レイテ沖海戦

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レイテ沖海戦
Princeton burning.jpg
日本軍の攻撃を受け炎上する米空母プリンストン
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1944年10月23日 - 25日
場所フィリピン周辺海域
結果:連合国軍の勝利、連合艦隊の壊滅
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オーストラリアの旗 オーストラリア
指導者・指揮官
日本栗田健男
日本小沢治三郎
日本西村祥治
日本志摩清英
アメリカ合衆国ウィリアム・ハルゼー
アメリカ合衆国トーマス・キンケイド
(日米両軍とも現場指揮官)
戦力
航空母艦4
戦艦9
重巡洋艦13
軽巡洋艦6他
駆逐艦34
航空母艦17
護衛空母18
戦艦12
重巡洋艦11
軽巡洋艦15
駆逐艦141
損害
航空母艦4
戦艦3
重巡洋艦6
軽巡洋艦4
駆逐艦9沈没など
航空母艦1
護衛空母2
駆逐艦2
護衛駆逐艦1沈没など
フィリピンの戦い
アメリカ軍のレイテ島上陸により生起した4つの海戦の場所。以下の4つを総称してレイテ沖海戦という。1.シブヤン海海戦 2.スリガオ海峡海戦 3.エンガノ岬沖海戦 4.サマール沖海戦

レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年10月23日から同25日にかけてフィリピン及びフィリピン周辺海域で発生した、日本海軍アメリカ海軍オーストラリア海軍からなる連合国軍との間で交わされた一連の海戦の総称。日本側と連合国側の主攻目標が共にレイテ島(レイテ湾)であったことから、この名が付けられた。比島沖海戦もしくはフィリピン沖海戦(2nd battle of the Philippine Sea)ともいう。本海戦を細分化すればシブヤン海海戦(Battle of the Sibuyan Sea)、スリガオ海峡海戦(Battle of Surigao Strait)、エンガノ岬沖海戦(Battle of Cape Engano)、サマール沖海戦(Battle off Samar)の4つの海戦からなるが、戦局に与えた影響や評者による議論の仕方によっては事前の様々な背景が採り上げられることもある。

連合軍の作戦名はキングII作戦(Operation KING II[1])でレイテ島奪還が目的、日本側の作戦名は捷一号作戦でアメリカ軍の進攻阻止が目的であった。日本海軍の艦隊戦力はこの海戦での敗北を最後に事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。また、この海戦で日本側ははじめて神風特別攻撃隊による攻撃をおこなった。

日本海軍は稼働軍艦の多くの投入を企図するなど総力を挙げ、後の戦闘を見越し陸軍も多数の部隊を配置し、アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力(特に海軍)を投じたうえに、同盟国のオーストラリア海軍の支援を得て戦った。その規模の大きさ、戦域が広範囲に及んだことなどから史上最大の海戦と言われる。

目次

両軍の作戦計画[編集]

日本[編集]

1944年6月のマリアナ沖海戦は敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥マリアナ諸島自体の失陥も確実なものとなった日本では国政にも影響があり、反東条の気運の中7月22日小磯内閣が誕生した。しかし、陸軍軍人とは言え予備役に引いていた小磯國昭に陸軍を抑える力はなく、この政変は陸軍、特に参謀本部の発言力を強める結果となったとされる[2][注釈 1]

その陸軍参謀本部は7月15日、今後の戦争指導方針として次の4案を示した。

  1. 短期決戦案
    • 本年後期に国力戦力の全縦深を展開して対米決戦を指導し、明年以降の施策は全然考慮しない。
  2. 決戦重点二本立案
    • 本年後期に国力戦力の徹底的重点(七〜八割)を構成して主敵米の進攻に対し決戦的努力を傾倒し、一部(二〜三割)をもって長期戦的努力を強化する。
  3. 併行二本立案
    • 本年後期従来程度の決戦的努力を行なうと共に、併せて長期戦的努力を行なう。
  4. 長期戦重点二本立案
    • 戦局の前途短期決戦の見込みなきをもって決戦的努力を従とし、長期戦的努力を主とする。

日本の戦力は既に破断界に達していると認識していた参謀本部は第2案を推薦、梅津美治郎参謀総長もこの案を推し25日陸軍大臣杉山元と協議してこれを採用した。児島襄は「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評した[3]これがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。大本営は7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行い次の防衛作戦を立案、方面別に捷一号から捷四号と名付け、7月24日裁可、陸軍は同日作戦準備を各軍に命じた。フィリピン方面の防衛作戦は、捷一号作戦とされた。日本にとってフィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が途絶されることであり、戦争の敗北に大きく繋がるものであった。

8月4日、連合艦隊は「機密GF命令作第85号」をもって「連合艦隊捷号作戦要領」を発令。その内容は機動部隊、第二遊撃部隊がアメリカ軍第38任務部隊を北方に牽制誘致し、基地航空部隊(第一、第二航空艦隊)は第38任務部隊への攻撃を控え、フィリピン奪還を目的としたアメリカ軍輸送船団を撃滅する。また適宜、戦艦を中心とした第一遊撃部隊がアメリカ軍上陸地点に侵攻し、輸送船団及び上陸した部隊を攻撃してフィリピン奪還を頓挫させる。第一遊撃部隊は敵の上陸から2日以内に突入を実施するのを建て前とし、基地航空隊の攻撃はその2日前から実施するものとする。潜水艦部隊(第六艦隊)は散開配備して敵進攻部隊を邀撃するとともに、第一遊撃部隊に策応して決戦海域に突入して敵艦艇を攻撃する。というものだった[4]。連合艦隊は旗艦大淀にて内地在泊の各部隊司令官や参謀長、各艦長らを集めて作戦会議を開いたが、主役と言うべき第二艦隊はリンガ泊地にあり参加できなかった。このため連合艦隊参謀神重徳と軍令部参謀榎尾義男がマニラに飛び、南西方面艦隊司令部にて司令長官三川軍一以下司令部要員、第二艦隊からも参謀長の小柳冨次と作戦参謀の大谷藤之助がマニラまで来て、8月10日に会議を行っている[5]。この席で神参謀から敵輸送船団殲滅の為なら艦隊をすり潰してでも構わないと聞いた小柳参謀長は

連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向って突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか。

小柳冨次、栗田艦隊―レイテ沖海戦秘録

と確認すると神参謀はこれを了承した。この後会議は翌11日まで行われたが連合艦隊と第二艦隊はこの後は全く何らの会合も接触もせぬまま10月18日の作戦発動を迎える事になった。なお、リンガ泊地に移動した部隊の訓練内容は後述のように輸送船団攻撃の計画が持ち上がって以後、それを目的としたものに変えられたが、小柳の陳述では下記の5種に区分されている[6]

  1. 湾内投錨艦船への攻撃法
  2. 夜戦訓練
  3. 対空戦闘訓練
  4. 電探射撃訓練
  5. 夜戦での星弾使用法

8月19日大本営政府連絡会議から名称を改めた最高戦争指導会議では「世界情勢判断」と「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、前者でドイツが敗北必至であると認め、後者では「欧州情勢の推移如何に関わらず、帝国は決戦的努力を傾倒して敵を破摧、政略施策と相俟って飽く迄も戦争完遂に邁進せざるべからず」と結論し太平洋方面での戦争継続方針を追認、同時に大陸において対ソ連への独ソ和平工作、対重慶(中国国民党)への和平工作を行なうこととした。

アメリカ[編集]

守りに回った日本側の戦略目的がある意味で明快になりうる環境にあったのに対し、アメリカのフィリピン奪回のスケジュールは対日反攻が相当進展してからも紆余曲折を辿った。その理由は陸海軍、統合参謀本部などの主要指揮官の間の意見の違い、ヨーロッパ戦線との兵力配分、秋のアメリカ大統領選挙を睨んだ主要アクターの行動、対日戦終結後の中華民国蒋介石政権支援のための大陸への兵力展開といった要素が絡んで考慮されたからであった。1943年11月のカイロ会談で中部太平洋進攻とニューギニアからフィリピン方面への進攻の両者を進める方針が定まり、概略の順番も示されたが、優先度は中部太平洋の方が上であり、アーネスト・キング海軍作戦部長は中華民国との兼ね合いを重視してフィリピンよりは台湾→廈門に至るルートに拘りを見せていた。

1944年3月12日、海軍作戦部長アーネスト・キング、ニミッツ太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面最高司令官、マッカーサー南西太平洋方面最高司令官の代理であったサザーランド参謀長等の討議の後、統合参謀本部は当面の攻略予定について決定をした。その中にはマッカーサーの推すハルマヘラ(9月15日に上陸予定)、ミンダナオ(11月15日に上陸予定)など南西太平洋から南部フィリピンに至るものも含まれていた。しかし、6月の段階でも統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示し、海軍作戦部長アーネスト・キングは上記2箇所への進攻を中止し、彼の持論である台湾へ進攻することを提案した。キングの方針は3月12日決定での中国本土接岸目標にも合致していた。

統合参謀本部は戦争終結を早めるべく6月13日、マッカーサー、ニミッツの両者に対して次の3つの案での対日進攻の再検討を命じた。

  1. 台湾攻略までの既定計画の促進。
  2. 途中の目標を素通りして一気に台湾を攻略する
  3. 既定計画を中止し、日本本土攻略を含む新計画を策定

しかし、両者ともこれらの計画は急進的に過ぎると考えた。マーシャル陸軍参謀総長は6月24日、マッカーサーに沖縄進攻を提案した。その意図はマッカーサーの面子を潰さずに中国沿岸に接岸し、かつ米本土に残されているヨーロッパ用の予備兵力をキングの台湾進攻案に使わせないためであった。7月8日マッカーサーはマーシャルの提案に反対し、統合参謀本部が3月12日に決定した案を更に短縮し1945年5月ルソン島に進攻するレノ5号(Reno-V)計画を提出した。マッカーサーは、軍事的理由としてフィリピンの場合元々アメリカの植民地支配下にあったこともあり親米ゲリラの助力が期待できること、島嶼への海上進攻と比較し地上拠点も複数確保できることを挙げていた。また、マッカーサーは父親の代よりこの地の利権を多く握っていて、「マッカーサー王国」などと揶揄される状態であった。また自身の前職はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。マーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる書簡を送っている[7]。海軍はマッカーサーの提唱するレノ5号は対日戦早期終結に役立たないと批判した[8]

一方ニミッツはこの時期、1945年2月に台湾南部に進攻するグラニット2号計画 (Granite-2) を持っていた。また7月4日、予定通りに進攻が進まなくても既定の作戦計画を遂行することと、マッカーサーの主張する機動部隊と陸上基地とを連携させた作戦が適切である旨の2点を回答した。この理由として

  1. サイパン攻略時の抵抗が予想より大
  2. 連合艦隊の脅威
  3. 日本陸軍の大陸での進撃による中国沿岸での作戦活動の困難
  4. 1月に既にキングに対して8月までの戦力の用意はあるが以降は補強が必要である旨を伝えたが
    • マッカーサーの戦力を指揮下に置くことは期待できない
    • オーバーロードの進展からして戦力が必要な時期までに太平洋に移動することは期待できない

を挙げた。こうした対立のため統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をし、パラオ占領(当時の予定では9月15日)とミンダナオ攻略の間に決定するとした。

  1. ドイツが打倒され、日本海軍を壊滅させた場合は日本本土への直接進攻(その際硫黄島、沖縄進攻を提起)
  2. ドイツ打倒も日本海軍撃滅も出来ていない場合にはミンダナオ→ルソン→台湾→沖縄→九州→本州の順に進攻
  3. ドイツを打倒していないが日本海軍を撃滅した場合はミンダナオを迂回

キングはこの後エニウェトクなどの視察行に出、17日にサイパンに飛び、スプルーアンス第5艦隊司令官、両用戦の指揮を取っていたリッチモンド・K・ターナーに次期進攻はどこが望ましいかを尋ねたところ、両者ともフィリピンと答え、スプルーアンスはその理由としてサイパンのような島嶼よりも港湾向きの地形が多く、マニラ湾などを活用できることを挙げた。キングはスプルーアンスの論理に理解は示しつつも、持論の台湾進攻による中国大陸接岸案を棄てようとはしなかった[9]

なお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャルはやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張している[10]

ハワイ会談[編集]

一方、ルーズベルトはマッカーサーが共和党の大統領候補になることを警戒し、これまで余り手柄を立てさせないようにしてきた。しかし、マッカーサーは4月末に不出馬を宣言し、ルーズベルトは7月初旬の民主党大会で自身が大統領候補に指名されることが確実となり、カリフォルニアに滞在中の20日に指名を受けた。その後ルーズベルトは選挙遊説を行い、その一環として重巡洋艦ボルチモアオアフ島ホノルルに赴いた。これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。7月26日に到着し、その日の夜に現地の資産家の所有する邸宅で軍関係者を招いての夕食会を開き、その後、リーヒ陸海軍参謀長会議議長、マッカーサー、ニミッツの4者で会談をおこなった。マッカーサーはミンダナオ→レイテ→ルソンというコースを示して持論を述べ、アメリカの植民地であったフィリピンはゲリラ協力が期待できるが、台湾は半世紀も日本の統治下にありむしろ住民が日本側へ協力する、キリスト教徒が多くを占めるフィリピンの住民は1942年に裏切られたと思っているし、フィリピンを見捨てることはアメリカの名誉に大きな汚点となると述べて迫った。ニミッツは台湾には固執していなかった。キングの提唱する台湾進攻には5〜10個の陸軍師団が必要と見られ、陸軍の協力が不可欠だったからである。マッカーサーはルーズベルトと会談後寝室に続く廊下で2人きりになった時、「国民の激しい怒りは、この秋の選挙時に閣下への反対票となって返ってくることになる」と脅した。これに対しルーズベルトは「フィリピンを迂回しない」ことを認め、「これからキングとやり合わねばならない」と述べた。会談はその後も同艦が出港する29日まで続いた。作戦部長キング、この時点で作戦中であった第5艦隊司令官の後任を予定していたハルゼーもそうした中で討議の一部には参加或いは意識していた[11]

しかし、海軍(キング)が主張する台湾進攻とルソン進攻案との関係は後回しとされ、9月のケベック会談でチャーチルと協議した結果により決めるとした。ハワイ会談に対し統合参謀本部は不満で、キング作戦部長は即時台湾攻略を主張し、ニミッツに対して「人事を扱う航海局の出身だから妥協ばかりする」と怒りを露にした。一方海軍側でもハルゼーはフィリピン攻略の意義を認める進言をした。いずれにせよフィリピンへの進攻決定は高度の政治性を含むものではあった[12]

8月以降[編集]

8月に入りテニアングアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島ヤップタラウド諸島などが次の目標として見えてきた。

8月16日、マーシャルはスケジュールを短縮できるとしたマッカーサーに計画の再提出を命じ、マッカーサーは作戦名称をマスケーティア(Musketeer )と改名し27日に計画を提出した[13]。それによれば攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。この一部を統合参謀本部は採用した。キングはなおも台湾に拘りマッカーサーはレイテ、海軍と海兵隊は台湾を攻略するよう提案し、暗にレイテ上陸への非協力をほのめかしたが、最終的にはレイテ後を棚上げすることで折れた。こうして9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島の攻略(キングI)予定を11月15日、レイテ島の攻略(キングII)予定日を12月20日と指令した。その後ルソンと台湾のどちらに進攻するかは棚上げされたため未定であった。

なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディ上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能なことは明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにすることは出来なくなった[14]

キングII作戦ではまずフィリピン周辺の広範囲に亘る日本軍拠点を攻撃して露払いを行い、その後レイテ島に上陸する。陸軍部隊の上陸作戦は、キンケイド中将の第7艦隊が担当し、艦船による砲火支援、輸送艦船の護衛などを行なう。ハルゼー大将の第3艦隊もこれを掩護する。

9月の情勢推移[編集]

8月29日、第3艦隊はエニウェトクより最初の出撃を行い、31日、第38任務部隊第4群が硫黄島を空襲し[15]、続いて小笠原諸島を襲った。9月4日、第3艦隊ハルゼー大将)が直接指揮する残りの3つの群はニューギニアのマヌス島から出撃し、9月6日よりパラオ周辺、続いてフィリピンを空襲(下記「ダバオ事件」の項参照)、第4群もヤップを叩きつつパラオに向かい、他の群と入れ替わりに空襲を加えた。ただし、この段階では日本軍はセブ島を中心に航空兵力を配置して敵の攻撃を控え、温存策をとっていた。このために150機分の囮が各基地に配置されていた。

一方、アメリカ軍は空襲と併行しながら9月15日、モロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。9月23日にはウルシー環礁を占領しており、後に後方の補給拠点として使用された。第38任務部隊はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲し、9月21日にはフィリピン・マニラを[16]、続いて沖縄を襲って日本軍機200機以上を破壊する戦果を挙げた[17]

ダバオ誤報事件[編集]

ダバオは、アメリカ軍上陸の可能性が高いと見られており、捷一号作戦では敵来寇の第一候補地に挙げられていた。9月に入ると連日のようにビアク島からの基地航空機による空襲を受けるようになり、9月9日から10日にかけアメリカ海軍第38機動部隊は、パラオ諸島に続いてダバオを中心にミンダナオ島各所に空襲を加えた。日本側は事前の空襲のため警戒を強めていたが不運なことに、この日の早朝、サランガニ見張所が敵上陸用舟艇接近と誤認、このことは捷一号作戦警戒を発令することに繋がった。そしてフィリピン南部に陸海軍の基地航空兵力が集結をはじめた矢先の9月12日、再び米機動部隊が来襲し、9月22日までマニラを始めとするフィリピン各地に空襲を続けた。

この戦いで日本側は一方的に攻撃を受けるだけで基地上空での邀撃戦に終始し、何ら敵艦隊に打撃を与えることは出来なかった。その反面一航艦の実働兵力は250機から63機に激減し、艦艇7隻、船舶31隻を損失、第一遊撃部隊の出撃時に補給する燃料としてマニラに準備する筈の燃料3万tも失われた[18]。海軍と共同する陸軍の現地航空部隊である第四航空軍も約200機からほぼ全機が失われた[19]

作戦計画への影響[編集]

日本軍
マリアナ諸島等での防衛作戦で受けた打撃から再建途上にあった一航艦は再び甚大な被害を受けた。また、激化するフィリピンへのアメリカ軍の攻撃からアメリカ軍がフィリピンに侵攻するのは間違いないと判断したが、正確な日程と地点を確信するには10月まで待たなければならなかった。
アメリカ軍
上記のダバオ空襲を行っている段階で、ハルゼーは日本軍の反撃力が極めて弱く、またレイテ島に日本軍が存在しないという情報を得た[20]。9月13日、ヤップ島及びパラオの攻略計画を取りやめ、日本軍の反撃力が回復しないうちにレイテ島を攻略することをニミッツに無電で進言した[21]。ニミッツはこのうちヤップ攻略の取り止めに同意し、11日からイギリス首脳との第2回ケベック会談に臨んでいたルーズベルト、12日から開かれていた米英軍事会議に出席していた統合参謀本部のキングにこの意見を伝えた。マッカーサーも14日、タラウド諸島、ミンダナオ島迂回をマーシャル参謀総長に進言した。ルーズベルトは攻略繰上げによる選挙戦への好影響も考慮してこの意見に同意し、上記2ヶ所に加えミンダナオへの上陸計画も取りやめとなった。これにより統合参謀本部は軍事会議中の15日、計画を2ヶ月繰り上げて10月20日にレイテ島を攻略することに変更し、ヤップ攻略用に準備されていた第24軍団が攻略部隊に繰り入れされた[22]。タイムスケジュール等を改定したキングII作戦計画は9月26日付で第7艦隊、27日にはニミッツより第3艦隊にも通達された[23]

台湾沖航空戦[編集]

アメリカ軍は上記の南部フィリピン攻撃後、パラオ作戦の支援に第4群を残して第38任務部隊の残りの3群は一旦後退した。10月7日マリアナ諸島の西で合流した第38任務部隊はフィリピン奪回の陽動攻撃の意味も込めて10日に南西諸島を空襲、12日から14日には台湾を空襲。一連の戦闘を「フォルモサの戦い」としている[24]。日本軍の基地航空部隊はこれに応戦し、アメリカ軍に多大な損害を与えたものと判断したが、実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、日本の航空戦力が消耗しただけに終わった。そして、この時の戦果誤認が、後の日本軍の艦隊総出撃という積極的な行動要因の一つとなる。第38任務部隊が陽動を行っている間の10月11日から15日にかけて、ニューギニアのホーランディアとマヌス島に集結していた上陸部隊は続々と出撃していた。

連合艦隊司令部は台湾沖航空戦の大戦果を信じ、引き続き基地航空部隊にアメリカ軍空母機動部隊の攻撃を命じた。小沢治三郎中将指揮下の空母航空隊も連合艦隊司令部からの「当分空母を作戦に投入しない」と言明された事を受けて、練成途上の艦載機隊を基地航空部隊の指揮下に移して沖縄へ展開させ、戦場に投入した。また、アメリカ軍機動部隊の損傷した残存空母を掃討するために、小沢中将の指揮下にあった志摩清英中将の第二遊撃部隊(第五艦隊)を出撃させたものの、この段階で戦果誤報に気付いたため任務は中止され、同艦隊が奄美大島へ退避中に台湾馬公に向かうように指示し、更に同艦隊を南西方面艦隊の指揮下に移した。

日本軍の作戦計画への影響
上記のように捷号作戦計画の基本は1944年の7月から8月に立てられた。その中で小沢などの意向により機動部隊は艦隊戦における中核兵力という位置づけが維持され、侵攻が12月まで延期されればリンガに派遣した遊撃部隊も本土に戻し合同して大規模な迎撃作戦を発動したい意向があった。しかし、計画策定後に前線で立て続けに敗北を重ねたため、基地航空部隊、特に第一航空艦隊が壊滅的打撃をうけ、小沢機動部隊の艦載機も同航空戦に投入しほとんどを消耗してしまった。その結果艦隊を支援するための航空戦力はほぼ枯渇し、予定した戦力と実際の戦力に大きなずれが生じた。さらに、台湾沖航空戦の直後にアメリカ軍の上陸作戦が始まった。このため作戦計画を根本的に修正する余裕がなくなった。とは言え、アメリカ軍機動部隊が防御する輸送船団に対して丸裸で突っ込むことに、何の対応策も行なわないのは自殺行為である。
また、この戦いにより空母艦載機まで投入して消耗したため、第四航空戦隊に組み込まれていた隼鷹龍鳳の出撃が諦められた。また、第一航空戦隊を編成していた雲龍天城は竣工して間がなく、訓練未了を理由に温存された。これらの戦備が完全に整っていればマリアナ沖海戦並の艦隊航空兵力によって牽制を行えたことになるが、実際には燃料の不足等による搭乗員大量養成の遅延、アメリカ軍の急激な反攻などにより(台湾沖航空戦以前にも)杜撰で刹那的な兵力投入を行なった(或いは行わざるを得なかった)面があり、同航空戦により止めを刺された。また、葛城は10月15日の竣工、信濃はこの時期同日の竣工を目標としていたが、戦局に寄与することは出来なかった。これらは戦時の建艦計画の遂行の失敗例として挙げられることが多い[25]。更にこの航空戦での敗北による稼動機の激減が、少数による航空機の体当たり攻撃、即ち特別攻撃隊投入決断への決定打となった。特別攻撃隊に関しては後述する。

作戦開始までの補給問題[編集]

日本[編集]

全般
1944年4月下旬、アメリカ海軍作戦本部長キングは潜水艦隊に対して護衛艦への積極的な攻撃を命じていた。以後、多数の連合艦隊所属艦を含む駆逐艦、海防艦が撃沈され、ルソン海峡を中心とした通商破壊も月毎に激化した。また、護衛兵力の不足と船舶の合理的使用のため南方資源用の船団とフィリピン防衛用の兵力輸送船団は纏めて運行されたが不要な船舶までが危険海域を通過するようになった。9月に入ると上述のようにハルゼーは日本側の航空兵力が弱体であることを察知し、第38機動部隊による空襲も加わった[26]。このため更に多数の船舶が沈められ、捷号作戦計画に基づいた事前の兵力展開にも支障した。これが捷号作戦時の駆逐艦不足、作戦発令前後の遊撃部隊からの一部戦闘艦艇の引き抜き、油槽船との会合遅延・失敗などにつながった。原勝洋によれば計画段階では14隻存在した連合艦隊の随行油槽船は作戦発動時6隻(日栄丸 良栄丸 厳島丸 雄鳳丸 八紘丸 日邦丸)まで減少していたという。なお、9月末の作戦計画での敵情要約の全般情勢にて、アメリカ軍は「航空機と潜水艦による攻撃は甚大な損失を敵船舶に与えており、それ故に敵のフィリピン各部隊への兵站支援は大きな障害を抱えている」と述べており、攻撃の効果を認識している。
連合艦隊司令部は16日、作戦海域付近に在泊・航行中の油槽船に艦隊随行の命令を予告、捷一号作戦が発令された18日に発令した。また10月19日、軍令部は10月2日シンガポールを進発し日本に向け南シナ海を航行していたヒ76船団を連合艦隊の指揮下に移し、作戦用燃料を確保したい意向を示した。これには陸軍が反対し、東京都芝の海軍水交社にて折衝を続けた結果、20日の昼に同船団の黒潮丸、東邦丸を指揮下に置く代わりに本土の海軍用燃料15,000キロリットルを一般用に放出することが取り決められた。なお、この際陸軍は制空権が敵にあることを理由に艦隊の突入自体に反対しており、現存艦隊主義をとって、船団についてはフィリピンが落ちたあとのことを考慮して本土に油を還送するべき旨を主張したという[27]
第二艦隊(栗田艦隊、西村艦隊)
連合艦隊司令部は上記のように16日の段階で予告をしていたが、10月17日に捷一号作戦警戒、続いてブルネイへの進出待機命令を受電した際には油槽船への随行命令は発令されていなかった。そこで栗田は第二艦隊独断でシンガポールに在泊していた雄鳳丸、八紘丸にブルネイへの進出を命じ油槽船を手配した。栗田艦隊は20日11時にはブルネイに入港したが、栗田の手配した油槽船は21日17時に入港を予定していた。栗田は給油時間を短縮する為に小型艦へは大型艦から給油を済ませておき油槽船は大型艦への給油のみを行えばよいように準備した。手配の早さから油槽船は21日11時20分に入港し、出撃予定時刻とされた22日8時の3時間前に作業は完了し、各艦は燃料を満載した。18日の連合艦隊司令部の発令により第二艦隊に随行を命じられた油槽船は計8隻となったが、ブルネイに集結した艦隊の出撃に間に合ったのは上記の2隻だけであった[28]
ブルネイからの第一遊撃部隊の進撃航路は4つの案があり、パラワン水道を抜けてシブヤン海に接近する案は距離は最短だが敵潜水艦と会敵する危険が大きかった。しかし、小柳冨次の言を借りるならば「まる一日無駄に過ごした」[29]のは事実で、現実にはパラワン水道を抜けることとし、雷撃を受けた。このことについて栗田は戦後『決断』の会見記で「パラワン水道を行かずに、西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです」と述べた。
なお軍令部は第二艦隊のため、20日に萬栄丸、御室山丸、日邦丸、厳島丸に5隻の海防艦を護衛につけシンガポールから回航を命じていたが、この手配は栗田艦隊の出撃に間に合わなかった。その後日邦丸、厳島丸はコロン湾への進出を命じられ、両船共25日にブルネイを出港したが、27日バランバンガン島沖でアメリカ潜水艦バーゴール (USS Bergall, SS-320) の雷撃を受け、日邦丸は沈没、厳島丸も航行不能となった後31日に空襲で沈没した。
このような状況から下記の作戦開始後も、栗田艦隊は後の激戦を控えて23日までは20ノット以上の速力を出すことが出来なかった。パラワン水道通過時は夜間16ノットに速度を落とし、敵潜水艦に測的の余裕を与え、払暁と共に18ノットに上げたところで攻撃を受けた。シブヤン海海戦時も空襲を受けたとき以外は22ノット、下記のサマール沖で反転した際も26日中にコロン湾で待機する油槽船との合流を見据えていたという[30]
第五艦隊(志摩艦隊、18日より南西方面艦隊指揮下)
志摩艦隊は20日、馬公へ入港し、三亜から移動してほぼ同時に入港した良栄丸より給油を受けた。その後南方へ移動中の22日朝、連絡書を載せた水偵をキャビテに向け発進させ、その連絡書の中には栗田艦隊へ向けた行動予定書も含まれていた。その行動予定では、23日夕刻にコロン湾で補給作業の予定と書かれていたが、栗田からの返電はなく、志摩艦隊がコロン湾に到着した際、期待した油槽船もいなかった。そのため、志摩艦隊は巡洋艦から駆逐艦に補給をおこなったのみだった[31]
第三艦隊(小沢艦隊)
小沢艦隊の場合、出撃地点は日本本土であったが戦場には遠かった。出撃後の22日、航続力の短い丁型駆逐艦に空母と大淀から給油を行なったが悪天候のため完遂できず、未済の桐に杉を同行させ部隊から除き、台湾へ向かわせた。艦隊には2群の補給部隊が付けられそれぞれ油槽船、仁栄丸、たかね丸があったが、仁栄丸は25日アメリカ潜水艦スターレット (USS Sterlet, SS-392) の雷撃により沈没、戦闘後の27日、本隊の残存艦艇は奄美群島で補給作業を行なったが、たかね丸はその帰路撃沈された。

アメリカ[編集]

一方、アメリカ側ではこの時期の他の戦いと同じく、充実した体制が組まれていた。第38機動部隊は10月6日にウルシーを出港してから、1945年1月のリンガエン湾上陸支援と通商路攻撃を終えるまでの約16週間海上にあった。同艦隊各艦は少なくとも85日は洋上に留まり、根拠地等に錨をおろすことはなかった。また、第3艦隊の各部隊は概ね15ノット前後での移動が多かったが、25日の作戦行動など、必要とあれば25ノット以上の速力も選択していた。戦術レベルでは同日第34任務部隊で大型艦から小型艦に給油を行うため数時間速度を落とさざるを得なくなる場面などがあったが、後方の港湾まで後退するようなことはなかった。

この長期に亘る洋上行動を支えたのは、強力な役務部隊である。これは艦隊用タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦19隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻に及ぶ。アメリカ海軍はこれを10〜12のグループに分割し、日本軍の哨戒圏外に補給点を設定、ウルシーとの間を往復させていた。

ローテーションは次のようになっていた。補給点(Fueling Area)には常時9〜10隻のタンカーなどが待機し、残量が所定のレベルに下がると、残りを次のタンカーに移載し、3〜4日ごとにウルシーに後退、そこで本国から派遣されてきた商用タンカーから燃料を受け取るというものであった。一方空母は、グアム、エニウェトク、マヌスから、高速空母への補充機と搭乗員を運び、弾薬、需品等も補給していた。冷蔵船や郵便船なども存在していた。

一方、日本側は補給点を発見することは出来なかった[32]

ただ、第38機動部隊第1群は24日には後退して補給中であり、結局この海戦でほとんど有用な役割を果たす事はなかった。補給点はミック(MICK)と呼ばれ東経130度、北緯15度の海上にあった。この他にも補給点は設定されており、本作戦では6つあった。本作戦の兵站計画によれば、需品の供給もニューギニアに設けた後方拠点などに数ヶ月分が備蓄されていた。

その他[編集]

この間、日本側では9月29日、連合艦隊司令部が大淀から日吉の慶應義塾大学構内に移転した。軍令部総長の上奏文によれば高雄にも同様の指揮所を設置する予定だったが実際には設備は造られなかった[33]

また、戦場であるフィリピンは戦前アメリカ本国の議会を通過した法案により1946年7月4日に独立を予定されていたが、フィリピンを占領した日本軍はこの状況を汲み、1943年には形式上はフィリピンを独立させていた。日本はその後連合国への宣戦布告を迫ったが、国土が戦場となり、長年の宗主国アメリカとしこりを生みたくなかった大統領ホセ・ラウレルはこれを引き伸ばすことに努め、1944年9月23日漸く宣戦布告をした。しかしこれも、戦争状態の存在を認める(existense of a state of war)であって正真正銘の宣戦(Declaration of War)ではなかった。日本軍はこの時期、親日を誓うフィリピン人による防衛組織ガナップ隊、11月10日にはマカピリ隊を編制し、後方での役務につけた[34]

海戦の推移[編集]

ブルネイ泊地の戦艦大和、武蔵、長門(1944年10月)

1944年10月 海戦前[編集]

  • 10月6日
    • 第38機動部隊(95隻)、ウルシーを出港[35]
  • 10月9日
    • アメリカ軍戦艦1隻、重巡2隻、駆逐艦8隻により南鳥島を砲撃[36]
  • 10月11日
    • アメリカ軍上陸部隊、ニューギニア各地を出発。
  • 10月12日から16日
    • 台湾沖航空戦(上述)。日本側航空戦力、実質的に壊滅状態となる。

作戦発動[編集]

米軍の進攻[編集]

10月17日、アメリカ軍レイテ湾スルアン島に上陸を開始する。6時50分に同島の海軍見張所から第1報が発信され、8時の発信を最後に連絡を絶った。同時刻にはマニラやダバオなどにも米艦載機の空襲が、13時には台湾南部にはB29による空襲が行われた[37]

現地部隊は米軍の接近をこの時まで察知できず、スルアン島への上陸は寝耳に水の情報であった。南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は情報に接するや、貴下の第五基地基地航空部隊指揮官で第一航空艦隊司令長官の寺岡謹平中将に対して航空偵察を命じ、直後に作戦発動を発令する。陸軍もレイテ島守備の第十六師団から情報参謀自ら偵察機に乗り込み空中偵察を行うが天候が悪く敵を発見できなかった。第四航空軍も偵察機をだすが敵を発見できなかった。それでも軍司令の富永恭次中将は各地での空襲状況から米軍の来襲は確実と考え捷一号作戦の発動を要請している[38]

対して対して南部フィリピン防衛を担当する第三十五軍は当初は海軍見張所からの情報を信じなかった。理由は

  • レイテ方面は天候が悪く敵機が行動していない。
  • 台湾沖航空戦での大戦果が報告された直後に上陸作戦は考えられない。
  • ダバオ誤報事件二の舞を踏んでいないか。

というものであり、第十六師団の敵情偵察の報告もその疑念を深くさせていた[39]

連合艦隊では豊田副武連合艦隊司令長官が前線視察で台湾の高雄におり、草鹿龍之介参謀長が通信情報や現地部隊の索敵情報などから判断してハルゼーの部隊が沖縄寄り、ミッチャーの部隊が比島寄りに行動しいて、マッカーサーの攻略部隊も付近に存在していると判断した[40](実際には比島寄りの部隊とされたミッチャーの部隊はキンゲイト中将貴下の第七艦隊であり、18隻の護衛空母を機動部隊と見誤った。実際はミッチャーはハルゼー機動部隊の第38高速空母部隊指揮官でハルゼーの指揮下にいた)。豊田長官は直ちに「0809発GF軍令作特第14号 捷一号作戦警戒」を発令。日吉の連合艦隊司令部でも26分後に同様の発令をだした[41]

8時48分に潜水艦部隊への進出命令がだされたのを皮切りに、連合艦隊より各部隊への出撃準備命令がだされる[42]。特に連合艦隊司令部から「今後当分空母は使用しない」という言明を受けて台湾沖航空戦になけなしの艦載兵力を投入して磨り潰していた第一機動艦隊司令部にとって本作戦への参加の発令は寝耳に水だった。これは従来の作戦内容であっ「敵機動部隊を牽制する作戦」というよりも必然的に「囮」となる作戦を強要するに等しいからであった。この場当たり的ともいえる連合艦隊司令部の作戦指導に機動部隊司令部には憤懣やるかたない感情を抱くものもいた。小沢は囮とする着想は豊田長官の発想だと戦後の米国の質疑に対して述べている[43]。 また第二遊撃部隊(第五艦隊)を台湾沖航空戦の残敵掃討で出撃させており、機動部隊の警戒戦力も不足していた。そこで連合艦隊は対潜哨戒部隊である第31戦隊(司令官:江戸兵太郎少将)を機動部隊に急遽編入させた[44]

