南太平洋海戦

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南太平洋海戦
Japanese aircraft attack USS Hornet (CV-8) during the Battle of the Santa Cruz Islands on 26 October 1942 (80-G-33947).jpg
空母ホーネットに急降下爆撃中の九九艦爆
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1942年10月26日
場所ソロモン諸島サンタ・クルーズ諸島
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
日本 山本五十六
日本 南雲忠一
日本 近藤信竹
日本 角田覚治
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・F・ハルゼー
アメリカ合衆国の旗 トーマス・C・キンケイド
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・D・マレー
戦力
空母4
戦艦4
重巡洋艦8
軽巡洋艦2
駆逐艦22
基地航空隊
空母2
戦艦1
重巡洋艦3
軽巡洋艦3
駆逐艦14
基地航空隊
損害
空母1、重巡1大破
空母1中破
駆逐艦1小破
空母1、駆逐艦1沈没
駆逐艦1大破
空母1中破
戦艦1、軽巡洋艦1小破
ソロモン諸島の戦い

南太平洋海戦(みなみたいへいようかいせん)は、1942年10月26日にソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦のこと[1]アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)。日本軍は米空母1隻を撃沈、米空母1隻を大破という戦果を挙げたが、日本側も空母2隻も大破・中破、多数の航空機と搭乗員を失った。また、戦闘の主目的であるガダルカナル島飛行場占領は失敗した。

概要[編集]

ガダルカナル島をめぐる日米の攻防戦において、アメリカ軍が使用する同島ヘンダーソン飛行場基地は最も重要な役割を担った。1942年(昭和17年)10月下旬、ガダルカナル島の日本陸軍第十七軍がヘンダーソン飛行場に総攻撃を実施することになり、日本海軍は空母機動部隊を含む多数の水上艦艇を投入して支援にあたる[2]。これを阻止するためアメリカ軍も空母機動部隊をサンタクルーズ諸島方面に派遣し、10月26日の本海戦に至った[2]。日本海軍はアメリカ機動部隊を撃退して戦術的には勝利を収めたが、日本陸軍のガ島ヘンダーソン飛行場に対する総攻撃は失敗し、戦略的にはアメリカ軍の勝利(飛行場維持成功)に終わった[3]。また日本海軍機動部隊の航空隊の消耗も甚大で、日本軍の作戦行動に影響を与えた[4]

背景[編集]

1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍主力空母4隻(赤城加賀飛龍蒼龍)を撃沈して勝利したアメリカ軍は、2か月後の8月7日ウォッチタワー作戦を発動し、アメリカ軍海兵隊ツラギ島フロリダ諸島)・ガダルカナル島を占領し、ガダルカナル島に完成したばかりの日本軍飛行場(のちにヘンダーソン飛行場と命名)を占領した。日本軍は外南洋部隊指揮官三川軍一中将率いる第八艦隊海軍陸戦隊にアメリカ軍撃退を命じ、第一次ソロモン海戦で勝利を収めた。だが運送艦宗谷以下帝国海軍特別陸戦隊輸送船団はツラギ島に到着できず、アメリカ海兵隊の早期撃退企図は頓挫した。さらにガ島ヘンダーソン飛行場から発進したアメリカ軍機により、同島へ向かう日本軍増援輸送船団は次々に撃沈・撃退され、日本海軍艦艇の行動にも制約を与えた(第二次ソロモン海戦等)。

日本海軍連合艦隊日本陸軍第十七軍(司令官百武晴吉中将)が予定していたガダルカナル島での総攻撃支援のために近藤信竹中将指揮下の第二艦隊(第三戦隊:戦艦金剛榛名、第二航空戦隊:空母隼鷹飛鷹)および南雲忠一中将指揮下の第三艦隊(第一航空戦隊〈空母瑞鶴翔鶴龍驤瑞鳳〉等)を派遣する。第一航空戦隊と第二航空戦隊にはミッドウェー海戦で乗艦を失ったパイロット達も多数着任しており、士気旺盛だったという[5]

8月24日、南雲機動部隊はアメリカ軍第11・16任務部隊と第二次ソロモン海戦(東部ソロモン海戦)を戦った。この戦いでアメリカ軍は日本軍空母龍驤を撃沈して日本軍の輸送船団増援を阻止し(軽巡神通中破、駆逐艦睦月と輸送船金龍丸撃沈)、勝利を収めた。その一方、空母エンタープライズが損傷を受け、8月31日に日本軍潜水艦の攻撃で空母サラトガが大破本国回航、9月15日にも空母ワスプを撃沈され、作戦行動をとれる空母はホーネットのみとなった。アメリカ軍はエンタープライズとサラトガを真珠湾に帰港させ、急ピッチで修理を行い、エンタープライズは10月中旬までに対空火砲の強化を含む修理が完了した[6]。同艦は10月24日にエスピリッツサント島から北東約500kmの地点でホーネット以下と合流した。また、太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ大将は、南西地区の司令官をゴームレー中将からハルゼー中将に交代させた[7]。ニミッツ大将は、ゴームレー中将がガダルカナルで苦戦する部隊を率いるにはあまりに狭量で、悲観的過ぎると感じていたのである[7][8]。ハルゼー中将は着任すると直ちに日本艦隊と決戦するための計画の策定を開始した。

10月9日、日本軍第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母隼鷹飛鷹)がトラック泊地に進出する[9]。日本陸軍第十七軍は、10月13日から14日にかけて行われた挺身隊(指揮官栗田健男第三戦隊司令官:戦艦金剛榛名)によるヘンダーソン飛行場への艦砲射撃の成功を受けて総攻撃を企図したが、無事だった飛行場から飛来したアメリカ軍攻撃機により第四水雷戦隊高間完少将(旗艦秋月)護衛の増援輸送船団6隻は3隻を喪失、揚陸した物資もすべて焼き払われてしまった[10]

この状況を受けて、総攻撃実施日(Y日)は10月21日から23日、24日とたびたび延長された[11][12][13]。総攻撃準備のためガ島ヘンダーソン基地に対する空襲を強化中の10月20日夜、第二航空戦隊の旗艦飛鷹で火災と機関故障が発生し、速力低下により航空戦続行が不可能となる[12][14]。飛鷹は旗艦任務と搭載機を姉妹艦隼鷹に移し、駆逐艦2隻(磯波)に護衛されてトラック泊地に回航された[12]。日本軍はアメリカ軍と戦う前から空母1隻を事実上失ったことになる[15]。一方で、10月17日のガダルカナル島飛行場攻撃で消耗していた隼鷹の戦力は回復した[16]。また飛鷹の零戦16、九九艦爆17がラバウルに移動した[12]

10月22日夜、利根型重巡洋艦筑摩秋月型駆逐艦照月が牽制部隊となり、日本軍機動部隊から分離して南方200(370km)地点に進出した[17]。利根型重巡洋艦は水上偵察機5-6機を搭載する偵察能力に優れた艦種、秋月型駆逐艦は10cm連装高角砲を装備した防空駆逐艦である。筑摩は偵察機を発進させるが米艦隊を発見できず、アメリカ軍飛行艇の雷撃を回避したあと[18]、南雲部隊(筑摩は前衛、照月は本隊)に合流した[17]。10月23日、連合艦隊は以下の警告を発した。

  1. ここの数日来、敵空母の所在不明。敵機動部隊に対し、サンタクルーズ島方面、とくに警戒の要ありと認む。
  2. 24日、X区哨戒機および二式飛行艇はなるべく早く発進し、かつ許す限り長く哨戒のことに取り計らわれたし。

