第二水雷戦隊

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第二水雷戦隊(だいにすいらいせんたい)は、日本海軍の部隊の一つ。略称は二水戦(にすいせん)。

概要[編集]

第二水雷戦隊は、日本海軍の水雷戦隊。1914年(大正3年)に第一次世界大戦に備えた戦時編制で初めて編成された。漸減邀撃作戦における前線部隊に位置づけられた第二艦隊に属し、最前線の攻撃部隊として活動した。 常に最新鋭艦が所属したが、太平洋戦争発起後に空母機動部隊の直衛をおこなう第十戦隊が編制されると(陽炎型駆逐艦夕雲型駆逐艦秋月型駆逐艦主力)、二水戦には旧式艦も配備されるようになった。

1943年(昭和18年)7月12日のコロンバンガラ島沖海戦で第二水雷戦隊司令部は旗艦「神通」沈没時に全滅。日本海軍は第四水雷戦隊の司令部と戦力(軽巡長良、駆逐艦時雨五月雨など)を二水戦に転用し、従来の二水戦艦艇(駆逐艦長波など)を統合して再建された。この時点で、二水戦は初春型駆逐艦白露型駆逐艦夕雲型駆逐艦島風型駆逐艦の混成部隊となった。

1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦で、第二水雷戦隊は旗艦「能代」と麾下駆逐艦多数を喪失[1]。つづいてレイテ島地上戦にともなう多号作戦(増援輸送作戦)で多数の駆逐艦が沈没し、さらに11月11日には第二水雷戦隊旗艦「島風」沈没[2]。島風と共に二水戦司令部はふたたび全滅した[2]。そこで大本営は第一水雷戦隊司令官木村昌福少将と一水戦司令部を二水戦に転用し、第二水雷戦隊を再建した[3]。また第十戦隊の解隊により、同隊に所属していた陽炎型駆逐艦秋月型駆逐艦が二水戦に増強された[4]

日本海軍最後の水上艦作戦行動となった1945年(昭和20年)4月7日の坊ノ岬沖海戦で第二水雷戦隊は主力艦艇を喪失し[5]、4月20日付で第二艦隊や第一航空戦隊と共に解隊された[6][7]。残存艦艇は第三十一戦隊に編入された[7]。また第二艦隊に所属していた第三十一戦隊と第十一水雷戦隊は連合艦隊附属となった[6][7]

解説[編集]

誕生[編集]

日清戦争における威海衛夜襲日露戦争における日本海海戦の夜間雷撃戦を通じ、日本海軍では水雷攻撃を砲撃と並ぶ二本柱として重視した。1914年(大正3年)8月18日、ドイツへの宣戦布告に備えて戦時編制を組んだ際に、第一艦隊に属する第一水雷戦隊とともに、第二艦隊用に第二水雷戦隊を編制した。この2個戦隊は、特設の第三水雷戦隊以降とは違って常設となった。

位置付け[編集]

第二艦隊が前線部隊であることから、第二水雷戦隊には、強力な装備と長大な航続力が要求された。このため、漸減邀撃作戦が瓦解した真珠湾攻撃以後も、第二水雷戦隊には強力な装備を誇る駆逐艦が投入された。

1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦で日本海軍水上艦部隊が壊滅すると、11月15日附で第十戦隊が解隊され、所属駆逐隊は第一水雷戦隊と第二水雷戦隊に編入された[4]。ところが4日前の11月11日、第二水雷戦隊司令部はレイテ島地上戦にともなう増援輸送作戦「多号作戦」で、旗艦「島風」沈没時に全滅状態になっていた(二水戦司令官早川幹夫少将戦死)[2][3]。そこで第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)を解隊し、司令官・司令部職員とも第二水雷戦隊に転用して二水戦を再建した[3]。兵力不足となった第五艦隊には、松型駆逐艦主力の第三十一戦隊を編入した[3]

