レーダー

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レーダー用パラボラアンテナ(直径40m)

レーダー英語: Radar)とは、電波を対象物に向けて発射し、その反射波を測定することにより、対象物までの距離や方向を明らかにする装置である。 遠くにある物との距離を電波によって計測し、図示することで航空機船舶の位置把握や雨雲の雨量計測に、また物体の速度測定や障害物検知などのシステムに使われている。

語源[編集]

Radarという単語は定着したアクロニムであり、英語の Radio Detecting and Ranging(電波探知測距) からきている。これは、アメリカ人による命名であり、当初イギリスでは電波標定機(Radio Locator)と呼ばれていた[1]

送信電波の変調方式と測定原理[編集]

空間中に伝播する電波を含む電磁波は、ほぼ一定の速度で直進する性質を持つ。(厳密には、下記の気象条件の影響の項で述べるが定速度性と直進性は電波の必然的な性質ではない。)また電磁波は物体に当たると反射する性質も持つ。この性質を利用し知りたい対象の存在する方向や距離などを測定する装置がレーダーである。

電波は、可視光線を含めた他の電磁波よりも波長が長いため、より遠方に届く性質を持つ。つまり肉眼では見る事ができない遠方をレーダーは観測する事が可能となる。一方で波長が長い事は分解能が低い事も意味するため、可視光線による観測に比べての欠点となる。

また、太陽など自然物による照射が期待できる可視光線と異なり、電波は人工的な照射が必要な場合が多い。その一方で電波は可視光線より低いエネルギーで照射可能である。夜間のように自然の可視光線が不足し、人工の照射、すなわち照明を必要とする場合においては、電波の照射によるレーダーの観測が有利になる場合がある。

レーダーは、アンテナから発射する送信電波の変調する方式の違いにより以下のように分類でき、それぞれの方式により測定原理が異なる。

無変調連続波レーダー[編集]

Continuous Wave から単にCWレーダーとも呼ばれる。間断のない連続波を送信電波に使用するレーダーである。特に変調は行わないものは、レーダーの位置を中心とした極座標空間において、測定対象の方位は測定できるが距離は測定できない。対象からの反射波のドップラー偏移を測定し半径方向の移動速度は測定することができる。しかし円周方向の移動速度は測定できない。このようにレーダー1基の単独使用では対象の位置を同定することはできないが、2次元レーダーの場合は最低2か所、3次元レーダーの場合は最低3か所十分離れた地点からそれぞれ方位を測定して三角測量の要領により平面あるいは空間における位置を同定することができる。

周波数変調連続波レーダー[編集]

Frequency Modulated Continuous Wave からFM/CWレーダーとも呼ばれる。発信電波の周波数を周期的に変化させて間断なく送信し続けるレーダーである。対象からの反射波が受信される時には送信波の周波数が変化している。常時この発信電波と受信電波の周波数の差を測定し、反射波の時間の遅れを測定することで対象までの距離を知ることができる。

このレーダーは測定対象の平面あるいは空間における位置を単独使用で同定できる。

位相変調連続波レーダー[編集]

Phase Modulated Continuous Wave からPM/CWレーダーとも呼ばれる。発射電波の位相を周期的に変化させて間断なく送信し続けるレーダーである。対象からの反射波が受信される時には送信波の位相が変化している。常時この発信電波と受信電波の位相差を測定し、反射波の時間の遅れを測定することで対象までの距離を知ることができる。

このレーダーは測定対象の平面あるいは空間における位置を単独使用で同定できる。

パルスレーダー[編集]

アンテナから電波をある方向に向け収束させて極短時間だけ発射する(このような電波を指向性パルス波と呼ぶ。)。その方向に物体があると電波が反射しアンテナに戻ってくる。電波をアンテナから発射した瞬間から、反射した電波を再びアンテナで受信した時間を計測すると物体までの距離を知ることができる。またこの時のアンテナの向いている方向からその物体の方向を知ることができる。このレーダーは測定対象の平面あるいは空間における位置を同定でき、反射波のドップラー偏移を測定することにより対象の半径方向の速度を測定することができる。円周方向の速度は測定できない。しかし、2次元レーダーの場合は最低2か所、3次元レーダーの場合は最低3か所十分離れた所からそれぞれの半径方向の速度を測定しそれをベクトル合成することにより対象の真の速度と運動の方向を知ることができる。

この他に反射パルス波の強度(振幅の大きさ)を測定することにより、ある広がりを持った対象(雨粒、雪片など)の方向と距離に加え雨滴の密度(単位体積中の雨粒の個数)を測定できる。このデータを基に、その地点での雨量(降水強度)を予測することができる。このような気象状態の測定に利用されるレーダーを一纏めに気象用レーダーと呼ぶ。

気象条件の影響[編集]

厳密に言えば電波は空気密度の変化に応じて屈折率が変化する。標準大気の屈折率は高度が高くなるにつれて直線的に減少する。それにより電波は下方に曲がりながら伝播する。またその他に、電波が地表付近を通過すると回折現象により下方に曲がりこむ。これらにより例えば水上捜索レーダーや航海レーダーの2次元レーダーの場合、レーダー水平線までの距離(最大探知距離)は見通し距離に比べ若干ではあるが拡大する。つまりより遠方の物体を探知することができる。

サブ・リフラクション[編集]

標準大気ではない、例えば大気の密度構造が逆転状態(高さに対する温度低下が急激であったり相対湿度が高さと共に増加する場合)となる場合は、サブ・リフラクションといって電波が上方に曲げられるためレーダー水平線までの距離は短縮される。

スーパー・リフラクション[編集]

また大気の密度構造つまり高さに対する屈折率の低下の割合が急激な状態(温度の低下率が標準状態よりも少ない場合、または高さと共に温度が上昇するような温度逆転層がある場合、もしくは相対湿度が高さと共に減少する場合)となる場合は、スーパー・リフラクションといって電波が下方に曲げられレーダー水平線までの距離が延長される。

ラジオダクト[編集]

スーパー・リフラクションの状態がさらに著しくなると電波はさらに下方に曲げられて海面に達しそこで反射してまた下方に曲げられるということを繰り返し非常に遠方まで到達しレーダー水平線までの距離が大きく伸びる。この現象をラジオダクトと呼ぶ。

レーダー電波の減衰[編集]

電波は、大気中の酸素や水蒸気などの気体により吸収されたり、霧、雲、雨、雪などにより散乱して減衰したりする。波長の短い電波ほど大気中の気体に吸収され易く、電波を送信・反射・受信する間に、電波のエネルギーはその経路にある気体により吸収され減衰する。

10GHz以下の周波数では酸素や水蒸気等の気体による吸収はほとんど無視できる。雲や霧においては、視程が100m以上程度の濃度の場合、探知距離はほとんど影響を受けないが、視程が50m程度の濃霧の場合、影響を受ける。特にレーダーから測定対象までの距離が遠方にある場合(電波の往復距離が長いので影響を受けやすい。)、減衰が大きい。雨や雪の場合、雨滴が大きくなると散乱が急増し減衰が起きる。電波の波長が長くなると散乱による影響は少なくなる。雪の影響もほぼ同様の傾向を示す。

