矢矧 (軽巡洋艦)

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矢矧
Japanese cruiser Yahagi.jpg
公試のため佐世保を出港する矢矧(1943年12月19日)[1]
経歴
運用者  大日本帝国海軍
建造所 佐世保海軍工廠[2]
種別 二等巡洋艦
クラス 阿賀野型
計画 1939年度(マル4計画
起工 1941年11月11日[2]
進水 1942年10月25日[2]
竣工 1943年12月29日[2]
除籍 1945年6月20日[3]
最後 1945年4月7日沈没[3]
母港 佐世保
要目 (計画)
基準排水量 6,651英トン[4] または 6,652英トン[2]
公試排水量 7,710トン[2]
満載排水量 8,338.4トン[4]
全長 174.50m[2]
水線長 172.00m[2]
垂線間長 162.00m[2]
全幅 15.20m[2]
深さ 10.17m[2]
吃水 公試平均 5.63m[4][2]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付)6基[2]
主機 艦本式タービン4基[2]
推進 4軸[2]
出力 計画 100,000hp[2]
公試成績 101,100hp[5]
速力 計画 35ノット[2]
公試成績 35.17ノット[5]
燃料 重油 1,420トン[2]
航続距離 6,000カイリ / 18ノット[2]
乗員 計画乗員 700名 + 司令部26名[6]
兵装 50口径15cm連装砲 3基6門 [7]
九八式8cm連装高角砲2基4門 [7]
25mm機銃 3連装2基、連装4基(竣工時)[8]
同 3連装8基、単装18挺(1944年6月)[8]
同 3連装8基、単装28挺(1944年12月)[8]
61cm四連装魚雷発射管 2基8門[9]
九三式一型改一魚雷16本[9]
九五式爆雷18個[9]
装甲 計画[10]
機関部舷側 60mmCNC、甲板 20mmCNC鋼
弾火薬庫舷側55mmCNC、甲板20mmCNC鋼
舵取機室舷側 30mmCNC、甲板20mmCNC鋼
操舵室舷側 30mmCNC鋼
搭載艇 竣工時[11]
11m内火艇1
9m内火艇1
12m内火ランチ1
9mカッター(救助艇)2
最終時[12]
12m内火ランチ1
9mカッター(救助艇)1
搭載機 零式水上偵察機2機[13]
レーダー 21号電探1基(竣工時)[14]
22号電探2基(1944年7月以降)[14]
13号電探1基(1944年7月以降)[14]
その他 呉式二号射出機5型1基[15]
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矢矧 (やはぎ)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦[16]阿賀野型の3番艦。艦名は長野県から岐阜県を経て愛知県に至る矢矧川にちなんで命名された(現在は矢作川と表記されている)[17]。帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。この名を持つ帝国海軍の艦船としては防護巡洋艦矢矧に続いて2隻目[17]坊ノ岬沖海戦において、特攻する大和と運命を共にした。

艦歴[編集]

1941年(昭和16年)11月11日、阿賀野型3番艦として佐世保海軍工廠で起工、1942年(昭和17年)8月20日、軍艦「矢矧」と命名され[16]、姉妹艦能代と共に阿賀野型として登録[18]。9月25日、佐世保鎮守府所属となる[19]10月25日進水。機密保持のため、進水式で配られた記念酒盃には矢矧の名は記されておらず、かわりに矢に萩の花をあしらった絵が描かれていた[20]

1943年(昭和18年)12月29日に竣工した。1944年(昭和19年)2月にリンガの哨戒および訓練のためシンガポールへ派遣された[21]。13日、シンガポールに到着する。20日、リンガ泊地着[22]。16日に姉妹艦の阿賀野が撃沈された事に伴い[23]木村進海軍少将が駆逐艦秋月から移乗した。23日、第十戦隊旗艦となった[24]。5月、第一航空戦隊の空母大鳳翔鶴瑞鶴、第五戦隊の重巡洋艦妙高羽黒とともにシンガポールからタウィタウィ泊地へ向け出発した。タウィタウィ泊地では、訓練と搭載水上偵察機による潜水艦哨戒任務に従事した[25]