10月18日、中比方面の天候が回復し、レイテ島は終日に渡り敵艦載機の猛攻に晒された。第十六師団は「敵艦艇多数湾内に侵入せり」と打電する。14時からは艦砲射撃が始まっている。軍令部はこの時点では敵の意図を察することができず、本格的攻略作戦とは判断していなかった[45]。しかし大本営は米軍が台湾沖の大敗北を隠すために強引に比島を攻略してきたと判断。陸海両総長は直ちに参内し作戦の発動を上奏した[46]。上奏は裁可され、17時1分に捷号作戦を比島方面の1号とするとする総長指示が関係各部隊に通報され、17時32分、連合艦隊司令部より「捷1号作戦発動」が発令された[47]。豊田長官は台湾を離れ内地に向かうが悪天候のため大村に不時着し20日になってようやく日吉に帰着している。

その20日、米軍はレイテ湾最深部タクロバンに上陸を開始する。これに対して第十六師団は主力をドラッグ正面に配備し、タクロバンには師団司令部や後方施設を置いていた。そのため米軍が予想に反してタクロバンに大兵力を投入したことで混乱を生み、21日は早くも師団司令部は撤収し、タガミに移動せざるをえなかった[48]。23日には南北の防衛線が突破された。

第一遊撃部隊の準備[編集]

18日の時点でダバオ誤報事件や台湾沖航空戦により、当初の予定と実際のとか大きく違ってしまい、参加艦艇の燃料が欠乏していた。そこで軍令部は10月2日シンガポールを進発し日本に向け南シナ海を航行していたヒ76船団を連合艦隊の指揮下に移し、作戦用燃料を確保したい意向を陸軍に示した[49]。この海軍の突然の申し出に陸軍が反対し、東京都芝の海軍水交社にて折衝を続けた結果、20日の昼に同船団の黒潮丸、東邦丸を指揮下に置く代わりに本土の海軍用燃料15,000キロリットルを一般用に放出することが取り決められた。なお、この際陸軍は制空権が敵にあることを理由に艦隊の突入自体に反対しており、現存艦隊主義をとって、船団についてはフィリピンが落ちたあとのことを考慮して本土に油を還送するべき旨を主張したという[50]

第一遊撃部隊は16日の通達で6隻の油槽船の編入の通告を受けていたが、17日の警戒の発令後も連合艦隊からなんら指令がなかった。そこで栗田司令は独断でシンガポールにあった2隻の油槽船(雄鳳丸、八紘丸)に燃料を満載のうえブルネイに回航するよう下令[51]。また三亜にいた日榮丸に待機命令をだしている。 17日時点での第一遊撃部隊のレイテ湾突入期日は22日とされていた[52]。しかし現状では期日内に突入する事は不可能であり、栗田は連合艦隊に宛てて24日夕刻に水道東口に到着予定と打電している[53]。 第一遊撃部隊は予定通り18日1時にリンガ泊地を出撃、20日12時に全艦艇がブルネイに入港する。

同日午後、第十六戦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦1)を第二遊撃部隊に編成替えとなる。同戦隊はブルネイより出港(21日[54])、陸軍兵輸送のためマニラへ向かい、本海戦への投入はされなかった。本来ならば栗田艦隊の攻撃に呼応する計画だったが、青葉の被雷のため実現しなかった[55]。 夕刻には連合艦隊より「爾後の作戦指導の腹案」を知らされ、突入のX日は24日とされていた[56]。しかしブルネイには第一遊撃部隊に補給する手筈だった連合艦隊の手配した油槽船はなく、栗田が独断で手配した2隻が翌21日に到着する予定の状況だった。このため20日の「GF電令作第362号 レイテ決戦要領」でX日は25日と決定され全軍に通達された。 21日11時20分、2隻の油槽船はブルネイに到着、直ちに燃料の補給が開始され、22日5時までに補給は完了した。

またこの日は第一遊撃部隊各級指揮官および関係科長に対してレイテ突入の具体的要領が初めて指示された[57]。この時、全艦隊を一方向から進出させるよりも南北に分かれて進出することが決まり、第二戦隊(司令:西村祥治中将)を基幹に第三部隊が編成され、4つある航路のうちスリガオ海峡を通過する最短の第四航路から進出。本隊はパラワン水道を通過する第二航路から進出することとなり、25日4時ごろに両隊同時に突入する事と決められた[58]

機動部隊本隊の準備[編集]

17日の捷1号作戦警戒の報を受けた際、骨抜き状態だった機動部隊本隊は19日には出撃するよう通知を受け空母搭載兵力の確保を急いだ。当時司令部は大分基地にあったが、直ちに貴下の部隊に集結を命じ、艦載機も練成で台湾沖航空戦に出撃しなかった601空と、台湾進出に間に合わなかった機を含めて116機を確保した(内訳:零戦52型52機、零戦爆装28機、天山艦攻25機、97式艦攻4機、彗星艦爆7機)[59]。機動部隊本隊は18日から19日夕刻にかけて大分沖と八島沖に分かれて集結し、呉からの燃料補給を受けて出撃準備を済ませた。第二遊撃部隊の欠員として配属された第31戦隊は整備中であった軽巡五十鈴、駆逐艦秋風に出動を指示、五十鈴と桐は19日までに進出したが夕風は間に合わず、機動部隊の補給部隊(油槽船2隻、海防艦6隻)にまわされた[60]

19日13時より、機動部隊本隊の各級指揮官が旗艦瑞鶴に集まり作戦の打ち合わせが行われた[61]。20日早朝より艦隊は伊予灘に出動し艦載機を収容、9時30分に小沢提督は関係部隊に機動部隊本隊の行動予定を打電する[62]。豊後水道を通過時に連合艦隊よりX日が25日に変更されたことを知らされたが予定通り行動することにする。艦隊は21日より艦載機による偵察を開始、22日早朝には米潜水艦の襲撃を受けるが被害は無かった。

第二遊撃部隊の準備[編集]

台湾沖航空戦の残敵掃討に出動していた第二遊撃部隊は17日に奄美大島に入り補給を開始した。入港に先立ち志摩長官は捷1号作戦警戒発令と機動部隊本隊の作戦参加を知るが、第二遊撃部隊への今後の作戦行動については特に指示が無かった。そこで夜半に連合艦隊に対して第二遊撃部隊独自の作戦要領[63]を打電するが連合艦隊からの回答は得られなかった。翌18日に艦隊は当初の指示に従い馬公に向かうが、その途上で第十六戦隊の第二遊撃部隊への編入と機動部隊本隊から南西方面艦隊への所属替え、高雄で補給の上マニラへ進出するように命令を受ける[64]。艦隊は直ちに高雄に進路をとるが、夕刻には南西方面艦隊より馬公に待機するよう指示が出て再度馬公に向かう。以後第二遊撃部隊の使い方に関して連合艦隊と南西方面艦隊とで異なった指令が飛び交い、同隊を混乱させた。馬公で補給の上、20日に内地を出撃する機動部隊本隊へ復帰するべきであるという意見が艦隊内でもでた。しかし20日8時30分に馬公入港直後に連合艦隊から「第二遊撃部隊は南西方面艦隊指揮下に置き海上機動反撃作戦を決行」の命令を受け、機動部隊本隊復帰はご破算となる[65]

馬公入港後も第二遊撃部隊をどう使用するかについて中々決定をみず、その間に第二航空艦隊から駆逐艦3隻の高雄派遣の要請を受け、第21駆逐隊〈初春、若葉、初霜〉を割くことになる(同駆逐隊は要請を済ませ、本隊に合流すべく行動中の24日に米軍機の攻撃を受け若葉が撃沈される)[66]。結局第二遊撃部隊がレイテ湾に突入することが決まったのは21日午後となった。南西方面艦隊から23日までにマニラ進出を命じられた志摩提督は16時に馬公を出港するが、この時点で第二遊撃部隊は第一遊撃部隊の行動予定の詳細は知らされていなかった。21日夜半にようやく通報を受けるがマニラによっていたら時間の余裕があまり無いことが判明し、行き先を油槽船日榮丸が居る筈のコロン湾に変更する[67]。同隊は23日18時にコロン湾に入るが期待の油槽船の姿は無く、やむなく重巡から駆逐艦に燃料が分配される[68]

第二遊撃部隊は予定通り24日2時にコロン湾を出撃した。

基地航空隊の行動[編集]

19日、第一航空艦隊司令長官に内定していた大西瀧治郎中将が着任し寺岡中将と交代する。同日米艦隊がレイテ湾に現れたことを受け、13時30分にクラーク基地を出撃した彗星1、爆装零戦4の攻撃隊がレイテ方面の敵艦隊を攻撃し、陸軍航空隊も反撃を開始、護衛空母サンガモン他1隻が損傷している。20日も攻撃を続け軽巡ホノルルが被弾している。21日には神風特別攻撃隊(後述)が初出撃するも未帰還機1機を出して敵情を得なかった[69]。 22日、23日は攻撃作戦は実施しなかった。

10月23日 パラワン水道の悲劇[編集]

第四戦隊の壊滅[編集]

10月22日、第一遊撃部隊第一部隊・第二部隊が補給を完了し8時にブルネイを出撃。期日に余裕が無いため、危険が予想されたパラワン水道のを通過するコースを取る[70]。少し遅れて日本軍第一遊撃部隊第三部隊(戦艦2隻基幹、通称西村艦隊)が15時30分にブルネイを出撃。スリガオ海峡を通過するコースを取る。7時47分、ニミッツはハルゼーに対し、小沢機動部隊が10月20日に日本を出航したことを連絡する[71]。深夜、潜水艦シードラゴン(USS Seadragon, SS-194)が空母に魚雷命中を主張し、第38任務部隊に報告する[72][73]。同じく潜水艦シャーク(USS Shark, SS-314) が7隻の艦隊発見をハルゼーに報告[73]。潜水艦アイスフィッシュ(USS Icefish, SS-367)が前日9時30分に重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻発見を報告[74]。実際には、この艦隊は10月20日にマニラを出航し、高雄市に向かっていた輸送船団だった。

出撃した第一遊撃部隊は18ノットに増速し対潜哨戒を厳にした。14時31分に能代が、15時35分には高雄、17時35には愛宕がそれぞれ潜水艦発見を報じたが流木の誤認だった。17時52分には対潜哨戒中の九六式陸上攻撃機から敵潜水艦発見の報を受けている[75]

10月23日、0時パラワン水道の入り口に達する。この直前に大和田通信隊より敵潜水艦の緊急通信を探知した旨の報告があり、司令部は全艦に通報、対潜警戒を一層厳重にする[76]。1時16分パラワン水道を航行中の栗田艦隊を第7艦隊所属の潜水艦ダーター (USS Darter, SS-227) とデイス (USS Dace, SS-247)がレーダーで発見した[77]。両艦はちょうど会合中であった。2隻はこれを報告すると共に艦隊に接近を開始する。

6時32分、ダーターは栗田艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕に対し艦首発射管から魚雷6本を発射[78]、それから急旋回して重巡洋艦高雄に対し艦尾発射管から魚雷4本を発射した[79]。この時愛宕は総員配置につきながら早朝訓練を実施していた。乙字運動後の定針直後の6時33分、艦首に1発、続けて中央に2発、遅れて後部に1発の魚雷計4本が命中する[80]。ダーターの攻撃ポイントが愛宕に非常に近く愛宕乗員は誰一人として潜望鏡も雷跡も発見報告できなかった。(左舷高角砲指揮官と見張り員の一部が魚雷発射の気泡のようなものを至近で発見していたが報告のいとまもなく魚雷を受けた)。艦長の荒木伝大佐は被雷後直ちに左舷注水区画などへの注水を命じるが傾斜を停めることはできず機関も停止。栗田は旗艦変更を決断。駆逐艦岸波朝霜が駆けつけてくるが愛宕の傾斜は23度を超えており横付けは不可能だった。仕方なく栗田ら司令部要員は海に飛び込み泳いで岸波に移乗した[81]。この際小柳参謀長が右上腿部を負傷した。愛宕の傾斜はなおも止まらず54度に達した。荒木艦長は艦の復旧は不可能と判断し総員退艦を指示。6時53分に愛宕は沈没した。機関長以下360名が戦死し、艦長以下492名が朝霜に、221名が岸波に救助された[82]

愛宕の被雷後、後続していた高雄は直ちに取舵を行う。愛宕に命中しなかった魚雷2本が掠める。しかし6時34分、艦橋下右舷と後部右舷に魚雷2本が命中した。主機械が停止し航行不能となったが火災は発生せず、左舷に注水が行われ傾斜も復元した。罐室などに浸水はあったが食い止める事に成功するが舵などが故障し動けなくなる。駆逐艦長波が近づき周囲を警戒する。この被雷により高雄では33名が戦死し31名が負傷した(後に朝霜も合流する)[83]

旗艦愛宕と高雄の被雷を確認した第一戦隊司令の宇垣纏少将は次席指揮官であることもあり直ちに全艦に一斉回頭を命じ当方への回避を命じた。敵潜水艦がいるこの海域からの離脱のためだったが過度の避退も危険と判断し、6時51分基準針路に戻り乙字運動を再開する。ところが其の直後の6時57分、今度は重巡洋艦摩耶に潜水艦デイスの放った魚雷4本が命中する。

摩耶では被雷前に水測員が右舷後方に怪しい音源があるという報告を受け、右舷側に警戒の目がいっていた。ところが左舷側より接近する魚雷を発見。艦長の大江賢治大佐は転舵を指示、航海長の独断で取舵一杯が行われるが転舵の効果が出る前に魚雷が次々と命中した。艦はたちまち左舷に傾斜し副長が防水を下令したが手を尽くすまもなく被雷から8分後の7時5分に沈没した[84]。(沈没は7時8分ともいわれる)[82]。艦長以下336名が戦死。短時間での沈没であったが副長以下769名もの乗員がかけつけた駆逐艦秋霜に救助されている。

摩耶被雷を受け第一部隊の陣形は大きく乱れる。また後続する第二部隊(第三戦隊司令鈴木義尾貴下)がこの海域にさしかかる。7時に将旗を岸波に掲げた栗田中将は大和に通信の代行を指示[85]、また第四戦隊で唯一健在の鳥海の第五戦隊への編入を命じる。8時30分には旗艦を予備の旗艦に指定してあった戦艦大和に移すことを指示するが、敵潜水艦発見の誤報が各艦から相次ぎ司令部が大和に移乗するのは16時23分となった[86]。旗艦移乗後、艦隊はレイテ湾に向かって進撃を再開、大和戦闘艦橋には、右側に栗田を中心とする艦隊司令部が、左側に宇垣の第一戦隊司令部が陣取り、異様な空気が漂ったという[87]

愛宕(摩耶)生存者の大部分は大和(武蔵)に収容されたが、愛宕水雷長は第七戦隊利根水雷長となり、25日のサマール沖海戦に参加することになる[88]。21時40分、高雄は応急修理の結果自力航行可能となり、駆逐艦朝霜、長波、救援要請を受けて駆けつけた南西方面艦隊所属の水雷艇鵯に護衛されてブルネイに向け避退を始めた。

その他の部隊の行動[編集]

機動部隊本隊は予定される24日未明第一次攻撃隊発進に向け予定地点へ進撃していた。14時にはパラワン水道での経緯の無電が入り栗田提督が旗艦を大和に変更し作戦を続行中である事も知らされた。

午前4時、第十六戦隊の重巡洋艦青葉が米潜水艦ブリーム (USS Bream, SS-243) の魚雷攻撃を受け青葉は航行不能となった[89]。鬼怒は青葉を曳航し、駆逐艦の浦風と共に退避し22時45分にマニラ湾に到着した[89]。この小部隊は、旗艦を鬼怒に変更した[89]

キンケイドはこの報告を受け取り当初は大規模な東京急行の前兆と誤断していた[90]。ハルゼーは日本軍が第一次ソロモン海戦の再現を狙っていると見抜き、第38任務部隊第3群(シャーマン少将)をルソン島東方140km、第2群(ボーガン少将)をサンベルナルジノ海峡、第4群(デヴィソン少将)をスリガオ海峡に配置した[91]。第1群は補給のためにウルシーへ向かった[92]

10月24日午前2時、西村艦隊の最上の水上偵察機が索敵のため夜間発艦。6時50分にレイテ湾上空に到達し、同海域のの偵察に成功。湾内の敵戦力についてブーラン基地を経由して打電。12時には西村艦隊上空に戻り報告球を投下。その後、同機はサンホセ基地に向かった。レイテ沖海戦を通じ、レイテ湾内の状況の偵察に成功したのはこの最上搭載機だけである。この報告は全艦隊に送信され、日本軍にとっての貴重な情報になった。

午前2時15分、ギターロ (USS Guitarro, SS-363)、アングラー (USS Angler, SS-240)の2隻の潜水艦が栗田艦隊を発見し、艦艇15隻ないし20隻を報告する[93]

午前7時、第十六戦隊が陸軍兵と物資を乗せ、コロン湾を出撃。レイテ湾へ向かうが、直後に空襲を受けた[89]。アメリカ軍機約100機と交戦したが損害はなく、ミンダナオ島に向かった[94]

第四戦隊を壊滅させた潜水艦のダーターは退避する高雄を追跡中に座礁し[95]、自沈処分となる。ダーターの乗組員はデイスに移乗し、デイスはオーストラリアへと撤退した。

米艦載機の第一遊撃部隊への空襲が始まる少し前、第七戦隊重巡洋艦部隊各艦から計6機の水上偵察機が発進した[96]。鈴谷1号機のみ索敵に向い、残る機はサンホセ基地に退避した。

10月24日 シブヤン海海戦[編集]

攻撃を受けている戦艦武蔵、奥は護衛に付けられた駆逐艦の清霜
シブヤン海海戦時の武藏(手前)と重巡洋艦利根(奥)(10月24日15時過ぎ)

7時2分、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡東方の敵機動部隊の索敵を発令、金剛、榛名、鳥海、鈴谷、能代から各1機、矢矧から2機の計7機の索敵機を出す。そのうち金剛の偵察機が9時40分と12時10分に敵艦隊(第2群の一部)を発見し報告、矢矧の偵察機も11時に敵艦隊を発見(第1群)している[97]

シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は24日8時10分、旗艦大和の見張り員が敵偵察機を発見。米軍に見つかった事をしる[98]。この機はアメリカ軍第38任務部隊索敵隊(カボット、イントレピッド)の機で、同乗のモート・エスリック中佐は8時20分、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する[99]。この時第38任務部隊は第2群(ボーガン少将指揮、空母5隻基幹)がサンベルナルジノ海峡付近に、第3群(シャーマン少将指揮、空母4隻基幹)がルソン島の東に、第4群(デーヴィソン少将指揮、空母4隻基幹)がレイテ島付近にいた。また、第1群(マケイン中将指揮、空母4隻基幹)は補給中だった。ハルゼー大将は第2、3、4群の3個群を以って栗田艦隊に対し攻撃を開始することを決める。

栗田艦隊側は敵の通信を妨害するため武蔵が電波妨害を実施、米機もこれに対応して使用電波を変更するなどして対抗する[100]

第一次対空戦闘[編集]

10時8分、能代の電探が米攻撃隊を探知。その後も他艦艇の電探が相次いで米攻撃隊を探知する。栗田長官は直ちに24ノットへの増速を指示する[101]

10時26分、第2群の空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11)、カボット (USS Cabot, CV-28) からの第1次攻撃隊45機(戦闘機21、爆撃機12、雷撃機9、誘導機ビル・エリス中佐)[102]が攻撃を開始する。栗田艦隊側も旗艦大和が発砲し、各艦続いて砲火を開いた。米軍機は猛烈な砲火をものともせず第一部隊の輪形陣中央の大和武蔵長門妙高を攻撃した[103]

武蔵には10時29分ごろに急降下爆撃を受け推定60㌔の爆弾が一番砲塔天蓋に命中。しかし爆弾は跳ね返され空中で爆発。他にも前部艦首付近と中央両舷に各1発が至近弾となり漏水を発生させる。続いて魚雷3本が接近し1本が命中。浸水自体は大したものではなく速力も落ちなかったが、この際の衝撃で主砲の前部方位盤が故障し旋回不能となり、砲撃に支障をきたすことになる[104]

10時29分、妙高に対して3機が雷撃を実施、2本は回避したが1本が右舷後部に命中[105]。後部発電機室、右舷機械室などが満水となり6分後には傾斜が12.5度となり速力も徐々に低下。10時40分には速度18ノット低下し、乗艦していた橋本信太郎第五戦隊司令は旗艦を羽黒に変更する決断し、11時38分に移乗する[106][107]。戦場を離脱[105]。妙高は単独で列を離れ後退を開始。乗員の必死の応急処置で傾斜も6度ほどにまで回復する。栗田長官は高雄の護衛についていた駆逐艦長波を分離させ、妙高の護衛に向かうよう指示する。

第一次攻撃隊撤収後、栗田艦隊は米潜水艦を発見し一斉回頭を何度かおこなったが、すべて流木の誤認であった[108]。駆逐艦が爆雷攻撃をおこなったことも記録されている[109][110][111]。第七戦隊では、シブヤン海に米潜水艦1隻乃至2隻が存在していると考えていた[112]

第二次対空戦闘[編集]

11時56分、武蔵の電探が敵機を探知する。栗田長官は24ノットへの増速を指示、12時6分イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)[113]が攻撃を開始した。

今回も目標は栗田艦隊の第一部隊であり、その攻撃は大和と武蔵に集中した。米機の攻撃開始と同じくして長門が発砲を開始。激烈な対空戦闘が始まった[114]。 大和への攻撃は12時7分から15分ほどまで続き、雷撃は全て回避するも至近弾2発を受けた。

武蔵には米機16機が襲い掛かり、うち7機を撃墜するが雲を利用した艦首尾両方向からの爆撃により2発が命中し5発が至近弾。続いて左舷方向からの雷撃を受け3本が命中した[115]。この攻撃で武蔵の速度は22ノットに低下し左に5度傾斜、第二水圧機室が浸水するも右舷への注水により傾斜は1度まで復原した。2発の直撃弾のうち、左舷に命中した1発は中甲板まで貫通し炸裂。その火炎が第2機械室、第10・12罐室に侵入し設備を破壊した。第2機械室では蒸気管が一部破壊され蒸気が噴出、第2機械室は放棄され武蔵は3軸運転を余儀なくされる。以後武蔵は艦首をやや下げた状態で速力が低下し、艦隊から次第に落伍し始める[116]

第二次空襲は8分ほどで終わったが、その被害は武蔵に集中し損害は重大だった。栗田長官は12時25分に関係各隊に敵機襲来とその撃退を報告する。13時15分、武蔵艦長猪口敏平少将より今までの武蔵の損害が報告され、主隊と行動するには致命的損傷を受けたことを知る。しかし武蔵に対する決断を下すよりも早く、米機による第三次空襲が開始される[117]

第三次対空戦闘[編集]

12時54分、艦隊の先頭を行く駆逐艦島風の電探が敵飛行機と思われる物体を探知する。13時12分に大和見張り員が敵機を発見。3度にわたる米編隊の襲来に友軍の航空攻撃が奏功していないのではと懸念した栗田長官は13時15分に南西方面艦隊司令部と機動部隊本隊に対して督促の意味もこめて「敵艦上機我に雷爆撃を反覆しつつあり、貴隊触接さらに攻撃状況速報を得たし」と電報を打つ[118]。 13時19分、ミッチャー中将直率第3群の空母レキシントン (USS Lexington, CV-16)、エセックス (USS Essex, CV-9) からの攻撃隊83機[119]が攻撃を開始。部隊は二手に分かれて第一第二両部隊に殺到。13時23分、第二部隊第七戦隊が砲撃を開始し、13時31分には第一部隊も砲撃を開始する。

第二部隊への空襲は27分ほど行われ、13時28分に矢矧への急降下爆撃で至近弾が1発。これにより矢矧の艦首が満水となり水測室などが使用不能。速力も22ノットまで低下する[120]

第一部隊には約20分ほど空襲が行われ大和と武蔵が標的となる。大和には13時40分に急降下爆撃により1発が右舷前部に命中し火災が発生、更に1発が右舷に至近弾となる。しかし損害は軽微で火災も10分ほどで鎮火された。

武蔵の損害状況は第五次対空戦闘での艦橋への命中弾による航海科の壊滅により、この頃より記録が錯綜し他艦との記録との整合も合わない点が出ている。以後の武蔵の損害は戦史叢書での記録に拠る。武蔵への攻撃は13時50分までの間に2回行われ、第1波の13機は雷爆同時攻撃となる。急降下爆撃により3発が至近弾となり、2発が右舷と艦尾に命中、艦尾のジブクレーンの支柱を破壊した。雷撃は1本が右舷に命中し測程儀室などを破壊した[121]。武蔵側は来襲機13機のうち5機の撃墜を記録している。続く第2波約20機の攻撃は爆弾4発命中、魚雷4本命中と一度の攻撃では最大の被弾を蒙った。二波にわたる空襲で武蔵は合計9本の魚雷が命中し両舷の注水区画は満水となる。特に前部の浸水は甚だしく、艦首は水面近くまで沈み艦隊から急速に落伍し始めた[122]

第四次対空戦闘[編集]

栗田長官は武蔵の深刻な損害を鑑み、これを連れて進撃することを断念した。その間にも米艦載機の攻撃は続き、第三次空襲から間もない14時15分、第4群の空母フランクリン (USS Franklin, CV-13)からの第4次攻撃隊65機が来襲した[119]

この攻撃隊は落伍した武蔵は狙わず第一部隊の大和と長門を攻撃した。長門には14時26分に数機が襲い掛かり爆弾3発が至近弾となる。大和に対しては14時30分ごろより攻撃が始まり、爆弾1発が前甲板に命中する[123]。フランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)の報告では武蔵に最低爆弾4発、魚雷3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈を主張[124]。エンタープライズ攻撃隊(ダン・スミス中佐)は武蔵に爆弾と魚雷集中、利根に爆弾2発命中、駆逐艦2隻に爆弾命中を主している[124]

空襲は14時40分過ぎには終了する。栗田長官は武蔵のコロン回航を決断し14時50分に武蔵に指示、護衛に駆逐艦清霜をつける。14時52分に各隊にその旨を打電し敵の空襲がなお熾烈である事を知らせる[125]。また第七戦隊の重巡利根艦長黛治夫大佐より第二部隊指揮官(第三戦隊司令鈴木義尾少将)宛てに第二部隊全隊での武蔵護衛が具申されるが第二部隊指揮官からは利根単独での武蔵護衛が指示され単独で向かっている[126]

第五次対空戦闘[編集]

艦隊は第四次空襲の後も速力22ノットを維持していた。しかし空襲終了から僅か15分後、武蔵が接近する敵編隊を探知。14時59分、第2群の攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲する[124]。この攻撃は武蔵に集中し[127]たが他の艦艇にも一部攻撃が行われ損害が出ている。長門は15時20分に25機の急降下爆撃を受け2発が命中3発が至近弾となる。このため3軸運転となり速力は21ノットにまで低下する。駆逐艦藤波は15時15分ごろに前部砲塔右舷に損害を受けたことが羽黒の戦闘詳報に記載されている(藤波自体は27日に撃沈され総員戦死しており同艦自体の記録はない[128])。また駆逐艦浜風も至近弾1発を受けて速力が28ノットに低下している。武蔵を護衛する2隻のうち、利根は15時17分に至近弾2発、続いて直撃弾2発を受け、清霜は15時15分ごろに至近弾5発、命中弾1発を受けるが命中弾は小型爆弾だったため致命的損傷とはならなかった。

武蔵は艦隊から孤立していた事もあり最も激しい攻撃を受けた。敵機の大半である75機近くが武蔵を攻撃し、武蔵も16機撃墜(うち不確実10機)を報告している。損害は命中弾10発、至近弾6発、魚雷命中11本を数えるが、命中弾の最初の1発は防空指揮所右舷に命中し下の第一艦橋で炸裂、指揮所右舷を吹き飛ばし第一艦橋と作戦室を大破、火災を発生させた。指揮所にいた猪口艦長は右肩負傷ですんだが、同所にいた高射長(広瀬栄助少佐)、測的長(山田武男大尉)が戦死。第一艦橋では航海長(仮屋寛大佐)、作戦室では昨日救助された摩耶副長(永井貞三中佐)も戦死。下士官兵も含めると78名が死傷し一時防空指揮と操艦が不能になってしまう[129]。防空指揮所及び第一艦橋は使用不可能となり、猪口艦長は副長のいる第二艦橋へ移動、同所で指揮を執る。死亡した航海長の代理として通信長(三浦徳次郎中佐)が任命されている[130]

第五次空襲で武蔵は各部に深刻な損傷を受け、第4機械室は浸水し使用不能、2軸運転となり速力は6ノットに低下する。傾斜は左舷に6度まで回復するが前への傾斜は増大し前部喫水線の8m付近まで傾斜した[131]

一時反転[編集]

5度にわたる空襲で艦隊の中核である武蔵に大損害を蒙り、他の艦艇にも損害が続出したことで、栗田艦隊司令部には基地航空隊や機動部隊本隊の支援攻撃はどうなっているのか問題となった。両隊からの状況報告は中々届かず、第一報は機動部隊本隊より11時38分発(大和の受電は12時41分)の敵機動部隊に向けての攻撃隊発進の報だったがそれによる敵部隊への戦果の報告はなく、14時39分発(同受電は16時3分)の伊勢以下の前衛艦艇6隻の分離南下指示を受けただけだった。基地航空隊からのは15時30分着電で空母1隻に直撃弾、巡洋艦1隻を中破させた電報を受けたが敵空襲は激化しており、これら航空部隊の攻撃はまだ功を奏するには至っていないと判断せざるを得なかった[132]。栗田長官は一時的に反転して激化する敵の空襲をかわし、味方航空隊の更なる攻撃を待つことを決断、15時30分艦隊に対して一斉回頭を下令。16時には連合艦隊司令長官宛てに「1YB機密第241600番電[注釈 2]」を打電し、暗に連合艦隊司令部に作戦内容の変更を具申する[注釈 3]

反転した栗田艦隊は左に傾斜して停止する武蔵に接近。武蔵の状況を直接確認した宇垣第一戦隊司令は栗田に進言して護衛駆逐艦の増派を要請。栗田もこれを受け駆逐艦島風を新たに護衛につける。

再反転[編集]

栗田長官の意図に反し、ハルゼー機動部隊からの空襲は反転後から止まってしまう。ハルゼーは小沢艦隊の前衛を発見し、これを攻撃するために北上を開始。16時20分、栗田艦隊に張り付けていた偵察機も帰還させた。16時55分以後、友軍機らしき機影は大和をはじめ複数の艦艇が探知しているが敵機は一向に来る気配を見せなかった[133]。その後連合艦隊からの返電がないまま、17時14分(17時45分とする文献もあり)、栗田長官の意思により栗田艦隊は再反転しレイテ湾への進撃を再開する。

連合艦隊司令部では次々と入電する栗田艦隊からの情報により被害が続出していることを知り悲壮の感に打たれ憂色を覆うべくもなかった。機動部隊本隊や基地航空隊からもこれといった成果報告もなく、憂色の色を増していた。そうした状況下で苦戦する栗田艦隊他参加各部隊に連合艦隊司令長官の意思が不動のものであることを明確に表明しておく必要があると判断され、18時13分に上記の「天佑を信じ全軍突撃せよ」の電令を発した[134]。一方栗田長官の一時反転の電報は遅達して着電は18時55分前後であった。栗田のこの意見具申に対して、連合艦隊の一部参謀にも作戦を一時中止したほうが良いという意見がでていた[135]。しかし高田利種参謀副長の強硬論に豊田司令長官も同意し現計画通り作戦を継続する事が再確認され、19時55分に「GF機密電第241955電、連合艦隊電令作第372号の通り突撃」、更に参謀長名義で栗田長官の意見具申に対する回答文を別電「GF機密電第241600電」で通知した[136]。 結果として連合艦隊司令部は栗田艦隊が反転否認を意味する電文により進撃を再開したと考えた。

一方栗田艦隊では突入を再開して1時間半も経過した18時55分に「全軍突撃せよ」の電を受電したが再突入を開始した無電をすぐには打たなかった。敵の無線傍受により再反転したことをすぐに知らせないための措置であった[137]が、連合艦隊司令部などに少なからず混乱を与えた。栗田艦隊が明確に再突入を開始したことを他隊へ知らせる内容の電報を打つのは19時39分にサンホセ基地に派遣していた自隊の水上観測機指揮官へ宛てた「第一遊撃部隊進撃中「レガスピー」東方及び「レイテ湾」総合敵情報告せよ」の無電が最初である[138]

武蔵沈没[編集]

栗田艦隊が再反転しレイテ湾に向かう頃、停止する武蔵では乗員の必死の応急処置も空しく浸水を止めれず、傾斜も徐々に増大していた。18時20分、栗田長官は損傷した駆逐艦浜風と武蔵を護衛する無傷の駆逐艦島風を交代する様に指示。この時点で島風には武蔵に乗艦していた摩耶の生存者を移乗させており、それらを乗せたまま島風は戦列に復帰する。それを見た重巡利根でも18時30分に第二部隊指揮官と第七戦隊司令宛に戦列復帰の懇請が届く。栗田はこれを許可し第七戦隊へ利根の戦列復帰を命じる[139]

19時15分、傾斜は12度を超え、もはや沈没必至と判断した猪口艦長は副長(加藤憲吉大佐)に総員退去用意を指示、副長に遺言をしたためた手帳とシャープペンシルを手渡し第二艦橋に残り艦と運命を共にした。副長は後甲板に乗員を集結させ別れの挨拶をし、軍艦旗を降ろす。この頃には傾斜が30度にも達し19時30分に総員退艦、19時35分武蔵は終に沈没した。護衛の駆逐艦2隻のうち、清霜は武蔵に横付けしようと接近を試みるが果たせぬうちに武蔵は沈没。乗員の救助を直ちに行い、清霜は約500名、浜風は約830名を救助する[140]。しかし2隻は救助後の行動について指示を得ておらず、20時10分に武蔵沈没と乗員救助中の旨を打電、これにより武蔵の沈没を知った栗田長官は21時38分に乗員救助後にコロンに向かうよう指示。しかしその電報が2隻に届くのは翌7時35分となり、2隻は結局乗員救助後は独断でコロンに向かった[141]

10月24日 日本側航空隊の攻撃[編集]

第六基地航空部隊の攻撃[編集]

基地航空部隊の攻撃は23日は悪天候で敵を発見できず、栗田艦隊突入の2日前に敵空母部隊を攻撃するという当初の予定は初日から失敗に終わった。福留繁第六基地航空部隊指揮官は航空部隊の総攻撃の予定日であるY日(10月24日)に期待を寄せ、23日夜よりマニラ東方の海域に3機の夜間偵察機を偵察に向かわせる。そのうちの1機(香田四郎飛曹長指揮の九七式飛行艇)が0時50分発で電探により「レラ二シ」に大部隊を探知したと報告し消息を絶った。同機が発見したのはシャーマン少将の第三群で、空母イントレピットの記録に2時27分に夜間戦闘機が日本機を撃墜したと記録されている[142]

福留長官はこの報告を受けて夜間戦闘機月光及び陸上爆撃機銀河からなる2段索敵隊を発進させると共に、653空の天山8機と水上爆撃機瑞雲を黎明前攻撃に出撃させる。更に6時30分より主力の第一攻撃集団(零戦105機、爆装零戦6機、紫電21機、九九艦爆38機)と単機奇襲攻撃任務を帯びた彗星12機を出撃させた[143]