日本軍機動部隊は23日正午に前衛艦隊を分離し、陸軍支援の態勢に入った[19]。しかし日本陸軍から総攻撃延長の連絡があり、日本軍機動部隊は北上した[19]。たびかさなる延期に苛立ち、またアメリカ軍哨戒機に発見される事を懸念した南雲機動部隊は、駆逐艦嵐(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)を東方に派遣し、26日まで北方に待機する旨を連合艦隊司令部に報告させた[19]。宇垣纏(連合艦隊参謀長)は第三艦隊の行動を優柔不断・独断的措置と解釈し、前進部隊(第二艦隊)が孤立する事への懸念も示した[19]。24日午後6時44分、山本五十六連合艦隊長官の下令に従い、日本軍機動部隊は再び南下した[20]。南雲機動部隊の北上と南進の反復行動は草鹿龍之介参謀長の指示によるものだったが、南雲忠一長官は草鹿を呼び出すと今後の作戦方針について検討を行い、連合艦隊の命令に従って南下を決定した[21]

10月23-25日にかけて、日本陸軍はガダルカナル島で総攻撃を行うが、重装備を持たず猖獗しょうけつを極めるジャングルでの戦闘で指揮系統も混乱[22]。兵力を増強し防御陣地で待ち構えていたアメリカ軍海兵隊(2万3000名)の反撃に遭い失敗に終わった[22]。にもかかわらず10月24日夜には「右翼隊飛行場占領」との誤報が日本海軍に伝わり、艦隊は一気に沸き立った[23]。その後、誤報とわかり落胆している[24]宇垣纏連合艦隊参謀長の「戦藻録」からも、日本陸軍の度重なる総攻撃予定変更に対する当惑と苛立ちがうかがえる[25]。(詳しくはガダルカナル島の戦いを参照)

外南洋部隊(第八艦隊)は日本陸軍のガ島総攻撃に呼応して支援攻撃を行うことになっていた[26]。外南洋部隊麾下の第6駆逐隊司令山田勇助大佐指揮下の駆逐艦3隻(白露)と第四水雷戦隊は、24日深夜から25日朝にかけてガダルカナル島泊地に突入する[27]

突入時、掃海駆逐艦ゼイン英語版 (USS Zane, DMS-14) が荷役作業中であったが、3隻の日本駆逐艦の出現により逃亡を図る。暁、雷、白露はシーラーク水道英語版を突っ切ってゼインまで5カイリに接近したところで砲撃を開始し、ゼインに命中弾1発を与えるが主任務であるアメリカ軍陣地砲撃との兼ね合いからそれ以上の追撃はできなかった[28]

再度ルンガ泊地に向かうと、今度はアメリカ海兵隊向けの軍需品をガダルカナル島に陸揚げ中の艦隊曳船セミノール英語版 (Seminole, AT-65) と沿岸哨戒艇YP-284を発見、セミノールとYP-284は接近してきたのが日本駆逐艦だと知ると陸揚げ作業を打ち切り、直ちに逃亡を開始した。間髪入れず砲撃を開始し、YP-284を砲撃で炎上させて撃沈したのに続きセミノールも砲撃により撃沈した[29]。突撃隊は小型輸送船1隻・仮装巡洋艦1隻の撃沈を記録した[27]

続いて海兵隊陣地に対して艦砲射撃を開始するが、海兵隊陣地の5インチ海岸砲からの反撃により暁の三番砲塔の薬室に1発が命中して一時火災が発生、4名の戦死者を出す被害を受けた[27]。雷も緊急発進したF4Fワイルドキャット戦闘機の機銃掃射で損傷、銃撃で数名が死傷する被害を受けた[27][30]

突撃隊は無事にルンガ泊地から脱出したが、続いてガ島に突入しようとした高間完第四水雷戦隊司令官指揮下の6隻(秋月、由良、村雨五月雨夕立春雨)はヘンダーソン飛行場から飛来したアメリカ軍SBDドーントレス急降下爆撃機とF4Fワイルドキャット戦闘機の波状攻撃を受け、軽巡由良が沈没している(夕立、春雨による自沈処理)[31]。四水戦旗艦秋月も中破し、高間少将は村雨に移乗した[31]。これらの状況をうけて外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は外南洋部隊各隊にショートランドへの帰投を命じた[31]

一方のアメリカ軍もエンタープライズ、ホーネットの2空母を中心とする艦隊(第16任務部隊および第17任務部隊)が日本軍の攻撃を警戒していた。

戦闘経過[編集]

北方より進出する日本艦隊と南方より進出するアメリカ艦隊が会戦した

日本軍部隊は、第三艦隊司令長官南雲忠一中将が指揮する第三艦隊本隊(第一航空戦隊〈空母翔鶴瑞鶴瑞鳳〉、重巡〈熊野〉、駆逐艦〈嵐、舞風、雪風、時津風、天津風、初風、浜風、照月〉)、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦〈比叡霧島〉、重巡〈筑摩、利根、鈴谷〉、軽巡〈長良〉、駆逐艦〈谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲〉)、本隊の後方に補給部隊(駆逐艦〈野分〉、油槽船6隻)、第二艦隊司令長官近藤信竹中将が指揮する前進部隊(重巡〈愛宕、高雄、妙高、摩耶〉、戦艦〈金剛、榛名〉、第二水雷戦隊、第二航空戦隊〈隼鷹〉)という4つの集団にわかれて行動していた[32]

機動部隊前衛部隊は空母へ向かう敵機の攻撃を吸収するために機動部隊前方に横一列に並んだ。

両軍の索敵[編集]

10月25日、日本軍は数日前から見失っていたアメリカ軍機動部隊を求め索敵を活発に行ったが[33]、アメリカ軍機動部隊の発見には至らなかった[34]。対するアメリカ軍は、哨戒中のPBYカタリナ飛行艇が25日午前中に日本軍機動部隊を発見した[34]。南雲中将は日本陸軍総攻撃成功(飛行場占領)の報告を受けて南下していたが、誤報と判明してから本隊のみ北上、前衛はそのまま南下をしていた[34]。アメリカ軍哨戒機の出現により、南雲中将は前衛にも反転北上を命じた[34]。一方、キンケイド少将はエンタープライズから索敵を兼ねてF4Fワイルドキャット戦闘機16機、SBDドーントレス急降下爆撃機12機、TBFアヴェンジャー雷撃機7機からなる攻撃隊を発進させた[35]。その後の報告で日本軍機動部隊が北に反転したことが判明したが、キンケイド少将は無線封止を維持するため攻撃隊に日本軍位置情報を転送しなかった。アメリカ軍攻撃隊は反転した日本軍機動部隊を捕捉出来ず、燃料切れや着艦時の事故でF4F1機、SBD4機、TBF3機の計8機(『THE BIG E』では7機)を失った[35]。また朝の着艦事故でF4F4機が失われており、エンタープライズの航空隊は決戦を前に航空機12機を失うという大きな痛手を受けている[36]

午前9時、山本五十六連合艦隊長官は前進部隊(第二艦隊、第二航空戦隊)の航空兵力で、ガダルカナル島陸軍陣地・アメリカ艦隊の攻撃を命じた[37][38]。これを受けて空母隼鷹から発進した零戦12機、九九艦爆12機(攻撃隊指揮官志賀淑雄大尉)はガ島ヘンダーソン飛行場を爆撃し、石油タンクの炎上を確認した[39][37]。午前10時、前衛部隊索敵機が「米軍戦艦2-3、防空巡洋艦4、巡洋艦1、駆逐艦12、ツラギより方位160度、170マイル」を報じた[40]。19時18分、連合艦隊電令作第354号は『陸軍は今夜19時、ガ島突入の予定にして、26日、敵艦隊はガ島南東海面に出現の算大なり。連合艦隊は26日敵艦隊を補足撃滅せんとす』と伝える[41]。この電令の中で山本長官は日本軍基地航空隊も米艦隊を攻撃するよう求めているが[42]、実際の海戦は機動部隊と機動部隊の正面衝突となり、基地航空隊は全く関与しなかった[43]。この時、アメリカ軍はハワイのラジオ放送を通じて「近くソロモン方面で大海空戦が行われる。米国民に良きプレゼントを送る」というプロパガンダを行っていたとされる[44]。夜間、前衛の磯風は飛行艇から雷撃されるが、命中しなかった[41]