1944年(昭和19年)6月19日、第十戦隊(第4駆逐隊、第17駆逐隊、第10駆逐隊、第61駆逐隊)[26]を率いて小沢治三郎中将指揮の第一機動艦隊に所属し、マリアナ沖海戦に参加した。午前8時10分、矢矧から距離3kmの位置にいた第一機動部隊旗艦の空母・大鳳に米潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218) の発射した魚雷1本が命中した。矢矧は大鳳から「ワレ航行ニ差シ支エナシ」の信号を受取っている[27]。さらに午前11時20分、矢矧の目前で翔鶴が米潜水艦カヴァラから雷撃され魚雷4本が命中、真珠湾攻撃以来活躍してきた翔鶴も午後2時前後に沈没し、矢矧と駆逐艦浦風は翔鶴から乗員570人を救助する。14時32分、大鳳が大爆発を起こした。これは魚雷命中の衝撃で気化ガソリンが洩れ、引火した為である。その大鳳も16時28分に沈没し、矢矧は磯風と共同で脱出乗組員の救助にあたった[28]。20日17時50分、第一機動部隊は米機動部隊から発進した戦闘機85、艦上爆撃機77、艦上攻撃機54と交戦。矢矧は瑞鶴を護衛し、主砲15(18)発、高角砲130発、機銃5,200発を発射した[29]。この戦闘で矢矧に損害はなく、瑞鶴も被弾したが小破に留まった。

1944年6月24日、矢矧は日本のに戻った[30]。ドックでレーダーや機銃の増強を行った後、7月8日に多くの戦艦、巡洋艦、駆逐艦と共に呉を出航し、東南アジア方面へ向かった。マニラを経由し、20日リンガ泊地に到着した[31]。その後はアメリカ軍との戦闘に備えて訓練に従事した。

レイテ沖海戦[編集]

1944年10月、矢矧は栗田艦隊(第一遊撃部隊)、第二部隊(司令官鈴木義尾中将・旗艦金剛)に属してレイテ沖海戦に参加した。10月23日、栗田艦隊は米軍潜水艦2隻に襲撃され愛宕、摩耶の2重巡を喪失、高雄が被雷して朝霜、長波と共に離脱した。 10月24日シブヤン海海戦で艦隊はアメリカ海軍第38任務部隊からの空襲を受ける。空襲直前、矢矧は艦載水上偵察機2機を発進させたが[32]、1号機(佐々木少尉機)が未帰還となった。この戦闘で矢矧を含めた各艦はアメリカ軍側の記録にない米潜水艦を発見し、空襲下にある艦隊は混乱した[33][34]。日本軍は、10時30分から16時30分にわたる五回の空襲によって戦艦武蔵」が沈み、大和、長門、重巡洋艦利根妙高、駆逐艦浜風清霜が命中弾を受けた。妙高、浜風、清霜の3隻は艦隊から離脱、矢矧も第二次対空戦闘で左舷に至近弾、第三次対空戦闘で後部兵員室に小型爆弾命中、艦首至近弾で錨鎖機室で火災発生[35]という被害を受けた。右舷艦首に直径4-5m(2m程とも)の穴があき、速力も22ノットに低下した[36]。池田武邦航海士によると、応急修理で28ノット発揮可能になったが、30ノット以上出すと破孔が拡がって危険な状態になったという[37]。だが矢矧は翌日の戦闘で無理をして32ノットを発揮していた[38]

10月25日、矢矧はサマール沖海戦に参加した。午前6時30分、米護衛空母艦隊を発見する[39](戦闘詳報の発見時刻は6時45分発見[40])。大和を含めた栗田艦隊全艦はこの部隊を正規空母部隊と誤認し[41]、重巡洋艦部隊を突出させ、その後に止め役として水雷戦隊を続行させた[42][43]。矢矧は第十戦隊を率いて逃走する米空母部隊を追撃し、護衛駆逐艦と交戦。午前7時25分、米軍機の機銃掃射で艦橋勤務兵に死傷者が出る[44]。午前9時、米駆逐艦の砲撃が左舷士官室に命中したのに加え[45]、米軍機の機銃掃射により再び艦橋要員に被害を出し[46]、小火災が発生。魚雷発射管1門が使用不能となる[47]。午前8時50分、米駆逐艦ジョンストン(USS_Johnston, DD-557)が煙幕を突破して偽装の魚雷発射姿勢をとる(同艦の魚雷は既に発射しており、1本も残っていなかった)[48]。矢矧以下第十戦隊は魚雷回避のため右に舵をきり、これが軽巡能代以下第二水雷戦隊の針路を妨害することになった[48]。第二水雷戦隊も右に回避行動をとったため米艦隊との距離が開いてしまい、同戦隊が魚雷を発射する機会は失われた[48]。午前9時6分、第十戦隊は矢矧が九三式酸素魚雷7本、第十七駆逐隊各艦4本(磯風のみ8本)[49]、計魚雷27本を発射し[50]、エンタープライズ型空母1隻撃沈、同型空母1隻大破撃沈殆ど確実、砲撃により駆逐艦3隻撃沈を報告している[51]。実際には、魚雷は1本も命中していなかった[52]。矢矧の指揮下にあった磯風の水雷長は、矢矧が魚雷命中の期待できない遠距離雷撃命令を出したことに疑問を呈している[53]。艦橋にいた池田は、水雷長は米空母がスコールに逃げ込み魚雷発射のチャンスを逸することを懸念していたと述べている[46]。アメリカ軍によれば、護衛空母カリニン・ベイセント・ローに迫る数本の魚雷があったものの、対空砲や艦載機の機銃掃射により、命中前に爆破されたという[54]。実際の矢矧の戦果は、砲撃による米駆逐艦ジョンストンの撃沈であった。