索敵隊は6時以降、相次いで敵艦隊の発見を報じた。8時35分には最初の空母発見の報告があり、9時にはもう1つの空母部隊発見の報が届いた。これらは全てシャーマン少将の第三群であった。 しかしその頃、進撃中の第一攻撃集団に米戦闘機群が襲いかかっていた。小林寛少佐率いる制空隊(零戦26機)と、鴛淵孝大尉指揮の掩護隊(零戦51機)に敵戦闘機各50機が攻撃を仕掛け空中戦となり、制空隊は7機撃墜を報じたが小林少佐以下11機が未帰還。掩護隊も11機撃墜を報じたが4機を失った[144]。攻撃の主力である江間保少佐指揮の九九艦爆隊も約100機の敵機と遭遇、進撃を阻まれた[145]

不調に終わった第一攻撃集団にかわって一矢報いたのが彗星12機からなる奇襲攻撃部隊であった。同隊は単機毎に発進し、その一部がシャーマン隊の上空まで到達。雲の上で旋回し、雲に隠れたりしながら機を窺っていた彗星1機が9時38分、軽空母プリンストンに対して急降下爆撃を仕掛ける。同機は直後に撃墜されるが爆弾は飛行甲板中部に命中、格納庫内の艦攻1機を突き抜けて中甲板で炸裂。たちまち大火災が発生させた。10時ごろには各所で爆発も起こり手がつけられなくなる。護衛の艦艇からの支援を受けながら復旧を続けていたが15時23分、終に大爆発を起こし艦尾の大部分と飛行甲板後半分を吹き飛ばし、救援の為に近づいていた軽巡バーミンガムを巻き込み、同艦の乗員229名を即死させ420名を負傷させる。結局プリンストンは18時に味方駆逐艦によって処分されることになる[146]。彗星隊は5機が未帰還となった。

福留長官は攻撃隊が出撃するや直ちに第二次攻撃隊の準備を各基地に命じるが状況は皆目判らなかった。13時50分には昼までに帰還した第一攻撃集団主力から九九艦爆25機と零戦22機が再度敵機動部隊攻撃に向かうが悪天候に悩まされ進撃して80海里進んだだけで攻撃を断念するしかなかった[147]

このように栗田艦隊の進撃を支援する為に米機動部隊に繰り返し攻撃を仕掛けた基地航空部隊であったが、発見していたシャーマン少将の第3群をハルゼー機動部隊の全軍だと思い込み、それに攻撃を集中したので、残りの1.2群は何の抵抗も受けずに栗田艦隊を攻撃することができた。福留長官が栗田艦隊に攻撃を加えている機動部隊が他にいることに気づいたのは15時ごろに司令部に届いた9時45分発、12時7分に中継された『0945敵大部隊、空母3隻戦艦3隻 地点「ヌロ三ス」針路90度速力22ノット 1207』の無電であった[148]。この敵はハルゼーが直接率いているボーガン少将の第2群で栗田艦隊の真正面に位置して日本側の妨害を受けることなく同艦隊を攻撃し続けていた。6時間も遅れて届いた敵情報に色めきたった司令部は直ちに索敵機を出撃させるように指示するが準備に手間取り飛行艇3機が出撃したのは夜半となった。福留長官は夜間攻撃を準備すると共に基地航空隊の状況報告を求めていた栗田艦隊に対してその旨を伝えるが、既に栗田艦隊は5度にわたる空襲を受けて一時反転した後だった[149]

16時15分より薄暮、夜間攻撃の天山艦攻9機が出撃する。また一式陸上攻撃機12機と銀河8機も発進する。一式陸攻隊は敵を発見できずに帰投。銀河隊(指揮官:壱岐春記少佐)8機は敵機の奇襲を受け指揮官機以外は撃墜され、指揮官機も不時着する[150]。結局夜間攻撃は成果を挙げれず、基地航空隊の奮闘は翌日に持ちこされた

機動部隊本隊の攻撃[編集]

小沢長官率いる機動部隊本隊は6時には予定地点に到達。計画に従い偵察機10機(瑞鶴7機、瑞鳳2機、大淀から1機)を出撃させた。8時45分には追加で瑞鶴機1機を出撃させるがこの瑞鶴機が11時15分、待望の敵機動部隊発見の報告をする[151]。小沢長官はこの部隊を攻撃することにし、11時38分に連合艦隊司令部他関係各部隊に敵機動部隊攻撃を伝達する。

11時58分、機動部隊本隊の各空母から攻撃隊が出撃する。しかしエンジンの不調などにより出撃取り消しや、出撃後引き換えした機が続出し、瑞鶴隊は24機(零戦10、爆装零戦11、天山1、彗星2)、瑞鳳、千歳、千代田の隊は33機(零戦20、爆装零戦9、天山4)が出撃し、2隊に分かれて進撃した。瑞鳳らの隊は敵戦闘機約20機と遭遇し交戦、8機を撃墜するが敵艦隊を見つけることが出来ずに周辺の飛行場に帰還。天山2機、爆装零戦1機、零戦6機が未帰還となった[152]

瑞鶴隊も相前後して米機の迎撃を受ける。それでも攻撃隊は13時50分に敵艦隊を発見、それはシャーマン少将の第三群で攻撃隊は空母1隻轟沈、1隻沈没を報じたが、実際は沈没した艦はなかった。攻撃隊は天山1機、爆装零戦5機、零戦2機を失い友軍飛行場に退避した[153]

機動部隊本隊は攻撃隊出撃後の12時24分、索敵機を収容したが14時を過ぎても敵からの空襲の兆候がなく、攻撃隊からの結果報告もなかった。瑞鳳らの隊の機で数機が母艦に帰還したが敵を発見しておらず戦果は不明だった。

その一方、12時頃より栗田艦隊より敵機動部隊からの空襲で損害を蒙り被害が増大している状況が報じられ、機動部隊本隊の敵機動部隊に対する牽制は成功していないことが明白となった[154]。そこで小沢長官は艦隊を二分し前衛部隊を更に南下させる事を決定する。

栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡強行突破を危惧したハルゼー大将は、第38任務部隊の3個群から高速戦艦(6隻中5隻)を中核とする水上砲撃部隊を引き抜いてリー中将指揮の第34任務部隊が編成予定であることを全軍に知らせて栗田艦隊迎撃の準備を進めていたが、栗田艦隊が反転したことで、これを作戦不能なほど損害を与えたと判断し、戦果報告と栗田艦隊が壊滅して撤退していることを司令部に報告した。15時40分、第3群の索敵機が小沢艦隊を発見、16時40分に「空母4隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻」と報告[155]。また第3群は「ルソン島東方288kmに空母3隻、巡洋艦4-6隻、駆逐艦6隻、空母の1隻は伊勢級」と発信している[156]。 報を受けたハルゼーはこれを日本軍の主力と判断、栗田艦隊への攻撃を中止し小沢機動部隊攻撃を決断する。しして別行動中の第34任務部隊第1群(マケイン少将指揮)を除く3個群を全て率いて北上を開始した。

16時41分、瑞鶴は突如米機を発見、砲撃するも逃げられる。敵に発見されたと判断した小沢長官は直掩機をだすがまもなくに日没であり、18時8分には全機収容する[157]。この際着艦に失敗した零戦1機が洋上に転落、更に搭乗員を救助しようと飛行甲板の誘導員1名も海に飛び込んだ。瑞鶴は直ちに駆逐艦に救助を指示、が救助に向かう。2隻は日没後に該当海域に到達し漂流者2名を奇跡的に発見し誘導員を救出(搭乗員は人事不肖で死亡が確認された)、部隊への合流を図る[158]


19時00分、連合艦隊司令部より「天佑を信じ全軍突撃せよ」の無電を傍受する。ところが20時には栗田長官が16時に出した一時反転を報じる16時発の機密電を受信する。このままでは敵中に孤立すると考えた小沢長官は艦隊を一時反転北上させることに決め、前進させていた前衛部隊にも北上を命じた[159]

主隊と合流を目指す駆逐艦杉、桐は中々合流することが出来ず、針路を西に変えて航行していると23時ごろ前方に艦隊を発見する。主隊だと思った2隻はこれに合流するが直後にこれが米艦隊であることに気づく、桐艦長川畑誠少佐は杉と共に反転し退避、難を逃れている[160]。2隻はそのまま主隊に合流することなく高雄へ帰投、その間米機2機の攻撃を受け桐が被弾している。

栗田艦隊は、17時15分に再度反転していたが、ハルゼー大将は仮に再び栗田艦隊の残存艦(全艦損傷と報告されていた)がサンベルナルジノ海峡に迫ってもキンゲイトの第7艦隊で対処できると判断していたため[161]、栗田艦隊反転の知らせがきても集結と北上を続けていた。その後、軽空母インディペンデンスの夜間索敵機が栗田艦隊が12ノットで東進している事を報告し、さらに「ここ数日点灯していなかったサンベルナルジノ海峡の灯台が、今に限ってなぜか点灯している」と決定的な報告をもたらしたが、いずれの報告もハルゼー大将の関心外であった。こうして、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡で待ち伏せに合うことなく通過し、レイテ湾を目指してサマール島東岸を南下した。

10月25日未明 スリガオ海峡海戦[編集]

スリガオ海峡海戦(赤:日本軍、黒:アメリカ軍)

米軍機の空襲[編集]

10月22日、主隊に遅れること8時間半が経過した15時30分に第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊)はブルネイを出撃した。第三部隊の任務は24日日没時にミンダナオ海西口に進出し、25日黎明時に栗田艦隊と策応してレイテ湾に突入するというものであった[注釈 4][162]スールー海に入りスリガオ海峡へ向かった艦隊は24日2時、レイテ湾内偵察のため重巡最上の水偵1機を発進させる。同機は6時50分に湾上空に達し戦艦4隻輸送船80隻を含む艦隊を発見し報告する。

8時55分、艦隊は小型機が触接しているのを発見する。来襲機はその後数を増し20数機に及んだ。来襲機は第38任務部隊第4群索敵隊で9時40分頃、空母エンタープライズとフランクリン所属機約20機が攻撃を開始する[163]。この攻撃で扶桑の艦尾に命中弾を受け搭載水偵2機が炎上、時雨も1番砲塔に直撃弾を受け、最上は敵機の機銃掃射で死傷者をだした。空襲は5分ほどで終わったが引き続き空襲があると考えた西村司令は9時50分に最上搭載の水偵2機をサンホセ基地に避難させるべく急遽発進させた[164]。しかし予想に反して敵機の空襲もなく艦隊は何事もなく進撃を続けた。栗田艦隊発見の報を受けたハルゼーが機動部隊第4群を北方に移動させ、西村艦隊にはキンケードの第7艦隊に対処させることを決定したからである[165]。11時5分、空襲を受けたことを栗田艦隊に報告。さらに西村祥治提督は麾下の艦艇に「皇国ノ興廃ハ本決戦ニ在リ。各員一層奮励皇恩ノ無窮ニ報イ奉ランコトヲ期セ」と信号を送った。

14時にスルー海東端に到達。栗田艦隊が米軍の空襲に晒されている事を知った西村司令は第三部隊が順調に進撃していることを14時10分に現状報告を打電(14時47分栗田艦隊に着電)。この頃は、シブヤン海海戦の真っ只中であり、栗田艦隊から西村艦隊に対して指示応答は特になかった[166]

最上機の偵察で敵魚雷艇が集結している事を知った西村司令は現状報告の打電と同時に最上と第四駆逐隊の満潮朝雲山雲に日没次第先行して敵魚雷艇の掃討するように命令する。19時、命令に従い最上以下掃討隊が先行を開始、本隊(山城、扶桑、時雨)はボボール島沿いにミンダナオ海を進撃した[167]

単独突入を決意[編集]

栗田艦隊と西村艦隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊が一時反転したことにより予定より遅れたことにより、同時に突入してアメリカ軍の邀撃戦力を分散するという計画は崩れた。15時30分、栗田艦隊は一時反転を知らせる電文「1YB機密第241600」を関係各部隊に送っている。連合艦隊や小沢艦隊には着電の記録はあるが西村艦隊側の重巡最上、駆逐艦時雨の戦闘詳報には記載は無い[注釈 5][168]。19時00分、連合艦隊司令長官より全軍突撃の電信が西村艦隊各艦に届く。この状況下で、連合艦隊司令部も栗田艦隊も時間調整の指示は一切していない。西村祥治中将は『帝國海軍のお家芸』とされていた夜戦を企図し、西村艦隊単独でのレイテ湾突入を決断、20時13分付発信の電文にて、25日4時にドラグ沖突入の予定と栗田艦隊に通信を送った(栗田艦隊には20時20分に着電)[169]

ブルネイでの当初の計画では25日5時半にスリガオ海峡の南口に到着する予定であったため、これは4時間も突入時刻を繰上げていることになる。しかし、この通信に対し、栗田艦隊は21時45分「予定通りレイテ泊地に突入後、25日0900スルアン島北東10浬付近において主力と合同」と返信し単独突入を容認した[注釈 6]。連合艦隊司令部からの返信はなかった。大和(第一戦隊)は第五艦隊電文(22時45分受信)として「第二遊撃部隊は0300スリガオ水道南口通過速力26ノットで突入予定」を記録している[170]。後述のように栗田、西村両艦隊の攻撃は計画とは違い調整を欠いたものとなったが、その原因は栗田艦隊側の遅延ばかりでなく、西村艦隊側の繰上げにもよっている。これは、栗田艦隊からの時間調整の指示が無かった事と連合艦隊司令長官からの全軍突撃の電信を傍受した事に加え、米軍の制海権、制空権の下で米魚雷艇の襲撃がいつ始まるか分からない状況で、空襲が始まる夜明けまでのんびりと後続の味方艦隊の到着を待っている余裕など西村艦隊には無かった為である。西村艦隊の現在位置を知らせる電文に栗田艦隊が時間調整の指示を出さなかったことに加え、栗田艦隊の反転電文が西村艦隊に届いていなかったことにより、西村中将は、栗田艦隊の進撃が空襲で多少遅れたとしても時間的に大きな遅れは出ていないと判断した可能性はある。これにより志摩艦隊とは最期まで共同行動はおろか、共戦的な行動すらとることはなかった。25日午前1時、西村艦隊は「0130スリガオ海峡南口通過レイテ湾に突入、魚雷艇数隻を見たる外敵情不明」と発信し、栗田艦隊も午前2時に受信した[171]

一方、アメリカ軍第7艦隊司令長官のキンケイド中将は西村艦隊の接近を察知し、24日12時15分に指揮下の全艦艇に夜戦準備を命令。14時43分にオルデンドルフ少将指揮の戦艦部隊を迎撃に投入した。オルデンドルフ少将は西村艦隊のルート上、レイテ湾南方のスリガオ海峡で待ち伏せを行うことにした[172]。その戦力は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻と大きなものであった。マッカーサーは軽巡ナッシュビルで観戦することを望み輸送船への移乗を拒んだが、ナッシュビルごと安全な海域に無理矢理移動させられた。

スリガオ海峡突入[編集]

24日22時36分、索敵中の米魚雷艇PT131が西村艦隊と接触、僚艇とともに交戦に突入する。22時52分、突然時雨が右艦首方向に敵魚雷艇を発見。時雨艦長西野繁中佐は直ちに星弾を放ち魚雷艇が2000mまで近づいているのを認め砲撃を開始する[173]。山城と扶桑も回避行動を取りつつ砲撃を浴びせ、追い払うことに成功する。前方を行く掃討隊は25日0時12分に魚雷艇4隻を発見。双方攻撃を開始するが共に命中弾はなかった。スコールなどで天候が悪く、視界も良くないことを受け、最上艦長藤間良大佐は西村司令に反転して本隊に合流することを連絡、反転を開始した[174]

その頃第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)は西村艦隊に後続して進撃していた。艦隊は23日にコロン湾に入港して補給を済ませ、24日2時に同港を出撃しレイテ湾に向かっていた[175]。志摩長官は栗田艦隊の苦戦の情報は得ていたが西村艦隊が空襲を受けたなどの情報は得ていなかった。そのため長官は西村艦隊共々スリガオ海峡から突入する部隊はまだ敵に発見されていないと判断していた[176]。なお作戦前に志摩艦隊と別行動をとった第21駆逐隊(若葉初春初霜、隊司令石井汞大佐)は艦隊との合流を目指していたが、敵編隊約20機に捕捉され7時55分より攻撃を受ける。8時13分、司令駆逐艦若葉が直撃弾1、至近弾1を受け航行不能。8時45分に沈没した。石井司令、二ノ方兼文艦長以下生存者は救助されるが11時52分にも空襲を受け初霜が1発被弾する[177]。健全な艦が1隻しかなくなったことを受け、石井司令はマニラに回航して修理することを決意し北上、艦隊との合流を断念した。

志摩長官は苦戦する栗田艦隊との策応を考えるよりも先行する西村艦隊と歩調を合わせる方が良いと判断。17時45分突入予定を繰り上げる旨を発信するが、程なく栗田艦隊の機密第241600番電を受電し、艦隊が反転したことを知る。それでも西村艦隊は予定通り動いているようだった事もあり、志摩長官は予定行動を変更しなかった[178]

25日1時30分、西村艦隊本隊は掃討隊と合流する。1時48分には速力を20ノットに増速し、北上突入の態勢に入った。それからまもなくして駆逐艦満潮が敵魚雷艇を発見し、各艦が攻撃を開始。損害を受けずにこれを撃退した[179]。2時53分、時雨が駆逐艦3隻以上が接近してくるのを発見、3時9分に艦隊は右前方の駆逐艦へ照射射撃を開始する。これは第54駆逐連隊の指揮官カワード大佐が指揮する3隻(リメイマクゴワンメルビン)で、魚雷発射を終えて退避行動に移っていた頃だった[180]。日本側は米駆逐艦が魚雷を放った事に気づかず、退避行動をせずに直進を続けた。3時10分、最後尾の最上は接近する魚雷を発見し緊急回避する。しかしその前を進撃していた扶桑は魚雷に気づかず右舷中央に被雷する[181]。扶桑は忽ち右舷に傾斜し速力も低下、落伍し始める。電源系統をやられたため無線も電話も発光信号も送ることが出来ず、完全に沈黙してしまう。更に落伍した扶桑を後続の最上が追い越し、山城に続行したので山城側は扶桑落伍に気づかなかった。扶桑はその後大爆発を起こし船体が2つに折れたまま炎上しながら漂流、後続して突入した志摩艦隊は炎上する扶桑を2隻が炎上していると誤認している[182]。その後の扶桑の最期はアメリカ側の資料では艦首は4時20分ごろ、艦尾は1時間以内にそれぞれ沈んだと記録されている[183]。重巡洋艦ルイスビルが艦首部を沈めたという証言もある[184]。艦長阪匡身少将以下乗員の殆どが戦死し、主砲二番砲塔換装室員であった小川英雄一等兵曹以下数名が生還している。

3時13分、今度はレイテ島側から敵駆逐艦が近づくのを時雨が発見。1分後には山雲が接近する雷跡を見つける。西村司令は右へ一斉回頭、これをかわすと3時18分に元の針路に戻したが3時20分、駆逐艦満潮、山雲が相次いで被雷する。山雲は瞬時に沈み艦長小野四郎少佐以下総員が戦死、満潮も程なく沈没し隊司令高橋亀四郎大佐以下約230名が戦死、艦長田中和生少佐以下数名が米軍に救助される。続いて朝雲が1番砲塔直下に被雷し艦首を切断、戦艦山城も左舷後部に被雷、5・6番砲塔が爆発の危険が生じたので弾薬庫注水が行われた。この攻撃は分離して行動していた米第54駆逐連隊の駆逐艦2隻の攻撃であった[185]

西村艦隊壊滅[編集]

戦力の過半を瞬く間に失った西村艦隊に対し米駆逐艦の襲撃は続いた。続いて第24駆逐連隊6隻が襲撃を開始、3時23分に時雨と山城に対して魚雷発射し1発命中する。3時40分、西村中将が山城から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク、各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ」と命令を下した。これが、旗艦の発した最期の命令となった。3時49分、米駆逐艦部隊に撤退命令が出る[186]。第56駆逐戦隊の駆逐艦アルバート・W・グラントが被弾した[186]

砲戦時の山城(24日の空襲時の写真との説もある)

3時23分、アメリカ艦隊はレーダーで西村艦隊を捕捉した[187]。3時30分、西村艦隊は栗田艦隊(受信0415)に「山城被雷1、駆逐艦2隻被雷」を報告[188]。3時51分、米戦艦、米巡洋艦は「丁字陣形」で西村艦隊を迎え[189]、距離13500mでレーダー照射による砲撃を開始した。まず山城が被弾し艦橋下に火災が発生、3・4番砲塔は使用不可となり1・2番砲塔のみで応戦した[190]。最上もレーダーが島影を敵艦影と誤認するなど役に立たず、両艦とも正面に見える砲撃の閃光を目標に反撃するしかなかった。大口径弾300発、小口径弾4,000発の砲撃を打ち込まれた艦隊は命中弾が相次いだ。山城は駆逐艦からの雷撃を右舷機械室付近に受け速力が低下、直後に4本目の魚雷を受け徐々に傾斜しだす、その後火薬庫に引火、大爆発を起こした。この時、山城の艦橋が崩れ落ちたのが目撃されている。それでもなお山城は1、2番主砲から反撃の砲撃を行っていたのがアメリカ軍から確認されているが力尽きる。沈没必至と考えた艦長篠田勝清少将は総員退去を命じるが、その2分後の4時19分、艦尾より転覆して沈没した。西村司令以下第二戦隊司令部、篠田艦長以下山城乗員の殆どが戦死し、主計長の江崎壽人大尉他士官1名、下士官兵8名が捕虜となり戦後生還した[191]

この時点で最上は被弾せず無傷であった。しかし3時50分頃より敵からの集中射撃を受けはじめ、3番砲塔と中央に被弾し火災が発生した。3時55分には魚雷4本を発射し左に回頭、南方へ避退を開始する。しかし4時2分頃、艦橋に2発、防空指揮所に1発が命中、藤間艦長以下副長、航海長、水雷長、通信長など最上幹部と要員が全員戦死し、旗甲板にいた山本信号員長他4名のみが無事だった。信号員長がとっさに操舵を人力に切り替え南下を続けた[192]

最後尾にいた時雨はこれを見て部隊は既に全滅したと判断し反転離脱を開始、その間命中弾を受けるが不発だった。この頃米艦隊は雷撃のため西村艦隊に接近した駆逐隊が軽巡部隊に誤射され、4時13分一時的に砲撃を中止した[193]。この間に大破した最上は艦橋の異変をしった砲術長荒井義一郎少佐の指揮で米艦隊の射程圏外に離脱した[194]

志摩艦隊突入断念[編集]

西村艦隊の後に続き突入する筈だった志摩艦隊は西村艦隊の2時間後の3時過ぎに海峡入口に到達したがスコールが連続的に発生し位置の確認に難航した。艦艇同士の位置確認も困難で3時15分には阿武隈が潮を敵と誤認し誤射する騒ぎが起きている。3時20分、パナオン島付近でスコールの隙間から針路上に断崖を視認した艦隊は一斉回頭でこれを避けるが、直後に魚雷艇隊の攻撃を受け、軽巡阿武隈が避ける間もなく被雷した(魚雷艇PT137の雷撃)[195]。敵魚雷艇を撃退後、阿武隈を残して志摩艦隊は戦闘序列で突入を開始。4時ごろには炎上する扶桑を発見する。志摩艦隊はなおも北上を続けたが、旗艦の那智最上を炎上停止した敵艦と誤認して転舵、しかし最上は8ノット微速航行しており衝突してしまう。これにより那智は艦首を大破し速力は18ノット以上は無理となる。敵情不明のため志摩中将は突入を断念、4時25分に「当隊攻撃終了、一応戦場離脱後図を策す」と打電した[196]。なお、アメリカ側では当時から今日に至るまで、西村・志摩艦隊を「二群に分かれた(統一指揮された)一つの艦隊」と誤認している。衝突された最上は中央の火災が後部に拡大し機銃弾や高角砲弾が誘爆を起こし手がつけられなくなる。しかし予備魚雷が誘爆した際の爆風で火勢が下火となった[197]。5時20分南下してきた米艦隊の砲撃が始まり最上は回避するも10発ほど命中弾を受ける。

4時40分、艦隊は単艦南下する時雨を発見、志摩長官は艦隊に続くよう指示をだすが、舵故障と時雨は回答し南下を続けた。

艦首を切断されて航行不能となっていた朝雲は12ノットでの航行が可能となり南下撤退を開始[198]。しかし5時20分頃より米艦隊に捕捉され射撃を受け5発が命中火災発生、速度も9ノットまで低下する。火災は拡大の一方で艦長の柴山一雄中佐は総員退艦を指示、乗員は内火艇に移乗して脱出する。接近する米艦隊の集中砲撃で朝雲は撃沈、内火艇も近接してきた2隻の駆逐艦に沈められ生存者は漂流、結局艦長以下約30名が付近の島に流れ着いて捕虜となり戦後生還した[199]

5時33分、志摩長官は阿武隈と合流する。応急修理で航行可能になっていた同艦に艦隊に続くよう指示をだす。7時19分には阿武隈に座乗する第一水雷戦隊(司令:木村昌福少将)の霞への移乗が行われ、阿武隈には護衛に潮を派遣してマニラへ向かわせ、同じく避退してきた最上には曙を護衛にあたらせてコロン湾に避退するよう命じた[200]が、最上はその後7時27分より空襲を受けはじめ、8時30分には航行不能となる。10時47分には弾火薬庫誘爆の危険がでたので砲術長の判断で総員退去。護衛の駆逐艦が危険を顧みず船体を最上に横付けして乗員の救助に当たる。最終的に最上は12時30分に曙の魚雷で処分される[201]。西村艦隊で唯一生還した時雨は25日23時にコロン湾に針路を変更、しかし敵機の襲来を受けブルネイに針路を変え27日17時に無事到着した[202]

阿武隈は26日にミンダナオ島ビタンで応急修理を済ませ、潮と共にコロン湾に向かうが11時28分にアメリカ陸軍機の空襲を受ける。直撃弾3、至近弾4を受けて機関停止、魚雷の誘爆も発生し総員退艦が発令、まもなく沈没した。乗員512名が戦死し、艦長花田卓夫大佐以下生存者は潮に収容された。

志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦はなしでコロン湾に到着した。不知火を栗田艦隊の駆逐艦早霜の救援に送ったが第38任務部隊の空襲で撃沈された。志摩の命令により「2戦隊全滅大破炎上」の報が発信されたのは4時49分であり、栗田艦隊では5時32分に受信した。

なお、スリガオ海峡海戦中の射撃回数については下記のようであった。

スリガオ海峡海戦後の残弾、各艦で発生したトラブルについては後述する。

第十六戦隊壊滅[編集]

第二遊撃部隊所属で別行動をしていた第十六戦隊(鬼怒、浦波)は、輸送船団(第六、九、十、一〇一、一〇二輸送艦)と共に出撃[203]。25日15時45分にミンダナオ島カガヤンに到着して陸軍兵347名を載せる[94]。26日未明にオルモック港で揚搭後、コロン湾に向かった。10時20分、パナイ島とマスバテ島の間に達したころからアメリカ第7艦隊の護衛空母搭載機による攻撃を受け[204]、12時24分に浦波が沈没[205]、鬼怒も17時20分、戦死者83名と共にパナイ島北東で沈没した[206]。2隻の生存者は後続していた輸送艦に救助され、輸送艦第9号10号が第16戦隊司令官左近允尚正中将、鬼怒艦長川崎晴実大佐以下鬼怒生存者480名以上、浦波の生存者94名を救助したが、鬼怒では乗員83名、浦波は艦長佐古加栄少佐以下103名が戦死した。

10月25日 エンガノ岬沖海戦[編集]

空襲を受ける日本空母
アメリカ軍の攻撃を受け沈没しつつある空母瑞鶴(14時14分沈没)。

小沢艦隊は24日の敵偵察機の状況から今日こそは待望の敵機空襲を受けると考えていた。6時34分に前衛部隊との合流を済ませた小沢艦隊は7時12分に第38任務部隊の偵察機を発見[207]し、錬度不十分なため戦力とならない艦載機を直衛用の戦闘機18機を除き残存機を陸上へ退避させ(爆装零戦5機、彗星1機、天山4機[208])、さらに囮任務を果たすため北上した。7時17分には瑞鶴千代田から直掩機6機が出撃、長官は関係各部隊へ「機動部隊本隊敵艦上機の蝕接を受けつつあり」と打電した[209]が、肝心の栗田艦隊には着電しなかった[注釈 7]。対して小沢艦隊には7時発信の栗田艦隊が米機動部隊を見つけ攻撃を開始した旨の無電が届いている。このときの小沢艦隊は小沢長官が直卒する、空母瑞鶴、軽空母瑞鳳、航空戦艦伊勢、軽巡洋艦大淀駆逐艦4隻の第5群と、第四航空戦隊司令松田千秋少将が指揮する、軽空母千歳、軽空母千代田、航空戦艦日向、軽巡洋艦多摩、軽巡洋艦五十鈴、駆逐艦4隻からなる第6群に分かれていた[210]

第一次空襲[編集]

8時15分、第1次攻撃隊180機が小沢艦隊に来襲した。小沢長官は友軍全般に宛て「敵艦上機約80機来襲我と交戦中。地点ヘンニ13」と打電したが自艦隊以外には届かなかった[211]。8時35分、瑞鳳が被弾し一時舵が故障。8時37分に瑞鶴が魚雷1本被雷し速力低下、8時40分には通信不能になる。他にも伊勢が至近弾2発、大淀が直撃弾1発、至近弾2発を受ける。

駆逐艦秋月は8時50分頃に突如爆発し6分後に沈没、その原因はいまもって諸説ある。空母千歳は5発の直撃弾と無数の至近弾を受ける。特に8時35分に受けた爆弾3発は左舷前部水線下に命中して罐室に浸水を招き、9時15分には航行不能となる。傾斜復元の努力も甲斐なく9時30分には総員上への命令が出る9時37分に千歳は沈没、艦長岸良幸大佐以下468名が戦死し、496名が軽巡五十鈴と駆逐艦霜月に救助された。軽巡多摩も被雷し大傾斜、9時には航行不能となる。この空襲の合間に索敵機より「敵機動部隊見ゆ~」の敵情報告が届き、南方140海里付近にいることが判明した[212]

この空襲の際、艦隊上空を守る直掩機は18機(瑞鶴13機小林保平大尉、峰善輝大尉、窪田晴吉飛曹長他、千歳2機千田光夫一飛曹他、千代田3機南義美少尉他)[213]だけだった。直掩隊は少数ながら善戦し17機の撃墜を報じている[214]

8時54分、小沢長官は通信が難しくなった瑞鶴から旗艦を大淀に替えるべく同艦に接近を指示するが直後に第二次空襲が始まり旗艦変更は中止された[215]。そのため小沢艦隊より友軍各隊に送る戦闘速報「1KdF機密第250937番電」が遅れ、実際の際の発信は11時頃となったがこの無電も栗田艦隊など関係各部隊には届かなかった[216]

第二次空襲[編集]

9時42分、日向の電探が敵の編隊を捕捉、9時58分より攻撃が開始された。10時、唯一無傷だった空母千代田に爆弾1発が命中し大火災、10時16分に航行不能となる。軽巡五十鈴は艦隊より被雷した多摩の救助に向かうよう指示を受け、10時10分に合流する。このとき多摩は速力18ノットまで出せるようになっていた。2隻はやがて千歳沈没点に到達し千歳生存者を発見、五十鈴が救助作業にあたり多摩は松田第四航空戦隊司令より単独で中城湾に向かうよう指示され別行動に移った[217]

10時14分、軽巡大淀は空襲の合間を見て再び瑞鶴に接近する。しかし敵機が襲撃してきたので作業はまたもや中断し、10時26分に三度接近し短艇を送る[218]。この際大淀短艇は海上に不時着水した零戦の乗員1名(南義美大尉)を救助している。10時51分、小沢長官以下司令部要員は瑞鶴を離艦し10時54分、大淀に移乗した。小沢長官は移乗すると直ちにその旨を「1KdF機密第251107番電 大淀に移乗作戦を続行す」と打電する(大和に12時41分受電)。また12時31分には「1KdF機密第251231番電」として秋月の沈没や千歳、多摩の落伍、瑞鶴の通信不能などを打電する(大和には14時30分受電)[219]

小沢艦隊を攻撃するハルゼー大将の元に10時過ぎにハワイの太平洋艦隊長官ニミッツ大将から、「第34任務部隊はどこか。全世界は知らんと欲す」と電報が届いた。ハルゼー大将はこの電報に激怒し、11時15分小沢機動部隊の残存艦に迫っていた第34任務部隊と第38任務部隊の第2群を率いて、レイテ島沖に引き返した。残った2個群はミッチャー中将指揮下で攻撃を続けさせ、第34任務部隊からローレンス・デュボーズ少将指揮の重巡洋艦2隻と軽巡洋艦2隻、その護衛の駆逐艦を引き抜いて巡洋艦部隊を編成して同様に追撃を続行させた。ハルゼー大将はニミッツ大将とキンケイド中将に、「レイテ沖に向けて急進中」と返答を送った。

この時点で上空を守る直掩機は小林大尉以下9機に減じていた、着艦しようにも空母はどれも着艦不能であり、燃料を使い果たして11時過ぎに全機が海上に不時着水する。乗員は11時58分頃に駆逐艦初月に救助された[220]

第三次空襲 空母全滅[編集]

12時58分、小沢長官は第6群を指揮する松田少将に対し合同命令を出す。しかし直後の13時05分、100機近い米攻撃隊が小沢艦隊上空に到達する。攻撃隊は第6群を無視し第5群の瑞鶴と瑞鳳に攻撃を開始した[221]

瑞鶴には13時15分の被雷を皮切りに7本の魚雷と4発の直撃弾、無数の至近弾が命中し13時23分には傾斜が20度に達し大火災が起こる。13時25分に米軍機を撃退するが処置の施しようもなく13時27分に艦長より「総員発着甲板に上がれ」の下令。軍艦旗降下と万歳三唱がなされ(その際の写真が撮影され現存している)総員退艦が始まる。そして14時14分に歴戦の空母瑞鶴は沈没した。艦長貝塚武男少将以下843名が艦と運命を共にし、生存者866名が駆逐艦若月に救助された(救助には駆逐艦初月も加わっているが退避中に敵艦隊と交戦し沈没、総員が戦死し救助された瑞鶴乗員も戦死した)[222]

瑞鳳は13時17分から10分間に魚雷2発と爆弾4発、至近弾多数を受ける。14時32分から20分の間には命中こそなかったが至近弾10数発を受け傾斜が16度になり主機械も全て停止、航行不能となる。15時10分、軍艦旗降下の上総員退艦が発令され、15時26分瑞鳳は沈没した。駆逐艦が救助にあたり艦長杉浦矩郎大佐以下847名が救助される。また戦艦伊勢も救助作業に加わり98名を救助している[223]

小沢長官の合同命令を13時35分に受電した松田少将の第6群は、12時55分に千歳乗員の救助を終えて合流した五十鈴に千代田の曳航を命じて準備中であり、日向と駆逐艦がそれを護衛、霜月が千歳乗員の救助を継続中、多摩は単独で中城湾に退却中、所属する桐と杉は前日の転落者救助で隊から離れ合流出来ておらずと部隊は分散していた。また13時15分に五十鈴から燃料不足から千代田の曳航は困難との報告を受けていた事もあり、松田少将は曳航を断念、五十鈴と槇に千代田の処分と生存者の救助を命じ、日向と霜月を率いて第5群との合流を目指した[224]