海戦当時の日本艦隊の配置は、機動部隊本隊と前衛の距離が50 - 60浬、前進部隊(第二航空戦隊ふくむ)は機動部隊の西方100~120浬を行動していた[41]10月26日南雲忠一中将の機動部隊本隊は午前0時30-50分にアメリカ軍のPBYカタリナ飛行艇から爆撃を受け、瑞鶴の至近距離に爆弾が落下した[45][46]。瑞鶴、霧島、磯風を攻撃した航空隊(B-17、カタリナ)はいずれもエスピリトゥサント島から飛来しており、爆撃・雷撃を実施するとともに日本艦隊の位置を通報している[45]。カタリナ飛行艇が発した情報は、エスピリトゥサント島基地航空隊を経由して2時間後の26日0312にアメリカ軍機動部隊へ届けられたという[45]ニューカレドニア島ヌーメアの司令部から指揮をとるハルゼー提督は「攻撃せよ、反覆攻撃せよ」の命令を発した[47]

これに対し、米艦隊の奇襲を受ける可能性があると判断した南雲機動部隊は、ガダルカナル島北東460km地点で反転北上する[48]。そして黎明(日出03時45分)から艦上攻撃機13機による二段索敵を開始した[49]。レーダーがないと夜間は索敵できないため、夜明け前と夜明けの直前といったように時間差をあけて同一の方面へ偵察機を派遣し、先発の機が索敵できなかった海域を後発の機が索敵、夜明けと同時または夜明けから短時間で捜索を完了させるという方法である。日本軍前進部隊(第二艦隊)からも、重巡妙高、高雄、摩耶、軽巡五十鈴から零式水上偵察機九四式水上偵察機が発進し、索敵にあたった[50]。一方のアメリカ軍も、エンタープライズからドーントレス16機が発進し、2機ずつのペアになって索敵に向かった[51]

両軍の攻撃隊発進[編集]

日の出は午前3時45分である[52]。午前4時50分、日本軍翔鶴四番索敵機はアメリカ軍機動部隊を発見し「敵空母サラトガ型1、戦艦2、巡洋艦4、駆逐艦16、針路北西」(南雲機動部隊から125度210浬)を報告した[53][49]。瑞鶴索敵機も敵艦隊を発見していたが、同機の報告は母艦に届かなったという[49]。日本軍はアメリカ軍機動部隊戦力を空母3隻と判断した[54]

午前5時30分頃、第一次攻撃隊として旗艦翔鶴から24機(翔鶴飛行隊長村田重治少佐指揮、九七式艦上攻撃機20機、零式艦上戦闘機4機)が発進[55]瑞鶴から(九九式艦上爆撃機21機、零式艦上戦闘機8機)[56]瑞鳳から(九九艦爆1機、零戦9機)[57]、三艦合計62機(零戦21、艦爆21、艦攻20)が発進[58][59]

続いて第2次攻撃隊として44機(九七艦攻16機、九九艦爆19機、零戦9機)が発進準備を行う[60][61]。だが、翔鶴のレーダーがアメリカ軍機の機影をとらえたため第二次攻撃隊全機が揃うまで発進を調整せず[62]、まず翔鶴から(関衛少佐・翔鶴飛行隊長:艦爆19、新郷少佐・翔鶴飛行隊長:零戦5)が発進し[63]、30分遅れた午前6時45分、瑞鶴から(今宿大尉・瑞鶴飛行隊長:艦攻16、零戦4)が発進した[64]。他に触接のため艦攻2機(翔鶴1、瑞鶴1)が発進した[61]。母艦上空直掩に零戦を配備したため、南雲部隊は攻撃隊に十分な数の護衛機をつけられなかった[65]

またアメリカ軍機動部隊発見の報告は日本軍前進部隊(第二艦隊)空母隼鷹にも伝えられ、前進部隊はガダルカナル島攻撃を中止[66][67]。アメリカ軍機動部隊の攻撃に向け、航空隊の発進準備がはじまった[68]近藤信竹中将は指揮下の第二航空戦隊を南雲機動部隊の指揮下に預けると[69]自身はアメリカ軍方向に南下し、同時に機動部隊前衛(第十一戦隊:戦艦比叡霧島等)を指揮下に入れ夜戦を挑む考えを各部隊に通達した[70]

ほぼ同時刻、アメリカ軍も日本艦隊を発見した。第10爆撃隊は「フロート1つ」の日本軍水上偵察機とすれ違い、20分後に金剛型戦艦を発見した[51]。キンケイド少将は「戦艦2隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦7隻、南緯8度10分、東経163度55分、針路北、速度20ノット」という報告を受け取る[71]。まもなく、第10偵察隊隊長J・R・"バッキー"・リー少佐と僚機から「空母2隻、護衛艦、南緯7度5分、東経163度38分」(距離320km)の連絡が入った[71]。リー機と部下機は襲ってきた零戦3機を返り討ちにしたと主張し、2機とも生還した[72]。日本軍機動部隊の位置をつかんだキンケイド少将は、直ちに攻撃隊発進を命令する。空母ホーネットから第1次攻撃隊29機(F4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス15機、TBFアベンジャー6機)、空母エンタープライズから第2次攻撃隊19機(F4F8機、SBD3機、TBF8機)[73]、さらに「ホーネット」から第3次攻撃隊25機(F4F7機、SBD9機、TBF9機)、合計73機が推定距離200浬の日本艦隊にむけて発進した[74]

南雲機動部隊から空母翔鶴の第二次攻撃隊の発艦準備が終了しかけたとき、瑞鶴より「発艦作業30分遅れる」と報告が来た[61]。さらに、索敵中のアメリカ軍SBDドーントレス2機(バーニー・ストロング大尉機、チャールズ・アーヴィン少尉機)が彼らに全く気付いていない空母瑞鳳に奇襲をかける[75]。上空警戒中の零戦9機もSBD2機を阻止できなかった[76]。SBD2機が投下した爆弾は瑞鳳の飛行甲板後部を直撃した[61]。ストロング機とアーヴィン機は日本軍の対空砲火と零戦の迎撃をふりきり、逆に計2機の零戦の撃墜を主張して生還している[75]。日本軍にとって幸運なことに被弾箇所が最後部であったこと、被害艦が第二次攻撃隊を艦内に抱えていた瑞鶴でなかったため、艦載機の誘爆によるミッドウェー海戦の悪夢再現は避けられた[77]。しかしこれにより瑞鳳は発着艦不能となり、駆逐艦2隻(舞風、初風)に護衛され戦線を離脱する[78][78]。このため南雲長官は瑞鶴隊を置いて、翔鶴隊を発進させた(第二次攻撃隊戦力は上記参照)[61]。攻撃隊が発進すると翔鶴では被弾に備えて可燃物を全て捨てたが、この時、演芸会用の女着物とかつらが投げ込まれるのが目撃された[79]

日本軍機動部隊の第一次攻撃隊は、進撃途中に日本艦隊を目指すアメリカ軍のホーネット隊とすれ違った[59]。お互いに相手を視認しながら、両軍とも素知らぬふりをしてやり過ごそうとする[80]。しかし、次にエンタープライズ隊とすれ違って間もなく、日本軍攻撃隊最後尾に位置していた瑞鳳零戦隊9機(指揮官/日高盛康大尉)が反転し、エンタープライズ隊19機(艦戦8、艦爆3、艦攻8)を追撃した[81]。攻撃隊右翼を飛んでいたF4F4機は一方的に奇襲を受けた。3機が撃墜され、1機は被弾し機銃と無線を破壊されて母艦エンタープライズへの帰投を余儀なくされた[82]。また雷撃隊も指揮官機を含む2機を撃墜され、1機が不時着し、別の1機が被弾により攻撃を諦め母艦へ帰還した[83][82]。エンタープライズ隊はF4F4機、SBD3機、TBF4機となったが、進撃を続けた[82]。一方瑞鳳隊(零戦9、艦爆1)は空戦により零戦2機が撃墜されて残存7機となった上、母艦の方角がわからなくなってしまう[84]。第一小隊2機(日高大尉)、第2小隊(内海秀一中尉)2機、第3小隊(河原政秋飛曹長)3機の各小隊ごとに分散して帰投するも[85]、内海小隊2機が帰途行方不明、誘導の九九艦爆1機も帰投しなかった[86]。瑞鳳零戦隊9機は4機喪失(2機撃墜、2機行方不明)1機大破という損害を出した[59]