その後、第二艦隊(旗艦「大和」)には1945年(昭和20年)3月15日に第三十一戦隊(司令官鶴岡信道少将、旗艦「花月」)が編入された[8]。4月1日、訓練練成部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将、旗艦「酒匂」、松型駆逐艦多数)が第二艦隊に編入された[6]。 4月7日、坊ノ岬沖海戦で出撃した第一遊撃部隊(第一航空戦隊〈大和〉、第二水雷戦隊)は主力艦艇を喪失[5]。 4月20日、日本海軍は第一航空戦隊、第二艦隊、第二水雷戦隊を解隊する[7]。第二艦隊所属だった第三十一戦隊と第十一水雷戦隊は連合艦隊附属となった[7][6]。また第二水雷戦隊残存部隊(第7駆逐隊〈潮、響〉、第17駆逐隊〈雪風、初霜〉、第41駆逐隊〈冬月、涼月〉)は第三十一戦隊に編入された[7]

所属した駆逐艦の特性[編集]

編制当初は、最初に導入した東雲型から神風型までの三等駆逐艦がだぶついている一方、一等駆逐艦は海風型しかなく、二等駆逐艦も桜型とその量産型の樺型が量産中であったために参加できず、2個水雷戦隊はやむなく三等駆逐艦だけで編制した。1915年(大正4年)12月13日、一等・二等駆逐艦の量産が一段落したことから、ようやく第二水雷戦隊に一等・二等駆逐艦が供給された。以後、第二水雷戦隊には、峯風型神風型睦月型吹雪型陽炎型夕雲型島風型と、最新・最強の駆逐艦が投入された他、配属された兵員も練度が高い精鋭が集められた為、華の二水戦と謳われた。一方、最終防衛線で主力の戦艦を護衛する第一水雷戦隊には、第二水雷戦隊ほどの強力な武装を要求されなかった。このため、第二水雷戦隊に新型が導入されたために追い出された型落ちの駆逐艦(たとえば、吹雪型就役のために陳腐化した神風型や睦月型)が回されたり、もとより最前線での使用を考えられていなかった樅型若竹型などの二等駆逐艦、期待された性能に届かなかった初春型白露型は第一水雷戦隊でデビューした。それでも、第一水雷戦隊は、世代が違うほど旧式化した老朽駆逐艦をかき集めた第三水雷戦隊第五水雷戦隊第六水雷戦隊などからみれば、充実した戦力を保有していたといえる。

太平洋戦争の激化にともない駆逐艦の消耗が激しくなると、初春型や白露型も第二水雷戦隊へ順次編入され、最終時の二水戦は吹雪型(初雪型)、初春型、白露型、朝潮型(満潮型)、陽炎型(不知火型)、夕雲型、秋月型の寄せ集めとなった。 坊ノ岬沖海戦直前の4月6日午前9時、草鹿龍之介連合艦隊参謀長は各部隊に対し、二水戦所属駆逐艦を「月型2隻〈冬月、涼月〉、磯風型3隻〈雪風、磯風、浜風〉、若葉型3隻〈初霜、朝霜、霞〉」と説明している[9]。 同日午後1時30分頃の電文では、誤爆・誤突入を避けるための艦型識別説明において、護衛駆逐艦を秋月型駆逐艦2隻(冬月、涼月)、夕雲型駆逐艦6隻(磯風、雪風、浜風、霞、初霜、朝霜)と説明している[10]。戦艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」と共に沖縄へ出撃した第二水雷戦隊所属駆逐艦の艦型は、秋月型2隻(冬月涼月)、初春型1隻(初霜)、満潮型1隻()、不知火型(陽炎型)3隻(磯風雪風浜風)、夕雲型1隻(朝霜)だった[5]

旗艦の特性[編集]

日本以外の国の水雷戦隊は、一回り大型の駆逐艦(嚮導駆逐艦)に司令官が座乗したが、日本は巡洋艦を旗艦とする方針を当初より採り、新編時は利根 を旗艦に当てた。荒天時の索敵能力に優れ、のちには艦載機による索敵も可能となった。また遭遇戦では巡洋艦の強力な武装による敵水雷戦隊の制圧、逆に頑強な防御力を頼みにした囮役が期待された。現に、太平洋戦争時には、神通川内らが敵軍の集中攻撃を受けているうちに、味方水雷戦隊の雷撃が成功している例がある。