このようにレーダーでは、波長の長い(=周波数が低い。)電波を使うと電波の散乱による減衰が少なく、遠くまで探知することができるが、一方で分解能が低くなるため、目標の解像度は悪くなる。逆に、波長の短い(=周波数が高い。)電波は、空気中に含まれる水蒸気や雲・雨などに吸収・反射され易いので減衰が大きく遠くまで探知するのに困難を伴う一方で高い解像度を得ることができる。したがって、遠距離の目標をいち早く発見する必要性のある捜索用の対空レーダーや水上レーダーでは周波数が低い電波を用いる傾向があり、一方で射撃管制レーダーなど、目標の形・大きさなどを精密に測定する必要性のあるものでは周波数が高い電波を用いる傾向がある。

歴史[編集]

発明[編集]

八木・宇田アンテナを用いたレーダーを装備したメッサーシュミットBf110

電波による遠隔物体の感知の歴史は電磁波研究の最初期、つまりドイツハインリッヒ・ヘルツが電磁波の実験を行っている時、周囲に存在する導体との干渉を発見した時にまで遡る。1900年初頭には、ドイツでは航海安全のための電波利用が実際に行われていた。1904年にドイツのクリスチャン・ヒュルスマイヤー (Christian Hülsmeyer) は、火花式送信機とコヒーラー受信機により距離5kmの船舶の探知を実用化し、英国において"Telemobiloscope"の名で特許を取得したが、この技術には需要が無く忘れられてしまった[2]

黎明期[編集]

1930年頃から英米国では、電離層の観測目的で電波の利用が行われていた。その後、航空機の通過で観測が妨害される現象を逆に使用して、航空機を発見するためのラジオ・ロケーターと呼ばれるレーダーの開発が始められた。イギリスはこの電磁波を兵器(殺人光線)に利用できないかロバート・ワトソン=ワットに打診し、殺人光線としては利用できないが、航空機の早期発見には役立てることができるだろうとの見通しを得た。最初に航空機の探知に成功したのは1935年の英国である。

実用化と軍事への応用[編集]

1930年代に、ドイツでは、ヴィルスンとアーブスローが海軍司令官エーリヒ・レーダーの指示のもとで、イギリスでは、ロバート・ワトソン=ワットらにより航空省が援助して開発が進められ実用化され、1940年にイギリスはマグネトロン、翌1941年にはこれを用いたマイクロ波レーダーの開発に成功、ドイツ空軍空襲に対する迎撃戦闘で大々的に使用し、ドイツのイギリス侵攻の阻止に大いに役立った。1942年には世界初の平面座標指示画面英語版(PPIスコープ)を採用したH2S_(レーダー)英語版の開発にも成功する。

ドイツ空軍の空襲に対してイギリス空軍はレーダーを使った防空システムの整備により有効に対処することができ、この戦いは戦局の分水嶺となった。また、イギリス空軍は、ドイツ空軍による夜間爆撃に対抗するため、機上レーダーを搭載した夜間戦闘機を1941年に世界に先駆けて実用化し、ドイツ空軍の夜間爆撃を封殺した。海上戦闘でも、 サボ島沖海戦ビラ・スタンモーア夜戦で、アメリカ海軍がイギリスからの技術供与で実用化したマイクロ波レーダーを活用して日本海軍を相手に勝利をおさめた。補給路を脅かす潜水艦に対してもレーダーは有効に働き、連合軍の海上輸送路の防衛に大きな役割を果たした。こうして、レーダーは戦術戦略上でも重要な兵器であることを実証した。

ドイツ本土防空戦においては、イギリス空軍が夜間爆撃機の航法のためにマッピング・レーダーを搭載した。一方でドイツ空軍は夜間爆撃機に対して、夜間戦闘機にリヒテンシュタイン・レーダーなどを搭載して対抗したが、イギリス空軍も夜間戦闘機を護衛につけるなど対抗策を取ったため、イギリス空軍の夜間爆撃機が大打撃を被ることは少なかった。

日本でも、本土防空用にレーダーを組み込んだ早期警戒システムを整備したり、レーダー搭載の夜間戦闘機を開発したが、情報を管理するシステムに問題があり、戦闘機の数自体も不足していたため、有効に機能することはなかった。

八木・宇田アンテナ[編集]

1925年(大正14年)日本人の発明した八木・宇田アンテナ(以降、「八木アンテナ」)は、既存の技術に比べると非常に容易に指向性を得ることができる、実に画期的な技術だった。しかし、日本では全く反響が無く学会から無視された[3]。一方欧米では大々的な評判を呼び、各国で軍事面での技術開発が急速に進んだ。英国ではバトル・オブ・ブリテンの時点では無指向性アンテナを使用する短波帯の「CHレーダー」により、複数地点より観測して目標位置を特定していたが、直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化した[2]

なお、八木アンテナはその後、主に家庭のテレビアンテナなどとして広く使用されるが、21世紀の現在でも当初の頃からほとんど変わっていない。それだけ完成度の高い技術だったことになる。

マグネトロン[編集]

1927年東北帝国大学岡部金治郎により「分割陽極型マグネトロン」が開発され日本国内で発表された。これによりマイクロ波の発振が可能になった。1928年にはアメリカの学会で八木・宇田アンテナと共に英文論文も発表された。その後なぜか「陽極分割型マグネトロン」は1934年2月28日にRCAのErnest G. Linderによって米国特許が出願され取得された。1935年にドイツの Hans Hollmann が「多分割共鳴空洞マグネトロン」として改良発明し、1940年にはイギリスの John Randall と Harry Boot が水冷式の大出力マグネトロンを開発した。

そして奇妙なことに太平洋戦争開戦後の1942年に、東南アジアの占領地において日本軍がそれらを「再発見」することになる。

日本での歩み[編集]

名称[編集]

電波兵器たる「レーダー」の日本語訳としては、日本陸軍の造語である「電波探知機(でんぱたんちき)」の名称・呼称があり、これは「電探(でんたん)」の略称とともに一般化している。この総称「電波探知機(電探)」をさらに陸軍では、電波の照射の跳ね返りにより目標の位置を探る警戒・索敵レーダーに対し「電波警戒機(警戒機)」(および「超短波警戒機」)、高射砲などが使用する射撃レーダーに対し「電波標定機(標定機)」と二種類に区分している[4]。この「電波探知機」の名称・呼称は陸軍の開発指揮者である佐竹金次少佐(当時)が、ある会議で「電波航空機探知機」と述べたのが簡略化(「電波探知機」)されて普及したものである[5]

しかしながら日本海軍においては、警戒・索敵レーダーに対し「電波探信儀」の名称・呼称を使用していた。さらに、目標の電波探信儀が発した電波を傍受する一種の方向探知機に対しては、(陸軍の造語で狭義のレーダーを意味する)「電波探知機」(および「超短波受信機」。略称として「逆探」とも[6])称を充てており、「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」と混乱が生じている。なお、戦後は「(陸軍称および一般称たる)電波探知機」が広く世間に定着したため[7]、「(海軍称たる)電波探信儀」は廃れてしまっている。