栗田艦隊は撤退行動に移ったが、帰路にも18回にわたる米軍機の空襲を受けた。16時45分、矢矧は至近弾により魚雷発射連管室で火災が発生し、戦死者14名重傷者多数を出す損害を受けた[55]

10月26日にも艦隊は空襲を受け、矢矧に命中弾はなかったものの姉妹艦の能代が沈没した。28日、残存日本艦隊はブルネイに帰投した。一連の戦闘で矢矧は主砲通常弾367発、対空砲弾205発、高角砲600発、機銃2万7000発、爆雷6個を消費し[56]、戦死44名、行方不明3名、重軽傷者97名を出した[57]。水上偵察機も1機が未帰還となった[58]

11月15日、第十戦隊の解隊に伴い、矢矧は第二水雷戦隊に編入された[59][60]。矢矧は日本への帰還を命じられ、戦艦大和、長門、金剛、第17駆逐隊4隻(浦風、雪風、浜風、磯風)と共に16日ブルネイを出港した[61][62]。20日、随伴していた駆逐艦が艦隊から分離して台湾へ向かった。11月21日、金剛と17駆司令艦浦風が米潜水艦シーライオンIIの雷撃により沈没、浦風の乗組員は駆逐隊司令部ごと総員戦死、金剛の生存者は浜風、磯風に救助された。矢矧は金剛の救援に関しては何も出来ず[61]、大和、長門、雪風と共に現場海域を避退した。 11月23日本土到着、26日佐世保に回航、修理が行われる[63]。修理個所を明確にするため白ペンキで塗られた場所は1,000個所を越えた[64]

12月20日、新艦長として原為一大佐(太平洋戦争時、天津風駆逐艦長、第27駆逐隊司令)が任命された[65]。同時期、第二水雷戦隊(矢矧、時雨、第17駆逐隊)はヒ87船団と空母龍鳳の護衛として出撃、その後矢矧、時雨のみ第二水雷戦隊麾下各艦が活動するフィリピンへの進出が下令される[66]。21日、修理を終えた矢矧は佐世保を出港し、23日呉到着[67]。だが矢矧は訓練不足の為出撃できないと連合艦隊に意見具申、矢矧の出動は取りやめられた[68]。結局、第17駆逐隊浜風、磯風(雪風は機関故障のため出港前日同行中止)と第21駆逐隊時雨がヒ87船団と龍鳳の護衛として出動することになった。なおこの船団護衛中、浜風は台湾で輸送船と衝突し、馬公市附近で座礁した上に空襲を受けて危機に陥った。また時雨は、龍鳳、磯風と分離後もヒ87船団の護衛を続行し、シンガポール方面で米潜水艦ブラックフィンの雷撃に遭い沈没した。

1945年(昭和20年)1月4日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将に交代した[69]。矢矧は内地で待機を続け、2月20日、シンガポールから日本本土への強行輸送作戦(北号作戦)に従事していた『完部隊』(第四航空戦隊司令官松田千秋少将:日向伊勢大淀[70])、第二水雷戦隊3隻(初霜朝霜)が呉に到着した[71]。23日、旗艦は霞から矢矧に変更された[72]。その後、第二水雷戦隊各艦は内地で待機した。 3月19日の呉軍港空襲では、矢矧はドックで整備中で動けなかったが被害はなかった[73][59]。28日、大和や配下駆逐艦と共に呉港を出港し、周防灘、続いて三田尻沖に停泊する。3月29日、指揮下のが触雷して大破、朝霜は呉に向かう響を途中まで護衛すると艦隊に戻った[74]

連合艦隊の最後[編集]