千代田処分を命じられた五十鈴だが曳航を断念せず準備を進めていた。その間にも米機が断続的に飛来しその都度五十鈴は撃退する。しかし14時14分に遂に五十鈴が被弾し応急操舵によらざるをえなくなる。14時40分に槇が到着するがこれも14時58分に敵襲を受け直撃弾を1発受けてしまう。千代田の曳航は絶望的となった2隻は15時に日没を待って接近し千代田処分と乗員救助をすることとし、それまで北方に避退することにした[225]

16時48分頃、小沢艦隊を蝕接していた偵察機が帰路、停止する千代田を発見する。既に放棄されていると考えた偵察機は接近したところ千代田が発砲したため南方に退避する。やがて同機は北上するデュポース少将の巡洋艦部隊を見つけ通報、艦隊は直ちに急行し千代田を発見、16時25分砲撃を開始する。16時47分千代田は左に転覆し沈没、艦長城英一郎大佐(当日付けで少将に昇任)以下総員が戦死した[226]

第四次空襲[編集]

この頃の小沢艦隊は大淀と伊勢が北上中、駆逐艦初月、若月、桑が瑞鶴、瑞鳳の生存者を救助中、松田少将の日向と霜月が大淀と合流すべくこれも北上中で微速で中城湾に向かう多摩と同航態勢、千代田処分を一時断念した五十鈴と槇が主隊の南南西を伊勢の視界内で北上中というバラバラな状態であった[227]。17時26分、北上する大淀と伊勢に米艦載機約85機が襲来する。攻撃は伊勢に集中するが艦長中瀬泝大佐の適格な操艦により直撃弾を受けなかったが至近弾34発を受け左舷罐室に若干の浸水を受けた。また伊勢は22機の撃墜を報じている[228]

同じ頃米軍機は松田少将の第6群にも襲いかかっていた。17時22分、米機約10数機が日向と霜月を攻撃、日向は7発、霜月は10発の至近弾を受けるが直撃弾はなかった。これ以降米軍機の襲来はなく、第6群は18次44分、小沢長官の第5群に合同した[229]

単独で退避する多摩は16時25分、北上する日向、霜月とすれ違う、単独で退避させることの危険、特に敵潜水艦の襲撃に松田少将は懸念を持つが護衛につける艦艇の余裕もなく、多摩からの回航地を呉に変更したいとの要請に了承を与えたのみだった[230]。その後米機の来襲があり、日向らと多摩は別れたが多摩は以後消息を断つ。戦後に米側の資料で判明したのは米潜水艦ジャラオ (USS Jallao, SS-368) が25日20時頃に発見し追尾、23時1分に7本の魚雷を発射、観測任務を担当した僚艦のビンタードは3本の魚雷が命中したことを確認、多摩は船体が2つに折れて沈没した。艦長の山本岩多大佐(千代田艦長と同じく25日付けで少将に昇任)以下総員が戦死した[231]

米水上部隊との遭遇[編集]

一時退避していた五十鈴は17時47分に再度千代田を救助すべく反転する。しかし槇は燃料が欠乏しており、本隊との合流を継続、五十鈴単艦で南下を開始した。18時すぎには五十鈴は瑞鶴乗員の救助を行う初月と若月を視認する(瑞鳳乗員を救助していた桑は既に救助を終えて北上していた)。五十鈴は初月に千代田の消息を尋ねたが判明しなかったので燃料不足を理由に捜索と所在確認を依頼した。18時20分には若月が救助作業を終えて五十鈴と合流し南下を継続する[232]

19時05分、五十鈴は突如初月が発砲したのを視認する。千代田を沈め、北上を続けてきたデュボーズ部隊と遭遇し迎撃を開始したのだった。同隊は索敵機より18時40分に北方に停止する巡洋艦1(救助作業を続けていた初月)とその周りを警戒する駆逐艦2(千代田救出の為に動いていた五十鈴と若月)発見の報を受けて急行したのだった[233] 。19時7分には五十鈴の付近にも砲弾が飛来し電探も敵艦隊を捕らえた。五十鈴は小沢中将に敵艦隊の発見と千代田の捜索中止を知らせ煙幕を展張、若月と共に直ちに反転、撤退を開始する[234] 。初月は煙幕を展開するとジグザク運動を行い敵からの砲撃をかわしていたが、敵との距離が6海里まで迫った頃に反転し、反撃態勢に入る[235]

初月は単艦で重巡2(ウィチタニューオーリンズ)、軽巡2 (モービルサンタフェ)、駆逐艦9の13隻を相手をすることとなった。アメリカ軍の記録では18時53分、初月は魚雷発射体制をとり、アメリカ艦隊に回避運動をとらせて逃走した[236]。19時15分、アメリカ艦隊は再び初月を捕捉し、5500mから射撃を開始。また駆逐艦を先行させて魚雷攻撃を実施、これにより初月は速力が低下する。その後米艦隊は初月1隻を執拗に攻撃し20時15分には初月は停止、20時59分に爆発を起こして沈没した[236]。この奮闘により五十鈴と若月は戦場を離脱できたが、初月は駆逐隊司令の天野重隆大佐、艦長の橋本金松中佐以下総員が戦死、初月に救助されていた瑞鶴乗員や正午前に同艦が救助していた小林大尉以下直掩機搭乗員全員が運命を共にした[237] 。一方で、瑞鶴の乗組員を救助中だった初月の搭載内火艇が戦闘開始時に取り残され、これに乗っていた乗組員(初月乗員8名、瑞鶴乗員17名)21日の漂流を経て台湾に流れ着き生還している。

小沢中将は初月と米艦隊の交戦報告を受けて、艦隊(現時点で小沢長官が掌握している艦艇は大淀、伊勢、日向、霜月の4隻)に南下を命じたが時間を要した(ほとんどの艦が損傷していたためとされる)。また、急行途上に若月より戦艦2隻を含む艦隊と報告を受けたので、ハルゼー大将指揮の高速水上砲撃部隊と誤認、南下を続けた。21時53分には北上避退する五十鈴、若月と合流するが五十鈴の燃料が欠乏しており、同艦はそのまま中城湾に退避した。若月より敵は戦艦以下10隻(重巡を戦艦と誤認)と報告を受ける。しかし、デュボーズ部隊は初月撃沈の後、21時30分にミッチャー中将指揮の2個群と合流するため撤退したので遭遇できなかった[238]、燃料も残り少なくなり、再び北へ反転、撤退した。

翌日の26日の夕方、五十鈴が沖縄南東部の中城湾に、29日の深夜、日向、伊勢、大淀、駆逐艦霜月、若月、駆逐艦槇が呉に帰港した。

小沢艦隊の任務失敗[編集]

小沢艦隊は24日に行われた栗田艦隊への攻撃を自艦隊に引きつけることは出来なかった。25日になって第38任務部隊の牽制に成功しているが既に栗田艦隊は戦力の中核である大和型戦艦の1隻を失い一時反転をせざるを得ない状況となった。またこれにより西村艦隊との連携した突入が難しくなり西村艦隊の単独突入、そして壊滅の遠因ともなった。後の目から見れば栗田艦隊は戦艦部隊によるレイテ湾突入を第38機動部隊2〜4群の阻止攻撃から開放していたが当事者にそのような事が判るわけもなく、後述する栗田艦隊の反転により小沢艦隊の損耗も無駄となった。なお、当時大和に通信士官として乗り組んでいた都竹卓郎が戦後著した本によれば、野村實が1980年に出した本に軍令部には小沢艦隊の状況が正確には伝わらず、空母4隻は健在と考え、及川総長の27日朝の戦況奏上でもその旨申し上げていた処、28日の奄美大島帰着後初めて事実が判ったと書かれていると言う。これについて、近年の研究では、空母4隻の沈没を軍令部が知ったのは27日正午に小澤中将が奄美大島に帰投してからであり、当日中に参謀本部へも伝えられていたことが明らかになっており、到達日時が異なるが及川総長の戦況奏上の時点(27日早朝)では4空母沈没は、軍令部に報告されていなかった事が判明している[239]

また、松田少将などの証言では小沢長官は栗田艦隊が24日に一度反転してのち、再反転してレイテ湾に向かっていたことを知らなかったと帰還後に述べていたと証言している。 20時10分に小沢艦隊に着電した「GF機密第251647番電」が小沢艦隊に着電した栗田艦隊が再反転した事を把握できる最初のものだが、この頃は初月からの急報を受けた頃であり、既に遅きに逸していた。

このように小沢艦隊と参加各部隊との情報伝達には不具合が多く発生し、特に小沢艦隊の発した無電が軍令部や連合艦隊司令部、参加各部隊には一切届いていない事例が多く発生していた。

10月25日 サマール沖海戦[編集]

サマール沖海戦(赤:日本軍、黒:アメリカ軍)
被弾して炎上する米空母ガンビア・ベイ

突如の会敵[編集]

反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊は、アメリカ軍第38任務部隊による妨害を受けずに、25日0時30分サンベルナルジノ海峡を通過、サマール島沖に差し掛かっていた。この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻であった。1時55分、栗田長官は艦隊編成をY12索敵配置に変更[240]、2時20分と3時35分に西村艦隊よりレイテ突入と敵艦発見の無電を受ける。4時18分と5時10分、同20分には志摩艦隊より戦場到達と第二戦隊の全滅、志摩艦隊の離脱が報告され、以後西村、志摩両艦隊からの連絡は途絶えた[241]

6時23分、大和はレーダーで敵機を探知し、以後断続的に敵艦載機を発見、砲撃して追い払う。栗田艦隊は対空戦闘に備えた陣形をとりはじめた[242]。6時30分、索敵隊形の左翼先頭にいた矢矧が水平線上のマストを発見し、大和に通報した[243]。ただし各艦戦闘詳報や艦橋勤務員の手記に記録なし。6時45-48分、大和が35km先にマストを確認した[244]。それはサマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(コードネーム"タフィ3")であった。栗田艦隊はこれを正規空母6隻、すなわちアメリカ軍の主力機動部隊と誤認[245][246]する。このとき栗田艦隊は予定の針路変更を開始したばかりで陣形はまだ整頓されていなかった[247]が、栗田長官は6時53分に連合艦隊及び各部隊に敵発見の第一報を打電、6時57分攻撃を開始した。栗田は巡洋艦部隊である第五、七戦隊に突撃を命じ、水雷戦隊には後続を命じた[245][248]。なお、第一戦隊(大和、長門)の戦闘指揮は栗田ではなく宇垣がとった[249]

第77任務部隊の護衛空母群は20日の上陸以来、計画通り支援任務に徹し、まともな敵の攻撃を受けてこなかったが、24日になると多数の日本軍機がレイテ湾に飛来してきた。また3つの日本艦隊が報告されており、25日は敵艦隊への攻撃で多忙を極めることは予想されていた。深夜には西村艦隊の接近が報じられたが、栗田艦隊の動静について音沙汰はなかった。6時半、第3集団(タフィ3)の艦船は警戒を解除し、第3種警戒(通常配置)に移ってよいとの指示を受けた。栗田艦隊の発見は米側記録によるとその直後の6時41分の航空機によるものであり、数分後には総員戦闘配置が発令されている。やがて各艦のレーダースコープにも大艦隊が映し出された。第3集団(タフィ3)の各艦は混乱しながらもこれに対応、砲撃を回避しつつ初動の30分あまりで既に発艦していたものを合わせ100機弱の航空機を発艦させている。これら艦載機は栗田艦隊攻撃の後、主に米軍占領下のタクロバン飛行場に着陸、一部は燃料弾薬を補給して反転避退する栗田艦隊を再攻撃した。宇垣の『戦藻録』には「30機あまり発進したと見え」とあり、都竹も同様の感想を抱いていた。都竹は戦後に記録を見て本当の機数を知り、驚いたと言う。

交戦開始[編集]

6時58分、宇垣纏第一戦隊司令は貴下の大和、長門に射撃開始を下令、両艦は敵に向けて砲撃を開始した。第一戦隊左舷を併走していた第三戦隊では榛名が7時1分に砲撃開始、金剛は独自に左に変針し7時に北方より砲撃を開始した[250]。 7時3分、栗田長官は戦艦戦隊・巡洋艦戦隊に突撃を指示、戦隊司令部の判断で行動することを容認した。これを受けて第五、第七戦隊は東に転針して敵艦隊に突入を開始、戦艦部隊は引き続き砲撃を浴びせ続ける。この頃栗田長官は西村艦隊に生存艦がいるかもしれないと考え同長官宛に自部隊の位置を報告し合同するよう打電している[251]

栗田艦隊から砲撃を受けた第3集団は東へ逃走を開始する。このため第一戦隊は針路を変えるが第十戦隊の針路と交差することになり、第十戦隊は金剛に後続するように動きを変える。第3集団の前方には運よくスコールがあり、部隊はそこに逃げ込むと共に護衛の駆逐艦は煙幕を展開、護衛空母の撤退を掩護する。このため戦艦部隊の砲撃は思うようにいかず、7時9分第一戦隊は砲撃を一時中断する。この時点では巡洋艦部隊は未だ敵を射程に収めておらず、栗田艦隊の攻撃は一時中断する。7時17分、大和は護衛の敵艦に副砲による攻撃を開始[252]、7時25分には敵巡洋艦撃沈を報じている(米軍記録には沈没艦艇の記録は無い) 第三戦隊は金剛、榛名とも別々に行動した。これはマリアナ沖海戦で損傷し最大速力が26ノットまでしか出せれなかった榛名が低速の第一戦隊と合同し、高速の出る金剛が別行動をとったためとも言われている。別行動をとっていた金剛はスコールで敵を見失った第一戦隊と異なり切れ間から見えていたので砲撃を7時25分まで継続、その間の22分には米機の機銃掃射を受けて10m測距儀が破壊されている。まもなく自らもスコールに入ってしまった金剛は射撃を中止した[253]。榛名は長門に続いて砲撃を開始、敵がスコールに入ると砲撃を中止し、煙幕からでてくる敵艦を迎撃する。日本艦隊の砲撃は護衛空母ホワイト・プレインズに集中したが命中弾はなかった。

戦艦・巡洋艦部隊を後続している水雷戦隊のうち、第二水雷戦隊旗艦能代は7時27分に接近してくる敵艦を砲撃、また貴下の駆逐艦の対空射撃で1機を撃墜している。第十戦隊も後続していたが数機づつ連続して攻撃してくる敵機の対処に追われ進撃が滞っていた[254]

7時10分、この頃より迎撃にでた米艦載機が突進する栗田艦隊に対して攻撃をし始める。また煙幕の中から敵護衛艦艇が幾度と無く現れては魚雷と砲火で反撃を繰り返した。突撃命令を受けて猛進する巡洋艦部隊のうち、最先頭を進む第七戦隊旗艦熊野は同時刻に煙幕から飛び出した敵艦艇を発見し砲撃、これは駆逐艦ジョンストンで、同艦は砲撃を受けると反撃をしながら接近し魚雷10本を発射する、このうちの1本が熊野に命中、同艦は艦首を切断し速力が14ノットに低下、隊列から落伍した[255]。一方のジョンストンも直後に戦艦部隊から複数発の砲弾を浴び後部罐室及び機械室が破壊されるが運よくスコールが来て難を逃れた(戦艦大和の記録にある0725時敵大巡1隻轟沈はこのジョンストンのスコールへの退避を轟沈と誤認したものと思われる)[256]

駆逐艦ホーエルは金剛に向かって突進、金剛も応戦し7時25分に艦橋に命中弾を受ける。ホエールはそれでもひるまず7時27分に4本の魚雷を発射、金剛は7時33分にその魚雷を発見し回避している。ホエールはその後も被弾し続け罐室や砲が破壊されたが、それでもひるまず突進し7時55分に残りの魚雷を重巡羽黒に向けて発射、羽黒は7時57分にこれを回避している[257]。駆逐艦ヒーアマンはホエールに後続して接近、7時54分に羽黒に対して魚雷攻撃をかけるが回避され、逆に羽黒から集中砲撃を浴びる、更に遠方より金剛、榛名、大和、長門が接近してくるのが望見され、ヒーアマンは8時に残りの魚雷を榛名に放ってのち退避した[258]

被雷落伍した熊野に続き鈴谷が先頭にたつ、しかし同艦もまもなく敵機の襲撃を受け左舷後部に至近弾を受ける。これにより左舷の推進軸の1つが使用不能となり23ノットに低下しこれも隊列から落伍した[259]。7時32分、第七戦隊司令白石萬隆少将は3番艦筑摩艦長の則満宰時大佐に指揮の一時代行を指示、また同司令は鈴谷の損傷に気づかず熊野からの旗艦移乗を考え接近を命じる。白石司令が鈴谷の損傷に気づいたときは既に筑摩、利根ともに大分先方に進撃しており、呼び戻すわけにもいかなかった。そのため旗艦を鈴谷に移乗した後戦隊を追尾した[260]

第五戦隊は突進しながら米軍機の空襲や敵艦艇の反撃を撃退していった。羽黒は7時5分より断続的に敵機の襲撃と敵駆逐艦の砲撃に晒されている。一方23日に編入された鳥海の行動については同艦の生存者がいないことから詳細は不明である[261]

7時50分、護衛空母カリニン・ベイが立て続けに被弾する(恐らく榛名の砲撃によるもの)[262]7時54分、東方に進む戦艦大和は接近する6本の魚雷を発見し左に転舵して回避する。ところが6本の魚雷は低速で大和は右舷に4本、左舷に2本の魚雷にはさまれた状態となり主戦場から離れていってしまう。この魚雷の発射元は特定されていないが「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―では米側資料の記事としてホエールが羽黒に対して放った魚雷ではないかと推定している[263]

7時53分、第五戦隊の羽黒は傾斜炎上中の空母(恐らくカリニン・ベイ)を発見し砲撃を開始する。スプレイグ司令は護衛する残りの護衛駆逐艦4隻にも敵艦隊への攻撃を指示、まずサミュエル・B・ロバーツが突進し迫ってきた巡洋艦(艦名不明)に攻撃を仕掛けるが魚雷は回避される。続いてレイモンドデニスも敵に接近、レイモンドは羽黒に、デニスは鳥海か利根に対して魚雷を放つがどれも命中しなかった。これにより米駆逐艦はジョン・C・バトラー以外は全て魚雷を撃ちつくした。この時点で第五戦隊と第七戦隊の順番は変わり、第五戦隊が先頭を進んでいた[264]。第七戦隊にも3機による雷撃が行われ、筑摩が右に、利根が左に回避、直後に双方に別機の空襲がありそれぞれが回避行動をとったため7時58分頃、2隻は大きく逸れてしまう[265]

7時59分、スコールから脱した金剛は右12度に敵空母を発見、8時2分に砲撃を開始する[266]。同じくその前方をいく第七戦隊の筑摩と利根も同じ敵空母に対して8時5分より砲撃を開始した。この空母は護衛空母ガンビア・ベイであった。

空母撃沈[編集]

8時、羽黒に対し米機10数機が襲撃、1発が第二砲塔に命中する。このため第二砲塔は弾火薬庫の誘爆の危険となり注水がなされている[267]

魚雷にはさまれ主戦場から離れてしまった大和は8時4分に敵への進撃を再開、8時14分に観測機(今泉馨中尉機)を射出する。同機は米艦隊に接近し空母1隻が炎上中であることを報告している。同機はその後米機の迎撃にあいながらも幾度が状況報告をし、9時30分に蝕敵を諦めサンホセ基地に帰投している[268]。8時10分、空母(恐らくカリニン・ベイ)に砲撃をしていた榛名は左艦首方向に全く異なる米空母部隊を視認する。これは第3集団の南東で行動していた第2集団「タフィ2」であった。榛名艦長重永主計大佐はこれを砲撃すべく接近するが損傷して低速の榛名には追いつくことが出来ずまもなく振り切られた。8時30分頃榛名は再び第3集団の追撃を開始した[269]。金剛はガンビア・ベイへの砲撃中の8時40分、榛名が見つけた第2集団を発見、艦載機を発艦させている状況を視認する。

8時26分、猛攻に晒されるスプレイグ少将はジョン・C・バトラーとデニスに敵巡洋艦と護衛空母の間に立ちふさがるよう指示、2隻は左翼に移動する。ジョン・C・バトラーは魚雷を保持している唯一の駆逐艦だったが有効な射点につくことが出来なかった。またレイモンドが利根に接近し砲撃、利根もガンビア・ベイへの砲撃を一時中止しこの駆逐艦へ砲撃している。この間デニスは直撃弾3発を受けジョン・C・バトラーの煙幕に退避した[270]

8時30分、羽黒を雷撃して退避するホエールは大和、矢矧、能代から集中砲撃を受け8時55分に沈没した。8時40分、ガンビア・ベイの艦橋と機関部に命中弾があり、同艦は遂に停止した。8時50分、ヒューグ艦長は総員退艦を下令、ガンビア・ベイは9時10分に沈没した。同じ頃サミュエル・B・ロバーツも命中弾を受けその後も連続して命中弾を受ける。9時10分に総員退艦が下令され10時5分に沈没した。

追撃中止[編集]

8時45分、南西に進撃する第十戦隊は空母2隻を視認、司令木村進少将は左雷撃戦を決断、しかし雷撃開始前に敵空母が煙幕に隠れてしまう。直後の8時48分頃、左前方から接近する駆逐艦を発見。これは第十戦隊の接近から空母を守るために前進してきたジョンストンであった。ジョンストンが魚雷を撃ったように見えた矢矧は右に回避しつつ高角砲で応戦、貴下の駆逐艦もそれにならった。この砲撃でジョンストンはとどめをさされ、9時45分に機関停止、10時10分に沈没した[271]。針路を狂わされた第十戦隊は8時59分に再度突撃針路につく。9時5分、米空母に対して遠距離雷撃が実施されるが命中弾はなかった[272]

8時51分、進撃する鳥海の左舷中部に被弾、同艦はにわかに左に旋回し落伍する。同じ頃筑摩も敵艦載機の攻撃を受け左舷艦尾に魚雷が命中、艦尾が大破し沈下、舵も故障し左に旋回して落伍した[273] 同じ頃、榛名と金剛の目撃情報を受け大和はもう1機の観測機(安田親文飛曹長機)を射出し南東の空母部隊に向かわせる。同機は8時55分に敵空母発見を報告、栗田長官は南東と南西に2個空母部隊がおり、自軍はその中間にいることを知る[274]

9時の段階で米第3集団に肉薄して攻撃するのは重巡2隻だけとなった。2隻は果敢に米艦隊を攻撃し数隻の撃沈を報じているが、この頃の米軍の損害はヒーアマンが筑摩からの攻撃を受け命中弾多数(筑摩落伍により難をのがれる)と上記のジョンストンと第十戦隊の交戦だけである[275]

この時点で栗田艦隊には各部隊から戦況報告は無く、海域に散ばっている状況で統制が取れなくなりつつあった。また攻撃開始から2時間が経過し、敵を高速機動部隊だと思い込んでいたこともあり、このままではいたずらに燃料を消費してしまうだけだと思われた。そこで栗田長官は9時11分に各艦艇に「逐次集まれ」と下令。艦隊の再集結を命じる。

この集結運動の合間にも米機による空襲は継続して行われた。10時17分、20機ほどの艦載機が攻撃を仕掛け大和に至近弾2発、長門は艦尾に至近弾4発を受ける。10字35分には入れ違いに雷撃機約30機が襲来し大和、長門、榛名、能代が攻撃されるが回避した[276]。10時50分頃、鈴谷に対し艦爆約30機が襲来、左舷中部に至近弾を受けるがこれにより火災が発生、これに装填中の九三式酸素魚雷が誘爆、11時15分、艦長の寺岡正雄大佐は総員退艦準備を指示する。白石司令は利根への旗艦移乗を決断し利根から短艇を呼び寄せる。司令は寺岡艦長へ総員退艦を指示するも艦長は応じず艦を救う努力を続けた。しかい司令の移乗直後に米機の空襲が再開され鈴谷の誘爆も再発、12時30分、鈴谷は沈没した。生存者は救助に駆けつけた沖波に艦長以下415名が収容される[277]。沖波は救助作業により本隊と離れてしまい単独で撤退を開始する。

この他に戦闘で損傷した鳥海、筑摩などの落伍艦のうち、熊野は自力航行が可能だったため既にサンベルナルジノ海峡に向けて退却していた。戦場に取り残された鳥海、筑摩のうち10時6分に鳥海に対して駆逐艦藤波が、11時40分には筑摩に対して駆逐艦野分が救援に派遣された[278]。藤波の発した無電によると鳥海はサンベルナルジノ海峡への退却を始めるが21時40分頃に航行不能となり藤波が生存者を救助の後雷撃処分、藤波はコロン湾に向かった。しかし27日に座礁した駆逐艦早霜の救援に向かうも米機の空襲を受け轟沈、藤波と鳥海の乗員は全員戦死した。

筑摩の方は野分が到着した時点で沈没していたとも言われている。野分は生存者の救助後、退却する栗田艦隊本隊を追尾するが、小沢艦隊の攻撃から反転南下してきたハルゼー直卒の高速戦艦部隊に25日の深夜に捕捉される。野分は米軽巡ヴィンセンス、ビロクシー、マイアミ、駆逐艦オーエン、ミラーによるレーダー射撃を受け大破[279]、最後は駆逐艦の魚雷を受けて沈没した。艦長以下272名[280]全員が戦死した[281]。野分に乗艦していた120-130名の筑摩乗員[282]も、アメリカ軍に救助された1名以外同じ運命を辿った。

10時56分、栗田艦隊は集結を終え、レイテ湾への進撃を開始する。栗田長官がレイテ湾進撃を再開したことは第一戦隊司令宇垣纏には意外だったようで、自身の日誌戦藻録にも「11時20分の頃に至り『何を考えたか』針路を225度としてレイテ湾に突入すと信号せる」とレイテ湾突入の命令に不満があった事を書いている[283]

結局栗田艦隊がおこなった約2時間の攻撃で、第3集団(タフィ3)は護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557)、ホーエル (USS Hoel, DD-533)、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) が沈没し、他の護衛空母はファンショウ・ベイが20cm砲弾4発被弾、カリニン・ベイが20cm砲弾13発、キトカン・ベイホワイト・プレインズが至近弾を受けて損傷したに留まった[284]。ただし栗田艦隊は、戦艦の砲撃で撃沈・正規空母1隻、重巡洋艦1隻、大型駆逐艦1隻、撃破空母2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻[285]。第十戦隊が正規空母2隻・駆逐艦3隻撃沈[286]したと誤認している。また西村艦隊の得た戦果を、撃沈空母3、巡洋艦3、駆逐艦4、撃破空母2、巡洋艦または駆逐艦2 - 3と判断していた。小沢艦隊も空母1撃沈、空母1撃破の戦果があったとしている[287]。この理由は概ね下記に纏められる。

  • 第3集団(タフィ3)の各護衛空母がスコールを利用して度々姿を晦ましたこと
  • 各護衛空母が、着弾の水柱が上がった方に転舵して次の着弾をかわす、「一度砲弾が落ちたところには、二度は落ちない」という兵隊古来の経験則による着弾観測修正を逆用した回避運動を懸命におこなったこと
  • 各艦が煙幕を展開し駆逐艦が進路妨害のため雷撃をおこなったこと[288][289][290]
  • 航空機が弾切れとなったにもかかわらず投弾のフェイントをおこなったり機銃掃射まで行って阻止行動に出たこと[291][292]
  • 矢矧と、同艦に従う第十七駆逐隊が米空母に接近せず遠距離雷撃を行ったこと。

鳥海被弾に関する諸説[編集]

サマール沖海戦での鳥海はアメリカ護衛空母を攻撃中、右舷船体中央部に被弾した。甲板に装備した魚雷が誘爆し、機関と舵が破壊され戦列を離脱した。この被弾について、これまで護衛空母ホワイト・プレインズによる説[293]大和による誤射説、金剛による誤射説などある。戦史研究家の石丸法明(当時羽黒の乗組員)は鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、金剛誤射説を提唱した[294]。羽黒戦闘詳報では、8時51分に『鳥海敵主力ノ集中射撃ヲ受ケ右舷中部ニ被弾』と記録[295]。鳥海は舵故障状態となる[296]。金剛の見張員はすぐに鳥海を誤射したことに気付いて艦橋に報告し、島崎利雄(金剛)艦長は、同艦を追撃戦から脱落させたという。金剛が鳥海を誤射したことについて、羽黒では艦長・副長から厳しい箝口令が敷かれたという。石丸は誤射の原因は橋本司令官の命令を待たずに突撃した鳥海の側にあったとしている[294]

サマール沖海戦に於ける大和の砲撃戦果について[編集]

アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究成果では大和個別での戦果は以下の通りであると述べている。

ホワイト・プレインズ :至近弾数発。機関室が破壊。
ジョンストン(USS Johnston, DD-557) :46cm砲弾3発被弾、15cm砲弾3発被弾 [297]

栗田艦隊の北上[編集]

進撃の再開[編集]

進撃を再開する前の10時、栗田艦隊はサマール沖での海戦の戦果を撃沈確実空母2隻(内正規空母1隻含む)、同甲巡1隻、駆逐艦2隻、命中弾確実空母1~2隻と報告、11時には集結した各部隊からの情報を統計して撃沈確実空母4隻(内正規空母2隻)、甲巡1隻、乙巡1隻、駆逐艦4隻、撃破空母2隻(内1隻は正規空母もしくは戦艦)、巡洋艦もしくは駆逐艦2~3隻と報告している[298]。栗田長官からの報告を受け大本営や連合艦隊は大いに喜んだ。水上艦隊が単独で米機動部隊の1個群を撃滅したことに満足した。実際は護衛空母数隻の艦隊で撃沈は護衛空母1隻、駆逐艦4隻であったが日本側は戦後になるまで誰もその事実に気づかなかった[299]。11時20分、栗田艦隊は「我地点ヤヒマ37針路南西レイテ泊地へ向かう。北東30浬に空母を含む機動部隊及び南東60浬に大部隊あり」[300]と打電し関係各部隊に進撃を再開したことを通達した。

進撃再開前後、大和の見張り員から「北東方面に数本のマスト発見」という報告が上がり、第一戦隊の末松虎雄参謀も確認[301]したので宇垣第一戦隊司令から「北東の敵を討つべく直ちに反転すべき」という意見具申もでたが、栗田はレイテ湾への進撃を継続させた[302][303]

11時前に南西方面艦隊から栗田艦隊の北100kmの地点「ヤキ1カ」に機動部隊が存在するという電文が届いた。司令部参謀が協議に入る中、11時45分、栗田長官は所属各艦に輸送船団への突入を行う事を指示している。11時50分、栗田艦隊は南西方面艦隊、第一第二両航空艦隊宛に「ヤキ1カの敵を攻撃されたし」の電報をうつ[304]。また11時54分、大和の見張り員が東方にマスト5本を発見、宇垣は進撃してきた西村艦隊の残余ではと考え近寄ることを助言するが栗田はそれを拒否した[305]。12時7分、敵機約50機が襲来、空襲は約40分続き大和、長門、金剛、榛名、利根、羽黒、能代が狙われる。このうち利根が12時41分、直撃弾1発を蒙る。

反転[編集]

この空襲の途上である12時26分、栗田長官は参謀の進言を受けヤキ1カの敵を攻撃すべく反転する。所謂「栗田ターン」である。 12時36分、栗田艦隊は「1YBはレイテ突入を止め敵機動部隊を求め決戦」と無電し反転を各部隊に通達する。[306]。しかしその位置に機動部隊は存在せず、この点は戦後論議の対象となった(詳細は下記)。

12時50分、通算して8度目の空襲を終えるが、程なく13時10分に接近する新たな敵編隊を探知、13時22分に9度目の対空戦闘が開始される。金剛が至近弾5発を受け燃料が流出、榛名、利根も至近弾を複数発受け[307]る。14時30分、空襲を終えて立ち去る方向の水平線に着艦作業をする空母を大和見張り員が発見、これが目標の敵機動部隊だと考えた栗田長官は14時45分に「我1430地点モツ三ツ30度方向視界限度付近にヤキ1カの敵空母群らしきもの発着艦をなしつつあり」と打電している[308]。15時15分、大和が敵編隊を探知、30分に再度捉え15時50分より2群に分かれた敵艦載機の空襲を受ける。大和などが狙われるが損害は無かった[309]

栗田艦隊のレイテ湾突入意思の喪失が何時起こったかは諸説ある。一般的に伝えられる話としては、最初に反転を進言したのは大谷作戦参謀であり、それを受けて山本先任参謀が栗田長官に伝えた。栗田は自分ひとりで決定したと伊藤正徳に述べたが(詳しくは後述)[310]、小柳は参謀会議を開いて全員一致で決定したと戦略爆撃調査団に陳述している[311](一般的な決定経過は原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』など多くの書籍に記されている。その議論の詳細は下記)。

小柳の戦略爆撃調査団に語った陳述によれば、反転した理由は下記の6点に纏められる。

  1. 志摩艦隊から西村艦隊の全滅を知らされたこと
  2. 栗田艦隊のレイテ湾接近が大幅に遅延したこと
  3. 米空母から発信されたと思われる増援要請の電話傍受により2時間後に航空機が飛来すると予想されたこと
  4. 空母機にレイテ島の野戦基地に着陸するよう命じた電話の傍受により基地機との共同攻撃が予想されたこと
  5. 別の機動部隊が北方から接近すると考えられたこと
  6. レイテで戦闘を継続した場合、更に多量の燃料を消費すると予想されたこと

当時大和に通信士官として乗り組んでいた都竹卓郎によれば反転北上の頃に栗田艦隊など日本海軍でイメージされていたのは次のような態勢であった。つまり敵機動部隊は北、中央、南の3群に分かれ、南方群が明け方栗田艦隊と交戦、中央群は南方群救援のため南下を開始、昼過ぎから栗田艦隊に攻撃を加えており、また中央群から分かれた北方群が、小沢艦隊に向かいつつあるという構図である。例えば偵察情報だけでも、呉に在泊していた第6艦隊旗艦筑紫丸には、空母を含む大部隊が9時0分、ヤキ1カに近い地点ヤンメ55を南下中との偵察情報が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している。ただし都竹はこの情報が大和に届いたか記憶していない。 また、駆逐艦は燃料が極度に不足していた(後述のように撤退時5隻を分離する)。また湾口のスルアン水道通過についても機雷堰が設けられていると推測されており、難題であった。また、上述のイメージがあったため反転北上の報告を聞いた伊藤整一軍令部次長は即座に「それは却って危険だ」とコメントしたと言う。

一方で栗田艦隊の攻撃から解放されたアメリカ軍のスプレイグ少将は「栗田が反転を決めた理由は単純で、栗田は被害がこのままずっと続くかもしれないと恐れただけなのだ」と見なしていた[312]。その後第3集団も他の護衛空母群と共に特攻機の攻撃を受けた(後述)。他部隊も日本軍の迎撃に追われていたため、沈没艦の溺者救助には時間を要し27日まで待たなければならなかった。第3集団の戦死者は約1200人、負傷者は800人、飛行機の損失は100機であった。

第3艦隊の追撃と栗田艦隊の撤退行動[編集]

9時20分頃、ハルゼーにキンケイドから二度目の高速戦艦・機動部隊派遣の要請と、栗田艦隊の兵力、オルデンドルフ艦隊の弾薬欠乏が知らされた。ハルゼーは第1群を送ったこと、第34任務部隊は北方の小沢機動部隊を追って前進中であることを返電し、その後9時55分に第2群に反転を命じ、10時15分に自ら率いる第34任務部隊も反転した。リーは当初20ノットでの航進を命じたが、高速の機動を繰り返していたため第34任務部隊は小型艦の燃料に支障をきたし、12時から12ノットに減速して給油を行なった。給油は15時22分に完了し、ハルゼー大将は第7戦艦戦隊の戦艦2隻(ニュージャージー、アイオワ)、第14巡洋艦戦隊の軽巡3隻、他駆逐艦8隻を抽出して第34任務部隊第5群を臨時に編成、アイオワに座乗するバッジャ少将を指揮官に命じ、リーの本隊はこの後詰という形になった[313]