米空母被弾[編集]

空襲下にある空母 エンタープライズ。
左舷に爆弾が命中したエンタープライズ。

6時55分、日本軍第1次攻撃隊は米艦隊(ホーネット、重巡2、防空巡2、駆逐艦6、直衛戦闘機38)を発見、ホーネットに攻撃を集中した[59]。エンタープライズ隊はスコールの下にあって、攻撃を受けなかった[59]。まず瑞鶴艦爆隊第二中隊が攻撃し、1発目の爆弾は至近弾となり、2発目は飛行甲板中央部に命中[87]。さらにこの後爆弾2発が命中した[87]。続いて第一中隊と第三中隊が攻撃、爆弾は命中しなかったが被弾した佐藤兵曹長機がホーネットの煙突前部に突入し火災を生じさせた[87]。その後、翔鶴の艦攻隊が攻撃を実施し、ホーネットの右舷の前部機械室と対空砲弾庫付近に魚雷が命中した[87]。被雷による浸水でホーネットは全動力を失い停止した[87]

また付近にいた護衛艦艇も攻撃を受け、雷撃機1機は重巡ペンサコラを攻撃したが魚雷は外れた。被弾した雷撃機はペンサコラに突入を試みたものの、艦首外側数メートルの海中に墜落した。また駆逐艦アンダーソンは雷撃機から機銃掃射を受けたものの目立った被害はなかった。

日本軍攻撃隊は7時20分には引き上げ、海上ではホーネットが激しく炎上していた。同艦は電気系統の全滅により消火ポンプが使用不能であったため消火器やバケツリレーによる消火作業が行われ、さらに駆逐艦モリス、ラッセル、マスティンによる消火作業の支援により8時ごろまでにはほぼ消火に成功した[88]。重巡洋艦ノーザンプトンが依然航行不能であったホーネットの曳航を開始したが、曳航索が切れ作業はやり直しとなった[89]。日本軍第一次攻撃隊はホーネットに重大な損傷を与えたものの、大損害を受けた。零戦5、艦爆17、艦攻16(翔鶴〈零戦2、艦攻16〉、瑞鶴〈零戦3、艦爆17〉)を喪失[55][59]。不時着により艦攻6機、艦爆5機、零戦2機が失われた[59]。これは後述の翔鶴、瑞鳳の被弾損傷により収容可能艦が瑞鶴のみとなり、燃料切れで不時着した機が多数でたためである[59]。また生還しつつも誘導の失敗により帰投できなかった機が2機あったという[59]

日本側第2次攻撃隊は、8時15分空母エンタープライズおよび炎上漂流中のホーネットを発見する[61]。先に到着した翔鶴艦爆隊は無傷のエンタープライズに攻撃を集中し、2発の直撃弾を与えた(翔鶴隊は空母1隻爆撃6発命中し瑞鶴隊雷撃と協同で撃沈、駆逐艦1隻大破炎上、撃墜1報告)[61]。1発目の爆弾は、艦首から5メートルの飛行甲板に命中し爆弾はそのまま艦首上甲板を貫通して海面で炸裂、飛行甲板のドーントレス1機を海に吹き飛ばし、艦首付近を穴だらけにして小火災を発生させた[90]。格納庫ではドーントレスが炎上し、整備兵は自軍の爆弾を海中に投棄した[90]。2発目の爆弾は、前部エレベータ後方3メートルの飛行甲板に命中し、3層を貫いて前部応急指揮所で炸裂した[90]。こちらの火災はひどく、火のついたガソリンが前部エレベーターの孔に流れ込んだほどである[91]。右舷3メートルの所には至近弾1発が落下し、舷側に損害を受けた。また艦爆隊が到着する直前の8時1分、不時着したエンタープライズの雷撃機の救助に向かった駆逐艦ポーターに雷撃機から誤って発射された魚雷が命中した(潜水艦伊21の雷撃とする資料もあるが、あやまり)[61][92]。ポーターは航行不能になり僚艦の砲撃により処分された。8時35分、遅れて発進した瑞鶴雷撃隊はエンタープライズに魚雷を発射したが命中せず(瑞鶴隊はエンタープライズ型空母1撃沈、サウスダコタ型戦艦1轟沈、艦型不詳巡洋艦1撃沈、駆逐艦1大破、撃墜8報告)、被弾した艦攻1機は駆逐艦スミスに体当たりした[61]。艦攻が搭載していた魚雷が爆発し、砲塔付近にあった弾薬が誘爆して大火災が発生した[93]。しかし艦長の判断で付近を航行中の戦艦サウスダコタに接近し、サウスダコタの艦尾波でスミスは奇跡的に消火に成功した[94][93]。日本軍第2次攻撃隊はエンタープライズ等に損害を与えたものの、艦攻9機、艦爆10機、零戦1機が未帰還になり、艦攻1機、艦爆2機、零戦1機が不時着着水、合計24機(零戦2、艦爆12、艦攻10)を喪失した[61]。サウスダコタは対空砲火で日本軍機26機撃墜を報じた[61]

翔鶴の被弾と日本軍の追撃[編集]

全速で回避する筑摩。
戦艦サウスダコタに雷撃する97艦攻

日本軍南雲機動部隊では、午前6時40分に翔鶴レーダーが135度距離145kmに敵機群を発見した[74]。午前7時18分にSBDドーントレス爆撃機15機を確認する[95]。直衛の零戦は15機(翔鶴10、瑞鶴5)だったという[74]。 まず重巡洋艦熊野が攻撃されたが、命中弾はなかった[95]。ホーネット第1次攻撃隊は午前7時27分、日本機動部隊を発見する。直後に零戦9機からなる日本軍直掩隊が現れF4F2機が撃墜された。急降下爆撃隊15機は戦闘機の掩護なく進撃を続けたが、更に零戦隊に襲われた。SBD2機が撃墜され、2機が被弾により母艦に帰投した[74]。残る11機は南雲機動部隊の旗艦翔鶴を攻撃し、飛行甲板後部に450キロ爆弾4発命中という戦果を挙げた[74]。この攻撃で翔鶴では高角砲弾が誘爆するも、ミッドウェー海戦の時とは異なり航空機用燃料・弾薬誘爆を避けられたため、沈没には至らなかった[96][97]。受信可能だが送信不可能になった翔鶴は消火作業を行いつつ北上し(8時20分以降、駆逐艦嵐が通信代行)、瑞鳳、初風、舞風と共に戦場から避退した[74][78]。南雲機動部隊司令部が駆逐艦嵐に移乗したのは、損傷艦がアメリカ軍機の攻撃圏外に出た夕刻のことだった[78]

エンタープライズ隊およびホーネット攻撃隊の一部は日本空母を発見できず、機動部隊前衛部隊を攻撃した[98]。特にエンタープライズ隊は瑞鳳零戦隊と空中戦をおこなったため燃料が不足しており、目の前の敵(前衛部隊)を攻撃するしかなかった[82]。3機のドーントレスは金剛型戦艦を攻撃し、二番砲塔と右舷中央に命中させたと主張する[99]。実際に彼らが攻撃し大破させたのは、戦艦ではなく利根型重巡洋艦筑摩だった[98]。前衛艦隊の先頭にいた筑摩は午前7時から8時にかけての空襲で複数の爆弾が命中、古村啓蔵艦長を含む多数の乗組員が死傷した[100]。雷撃隊も重巡洋艦(鈴谷、利根)に攻撃をおこなったが、回避されている[98]。午前9時19分、最大発揮速力23ノットとなった筑摩は駆逐艦2隻(谷風、浦風)に護衛されて退避した[101][98]