とはいうものの、巡洋艦には最前線の洋上単独偵察という本来の任務があるため、最新鋭の巡洋艦を水雷戦隊旗艦の任務に充てるわけにはいかなかった。第一次世界大戦中は、最新鋭の筑摩型を充てることができず、旧式で機動性に劣る装甲巡洋艦の出雲吾妻で乗り切っている。しかし、日本海軍は大正期以降は巡洋艦の水雷戦隊旗艦としての用途を重視し、英海軍のスカウト(偵察艦)の流れをくむ一連の高速軽巡洋艦が開発された。3500t型と呼ばれる天龍型とその拡大型である5500t型、球磨型長良型川内型である。だが、就役当時は列強の羨望の的であった5500t型も日本の国力では後継艦の建造が思うに任せず、太平洋戦争時にはすでに旧式化していたが、阿賀野型の就役までは第一線に立たざるを得なかった。また、本来の旗艦が損傷や修理で二水戦本隊と別行動になった場合、重巡洋艦衣笠(第二次ソロモン海戦で神通損傷時)、重巡洋艦高雄(二水戦司令部の横須賀~パラオ回航時)と鳥海(能代横須賀修理時、2月中旬~4月上旬)[11]が二水戦旗艦となった。

米軍の制空権下で対空火器の貧弱な5500t型(二水戦においては神通五十鈴長良)を運用するのは困難だったため、戦場に突入する場合は朝潮型駆逐艦(礼号作戦北号作戦〉)、陽炎型(早潮〈第三次ソロモン海戦〉、黒潮〈鼠輸送時〉)、夕雲型(長波〈ルンガ沖夜戦〉、浜波〈能代沈没後〉)、島風型(島風〈多号作戦〉)、秋月型(照月〈鼠輸送時〉)などの駆逐艦が第二水雷戦隊旗艦を務めることも多かった。なお第二水雷戦隊解隊式は初春型駆逐艦初霜艦上でおこなわれた。

編制の沿革[編集]