なお旧日本軍(陸海軍)のレーダー開発史においては、防空を主として重んじることから陸軍が先進的な存在であり、かつ陸軍上層部自体の理解も高いもので、陸軍科学研究所において電波を通信以外の用途に利用する研究を開始したのは1932年、航空機探知を目的とする競技のレーダー研究を促進し始めたのは1938年春、レーダー受信実験の成功は1939年2月であった[8]

陸軍[編集]

陸軍側の開発指揮者は佐竹金次大佐を中核に、ほか畑尾正央大佐・新妻清一中佐(各最終階級)等。

超短波警戒機甲[編集]

1939年2月20日、レーダー研究中の陸軍科学研究所と日本電気(NEC)・日本無線(JRC)からなる軍民合同研究チームは、栃木県那須金丸原陸軍飛行場で連続波で航空機からの反射波を受信することに成功。この実験は本来は山上に鉄板製の反射板を置きそれによって3m波(100MHz)の電波が反射するのを確認しようとしたものであったが、金丸原陸軍飛行場を離陸した練習機(木製)からの反射電波を「先に確認してしまった」ものであった。この偉業に勇気づけられた陸軍はレーダー研究に注力、同年5月には強力な試作送信機を、また高さ150mの送信用鉄塔を建設し大規模実験を開始している。同年10月頃には陸軍次官阿南惟幾中将が香貫山の受信所に視察に訪れ、東京飛行場から大阪第二飛行場へ向かう旅客機の反射波受信を確認している。レーダー研究は1940年4月には基礎科学研究機関たる陸軍科学研究所から、開発の実務機関たる陸軍技術本部第4部(通信・電波兵器担当)に移管され本格的な兵器化研究に入った[9]

これらの実績をもとに実用化されたドップラーレーダーである「超短波警戒機甲」は「日本初の実用レーダー」であり、1940年10月には実用試験を兼ねて各種4台が中国戦線支那派遣軍)に送られている。「超短波警戒機甲」は総計129台が製造され(太平洋戦争開戦時の1941年12月9日には南方軍に各種14台交付)、1942年2月に開発は終了し同年秋までに一応の配備を完了している。後述の通り外地向きではないドップラーレーダーであることと、仮想敵国ソ連赤軍の長距離爆撃機の飛来を警戒していたことから、配備先は主力が日本本土、三分の一が満洲関東軍)、南方軍に少数となる。

「超短波警戒機甲」は出力、探知距離により10W、20W、100W、400Wの4種類の送信機があり、それぞれ警戒距離は80、120、200、350kmであった。システムは送信機と受信機からなり、それぞれを前述の警戒距離に準じた位置に設置して、送受信機それぞれのアンテナ間(警戒線間)に敵機が接近して来た場合に探知を可能とする「線警戒」方式。送信機からは無指向性アンテナにより送信波が放たれ、受信機からは常に一定の音程の連続音が鳴り続ける。敵機の接近に従い、送受信機間の周波数とは異なる反射波が受信機のアンテナに捉えられると、受信機のスピーカーから放たれる音の音程がドップラー効果により変化する為、探知要員は敵機の接近を知る事が出来る。また、敵機が完全に警戒線を通過した場合は連続音が途絶える仕組みである。「超短波警戒機甲」はその特徴的な音程変化から「ワンワン方式」とも揶揄されたという。「超短波警戒機甲」は小型軽量で、パルスレーダーで検知しにくい木製や幌布張の旧式構造機も探知しやすい利点はあったが、原則的に要地用としての運用しかできず、直接前方方向の警戒も行いにくいシステムであったため、後に10W及び20W送信機と組み合わせて直接前方警戒を可能とする「タチ33号」(警戒距離10km)及び「タチ34号」(警戒距離40km)[10]、地上に送信機、航空機側に受信機を置く構成で機上レーダーへの応用を図った「タキ37号」の研究も行われたが、いずれも終戦には間に合わなかった[11]

なお1930年代後半に入り全金属製航空機が普及した事に伴い、反射波の受信が容易になった事から、陸軍は「道草」とも称されるドップラーレーダーたる「超短波警戒機甲」の開発・配備と並行して、先の1941年始めにオーソドックスなパルスレーダー(「超短波警戒機乙」)の開発を初めている[12]

旧式となった「超短波警戒機甲」は新式の「超短波警戒機甲」との併用で終戦まで内地防空用として使用されているが、それでも有効的に活用され一定の活躍を見せている。1944年6月15日夜、中国奥地の成都を出撃したB-29による日本本土初空襲八幡空襲)では、朝鮮済州島配備の「超短波警戒機乙」がまずB-29編隊を探知、続いて対馬島厳原) - 福江島および平戸島沖ノ島 - 東松浦半島呼子)を結んでいた「超短波警戒機甲」がこれを探知し、結果B-29が目標の北九州上空に達した時には陸軍電波警戒機の情報により待ち構えていた飛行第4戦隊二式複座戦闘機「屠龍」および、高射砲高射機関砲照空灯が効果的に邀撃を行った[13]。この八幡空襲でアメリカ陸軍航空軍第58爆撃団は日本陸軍の迎撃によりB-29 2機を撃墜され、また6機が被弾損傷(撃破)、さらに事故により5機を喪失した。

超短波警戒機乙[編集]

1940年12月、レーダーに関心が高い航空総監航空本部長山下奉文中将を団長とする陸軍遣独視察団に佐竹中佐らも随員として参加。佐竹中佐らはドイツの先進的なレーダーを調査し本国に報告(佐竹中佐らは以降もドイツに滞在し、後述のウルツブルグレーダーを持ち帰る)、それを受けて陸軍はパルス波を用いる新レーダー(パルスレーダー)を開発することとし、1941年初めにその研究を開始した。同年秋には試作品が早くも完成し、10月から開始した試験結果も良好であったため、試作第2号機を千葉県銚子市に設置することとし直ちに工事を始め1942年6月に完了となっている。なお、陸軍科学研究所が日本電気に試作させたパルスレーダー実験セットが、1941年7月に神奈川県川崎市生田から送信し東京都立川市立川陸軍飛行場)上空の航空機を探知することに成功していることから、この研究試作の高出力化を図って開発試作とした恐れがある[14]