アメリカ軍機の空襲を受ける矢矧
磯風を呼び寄せる矢矧
アメリカ軍機の空襲を受け沈没する矢矧

1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍は沖縄に上陸を開始した。4月6日天一号作戦に参加すべく、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵中将が座乗する矢矧は徳山沖に停泊中の戦艦大和に合流、矢矧の原為一艦長は少尉候補生23名を退艦させた。艦内の倉庫にあった米麦20日分も、5日分のこして徳山軍需部に返還している[76]。13時、大和の士官室で草鹿龍之介連合艦隊参謀長が第二艦隊司令官・艦長達に作戦を説明すると一斉に不満の声があがり、原艦長は「敵の後方補給路を『矢矧』で暴れて寸断する」と提案している[77]。15時20分、矢矧は第二艦隊に所属し、大和以下駆逐艦8隻と共に沖縄へと出撃。原艦長は乗組員に「死に急ぐな」と訓示したという[78]。また沖縄に到着後は座礁して砲台になる事や、宮本武蔵の話をしたという乗組員の回想もある[79]。原艦長自身は、矢矧が被害担当艦となることで大和や駆逐艦への被害を減らそうと考えていたと回想している[80]。夕刻、伊予灘にて大和を目標とした編隊訓練と襲撃運動訓練を実施した[81]

4月7日午前6時頃、第二艦隊は大隅海峡を通過、針路を280度とした[82]。午前6時57分、朝霜が機関故障を起こし速力低下、第二艦隊から落伍した[83]。矢矧では、搭載水上偵察機を事前に退避させるよう意見具申[84]。8時15分に零式水上偵察機1機(富原辰一少尉/機長、松田上飛曹/操縦、佐々木上飛曹/電信)を鹿児島県指宿基地に戻す[85][86]。 12時32分からはじまったアメリカ機動部隊の空襲では、大和に次ぐ大型艦であったため集中して狙われる[87]。天候は不良で、雲高3000フィート(1000m以下)、視界5~8浬[88]。戦闘開始早々の12時46分、アメリカ軍の雷撃機TBF/TBMアベンジャーが発射した魚雷1本が左舷中部に命中し、航行不能となる[89]。13時00分にも艦尾に魚雷が命中した[90]。最初に命中したのは右舷後部という見解もある[91]。いずれにせよ13時前には矢矧は航行不能となり、このため護衛すべき大和から離れてしまった[88]。矢矧からは10-20km遠方に、左舷に傾斜した大和が見えたという[92][93]。標的状態となった矢矧は多数の魚雷や爆弾直撃、至近弾で損傷が拡大した。最初の魚雷命中直後に魚雷を投棄[91][94]。重巡三隈鈴谷のように酸素魚雷の誘爆による致命傷を避けることが出来た。そのため魚雷2本・爆弾1発で沈んだ姉妹艦の能代と比較して長い時間、戦闘を継続している[95]。「もう早く沈んでくれと思うくらい沈まなかった」という艦橋で勤務していた池田武邦の回想が残っている[96]

一方、麾下の第二水雷戦隊各艦も次々に損傷していった。まず単艦落伍していた朝霜が撃沈されて総員戦死[97][98]、浜風が爆弾と魚雷の直撃で轟沈[99]、凉月は艦前部への直撃弾で大破し戦線を離脱[100]、霞も被弾して航行不能となった[101]。またこの時点での大和は魚雷や爆弾を数発被弾して多少の損害を受けたもののまだ余裕があり、二水戦旗艦である矢矧の状況を確かめるべく反転しつつあったという[102]

13時すぎ、駆逐艦磯風のみが矢矧の護衛にあたった[103]。古村司令官は矢矧での水雷戦隊指揮は不可能と判断[104][105]。健在艦を率いて沖縄へ突入すべく、アメリカ軍機の空襲がやんだ時間を見計らって磯風(第17駆逐隊司令艦)に接近命令を出した[106]。磯風は13時28分に矢矧に横付けを試みたが[107]、直後にアメリカ軍機攻撃隊第二波が来襲したため矢矧から離れた[92][108]。二水戦参謀の進言で艦載艇を海面に降ろしたが、爆弾の直撃で将兵と共に四散[109][103]。このため第二水雷戦隊司令部が移乗するには、磯風側が矢矧に横付けするしか方法がなくなった。磯風は速度を落として矢矧に横付けした瞬間を米軍機に襲撃され、13時56分に被弾[110]。至近弾により速力12ノットに低下[111]、やがて航行不能となった。