日本軍前進部隊(第二艦隊近藤信竹中将)に属していた角田覚治少将麾下の第二航空戦隊(空母隼鷹)は航空戦の開始と共に南雲忠一中将の指揮下に入り[69]、隼鷹、黒潮、早潮の3隻は機動部隊本隊と合流すべく行動を開始(前進部隊との分離は9時30分)[102]。続いて南雲部隊旗艦翔鶴の被弾と通信能力喪失により航空戦の指揮をまかされた[103][78]

まず午前7時に第1次攻撃隊29機(指揮官志賀大尉:艦爆17機、零戦12機)を発進させた[104][67]。午前8時40分ごろ米軍機動部隊を発見[105]。午前9時15分に攻撃を開始する。雲高3500メートル雲底500メートルと視界が悪く、攻撃は分散され、また爆撃精度も悪化した[106]。空母を狙おうとして果たせず、仕方なく護衛の戦艦や巡洋艦を爆撃した機もある[107]。攻撃隊はエンタープライズに至近弾1発を与え、右舷中央部の船体を60センチ陥没させ、若干の浸水が始まった[108]。戦艦サウスダコタには4発の爆弾が投下され、1発が第一砲塔に命中する[109]。艦長が軽傷を負い、付近の銃座に損害を与えたが、決定的打撃とはならなかった[110]。にも関わらず、動揺した士官が操舵系を無断で第2戦闘指揮所に切り換えたため数分間操艦不能となり、結果サウスダコタは空母エンタープライズに突進した[110]。この時はエンタープライズが4万トンの巨艦を回避し、大惨事をまぬかれた[111]。また軽巡サン・ファンには6発の爆弾が投下され、内1発が艦尾に命中したが、船体を貫通して海中で爆発した[111]。サン・ファンは一時的に操舵不能となった[111]。隼鷹第1次攻撃隊は攻撃終了後、集合点に集まったところを先回りしたアメリカ軍戦闘機に襲われ、艦爆9機が一挙に撃墜されたという[112]。二航戦第一次攻撃隊は艦爆11(自爆9、不時着2)を喪失し、零戦4機が瑞鶴に着艦した[67]

アメリカ軍の撤退[編集]

駆逐艦に乗員を退艦させるホーネット。

ホーネットの戦闘力喪失と、艦載機95機を満載で発着不可能状態のエンタープライズ損傷の一方、日本軍には無傷の空母が残っているという状況でキンケイド少将は撤退を決め、マレー少将にホーネットの曳航作業継続を命じると第16任務部隊は南東へ退避をはじめた[113]。ノーザンプトンはより太い曳航索を用いて曳航を再開した[114]

一方日本軍は航空機に多大な損害を受けていたが、残存機をすべて投入して米艦隊の追撃を開始した。第一次攻撃隊発進後の空母隼鷹はただちに第二次攻撃隊発進準備につとめたが、戦艦榛名より『敵大型陸上機十数機発見』の報告があり、攻撃隊発進を中止して上空警戒機(零戦4、艦攻5空中退避)を発進させる[102]。だが味方機と判明し、ふたたび第二次攻撃隊発進準備に努めた。午前10時20分、山本五十六長官は第二艦隊に対しサンタクルーズ諸島北方の敵艦隊と、ガダルカナル島南方の敵戦艦部隊を同時攻撃するよう求めたが、日本軍に戦力を分ける余裕などなかった[115]。午前11時13分、隼鷹から第2次攻撃隊(艦攻7機、零戦8機)が発進した[116][102]。零戦のうち2機は瑞鶴所属機(白根大尉)、1機は瑞鳳所属機だった[117]。この時の隼鷹には白根大尉の零戦だけではなく、被弾した他艦所属機(翔鶴艦攻1、瑞鶴零戦3、瑞鶴艦爆5、瑞鳳零戦1)も収容している[102][118]

続いて11時15分に瑞鶴から残存機すべての零戦5、艦爆2機、艦攻6機(爆弾装備)からなる第3次攻撃隊(指揮官田中一郎瑞鶴分隊長)が発進、他に触接の艦攻1機が同行した[119][120]。艦攻6機のうち5機は瑞鳳の所属機だった[121]。彼らは索敵から帰還後被弾した瑞鳳に降りられず、瑞鶴に着艦していたのである[122]。また翔鶴所属の零戦2、艦爆1も参加している[123]

隼鷹第2次攻撃隊は13時13分に戦場に到達し硝煙で視界がぼやける中[124]、空母「ホーネット」と同艦を曳航中の重巡「ノーザンプトン」を雷撃した。「ノーザンプトン」は曳航索を切って魚雷をすべて回避したが、ホーネットには魚雷1本が命中、傾斜が14度に増大する[102]。また電気系統の復旧も不可能となった[125]。そのためメーソン(ホーネット)艦長は総員退艦準備を発令した[125]。隼鷹第2次攻撃隊は敵空母に魚雷3本以上命中、重巡洋艦に魚雷命中を報告し、零戦2機が行方不明・3機が不時着、艦攻2機が撃墜という損害を出し、零戦3機は「瑞鶴」に、艦攻5機は「隼鷹」に帰投した[102][126]。1機の艦攻は魚雷を発射できず、隼鷹着艦寸前に魚雷を棄てている[127]

数十分後、瑞鶴第3次攻撃隊がホーネットを爆撃した[120]。まず艦爆2機による爆撃で1発が至近弾となり、それにより傾斜が20度となった[125]。ここに至って艦長は退艦命令を出した[125]。次いで艦攻隊が高度2000m(規定では3000m)から800キロ爆弾による水平爆撃を行う[128]。1発が飛行甲板後端に命中[120]。他の5発は至近距離に落下し、衝撃波によりホーネットに大きな損害を与えた。この時、重巡洋艦鈴谷索敵機がホーネットがまだ沈没していないことを報告した[129]。瑞鶴第3次攻撃隊は艦爆1機が隼鷹に不時着した他、全機無事に瑞鶴へ帰投した[120]

13時35分、隼鷹からこの日最後となる艦爆4機、零戦6機からなる隼鷹第3次攻撃隊が発進していた[130][131]。攻撃前、奥宮航空参謀が加藤舜孝中尉(艦爆隊先任将校[132])に出撃を命じると、加藤中尉は「またいくんですか」と仰天して立ち上がったという[133]。15時10分、隼鷹第3次攻撃隊は漂流中のホーネットを発見、20分ほどエンタープライズを捜索したが発見できず、ホーネットに目標として爆撃を開始した[134]。爆弾1発が命中[131]。ホーネットは炎上しつつ右舷に傾斜した。隼鷹第3次攻撃隊は爆弾4発命中を記録し、全機が帰還している[131]。隼鷹は第三次攻撃隊を収容したのち、一旦北上して破損機の修理を実施[78]。23時頃、空母瑞鶴と合同した[78]。翌日使用可能兵力は、隼鷹隊(零戦11、艦爆8、艦攻5)、瑞鶴隊(零戦33、艦爆10、艦攻19)であったという[78]

近藤中将の前進部隊(第二艦隊)はアメリカ軍機動部隊に水上戦闘を挑むため、追撃戦に移った[135]。機動部隊前衛部隊の動きは鈍かったが、近藤長官(愛宕座乗)からの再三による進撃命令を受けてようやく東進を開始、前進部隊と協同行動をとることになった[135]

一方のアメリカ軍はホーネットから総員を退艦させると、駆逐艦マスティンに大破した空母の魚雷処分を命令した。マスティンからは搭載魚雷すべての8発の魚雷が発射されたが3本しか命中しなかった[135]。代わって攻撃を行ったアンダーソンが6発の魚雷を命中させたがホーネットの傾斜角、喫水はほとんど変わらず、アメリカ軍の報告書によると「駆逐艦による魚雷攻撃の結果にはとても失望した。駆逐艦の攻撃はホーネットに殆どダメージを与えられなかった」とある[136][要高次出典]。魚雷を使い果たした両艦は12.7cm砲弾300発を撃ち込んだがホーネットは沈まず、日本軍索敵機に発見されたため急いで現場海域から離脱した[135]。日本軍前進部隊は、長良機・五十鈴機・摩耶機などに誘導されながら接近[135]。日が暮れようとする海原を前進した日本海軍前進部隊は、彼方から遠雷のような砲声を聞いた[137]。これは、先にマスティンとアンダーソンがホーネットに砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた[137]