  • 1914年(大正3年)8月18日、第一次世界大戦臨戦編制において初めて2個水雷戦隊を編制
  • 1915年(大正4年)12月13日、初めて「大駆逐艦」を編入
  • 1917年(大正6年)12月1日、2個特務艦隊編制のため削減
  • 1919年(大正8年)12月1日、最新型駆逐艦及び新鋭巡洋艦による編制となる
  • 1922年(大正11年)12月1日、「八八艦隊」計画駆逐艦デビュー
  • 1928年(昭和3年)12月10日 特型駆逐艦(吹雪型駆逐艦)デビュー
  • 1936年(昭和11年)12月1日 ロンドン軍縮条約制限下最後の編制
  • 1941年(昭和16年)12月10日 太平洋戦争開戦時の編制、甲型駆逐艦(陽炎型駆逐艦)デビュー
  • 1942年(昭和17年)4月10日 セイロン沖海戦後の編制
    • 旗艦:神通
    • 第15駆逐隊:黒潮、親潮、早潮
    • 第16駆逐隊:初風、雪風、天津風、時津風
    • 第18駆逐隊:霞、霰、陽炎、不知火
  • 1942年(昭和17年)7月14日 ミッドウェー海戦後の編制
  • 1942年(昭和17年)9月25日 前月の第二次ソロモン海戦で神通損傷・二水戦除籍後の編制[12]
    • 旗艦:五十鈴
    • 第15駆逐隊:親潮、黒潮、陽炎、早潮
    • 第24駆逐隊:海風、江風、涼風
    • 第31駆逐隊:長波巻波、(高波[13]
  • 1943年(昭和18年)1月31日 五十鈴の転出と神通の二水戦復帰[14]、新司令官伊崎俊二少将着任時[15]の編制
    • 旗艦:神通
    • 第15駆逐隊:陽炎、黒潮、親潮
    • 第24駆逐隊:涼風、江風、海風
    • 第31駆逐隊:巻波、大波、長波
  • 1943年(昭和18年)4月1日 ガダルカナル島撤退後の編制
    • 旗艦:神通
    • 第15駆逐隊:黒潮、親潮、陽炎
    • 第24駆逐隊:海風、江風、涼風
    • 第31駆逐隊:長波、巻波、大波、清波
  • 1943年(昭和18年)7月20日 コロンバンガラ島沖海戦で二水戦司令部全滅後、第四水雷戦隊統合時[16]
  • 1943年(昭和18年)9月1日 新型軽巡洋艦「能代」編入後の編制。第32駆逐隊は9月30日編入。
    • 旗艦:能代
    • 第24駆逐隊:海風、涼風
    • 第27駆逐隊:時雨、白露
    • 第31駆逐隊:長波、巻波、大波
    • 第32駆逐隊:早波、涼波、藤波
    • 島風、五月雨、玉波
  • 1944年(昭和19年)4月1日 戦時編制制度改定後の編制
  • 1944年(昭和19年)8月15日 マリアナ沖海戦後の編制
    • 旗艦:能代
    • 第2駆逐隊:清霜秋霜早霜
    • 第27駆逐隊:時雨、五月雨
    • 第31駆逐隊:長波、沖波、岸波、朝霜
    • 第32駆逐隊:藤波、玉波、浜波
    • 島風
  • 1944年(昭和19年)11月15日 第一機動艦隊・第三艦隊・第十戦隊解隊と二水戦再編時の編制[4]
    • 旗艦:矢矧(二水戦司令官早川幹夫少将は11月11日に島風で戦死、矢矧艦長吉村真武大佐が司令官代理[3]。島風は第一水雷戦隊に編入)
    • 第2駆逐隊:朝霜、清霜、秋霜〈11月13日、マニラで大破着底〉、早霜〈10月26日セミララ島で座礁〉
    • 第17駆逐隊:雪風、浦風、浜風、磯風
    • 第41駆逐隊:霜月、涼月、冬月、若月〈11月11日、オルモック湾で沈没〉[1]
  • 1944年(昭和19年)11月20日[3][17] 沈没艦も書類上在籍している
    • 旗艦:矢矧
    • 第2駆逐隊:朝霜、清霜、秋霜〈着底状態〉、早霜〈座礁状態〉
    • 第7駆逐隊、霞、〈11月13日、マニラで着底状態〉
    • 第17駆逐隊:浦風〈11月21日沈没[18]、駆逐隊司令戦死〉、浜風磯風、雪風
    • 第21駆逐隊:初霜、時雨、初春
    • 第31駆逐隊:岸波、沖波〈11月13日、マニラで大破着底〉、長波〈11月11日、オルモック湾で沈没〉、浜波〈11月11日、オルモック湾で沈没〉
    • 第41駆逐隊霜月〈11月25日沈没、駆逐隊司令戦死〉、冬月涼月若月〈沈没〉
  • 1945年(昭和20年)1月10日[19]
    • 旗艦:矢矧
    • 第7駆逐隊:、霞、潮
    • 第17駆逐隊:磯風、濱風、雪風
    • 第21駆逐隊:初霜、朝霜
    • 第41駆逐隊:冬月、涼月
  • 1945年(昭和20年)3月10日 菊水作戦直前の編制(最終時の編制)[20]
    • 旗艦:矢矧
    • 第7駆逐隊:潮、響
    • 第17駆逐隊:磯風、濱風、雪風
    • 第21駆逐隊:初霜、霞、朝霜(3月27日以降司令駆逐艦)
    • 第41駆逐隊:冬月、涼月
  • 1945年(昭和20年)4月20日 解散。以下は4月20日時の駆逐隊編制(残存艦のみ記載)[7]
    • 旗艦:初霜
    • 第7駆逐隊:潮、響
    • 第17駆逐隊:雪風、初霜(4月20日附で第17駆逐隊編入)
    • 第41駆逐隊:冬月、涼月

歴代司令官[編集]

