阿賀野 (軽巡洋艦)

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阿賀野
Japanese cruiser Agano.jpg
1942年10月、佐世保沖で防雷具公試中[1]、または1942年12月7日にトラック諸島で訓練中の阿賀野[2]
経歴
運用者  大日本帝国海軍
建造所 佐世保海軍工廠[3]
種別 二等巡洋艦
クラス 阿賀野型
計画 1939年マル4計画
起工 1940年6月18日[3]
進水 1941年10月22日[3]
竣工 1942年10月31日[3]
除籍 1944年3月31日[4]
最後 1944年2月17日沈没[4]
母港
要目
基準排水量 6,651英トン[5] または 6,652英トン[3]
公試排水量 計画 7,710トン[3]
竣工時 7,856.018トン[6]
満載排水量 計画 8,338.4トン[5]
竣工時 8,500.575トン[6]
全長 174.50m[3]
水線長 172.00m[3]
垂線間長 162.00m[3]
全幅 15.20m[3]
深さ 10.17m[3]
吃水 計画公試平均 5.63m[5][3]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付)6基[3]
主機 艦本式タービン4基[3]
推進 4軸[3]
出力 計画 100,000hp[3]
公試成績 101,400hp[7][注釈 1]
速力 計画 35ノット[3]
公試成績 35.56ノット[7][注釈 1]
燃料 計画 重油 1,420トン[3]
実際 重油 1,428.748トン[6]
航続距離 6,000カイリ / 18ノット[3]
乗員 計画乗員 700名 + 司令部26名[8]
兵装 50口径15cm連装砲 3基6門 [9]
九八式8cm連装高角砲2基4門 [9]
25mm機銃3連装2基6挺[9]
13mm連装機銃2基(竣工時)[注釈 2]
61cm四連装魚雷発射管 2基8門[10]
九三式一型改一魚雷16本[10]
九五式爆雷18個[10]
装甲 計画[11]
機関部舷側 60mmCNC
 甲板 20mmCNC鋼
弾火薬庫舷側55mmCNC
 甲板20mmCNC鋼
舵取機室舷側 30mmCNC
 甲板20mmCNC鋼
操舵室舷側 30mmCNC鋼
搭載艇 竣工時[注釈 3]
11m内火艇1
9m内火艇1
12m内火ランチ1
9mカッター(救助艇)2
搭載機 竣工時[12]
九八式水上偵察機1機
零式水上偵察機1機
1943年以降[12]
零式水上偵察機2機(推定)
レーダー 21号電探(1943年6月以降)[13]
その他 一式二号射出機11型1基[12]
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阿賀野(あがの)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦[14]二等巡洋艦阿賀野型の1番艦(ネームシップ[15]。その艦名は、新潟県福島県を流れる阿賀野川からちなんで命名された[16]。帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。

太平洋戦争[編集]

1941年(昭和16年)9月20日、佐世保海軍工廠にて建造中、軍艦「阿賀野」と命名される[14]。同日附で二等巡洋艦阿賀野型のネームシップとして登録[17]。同年9月12日に内示された昭和17年度戦時編制で、阿賀野は第四艦隊・第九潜水戦隊の旗艦となる予定であった[18]。第九潜水戦隊は呂一〇〇型潜水艦を基幹とし、第45潜水隊(呂100号、呂101号、呂102号)、第55潜水隊(呂103号、呂104号、呂105号)、第65潜水隊(呂106号、呂107号)で編制予定である[19]。10月22日、呉鎮守府籍となる[20]

第十戦隊旗艦[編集]

「阿賀野」が竣工した時、すでに太平洋戦争はターニングポイントと呼ばれるミッドウェー海戦を過ぎてガダルカナル島の戦いに突入しており、戦局は悪化しつつあった。1942年(昭和17年)10月31日、竣工と共に警備艦に指定される[21]。 11月19日、「阿賀野」及び第17駆逐隊第2小隊(浜風磯風)はトラック進出を下令される[22]。 11月20日附で第十戦隊に編入、それまで旗艦だった軽巡「長良」が同戦隊から離れた[23]。12月1日、「阿賀野」はトラック泊地に進出[24][25]。同時に秋月型駆逐艦照月」より第十戦隊旗艦を継承[26]。だが軽巡洋艦が水雷戦隊を駆使しての戦闘はほとんど無かった。本艦型の設計技術会議に関与した宇垣纏連合艦隊参謀長も、『果たして現下の要求に堪えられるのか』と懸念を示している[24]