18時30分頃、近藤長官は第二水雷戦隊や妙高、高雄、巻波、陽炎に米駆逐艦2隻(マスティン、アンダーソン)の追跡を命じたが[135][138]、全速で逃走する駆逐艦の補足は難しく、各隊は追跡を諦めてホーネットの傍に戻った[139][135]

連合艦隊司令部はドーリットル空襲で日本に衝撃を与えたホーネットを捕獲しようと試み、「事情許さば、拿捕曳航されたし」と前進部隊に迫った[140]。だがホーネットは火災と浸水でひどく損傷しており、曳航は不可能だった[135]。「鉄の船があんなによく燃えるものか」という愛宕乗組員の感想が残っている[139]

秋雲は12.7センチ砲24発をホーネットに撃ち込んだがホーネットは微動だにせず、爆雷での処分も検討されたが、爆雷の射程が短く断念された[141]。結局、魚雷で処分することとなり、秋雲と巻雲からそれぞれ2本ずつ発射され、3本が命中した[142]。巻雲艦長によれば、最初の1本は艦首に命中して傾斜が復元し、2本目を反対舷に発射し、3本目で沈没、「此ノ駆逐艦魚雷ヲ三本モ打チ込ンデヤツト沈メタノニハ、ナサケナキ限リナリシ」と回想している[143][要高次出典]。この後、秋雲ではホーネットの断末魔を記録すべく、絵の上手な信号員に炎上中のホーネットを描くよう命じた[142]。艦長はスケッチの助けにしてやろうと、ホーネットに向けて何度もサーチライトを照射した[144]。スケッチが終わり、やがてホーネットの火災は艦全体に広がった。合計魚雷16本(重複あり)、爆弾8発、12.7cm砲弾300発を喫したホーネットは秋雲と巻雲が見守る中、10月27日午前1時35分、サンタクルーズ諸島沖に沈んでいった。就役からわずか1年と7日という短いものであった(除籍は1943年1月13日)。日本軍は救助したアメリカ軍兵士の尋問結果から、アメリカ軍の戦力沈んだ空母がホーネットであることを知った[145][146]

結果[編集]

空母翔鶴にはレーダー(21号電探)が装備されていたため、日本側はミッドウェー海戦に比べると効果的な防空を行うことができた。また機動部隊の前方に囮として戦艦比叡、霧島と重巡洋艦鈴谷、利根、筑摩、軽巡洋艦長良を横に並べたため、筑摩の大破と引き換えに後方の空母への被弾を抑えることができた。

この海戦でアメリカ軍は空母ホーネットを失い、エンタープライズも中破したため、太平洋における稼働空母数は一時的に0となり、アメリカ軍側に「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた[147]。しかし搭乗員の損害は少なく、エンタープライズをヌーメア(ニューカレドニア)で応急修理を実施して第三次ソロモン海戦を始め、ガダルカナル島近海に進出してくる日本軍の艦艇に脅威を与え続けた。1943年からは修理を終えた空母サラトガに加え、イギリス海軍から空母ヴィクトリアスを借りて間を埋めた。


日本側はこの海戦において勝利を収めたが、宇垣連合艦隊参謀長が翔鶴艦長や瑞鳳艦長に「敵ばかりやっつけて味方が何の損害のないと云う事はあり得ない」と諌めた通り、大きな損害を出した[148]。特に艦爆隊や艦攻隊の損害が大きく、村田重治少佐(戦死後大佐)をはじめとする真珠湾攻撃以来のベテラン搭乗員を多数失い、これ以上の攻勢に打って出ることが困難となった(下記損害参照)。特に急降下爆撃機の損害が大きく、その後の母艦搭載機定数は艦爆の数を減らしている[149]。 本海戦の損害を補うべく、日本海軍は教育部隊の教官を前線に出したり、飛行学生を卒業したばかりの士官を母艦に配属するなど、必死で穴埋めをする[150]。奥宮参謀は、新任搭乗員が本海戦前母艦航空隊の技量になる時期を1943年6月以降と推測したが[151]、その再建した航空兵力はい号作戦ろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)、ギルバート諸島沖航空戦ギルバート・マーシャル諸島の戦いトラック島空襲マリアナ・パラオ諸島の戦いといった航空戦における大敗北で完全に消耗してしまい、終戦までその損害を補うことが出来なかった。

さらに飛鷹、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の4空母はそれぞれ損傷の修理と航空隊の補充のため随時内地へ回航されることになり、トラック泊地に残る作戦行動可能な空母は隼鷹1隻のみとなった。

また本海戦の目的の一つとも言うべき日本陸軍部隊の支援についても結果的には失敗している。山本五十六連合艦隊長官は「海軍の大戦果に呼応し、このさい一挙に敵を撃滅されたし」と陸軍に連絡したが、陸軍は予備兵力なしとして断ったという[152]。日本海軍では下士官兵はおろか将校までが陸軍を批判していたのが目撃されている[152]

日本側は、「米空母3、戦艦サウスダコタ、巡洋艦3隻(内1隻戦艦なるやもしれず)、駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦3隻大破、駆逐艦3隻大破または中破、航空機50以上撃墜」という戦果を挙げたと誤認した[153][154]。10月27日午後8時30分、大本営海軍部は「米空母3-4隻、戦艦1隻撃沈。大破戦艦1隻、巡洋艦1隻、艦種不明1隻。中破戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻。敵機200機以上を喪失せしむ。わが方の損害は空母2隻、巡洋艦1隻小破せるも、戦闘航海に支障なし。未帰還機40機、本海戦を南太平洋海戦と呼称す」と大勝利を宣伝した[155]。11月16日の大本営発表では「戦艦1隻、空母エンタープライズ、ホーネット撃沈、大型空母1、巡洋艦3、駆逐艦1大破、航空機200機撃墜」となっている[156]

また愛宕が傍受した日本語のハワイ放送(日本向け宣伝放送)によれば「日本軍空母7隻、大巡5隻、駆逐艦数隻撃沈、米軍損害は駆逐艦1隻沈没」だったという[157]。しかし、これはあくまで敵国に対するプロパガンダであり、アメリカ海軍の公式発表では戦果を「日本軍空母2隻損傷、巡洋艦1隻大破」とほぼ正確に伝えており、損失を「空母1隻沈没、駆逐艦『ポーター』沈没」と、撃沈された艦も隠さず発表している[158]。特に、空母が撃沈されたことはルーズベルト大統領が自分で発表したもので、敵に情報を与えないことを重要視していたニミッツはこれに激怒、後で重巡洋艦シカゴが撃沈された時は副官のドレークに「(ホーネットの時のように)シカゴが沈んだことをもらす者は撃ち殺してやる」と言っていた[159]

日本軍大勝利の報道に対し、奥宮参謀は「空母1隻撃沈程度と推定しつつも、搭乗員の申告を黙認せざるを得なかった」と述べている[147]。村田少佐をはじめ、熟練搭乗員や攻撃隊主要幹部が戦死したことも戦果確認を困難とした一因だった[160]。また搭乗員の中には米空母6隻存在を主張する者もあり、また第二航空戦隊の強い主張で空母3隻撃沈という判定になったという[161][154]。これは双方の機動部隊が広範囲に展開するため敵軍の全貌をつかみにくいという問題も絡んでおり[162]、第十一戦隊は二式艦上偵察機のような高速偵察機の本格的な投入と、常に敵艦隊と接触し続けることの重要性を報告している[162]。二式艦上偵察機は機体の強度不足を補強する前の彗星艦上爆撃機の試作機の改造機で、その高速度からミッドウェー海戦でも試作機の十三試艦上爆撃機が空母蒼龍で使用されたが無線機故障で索敵の役を果たせず、さらに母艦の喪失で失われて「彗星」開発計画に多大な遅延が生じた。本海戦では空母翔鶴から偵察機として2機が発進した[49]。アメリカ軍機動部隊と違う方向を偵察してしまい、索敵に失敗したという[163]。「翔鶴飛行機隊戦闘行動調書」には記録が残っていない[49]