これらの実績をもとに実用化されたパルスレーダーである「超短波警戒機乙」(「タチ6号」)は、1941年後半頃には先行生産に着手し1942年からは量産に移行した。量産第1号機の運用が可能となったのは1942年6月であったが[15]、以降日本・満州・中国・朝鮮の各地、および南方作戦その他において進出した東南アジア各地の「要地」に多数が配備・運用されている。性能に劣る「超短波警戒機甲」に代わる「超短波警戒機乙」は1940年のバトル・オブ・ブリテンで活躍したイギリス軍のレーダー程度の性能は持っており、信頼性や連合軍の電波妨害などにより必ずしも万全ではなかったものの[16]、太平洋戦争中頃以降の陸軍航空部隊は前線各地や日本本土防空戦でこれらレーダーを有効的に活用している(#陸軍航空部隊の早期警戒)。その戦果の一例として1943年10月30日(中国航空戦)、九江の日本軍船舶を目標に来襲したアメリカ陸軍航空軍の9機の爆装P-38飛行第25戦隊一式戦「隼」が邀撃した防空戦において、日本陸軍は「超短波警戒機乙」と対空監視哨の情報を元にこれを待ち伏せ、一式戦喪失1機と引き換えにP-38 4機を確実撃墜している(第449戦闘飛行隊エリスレン大尉機・ハーモン中尉機・テイラー中尉機・ロビンス中尉機)[17]。1944年6月15日のB-29による日本本土初空襲(八幡空襲)では、済州島の慕瑟浦に配備されていた「超短波警戒機乙」が東シナ海上空を飛行接近中のB-29をまず探知し北九州上空での防空部隊邀撃に威力を発揮、この活躍により済州島の警戒隊長は防空戦でB-29を撃墜した「屠龍」の操縦者とともに首相東條英機大将から表彰されている[18]

「タチ」・「タキ」・「タセ」[編集]

「超短波警戒機乙」は種類別に細分化され、主なもので要地用の「タチ6号」(約350台製造)、車載野戦用の「タチ7号」(1942年10月開発開始、1943年4月完成。製造は数台に止まり軽量型の「タチ18号」に開発量産移行)、軽量型車載野戦用の「タチ18号」(1944年1月完成。約400台製造)がある。命名規則は地上設置型は「タチ」、航空機搭載型は「タキ」、船舶搭載型は「タセ」と称しレーダーごとに後ろに番号が付され、各種が開発された。「タキ」型を除いて出力は50kW、探知距離は約300km(162海里)で海軍の同種のレーダーよりも探知能力が高かった。しかし、原則として陸軍のレーダーは波長の長いメートル波レーダーであり、表示は後述のAスコープ方式に限られた。また小型化にも限界があり、最も小型化された車載野戦用の「タチ18号」でもシステム全体で4トンの重量があった(「タチ7号」は18トン)。また、初期の「タチ6号」は送信アンテナが無指向性の独テレフンケン型だったため(後にダイポール型としてある程度の指向性を持たせた)、八木・宇田アンテナのような指向性アンテナに比較して敵方に電波を逆探知されやすい事が弱点であり、アンテナの数が送信1に対して受信が複数の構成だったので、受信アンテナを送信アンテナ側に直接向けないようにしつつ、他の受信アンテナとの干渉を起こさぬようにも留意しながら動かす必要があるなど、操作要員には熟練した技術が要求された。しかし、こうした「タチ」型の送信アンテナの特性を逆手にとり、構成機器を受信機のみとして軽量化を図った高度測定用の「タチ20号」も開発された。「タチ20号」は最寄りの「タチ6号」の送信アンテナ波を利用して、受信した測定距離から受信・送信アンテナ間の距離を差し引く事で目標の探知を行うもので、測定距離が短い半面、受信アンテナが一つしかない為に角度や高度の計算が容易で、後述の電波標定機としても利用できる利点があった。陸軍船舶部隊が運用する特種船揚陸艦)向けの船上レーダー「タセ1号」(1942年11月開発開始、1943年2月完成)も基本的には「タチ20号」と類似した構成である。

機上レーダーでは「タキ1号」(1943年1月開発開始、同年3月完成)が唯一終戦までに配備が間に合ったものであった。これは1943年3月に完成するも手直しを経た実用化自体は1944年初頭と遅れたものの、超短波でありながら大型艦船を100km・浮上潜水艦を20kmの距離で探知可能で(出力10kW)、機首と両翼に取り付けた指向性アンテナの切り替えにより等感度法で方向探知も行える優れた機上レーダーであった。重量150kgという大きさから搭載は双発機である九七式重爆撃機で運用され実戦投入された[19]

電波標定機[編集]

射撃管制レーダーである電波標定機の本格的な開発は電波警戒機よりもやや遅れ、1942年のフィリピン攻略戦で鹵獲した米軍のSCR-268レーダーや、同じくシンガポール攻略戦で鹵獲した英軍のGL Mk.IIレーダー()をデッドコピーする形で、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」の各電波標定機の開発を行っている(同年5月開発開始、7月試作開始)。なお、後者のGL Mk.IIレーダーの鹵獲の際に八木・宇田アンテナの項目で悪名高い「ニューマンノートの逸話」が生まれている[20]。英米の対空射撃管制レーダーは八木・宇田アンテナを使用していたが、元々陸軍は対空警戒レーダーの開発に注力していたため、八木・宇田アンテナに対する技術的知見が殆ど無かった。八木・宇田アンテナは強力な指向性を持つ半面、反射器の設計が未熟な場合アンテナの後方にも強力な電波が発射されてしまう問題があり、当時の陸軍には反射器の技術を研鑽している時間的余裕が無かった為、電波標定機の八木・宇田アンテナにはやむなく後方に金網を設置して反射器の代用[21]としたが、オリジナル品に比較してアンテナの性能が不足した結果、送信機出力、探知性能共に大きく見劣りするものとならざるを得ず、150台が製造された「タチ3号」以外は少数の生産に留まった。電波標定機も電波警戒機同様にAスコープ表示のみで、これはオリジナル品も同様である。ちなみに、SC-268レーダーは米軍内では開戦当時すでに旧式品と見なされており、程なく英国からのマグネトロン技術の供与により開発されたSCR-584レーダー(SC-584英語版)に更新されていった。なお、機上用電波標定機である「タキ2号」(1943年10月試作第1号機納入)は実用化には至らなかった。

こうしたコピー品の他に、従来から存在する超短波警戒機乙の技術の応用により、タチ6号をベースに高度測定専用機とした「タチ35号」(出力50kW、測定可能距離100km、重量4トン)の開発も行われたが、終戦までに3台の製造に留まった[22]

ウルツブルグ[編集]

1942年8月、陸軍は佐竹中佐を通しパラボラアンテナを用いたドイツの新型射撃管制レーダー(電波標定機)である「ウルツブルグ・レーダー」の入手を計画。遣独潜水艦作戦で「伊号第三〇潜水艦」による輸入を試みたが「伊三〇」はシンガポールで触雷し沈没。そのため1943年6月16日にイタリア海軍の潜水艦「ルイージ・トレッリ」がテレフンケン社技術者ハインリヒ・フォーダスと佐竹中佐を乗せ、また同時に僚艦「バルバリーゴ」は「ウルツブルク」設計図面を乗せフランスのボルドーを出航した。「バルバリーゴ」は24日にイギリス軍の攻撃を受け沈没したものの、「ルイジ・トレッリ」は8月30日にシンガポールに到着、フォーダスと佐竹中佐は空路日本に向かい多摩陸軍技術研究所、日本無線にて技術指導を行った。

