター Ref.C13072095200 
  69. ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369400, pp.43
  70. ^ 「SS-187, USS STURGEON」p.189
  71. ^ 「SS-187, USS STURGEON」p.198
  72. ^ 遠藤, 166、202ページ
  73. ^ a b c #秋月型(潮2015)87-89頁『僚艦「涼月」の曳航成功』
  74. ^ a b c 遠藤, 202ページ
  75. ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369400, pp.47,48,49
  76. ^ #造船士官の回想 下184頁
  77. ^ 『第十戦隊戦時日誌』C08030050900, pp.17
  78. ^ a b 昭和19年3月22日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1384号 p.25』 アジア歴史資料センター Ref.C13072096800 
  79. ^ a b 昭和19年7月7日付 海軍辞令公報(部内限)第1535号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  80. ^ 昭和18年6月2日(発令6月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1134号 p.23』 アジア歴史資料センター Ref.C13072091400 
  81. ^ a b c 昭和19年7月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1535号 p.19』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  82. ^ a b #駆逐艦隊悲劇の記録133頁
  83. ^ #秋月型(潮2015)113-115頁
  84. ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』C08030369800, pp.3,23,24
  85. ^ a b c d 「SS-321, USS BESUGO」p.23
  86. ^ a b #駆逐艦隊悲劇の記録134頁
  87. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録137頁
  88. ^ #秋月型(潮2015)116-117頁
  89. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録140頁
  90. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録143-144頁
  91. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録145頁
  92. ^ #秘海軍公報昭和19年11月(3)pp.4-5『内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ |第五十二駆逐隊|桑、檜、桐、杉、樫| 第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  93. ^ 昭和19年7月15日付 海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  94. ^ #秋月型(潮2015)81頁
  95. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録142頁
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  151. ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103200, pp.24-25『7日1730凉月|(司)GF(司)佐鎮冬月|一.一二四五ヨリ男女群島ノ南八〇浬ニ於テ数次ニ亘リ敵大編隊ト交戦/二.戦果 数機撃墜/三.被害(イ)艦橋ヨリ前部大破目下消火中 (ロ)一、二號缶使用不能 (ハ)後部至近弾ニ依リ浸水アリ/四.針路概ネ北東後進原速ニテ佐世保ニ向フ予定/五.視界内磯風ハ片舷原速航行可能ナルモ傾斜大ナル爲目下停止 應急處置中』
  152. ^ 『天一号作戦海上特攻隊1YB主力戦闘詳報』C08030103100,pp.48『1720|初霜二水戦司令官救助、二水戦旗艦ヲ初霜ニ変更1YBノ指揮ヲ継承ス』
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参考文献[編集]

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  • 寺内正道ほか 『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』 潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0
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  • 原為一 『帝国海軍の最後』 河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7
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  • 堀元美 『造船士官の回想(下)』 朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN 4-257-17285-1
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦11 駆逐艦II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0461-X
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    • 当時「秋月級」設計主務者・海軍技術大佐松本喜太郎『私はこうして愛児「秋月級」を誕生させた 防空専用艦誕生にいたる背景や苦労を主任設計者が回想する建艦秘話
    • 当時「涼月」機関長・海軍大尉原田周三『「涼月」機関長奇跡の後進航法に生きる 直撃弾により満身創痍となりながらも後進で帰投した不眠不休の戦い
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関連項目[編集]