救援の見込みがなくなった矢矧は最終的に合計魚雷6-7本・爆弾10-12発を被弾し、14時5分に沈没した[112][113]。13時20分頃[114]、または13時30分頃という回想もある[115]。14時17分、大和も沈没した[116]。矢矧から脱出した将兵は、遠方に大和が爆発した際に発生した巨大なキノコ雲を目撃している[117]。14時40分、脱出者に対する銃撃を終えた米軍機が離脱した[118]。17時以降、初霜、雪風、冬月が矢矧の乗組員の救助を開始した[119]。矢矧の乗組員446名が戦死、133名が負傷[120]。矢矧の原艦長を含む乗組員500名以上と、古村司令官を含む第二水雷戦隊司令部が生還した[121]。矢矧の乗組員と大和の乗組員を救助した駆逐艦冬月の士官によれば、大和の乗組員は重油で真っ黒、矢矧の乗組員は長い対空戦闘により、顔が火傷で腫れていたという[122](原艦長によると皆、重油で真っ黒だったとも言われている)。

初霜に救助された古村司令官は、初霜を第二水雷戦隊旗艦とした[123]。19時以降、初霜の古村司令官は磯風曳航許可を求める第17駆逐隊司令部および雪風に対し、磯風の自沈処理を命令[124][125]。翌日の再空襲や潜水艦の襲撃により、更に被害が増えることを避ける為とされる[126]。22時40分、雪風は初霜からの下令に従い磯風を砲雷撃により処分[127]、二水戦残存艦4隻(雪風、冬月、初霜、凉月)は佐世保に帰投した。

4月20日、初霜の艦上で解散式が行われ、第二水雷戦隊は解隊された[128][129]。6月20日、除籍。

その他[編集]

  • 矢矧の名が艦艇に使われるのは本項の軽巡洋艦阿賀野型3番艦としての矢矧が2度目であり、以前に筑摩型防護巡洋艦の2番艦に矢矧 [I]の名が使われている。この時の同型艦に筑摩 [I]、平戸 [I]がある。
  • 後に海上保安庁やはぎ型巡視船のネームシップとして名前が受け継がれた。
  • 慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。
  • レイテ湾海戦で損傷した矢矧艦橋の12cm高角双眼望遠鏡が曲折を経て池田武邦の手に渡り、海上自衛隊江田島第一術科学校内「教育参考館」に収蔵されている[130]
  • 沖縄出撃では艦長と副長が相談の上、20日分以上搭載していた米麦を5日分のみを残し徳山軍需部へ返納した[131]。また撃沈後の救命用に大量の角材を積載して出撃、実際に使用された[132]
  • 矢矧の艦歴は航空機との戦いであった。沈没時の戦訓として、艦橋頂上の防空指揮所に艦の全機能を集約して操艦の即応性を高め、飛行機の操縦席のようにキャノピーをつけたいと提言している[133]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』174-175頁に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 吉村真武 大佐:1943年10月11日 -

艦長[編集]