日本軍は軍令部や大本営を含めて本海戦で大勝利を収めたと信じ、ガダルカナル島の戦いに勝利するのも目前だと考えた[164]。そこで陸軍第三十八師団を輸送船11隻に分乗させ、ガダルカナル島へ強行輸送する作戦を立案する[165]。日本軍の作戦を察知したアメリカ軍は、空母エンタープライズに応急修理を施して戦線に復帰させ、さらに大和型戦艦と同世代の新型戦艦2隻(サウスダコタワシントン)をガダルカナル島周辺海域に投入した[166]。こうしてガダルカナル島へ向かう日本軍艦隊との間に第三次ソロモン海戦が発生し、鉄底海峡(アイアンボトム・サウンド)に多数の両軍艦艇が沈むことになった。

損害[編集]

日本[編集]

  • 大破:空母 翔鶴、重巡 筑摩
  • 中破:空母 瑞鳳
  • 小破:駆逐艦 照月(26日夜、大型機爆撃による)
  • 航空機損失:92機
  • 航空機搭乗員戦死:148名
  • 艦船乗組員戦死:250-350名[167]

アメリカ[編集]

  • 沈没:空母 ホーネット、駆逐艦 ポーター
  • 大破:駆逐艦 スミス
  • 中破:空母 エンタープライズ
  • 小破:戦艦 サウスダコタ、軽巡 サン・ファン
  • 航空機損失:74機
  • 航空機搭乗員戦死:39名
  • 艦船乗組員戦死:254名[168][要出典]

壊滅した日本海軍艦載機群[編集]

この戦いで、日本海軍の艦載機部隊は艦爆・艦攻隊を中心に大きな被害を出した。

  • 出撃機数
  • 翔鶴
第一次攻撃隊 零戦4、艦攻20
第二次攻撃隊 零戦5、艦爆19
直掩機 零戦10
偵察隊 艦攻 数機(早朝出撃)
全機未帰還(翔鶴被弾に因る、一部は瑞鶴、隼鷹に着艦)
  • 瑞鳳
偵察隊 艦攻 数機
第一次攻撃隊 零戦9
全機未帰還(瑞鳳被弾に因る、一部は瑞鶴、隼鷹に着艦)
  • 瑞鶴
第一次攻撃隊 零戦8 艦爆21
第二次攻撃隊 零戦4 艦攻16(帰還・再出撃機含)
第三次攻撃隊 零戦5、艦爆2、艦攻6(帰還・再出撃機含)
  • 隼鷹
第一次攻撃隊 零戦12、艦爆17
第二次攻撃隊 零戦8、艦攻7(帰還・再出撃機含)
第三次攻撃隊 零戦6、艦爆4(帰還・再出撃機含)
  • 帰還機数
  • 一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)
第一次攻撃隊 20(このうち約半数が修理不能として海中投棄。3艦で62機出撃して瑞鶴、隼鷹に着艦できたもの)
第二次攻撃隊 20(これも半数以上が修理不能のため海中投棄。翔鶴、瑞鶴合わせて44機出撃)
第三次攻撃隊 13(未帰還機無)
  • 二航戦(隼鷹)
第一次攻撃隊 18
第二次攻撃隊 8
第三次攻撃隊 10(未帰還機無)
  • 総計
未帰還機数 零戦17、艦爆31、艦攻21、計69。
不時着 零戦7、艦爆9、艦攻7、計23。(海中投棄機数を除く)
喪失機数計 零戦24(39.3%) 艦爆40(63.4%) 艦攻28(58.3%)
※カッコ内の割合は延べ全出撃数(偵察・直掩機は除く)に対する喪失機数割合
戦死搭乗員 零戦17、艦爆62、艦攻66、計145名[169]


ミッドウェー海戦とこの海戦でハワイ奇襲以来の日本海軍空母艦載機部隊は壊滅してしまい、再建を目指した艦載機部隊はい号作戦ろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)、マリアナ沖海戦台湾沖航空戦等ですり潰され、この後終戦まで二度と同規模・同水準の部隊となることはなかった。

人物像[編集]

攻撃を命じる際、角田少将の意を受けて空母隼鷹の崎長飛行長が発した「敵の位置は、まだ飛行隊の行動範囲外であるが、本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という命令は[170]、彼の猛将ぶりを示すものとして伝説になっている。更に、炎上中の空母ホーネットに向かった攻撃隊を、無傷のエンタープライズが発見されるや即座に攻撃目標の変更を命じるなど、柔軟にして即断即決の指揮は、高く評価されている。奥宮正武第二航空戦隊参謀は、日本軍水上艦艇(近藤中将)の追撃は及び腰で「水上部隊にも角田がいれば」と述べている[171]

一方で南雲忠一中将は、ミッドウェー海戦以降、数少なくなった空母を危険にさらすことを恐れ、敵の索敵機に発見されては避退の為に反転を繰り返すといった慎重な行動がみられる。瑞鳳と翔鶴の損傷後は、残る瑞鶴の指揮を角田少将に委ねて戦場を後にした。この後にエンタープライズを撃破し、先の攻撃で炎上していたホーネットに隼鷹攻撃隊を送り込んで止めを刺したのは、指揮権を移譲された角田少将の指揮によるものである。南雲は戦場を離れると17時30分に第四駆逐隊(有賀幸作司令)旗艦に移乗し、近藤艦隊を追いかけている[172]。翔鶴に乗艦していた中島親孝第三艦隊通信参謀によれば、翔鶴はアンテナの損傷により送信不可能となったため南雲司令部は照月経由で瑞鶴に移乗しようとしたところ照月が見当たらず、仕方なく駆逐艦嵐(第四駆逐隊司令艦)経由で命令を発していたという[173]有馬正文翔鶴艦長は損傷した翔鶴をおとりとしてアメリカ軍機動部隊に突入することを主張したが[174]、草鹿参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と諌められた[175]

奥宮とは対照的に、草鹿龍之介(当時機動部隊参謀長)と吉田俊雄(当時海軍少佐、軍令部参謀)は、角田よりも近藤信竹中将(当時第二艦隊司令長官)を高く評価している[176]。たとえば近藤と南雲の2人は同じ階級の中将だが、軍令承行令上、先任である近藤が南雲の指揮をとることになっていた[177]。しかし近藤は第二次ソロモン海戦に続き、本海戦でも南雲機動部隊の行動に従い、機動部隊の行動に制約をあたえなかった[177]。また近藤は指揮下の第二航空戦隊(空母隼鷹)を第三艦隊に預けると、自身は前進部隊を率いてアメリカ軍機動部隊を追撃し、空母ホーネットを捕捉した。吉田は「武人らしい気魂を感じさせるのは、近藤の采配が最も圧巻である」と述べている[178]。草鹿参謀長は「近藤の宏大な度量、人格は私の大きな力になった」と回想している[179]。また後方のトラック島に停泊中の戦艦大和では宇垣纏連合艦隊参謀長が翔鶴の損傷と第一航空戦隊の後退を知り、撤退の禁止と米艦隊攻撃続行を命じた[180]。するとある参謀が「敵と距離をとることは、むしろ敵をアウトレンジするのに有利」と進言し、その消極的な姿勢で宇垣参謀長を激怒させている[181]

参加艦艇[編集]

日本[編集]

連合艦隊司令長官 :山本五十六大将 参謀長:宇垣纏少将(トラック島

第二艦隊[編集]

司令長官:近藤信竹中将 参謀長:白石萬隆少将

第三艦隊[編集]

司令長官:南雲忠一中将 参謀長:草鹿龍之介少将

アメリカ[編集]