16時16分、サンベルナルジノ海峡に退避する栗田艦隊の上空を第6基地航空部隊の攻撃部隊約60機が通過する。サマール沖で栗田艦隊が会敵した米艦隊を攻撃するために出撃した部隊だったが、今作戦で始めてみる友軍編隊の雄姿に疲れきった艦隊将兵の生気が蘇ったという[314]。16時40分、約40機の艦載機の空襲を受ける。榛名に至近弾によって第一煙突近くで黒煙があがり、矢矧で火災が発生、駆逐艦早霜は被弾し栗田長官は秋霜をつけてコロン湾への退避を命じる。またこの空襲の際友軍の九九式艦爆数機が友軍による敵艦隊への空襲と誤認し攻撃に参加、羽黒を攻撃してしまう。栗田長官は17時10分に基地航空隊に誤爆している旨の警告文を発した[315]

ハルゼーは16時1分に速力28ノットを命じ続いて夜戦準備を下令、26日1時に海峡に到達することを予告した。第2群には東方海上で待機し航空機による支援体制を整えた。これによってバッジャの第5群は撤退しつつある栗田艦隊を追ったものの、栗田艦隊は21時5分頃に海峡を通過しており、第34任務部隊第5群との時間差は3時間あった。

19時25分、栗田長官は連合艦隊司令長官よりGF機密第251647番電を受信、これは栗田艦隊の反転北上を追認するものだった[316]。21時35分、サンベルナルジノ海峡を通過した艦隊は26日8時35分、20数機の米艦載機の攻撃を受ける。この攻撃で大和に2発の直撃弾、能代は直撃弾1発、魚雷1発を受け航行不能となる。栗田長官はこのままコロン湾に戻って補給するのは危険と判断、9時15分、ブルネイへ帰還することを決断する。既にコロン湾に入港していた妙高と長波には緊急出港を命じ、2隻は27日11時に出港、29日にブルネイに入港した[317]

10時30分、艦隊は20数機の敵機の空襲をうける。攻撃は航行不能の能代に集中し魚雷1本が命中、艦長の梶原希義大佐は11時5分に軍艦旗降下、総員退艦を指令。能代は11時13分に沈没した。この頃早霜の警戒をやめて主力を追従していた秋霜は能代の沈没点に到達、近くにいた駆逐艦浜波と共に生存者の救助に当たり早川第二水雷戦隊指令以下司令部要員、艦長ほか乗員を救助した[318]

秋霜と分かれた早霜は米艦載機の攻撃を受け2発命中、損傷したので付近の無人島に座礁させた。翌27日、付近を通過した沖波がこれを発見し、燃料の少ない早霜に自艦の燃料を分けるために横付けする。その途中、早霜の救援に向かった藤波が接近してくるが米機の攻撃を受け撃沈され乗組員全員が戦死した。またこれにより藤波に救助されていた鳥海の乗組員も全員戦死したのは前述の通りである。その後沖波は離れていくが、早霜は付近を航行する不知火を発見、しかし同艦も早霜の面前で空襲で撃沈される。結局早霜は11月1日に那智水上機に発見され救援隊が派遣される。艦長平山敏夫中佐他生存者は生還した

栗田艦隊は28日21時30分、ブルネイに帰投し、萬栄丸、八紘丸、雄鳳丸から一週間ぶりの給油を受けた。各艦の燃料は枯渇しかけており、戦艦は188〜1300トン、巡洋艦では40〜190トン、駆逐艦では100〜150トンだったとされる[319]

神風特別攻撃隊の初出撃[編集]

1944年10月25日、護衛空母「ホワイト・プレーンズ」に肉迫する第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の零戦。この直後、対空砲火によって右翼に被弾、撃墜された。
機の突入により轟沈しつつある米護衛空母セント・ロー。太平洋戦争の初めての特攻による米艦の撃沈。

レイテ沖海戦から「統率の外道」と最初の"発令者"第一航空艦隊司令長官大西中将("発案者"は軍令部との説が有力)自らが呼んだ、神風特別攻撃隊通称「特攻隊」とよばれる、航空機による体当たり攻撃が実施された。これは台湾沖航空戦により稼動機数が僅か零戦30機程度にまで激減した航空戦力で栗田艦隊のレイテ湾突入援護を行わなければならなかった大西中将が、苦肉の策として発令したものである。人事及び機材改造など準備に時間がかかることから、作戦の一つとして元々軍令部が準備していたことは疑いないが、どのようにして大西中将が特攻戦術導入に至ったのか(彼は元々特攻反対論者であった)等は、彼が終戦直後に何も語らずに自決したことにより未だに謎に包まれている。尚、陸軍は富永恭次中将を司令官とする部隊が"万朶隊"及び"富嶽隊"の2隊を特別攻撃隊として出撃させているが、これは海戦後の11月に入ってからのことであり、海戦時は実行部隊は未だ内地で編成中であった。

21日朝、海軍の神風特別攻撃隊は各地から出撃した。しかし天候不良などで会敵出来ず、24日まで3回出撃して帰還している。そして25日、4度目の出撃が行われ8時ごろダバオを出撃した部隊はレイテ湾の南で第77任務部隊第4群第1集団(コードネーム"タフィ1")の護衛空母群を発見しこれに突入した。護衛空母サンティースワニーに特攻機が命中し損傷した。10時45分、栗田艦隊の攻撃を受けた直後の"タフィ3"(第77任務部隊第4群第3集団)の護衛空母群にマバラカットを出撃した関行男大尉率いる零戦五機から成る「敷島隊」が突入した。護衛空母セント・ローに特攻機1機(一説には2機)が命中し、爆弾、魚雷の誘爆でセント・ローは沈没した。1時間後、再び"タフィ3"にセブを出撃した部隊が突入、護衛空母カリニン・ベイに特攻機が命中した。また第38任務部隊第2群の空母イントレピッドが特攻機の命中で小破した。

この攻撃により護衛空母1隻を撃沈、3隻を撃破したが、これを日本海軍は正規空母の撃沈破と誤認。特攻の威力を過大視した日本軍は終戦までこの戦法を正規の戦術として作戦展開していくこととなる。こうしてタフィ1は大損害を受けて撤退し、かわりに第38任務部隊第4群が護衛にあたった。この艦隊も特攻機に攻撃され、29日に空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッドが大破して避退した。

結果とその後[編集]

日本軍は、作戦本来の目的である輸送船団の撃滅およびアメリカのフィリピン奪還阻止を達成できなかった。

日本軍はアメリカ軍に一応の損害を与えることはできたものの、与えた損害をはるかに上回る損害を被った。しかし、10月27日に大本営海軍部はレイテ沖海戦の戦果を、「空母 撃沈8隻 撃破7隻、戦艦 撃破1隻、巡洋艦 撃沈3隻 撃破2隻、航空機撃墜 約500機、・・・・」と発表した。この誇大戦果は先の台湾沖航空戦の誇大戦果と合わせてますます日本側の状況判断を誤らせることになった[320]。日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても本格的な修理改装のできない南方とに分断され、組織的攻撃能力を失った。さらに本海戦後、戦艦金剛が本土への帰航中に米潜水艦シーライオン (USS Sealion, SS-315) に雷撃されて沈没、また損傷してマニラに避退していた重巡那智も空母レキシントン(CV-16)の空襲を受けて沈没している。

実際の戦果とは裏腹に、日本軍は米軍に対して一定の戦果をあげたと考えていた。サマール沖海戦で米護衛空母群を高速機動部隊と誤認していた事もあり、栗田艦隊だけでも撃沈・空母4隻(内大型正規空母1隻)、重(甲)巡洋艦1隻、軽(乙)巡洋艦1隻、駆逐艦4隻。撃破・空母2隻、巡洋艦又は大型駆逐艦2隻乃至3隻の戦果をあげたと判断している[321]。このため戦後になって実情が判明するまで、栗田と小沢の本作戦における海軍内での評価は現在と大きく異なり、自艦隊のみで米機動部隊の一群を殲滅した栗田艦隊への評価は高かった[322]

この海戦での連合艦隊の指導した「航空支援のない水上艦艇による突入作戦」は、制空権が重要となった第二次世界大戦では成功はほぼ不可能というのが常識となっており、栗田ら開戦以来前線で戦ってきた前線指揮官たちもそのように考えていた。しかし連合艦隊は当初の作戦内容では基地航空隊と機動部隊による航空支援を盛り込んではいたが、台湾沖航空戦の誤報戦果に踊らされて、捷号作戦用に用意されたそれら航空戦力を磨り潰してしまい、続けて米軍がレイテに侵攻すると後手後手に回り、結局航空支援のない突入を前線部隊に強要した。このことは連合艦隊と前線部隊、特に第二艦隊との間にしこりを残した。

栗田艦隊が内地に帰還し軍令部に出頭した際、山本祐二第二艦隊参謀より、航空支援の無い状況で水上艦艇を突入させることが如何に無謀で実施困難であるかが改めて報告され、軍令部より連合艦隊司令部へ「このような作戦を二度と行わない」様に指導して欲しいと要望された。軍令部はそれを了承し、連合艦隊側へ伝えたが、神重徳参謀は「前線部隊の健闘精神が足りないだけだ」と取り合わなかった[323]。連合艦隊側の航空支援の重要性の無理解さは以後も続き、1945年4月からの沖縄戦では再び航空支援の無い突入を第二艦隊に命じ、大和、矢矧など6隻を失い、約3700名の将兵を無駄に死なせた。前記の山本参謀もこの時大和と運命を共にしている。

ウルシー環礁に帰還したアメリカの第38任務部隊(1944年12月)

アメリカ軍に大損害を与えたと考えた日本軍はレイテ地上戦に突き進むことになり、多号作戦と呼ばれるレイテ島への兵員・物資の輸送作戦をおこなった。9次にわたるこの輸送作戦でも、日本軍は軽巡鬼怒以下多くの艦艇を喪失した。なおレイテ沖海戦の直後、軍令部では、特攻機と護衛機を積んだ雲龍型航空母艦と駆逐艦で機動部隊を編成し、再びレイテ沖に殴りこむという「神武作戦」計画が企画されたが、実行されなかった。レイテ島を制圧したアメリカ軍は12月15日にミンドロ島に上陸、そして1945年1月9日ルソン島リンガエン湾へ上陸した。ただし、一連の戦いでの抵抗が予想より大きかったため、ルソンへの進攻は2週間遅らされた。なお、アメリカ軍統合参謀本部は10月3日に陸軍はルソン島、海軍は沖縄を目指して攻略する決定を下し、レイテ島以降の攻略予定についての論争は終わった。

海戦への評価[編集]

概要[編集]

アメリカ側
第3艦隊はこの海戦の途中から日本側の作戦通り、囮である小沢艦隊を求めて北上、栗田艦隊の侵入を許し、急遽南下したもののその完全な撃破にも失敗した。
ハルゼーは24日夜の段階では栗田艦隊を撃破し退却させたと思い込んでいたが、戦いの後「明確な意図を持って進む強力な水上戦力を、航空攻撃によってのみ阻止するのは困難」と発言し、自身の正しさについて弁明した。戦後は回顧録の中でキンケイドを批判したため、怒ったキンケイドがそれに反論、それに乗っかった「野次馬」の間で、レイテ沖でのハルゼーの取った行動の是非を問う論争が勃発した。なお、ニミッツは上記のように海戦前ハルゼーに日本艦隊を叩くように指示を出していた。論争に疲れたハルゼーは、「レイテ沖はスプルーアンスが、フィリピン海海戦は俺が指揮を執ればよかったのだ」と一言漏らしていたという。
アメリカ側ではこの件に関しての議論が多くなされる。問題の一つには、第3艦隊が多様な任務を要求され、目的が不明確になったことがあった。カール・ソルバーグに拠ればキングは厳格に指揮権を分割されたことに責任を感じたため、ニミッツは「全世界は知らんと欲す」により第3艦隊を栗田艦隊への無意味な追撃戦に差し向けた責任からか、戦後は目立った発言がなかったのだと推測している。キンケイドは第7艦隊の基本的な任務である両用作戦の護衛と支援に意識が集中しており、当時第3艦隊がサン・ナルベルナジノ海峡を封鎖していると思い込んでいた。他の将官と異なり、回顧録の類は書かなかった。
マッカーサーは、捷一号作戦の着想の巧みさを認め、アメリカ側の問題として同一作戦の指揮系統の分断、通信不達・遅延を指摘、その責任はワシントンにあるとし、作戦における海軍側の最高指揮官であったニミッツには第7艦隊の奮戦に対する感謝の言葉を述べた(マッカーサー大戦回顧録[下])。
「全世界は知らんと欲す」
アメリカ第7艦隊の護衛空母群の1つ(タフィ3)がサマール沖で栗田艦隊に攻撃されて危機に陥ったとき、第7艦隊の司令長官キンケイドはハルゼーが指揮する第3艦隊に救援を求めた。このとき第3艦隊は小澤艦隊がいる北方に向かっており、戦艦・巡洋艦・駆逐艦で編成された第34任務部隊もその中にあり、ハルゼーは戦艦に乗艦していた。この救援要請はハワイの太平洋艦隊司令長官のニミッツにも届き、ニミッツは「第34任務部隊の位置を知らせよ(where is Task Force Thirty Four?)」とハルゼーに訊ねるように指示した。通信文を暗号化するときは本文の前後に意味を持たない字句(挿入句)を加えることがルールになっていたため、暗号担当の海軍少尉は前の挿入句に「七面鳥は水辺に急ぐ(turkey trots to water)」、後ろの挿入句に「全世界は知らんと欲す(The world wonders)」を加えた。この前後の挿入句は受信側で取り除くことになっていて、受信した第34任務部隊の各艦船は正しく取り除いたが、ハルゼーが乗艦していた戦艦ニュージャージーの通信員だけは後ろの挿入句を取り除かなかった。このため、ハルゼーに届いたニミッツの電報は非難または侮辱ともとれる「第34任務部隊はどこにいるのか。全世界は知らんと欲す」となった。ハルゼーはこの電報を読んで怒り悲しみ、受信から1時間後に戦艦部隊に反転して南に向かうよう命令した。
多数の艦船が戦闘に参加したこの海戦で、ハルゼーの戦艦部隊は北へ300マイル進んだ後、南へ300マイル疾走し、戦果は栗田艦隊の中で撤退が遅れていた駆逐艦1隻を撃沈したのみであった。この北と南への疾走は後にブルズ・ラン(「Bull's Run」、ブルはハルゼーのニックネーム)と呼ばれ一部から批判された[324][325]。この件は後に調査が行われ、本文とまぎらわしい挿入句を付加した海軍少尉は「もっと重要でない部署」へ転属となった[326]
日本側
敗北した日本では戦後、多くの議論がなされてきたことが出版の記録から明らかである。日本側では議論のほとんどは栗田艦隊の行動に集中しており、戦後は擁護、批判、中間的意見など様々な見解が交互に披瀝されてきたと言える。また歴史観や実証性に関わる問題として、弾薬問題、当時の現場指揮官の状況認識については現在でも新資料に光が当てられ、従来の説が俗説として批判されることがある。
公式資料としては日米の戦闘記録(戦闘詳報)などの一次資料、海戦後に米軍内で行なわれた一部指揮官への陳述記録、終戦直後にGHQ第二復員省等の手で行なわれた日本側指揮官の陳述記録、それらを元にした公刊戦史(複数)などがある。この他上は将官、下は兵卒や民間の船員に至るまで、日本側で個人的にこの戦いの記録を残した者は多く確認されており、自費出版などの事例も多い。一方で、対戦国であるアメリカ側にも多くの史料が存在し、その中には翻訳されたものもある。しかしこれらは需要や価格の面から出版されても衆目の目に触れられない物が多い。そのため2000年代に入って初めて発掘、翻訳等がなされて刊行されることもある。
なお、日米以外の当事者であるフィリピン人等の手になる文献も存在する。

日本海軍初のレーダー射撃[編集]

レイテ沖海戦時において、海軍が各大型水上艦に搭載した仮称二号電波探信儀二型改四は、戦艦程度の目標であれば、夜間15,000m、昼間25,000m(34,000〜35,000m説もある)の捕捉距離があり、また、大和を初めとする戦艦群は初めてといえるレーダー射撃をおこなっている。その性能は「まずまず信頼して使いうる程度」といわれているものの各艦ごとの評価にはばらつきがあり、戦艦榛名の戦闘詳報では「味方艦の電波が干渉しあって妨害される場合が多く、言われるような性能が安定して発揮できない」とある一方、戦艦金剛の戦闘詳報では「電測(レーダー)射撃は相当に有効。敵の電測射撃はわが方と大差ない」としている。戦艦大和でも、長距離で10m測距儀を上回る精度が記録されている。

一般的に、アメリカ海軍ではレーダー射撃が実用可能な水準になっている一方で、日本海軍ではレーダー技術が遅れておりその性能は劣っていたと言われている。しかし一方で、初月や西村艦隊へのレーダー射撃(下記)を例に挙あげ、アメリカ海軍のレーダー射撃も命中率の高さが証明されていないと言う主張がある。前者の場合、初月単艦を撃沈するのに巡洋艦4隻を含む13隻の艦艇で、2時間もの時間を必要とし、巡洋艦だけで主砲弾1200発を消費していることからレーダー射撃の正確さを疑っている。

しかし、「遠距離射撃で回避に徹する艦艇」に対する砲撃の命中率が悪いことは、光学測距による射撃の場合も同じである。これは日本海軍側も認めている事実であり、実際戦艦比叡と霧島、重巡洋艦利根と筑摩がアメリカの旧型駆逐艦エドサル単艦に昼間砲撃をおこなったが、主砲弾と副砲弾をあわせて1,335発を消費して命中したのは一発のみ(命中率0.074%)で撃沈できず、結局蒼龍の九九式艦爆がこれを撃沈した事がある。これを見ても初月の一件でアメリカ海軍のレーダー射撃能力を判断するのはできない。スリガオ海峡におけるレーダー射撃に関しては後述する。

栗田艦隊と第7艦隊の戦闘力に関する議論[編集]

米第7艦隊の状態に関する議論[編集]

栗田艦隊については、「レイテ突入を実行すれば弾薬が欠乏したアメリカの第7艦隊を撃滅した」という、根強い通説がある。例えば半藤一利の場合は「相手に弾がないんですから、恐いことはちっともありません」と発言し[327]谷光太郎によれば「砲弾の残量に乏しかった。第七艦隊は簡単につぶされただろう」と述べている[328]。確かに、スリガオ海峡海戦に参加した第7艦隊主力は西村艦隊を深追いしつつあり、これを呼び戻すのには時間がかかると見込まれ、また、弾薬の心配もあったとされる。そのため、受信したスプレイグ少将の無電を読んだキンケイドは、7時25分、ハルゼーに「第7艦隊は弾薬が欠乏している」と通信を送った[329]

一方で主に上記の観点に懐疑的な立場の評者からは第7艦隊の状況について次のような事実が提示されていった。

第77.2任務部隊関連
第一に、栗田艦隊をはじめとする日本側は後世の評者達と異なり第7艦隊の弾薬状況について知ることはなかった。
第二に、第7艦隊は、栗田艦隊に対して戦艦で1.5倍、巡洋艦で2倍以上、駆逐艦で3倍の戦力を有した[330]
第三に通説では不足していたと言われる第7艦隊の砲弾数だが、中核をなす戦艦に関しては一会戦する程度の分量は保有していた[331]
スリガオ海峡海戦前
  • 6艦合計徹甲弾1637発、高性能弾1602発
スリガオ海峡海戦後
なお、数時間後に到着した弾薬補給艦より徹甲弾48発、高性能弾1000発の補給を受けた。艦隊の他艦にも補給は行われていたという。このように、戦艦や巡洋艦との対艦戦闘に必要な徹甲弾は一定数が残されており、榴弾は装甲貫徹力はないものの、測距儀など、非装甲部分を破壊して戦闘力を奪うことができる。佐藤和正は巡洋艦には徹甲弾がないと述べた[332]が、巡洋艦についても各巡洋艦は各砲当たり50〜80発の徹甲弾が残っていた[333]という。スリガオ海峡海戦では砲弾の不足を補うために陣形を調整し待ち伏せを行い、中〜近距離戦へ持ち込むことに決めたという指摘もある[334]。一口に砲弾の不足と言っても「戦えない」わけではない。また半藤の言葉で言う「弾がない」と「砲弾が不足」は異なる状態である。
ただし、スリガオ海峡海戦時には次のようなトラブルも生じていたという意見もある[335]
  • ウェストバージニア:射撃中前部Mk.8レーダー故障。1、3番砲塔揚弾機故障。1、3番砲塔で一門ずつ発火ミスで以後射撃不能。
  • メリーランド: レーダー目標識別できず、ウエストバージニアの水柱(スクリーン上の虚像)を目標に射撃、効果なし。
  • カルフォルニア: 大部分の射撃は9門で実施。1番砲塔で装薬に破損。2、4番砲塔で発火ミスで砲塔故障、以後射撃不能。
  • ミシシッピ :レーダー目標識別できず。一斉射で終了。
  • ペンシルベニア:目標識別できず射撃不能。
このうち、ウェストバージニアの前部レーダー故障は一時的なもので、素早く後部レーダーへの切り替えが行われた上、すくに修復されたので砲撃に支障はなかった[336]。メリーランド、ミシシッピ、ペンシルベニアの3隻が目標を識別できなかった原因は故障などではなく、搭載していたレーダーが旧式のMark 3だったからである[337]。効果的に砲撃を行えたのは新式のMark 8を搭載したウェストバージニア、カルフォルニア、テネシーの3隻だった。
また米戦艦部隊による射撃が弾数279発中、命中弾数2発として(命中率0.68%)、レーダー射撃が効果的ではなかったという主張が存在するがこれは事実ではない。戦艦ウェストバージニアだけで、最初とその次の斉射でそれぞれ複数の命中弾を出している。行われた13回の斉射で、ウェストバージニアの砲撃はすべて目標を夾叉しており、そのすべてに命中弾の可能性があると判断されている。目視で確認されただけで1,2,6番目の斉射で命中が確認されている。ウェストバージニアの戦闘報告書は砲撃を「非常に効果的(very effective)」と評価した[338]。命中弾が2発というのはウェストバージニアの戦闘報告書だけでも事実無根であることが明らかであり、上記の大和と同じく命中弾の有無は別にしても、ウェストバージニアがすべての斉射で夾叉に成功した事実からレーダー射撃の正確さは証明されている。
反転を行わなかった場合、アメリカ第7艦隊と栗田艦隊の交戦は日中に行われることが多くの評者により自明のこととされている。栗田艦隊がレイテ湾に到達する間に故障砲の回復をさせ戦闘能力を回復させた場合、新式のレーダーを搭載した戦艦3隻だけが効果的に砲撃を行えたスリガオ海峡とは違い旧式のレーダーを搭載した3隻も光学測距による測距を行い戦闘を行うため日中近距離の戦闘での戦力低下はないと予想される。また航空機の空襲を受けた場合、日本艦隊はより砲撃命中率で不利と予想されてもいる。また、日本戦艦群も下記のように万全のコンディションではなかった。
一方、水雷戦の要である駆逐艦27隻については、スリガオ海峡海戦前の時点で5インチ砲弾は定数の20パーセントしかなかったとされる[339]。一方魚雷は従来撃ち尽くしたと考えられてきた(例えば『レイテ戦記 上巻』P261に「確かに駆逐艦は魚雷を使い尽くしていた」とある[340]。しかし、アメリカ軍の戦闘報告書からは搭載魚雷をすべて発射したのは3隻のみ、1本を残して発射した艦を含めても6隻のみが「ほぼ消耗した状態」であり、その他の艦は各艦当たり5〜10本の魚雷を残していたという[341]
その他の点としては、サマール沖海戦など他の戦いでは米駆逐艦隊は高い戦意を示しており日本側で問題になる燃料の面もロジクティクスは万全であることがある。旧来の研究でも砲弾について述べた文献では日本艦隊の圧勝を予測しているものはない[342]

栗田艦隊の状態に関する議論[編集]

栗田艦隊は作戦開始以来丸三昼夜をほぼ不眠不休の緊張状態で過ごし、栗田提督以下将兵は疲労と消耗の極みにあった[343]。その結果、既に25日朝のサマール島沖海戦で、護衛空母と正規空母、敵煙幕と直撃弾の識別さえできない、焦って気が逸るばかりな、技量や命中率云々以前の状態に陥っていたと言われる。例えば利根は、米護衛部隊や小型護衛駆逐艦を「レンジャー型空母」や「バルチモア級軽巡洋艦」と報告し[344]、第十戦隊は利根と羽黒の砲撃による水柱を魚雷命中と判断して台湾沖航空戦に並ぶ誤認戦果を報告している。また、戦後初期には大和の通信機も長時間の戦闘で調子が狂っていたとされた[345]。そのままレイテ湾に突入した場合、将兵がさらに疲労・消耗し、さらに能力が低下した状態で敵と交戦することになる点も、しばしば指摘される。また、駆逐艦などの航続力の短い艦船では燃料が減少しており[346]、その後、栗田艦隊は給油を行ないつつ艦隊を分割してブルネイに帰還している。

砲弾については戦艦には砲弾が残されているものの、重巡はほとんど弾を撃ち尽くしていたことが記されている[347]。羽黒は二番砲塔を失い、四番砲塔は弾薬切れ、健全3砲塔で残合計125発、さらに魚雷を使い果たしていた[348]。一方、巡洋艦、水雷戦隊は利根のように単艦で発射した艦がいるものの[349]、サマール沖海戦では駆逐隊全艦等による統制雷撃を行っていない。第十戦隊旗艦矢矧は9時5分に米護衛空母群に向けて魚雷7本(1本は不発投棄)を発射し、第十七駆逐隊も矢矧からの「発射本数四トス」の命令に従って同時刻に魚雷16本を発射と報告[350]。うち磯風は魚雷8発を発射したと同艦水雷長が記録しおり[351]、第十戦隊の発射魚雷数は27本である。残魚雷は、矢矧7本(3本機銃掃射で使用不能)、第十七駆逐隊32本(磯風計算外。実数28本)[352]。軽巡洋艦能代が率いた第二水雷戦隊の魚雷残量は第十戦隊より多い。

また、戦艦でも金剛は7時過ぎに敵戦闘機の機銃掃射により前檣楼トップに据えられた測距儀を破壊されており、以後砲塔測距儀による射撃によらざるを得なくなった[353]。榛名はマリアナ沖海戦での損傷修理が十分ではなく、26ノット以上を出せなかった。それでも第7艦隊の戦艦群よりは優速であるが、第7艦隊の戦艦群とほぼ変わらない速力しか出せない護衛空母の追撃においても支障が生じていた[354]

水上戦について付け加えれば、「アメリカ側(主に第7艦隊)の状態」で触れたように制空権がアメリカ側にある状態では、高い砲撃命中率が期待できない。これは直前に行われたサマール沖海戦で証明されている。

また、指揮、情報でも上記で触れてきた点の他に次のような問題があった。

まず、水上艦艇の能力を活用した作戦であるにもかかわらず、その中核である大和型戦艦については日本海軍内でも作戦を計画・指揮する部署にて正確な情報が共有されていなかった。栗田健男提督は「主砲口径が46cmであることを知らなかった」と米軍の調査団に陳述している[355]。第二艦隊の砲術参謀も同様で、艦隊の参謀団の全員或いは大半が、指揮下の戦艦の攻撃能力を知らなかった可能性が高い。戦後の一時期、大和型戦艦の攻防力は極端なまでに高く評価される傾向があり、史料批判に熱心だった大岡昇平も「「大和」の超大口径主砲がものをいって、オルデンドルフの旧式戦艦群6隻をアウトレインジ出来たかもしれない」と指摘し[356]、佐藤和正もこの可能性には言及している[357]。しかし、上記の証言は後世指摘される46センチ砲弾の威力、46センチ砲対応防禦と言った要素を計算に入れて作戦を行うことが、艦隊司令官には不可能であることを示している。

また、日本海軍が「遠大距離」と認識していた30000m以遠での砲戦例は機会が極めて限られており、命中弾を得た戦例はない[358][359][360]

次に、艦隊司令官の裁量は一般に考えられているより狭い面があった。6月29日、木更津沖の大淀にある連合艦隊司令部を訪れた第二艦隊の小柳参謀長は次期方針の打ち合わせに関係して艦隊旗艦を従来慣例となっていた愛宕から、通信能力・防御力に優れた大和型戦艦、特に旗艦としての司令部施設に優れる武蔵とする要望を上申した。しかし連合艦隊の草鹿参謀長は第二艦隊が夜戦部隊であり速力の遅い大和型戦艦を旗艦には出来ないこと、第一戦隊を中核に艦隊の別働隊を作る計画があることを理由として却下された[361]。その後、愛宕は潜水艦の雷撃で沈没し、艦隊司令部は作戦中に旗艦を大和に変更することとなった。このことが後の通信不達問題を多発させた背景として指摘され、既にサマール海戦中適切な指揮が出来なかった一因として佐藤和正などが指摘している(詳細は下記)。なお、この後に武蔵は航空攻撃により撃沈されているが、旗艦ではなく、輪形陣の中心に配置されていなかったこと(被害担任艦を期待されたとも言われる)には注意が必要であろう[362][363][364]。また、旗艦としての能力を人員面から見ると、海戦当時の条件ではないが、竣工後連合艦隊司令部が移動してきた際暗号士まで含めてその陣容は160名程度であったという[365]

3点目として、仮にこれら全ての不利を覆して栗田艦隊が船団を撃破できればアメリカ軍のレイテ島攻略、延いてはフィリピン諸島攻略に一定の影響を与える可能性は指摘される。しかし、揚陸した部隊への艦砲射撃は作戦計画に含まれておらず、行なうとしても現場指揮官の裁量となり、真珠湾攻撃の基地施設破壊と同質の現場指揮官の権能にまつわる問題が生じる。

謎の反転問題[編集]

この問題は本海戦の評価の中でも最も多く議論の的となってきた。ここでは、この議論を幾つかの争点に分割して記述する。栗田艦隊のサマール島沖海戦後の反転の意図は戦史研究家などの間では「謎の反転」と呼ばれ、題名にその名を冠して記事を執筆する人物もいる。海軍研究家として名高い池田清(重巡摩耶砲術士)は「レイテ沖海戦に寄せられる深い関心の大半は、この「なぞの反転」のなぞ解きにあると言っても過言ではない」と指摘している[366]。これに関連して幾つかの議論が起こった。各艦隊の状況を列挙した後、主に反転と栗田についての議論を記す。

ヤキ1カ電の存在[編集]

反転を決断するきっかけとなった、南西方面艦隊から発電されたとされる「0945スルアン灯台5度113浬ヤキ1カ機動部隊アリ」は他の戦闘詳報には記載がなく、誰が打ったのか、本当に存在したのか議論が続いている。大和戦闘詳報にしか記載がない事から、栗田艦隊の捏造であると小島清文[367]深井俊之助[368]などは主張している。

目撃証言と行動記録[編集]

ヤキ1カ電は電報自体の受電記録は、参加各部隊の何処にも記録はない。第一遊撃部隊の戦闘記録にも、旗艦だった戦艦大和や同乗していた第一戦隊などの戦闘記録にも何処にも受電の記録は無い。唯一第一遊撃部隊の記録に11時50分に南西方面艦隊及び第一第二航空艦隊に対して「ヤキ1カの敵を攻撃されたし」と打電したという記録、そしてそれを受けて各部隊に「ヤキ1カの敵機動部隊を攻撃せよ」と命じた大西瀧二郎中将の命令記録だけである[369]。これが捏造ではといわれる理由なのだが、電報自体は存在し、当時大和の水上観測機長だった伊藤敦夫少佐はこの時艦橋裏の作戦室に居てこの電文が読み上げられるのを聞き、その後海図台にあるその電報を見たと証言している[370]。大和以外の艦でも例えば摩耶主計長で摩耶沈没後、武蔵を経て島風に移乗した永末英一はこの時島風艦橋にいて、「スルアン島5度113浬に敵機動部隊アリ」の電報が入った事を記憶している。他にも当時軍令部第一部の作戦記録係だった野村実は軍令部の地図にヤキ1カ地点辺りに敵機動部隊の表記があり、自身も栗田艦隊の反転北上の報告を受けても「これに行くんだな」と思って何ら疑問に思わなかったと述べている。この海図のヤキ1カ点付近の米機動部隊ありの表記は軍令部作戦部長の中沢祐氏も見ていて自身のノートに記載している[371]

また受電記録はないが、参加各部隊の中で同時期にヤキ1カ電の情報を得ていたと思われる行動をとっている部隊の記録もある。栗田艦隊より1150発の「0945ヤキ1カの敵機動部隊ヲ攻撃サレ度」の電報を受けた第一航空艦隊司令大西瀧治郎中将は迷うことなく全力出撃を下命しており、栗田艦隊の言う「ヤキ1カ点の敵機動部隊」に関して何ら疑問も持っていない。第一航空艦隊にもヤキ1カかそれに類する情報が届いていたと考えられる[372]。第六艦隊の戦闘詳報には敵機動部隊をヤキ1カに近いヤンメ55に発見、南下中であるとの偵察情報が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している記録がある[373]

このように「ヤキ1カ」電は発信、受信ともに記録は残されていないが目撃証言はあり、しかも大和以外の艦艇の乗員でも目撃している。またヤキ1カ電に類する情報により行動している他部隊もいる。しかし電報の存在を疑い、捏造ではないかという論者はこれらの目撃情報に対する反論は一切無い。根拠自体も確かなものはなく、中には感情的に私見をもって捏造と断じる者もいるのが実情である[374]。そもそも電報を捏造して受電記録は戦闘詳報に記載せず捏造しなかったのでは、事後に簡単に発覚してしまう。そしてでっち上げた「ヤキ1カ」電の名前を出して他部隊に攻撃を要請するなどという捏造をばらす様な行為をするはずも無い[375]。捏造自体も第一遊撃部隊司令部だけがそのような行為をしても周囲の部隊から指摘を受けるのは明らかで、しかもそれが作戦自体の中止を実質的に決断するようなものであるのだから尚更である。しかし実際にはそのような事は一切無く、連合艦隊も前日の24日には「天佑を確信し全軍突撃せよと」と固い決意を全軍に示し、作戦続行を表明していたのに、25日の反転ではそのような事は一切無く反転北上の報告を聞いても断固突入を指示することも無く簡単に容認している。

捏造説とそれに対する反論[編集]

当時大和の副砲長で捏造説を唱える深井俊之助は著書で

  • 副砲射撃指揮所(場所は大和第一艦橋の3階下)で指揮を取っている最中、大和が反転北上しだす
  • 空襲による回避行動(実際このとき艦隊は対空戦闘中だった)だと最初は思ったがいつまでたっても針路を戻さないので不審に思い、戦闘が一段落したときに第一艦橋に向かった
  • そこでは宇垣第一戦隊司令が「レイテ湾に行くのではないのか」と叫んでいて、栗田長官以下第二艦隊司令部(小柳参謀長は不在)は沈黙し艦長副長以下大和幹部も沈黙していた
  • 深井と同時期に艦橋に来た士官と共に第二艦隊参謀に問いただすと敵機動部隊を攻撃に向かうと言われたので抗議する
  • すると大谷参謀が作戦室よりヤキ1カ電の電報を持ち出し「ここの敵を攻撃にいくのだ」「若い者は黙れ」と言われた

と証言している[376]

深井氏はその後、同著で電報は大谷参謀による捏造ではないかと述べ、その根拠として

  • 大和の通信施設は充実しており、5~60名の熟練の要員がいる。対して愛宕から移乗してきた第二艦隊の通信要員は15.6名で通信機能は弱かった。それなのに大和の通信班はヤキ1カ電を傍受できず、艦隊司令部の通信班が傍受できたのは不自然
  • 出撃前の連合艦隊神重徳参謀から許可を引き出したこと自体が撤退の口実にするためだった
  • 撤退のタイミングがレイテ湾の眼前から翌日にシブヤン海を通ってパラワン水道の西へ抜けて敵の航空攻撃を避けれるきわどいタイミングであり、大谷参謀はそれを見越してこのタイミングで撤退を進言した。