歴代旗艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 戦史叢書93巻、30-34頁「大本営海軍部の水上兵力整頓の基本方針」
  2. ^ a b c d e 戦史叢書93巻、62-65頁「軍需品搭載船団の全滅」
  3. ^ a b c d e f g h 戦史叢書93巻、67-69頁「第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入」
  4. ^ a b c 戦史叢書93巻、34-36頁「第一機動艦隊、第三艦隊の解隊(十一月十五日)」
  5. ^ a b c 戦史叢書93巻、277-278頁「海上特攻隊の編制と出撃準備」
  6. ^ a b c d 戦史叢書93巻、180-181頁「第十一水雷戦隊の第二艦隊編入」
  7. ^ a b c d e f g 戦史叢書93巻、283-284頁「第二艦隊、第二水雷戦隊の解隊」
  8. ^ 戦史叢書93巻、179-180頁「第三十一戦隊の第二艦隊編入」
  9. ^ #S2004二水戦日誌(3)p.17『四月六日〇九五六GF参謀長|EB〔(将旗)1YB (将旗)2sd〕|海上特攻〔大和矢矧d×8(月型二隻、磯風型三隻、若葉型三隻)〕Y-2日夕刻豊後水道出撃列島線西側ヲ経テY日極内密ニ沖縄島ニ突入ス味方識別ニ留意アリ度Y日ハ8日ヲ予定|無電』
  10. ^ #S2004二水戦日誌(3)pp.19-20『四月六日一三三八 サチ/GF(宛略)|一.海上特攻隊ノ行動ニ関聯彼我ノ艦艇ノ混淆錯綜ヲ豫期サルヽ所我ガ飛行機ハ味方艦艇ニ接近セザル如ク注意セシムルト共ニ右特攻隊ノ兵力行動及艦型ノ特徴ヲ全搭乗員ニ教示徹底セシメ味方識別ニ関シ遺憾ナキ様期セラレ度/二.艦艇ノ側方識別ニ当リテハ先ズ檣樓及煙突ニ着眼スルモノトシ識別要点左ノ通(艦型名隻数特徴順トシ二重括弧内ハ其ノ類似艦ノ特徴ヲ示ス)|(イ)大和 檣樓太ク艦中央稍後方ニ傾斜シ屹立《細ク直立》煙突一本ニシテ檣樓トノ間隔大|(ロ)矢矧 略扁平ナル甲板上ニ檣樓及一本煙突(艦中央ニシテ前者ヨリ低シ)ニシテ屹立《英巡「レアンダー」型両者同一》|(ハ)秋月型二隻 極メテ太ク後方ニ偏曲セル獨特ノ一本煙突ニシテ変化ナク前方ニ偏在ス《艦首ヨリ全長ノ約1/3》《煙突細高々偏曲セズ》|(ニ)夕雲型六隻 艦橋(前面砲塔一基ニシテ切立《砲塔二段トナリ艦橋前面傾斜シテ見ユ 二本煙突ノ一番煙突ノミ極メテ太ク艦橋トノ間隔大《二本共細長艦橋トノ間隔小》|無電』
  11. ^ a b c #S1812二水戦日誌(4)p.5『(2)中旬 十四日将旗ヲ一時高雄ニ移揚十五日高雄32dg(早波)ヲ率ヰ横須賀発二十二日「パラオ」着 二十二日鳥海ニ将旗ヲ移揚』
  12. ^ #S1709二水戦日誌(1)p.7『(二)自九月二十五日至九月三十日』
  13. ^ 高波は10月1日附で第31駆逐隊に編入。
  14. ^ a b c d e #S1801二水戦日誌(1)p.7『備考(一)23日迄将旗ヲ長波ニ移揚 但シ第六次「ガ」島輸送作戦中一時黒潮ニ移揚|(二)23日小柳司令官退隊、長波将旗ヲ撤ス。30日伊崎司令官着任、神通ニ将旗ヲ掲グ|(三)旧司令官退隊ヨリ新司令官着任迄神通艦長海軍大佐藤田俊造第二水雷戦隊司令官ノ職務ヲ代理ス』
  15. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.23『30日1415伊崎司令官着任将旗ヲ神通ニ掲揚』
  16. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.33『(六)艦隊編制 聯合艦隊第二艦隊第二水雷戦隊 七月二十日』
  17. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.19-20『11月20日2sd|機密二水戦法令特第一號 艦隊区分左ノ通定ム』
  18. ^ 戦史叢書93巻、67頁「第二遊撃部隊のマニラ撤退と第一遊撃部隊の内地回航」
  19. ^ #S1911二水戦日誌(2)pp.29-30『10日2sd|機密二水戦法令第一號 艦隊区分』
  20. ^ #S2004二水戦日誌(1)p.43『(ハ)作戦指導(一)編制區分』
  21. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.11『司令官|少将|小柳冨次|二十三日退隊|(伊崎俊二)|三十日着任』
  22. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.20『司令官|少将|高間完|補第十一水戰司令官、十二月十六日退任』-『同|同|早川幹夫|十二月十六日着任』