第16任務部隊

第17任務部隊

第64任務部隊

ガダルカナル島

  • ヘンダーソン基地:航空機60機

南太平洋海戦が描かれた作品[編集]

映画[編集]

書籍(ノンフィクション)[編集]

  • 空母艦攻隊 - 滝沢聖峰のコミックス。真珠湾攻撃とその帰路の ウェーク島攻略から、南太平洋海戦までを九七式艦上攻撃機のペア(この機体の場合3座なので、機体前方から操縦員・偵察員兼機長・電信員兼射撃要員の合計3名の事をペアと言う。)を中心に描いている。
  • 豊田穣『悲劇の提督・南雲忠一中将 波まくらいくたびぞ』講談社
  • 日米空母決戦(双葉社スーパームック 超精密3D CGシリーズ 42) - 大戦期に造詣の深い栃林秀により、当時の機械の動作や戦史に忠実に、全編CGで制作されたドキュメントDVD。書籍に付録する形式で販売されている。27分。

脚注[編集]

  1. ^ 写真週報」等
  2. ^ a b #叢書83ガ島戦268頁「第六章南太平洋海戦」
  3. ^ #ニミッツの太平洋海戦史133頁
  4. ^ #草鹿回想178-179頁「好敵手と正に相打ちの勝負」
  5. ^ #機動部隊(学研M)31頁
  6. ^ #BIG E上231頁
  7. ^ a b #叢書83ガ島戦253-255頁「南太平洋部隊指揮官の更迭」
  8. ^ #ニミッツの太平洋海戦史129頁
  9. ^ #空母雷撃隊217頁
  10. ^ #叢書83ガ島戦220-221頁「船団の揚陸」
  11. ^ #叢書83ガ島戦243-245頁「Y日の決定と聯合艦隊司令部の作戦指導」
  12. ^ a b c d #叢書83ガ島戦249-252頁「攻撃開始日の延期と再延期」
  13. ^ #叢書83ガ島戦268-270頁「二十日までの作戦」
  14. ^ #空母機動部隊(2010)124-127頁「たびかさなる不運に泣く」
  15. ^ #戦藻録(九版)213頁、#聯合艦隊作戦室111頁
  16. ^ #山川艦爆隊126-129頁、#空母雷撃隊227頁
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参考文献[編集]

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    田中一郎(海兵67期、瑞鳳艦攻隊分隊長)の証言収録。田中は瑞鶴艦攻隊の指揮を任され「ホーネット」に水平爆撃を行った。
  • 金沢秀利 『空母雷撃隊 艦攻搭乗員の太平洋海空戦記』 光人社、2002年ISBN 4-7698-1055-5
    金沢は元「飛龍」所属で、沈没後「飛鷹」艦攻搭乗員。本海戦では「隼鷹」第二次攻撃隊として出撃した。
  • 草鹿龍之介 『連合艦隊参謀長の回想』 光和堂、1979年ISBN 4-87538-039-9
  • 小板橋孝策 『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』 光人社〈光人社NF文庫〉、2008年ISBN 978-4-7698-2560-9
    高橋武士(艦長伝令、艦橋勤務)の戦時日記を元に小板橋が編集。小板橋は「愛宕」沈没時の航海士。
  • 『海の武将-古村啓蔵回想録』 古村啓蔵回想録刊行会 編、原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1
  • 佐藤和正 『太平洋海戦』2(激闘篇)、講談社、1988年ISBN 4062037424
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』 光人社〈光人社NF文庫〉、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「信頼の絆」〈航空母艦「瑞鶴」艦長・野元為輝少将の証言〉(第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦時、瑞鶴艦長)
  • エドワード・P・スタッフォード 『空母エンタープライズ THE BIG E』上、井原裕司(訳)、元就出版社、2007年ISBN 978-4-86106-157-8
  • 高戸顕隆 『海軍主計大尉の太平洋戦争 私記ソロモン海戦・大本営海軍報道部』 光人社〈光人社NF文庫〉、1999年ISBN 4-7698-2227-8
    高戸は駆逐艦「照月」主計長。南太平洋海戦を「照月」艦橋で体験。
  • 豊田穣 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』 光人社〈光人社NF文庫新装版〉、2004年ISBN 978-4-7698-2027-7
  • 「中島斎「南太平洋の激闘」」『栄光の駆逐艦 秋雲』 駆逐艦秋雲会 編、駆逐艦秋雲会、1986年
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  • 『完本・太平洋戦争(上)』 文藝春秋 編、文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345920-0
    • 長井純隆(第三艦隊作戦参謀)『南太平洋海戦の勝利』
  • 淵田美津雄奥宮正武 『機動部隊』 朝日ソノラマ、1992年12月。ISBN 4-257-17269-x
  • 淵田美津雄、奥宮正武 『機動部隊』 学習研究社〈学研M文庫〉、2008年ISBN 978-4-05-901222-1
  • 『南東方面海軍作戦』2(ガ島撤収まで)、防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書83〉、1975年8月。
  • 牧島貞一 『炎の海 報道カメラマン空母と共に』 光人社〈光人社NF文庫〉、2001年ISBN 4-7698-2328-2
    牧島は日映カメラマン。空母「翔鶴」に乗艦し、本海戦に参加する。
  • 松田憲雄 『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』 光人社、1993年10月。ISBN 4-7698-0663-9
    松田は九七式艦攻電信員。「赤城」沈没後「翔鶴」配属。翔鶴第一次攻撃隊として本海戦に参加。
  • 」編集部 『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』 光人社、2010年7月。
    • 元空母「飛鷹」艦長・海軍少将 別府明朋「空母「飛鷹」ガダルカナル沖の悲運」
    • 当時第三艦隊参謀・元海軍中佐 中島親孝「南太平洋海戦の勝利 ミッドウエーの仇を討った日本機動部隊」
    • 当時「瑞鶴」艦長・元海軍少将 野元為輝「武運艦「瑞鶴」南太平洋の凱歌」
  • 『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』 「丸」編集部 編、光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6
    • 当時「筑摩」艦長・元海軍少将 古村敬三『前衛「筑摩」と南太平洋海戦』
  • イヴァン・ミュージカント 『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』 中村定(訳)、光人社、1988年
  • 安永弘『死闘の水偵隊』(朝日ソノラマ 1994)
    著者は「妙高」偵察操縦者。本海戦でも索敵任務にあたった。
  • 安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ! 予科練パイロット3300時間の死闘』(光人社、2002)朝日ソノラマ文庫の改訂版。
  • 山川新作 『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録』 今日の話題社1985年ISBN 4-87565-118-x
    山川は「隼鷹」九九艦爆操縦者。真珠湾攻撃時「加賀」所属のベテラン。
  • 吉田俊雄 『戦艦比叡』 朝日ソノラマ、1985年ISBN 4-257-17051-4
    吉田は軍令部参謀。本海戦における陸軍と海軍の連携問題について言及。
  • 吉田俊雄 「幸運の神 航空母艦「瑞鶴」の強運」『造艦テクノロジーの戦い 科学技術の頂点に立った連合艦隊軍艦物語』 光人社〈光人社NF文庫〉、1995年(原著1989年)。ISBN 4-7698-2103-4
  • 吉田俊雄 『戦艦比叡 新装文庫版』 光人社〈光人社NF文庫〉、2002年ISBN 4-7698-2345-2
  • 『海軍機動部隊全史』 新人物往来社〈別冊歴史読本 戦記シリーズ No.46〉、1999年ISBN 4-404-02722-2
  • Brayton, Harris (2011). Admiral Nimitz: The Commander of the Pacific Ocean Theater. Palgrave Macmillan Trade. ISBN 978-0-23010-765-6. 
  • Frank, Richard B. (1992). Guadalcanal: The Definitive Account of the Landmark Battle. Penguin Books. ISBN 0140165614. 
  • Hammel, Eric M. (2004). Carrier Strike: The Battle of the Santa Cruz Islands,october 1942. Zenith Press. ISBN 0760321280. 

関連項目[編集]