  1. 吉村真武 大佐:1943年12月29日 -
  2. 原為一 大佐:1944年12月20日 -

同型艦[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ #日本海軍艦艇写真集巡洋艦p.179。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #昭和造船史第1巻784-785頁。
  3. ^ a b #写真日本の軍艦第9巻p.104。
  4. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の計画値「註.上記ノモノハ昭和十四年十月十三日艦本機密決第五三八号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」。
  5. ^ a b #JapaneseCruisersp.590.
  6. ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」22頁。
  7. ^ a b 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」4頁。
  8. ^ a b c #JapaneseCruisersp.572.
  9. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」6頁。
  10. ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」20頁。
  11. ^ #JapaneseCuisersp.593.
  12. ^ #海軍艦艇公式図面集図40-1 二等巡洋艦 阿賀野型 矢矧 一般艤装図 1/4による。
  13. ^ #写真日本の軍艦第9巻p.88の写真による。
  14. ^ a b c #JapaneseCruiserspp.578-579.
  15. ^ 梅野和夫#阿賀野型の航空兵装
  16. ^ a b #達昭和17年8月p.19『達第二百三十二號 佐世保海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十七年八月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦 矢矧(ヤハギ)』
  17. ^ a b #軽巡二十五隻20頁
  18. ^ #内令昭和17年8月(3)pp.5-6『内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月二十日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|駆逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ(以下略)』
  19. ^ #内令昭和17年9月(3)p.18『内令第千七百八十九號|軍艦矢矧 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|昭和十七年九月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  20. ^ 梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』200頁
  21. ^ 「軍艦「矢矧」艦歴等」p.4
  22. ^ 「昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)」p.4
  23. ^ 「昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)」p.6
  24. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』73頁
  25. ^ 「昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌」p.4
  26. ^ 「昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌」p.5
  27. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』95頁
  28. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』96頁
  29. ^ 「軍艦矢矧艦歴等」p.5、井川『軍艦「矢矧」海戦記』104頁
  30. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』117頁
  31. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』118頁
  32. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」p.6
  33. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」pp.17.18.19、「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」pp.49-50
  34. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』156-157頁
  35. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」p.51
  36. ^ #巡洋艦戦記25頁
  37. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』175頁
  38. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』187頁、#巡洋艦戦記31頁
  39. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』177頁
  40. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」p.8
  41. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」p.44
  42. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」pp.8.30『0706 1YBから2sd、10s。水雷戦隊ハ後ヨリ続行セヨ』
  43. ^ #サイパン・レイテ海戦記253頁
  44. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』180-181頁
  45. ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」p.10
  46. ^ a b 井川『軍艦「矢矧」海戦記』190-191頁
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  62. ^ #昭和19年11月~二水戦日誌(1)pp.10-11『11月16日「ブルネー」ヲ出撃セル第一遊撃部隊ノ大部ハ同23日内海西部着、本回航中17駆(浦風)ハ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』』
  63. ^ #昭和19年11月~二水戦日誌(1)pp.14『(二)麾下艦艇ノ行動』
  64. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』247頁
  65. ^ #軽巡二十五隻18頁
  66. ^ #昭和19年11月~2水戦日誌(1)pp.47-48『21日1741GF/聯合艦隊電令電令579号 一.龍鳳、矢矧、第17駆逐隊ハ台湾方面作戦輸送ヲ実施スベシ(略)二.矢矧、時雨ハ龍鳳隊ノ船団(30日頃門司発)同行「カムラン」方面ニ進出、第二水雷戦隊ニ合同スベシ。右進出中矢矧、時雨ハ新浜発ヨリ「カムラン」附近迄ノ行動ニ関シ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ受クベシ』
  67. ^ #昭和19年11月~二水戦日誌(1)pp.16『(二)麾下艦艇ノ行動/「矢矧」12月21日佐世保[回航]21日徳山22日[回航]23日呉』