これによって開発された「ウルツブルク」のデッドコピー品「タチ24号」の初期製造型は一部が東京都久我山に送られ、五式十五糎高射砲ともに配備されていた。このほか「タチ24号」に先立ち、「ウルツブルグ」を参考にした国産品として「佐竹式ウルツブルグ」とも呼称される「タチ31号」(1944年4月完成)も開発されている。

しかし、ドイツからのレーダー技術もメートル波レーダーの範疇に留まり、英米のマイクロ波レーダーとPPI表示方式の実用化には至らなかった[23]

多摩陸軍技術研究所[編集]

1941年6月、組織改編により陸軍科学研究所(陸軍技術本部隷下)は陸軍技術本部と統合、科研の廃止により旧陸軍科学研究所第1部は陸軍技術本部第7研究所、旧陸軍科学研究所第2部は陸軍技術本部第6研究所、旧陸軍科学研究所登戸出張所陸軍技術本部第9研究所になり、また技本自体も内部組織が改編され通信・電波兵器担当部門である旧陸軍技術本部第4部は陸軍技術本部第5研究所となった。

1942年10月には機構一元化のため陸軍技術本部、陸軍兵器廠陸軍兵器本部陸軍造兵廠陸軍兵器補給廠)、陸軍省兵器局を統合する陸軍兵器行政本部を新設。技本の廃止により旧陸軍技術本部の各研究所は陸軍兵器行政本部隷下の各陸軍技術研究所に改編、旧陸軍技術本部第5研究所は第5陸軍技術研究所、旧陸軍技術本部第7研究所は第7陸軍技術研究所、旧陸軍技術本部第9研究所は第9陸軍技術研究所となった。

さらに1943年6月、第5・第7・第9の各陸軍技術研究所および、第4陸軍航空技術研究所陸軍航空本部隷下)の各「電波兵器部門」を統合し独立研究機関とした多摩陸軍技術研究所を新設、陸軍大臣直属とした(1945年4月、陸軍航空本部直属に変更)。以降この多摩技研がレーダーを始めとする電波兵器の研究開発を行っている。

大戦中期頃から用いられるようになったレーダー命名規則の頭文字である「タ」は、この多摩陸軍技術研究所の「タ(多)」にもとづく。日本の敗戦までに多摩陸軍技術研究所で研究・開発された主要電波兵器は地上用17種類・機上用17種類・船上用7種類・その他4種類、第二次兵器(派生的付加装置的兵器)14種類、第三次兵器3種類と総計62種類にのぼる[24]

陸軍航空部隊の早期警戒[編集]

1943年後半のビルマ戦線ビルマ航空戦)を例に、飛行第64戦隊一式戦「隼」などからなる日本陸軍航空部隊(第3航空軍)は、無線傍受解析に電波警戒機・対空監視哨を主軸に前線で以下の早期警戒体制を構築していた[25]

  • 第5飛行師団第3航空特情部(航空特種情報部)は連合国空軍の空地無線交信を傍受、何時何分・使用飛行場・機種・機数といった出撃情報を掌握(インド東部の連合軍飛行場より日本軍の要衝ラングーン(ヤンゴン)まで約1,000km・飛行時間約4時間)
    • インド - ラングーンの中間地点アキャブ(ラングーンまで約1時間半)の対空監視哨が敵編隊を補足、機種・機数・高度・進行方向を報告。
      • ラングーンの日本陸軍防空戦闘隊はアキャブから情報があると操縦者はピスト(操縦者控所)で待機。
        • トンガップ・サンドウェー・ヘンサダ(ラングーン西北120km)等の各対空監視哨が敵編隊を補足し続報を報告。
          • ラングーンから100km以内に入るとミンガラドンに配備した電波警戒機が機影を補足。
            • ラングーン防空高射砲部隊の対空監視哨が最後に補足。
              • 以上の各情報は刻々と邀撃戦闘隊本部に電話で報告。空襲警報が発令され操縦者はピストを飛び出し搭乗・離陸。離陸開始後5分でインヤー湖(ビクトリア湖)上空3,000mに空中集合。
                • 離陸した一式戦は機上無線電話で地上の戦闘指揮所より敵編隊方向への誘導を受け(対空誘導)、これを邀撃。

なお特筆に価する点として、ビルマ航空戦において大戦後期たる1943年7月2日から1944年7月30日の期間、日本陸軍の一式戦は空戦で83機の喪失と引き換えにスピットファイア18機・P-51A 15機・B-24 21機を含む連合軍機135機の確実撃墜を記録している(機種内訳は戦闘機70機・爆撃機等32機・輸送機等33機)。単純に撃墜戦果の比較で日本軍劣勢の1944年半ばにおいても日本陸軍航空部隊は連合軍空軍と互角ないしそれ以上の勝負を行っていた[26]

海軍[編集]

一方、レーダー開発で柔軟で先進的であった陸軍と異なり、上層部の理解が低かった海軍では(陸軍が既にレーダーを研究中である)1936年に海軍技術研究所谷恵吉郎中佐がレーダー研究の旨を上に進言するも、「闇夜の提灯」と一蹴され、同研究所の伊藤庸二中佐の下でマイクロ波パルスを利用した「暗中測距儀」の実験を独自に行っていたにすぎなかった。これは1940年10月、大観艦式のため東京湾鶴見沖に停泊中の空母「赤城」に海岸から10cm波を発射した結果、その反射波を捕らえることに成功したが、あくまで「レーダーらしき装置」にすぎないものであった[27]

1940年12月出発の陸軍に続き、1941年3月に海軍遣独視察団(団長は野村直邦中将)に参加した伊藤中佐らも随員として参加。伊藤はドイツの先進的なパルスレーダーを調査し本国に報告、また同時期にはロンドン駐在の濱崎諒中佐もバトル・オブ・ブリテンにおけるイギリス軍のレーダー部隊の実戦投入と活躍を報告しその有効性を主張。これらの情報により同年5月に海軍はようやく本格的な対空警戒・索敵用レーダーの研究を開始した[28]

1941年9月初旬、試作機をもって横須賀市野比海岸で対航空機実験が行われ、中型攻撃機を距離約100kmで探知することに成功。なお、この開発には陸軍と共にパルスレーダー(のちの「超短波警戒機乙」)を研究・開発していた日本電気の技術陣が協力している[29]

開戦後の1942年5月、実験的に戦艦「伊勢」に対空警戒レーダー「二式二号電波探信儀一型」が搭載され、航空機単機を55km・僚艦の戦艦「日向」を20kmで探知、これは合格・採用となった。これと同時の実験として、マイクロ波を用いる対水上警戒レーダーである「仮称二号電波探信儀二型」が戦艦「日向」に搭載され、僚艦「伊勢」を35kmで探知したがこちらは不採用であり、長期にわたり手直しが続けられた結果1944年7月にようやく合格となった[30]。各艦への配備は「二式二号電波探信儀一型」は1942年6月以降、「仮称二号電波探信儀二型」は1944年7月以降となる。初期のレーダーは雨が降ると反射されほとんど役に立たなかったうえ指向性も不十分だったが、改良を続けることにより光学測距と遜色ない精度がでるようになり、事例は少ないが海軍においてもレーダー射撃による対艦攻撃が実践されている。「仮称二号電波探信儀二型」は1,000台以上が量産され、戦争末期に主力艦から駆逐艦まで多くの艦艇に装備されたが信頼性に欠ける代物でしかなかった。