  23. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.9-10『(1)十一月二十日「リンガ」回航中第一水雷戰隊解隊同隊所属駆逐艦ノ第二水雷戰隊編入ト共ニ本職第二水雷戰隊司令官ニ補職セラレ多號作戰部隊第一警戒部隊指揮官トシテ支援部隊ニ属シ當方面所在二水戰ヲ直接指揮スルコトトナレリ』
  24. ^ #戦隊行動調書p.36『艦在所 8.28←炎陽→8.25』
  25. ^ #戦隊行動調書p.36『艦在所 8.31←笠衣→8.28』
  26. ^ #戦隊行動調書p.36『艦在所 9.2←霧夕→8.31』
  27. ^ #戦隊行動調書p.36『艦在所 9.25←通神→9.2』
  28. ^ #S1709二水戦日誌(1)p.3『九月二十六日旗艦ヲ神通ヨリ五十鈴ニ變更』
  29. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.26『(一)4sd兵力ノ2sd編入竝ニ旗艦ノ變更』
  30. ^ #S1806二水戦日誌(2)pp.3-4『(二)能代ノ2sd編入(旗艦豫定)及長良ノ8F編入豫定ニ關聯長良ハ急速内地ニ回航修理ノ事トナリ九日「トラック」發十四日呉着 十五日附能代2sd編入ニヨリ同日旗艦變更』
  31. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.11『十一月二十九日一六〇〇将旗ヲ潮ニ移揚ス』
  32. ^ #戦隊行動調書p.37『艦在所 12.9←潮→11.27』
  33. ^ a b #S1911二水戦日誌(1)p.12『…清霜亦急速整備ヲ完了シ十二月九日将旗ヲ之ニ移揚「リンガ」ニ進出ス即日将旗ヲ朝霜ニ揚ス』
  34. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.12『朝霜探照燈反射鏡破損シ之ガ換装ノ爲十一日昭南ニ回航整備ノ上十二日「リンガ」出撃ノ2YBニ合同北上十三日初霜霞ヲ合同十四日「カムラン」着将旗ヲ大淀ニ移揚ス』
  35. ^ #S1911二水戦日誌(1)p.17『備考(略)三.十二月十四日以降一時将旗ヲ大淀ニ掲揚ス大淀ノ行動朝霜ニ同シ』-p.61『二八(天候略)二〇三〇将旗ヲ大淀ニ移揚ス』
  36. ^ #戦隊行動調書p.37『艦在所 2.23←霞→20.1.1』
  37. ^ #S1911二水戦日誌(2)p.10『(1)一日昭南歸着将旗ヲ大淀ヨリ霞ニ復歸ス』
  38. ^ #戦隊行動調書p.37『艦在所 2.23←矧矢→4.7』

参考文献[編集]

  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08051772000 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
    • Ref.C08030097200 『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030100200 『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030101000 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030101100 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030101800 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030102100 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030102400 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030102500 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030102600 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030102700 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030103000 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030103100 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030103200 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。

関連項目[編集]