  68. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(2)p.18『矢矧251510/本艦今朝補充交代(40%以上)ニ伴ヒ是非基礎訓練ヲ必要トスルニ付29日早朝門司集合今ノ事ニ御配慮ヲ得度シ』-『GF261145/GF電令作第579号中矢矧ヲ削除ス、矢矧ハ1月中旬迄内海西部ニアリテ訓練整備ヲ実施スベシ』
  69. ^ #昭和19年11月~二水戦日誌(2)p.15『二.人員ノ現状(イ)司令部(一)主要職員氏名「司令官」木村昌福少将 1月4日退部/古村啓蔵少将 1月4日着任』
  70. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.10『大淀ハ4sfニ編入…』
  71. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)pp.10-11『北号作戦部隊(除1dg)10日2030ジョホールバール出撃途中敵潜敵機ノ触接攻撃ヲ蒙リツツモ其ノ都度之ヲ避退、排除シ20日呉着其ノ任ヲ達成セリ』
  72. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.11『20日呉ニテ2F(大和)ト会シ回航部隊ハ第二艦隊長官麾下ニ復シ23日旗艦ヲ霞ヨリ矢矧ニ復帰セリ。爾後麾下各隊艦ノ実状ヲ確ムルト共ニ大部ハ呉、一部ハ内海西部方面ニ於テ夫々急速整備及各隊艦単独訓練ニ従事セシム…』
  73. ^ #戦争と人間10頁
  74. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.65『29日1832将旗2F/朝霜ハ響ヲ曳航呉ニ向ヘ響自力航行可能トナラバ艦隊ニ合同セヨ、艦隊ハ明三十日姫島北方海面ヲ行動予定』
  75. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.43『(ハ)作戦指導(一)編制区分/3月27日以後21駆逐隊司令艦ヲ朝霜ニ変更』-p.53『(三)麾下艦艇ノ行動』
  76. ^ 梯久美子『昭和二十年夏、僕は兵士だった』210頁
  77. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』264頁
  78. ^ スパー『戦艦大和の運命』180頁
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  80. ^ #軽巡二十五隻24-26頁『自殺作戦かくて発動す』
  81. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.14『1520出港後約1時間2sd高速編隊運動及対大和襲撃教練実施』
  82. ^ #図説太平洋海戦史第3巻238頁
  83. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.26『0657 朝霜(旗)機関故障後落(速力12節)』
  84. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)pp.26-27『0600 2sd矢矧機使用ニ関スル判断|一.水偵発艦又ハ搭載ノ利害(イ)搭載ノ儘空襲ヲ蒙ラバ使用不能トナルハ殆ド必至但シ空襲ナキカ小規模ナル中ハ保全投機使用可能|(ロ)発刊基地ヨリ行動セシムル場合之ガ使用意ノ如クナラズ機ニ投ジ得ザル算大|二.判決 最小限1機ハ突入時使用可能ナラシムル為1機ハ五分待機敵艦上機ヲ見バ発艦基地ヨリ行動1機ハ昼間燃料ヲ抜キ搭載ス|三.右判決ニ基キ1YBニ意見具申ス』
  85. ^ スパー『戦艦大和の運命』1238頁
  86. ^ 阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本86頁
  87. ^ #巡洋艦戦記78頁
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  91. ^ a b 阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本85頁
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  95. ^ 井川『軍艦矢矧海戦記』308-309頁
  96. ^ 井川『軍艦矢矧海戦記』325頁
  97. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.36『1210朝霜→YB「我敵機ト交戦中」《冬月30度方向ニ朝霜交戦中ラシキ砲煙ヲ認ム》』-『1221朝霜→YB「90度方向ニ敵機30数機ヲ探知ス」《爾後同艦ノ消息ナシ》』
  98. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(3)p.31『朝霜:分離行動中ニシテ敵機ト交戦中ノ電ヲ発進後消息不明、船体沈没総員戦死セルモノト推定ス。准士官以上18名、下士官兵308名』
  99. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.38『1245浜風被弾航行不能1機撃墜《後甲板右舷爆弾命中両舷推進器切損》』-『1247浜風被雷火災』-『1248浜風船体切断沈没(30度47分北128度8分東)』
  100. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.39『1308凉月前部ニ直撃弾火災』-p.43『1430凉月後進ニテ北方ニ避退炎上中』
  101. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.39『1325霞直撃弾2至近弾ニ依リ航行不能』
  102. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.39『本時機ニ於ケル1YB判断處置 一.大和当面ノ戦闘航海支障ナシ|二.被害増大ノ情況ニ於テ突入期日時機変更ヲ要ス|三.損傷艦特ニ将旗2sd状況確認ノ為矢矧ノ方向ニ向フ』
  103. ^ a b #軽巡二十五隻239-242頁『艦尾に魚雷命中』
  104. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』320-321頁「断末魔の『矢矧』」
  105. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.38『1300 磯風二水戦旗艦変更ノ為矢矧ニ近接《當時矢矧主隊ト離隔約20粁》』
  106. ^ 『駆逐艦磯風と3人の特年兵』324頁、『我が青春の追憶』
  107. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.38『1328磯風、矢矧ニ横付ヲ試ム』
  108. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)pp.38-39『1330敵艦上機約150機来襲《第二波》』-『1332敵機来襲ニ依リ磯風横付中止矢矧ノ警戒ニ任ズ』
  109. ^ #巡洋艦戦記89頁
  110. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.40『1356磯風後部至近弾ニ依リ浸水速力低下』
  111. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.45『1535磯風→初霜「長官如何」左片舷航行出シ得ル速力12節』
  112. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.40『1405矢矧沈没(累計直撃弾12被雷7)敵機生存者ヲ銃撃』
  113. ^ #図説太平洋海戦史第3巻242頁
  114. ^ #巡洋艦戦記94頁
  115. ^ #軽巡二十五隻242-243頁『沈みゆく艦を目のあたりに』
  116. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.40『1417大和左舷ニ大傾斜《艦底露呈》ノ後誘爆瞬時ニシテ沈没』
  117. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』332頁、#戦争と人間41頁