海軍でも機上レーダーは幾つか開発され、対水上レーダーである「三式空六号無線電信機」(1942年8月完成)は相当数が量産され実戦に投入されたものの敗戦まで手直しは続いており、「月光」が搭載した対空レーダーも信頼性が低くこれは戦果に繋がることはなかった。さらに搭乗員・整備員が扱いに不慣れであったこともあり、「アテにできぬ」と飛行性能向上のために取り外されたこともあった[31]

1943年には海軍も陸軍と同様にドイツから「ウルツブルク・レーダー」の技術指導を受け、1944年にデッドコピーを行い試作品を開発している。

当時の日本製電子兵器の弱点は、優良な素材の不足による真空管の耐久性の低さにあった。これにより、レーダーの高出力化、システムの小型化など全ての面で連合国に後れを取る事になった。耐震性の高い真空管を製造できなかった事から、基礎理論は単純なレーダー技術である近接信管の実用化も行えなかった。

技術の向上[編集]

パルスレーダー

電磁波の発生には、マグネトロンクライストロンなどの真空管を使うことが多いが、ガン・ダイオードや終段回路を集積したマイクロ波集積回路への置き換えが進行中である。その進歩によりレーダーの性能も上がっていった。アンテナは、周波数の上昇により、四角い網状のものだけでなく、皿状のパラボラアンテナも使うようになった。

現在のレーダー装置の多くは、パルス状に電波を送信して送信をしない間は受信を行うパルスレーダーという方式である。これによりアンテナは1つで済むが、アンテナを送信用と受信用の2つを備えた常時送受信を行うレーダー方式もある。

距離の測定精度はパルスの幅とS/N比によって決まる。方位や仰角の精度は送信ビームの幅とS/N比によって決まり、送信ビームの幅は送信周波数/アンテナの開口長で決まる。複数のわずかにずれたビームによって測定精度を向上させることができる。目標との距離の変化は、受信周波数の変化から測定する。

パルスドップラーレーダーと呼ばれる方式では、時間軸では無く周波数軸を測定することにより、一次的に速度を、二次的に距離を測定する。

平均エネルギーが大きく小型でも比較的遠距離を探知可能であるため、戦闘機などの搭載レーダーに多用される。

連続した受信パルスをフーリエ変換することで、かなり正確に周波数の変化を測定し、速度を求めることができる。

軍事技術の一つにステルス性があり、これはなるべく敵レーダーへの反射波を返さない技術である。近年では、計算機の発展に伴い、外面が曲面で構成されたステルス兵器もあるが、ステルス兵器が出現した当初は、平面で構成された外面を持っていた。これは、レーダーが送信されてきた方向へはなるべく反射波を返さずに、送信方向とは別の特定の方向にまとめて反射させる工夫である。ステルス技術には電波を吸収する工夫も含まれており、通常は形状によるステルスと共に電波吸収剤も併用される。電波を別方向に反射するステルス兵器を発見するためには、「バイスタティックレーダー(またはマルチスタティック・レーダー)」と呼ばれる送信アンテナと受信アンテナが遠く離れたレーダーシステムが有効だと考えられている。また、電波吸収体は吸収する周波数が固定されるため、広い周波数帯のレーダーが有効だと考えられている[32]

レーダーそのものは電子工学により極めて理論的に設計、製造されているが、運用にあたってはオペレーターの経験と勘に依存する度合いが大きいという特徴がある。インターネットの普及により、オペレーターの経験不足はある程度補えるようになるが、レーダーとオペレーターの目視や体感を併用しなければ実用的な経験値をあげることはできない。

なお、正確な位置距離やドップラー効果を測定する為に、パラボラアンテナを使用している。

クラッター[編集]

軍事用レーダーでは目標以外の反射波は本来不要であり、地面、海面、雲、雨などは「クラッター英語版」として有意情報からは除外されなければならない。気象レーダーなどでは航空機などによる反射波は不要であり、雲や雨が有意情報である。軍事用レーダー装置では固定した反射波は地面や海面からのクラッターとして、ここからの検出をのみを抑制することで不要な情報をフィルターする、「クラッターマップ」と呼ばれる仕組みがある。また、同じような技術に「Moving Target Induction:MTI」と呼ばれるドップラーシフトが0の信号を抑制する方法がある。これらは自らの位置が移動する航空機のレーダーでは、自己位置の移動分を補正する必要がある。

表示方式の変遷[編集]

Aスコープの一例。40マイル以内に複数の目標が存在する波形であるが、アンテナを動かし、その角度情報を元に推測をしなければ正確な方角と、二次元的な情報が得られない。
PPIスコープの一例。どの方角のどの距離に、どれだけの数の目標が存在するか、練度の低い者でも容易に判定が可能である。
Cスコープの一例。対空砲の場合射手は表示された光点を元に、射撃高度と角度を設定して射撃を行う。固定軸の航空機関砲などの場合は出来るだけ光点を表示器中央に位置させるように操縦を行う。
Bスコープの一例。射撃管制レーダーに利用されている。
A、B、Eスコープの一例。6発の一斉射撃の弾着観測。

初期のレーダーはAスコープ表示方式が用いられた。縦軸に電波強度、横軸に時間を取ったオシロスコープに波形を表示(心電図のようなイメージ)させることにより、強度が最も大きい反射波が戻ってくる時間から対象物までの距離のみを読み取っていた。ある一定距離の目標物にアンテナを向ける場合、アンテナの角度が目標物に近づくにつれ、波形の山が大きくなっていき、方向が完全に一致すると波形が極大値(ピーク)を表示する。このようなシステムの場合、レーダー送信機のアンテナの方向は別に表示されていたため、他方向に多数の対象物が存在する場合、測定結果を一覧することができなかった。

Aスコープ方式を採用していた旧日本軍の長波レーダーの運用を例に取ると、送信・受信の各アンテナは兵士が手動または電動で動かし、受信機を操作する電測兵は伝令兵や有線電話からもたらされるアンテナの角度情報と、受信機のAスコープの波形から、どの方向のどの距離にどのような対象物が存在するかを頭の中で二次元図として描き出すことで把握する必要があり、多数の敵の同時測的には大変な熟練が要求された。機器の耐久性の問題から(送信用アンテナを受信用アンテナに直接向けると受信機が入力過大で破壊されてしまうなど)、アンテナの操作一つ取っても各兵士の連携と熟練が不可欠であった。

次の世代のレーダー表示器は、PPIスコープ (Plan Position Indicator scope、Pスコープとも) と呼ばれる円形の表示器に、時計方向に回転する走査線(アンテナが探査波を発射し反射波を受けている方向を表す)によって、対象物の二次元上の所在を一覧できるようになった。表示器の中心がレーダーの発信元で、360度全方向の情報を表示できる為、この方式は一度に多数の目標を捕捉するのに適している。しかし、このような表示方式の場合、レーダー波の波長が長いと近接した複数の対象物が同一の光点として表示されてしまう為、多数の目標を捕捉する際の分解能を高める為には、レーダー波長の短波化が必須となったが、波長の短波化と送信出力の強化の両立には高度な電子技術が要求される為、枢軸国では専ら送信出力を強化しやすい長波レーダーの開発に終始し、PPIスコープの採用までには漕ぎ着けなかった。