と証言している[377]

しかし、大和通信士で第一艦橋に居た都築卓郎は大和に第二艦隊司令部が移乗し、通信班が散り散りで少ない事を受けて大和通信班から補充要員を出したと述べており、深井氏の論拠と異なっている。同氏は他にもこの作戦で艦隊用一般短波に指定された七九一〇KCは、マニラの気象放送七九〇七・五KCと余りにも近く、混信のため31通信隊との通信が困難であったこと。海戦前の大和に施された対空砲の増設により、上甲板の第一受信室は轟音と振動で戦闘中の受信は不可能になっていたこと。連日繰り返される空襲で大和の通信線は断絶し通信線の大半である60本にも及び、空襲の合間を縫って復旧作業を行ったが張替え終わっても、落下した空中線が、電磁誘導や浮遊容量による雑音を引き起こし受信に悪影響を与えたこと。電信員の数は一応定員を満たしていたが、速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多く、戦闘中でも最低2直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困憊ぱいの極に達していた。などを証言している。『大和から見たレイテ海戦

深井の説とは異なり、大和の通信班は能力的に劣っており、都築氏の言うように機能も麻痺しているに近い状況であった。栗田艦隊の他艦では受信できていながら大和では栗田艦隊司令部側の記録にはあって大和側の記録にはない電文すら存在する[378]。深井の他の2つの根拠にしても、神重徳参謀から許可を得た事は前述の小柳参謀長の当時の言動にもあるように、例え小沢艦隊がハルゼー機動部隊の北方への誘致を成功させたとしても、常識で考えて輸送船団の護衛全てを引き連れる事は考えられず、数隊は残していくことが考えられる。それらは栗田艦隊が接近してきたら当然阻止行動にでるし、仮にそれをかわせて湾に突入できたとしても追いかけてきて妨害してくるのは当然考えられることである。湾周辺に居るそれらを排除するのは作戦を施行するための当然の行為であり、小柳参謀長らの考えもその了承を得るものであって、連合艦隊側もすんなりそれを了承したのもそれが理由である。撤退のタイミングはそもそも当時の日本軍は米機動部隊の正確な位置は把握できておらず、基地航空隊などは複数の誤報に踊らされて攻撃隊を出撃させて空振りに終わるなどしており、そもそも敵航空隊の攻撃範囲を知ることすら不可能な状況であり、このタイミングで大谷参謀がそれを知りえるわけも無い。小沢艦隊のみが唯一敵機動部隊の位置を捕捉していたが、敵艦隊の位置の報告はしておらず小沢艦隊の発した無電も幾つかは深井の言う「優秀な通信班」の大和通信班は受電していない。

上記の深井の論拠と同様、捏造を唱える人々の意見には事実誤認や考証不足、感情的な思い込みで唱えているものが多く、捏造説の矛盾点、例えば他部隊がヤキ1カ電情報を元に動いている、等の事実に対して説明がつかない物もある[注釈 8]。また大和の艦橋は移乗してきた第二艦隊司令部によって手狭になり、艦長以下大和幹部は最低限の人員だけ残して他の配置に移っており、この時艦橋にいたのは第二艦隊と第一戦隊の司令部要員だけであった、という石田氏の証言があるが、艦長・副長も居たかのようになっている[注釈 9]

なお、当時大和主計長で、愛宕撃沈の際に戦死した副官の替わりに栗田の副官業務を兼務した石田恒夫氏の証言では反転前後の艦橋の様子は深いの説明と異なり

  • 1130頃、防空指揮所から大谷参謀が降りてきた所、通信士官が入室して一通の電報を渡し大谷は一読し栗田へ差し出した。
  • そのあと大谷は小柳参謀長を促して先任の山本祐二参謀と3人で艦橋一段下の後方にある作戦室に入り、栗田は艦橋に留まった。
  • この時第一戦隊司令の宇垣も艦橋に居て「何事か」という動きを見せたが彼も艦橋に留まった。
  • 作戦室内での会議には小柳、大谷、山本の他、宮本鷹雄、森卓二両参謀。八塚清先任副官、第一戦隊司令部の野田六郎、末松虎雄両参謀、大迫隼人機関参謀も参加した。
  • しばらくして小柳と大谷が艦橋に戻り大谷が栗田に意見具申した。(小柳参謀長は愛宕沈没時に負傷していて立っているのがやっとの状態だった)
  • この時点で艦橋に居た幹部士官は栗田、宇垣、小柳、大谷、石田の5人だけ、艦長の森下は防空指揮所に上がって操艦の指揮を執り、他の幹部も出払っていた(特に大和の幹部士官は第二艦隊司令部を大和に収容した際に、艦橋に二つの司令部が入って手狭になり必要最低限だけ残して分散配置している)
  • 意見具申を受けて栗田は反転を決意。1230頃に森下艦長に大谷参謀から面舵一杯の指示が出る。
  • これに対して宇垣司令より「参謀長、敵はあっちだぞ」という叱咤があったが栗田が「いや、貴官の進言通り、北東の機動部隊に向かう」と答えた[379]

と証言している。また第一戦隊参謀だった伊藤敦夫は深井の証言しているような「宇垣第一戦隊司令が怒鳴っていた」という事実は無く、レイテ突入を主張していた事については記憶に無いと証言している[380]

他にも、栗田と対談した事もある海軍78期の大岡次郎は、ヤキ1カ電は南西方面艦隊は打電していないと言われているが、当事者の死亡や戦後の資料散失礼で南西方面艦隊の資料が多く失われている状態であり、本当に打っていないのかどうかは実は判っていない。「打っていない」と言ったのは誰で、何を根拠にしたものなのか、証明はされていないと主張している[381]

なお、栗田のこの反転行為を「命令違反」と断じる者も居るが、上記のように反転して敵水上部隊を攻撃する行為は連合艦隊参謀に承認を得ているものであり、前線指揮官の指揮権の許容範囲に含まれるもので妥当ではない。艦隊司令長官に作戦中止の権限が無いのは事実だが、反転行為自体は当時の日本軍が把握していた状況では突入前に周囲の脅威を除くという妥当なもので、結果的に敵の存在が虚報であったとしても、それをもって命令違反、勝手に作戦を中止したと論じるのは不当な行為である[注釈 10]。栗田の上官である当時の連合艦隊司令長官豊田副武自身も著書「最後の帝国海軍」で栗田の判断を擁護し、前線指揮官の判断を尊重する立場をとっている[382]

作戦目的に関する議論[編集]

栗田中将本人はレイテ湾を目前とした反転行動の理由について、「敗軍の将は兵を語らず」と言った立場で、戦後、あまり多くを語らなかった[383]。だが戦後10年経った頃に、旧知の仲であった戦史研究家・軍事評論家である伊藤正徳の問いに答えるかたちで、当時の心境を簡潔に語っている。しかし栗田は後に児島襄の取材で伊藤の記述に対し、彼が20年ぶりにいきなり表れノートも何もとらずに取材し書いたものだと述べ、記述に一部誤りがあることを述べている[384]

艦隊の参謀長であった小柳冨次は著書で追撃を中止した理由として「最後まで敵を機動部隊の高速空母群と誤観測していた」[385]と述べ、もし敵情を正しく把握できていれば当然追撃は続行していたであろうとしている(このことはのちにまとめて触れる)。また、第7艦隊の作戦参謀リチャード・クルーゼン大佐は空母機動部隊の接近を知れば栗田艦隊が退却するかもしれないと考え、ハルゼー宛ての救援依頼の他に「2時間以内に救援に向かう」という返事を平文で電話する謀略を講じていた[386]

しかし、評者達により過去最も議論の焦点となってきた説は、原因を作戦の計画段階に遡って求めたものである。下記のマニラで8月11日に行われた計画の打ち合わせの段階で連合艦隊司令部と栗田艦隊の意思疎通の欠如が見られ、作戦目的の認識に影響したというものである[387]。つまり、海軍中央では比島上陸部隊の輸送船団を叩く事を主目的とし、打ち合わせでも神参謀は「艦隊が全滅しても構わない、以後の作戦は一切考慮しない」と述べた。しかし栗田艦隊では機会さえあれば敵主力艦隊を撃滅することを望み、また、被害が大きくなって来ると、以後の作戦のために1隻でも多くの艦艇を保全することを考え、この齟齬が反転につながったというのである。

しかし栗田は戦後の会見等で船団も重視していたことを述べており、小柳ら他の首脳部も著書などで船団の価値を否定してはいない。むしろ連合艦隊側の参加者の方が前線部隊への作戦指導に徹底を欠いた面の方が大きい。この打ち合わせはフィリピンの南西方面艦隊司令部で行われ、三川軍一艦隊司令長官以下司令部要員、第二艦隊からは小柳参謀長、大谷参謀、内地からは神重徳連合艦隊参謀、榎尾義男軍令部参謀が出席したが、連合艦隊の参謀陣の長である草鹿参謀長は参加せず、小柳参謀長の要望に神参謀の殆ど独断で承認を与えている。神参謀はかつて第一次ソロモン海戦の時に第八艦隊参謀を務め突入作戦を作成した中心人物であり、米艦隊殲滅後に輸送船団への攻撃を中止して引き上げるよう進言した張本人だった。この事は当時第八艦隊司令長官であった三川も覚えており、神は小柳の要請を断りずらい状況(断ることは第一次ソロモン海戦での自分の判断が間違いだった事を認めることになる)だった[388]

また水上艦隊との決戦を望む考えは第二艦隊司令部だけでなく貴下の戦隊指揮官、各艦長の中にもあった。宇垣纏第一戦隊司令は、作戦前の9月23日に、小柳参謀長、山本参謀を旗艦大和に迎えた際に、輸送船団攻撃よりも敵主力艦隊との決戦をしたほうが良いという自身の考えを伝えたと記述している。また海戦当日の記述でも、サマール沖海戦後に栗田がレイテ湾への突入を再開することを指示した時にこれを「何を考えたか~」と意外だった様に書いており、彼自身が当日も敵主力との決戦を望んでいたかのように記述している。当時重巡利根の艦長として参加していた黛治夫も栗田の反転は当然の考えであり、「謎」でもなんでもないと否定している[389]。むしろそういった指揮官たちの考えを栗田らが抑えてきた面もある。

批判的評価と肯定的評価[編集]

作戦目的の不徹底を反転の原因とし、批判的な立場を表明したのは半藤一利[390]、外山三郎、谷光太郎[391]、原勝洋、菊澤研宗、佐藤大輔、佐藤晃、江戸雄介などである。『失敗の本質』は物量格差、計画との差異に言及しつつ、目的解釈については中央と現場が分裂したという立場をとっている。佐藤晃は持論の政戦略面を基調とする海軍批判(および陸軍擁護)の一環として本海戦を採り上げ、作戦目的への無理解を批判し、栗田を命令違反のかどで軍法会議にかけるべきだったと述べた[392]。これに近い強い批判は江戸雄介も行っている。

しかし連合艦隊側の作戦指導の徹底が及ばなかった面も大きいのは前述した通りであり、一方的に第二艦隊側の作戦の無理解だと決め付けるのには無理がある。佐藤和正は著書『レイテ沖海戦』で容認した神重徳も第一次ソロモン海戦で船団を支援する敵艦隊との戦闘を経験している点を挙げ「敵艦隊と遭遇した時、これを回避して輸送船団を攻撃することの困難さを神参謀は熟知していた」と述べた。著書自体もマリアナ沖海戦の敗戦時点から説き起こし、シブヤン海に進出するまでに文庫本1冊の分量を充てて背景説明に重きをおき、日本軍全般の不利な情勢の他、マニラでの打ち合わせ後、栗田艦隊司令部が船団攻撃の研究を行い、艦隊の訓練内容も完全に船団攻撃向きに変えたことが描写された。佐藤和正は最後に「反転は“正解”だった」という節を設けており、それにとどまらず反転批判論者に対して当時の情報の不完全性などを指摘しつつ、「結果から導き出した栗田部隊への批判は、難詰であって、きわめて厚顔、無礼なもの」という旨の批判を行っている。ほぼ同様の立場としては『やっぱり勝てない?太平洋戦争』があり、同書は当該の章の副題にも「レイテ湾口で全滅」の表現を入れている。

半藤、谷は突入すれば日本艦隊は輸送船団を撃滅できたと主張し、第7艦隊は弾薬切れであることを有力な材料の一つに挙げている[393]。但し実際は米艦隊にはあと1回は戦えるだけの燃料弾薬があり、しかも一部は補給を済ませている事は前述した通りであり、半藤・谷の説は誤りである事が実証されている。

江戸は成功の可能性に言及しつつ、撃滅に失敗しても海軍の任務としてやるべきだったことを主張している。原は命令の絶対性を根拠とした。児島襄は弾薬の欠乏については認める記述をし「明確な目標と任務の認識を欠いた栗田艦隊が決戦、突入のいずれも果たせず終わったのは当然」[394]と評した。なお、外山三郎は栗田艦隊だけではなく、連合艦隊司令部でも草鹿参謀長のように艦隊決戦への未練があった者がいた可能性を指摘している[395]。しかし前線指揮官が中央の指示を待たずに実質的な作戦中止の判断を下した事例はあり(珊瑚海海戦での第四艦隊司令長官井上成美や、第一次ソロモン海戦での三川軍一など)その後にそれら提督が処分を受けてはいない。また連合艦隊側も栗田の反転の報告に対し突入を実施するよう督促した事実も無い。軍人が命令を守るというのは原則論であり、それを全ての事例に当てはめて賛否を問うのは正しい行為とはいえない。またレイテ湾近辺に敵艦隊を見つけたらそれを攻撃するのを優先してよいことは連合艦隊参謀から承認を得ている事であり、反転した行為は命令違反には当たらない。その事は連合艦隊司令長官であった豊田副武も著書で述べている[396]

作戦目的関連の批判と絡めて、栗田の資質に関する議論も生まれた(詳細は栗田健男の項を参照)。半藤は、栗田艦隊司令部が反転のために嘘をついていると述べ、栗田には過去の戦闘でも逃げ癖があったと主張し、本海戦での行動についても疑念をあからさまに述べている[397]。こうした栗田個人の資質に関わる批判は旧海軍軍人の小島秀雄もしている[398]高木惣吉は「レイテの敗将を兵学校の校長に据えた」と批判した。これに対し森本忠男は『歴史と人物』の「誰が真の名提督か」での小島秀雄の栗田評を取り上げた際(小島が)「嘲笑を込め」ていたと表現し、同じ座談会に参加した黛を擁護派に数えて自身の栗田擁護論の根拠の一つに使っている。また、『失敗の本質』で栗田を「戦略不適応」「作戦全体の戦略的目的と自分に課せられた任務とを十分に理解していたとはいえなかった」という戸部良一の栗田評を取り上げ、「まったく的を得ていないと筆者は思う。栗田提督は作戦の目的や任務を理解していなかったのではなくて、作戦と任務そのものに反対していたのだ」と批判を行っている[399]。亀井宏は、軍人が戦後になって「内心は反対だった」と言った発言をするケースを「あまり上等な人間のすることではない」と述べ、続けて簡単に反省されたのでは戦死者は浮かばれない、腹を切るか、弁解せずに黙っている方がより正しい姿勢である旨を書き、栗田を擁護した。佐藤和正は『レイテ沖海戦』にて栗田の反転決断を正しいと述べ、好意的記述が多い。2000年代に入ってレイテ沖海戦について書いた元通信士官の左近允尚敏都竹卓郎等もいずれも栗田に理解を示し、擁護している。

海大甲種では無かった栗田に、海大甲種卒の人間が責任を押し付ける向きがあった事は奥宮正武の他、黛治夫などが指摘している。奥宮は上述の高木惣吉の批判に対して、当時は全員が敗将だったと批判を行っている(高木の戦後の証言に関しては現場経験者などから否定意見も多く、当人もそう証言している[高木はその海軍士官人生の殆どを陸上勤務で過ごしていて現場経験は乏しかった]。また全員が敗将という指摘は児島襄も行っている)。佐藤清夫のように、研究を進める過程で批判一辺倒ではなく擁護的に変わった者もいる。児島は指揮官としての適性には否定的だが、海軍上層部の人選に問題があった可能性を指摘し、栗田の境遇には同情している。

栗田を擁護し評価する人々では他に上記の小柳冨次(但し小柳は「すぐれた軍事史家の公正な批判に待つ」とし、判断を世に問う形としている[400])や黛治夫(利根艦長)[401][402]が居る。黛は、自分が栗田でも同じ判断をすると答え[403]、「戦さの判断というものは難しい。栗田はさすがにえらかった」と述懐した[403]。海戦に参加した栗田艦隊の尉官として、左近允尚敏が通信状況や自らの体験から栗田を擁護している。村井弘司(愛宕主計中尉)は、レイテ沖海戦に参加した者だけが反転理由を知るものとした上で「是」とする[403]。栗田艦隊将兵は、多くが反転に肯定的であるという[404]大和艦橋で栗田の判断を観察していた石田恒夫(レイテ沖海戦時、大和主計長)は、栗田の葬儀で「レイテ沖の反転は敵を求めての反転であり、長官の自信ある用兵、決断による作戦行動であったことは、かの激しい戦場にあった者のみ知るところでありましょう」と述べている[405]

栗田艦隊以外に目を向けると、連合艦隊司令長官であった豊田副武は本海戦のような状況は現地指揮官が判断すべきものであり「栗田君から弁明は聞いてはおらない」旨を述べており、佐藤和正がこの言葉を擁護的文脈で自著に引用した[406]。その他に福留繁[407]奥宮正武[408]が擁護し、左近允と同じく尉官だった佐藤清夫などが若干の擁護をしている。佐藤清夫の場合は、当初は批判的立場のみであったが後に調べを重ねて考えを変えたことを述べている。なお、佐藤和正は『戦藻録』の解釈から宇垣纏も反転を是とする考えを前提にしていたと推量している。

古村啓蔵(当時は第一航空戦隊司令官で小沢艦隊所属だが作戦には未参加)は亀井宏のインタビューに対し、レイテ沖海戦は一種の特攻であり、「栗田さんほどの人を殺すためには、連合艦隊もそれ相応の挨拶があっていい。豊田副武長官が乗って突っ込めば良かった。豊田ぐらい(かわりは)いくらでもいる」と怒気を含んで栗田を擁護している[409]

中間的評価
批判と肯定が混在し、一概にどちらよりと見なせない者も居る。大岡昇平はこのやりとりについて『レイテ戦記』でコメントを残していないが、栗田艦隊の戦意の不足、当事者達の弁明に懐疑的で「旧軍人の書いた戦史および回想は、作為を加えられたものである」と述べ、当事者の恐怖心への推論を行っている[410]。また栗田の逡巡を「当時の大本営海軍部にとっては勿論、現在の日本人にとって感情的に受け入れることは出来ないであろう」と述べ艦隊の反転を「出先の戦闘単位に命令違反が現れた。大和以下の主力艦群は自爆を拒否したのである。」[411]と述べた。一方で、作戦目的については日米両艦隊の指揮官が揚陸と「決戦」の狭間で引き裂かれた[412]ことを指摘、反転せず南下した場合の船団攻撃の勝算も悲観的な立場をとった。栗田については「司令官に逡巡が現れた原因は、性格、指揮の経験不足に求めるべきではなく、歴史の結果にもとめるべき」旨を述べ、「氏の逡巡を批判する者ではない」[413]と述べた。対戦国である英国の首相であったチャーチルは回顧録の中で栗田艦隊の苦境を挙げた後「この戦場と同様の経験をした者だけが、栗田を審判することができる」と述べている。
また、他者の批評に対する批評は佐藤和正以外の評者にも見られる。大岡昇平はスリガオ海峡の戦闘の評価に関連してだが、史料批判を行なう際にモリソンの『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』15巻を指して「米海軍公史の性格をもつものだが、それだけに迎合的筆致が見られ、聯合艦隊に対して嘲笑的」と述べジェームス・フィールドJrの著書を「好意がもてる」と評した。伊藤正徳『連合艦隊の最後』については「聯合艦隊への愛惜が感じられる好著」だが、戦略調査団に迎合的答弁をした旧軍人への反感を指摘し「やや偏っている」と述べた[414]


その他の評価
これらのいずれとも異なる(或いは別の特徴的な観点からの)見方もある。大和で偵察員をしていた岩佐二郎は著書にて上官の批判は行なっておらず、むしろその心情を慮る記述をしているものの、主に心情的な理由から反転せず突入するべきだった旨を主張している。また、本海戦での物量格差は複数の者の指摘するところであり、戦時経済など戦争全体について扱った議論で提示された事実から、太平洋戦争について一定以上の知識を持つ者にとっては暗黙の前提ともなっているが、例えば森本忠夫は物質的な困窮が本海戦以降特攻戦術の拡大に繋がったと言う点に着目しており、作戦計画をその流れで解釈したことを挙げている[415]
作戦自体を否定する評価
一方、日本側には捷号作戦の意義自体を批判する者もいる。大井篤は連合艦隊艦船などの「目に見える損害よりも、かくれた損害の方がズッと重大である」と指摘、作戦に投じた兵力をフィリピンでの輸送作戦、護衛作戦に投じたら、護衛艦艇が倍増することにより輸送も遥かに活発になり、より多くの南方資源を日本に送り込み、南方資源船団とフィリピン軍事輸送船団を別個に編成して航路も変えることにより敵潜水艦の攻撃を分散できた旨を主張、作戦の「殴りこみ」の性格や海戦後海軍の作戦指導者達が「あれでもやらなかったよりましだ」と思い込んでいるかのように見えたことを批判した[416]
奥宮正武は栗田を反転論議におけるつくり話などの被害者であるとし、最近は旧海軍についての常識がないためそれを史実と信じるおそれがあると主張、作戦については「航空のことを無視した大艦巨砲主義者たちによって計画され、強硬された」と評した[417]。責任については連合艦隊司令部が最も大であり、本作戦に限らず戦争で栗田が参加した多くの戦いについても「不適切な作戦指揮の後始末をしたようなもの」とし、作戦中の評価については、突入命令より先に手探りで敵艦隊を求め、空母の掩護もなかった栗田艦隊に敵情を示すべきであった旨を述べた。宇垣については戦藻録で批判をしているが、意見具申をしていないと指摘し、理由を敵情不明に求めた。また、このような事態になった遠因をマリアナ沖海戦時の小沢治三郎の失策に求め、小沢は航空戦に無理解で印象と実態の落差が激しいと批判した。海戦自体については「敗戦処理」「消化試合」であり、最大の海戦と見ているアメリカ人や決戦と見ている一部の海軍軍人を批判した。
大和の防空指揮所でレイテ沖海戦に参加した小板橋は、栗田艦隊のレイテ突入が作戦の目的であるにも関わらず、航空機の援護計画がなかったことを批判している[418]。さらに栗田艦隊がレイテ湾に突入したとしても、西村艦隊と同じく全滅したであろうと推測し、「アメリカ軍を壊滅させて戦局逆転云々」は海戦に参加していない第三者の単純な見方であると評している[419]
反転については左近允尚敏もコメントしている[420]。左近允尚敏は西村中将が繰上げ突入を独断したことについて、何の戦果もなく全滅したことを批判し、明るくなってから攻撃するべきだったと述べた。

通信不達に関する議論[編集]

本海戦ではあまり知られていないものも含めて、日米双方で通信の不達、或いは着電の著しい遅延する事例が発生した。日本側の状況は日本語文献ではかなり明らかになっており、実態としてはこの問題があらゆる局面で指揮官や司令部の判断に重大な影響を与えていた。終戦直後米国戦略爆撃調査団により行われた聞き取り調査でも多くの参謀、艦長、司令官が揃って述べたのがこの通信体制の不備であった。

疑念[編集]

栗田艦隊は北方機動部隊が存在するという電文を受信したのか、また小沢艦隊の誘出成功の電文を栗田艦隊司令部は知らなかったのかどうか、という論点について以下の説がある。

半藤一利によれば、サマール沖海戦で戦闘を行いつつエンガノ沖海戦中の小沢艦隊から大和が25日に受信した電報は次の通りである[421]

  1. 十月二十四日に敵機動部隊に対する航空攻撃開始を知らせた電報(1KdF機密第241138番電[注釈 11]
  2. 日向、伊勢を中核とする前衛部隊の派遣を知らせる電報(1KdF機密第241439番電[注釈 12]
  3. 日向、伊勢をふくむ前衛部隊を本隊に呼び戻す電報(1KdF機密第242127番電[注釈 13]
  4. 小沢艦隊上空に敵偵察機が現れ、ハルゼーに発見されたことを知らせた電報(KdMB機密第241715番電[注釈 14]
  5. 二十五日朝、ふたたび敵艦上機の触接を受け、ハルゼーの攻撃が近いことを知らせた電報(1KdF機密第250732番電[注釈 15]
  6. 敵艦上機八十機来襲、交戦中であることを知らせた電報(1KdF機密第250815番電[注釈 16]
  7. 瑞鶴に魚雷命中を知らせた電報(1KdF機密第250937番電[注釈 17]
  8. 小沢長官が大淀に移乗、作戦を続行中であることを知らせた電報(1KdF機密第251107番電[注釈 18]
  9. 敵機一〇〇機の攻撃を受け、秋月沈没、多摩落伍を知らせた電報(1KdF機密第251231番電[注釈 19]

このうち6と7は発信前に瑞鶴が沈没したが、残りの電報でも囮作戦の成功だと判断することが出来、1、2、3、8、9は大和の電報綴に記録があるから瑞鶴の通信機は故障していない、したがって、通信不達はあったものの小沢艦隊が空襲を受けていることは分かった筈だと半藤は主張した[421]。また、電報の不着や遅延が重なると不自然で、それを理由に全てを隠蔽したと述べた[422]田村俊夫は半藤説を採りつつ栗田に情報が届かなかった理由は参謀の陰謀によるものだと述べた。

大岡昇平は、瑞鶴の通信機が故障していたと述べた小柳冨次の証言が誤りであること、瑞鶴の通信長が戦死していること、モリソン戦史が戦艦大和の電報綴を元に書かれているが小沢艦隊が敵と接触した報告がこの綴りにはあるのに栗田艦隊の戦闘詳報にはないこと、などを疑問点としてあげている[423](一部は半藤が『全軍突撃 レイテ沖海戦』で挙げた点を援用している)。また、大岡は、例え愛宕に乗組んでいた第二艦隊の通信班が一部しか大和に移乗できなかったとしても大和の通信設備は完備されているし、愛宕の通信班も使えば通信業務は出来た筈である旨を主張した。

大和の通信班に所属していた元予備少尉の小島清文は、北方機動部隊の電報を見ていないことや彼が見たという大和の艦橋の様子などを根拠に、電文は捏造であると結論した[424]。また『戦史叢書』では北方機動部隊の電文について「問題の空母情報は第一遊撃部隊だけではなく、マニラでも内地でも受領されたことは紛れもない事実であるが、その情報源は分からない」と記されているが[425]、小島はこれも戦史叢書が誤っていると主張した。

反論[編集]

当時熊野に士官として乗組み、戦後海上自衛隊統合幕僚会議事務局長などを努めた左近允尚敏は艦艇研究家の田村俊夫が半藤の主張を汲み入れて『海交』で疑念を呈した際、反論している[426]。まず1~5の無電は交戦とは無関係であり、囮が成功しているのかは当然ながら断定できない。6,7は発信は確認できないと述べているが小沢艦隊に所属する航空戦艦「伊勢」の戦闘詳報には受電の記録があり、発信されているが、それ以外に受信記録は無い。8は旗艦変更を述べているだけで瑞鶴の被害状況は説明していない。「旗艦変更=旗艦が沈没の危機にある」とは限らない事は多くの事例があるし、実際旗艦変更時点で瑞鶴は爆弾1、小型爆弾2、魚雷1を受け通信設備が損傷した程度であり速力も24ノット出せれる状態だった。それまで2回あった空襲も1回は回避に成功してすらいる。瑞鶴が致命傷を蒙り沈没が確実となったのは小沢が退艦した後である。9は大和の受信が14時41分で栗田艦隊が反転した後であり、反転時は手元に届いていない。以上から受電文から分かるのは100機に空襲されて旗艦が変更されたということだけであり、「ハルゼー機動部隊が北につり上げられ、敵主力は南方にいないことが十分に読みとれるはず」という半藤の推理は結果が判っているからこそ言える思い込みであり、これだけの情報でハルゼー機動部隊の北方への吊り上げに成功していると読み取ることは出来ないと否定した[426]。また、8時46分に瑞鶴は送信不能となり、以降は大淀からの送信だったと指摘した。瑞鶴の状態についての同種の指摘は佐藤和正も行っている。また左近允は小島が7の「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス 一一〇〇」を翻訳して敵機動部隊だと即断したこと等数点を挙げて、どのような手段(航空機か潜水艦か)で攻撃されたのかも、被害の程度も書かれていないのに何故作戦が成功したと判断できるのかについて矛盾があることを指摘している。

当時大和で通信士官だった都竹卓郎は小島の著書の内容に脚色が多くあることを指摘し「嘘をついている」と批判している。小島は文藝春秋記事で、小島が24日18時頃ガンルームで食事をして通信室に戻ると聯合艦隊宛「反転報告」の暗号化を命じられ、十数分後に、艦橋の都竹中尉に呼ばれて上がってゆくと、栗田長官からじきじき、連合艦隊からの全軍突撃命令(18時13分発)は、「こちらの(18時発信の)報告をみて出されたものと思うか」と問われ、「そう思う」旨を答えたと記述しているが、「当時は全員が戦闘配置に就いている状態であり、少尉が悠長に平時と同じようにガンルームに行って食事をとるような事は有り得えず、戦闘配食が配られ持ち場で食事をとっていた。反転報告の電文も発信は16時であって18時ではない。聯合艦隊の「全軍突撃」命令の発信は18時13分だが着信は18時55分だから、彼が長官の諮問を受けたと称する18時15〜20分頃は、「大和」では誰もその全軍突撃の電報の存在すら知らないはずであり、この状況自体が彼の捏造である」とし、また小島は「海軍の通信系の仕組みを全く知らず、『大和』が聯合艦隊や各艦隊の司令部と、ダイヤル即時通話さながらに、直接交信しているものと、思い込んでいたようである」と述べ、その上で大和戦闘詳報の資料批判と日本側の作戦行動の問題点を指摘した。また小島が不戦兵士を自称し、中帰連などで反戦活動を行なったことを批判した[427]

他にもこういった説に対する反論を述べる人は多い。佐藤和正はこうした疑問点について強い反論を行なった。後年左近允尚敏、都竹卓郎も目的としては同趣旨の反論を行なっている。佐藤は受信状況等について考察し結論として自軍の偵察機が栗田艦隊を見て当該の電文を発信したという説を採っている。

当時の無電の送受信に関して[編集]

現代の人々の中には当時の海軍の無電の送受信に関して、当事者同士がダイレクトに送受信していると誤解している人も多い。そのため上記の小島の証言のような、批判論の矛盾に気づかない場合が多い。そこでまず海軍の通信について主に都竹(レイテ沖海戦時の第一戦隊司令部通信士)の説明を元に述べる。上述のように通信には短波を主用するが、洋上に出た艦隊は敵の無線方位測定(受信した際に電波が飛んできた方向により発信者の位置を探る方法)を避けるため、傍受能力は当然維持されているが、原則として電波を発射しない。

艦隊間の交信には、まず打ちたい電文をあらかじめ設けられている行動海域(通信区)の中継局、今回ならフィリピン方面を担当するマニラの第31通信隊(南西方面艦隊司令部貴下の第3南遣艦隊第31特別根拠地隊所属の部隊)に、遠達性の低い周波数で打ち込む。受信した通信隊はそれを丸ごと広域短波放送にかける。受信者はその逆で、今回の場合マニラからの放送に聞き耳を立てていて、自分たち宛の電文があればそれを傍受解読するのである。

こういった形にしている理由は電波を発するという行為自体が敵に自隊の位置を晒す行為である(相手も当然無電通信の為の受信機を持つので無電を傍受でき、大まかの方位を特定されてしまう)からで、そのため発信は極力傍受されにくい方法で自軍勢力圏内にある安全な中継基地に送り、そこから自軍の部隊へ届くような強力な電波で送るようにしていたのである。海戦中は当然電報が輻輳(ふくそう「重複」と同意語)するが、放送の仕方は当該通信隊の戦務処理に委ねられており、特定の電報が優先されることもあるし、他の中継局を経由して出すこともある。また受信側が受電できていない事も考慮して、多少の時隔を置いて複数回流されたりもする。

このような放送系を介した通信の仕組みであるため、発信から相手が受信するまでそれなりの時間を要し、到達には1時間以上かかる場合もある。これはアメリカ軍側も同じで、25日朝の第7艦隊からハルゼー艦隊宛の幾つかの救援要請電は、平文であったにもかかわらず到達に1時間前後を要している。

なお、電報番号で表示される発信日時は、電波に乗る前の「起案」時刻であり、実際に電波が出された時刻ではない。また受信日時は電信員がその暗号電報を取り終わった、いわば「着電」時刻であり、そこから暗号解読などの作業を経て文章化されて司令部に届くまで更に時間を要するので、記載された時間と実際のとは相当のタイムラグがある。佐藤和正は、放送を介した通信の仕組みとは明言していないが、無電は一回だけ相手を呼び出すのではなく、呼び出しは無しで定められた周波数によって数回に亘り連続打電するものであり、呼び出しが一日半に及ぶこともあると述べた。

栗田当人は、昭和46年4月第一回フィリピン方面海上慰霊巡拝団に参加した際[428]、「北方ニ大部隊アリ」は陸軍索敵機がサマール沖の栗田艦隊を米機動部隊と誤認し、陸軍司令部を通さず大和に直接送信してきたものだと語った[429]

小沢司令部の認識[編集]

栗田司令部に小沢艦隊からの敵誘致成功の電文が届かなかったのが事実だとして、それ以前の問題として小沢艦隊が栗田艦隊の再反転の無電を受信していないのではないか、という疑念がある。つまり小沢司令部が栗田艦隊の反転を知らず、栗田艦隊は撤退していると考えていたがために、自艦隊の状況を積極的に打電しなかったのではないか、だから栗田艦隊で受信できなかったのではないか、ということである。これは佐藤和正の「艦長たちの太平洋戦争」内で第四航空戦隊司令官の松田千秋少将が「戦闘終了後小沢が「栗田の再反転を知らなかった」と言っていた」と証言しており、また「小沢艦隊は再反転の電報を受信していない」とも言っていることが根拠となっている。

栗田艦隊が反転したのが24日16時前、これを報じたのが同16時、この電文を小沢艦隊が受信したのが20時であった。それ以前に小沢は2の電文を打っており17時15分に大和に着電したことは確認されている。この1分前に栗田は再反転命令を出していたのだが、これはすぐに発信されなかった。既に連合艦隊司令部からは栗田艦隊宛に再反転命令の電文が打たれており、これは受信していた小沢長官も栗田艦隊の再反転に期待していたようだが21時を過ぎてもそれが着信しないため、単独の進撃は危険と考えた小沢は21時30分、先行して南下していた四航戦の松田少将に対してに対して反転、北上するよう命令した上で、22時30分部隊を一旦全艦北上させた。このとき松田部隊はシャーマン隊の至近距離まで接近しており、これに両軍は全く気づかなかった(戦後になって両軍記録より判明)。もし、栗田艦隊の反転電文が達せず、松田部隊が進撃を続けていれば米機動部隊に対して砲撃戦を仕掛けることが出来たということになる。