  118. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.43『1440敵機矢矧、浜風生存者ヲ銃撃後脱去』
  119. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.48『1720冬月雪風、矢矧乗員救助 冬月(准士官以上22名、下士官兵254名)、雪風(准士官以上13名、下士官兵143名)』
  120. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(3)p.28『二.被害「矢矧 2sd司令部ヲ含ム」一.被弾及被雷情況(魚雷左舷4、右舷3、爆弾10発以上)|二.船体 7日1405沈没|三.戦死 446名(内准士官以上28名)、戦傷133名(内准士官以上9名)』
  121. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.57『三.収容人数(イ)2F司令部 准士官以上4名(参謀長砲術参謀副官ヲ含ム)、下士官兵3名|(ロ)大和 准士官以上副長以下23名、下士官兵246名|(ハ)矢矧 准士官以上艦長以下37名、下士官兵(2sd司令部附ヲ含ム)466名、2sd司令部職員異状ナシ|(ニ)磯風 准士官以上全員、下士官兵326名|(ホ)浜風 准士官以上駆逐艦長以下12名、下士官兵244名|(ヘ)霞 准士官以上駆逐艦長以下15名、下士官兵307名』
  122. ^ 阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本90頁
  123. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.48『1700頃初霜矢矧乗員救助開始』-『1720初霜二水戦司令官救助、二水戦旗艦ヲ初霜ニ変更1YBノ指揮ヲ継承ス』
  124. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)pp.51-52『1915将旗17dg→将旗2sd(信号)/我被曳航準備完成雪風ヲシテ曳航セシメラレ度』-『1925 2sd→17dg/曳航速力何節ノ見込ナリヤ』-『17dg→2sd/9節ノ見込、傾斜十度ニ復原シアリ』-『1939情況判断 曳航開始ヲ2100トシテ安全海域迄十二時間ヲ要ス、敵KdBノ空襲ニ対シ安全ナラズ敵潜ノ顧慮更ニ大トナリ|2sd→17dg(信号)先ノ命令通退去セヨ』
  125. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(9)p.33『初霜→雪風072100/磯風ハ缶室ノ「コンアイ」弁ヲ開キ自沈セシメヨ』
  126. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)pp.49-51『1902情況判断(略)(ハ)敵潜情報今朝附近ニ測定1隻、(ニ)沈没艦生存者全部救助セリ、(ホ)明日敵艦上機ノ来襲尚予期セザルベカラズ、(ヘ)安全海域迄100浬(佐世保迄160浬)、(ト)海軍戦備方針ニ徴シ損傷艦ノ修復ハ当面見込ナシ|二.判決 速ニ佐世保ニ帰投スルヲ可トシ今後尚被害ノ増大ハ極力避クルヲ要ス。磯風ハ乗員収容ノ上処分スルコトトス』
  127. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(2)p.53『2240 磯風、雪風ニテ砲撃処分沈没(30度46.5分128度92分東)』
  128. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(9)pp.37-38『旭部隊本部191310→初霜雪風冬月凉月/20日ノ儀礼ヲ左ノ通リ定ム|一.1330メクカメ(駆逐艦長)以上初霜ニ参集伺候訓示|二.1330司令官退艦将旗ヲ撤去ス(使用短艇防備隊内火艇)|三.服装第三種軍装短剣、畧授|四.初霜ハ司令官退艦時総員見送ノ位置ニ就ク』-『201330将旗2sd→大臣、総長、GF、潮(11S)、31S、各鎮/本職将旗ヲ撤ス』
  129. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(1)p.52『4月20日第二水雷戦隊戦時編制ヨリ除カレ1330将旗ヲ徹ス』
  130. ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』219-221頁「高角望遠鏡との再会」
  131. ^ 『最後の巡洋艦・矢矧』226頁
  132. ^ #戦争と人間37頁
  133. ^ #昭和20年4月二水戦詳報(3)p.54『(イ)現在ノ艦橋ハ防空指揮所施設不良操艦戦闘指揮見張等全部防空指揮所ニテ行フ如ク改造ヲ要ス、飛行機ノ操縦席ノ如ク風防式トナスヲ可トス|(ロ)水上艦艇ノ旋回圏ヲ極小ナラシムル為速ニ前舵ヲ附スル必要アリ《全部揚錨機ヲ使用シテ出入可能ナル如ク計画ス』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030050200「昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)」
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    • Ref.C08030037500「昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)」(第十戦隊)
    • Ref.C08030037600「昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)」(第十戦隊)
    • Ref.C08030039400「昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(4)第10戦隊」
    • Ref.C08030577600「昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030577700「昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030577800「昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(3)」
    • Ref.C08030051000「昭和19年10月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)」
    • Ref.C08030102400 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
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    • Ref.C08030147700 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)』。
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  • 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6
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    • 当時「矢矧」艦長・海軍大佐原為一『戦艦大和に殉じた巡洋艦「矢矧」秘話』有効な戦法はないものか-艦長の脳裏にひらめいた起死回生の秘策
    • 当時「矢矧」第五機銃群指揮官・海軍少尉安達耕一『沖縄特攻に賭けた矢矧の断末魔を見た』襲いくる敵艦上機の大群を迎えうった機銃指揮官の対空戦闘
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  • Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press. 
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  • -海軍造船技術概要別冊- 海軍艦艇公式図面集』 福井静夫/編、今日の話題社、1987年ISBN 4-87565-212-7
  • 『日本海軍艦艇写真集 巡洋艦』 呉市海事歴史科学館/編、ダイヤモンド社、2005年ISBN 4-478-95059-8
  • 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」

関連項目[編集]