連合軍で運用されたPPIスコープを用いる初期のレーダーシステムでは、アンテナの回転角度に旧日本軍と同様の理由で一定の制約が存在したが、やがてマイクロ波レーダーと高利得のパラボラアンテナなどが主体のシステムに発展すると、アンテナは360度自動的に回転し続けるようになった。PPIスコープ上で目標物として表示される光点は、Aスコープでいうところの波形のピークに当たる部分である。旧日本軍の場合、各電測兵がAスコープの波形情報を、経験と技術によって二次元図として変換し認識していたのが、PPIスコープでは完全に自動化されるようになったので、連合国のレーダー担当員の負担は大幅に軽減され、測的の精度も飛躍的に高まる事となった。

また、Bスコープと呼ばれる表示方式では横軸に方位、縦軸に距離(あるいは目標の速さ)を示す方式で、戦闘機などの空対空レーダーや連合軍艦船の射撃管制レーダーに利用されていた。この方式はAスコープでは比較的読み取りが明瞭な波形の強度(ピーク)情報が、PPIスコープに類似した光点の強弱のみで表されるので、正確な読み取りにはやや経験を要したものの、それまでの光学機器による弾着観測と比較して観測員の経験や練度による精度のブレが発生しにくい為、比較的練度の低い砲兵でも安定した射撃成績を挙げる事が可能となった。とりわけ夜戦や荒天下の砲撃戦では光学機器や肉眼目視の練度のみに頼っていた旧日本海軍に大きく差を付ける事に貢献した。Bスコープを元に横軸を方位、縦軸を高度としたものはCスコープと呼ばれ、高射砲の管制に用いられた。

現代のレーダー表示器は通常のラスタースキャンディスプレイ上に、対象物の情報を文字表示したり、既にデータベースにある地形情報などを合成して表示することが可能である。

周波数帯[編集]

以下にレーダー波に関する代表的な周波数帯の分類を示す。

一般的な周波数帯[編集]

IEEE規格[編集]

IEEE 521-2002による周波数帯の分類を以下に示す。

バンド名 周波数範囲 バンド名の由来
HF バンド 3 - 30MHz High Frequency
VHF バンド 30 - 300MHz Very High Frequency
UHF バンド 300 - 1000MHz Ultra High Frequency[33]
L バンド 1 - 2GHz Long wave
S バンド 2 - 4GHz Short wave
C バンド 4 - 8GHz Compromise between S and X
(S と X の中間)
X バンド 8 - 12GHz Cross = 十字の照準線に由来[34]
Ku バンド 12 - 18GHz Kurz-under
K バンド 18 - 27GHz ドイツ語での Kurz (短い)
Ka バンド 27 - 40GHz Kurz-above
V バンド 40 - 75GHz
W バンド 75 - 110GHz
mm バンド 110 - 300 GHz

EU, NATO, US のECMバンド一覧表[編集]

EUNATO、米国で使用されている軍用電波での周波数帯の分類を以下に示す。近年(2008年現在)では軍用兵器の周波数表記にこれらが使用されており、従来のIEEE表記と異なることに注意が必要である。

バンド名 周波数範囲
A バンド 0 - 0.25GHz
B バンド 0.25 - 0.5GHz
C バンド 0.5 - 1.0GHz
D バンド 1 - 2GHz
E バンド 2 - 3GHz
F バンド 3 - 4GHz
G バンド 4 - 6GHz
H バンド 6 - 8GHz
I バンド 8 - 10GHz
J バンド 10 - 20GHz
K バンド 20 - 40GHz
L バンド 40 - 60GHz
M バンド 60 - 100GHz

導波管周波数のバンド一覧表[編集]

バンド名 周波数範囲[35]
R バンド 1.70 - 2.60GHz
D バンド 2.20 - 3.30GHz
S バンド 2.60 - 3.95GHz
E バンド 3.30 - 4.90GHz
G バンド 3.95 - 5.85GHz
F バンド 4.90 - 7.05GHz
C バンド 5.85 - 8.20GHz
H バンド 7.05 - 10.10GHz
X バンド 8.2 - 12.4GHz
Ku バンド 12.4 - 18.0GHz
K バンド 15.0 - 26.5GHz
Ka バンド 26.5 - 40.0GHz
Q バンド 33 - 50GHz
U バンド 40 - 60GHz
V バンド 50 - 75GHz
W バンド 75 - 110GHz
Y バンド 325 - 500GHz

上には示されていないが、周波数の表現の1つにマイクロ波(Microwave)があり、これは注意が必要である。 第二次世界大戦が始まった頃のレーダーは波長が数mから数十m程度(短波領域)と長く、大戦中にcm台のものが開発された。当時はこれが非常に短い波長であると考えられ、この新たな波長領域は「マイクロ波」と名付けられた。現在でも1mから1mm弱程度の電波領域がマイクロ波と呼ばれるが、この領域は1cmから1mmの「ミリメートル波」(ミリ波)と呼ばれる領域を含んでおり、10-6を意味するマイクロが10-3を意味するミリを含むようで混乱を招く。マイクロ波のマイクロは10-6を示すのではなく、「極めて小さな」という意味で使われている[36]

第二次大戦時の主な軍用レーダー[編集]

アメリカ海軍
名称 用途 範囲 出力 周波数 波長 備考
SK 対空捜索 150海里 330kW 200MHz 150cm 主力艦用
SC 駆逐艦用
SD 20海里 140kW 114MHz 263cm 潜水艦用
SG 対水上捜索 50kW 10GHz 3cm 水上艦用
Mk.3 対水上射撃 20kW 750MHz 40cm 主力艦用
Mk.8 30KW 3GHz 10cm 主力艦用
Mk.13 50kW 10GHz 3cm 主力艦用
Mk.4 不明 2GHz 40cm 駆逐艦と副砲用
Mk.12 100kW 2GHz 33cm 駆逐艦と副砲用
日本海軍
名称 用途 範囲 出力 周波数 波長
二号一型 対空捜索 54海里 5kW 200MHz 150cm
二号二型 対水上捜索/射撃 19海里 2kW 2.5GHz 10cm
一号三型 対空捜索 54海里 10kW 150MHz 200cm
日本陸軍
名称 用途 範囲 出力 周波数 波長 重量
タチ6号(超短波警戒機乙 要地型) 対空捜索 300km(162海里) 50kW 75-95MHz 400cm 18トン
タチ18号(超短波警戒機乙 可搬型) 94-106MHz 4トン
タチ31号(佐竹式ウルツブルグ) 射撃管制 40km(21海里) - 200MHz -

無線局としてのレーダー[編集]