栗田は19時39分になってミンドロ島サンホセ基地の水上機部隊に対して自隊への敵情報告命令を出し(連合艦隊司令部では受信せず)、これが初めて再反転を示唆する電文となったが、連合艦隊に宛てて直接再反転を報告したのは21時45分になってからだった(連合艦隊司令部では受信)。しかし、この2本とも小沢艦隊では受信していないのである。従って小沢は栗田の再反転を知らぬまま25日の敵空襲を受けることとなった。小沢は25日7時32分に4の電文を発し、同8時15分に5の電文を発しているが、いずれも短い電文であり二報しか打電していない。これは小沢が栗田艦隊が再反転したことを知らなかった証左であると、佐藤は述べている。もし小沢が栗田が進撃していることを知っていれば「敵誘致成功」の電文は栗田が確実に受信できるようにもっと多く、長く伝えていたはずだとし、瑞鶴被弾後に四航戦や大淀に打電を代行委任せず、大淀に移乗するまで現況を打電しなかったこともこれで説明が付くとしている。「栗田司令部が再反転の電文をすぐに打たなかったこと」これが栗田司令部の"小沢艦隊の状況不明"の原因となったと佐藤は指摘している。

電波伝播
当時日米両軍が多用した短波通信は、電離層の反射を利用して見通し距離外との通信を行うものである。しかし大戦中は太陽黒点活動が活発となり、電離層が不安定な時期が続き、しかも低緯度地方にその影響が集中したと述べた。周波数によってこの悪影響は程度が異なるが、日本海軍は2-4MHz短波帯であれば影響が低いことを突き止め、同周波数帯の無線機の開発にかかったが、その前に戦争が始まったため電波予報を出して事前策としていた。また、大和のアンテナは地上に設置されたものに比べて設置上の制約が大きく、10m程度のものであり、しかも常に移動するという悪条件である。船舶通信についての教育テキストでは日本標準時プロジェクトのような「報時」について言及がなされるが、リンク先にも示されているように一つの周波数のみでは伝播しない区域があることを考慮し、短波では複数の周波数で発信を行っている。この他短波の受信状況は日中か夜かでも変化し、その傾向分析を行っている事例もある。また遠方で受信できた場合に近距離であれば必ず受信できるとも限らない(鈴木治『船舶通信の基礎知識』)。佐藤の記述には「電波の突き抜け現象」による記述もある(デリンジャー現象ないしスキップ・フェージングを指すと思われる)。
送受信組織の状況
受信状況については、愛宕沈没により電測士は清水少尉、司令部付暗号士の小林(剛)、広瀬両少尉が戦死、小林(敏)少尉は救助されたが高雄でブルネイに帰投した。大和に移乗出来た通信班員は小島を含む2人の予備少尉だけであり、大和が旗艦となったことで通信班が艦隊司令部付と第一戦隊司令部付に分けられたため、オーバーワークとなり、且つはじめて聞く送信員の打電を処理しなければならなかったことで通信能力が低下した。このことは都竹によれば大和戦闘詳報の「戦訓の部」に記されており、電信員の数は一応定員を満たしていたが、速成教育を受けただけで、当直を任せられない新兵が多いため、戦闘中でも最低1直交代という原則を1直半にせざるを得ず、その上切断空中線の復旧といった応急作業が頻繁に飛び込み、古参兵は疲労困憊(ぱい)の極に達した(なお、無線通信士の間ではしばしば電信員固有の癖について指摘される[430]。この癖により、暗号数字の誤受信、ノイズ混入による欠字などにより、年間受信量の30%が受信不能となっていたという。佐藤は欠字が多い場合は暗号士に回送されても翻訳不能として没にされたと推定している。なお、『海軍艦隊勤務』では大和の定員表を推定する記事が掲載されており、機密性の高かった同艦の詳細な定員は不明な部分が多い。
従って、半藤が自著で大和の通信設備に被害がなかったように記しているのは明確な誤りである。
受信時の戦況
佐藤和正は瑞鶴が第一報を発信した午前7時32分頃は栗田艦隊は海戦中で、その指揮に追いまくられていたと述べ、瑞鶴のアンテナが第一次空襲で損傷し、補修したことを挙げた。また佐藤は「ヤキ1カ」を栗田艦隊を敵艦隊と誤認した味方航空機によるものと推定している。(実際、栗田艦隊は撤退時に、敵味方識別のために甲板に日の丸を掲げたにも関わらず味方機から爆撃を受けている)
第一機動艦隊の場合
神野正美『空母瑞鶴』によれば、第一機動艦隊は戦闘詳報でこの件について指摘し、問題があった電文として5件を挙げている。呉に帰還後調査も行なわれた。その原因分析としては次のような点が挙げられ、通信能力に優れた艦を旗艦とするべきことや台湾の高雄に展開していた通信隊の能力強化が戦訓として指摘されていた。
  1. 瑞鶴の送信勢力不充分
  2. 味方との混信
  3. 電信部通信指揮官間の錯誤
  4. 通信隊における受信状況の差異
また神野によれば、同艦隊の情報参謀であった山井實夫はこの問題について次のような点を指摘している。
  1. 使用電波、周波数の種類による時刻別の伝播特性
  2. 発信源のアンテナ効果(指向性、空母についてはアンテナマストの起倒状態、倒れていると見通しが非常に悪化する)
  3. 戦闘中の艦内伝達の難易
  4. 電波の伝播経路の空間状態
なお、佐藤和正は司令部が大淀に移乗した後には不達はなくなったと述べている。
アンテナ
これに関連して松井宗明によれば、艦艇は秘匿性が要求されたり遠距離の特定海域から本国に通信する場合などは八木アンテナなどの指向性アンテナを用いるが、通常は無指向性アンテナを使用する。マストや上部構造物を利用して展張する展張型アンテナは、ほぼ無指向性である[431]
原勝洋によれば、大和はシブヤン海海戦時に展張していたアンテナケーブルが断線し、被害が重大なものであったため予め積み込んでおいた修理部品も不足したと述べている。断線したケーブルは雑音を誘起し、通信の障害となった[432]。また、自艦の対空砲火による震動が無線機に悪影響を及ぼし、2つある受信室のうち一つは業務が不可能となっていた。都竹は、増強された高角砲が発砲振動を強め、通信環境には悪影響であった可能性を指摘している。このことにより大和は10月24日は送受信に著しい障害があり、31通の電文に問題があったという(31通の内訳について、原は本海戦を扱った『決戦戦艦大和の全貌』で述べていない)。原は、戦闘時の通信対策で課題を残したと総括した。「軍艦大和に於ける捷一号作戦通信戦訓」では、通信線の対策が「絶対に必要」と強く指摘している。

総論[編集]

時代により入手可能な資料や価値観が異なる面もあるが、概ね上記のような種々の視点が提供されてきた。かつては栗田の反転の決断を批難する論調が多かったが、昨今では客観的な考証から、栗田の反転の決断を肯定もしくは同情的に捉える論調も多い。批判的な論調を繰り返す識者もいるが多くは従来の説の繰り返しや陰謀説まがいの客観的証拠に欠ける説が多く、肯定的な論者の説を覆せる様な物は非常に少ない。

実際のところ、上陸船団に十重二十重に支援艦隊がつけられるのは軍事常識であり、日中戦争や開戦初期の日本軍の侵攻作戦でも行なわれてきた事例が複数ある。ハルゼー機動部隊を北方に誘致したとしても、ハルゼーが支援戦力も全て引き連れて北上するような軽率な判断をするとは考えられなかった。実際ハルゼー機動部隊(第3艦隊)と上陸支援をするキンゲイトの第7艦隊は別個の独立した艦隊であり、ハルゼーが北上したのも船団は第7艦隊が護衛すると考えたからである。栗田艦隊がそういった支援艦隊と接触する可能性は極めて高く、囮作戦の成否に関係なくそれらと交戦する事は十分考えられた。栗田は開戦以来数多くの作戦に参加し、通商破壊作戦で戦果も挙げ経験がある提督であり、そういった支援部隊を排除しないと突入は覚束無い事を認識していた。論者の中にはこういった支援戦力を無視してでも突入をするべきだったというのもいるが、損害を無視して目的の貫徹するというのは、船団に接触する以前に全滅するほどの損害を受けるリスクを無視しており、達成が不可能となるもので前線指揮官として正しい選択とは言えない[注釈 20]

また、実戦で示されたように米軍の索敵能力は「敵を発見する」という意味では高いものであり、戦意も高いものであった[433]。サマール沖での戦闘で、数10機でしかない米艦載機の反覆攻撃に栗田艦隊は阻止され逆に大きな損害を受けている事から見ても、数隻の空母が居るだけでも脅威であり、栗田艦隊がそれの殲滅を優先するのは妥当な判断と言える。

このことに関して、後の批評家は、上記で述べたように、反転しなかった場合には日米で戦艦同士の艦隊決戦が発生することをほぼ暗黙の前提としてきた。佐藤和正は湾内突入は自明のものだったと指摘している。[434]。しかし栗田艦隊は「空襲を脅威と認識し輸送船団も揚陸を終えているだろうから期待しえる戦果は極めて少ない」と考えていた。空襲については賛否問わず詳しい評者あればほぼ全員がシブヤン、サマールの結果などを引き合いに指摘、また輸送船団も揚陸を終えているだろうから期待しえる戦果は極めて少ないと判断したともいう[435]。 栗田艦隊の突入は小沢機動部隊の囮作戦及び味方基地航空隊の航空攻撃による、言わば事前のお膳立てと連携したものであったが、成功するかはやってみなければ分からない、言い換えれば戦況が流動的であることも両派から指摘される[436]

栗田艦隊をはじめ日本側は直前のサマール沖海戦で、米正規空母部隊の一群を撃破したと認識している[437]。この種の誤認は戦場では多発するものであり、偵察を重視していたアメリカ海軍でも多発した。一例としてはマリアナ沖海戦時、敵は発見したものの大和型戦艦を主力とする日本艦隊を艦のサイズを見誤ってその戦力を過小に報告したことがある。小沢艦隊からの囮成功の連絡もなく、自分の艦隊が(小沢艦隊が囮となって誘引するはずの)米機動部隊の一群をすでに捕捉・撃破している(という認識を持つ)状況下で、小沢艦隊の米機動部隊誘引作戦が成功しているなどという「正しい」認識を持つのは不可能であり、戦果を挙げたと認識している以上海軍上層部が作戦後に艦隊司令部等に処罰を行うことはありえない[438]

また、栗田艦隊は真偽はともかく北方機動部隊の電報を前提に動いた。これを放置した場合の脅威を想定したことを指摘する向きもある[439]。『日本海軍 戦場の教訓』でも最悪のケースとして作戦目的である船団攻撃不達成のまま全滅を想定したうえで、半藤は敵艦を1隻も沈めないことはない、命令を守ればよいと目的合理性に反する見解を述べている。-->。

日本側では総じて事前準備、組織間の情報伝達、連携の調整の失敗が多くの者に指摘され、外山三郎も兵力差の他の重要な要因として挙げている[440]。最終段階の栗田艦隊の行動を中心に意見が分かれる部分もあるが、資料批判を行なう評者の中には一部の批判に対しての反論もあり、日本軍批判であれば中身は何でも良いわけではない旨が指摘されることもある(大岡昇平、佐藤和正、亀井、都竹[441])。

昭和天皇も「海軍は無謀に艦隊を出し、非科学的に戦をして失敗した」と評した[442]

伊藤正徳は、本海戦は「無理の集大成であり、そして無理は通らないという道理の証明に終わった」と評価した[443]

戦闘序列(日本軍)[編集]

海上部隊については連合艦隊(基地航空部隊を含む海軍)の各艦隊と南西方面艦隊で指揮系統が大きく異なることに注意。但し建て前の上では作戦発動後連合艦隊司令長官が全海軍部隊を指揮できると取り決めされていた。

連合艦隊[編集]

司令長官:豊田副武大将 参謀長:草鹿龍之介中将 参謀副長:小林謙五少将 先任参謀:神重徳大佐

第二艦隊[編集]

司令長官:栗田健男中将 参謀長:小柳冨次少将 先任参謀:山本祐二大佐 航空参謀:添田啓次郎中佐 作戦参謀:大谷藤之助少佐 砲術参謀:宮本鷹雄少佐 水雷参謀:森卓二少佐 機関参謀:大迫隼夫中佐 航海参謀兼副官:八塚清少佐
旗艦:愛宕→大和

  • 第一遊撃部隊第一部隊(第二部隊と合せて通称は栗田艦隊)
  • 第一遊撃部隊第二部隊
  • 第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)
    • 第二戦隊:司令官:西村祥治中将、戦艦 山城(10/25 没 スリガオ 砲雷撃)、扶桑(10/25 没 スリガオ 砲雷撃) 重巡洋艦 最上(10/25 没 スリガオ 砲雷撃、空母機)
    • 第四駆逐隊:司令:高橋亀四郎大佐、駆逐艦 山雲(10/25 没 スリガオ 雷撃)、満潮(10/25 没 スリガオ 砲雷撃)、朝雲(10/25 没 スリガオ 砲雷撃)
    • 第二十七駆逐隊:艦長:西野繁少佐、駆逐艦 時雨
  • 随行油槽船
    • 八紘丸 萬栄丸 御室山丸 日栄丸 雄鳳丸 厳島丸 日邦丸 良栄丸

第三艦隊[編集]

空母機116機 司令長官:小沢治三郎中将 参謀長:大林末雄少将 先任参謀:大前敏一大佐 参謀:青木武中佐 有馬高泰中佐 辻本毅少佐
旗艦:瑞鶴→大淀

  • 機動部隊本隊(小沢機動部隊)
    • 第三航空戦隊:司令長官直率、正規空母 瑞鶴(10/25 没 エンガノ沖 空母機)軽空母 千代田(10/25 没 エンガノ沖 空母機)、千歳(10/25 没 エンガノ沖 空母機)、瑞鳳(10/25 没 エンガノ沖 空母機)
    • 第四航空戦隊:司令官:松田千秋少将、航空戦艦 伊勢日向
    • 巡洋艦戦隊:司令官:多摩艦長山本岩多大佐指揮、軽巡洋艦 多摩(10/25 没 エンガノ沖 潜水艦)、五十鈴
    • 第一駆逐連隊(第三十一戦隊のみ):司令官:江戸兵太郎少将
    • 第二駆逐連隊:(第六十一駆逐隊司令兼務)
      • 第六十一駆逐隊:司令:天野重隆大佐、初月(10/25 没 エンガノ沖 砲撃)、若月秋月(10/25 没 エンガノ沖 潜水艦)
      • 第四十一駆逐隊:司令:脇田喜一郎大佐、霜月
  • 第二補給部隊
    司令:山崎 仁太郎少佐(秋風艦長と兼務)
    • 駆逐艦 秋風
    • 油槽船 仁栄丸 たかね丸
    • 海防艦 22号 29号 31号 33号 43号 132号

第六艦隊[編集]

  • 先遣部隊 司令長官:三輪茂義中将 参謀長:仁科宏造少将
  • レイテ方面:大型潜水艦8隻
  • マニラ方面:中小型潜水艦7隻

第五基地航空部隊[編集]

第一航空艦隊 司令長官:大西瀧治郎中将

直率 実働機約40機

第六基地航空部隊[編集]

第二航空艦隊

司令長官:福留繁中将 参謀長:杉本丑衛大佐

実働機223機

南西方面艦隊[編集]

司令長官:三川軍一中将 参謀長:西尾秀彦少将

第二遊撃部隊(志摩艦隊、10月18日より南西方面艦隊指揮下)

司令長官:志摩清英中将 参謀長:松本毅少将

  • 第二十一戦隊:司令長官直率 重巡洋艦 那智足柄
  • 第一水雷戦隊:司令官:木村昌福少将 軽巡洋艦 阿武隈(10/26 没 爆撃)
  • 第七駆逐隊、駆逐艦
  • 第十八駆逐隊、駆逐艦 不知火
  • 第二十一駆逐隊、駆逐艦 若葉(10/24 没)、初春初霜
    • (第二十一駆逐隊はセブ島への航空機材等の輸送のため21日朝馬公から高雄へ出港し突入には参加せず)
  • 第十六戦隊:重巡洋艦 青葉(10/23 離脱 潜水艦)、軽巡洋艦 鬼怒(10/26 没 空母機) 駆逐艦 浦波(10/26 没 空母機)
    • (元々第一遊撃部隊と行動を共にしていたが、編成替えにより第二遊撃部隊の指揮下となる。「青葉」被雷のためマニラに回航され、旗艦を「鬼怒」に変更後、レイテ島オルモックへの兵員輸送を行う)

南方軍[編集]

第四航空軍[編集]

第四航空軍 司令官:富永恭次中将

第十四方面軍[編集]

第十四方面軍 司令官:山下奉文大将

第三十五軍[編集]

第三十五軍 司令官:鈴木宗作中将

戦闘序列(連合軍)[編集]

総計734隻(戦闘艦艇157隻、輸送船420隻、特務艦船157隻)[444]

第二次ケベック会談でレイテ攻略を最終決定した1944年9月、連合幕僚長会議の決定によりマッカーサー指揮の第7艦隊が上陸作戦の指揮を執ることとなった。この際、ハルゼーの上陸部隊移管の進言もあり太平洋艦隊からはウィルキンスン中将の両用戦部隊が移管されたが、第3艦隊を中心とする空母機動部隊とその補給部隊はニミッツの指揮下の太平洋艦隊にとどめ置かれ、その任務は第7艦隊を支援し、日本艦隊が出現した場合にはその撃滅を優先するものとなっていた。従ってで第3艦隊と第7艦隊では指揮系統が大きく異なる[445]

第3艦隊[編集]

太平洋方面最高司令官指揮下(最高司令官:チェスター・W・ニミッツ大将)

司令官:ウィリアム・F・ハルゼー大将、参謀長:ロバート・カーニー少将 (Robert Carney) 作戦主任参謀:ラルフ・ウィルソン大佐 航空参謀:ホレスト・モルトン大佐 通信参謀:レオナルド・ドウ大佐 情報参謀:マリオン・チーク大佐 作戦副参謀:ハーバート・ホーナー大佐 戦務副参謀:ハロルド・スタッセン大佐
艦隊旗艦:戦艦ニュージャージー

第38任務部隊(TASK FORCE 38)[編集]

司令官:マーク・A・ミッチャー中将、参謀長:アーレイ・A・バーク代将、旗艦:空母レキシントン

役務部隊[編集]

下記兵力を10〜12のグループに分割し日本軍哨戒圏外の指定海域〜ウルシー間にて移動・待機

給油艦33隻、護衛空母11隻、曳船10隻、駆逐艦18隻、護衛駆逐艦27隻

第34任務部隊(TASK FORCE 34)[編集]

水上打撃任務部隊

司令官:ウィリス・A・リー中将 (Willis A. Lee)

10月24日15時30付けで第38任務部隊第2群、第3群、第4群から水上部隊(戦艦6、巡洋艦7、駆逐艦17)を抽出して編成。ただし編成を宣言したものの実施されなかったと言う[446]。また、24日夕刻の時点では第3群の艦船は集結地点近海にいなかった。

潜水艦部隊[編集]

太平洋艦隊潜水艦部隊司令官:チャールズ・A・ロックウッド中将

シーライオン(戦艦金剛を撃沈)、ダーター(重巡愛宕撃沈)、デイス(重巡摩耶撃沈)、ハリバット(駆逐艦秋月撃沈?)他、計9隻

第7艦隊[編集]

南西太平洋方面最高司令官指揮下(最高司令官:ダグラス・マッカーサー陸軍大将、旗艦:軽巡洋艦ナッシュビル)
兵員輸送船53隻、貨物輸送船54隻[447]、その他含め攻略部隊艦船計420隻、戦闘艦艇計157隻[448]

司令官:トーマス・C・キンケイド中将、旗艦:輸送艦ワサッチ(水陸両用作戦部隊旗艦)

第70任務部隊(TASK FORCE 70)[編集]

第1群(Task Group 70.1)
  • 高速魚雷艇隊(MTB Squadrons)、(司令:レッスン少佐)
    • 魚雷艇 39隻(3隻・13個小隊)
      • 152号 130号 131号 127号 128号 129号 151号 146号 190号 192号 191号 195号 196号 194号 150号 134号 132号 137号 494号 497号 324号 523号 524号 526号 490号 491号 493号 495号 489号 492号 327号 321号 326号 320号 330号 331号 328号 323号 329号

第77任務部隊(TASK FORCE 77)[編集]

第2群(Task Group 77.2)
支援射撃部隊(下記中央隊他はスリガオ海峡海戦時のもの)
司令官:ジェシー・B・オルデンドルフ少将、旗艦:重巡洋艦ルイビル
  • 中央隊(司令官:ウェイラー少将 旗艦:戦艦ミシシッピ)
  • 左翼隊(オルデンドルフ少将直率)
    • 第4巡洋戦隊(Cruiser Division 4)
    • 第12巡洋戦隊(Cruiser Division 12)
    • 第56駆逐戦隊(Destroyer Squadron 56)、(司令:スムート大佐)
      • 駆逐艦 3隻
    • 第112駆逐隊(Destroyer Division 112)
      • 駆逐艦 3隻
    • 他(第3グループ)
      • 駆逐艦 3隻
  • 右翼隊(司令官:バーケイ少将、旗艦:軽巡洋艦フェニックス)
    • 重巡洋艦 シュロップシャー(オーストラリア海軍)
    • 軽巡洋艦 ボイシフェニックス
    • 第24駆逐戦隊(Destroyer Squadron 24)、(司令:マクメーン大佐)
      • 駆逐艦 6隻
    • 第54駆逐戦隊(Destroyer Squadron 54)、(司令:カワード大佐、ピケット警戒の指揮を兼ねる)
      • 駆逐艦 8隻

第4群(Task Group 77.4)[編集]

護衛空母部隊

司令官:トーマス・L・スプレイグ少将 (Thomas L. Sprague) 旗艦:護衛空母サンガモン

潜水艦部隊[編集]

(司令官:クリスティ少将)

第78任務部隊(TASK FORCE 78)[編集]

北部攻撃(司令官:バーベイ少将)

第79任務部隊(TASK FORCE 79)[編集]

南部攻撃(司令官:ウィルキンソン中将)

上陸部隊[編集]

米陸軍第6軍(海兵隊部隊は不参加)

総兵力20万2500名(司令官:W.クルーガー中将)

  • 第10軍団 53000名(司令官:F.シバート中将)
    • 第1騎兵師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:B.マッジ少将)
    • 第24師団 タクロバン、パロ方面に上陸 1個連隊はパナオン水道方面に上陸(司令官:F.アービング少将)
  • 第24軍団 51500名(司令官:J.ホッジ中将)
    • 第7師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:A.アーノルド少将)
    • 第96師団 サンホセ、ドラグ方面に上陸(司令官:J.ブラッドリー少将)
  • 軍直轄支援部隊
  • 第6レンジャー歩兵大隊
  • 軍予備部隊 28500名
    • 第32師団(司令官:W.ギル少将)
    • 第77師団(司令官:A.ブルース少将)

[449]

レイテ沖海戦に関する作品[編集]

映画[編集]

文学作品(小説)[編集]

  • 伊藤正徳『連合艦隊の最後』光人社、2000年。ISBN 4-7698-0979-4
    • 実質は戦史評論的な内容。初出1956年。栗田への取材付。
  • 大岡昇平レイテ戦記 (上巻)』中公文庫、1974年、初出1971年。ISBN 4-1220-0132-3
    • 小説と分類されているが、レイテ海戦を述べた部分は文中でその都度参考文献を明示しており、日米両軍への評価が見られる。
  • 佐藤大輔『目標、砲戦距離四万!』徳間文庫、1993年。ISBN 4-19-567506-5
    • レイテ沖海戦を扱った部分の前半は史実に対する佐藤の評論であり、後半は小説である。佐藤は戦史評論も複数の実績がある。1991年の単行本の文庫化。

ボードゲームおよび関連記事[編集]

  • 『太平洋艦隊』ホビージャパン
  • 『パシフィック・ウォー』VG。
  • 『日本機動部隊2』国際通信社、1999年。
  • 上田暁「コンピューターゲームデザイナーズノート 連合艦隊の栄光」『シミュレイター No.5 1986 Early Summer』翔企画
  • コマンドマガジン 第10号』国際通信社、1996年。
    • 特集は「レイテ」である。

脚注[編集]

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  1. ^ 英標記はDefense Technical Information Center所収の論文及び原勝洋『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』の標記に従った
  2. ^ 児島襄 1974
  3. ^ 初期著作『太平洋戦争』
  4. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室編「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」5.6p
  5. ^ 大岡次郎著「正説レイテ沖の栗田艦隊」31p
  6. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版
    最初の回答。
  7. ^ 6月18日マーシャル参謀総長に宛てた書簡に対して。 児島襄 1974
  8. ^ 『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三。なお、マッカーサー、ニミッツの提出した両計画の意図、両者の見解などはそれぞれの回顧録に詳しい。
  9. ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』第11章。
  10. ^ マーシャルの考えは時系列に沿って配置していないが、主要人物の考えの提示として記載。谷光太郎『アーネスト・キング』第12章、『第2次大戦の米軍事戦略』第2章P74、第3章P161、第4章P212-213等も参照。
  11. ^ 『駆逐艦「野分」物語』第七章 「ハルゼーの猛進」。ただし、ハワイ会談の日付については、他の多くの文献が指している日付とした。
  12. ^ ハワイ会談については他節で挙げたものの他『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社 の谷光太郎の記述にもよる。
  13. ^ 『マッカーサー大戦回顧録[下]』
  14. ^ 以上、アメリカ側については上記文献のほか主に福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三、谷光太郎『アーネスト・キング』第11章等に拠る。
  15. ^ 児島襄 1974, p. 240.
  16. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 87.
  17. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 88.
  18. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」13p
  19. ^ この出来事は文献によっては省略されていることも多いが『戦史叢書』や一般的な文献では佐藤和正『レイテ沖海戦』第三章に記されている。
  20. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 85.
  21. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 86.
  22. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』第三章 米軍、レイテ島攻略を繰り上げる。他にこの件について触れた文献は『太平洋戦史シリーズ レイテ沖海戦』マッカーサーの比島への道などがある。
  23. ^ 江戸雄介『激闘レイテ沖海戦』及びキングII作戦計画
  24. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 91.
  25. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第三章 103頁
  26. ^ 『海上護衛戦』23 24 25等
  27. ^ 『海上護衛戦』26 しびれた輸血管他
  28. ^ 『戦史叢書56巻 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』、佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第四章
  29. ^ 『栗田艦隊』第6章内 進撃航路の選択
  30. ^ 松代格三「艦艇の航続力と海軍作戦」『世界の艦船』1992年10月号。
  31. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第五章「志摩艦隊、レイテ湾突入を決定す」
  32. ^ 以上、アメリカ側については松代格三「艦艇の航続力と海軍作戦」『世界の艦船』1992年10月号)
  33. ^ 『日本海軍 戦場の教訓』P346)。
  34. ^ 鈴木静夫『物語 フィリピンの歴史』中公新書
  35. ^ 『世界の艦船』1992年10月号P88p
  36. ^ 『日本海軍 戦場の教訓』P347p
  37. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」21,22p
  38. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」22〜23p
  39. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」23p
  40. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」24p
  41. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」26p
  42. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」25p
  43. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月30日(英語版
    「Basically it was TOYODA's idea.」と回答している質疑がそれである。
  44. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」28p
  45. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」33p
  46. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」34p
  47. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」32〜33p
  48. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」42p
  49. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」37〜38p
  50. ^ 『海上護衛戦』26 しびれた輸血管他
  51. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」63p
  52. ^ GF機密第171201番電における機動部隊本隊への出撃準備令の記述
  53. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」65p
  54. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第13画像
  55. ^ 「軍艦鬼怒フィリピン沖海戦戦闘詳報」第13-14画像
  56. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」65〜66p
  57. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」68p
  58. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」70〜72p
  59. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」79p
  60. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」78〜79p
  61. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」82p
  62. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」85p
  63. ^ 5F機密第172224番電
  64. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」93〜94p
  65. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」95p
  66. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」97〜98p
  67. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」98〜99p
  68. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」101p
  69. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」45〜46p
  70. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」137p
  71. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 122.
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  73. ^ a b カール・ソルバーグ 1999, p. 123
  74. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 124.
  75. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」139p
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  77. ^ カール・ソルバーグ 1999, pp. 109-110.
  78. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 140.
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  136. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」191・92p。但し同著では「機密電241600電」の1600は前後の記述からして誤記と思われ、正確な時刻は不明だが先述の241955電の後に出ているので19時55分は過ぎていると書いている。
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  279. ^ 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語』232頁
  280. ^ 『駆逐艦「野分」物語』p293より272名とした。また140名とする資料もあるがこの場合陽炎型の定員(239名)に比べて人数が少なすぎる。
  281. ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.43『(三)筑摩ハ25日0724旗艦熊野損傷後一時利根ヲ指揮シツツ敵ヲ急追大ニ戦果ヲ挙ゲツツアリシガ雷撃機ノ来襲ヲ受ケ0853被雷速力急減シ分離尓後数次ニ亘ル敵機ノ攻撃ヲ受ケタルモノノ如ク1120野分ヲ之ガ警備ニ分派セラレタルモ其ノ後両艦共消息ナク全員壮烈ナル最後ヲ遂ゲタルモノト認ム』
  282. ^ 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語』221頁、林義章(筑摩4番主砲砲員)談。
  283. ^ 明治百年叢書「戦藻録」423p
  284. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 221.
  285. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第50画像
  286. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第45画像
  287. ^ 駆逐艦雪風手記編集委員会『激動の昭和 世界奇跡の駆逐艦 雪風』(駆逐艦雪風手記刊行会、1999年10月))。ただし『歴史群像 太平洋戦史シリーズ vol.9 レイテ沖海戦』では、撃沈した巡洋艦は2隻、撃破した空母は3隻となっている。矢矧では、戦闘中に「帝国海軍は敵艦隊と交戦、空母1隻、巡洋艦1隻撃沈、なおも戦果拡大中」との軍艦マーチつき大本営発表を受信したという(池田清 1998, p. 182、井川『軍艦矢矧海戦記』185頁)。
  288. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第65画像「煙幕の展開利用は巧みにして我攻撃効果を著しく減殺せり」
  289. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第9画像「煙幕の為視認極めて困難なり」。「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」第42画像「発射前後目標視認状況」
  290. ^ 戦後、栗田、小柳ともに戦略爆撃調査団に煙幕が非常に有効であったと陳述している。
  291. ^ バレット・ティルマン「サマール沖のまちぶせ」『第二次大戦のTBF/TBMアベンジャー』P42には魚雷発射管の誘爆を狙ったと記されている。
  292. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第69画像「銃撃による被害は極めて大にして」
  293. ^ Hornfischer, James D.. The Last Stand of the Tin Can Sailors: The Extraordinary World War II Story of the U.S. Navy's Finest Hour, p.308-310.. Bantam. ISBN 978-0-553-38148-1. 
  294. ^ a b 石丸法明「レイテ沖海戦の真実⑥ サマール沖の誤射事件」(雑誌『』第68巻第4号、2015年4月)194頁、200-203頁。
  295. ^ #レイテ沖羽黒詳報(1)p.25『0851 鳥海本艦ノ左70度1500更ニ左前方利根右40度方向煙幕展開中ノ母艦ニ對シ迫ル 鳥海敵主力ノ集中射撃ヲ受ケ右舷中部ニ被弾』
  296. ^ #レイテ沖羽黒詳報(1)p.25『0859 右90度ニ空母三|鳥海不関旗一旈』
  297. ^ 『The World Wonder'd: What Really Happened Off Samar』Robert Lundgren
  298. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」347p
  299. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」348p
  300. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第21-22画像
  301. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」354p
  302. ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」357p
  303. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」353p
  304. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)(第十戦隊)」第58画像
  305. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」357p
  306. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第22-23画像
  307. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」368p
  308. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」369p
  309. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」371・372p
  310. ^ 伊藤 1956, p. 238.
  311. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版
    にある「Almost unanimous - yes, the decision was unanimous.」の回答がそれである。
  312. ^ James D. Hornfischer, "The Last Stand of the Tin Can Sailors", An unprecedented account of the U.S. Navy’s impossible victory: the Battle off Samar, October 25, 1944
  313. ^ カール・ソルバーグ 1999, p. 253.
  314. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」372・373p
  315. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」375p
  316. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」378p
  317. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」470p
  318. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」471p
  319. ^ 小板橋孝策 1985, p. 210.
  320. ^ 戦史叢書 41 P.312
  321. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)」第7画像
  322. ^ 福田幸弘「連合艦隊サイパン・レイテ海戦記」416p
  323. ^ 福田幸弘「連合艦隊サイパン・レイテ海戦記」
  324. ^ ニミッツの太平洋海戦史 P.333
  325. ^ ハルゼーの太平洋海戦史 P.487
  326. ^ ハルゼーの太平洋海戦史 P.517
  327. ^ 『日本海軍 戦場の教訓』P400
  328. ^ 『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P127
  329. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第11章 サマール沖の砲煙 P171
  330. ^ 大岡昇平『レイテ戦記 上巻』「九 海戦」内,中公文庫,P260
  331. ^ モリソン『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』で邦訳され、『レイテ戦記』『やっぱり勝てない?太平洋戦争』、佐藤和正『レイテ沖海戦』など。弾量はスリガオ海峡での戦闘後のものである。『レイテ戦記』P260では日時について言及がある。
  332. ^ 『レイテ沖海戦 下巻』P171
  333. ^ 『やっぱり勝てない?太平洋戦争』
  334. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十章P84-85
  335. ^ 『やっぱり勝てない?太平洋戦争』
  336. ^ ACTION IN BATTLE OF SURIGAO STRAITS 25 OCTOBER 1944 USS West Virginia”. 2014年2月2日閲覧。}
  337. ^ Tully, Anthony P. (2009). Battle of Surigao Strait. Bloomington, Indiana: Indiana University Press. ISBN 978-0-253-35242-2.
  338. ^ ACTION IN BATTLE OF SURIGAO STRAITS 25 OCTOBER 1944 USS West Virginia”. 2014年2月2日閲覧。}
  339. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十章P85
  340. ^ 佐藤和正も『レイテ沖海戦 下巻』P171で同様の立場を取っている
  341. ^ 『やっぱり勝てない?太平洋戦争』
  342. ^ 『やっぱり勝てない?太平洋戦争』
  343. ^ 例えば疲労については『栗田艦隊』P169、『日本海軍 戦場の教訓』P385、407等、立場を問わず半ば常識化して語られている。
  344. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第24画像
  345. ^ 『栗田艦隊』P156、P209等
  346. ^ 燃料減少と言う記述は児島襄 1974中公文庫版P283など
  347. ^ 『レイテ戦記 上巻』P261-262等
  348. ^ 「軍艦羽黒戦闘詳報(1)」第27画像
  349. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第24-25画像「0845、距離8000敵巡洋艦に魚雷4本発射」
  350. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第35画像
  351. ^ 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』230頁(光人社、1999年)
  352. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第42画像
  353. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』P179-180
  354. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』P260
  355. ^ 『戦艦大和建造秘録』62項
  356. ^ 『レイテ戦記 上巻』P262
  357. ^ 『レイテ沖海戦 下巻』P170に大岡と全く同じ表現あり
  358. ^ 大塚好古「机上の空論だった戦艦大和のアウトレンジ戦法」「命中率3倍説はなぜ生まれたか」『やっぱり勝てない?太平洋戦争』2005年
    「机上の空論だった戦艦大和のアウトレンジ戦法」では、日本海軍が30000m以上の「遠大距離」での砲戦演習を1937年より開始したが、1941年には25000mに戻した旨が述べられている。理由は散布界の収束問題や敵艦の測的から射撃、弾着観測までの一連のシークエンスを短縮する目処がつかなかったからである。また、「命中率3倍説はなぜ生まれたか」ではサマール沖海戦を事例に実戦では演習時より命中率が大幅に低下するとしている。
  359. ^ 北村賢志「戦艦大和の虚像」『虚構戦記研究読本』光人社 1998年
    北村も史実では起こらなかったような戦艦同士の遠距離砲戦が仮にあったとしても、実績から命中弾が出ることに期待出来ない旨主張している。
  360. ^ 石橋孝夫「大和型、アイオワ級もし戦わば」『大和型戦艦』歴史群像太平洋戦史シリーズ 1996年
    石橋もまた、戦例の少なさから、特定の状況を仮定しその中で勝利条件を提示している。モデルにはレイテ沖海戦も挙げられている。結論としては、遠距離砲戦は不確定要素が多く、搭載機による弾着観測が行えることが条件であるが、実際の大和は常に航空機の脅威に晒されながら作戦行動していた旨が説明されている。
  361. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊〈6〉―第三段作戦後期―』朝雲新聞社、1970年、pp.303-304、佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第二章 旗艦武蔵を容認されず
  362. ^ 第5次空襲で米側は輪形陣を組み直しつつあった第一遊撃部隊本隊ではなく、落伍した武蔵に攻撃を集中した。佐藤のようにこのことを以って被害担当艦とする者もいる。
    佐藤和正「武蔵 最大の被害担当艦となる」『レイテ沖海戦 上巻』第八章P387
  363. ^ なお、武蔵は猪口艦長の強い意向で出撃前の9月頃から外舷をダークシルバーへ塗り直しすることを各艦の艦長に薦め、シンガポールからペンキを取り寄せて自艦に実施した。このため武蔵は薄汚れた他艦の中にあって異彩を放ち夜間の航行でもあざやかな姿であったとされている。当時の艦隊乗員の中には「死に装束」と解釈した者達も居た。
    佐藤和正「武蔵 最大の被害担当艦となる」『レイテ沖海戦 上巻』第八章P164-165
    手塚正巳によればこの塗り替えは10月21日とされているが、それまでにもこまめに再塗装をする傾向があり、可燃性の塗料を作戦前に使い切るための処置だったとも言われていると言う。また「死に装束」という言葉と艦の最後から、「武蔵は被害担任艦として敵の攻撃を引き付けて沈没した」という解釈が生まれたという
    手塚正巳「第十五章 出撃」『軍艦武蔵(上)』新潮文庫 P593-594
  364. ^ なお、10月21日の愛宕作戦室での会議で最終的な突入計画が説明された際、参集した者達の間で被害担当艦を期待されていたのは第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)であった。
    佐藤和正「片道航路の特攻進撃計画」『レイテ沖海戦 上巻』第四章P204
  365. ^ 司令部人員の参考値は原勝洋『戦艦大和のすべて』インデックス・コミュニケーションズ(2004年)
  366. ^ 池田清『海軍と日本中公新書1981年、P33
  367. ^ 小島清文著「栗田艦隊」
  368. ^ 深井俊之助「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」
  369. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書海軍捷号作戦2―フィリピン沖海戦―」394p
  370. ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」379p
  371. ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」390〜391p
  372. ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」380p
  373. ^ 第六艦隊戦闘詳報
  374. ^ 深井俊之助「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」など
  375. ^ 福田幸弘「連合艦隊サイパン・レイテ海戦記」352p
  376. ^ 深井俊之助「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」212p~220
  377. ^ 深井俊之助「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」222p~230
  378. ^ 福田幸弘「連合艦隊サイパン・レイテ海戦記」364p。機動部隊本隊発の機密241715番電のことで、栗田艦隊の金剛、矢矧には受電記録があり、栗田艦隊司令部(第一遊撃部隊司令部)も大幅な遅達ながら25日19時に受電の記録があるが、大和戦闘詳報には一切無い
  379. ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」365〜366pより
  380. ^ 福田幸弘「連合艦隊サイパン・レイテ海戦記」354p
  381. ^ 正説「レイテ沖の栗田艦隊」377p
  382. ^ 佐藤和正著「レイテ沖海戦」下巻286p
  383. ^ 『戦艦大和 激闘の軌跡』p.104
  384. ^ 『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』中央公論社
  385. ^ 小柳『栗田艦隊』P207
  386. ^ 児島襄 1974, p. 281
  387. ^ 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P122、『レイテ沖海戦 上』P93-97他 むしろこの話に触れない文献の方が少ない
  388. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上』
  389. ^ 例えば佐藤和正『レイテ沖海戦 下』P353の黛
  390. ^ 半藤は秦郁彦、横山恵一と『日本海軍 戦場の教訓』という鼎談本を出版しその中でも辛辣に批判をしている。
  391. ^ 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P126
  392. ^ 佐藤晃『帝国海軍が日本を破滅させた』
  393. ^ 『レイテ沖海戦 上』P93-97、『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P123
  394. ^ 児島襄 1974, p. 285
  395. ^ 外山三郎『図説 太平洋海戦史 3』
  396. ^ 『最後の帝国海軍』、『レイテ沖海戦下巻』P286
  397. ^ 『レイテ沖海戦』『日本海軍 戦場の教訓』
  398. ^ 歴史と人物/昭和56年5月号
  399. ^ 森本忠夫「レイテ沖"謎の反転"の真相」『潮』1986年9月P253-254
  400. ^ 外山三郎『図説 太平洋海戦史 3』P223
  401. ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦下巻』P353にて「あの時はそれが正解だったし今でもそう信じている」と記載あり。
  402. ^ 小板橋孝策 1985, p. 216。戦後、著者と黛の対談より。
  403. ^ a b c 小板橋孝策 1985, p. 217
  404. ^ 小板橋孝策 1985, p. 218.
  405. ^ 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間』(光人社、2004)160頁
  406. ^ 『最後の帝国海軍』、『レイテ沖海戦下巻』P286
  407. ^ 『栗田艦隊』の序文
  408. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』他
  409. ^ 亀井宏『ミッドウェー戦記』18頁
  410. ^ 『レイテ戦記 上巻』P262
  411. ^ 『レイテ戦記 上巻』P258
  412. ^ 『レイテ戦記上巻』P232
  413. ^ 『レイテ戦記上巻』P262-263
  414. ^ 『レイテ戦記 上巻』P200-203
  415. ^ 『魔性の歴史』P236、356[要文献特定詳細情報]
  416. ^ 『海上護衛戦』26 しびれた輸血管
  417. ^ 奥宮正武『提督と参謀』
  418. ^ 小板橋孝策 1985, p. 219.
  419. ^ 小板橋孝策 1985, p. 221.
  420. ^ 栗田艦隊の反転』『なにわ会ニュース』92号
  421. ^ a b 通信士官として艦隊勤務の経験があった吉田俊雄と共に書いた『全軍突撃 レイテ沖海戦』
  422. ^ 『日本海軍 戦場の教訓』
  423. ^ 『レイテ戦記 上』
  424. ^ 小島清文,1978年,1979年
  425. ^ 戦史叢書 海軍捷号作戦(2)』
  426. ^ a b 左近允尚敏『栗田艦隊の反転
  427. ^ なお、小島の活動については現在中帰連などで確認ができる
  428. ^ 細谷四郎 1988, p. 288.
  429. ^ 細谷四郎 1988, pp. 291-292.
  430. ^ "「CQ Ham Radio」誌、JA2CNCJA9LIN"
  431. ^ 艦船用の通信設備についての一般的な解説は『世界の艦船1989年2月号』「特集・艦隊通信」他に拠る。
  432. ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第69画像「軍艦大和に於ける捷一号作戦通信戦訓」
  433. ^ エドウィン・P. ホイト『空母 ガムビアベイ』学習研究社
  434. ^ 『レイテ沖海戦 下』P354
  435. ^ 『栗田艦隊』P160
  436. ^ 佐藤和正、外山三郎など
  437. ^ 小柳富次『栗田艦隊』P157で「戦後真相を知ってびっくりした」との記述
  438. ^ 『レイテ沖海戦 下』P351-352等、また小柳は護衛空母だと戦後に知ったと『栗田艦隊』で述べた。
  439. ^ 戦闘詳報や小柳の本
  440. ^ 『太平洋戦史シリーズ 9』P123で谷光太郎が米側専門家の指摘に同意する形で纏めた部分。『図説 太平洋海戦史』P221等
  441. ^ 大岡昇平『レイテ戦記 上巻』佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』『やっぱり勝てない?太平洋戦争』など。
  442. ^ 寺崎英成「昭和天皇独白録」 118頁
  443. ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』昭和30年
  444. ^ 数は児島襄 1974, p. 247による
  445. ^ 指揮系統の2元問題については下記を参照
    新見政一「23 沖縄上陸に至るまでの米国の太平洋戦争指導の概要」『第二次世界大戦戦争指導史』P507-508
    佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十一章P158-159
    『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P81,84,P123
  446. ^ 外山三郎『太平洋海戦史 3』
  447. ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』による
  448. ^ 『レイテ沖海戦 上』P158
  449. ^ 陸軍部隊は児島襄 1974, p. 249および『太平洋戦史シリーズ 9』P88等による。上陸地点は文献は多いが佐藤和正『レイテ沖海戦 上』P193など