船舶用レーダーの例。無線航行移動局に分類される。

日本では、レーダーは無線局における無線設備の一種として扱われる。 電波法施行規則第2条第1項第32号ではレーダーを「決定しようとする位置から反射され、または再発射される無線信号と基準信号との比較を基礎とする無線測位の設備」と定義している。 関連する定義として

  • 「無線測位」を第2条第1項第29号に「電波の伝搬特性を用いてする位置の決定又は位置に関する情報の取得」
  • 「無線航行」を第2条第1項第30号に「航行のための無線測位(障害物の探知を含む。)」
  • 「無線標定」を第2条第1項第31号に「無線航行業務以外の無線測位」

がある。すなわち、レーダーには船舶・航空機の航行のための無線航行用とそれ以外の気象観測や速度測定や物体検知などのための無線標定用がある。

レーダーのみを無線設備とする無線局は無線測位局といい、用途及び移動の可否により無線航行陸上局無線航行移動局(あわせて無線航行局という。)、無線標定陸上局無線標定移動局として免許される。 詳細は各項によるものとし、レーダーのみが無線設備である無線局の操作又はその監督に最低限必要な無線従事者のみについて掲げる。

種別 資格 備考
無線航行陸上局 レーダー級海上特殊無線技士  
無線航行移動局 レーダー級海上特殊無線技士 空中線電力5kW未満の通称、第4種レーダー(無線航行移動局#実際を参照)は不要[37]
無線標定陸上局 第二級陸上特殊無線技士 陸上系の無線従事者を要するのは政令電波法施行令第3条第2項第6号の陸上の無線局であることによる。

警察用以外で空中線電力0.1W以下の適合表示無線設備技適マークのあるもの)は不要[37]

無線標定移動局 第二級陸上特殊無線技士

従前の特殊無線技士(レーダー)は無線航行用と無線標定用のどちらのレーダーも操作できる。

レーダーのみが無線設備である航空用無線航行局は存在しないので表にない。

自衛隊のレーダーについては自衛隊法第112条により無線局の免許および無線従事者に関する規定が適用されない[38]ので表にない。

上述より、

  • 船舶搭載であれば資格不要な第4種レーダーでも、陸上に設置し使用するのであれば無線従事者を要する[39]
  • スピード測定器でも、スポーツ・レジャー用の通称スピードガンであれば資格不要であるが、警察の速度取締用には無線従事者を要する

こととなる。

レーダーと他の海上用または航空用の無線機器をあわせて無線設備とする無線局は、移動の可否により海上用は海岸局(あるいは無線航行陸上局)または船舶局(あるいは無線航行移動局)、航空用は航空局または航空機局として免許される。 これらの操作には各々海上系または航空系の無線従事者を要する。但し、第4種レーダーの無線航行移動局は除く。 また、自衛隊の艦船、航空機については上述と同様に自衛隊法第112条により無線局の免許および無線従事者に関する規定が適用されない。

免許も無線従事者も不要な特定小電力無線局にもミリ波レーダー用又は移動体検知センサー用としてレーダーを用いた機器がある。 自動車の障害物検知用レーダーや防犯用侵入者検知センサーなどである。

レーダーを扱った作品[編集]

映像作品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 霜田光一. “電波探知機・電波探信儀用鉱石検波器の研究”. 2013年7月20日閲覧。
  2. ^ a b "DEFLATING BRITISH RADAR MYTHS OF WORLD WAR II, Maj. Gregory C. Clark, The Research Department, Air Command and Staff College, USA, March 1997"
  3. ^ COBS ONLINE 20世紀の発明品カタログ 第4回 世界の屋根に君臨する、八木アンテナ(2002年1月9日)
  4. ^ 徳田八郎衛 『間に合わなかった兵器』 2007年、光人社NF文庫。p.73
  5. ^ 徳田 p.142
  6. ^ 徳田 p.73
  7. ^ 徳田 p.142
  8. ^ 徳田 p.122
  9. ^ 徳田 pp.122-124
  10. ^ 超短波警戒機甲 - ファーザーのHP
  11. ^ ドップラー効果レーダー各種 - 暗天南
  12. ^ 徳田 pp.126-130
  13. ^ 徳田 pp.140-141
  14. ^ 徳田 p.132
  15. ^ そのため4月18日のドーリットル空襲には間に合っていない。
  16. ^ 1945年3月10日の東京大空襲においては、八丈島に配備されていた「超短波警戒機乙」がB-29編隊を補足し9日22時30分には警戒警報を発令。しかし編隊が従来の空襲とは異なった航路を採ったことから、敵機が房総半島沖に退去したものと誤認し警戒警報を解除。さらにB-29はチャフを大量に散布して日本本土に配備していた「超短波警戒機乙」の補足を妨害、かつ当時吹いた強い季節風によって「超短波警戒機乙」のアンテナが揺さぶられ精度が低下し、編隊の把握に支障が生じたため空襲警報発令はB-29初弾投下8分後の0時15分と遅れた。なお、強風により邀撃飛行部隊は出撃することができず、また強い北西の季節風によって火勢が煽られ大火災が発生したため大損害に繋がっている。
  17. ^ 梅本弘 (2010a),『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p.45
  18. ^ 徳田 p.141
  19. ^ 徳田 pp.154-155
  20. ^ 英米のレーダーをコピー - 太平洋戦争 レーダー開発史
  21. ^ 金網反射器 - 海軍レーダー徒然草- 暗天南
  22. ^ 日本陸軍のレーダー
  23. ^ 徳田 p.156
  24. ^ 徳田 p.152
  25. ^ 梅本弘 (2010b),『捨身必殺 飛行第64戦隊と中村三郎大尉』 大日本絵画、2010年10月、p.92
  26. ^ 梅本 (2010a), p.77
  27. ^ 徳田 p.85
  28. ^ 徳田 p.90
  29. ^ 徳田 pp.91-93
  30. ^ 徳田 p.94
  31. ^ 日本海軍 (歴群「図解」マスター)ISBN-978-4054047631より)
  32. ^ 防衛技術ジャーナル編集部 『兵器と防衛技術シリーズ② 防衛用ITのすべて』 防衛技術協会、2006年4月。ISBN 978-4990029814
  33. ^ 216 - 450MHz はPバンドと呼ばれることがある。これは従来イギリスのレーダーで使われていた周波数帯であり、現在はより高い周波数へ移動しているためである。
  34. ^ 第二次世界大戦期にこの周波数帯が火器管制に使用されたため、十字の照準線を意味する Cross = X に由来する。
  35. ^ Waveguide frequency bands and interior dimensions microwaves101.com
  36. ^ 防衛技術ジャーナル編集部編『ミサイル技術のすべて』(財)防衛技術協会 2006年10月1日初版第1刷発行 ISBN 4-9900298-2-8
  37. ^ a b 電波法施行規則第33条および平成2年郵政省告示第240号
  38. ^ 但し、使用する周波数について総務大臣の承認を受けること及び従事する者について自衛隊としての内部基準を規定しなければならない。
  39. ^ 船舶用レーダーの沿岸監視等への利用 四国総合通信局

関連項目[編集]

外部リンク[編集]