注釈[編集]

  1. ^ この節は児島襄『太平洋戦争 下』「フィリピンに決戦を求めて」に拠る。具体的な作戦計画については捷号作戦を参照のこと)
  2. ^ 航空攻撃に策応し第一遊撃部隊主力は日没一時間後サンベルナルジノ海峡強行突破の予定にて進撃するも0830より1530敵艦上機来襲延機数約250機、暫次頻度及機数増大しあり、今迄のところ航空索敵、攻撃の成果も期しえず逐次被害累増すぬのみにして、無理に突入するも徒に好餌となり成算期し難きを以って、一時敵機の空襲圏外に避退し友隊の成果に策応し進撃するを可と認めたり
  3. ^ この電報の発電時間に関して当時大和の通信士官だった小島清文は著書「栗田艦隊」などで受け取ったのはガンルームで夕食をとった後の17時30分ごろで、電信室に回して打電し終えたのは18時前後であると書いているが、小島氏の上官で上記著書にも出てくる通信士都築卓郎はこれを明確に否定している。都築によるとこの時間帯の大和は総員戦闘配備中で悠長にガンルームで夕食をとるはずがない。小島氏は無電を打って10数分後に都築に呼ばれて艦橋に行き、栗田長官から18時15分連合艦隊司令部発の「天佑を信じ全軍突撃せよ」の電報を見せられ「この電報はこちらが(18時に)打った電報を見た上でのものか、どうか」と尋ねられ、「時間的に見てそうだと思う」と回答したとも書いているが、「天佑を信じ~」の電報は18時15分発だが大和への受電は18時55分であり、小島氏のいう18時発電から10数分後にはまだ大和以下栗田艦隊司令部にはその電報は届いていない。また海軍の無電の送受信方法(後述)から考えて18時頃に打った電報が電報が10数分で相手に着信して暗号解読を経て内容が判明し、その返信を打つのは物理的に不可能であり通信士官たるものがそのような事を理解せず「そうだと思う」と発言するのはおかしい。そもそも都築氏自身この時艦橋に小島氏を呼んだ記憶もないし電信室の責任者は別におり小島氏はその一員に過ぎず、長官が真偽を確かめるのに責任者を呼ばず小島氏を呼ぶのも不自然である。都築氏は以上の事からこの内容は小島氏の創作であり、自身の存在を大きく見せる(栗田長官に直接呼ばれるほど)売名行為であると「なにわ会」会報97~99号にかけて述べている。『大和からのレイテ海戦
  4. ^ 従来の説では西村艦隊にも栗田艦隊の突入を支援するための囮の任務が与えられていたというものもあるが、21日の栗田艦隊司令部からの作戦司令にも、第三部隊が翌23日に出した作戦説明の電報「第三部隊命令作第1号」にも囮もしくはそれに類する作戦内容の記載はなく、あくまでも主隊と連携してレイテ湾に突入して挟撃するのが任務であるとしている
  5. ^ この2隻以外の戦闘詳報は乗員が殆ど戦死したなどの理由で作成されておらず、旗艦山城がこの無電を着電し、西村司令がこの事をこの時点で把握していたかは不明である
  6. ^ 大和戦闘詳報によると、この電報は発信手続きがとられたのが同時刻で、実際の発信は22時42分であったと記載している。その時点で西村艦隊は敵魚雷艇と交戦に入っている。受信自体は最上に記録があるのだが時刻の記載がなくどの時点で西村艦隊に届いていたかは不明
  7. ^ この無電は第四航空戦隊戦闘詳報には8時1分に着電の記述があるが、栗田艦隊には着電の記録はない。旗艦大和の記録だけではなく、所属艦艇の記録にもこの電報の着電の記録はない
  8. ^ 深井氏の証言は殆どが氏の記憶や思い込みに拠るものと考えられ、論拠を一次資料(戦史叢書や各戦闘詳報など)や他の当事者の証言などと検証することをしていないと思われる点が多くある。氏は著書を出す前にもテレビや講演で証言を多く残しているが、その時には反転を開始した時に居た場所を副砲射撃指揮所とは言わず、あたかも栗田らのいる第一艦橋(もしくは艦長がいた防空指揮所)にいて、反転を開始した時にその場にいたかのようにとれる発言をしていたが、栗田艦隊は反転時は米艦載機の空襲を受けており(なにわ会ニュース97号、都竹卓郎著「大和艦橋から見た栗田艦隊」)、一連の反転時に大和副砲長である深井氏が持ち場を離れて艦橋に居て艦長らや参謀と激論する事となってしまう。深井氏の証言はメディアによっては副砲指揮所に居たが、下が騒がしいので1階下の艦橋に降りて宇垣や栗田のやりとりを見たと書いている物もあるが、副砲指揮所は上記の様に第一艦橋の3階下であり、同指揮所の下にあるのは第二艦橋で栗田や宇垣が詰めていたのは上の第一艦橋である。大谷参謀と深井氏が艦橋内で言い合ったというのも、その他に第一艦橋にいた生存者である石田氏や伊藤敦夫第一戦隊参謀などの証言にはない。特に石田氏は大和主計長、深井氏は大和副砲長と同僚であり、階級も近く深井氏がこのようなことを艦橋でしたというのなら記憶しててもよいはずだがその証言は無い。 このようにメディアによって内容が二転三転していて信憑性に欠ける面がある。
  9. ^ 深井はこの他にも「小沢の短刀」の話「『月刊正論』 2014年10月号」をしている、小沢がかねてから栗田の言動に不審を抱き、突入しないのではないかと危惧した小沢提督が深井に短刀を渡して「絶対突入せよ」と言ったと深井は述べていた。しかし当初の話だと栗田他第二艦隊司令部はこの作戦が第三艦隊など各部隊に説明された8月初旬の時点でリンガ泊地やシンガポールで作戦行動中であり、説明会議自体に参加していない(上述されているように後日神重徳参謀らと小柳参謀長らとがマニラで落合い説明を受ける)。深井氏が乗艦している大和も7月初旬に本土を出て以来、レイテ沖海戦が終わるまで本土に帰還していない。対して小沢艦隊はマリアナ沖海戦後に本土に戻って以降、レイテ沖海戦まで出撃せず、小沢も本土に居続けている。1944年3月1日に大和に着任し、7月以降は外地に居続けた筈の深井氏が、8月初旬に知らされた捷一号作戦の内容から栗田に不信感を持った小沢提督から短刀を贈られて激励されるなどというのは有り得ない話である。後に深井氏は著書「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」で短刀は小沢提督から大和各士官へ送られたものと主張を一部変えているが、それだと小沢が栗田に不審感をもっていたり、短刀を贈った小沢の真意が深井氏が述べていた内容だった訳ではなく、全て深井氏個人がそう思っただけの私見だった事になり(実際短刀は大和だけでなく栗田艦隊将兵以外の参加部隊にも贈られている)小沢が栗田に対して疑念を抱いていたという従来の彼の説明も成り立たなくなる。テレビや講演などで深井氏が語る発言に関しては内容の裏付けがなされないまま公開されている点が多い。他の当事者の証言や戦闘詳報の記録などと大きく異なるものも多い。彼自身そういったものと自分の論拠を照らし合わせて記憶違いはないか、間違いはないか考証した様子もない。他にも同著では彼は初雪砲術長時代、常に初雪ら第11駆逐隊は吹雪、白雪ら3隻で行動し、ネズミ輸送時に駆逐艦と交戦した時もこの3隻で行動したかのように著書で書いているが、実際は叢雲が加わって4隻体制であり、この海戦も叢雲と夕立を加えた3隻が戦っており、吹雪、白雪ではない。この2隻は初雪らの前の便でネズミ輸送に出撃している。こういったことは戦闘詳報などで調べればすぐ解る誤りだが、彼はそのまま著書に書いている。
  10. ^ なお、「日本海軍の歴史で前線指揮官が勝手に作戦を中止した」という事例はレイテ沖海戦後の坊の岬沖海戦で第二艦隊司令長官伊藤整一が作戦中止を指示したのが唯一の事例とされており、レイテ沖海戦での栗田の行為は含まれないのが通例である
  11. ^ 機動部隊本隊1145地点「ヌア二シ」攻撃隊全力発進 地点「フシ二カ」の敵機動部隊を攻撃す 当隊針路西速力20ノット 敵情に応じ機宜行動す
  12. ^ 前衛は南方に進出好機に乗じ残敵を攻撃撃滅すべし 本隊は1600頃まで西行飛行機を収容したるのち南東に向かい翌朝戦を続行す
  13. ^ 前衛は速やかに北方に避退せよ
  14. ^ 敵艦上機我に接触中 機動部隊本隊1645位置 地点「レヨ四ケ」
  15. ^ 機動部隊本隊敵艦上機の蝕接を受けつつあり 地点「ヘンホ41」0713
  16. ^ 敵艦上機約80機来襲 ワレ之卜交戦中 地点ヘンニ13 0815
  17. ^ 瑞鶴魚雷命中1 人力操舵中 瑞鳳爆弾1命中 速力14節 ソノ他20節付近 航行差シ支エナシ
  18. ^ 大淀に移乗作戦を続行す 1107
  19. ^ 0830カラ1000マデ敵機約100機ノ来襲ヲ受ク 戦果撃墜10数機被害秋月沈没 多摩落伍 ソノ他損害アルモ概ネ18節航行可能 瑞鶴通信不能
  20. ^ レイテ湾は南北130km、東西60kmに及ぶ巨大な湾であり、仮にオルテンドルフ艦隊を突破して湾に侵入したとしても、米軍の上陸地点を射程に捉えるまで更に2時間ほどを必要とする。周囲に敵空母を残したまま突入を継続するとこの間にも空襲を受けることになり、栗田艦隊は大損害を蒙ったと考えられる

参考文献[編集]

  • 米国海軍省戦史部 編、史料調査会 訳『第二次大戦米国海軍作戦年誌 1939-1945』出版協同社。
  • ジェームス・フィールドJr 著、中野五郎 訳『レイテ沖の日米大決戦 捷号作戦の真相記録 太平洋戦争の大海戦史』妙義出版、1956年、初出1949年。
    • 『The Japanese at Leyte Gulf』の邦訳。著者はハーバード大出身の戦史研究者。訳者は朝日新聞記者として開戦時ワシントンに駐在。
  • 伊藤, 正徳 (1956), 連合艦隊の最後, 文藝春秋新社 
  • 『実録太平洋戦争〈第4巻〉マリアナ沖海戦からレイテ特攻まで』中央公論社、1960年。
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 児島襄『悲劇の提督 南雲忠一中将栗田健男中将』中央公論社、1967年。
  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書37巻 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで』朝雲新聞社、1970年。
  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書41巻 捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦』朝雲新聞社、1970年。
  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書56巻 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』朝雲新聞社、1972年。
  • 栗田中将会見記」『決断 8月号(Vol.3)』(1971年、「君はアニメンタリー決断を知っているか」内に転載)。
  • 「レイテ海戦の戦史的考察 -上、下-」『軍事史学 7(1)〜(2)』、1971年6月、9月。
  • ドナルド・マッキンタイヤー 著、大前敏一 訳『第二次世界大戦ブックス5 レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』サンケイ新聞社出版局、1971年。
  • 『写真集・日本の重巡「古鷹」から「筑摩」まで全18隻の全て』(光人社、1972)42-45頁
    • 浅井秋生 元海軍中佐、羽黒砲術長。サマール沖海戦、護衛空母追撃部分の証言。
  • 文藝春秋臨時増刊『目で見る太平洋戦争史』1973年(昭和48年12月増刊号)170-171頁
    • 都竹卓郎 元海軍中尉。サマール沖海戦における大和の砲撃開始から終了まで。反転については語っていない。
  • 児島襄 『太平洋戦争 下巻』 中央公論社〈中公文庫, [こ-8-1,2]〉、1974年ISBN 412200117X
    • 政治的経緯との関係が充実、(上)のまえがきで発言まで含め史料に拠ったことを明記、初版は中公新書、1966年
  • 小島清文 「栗田艦隊反転は退却だった「ナゾの反転」の神話はかくて崩壊した (昭和史・最後の証言)」『文藝春秋』1978年3月号、文藝春秋
  • 小島清文『栗田艦隊』図書出版社、1979年。
    • 著者は大和の暗号士、その経験から栗田艦隊司令部による電文捏造説を主張
  • 福田茂夫「第四章 三 オーバーロード開始とレイテ作戦決定」『第二次大戦の米軍事戦略』叢書、国際環境、中央公論社、1979年。
  • 福田幸弘「「栗田艦隊」反転の謎-1-〜-5-」『ファイナンス』大蔵財務協会、1979年7月号〜10月号に連載。
    • 著者は羽黒の主計士官で本海戦の戦闘記録係でもあった。羽黒の戦闘詳報はこの記録を元に作成され終戦後も残存、それと著者の記憶などを元に執筆した物。
  • 『丸 昭和56年4月 特集レイテ沖海戦』潮書房、1981年。
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年。
  • 小板橋孝策 『戦艦大和いまだ沈まず』 光人社、1984年ISBN 4769802242 愛宕航海士。大和移乗後、防空指揮所見張員。サマール沖海戦後に負傷。
  • 小板橋孝策 『下士官たちの戦艦大和』 光人社、1985年ISBN 4769802676
  • 細谷四郎 『戦艦武蔵戦闘航海記』 八重岳書房、1988年ISBN 4896461142
  • ジョン・トーランドJohn Toland (author))『大日本帝国の興亡〈4〉』ハヤカワ文庫(ノンフィクション)、1984年、初版は1971年(毎日新聞社)。
  • 『丸スペシャル 比島沖海戦1 太平洋戦争海空戦シリーズ』丸スペシャル105、潮書房、1985年。
  • 『丸スペシャル 比島沖海戦2 太平洋戦争海空戦シリーズ』丸スペシャル106、潮書房、1985年。
  • 中川八洋「レイテ湾頭の栗田艦隊「痛恨の反転」の謎を追う(将の「大決断」<特集>)」『ウイル』1985年1月号、中央公論社。
  • 豊田穣『空母瑞鶴の生涯』集英社文庫、1985年、ISBN 4-0874-9009-2。のち光人社で著作集
  • 外山三郎『敗因究明に主論をおく太平洋海戦史〈5〉マリアナ沖海戦、レイテ海戦、及び特攻攻撃並びに敗因の底にあるもの』教育出版センター、1986年。ISBN 4-7632-6804-X
  • 森本忠夫「レイテ沖"謎の反転"の真相」『潮』、1986年9月号。
  • W・P・ブリューア 著、井上寿郎 訳『悪魔の魚雷艇』朝日ソノラマ、文庫版新戦史シリーズ、1988年。ISBN 4-2571-7206-1
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争(全)』1989年。ISBN 4-7698-0445-8
  • 福田幸弘『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(上巻)』角川文庫、1989年。ISBN 4-04-174401-6
  • 福田幸弘『最後の連合艦隊 レイテ海戦記(下巻)』角川文庫、1989年。ISBN 4-04-174402-4
    • 『ファイナンス』の連載を大幅に改稿し『連合艦隊―サイパン・レイテ海戦記』(1981年)として単行本としたものの文庫化。栗田の陳述禄付(『海軍経理学校第36期のホームページ』内の引用、紹介
  • 読売新聞社 編集『昭和史の天皇 レイテ決戦〈上〉』角川書店、1989年。ISBN 4-04-173902-0
  • 読売新聞社 編集『昭和史の天皇 レイテ決戦〈下〉』角川書店、1989年。ISBN 4-04-173903-9
  • 『写真太平洋戦争 第四巻』光人社、1989年。ISBN 4-7698-0416-4
  • 戸部良一寺本義也鎌田伸一杉之尾 孝生村井友秀野中郁次郎「1章5 レイテ海戦 自己認識の失敗」「第2章」「第3章」『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年、1984年に出版した単行本の文庫化。ISBN 4-1220-1833-1
  • E・B・ポッター 著、秋山信雄 訳「第18章 レイテ湾」『キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』1991年。ISBN 4-7698-0576-4
  • C・W・ニミッツ / E・B・ポッター 共著、実松譲 / 冨永謙吾 共訳『ニミッツの太平洋海戦史』(英題 THE GREAT SEA WAR)恒文社、1992年新装版。ISBN 4-7704-0757-2
  • 柳田邦男『零戦燃ゆ〈5〉』文春文庫、1993年。ISBN 4-1672-4013-0
    • 『零戦燃ゆ〈渾身篇〉』(1990年初出)を改題、分冊して文庫化。
  • 福田誠伊藤健太郎牧啓夫石橋孝夫「第7章」「第8章」『太平洋戦争海戦ガイド』新紀元社、1994年。ISBN 4-8831-7230-9
  • 中尾裕次「捷号作戦準備をめぐる南方軍と第十四軍との葛藤」『軍事史学』第30巻第1号、1994年
  • 小柳富次『栗田艦隊』光人社NF文庫、1995年、初出は1950年、1956年再版。ISBN 4-7698-2095-X
  • 外山三郎『図説 太平洋海戦史〈3〉』光人社、1995年。ISBN 4-7698-0711-2
  • 小林昌信ほか『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』(光人社、1995) ISBN 4-7698-2087-9
    • 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず」(瑞鶴戦闘機整備科員。エンガノ沖海戦に参加)
  • 伊藤由己『検証・レイテ輸送作戦』近代文芸社、1995年。ISBN 4-7733-4387-7
  • 『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』学習研究社、1995年。ISBN 4-0540-1265-5
  • 奥宮正武『日本海軍が敗れた日〈下〉 レイテ沖海戦とその後』、PHP文庫、1996年、初出1993年。ISBN 4-5695-6958-7
  • 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』光人社NF文庫、1998年。ISBN 4-7698-2196-4
  • 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』光人社NF文庫、1998年。ISBN 4-7698-2198-0
    • 雑誌『丸』に1984年9月から1987年12月まで連載したものを『レイテ沖の日米決戦(日本人的発想VS欧米人的発想)』ISBN 4-7698-0374-5(1988年刊行)として単行本化。文庫化にあたり改題。
  • 原勝洋『戦艦大和建造秘録』KKベストセラーズ、1999年。ISBN 4-5841-7076-2
  • カール・ソルバーグ、高城肇訳 『決断と異議 : レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』 光人社、1999年ISBN 4769809344
    • 原書 Carl Solberg (1995). Decision and dissent: with Halsey at Leyte Gulf. Naval Institute Press. ISBN 978-1-55750-791-4. 
    • 著者はTIME誌記者を経て軍に志願、空中戦闘情報(ACI)将校として南西太平洋軍に勤務、本海戦時は第3艦隊司令部に配属され旗艦ニュージャージーに乗組み従軍した。訳者は光人社創業者。
  • 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年。ISBN 4-05-400982-4
  • 利根川裕「それは臆病風に吹かれたのではなく、古き海軍の思想と美学ゆえだった レイテ沖海戦--栗田健男「謎の反転」の心理を読む」『プレジデント』2000年3月号。
  • 青山弘「戦史豆知識 栗田艦隊の謎の反転を考える」『鵬友』航空自衛隊幹部学校幹部会、2000年7月号。
  • 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』P128-142、P256、光人社NF文庫、2000年、1989年に出版した単行本の文庫化。ISBN 4-7698-2289-8
  • 半藤一利 『レイテ沖海戦』PHP研究所、2001年。ISBN 4-569-57616-8
    • 半藤一利、吉田俊雄共著『全軍突撃 レイテ沖海戦』(初版1970年)を改題し、後半部の半藤著述部分を抜粋した版。吉田が記述した前半部は作成の背景や計画についての経緯が詳述されたが、再版に当たり現在の読者にはそういった文章は受け入れづらいという(編集者出身の)半藤の判断で、吉田の了承を得て削除された。半藤は自らの著述部分については「海戦記」を目指した旨を述べている。
  • 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年2月ISBN 978-4-05-901040-1「第7章 南方ルート臨終記」
    • 初出1953年、以後1975年、1983年、1992年に再版。
  • 宇垣纏戦藻録 宇垣纏日記[新装版]』原書房、2001年第2版、初出1953年、1968年再版、1996年新装版初版。ISBN 4-562-02783-5
  • 外山三郎「戦史 太平洋諸海戦の我が敗因に潜む「迂闊」と「不覚」の史例の考察(2)サマール島沖海戦後レイテ湾を背に針路を「北」にとった栗田艦隊の部隊集結」『波涛 Vol.27, No.2』兵術同好会、2001年7月。
  • 神野正美『空母瑞鶴』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1026-1
    • 1992年初出、1995年文庫化した本の改訂版。書名は個艦名がつけられているが、エンガノ岬沖海戦を米軍のアクションレポートを和訳し日本側戦闘詳報と比較、通信不達についても新証言などがある。
  • E・P・ホイト 著、戸高文夫 訳『空母ガムビアベイ』学研M文庫、2002年。ISBN 4-05-901140-1
  • 江戸雄介『激闘レイテ沖海戦 提督ブル・ハルゼーと栗田健男』光人社NF文庫、2002年、初出1993年。ISBN 4-7698-2336-3
  • 『歴史群像55 特集レイテ沖海戦』2002年10月号、学習研究社。
  • ダグラス・マッカーサー 著、津島一夫 訳『マッカーサー大戦回顧録[下]』中公文庫、BIBLO20世紀、2003年、日本での初出版は1964年。ISBN 4-12-204239-9
  • 半藤一利、横山恵一秦郁彦『日本海軍 戦場の教訓』PHP文庫、2003年、2001年単行本初出。ISBN 4-569-66001-0
  • 左近允尚敏「レイテ海戦における重巡熊野の戦闘 航海士 左近允中尉手記 第1回〜第4回」『波涛 Vol.29, No.2〜5』兵術同好会、2003年7月、9月、11月、2004年1月。
  • 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間 「大和」艦載機偵察員の戦場報告』光人社NF文庫、2004年、初出1998年、以前にも自費出版歴あり。ISBN 4-7698-2414-9
  • 原勝洋「第二部 レイテ沖海戦における大和艦隊の実態」『日米全調査 決戦戦艦大和の全貌』三修社、2004年。ISBN 4-3840-3389-3
    • 第二部にて日米の一次資料を駆使しアメリカ側の作戦計画、栗田艦隊の動きを記述。
  • 「やっぱり勝てない?太平洋戦争」制作委員会 著『やっぱり勝てない?太平洋戦争』シミュレーションジャーナル、並木書房、2005年。ISBN 4-89063-186-0
  • 酒井直行、本多秀臣、文殊社(編)、2006、『戦艦大和 激闘の軌跡』28号 第31巻第2号 通巻721号、 新人物往来社〈別冊歴史読本〉
  • 志柿謙吉『回想レイテ作戦 海軍参謀のフィリピン戦記』光人社NF文庫、2005年、初出1996年。ISBN 4-7698-2462-9
  • 佐藤晃「16章 フィリピンの戦い」『帝国海軍が日本を破滅させた(下) Incompetent Japanese Imperial Navy』光文社ペーパーバックス、2006年。ISBN 4-3349-3388-2
  • 菊澤研宗『「命令違反」が組織を伸ばす』光文社、2007年。ISBN 4-3340-3413-6
  • 井川聡 『軍艦「矢矧」海戦記: 建築家・池田武邦の太平洋戦争』 光人社、2010年8月ISBN 978-4-7698-1479-5
    • 第三章レイテ沖海戦「反転の謎を追って」「『大和』艦橋での激論」深井俊之助(大和副砲長)の証言。
  • 井上陽介「陸軍による海戦情報入手とその後の意志決定--ミッドウェー・レイテ沖両海戦」、『東京大学日本史学研究室紀要』第14号、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室、2010年3月、 183-197頁、 NAID 40017143241
  • 大岡次郎 『正説レイテ沖の栗田艦隊』 新風書房、2010年4月ISBN 978-4-8826-9706-0

『機関誌水交』掲載記事[編集]

  • 石川寿雄「比島沖海戦における「瑞鶴」の最後」337号、1981年。
  • 久原一利「若い世代へ遺すもの(6)レイテ湾における栗田艦隊」533号、1999年。
  • 久原一利「栗田艦隊レイテ反転の疑問について」535号、1999年。
  • 左近允尚敏「「栗田艦隊の謎の反転」ほか」584号、2005年。
  • 櫻井正「比島沖海戦における第五艦隊と志摩清英司令長官」589号、2006年。
  • 池田清 『最後の巡洋艦・矢矧』 新人物往来社、1998年12月28日ISBN 978-4-404-02692-7

日本国外文献(主に未邦訳もの)[編集]

  • Woodward C.Vann 『The Battle for Leyte Gulf』 McMillan Press (1947)
  • Samuel en:Samuel Eliot Morison『Leyte: June 1944-January 1945 (History of United States Naval Operations in World War II, Volume 12)』(2001)
    • いわゆる『モリソン戦史』。レイテ海戦は12巻。フィリピン戦は13巻。日本では中野五郎訳『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』として改造社より4巻組で1950年から1951年に出版。
  • Richard Bates『The Battle for Leyte Gulf, October 1944. Strategical and Tactical Analysis. Volume I. Preliminary Operations until 0719 October 17th, 1944 Including Battle off Formosa』(1953)PDF文書
    上記カール・ゾルバーグによれば海大のベイツ准将が作成。膨大な戦闘詳報、通信記録をもとに編纂され、後にモリソンもこれを著書の参考にした。
  • [The Battle of Leyte Gulf]『World War II Naval Histories and Historical Reports』 Naval War College, Battle Analysis Series (1953〜1958)
    • 海軍大学戦闘分析シリーズ(国会図書館による日本語仮訳)。海軍士官の訓練と教育のために、海軍大学が作成。同図書館では2002年度購入、2003年公開
  • Stanley Falk 『Decision at Leyte』 W.W.Norton Press (1966)
  • Stewart Adrian『The Battle of Leyte Gulf』 Scribner's Press (1980)
  • Charles D.Crowell『SHO-1 versus KING II - Victory at Leyte Gulf - Was it United States Luck or Japanese Mistakes?』(1989)
  • Gerald E. Wheeler 『Kinkaid of the Seventh Fleet: A Biography of Admiral Thomas C. Kinkaid, U.S. Navy』Naval Historical Center ISBN 1557509360 (1996)
  • Rafael Steinberg『Return to the Philippines (World War II)』Time Life Education ISBN 0783557094(1998、初出1979年)
  • 『Afternoon of the Rising Sun: The Battle of Leyte Gulf』Presidio Press ISBN 0891417567 (2001)
  • Thomas J. Cutler『The Battle of Leyte Gulf: 23-26 October 1944 (Bluejacket Books)』Naval Inst Press ISBN 1557502439 (2001、1994年初出)
  • H. P. Willmott『The Battle Of Leyte Gulf: The Last Fleet Action (Twentieth-Century Battles)』Indiana Univ Press ISBN 0253345286(2005)
  • Paul Dull『A Battle Hisitory of THE IMPERIAL JAPANESE NAVY(1941-1945)』Naval Inst Press ISBN 1591142199 (2007)
  • [Leyte:The Return to the Philippines]"U.S.Army in World War II"
    • アメリカ側の公式戦史のひとつ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本国外(日本語以外)[編集]