その頃の日本軍はニューギニア方面の作戦を進展させるため、ニューギニア島北岸のマダンウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエモロベ州州都)、サラモアに対する後方基地として強化することにした(「ム」号作戦)[27][28]。だがポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官はウエワク攻略部隊の上空警戒のため、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母《隼鷹》)と護衛部隊(軽巡《阿賀野》、駆逐艦3隻《磯風、浜風、村雨》)を派遣した[27][29][30]。 12月13日附で第二航空戦隊・第十戦隊各部隊は南東方面部隊に編入[31]。 ウェワク攻略部隊(駆逐艦《巻雲夕雲風雲》、輸送船《清澄丸》)は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊(軽巡《天龍》、駆逐艦《荒潮涼風磯波》、輸送船《愛国丸護国丸》)は同日18時にラバウルを出撃した[32]。母艦航空部隊(隼鷹、阿賀野、磯風、浜風、村雨)もトラック泊地を出撃[33]、同部隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく18日夜にウェワク揚陸に成功した[32]。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で「護国丸」が中破、潜水艦アルバコアの雷撃で「天龍」を喪失した[32][28]。12月20日、第二航空戦隊および第十戦隊各艦は前進部隊(指揮官近藤信竹中将)への復帰を下令された[34][35]

1943年(昭和18年)1月上旬、第十戦隊旗艦は秋月型駆逐艦「秋月」に変更された。1月19日、米潜水艦ソードフィッシュに雷撃された輸送船「妙法丸」救援のために出動した「秋月」だったが、潜水艦ノーチラスから雷撃されて大破、木村司令官も負傷した[36]。木村少将の後任として、小柳冨次少将(前職第二水雷戦隊司令官)が第十戦隊司令官に任命(1月20日附)される[36]。 1月下旬~2月上旬、ガダルカナル島からの撤退作戦(ケ号作戦)が実施された。これを支援すべく、前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)以下重巡洋艦4隻(愛宕高雄羽黒妙高)、戦艦2隻(金剛榛名)、軽巡3隻(長良神通、阿賀野)、空母2隻(隼鷹瑞鳳)、駆逐艦(朝雲五月雨時雨陽炎涼風大波初雪敷波)、油槽船2隻(日本丸、建洋丸)という戦力が集結[37]。前進部隊各部隊(本隊、警戒隊、航空部隊、補給部隊)は1月31日にトラック泊地を出撃[37][38]。2月3日、第一次撤収作戦損傷艦の補充のため駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)は前進部隊からケ号作戦実施部隊にまわされ、ショートランド泊地へ向かう[39]。その後も前進部隊や東方牽制隊は米軍機動部隊出現に備えて待機したが交戦の機会はなく、ケ号作戦成功と共に順次トラックへ帰投した。その後、同地で待機。5月8日、本艦は日本本土へ帰投した[25]

6月3日から7月2日まで呉海軍工廠で入渠を含めた整備を行い[2]、この時に21号電探を装備した[13]。 また13mm連装機銃2基[注釈 2]を25mm連装機銃2基に交換、飛行甲板後端左右に25mm3連装機銃を1基ずつ増備し、25mm機銃は連装2基、3連装4基の計16挺となった[2]

7月8日、南海第四守備隊の輸送作戦に従事して内地を出発[25]。7月21日、水上機母艦「日進」、重巡3隻(利根筑摩最上)、第十戦隊(阿賀野、萩風、嵐、磯風、涼月、初月)と共にトラック泊地を経てラバウルへ進出した[40]。すると大杉守一十戦隊司令官は旗艦を「阿賀野」から駆逐艦「萩風」に変更すると、輸送部隊(日進、第4駆逐隊《萩風、嵐》、第17駆逐隊《磯風》)を指揮してブインへ出発、本艦はラバウルに残置されてしまった[40]。ブカ島に派遣された第61駆逐隊(涼月、初月)は輸送任務に成功したが、ブイン隊は空襲により「日進」を喪失した。7月24日、外南洋部隊増援部隊に編入された2隻(萩風、嵐)をラバウルに残し、「利根、筑摩、最上、阿賀野、磯風、涼月、初月」はトラック泊地へ戻った。このように東部ニューギニア島戦線において、第十戦隊麾下の駆逐艦部隊(雪風磯風浜風谷風)は、第二水雷戦隊や第三水雷戦隊の指揮下で、クラ湾夜戦コロンバンガラ島沖海戦第二次ベララベラ海戦等の数々の水上艦戦闘に参加している。だが、十戦隊旗艦の「阿賀野」に最前線で戦う機会は訪れなかった。

昭和十八年後半以降の戦い[編集]

1943年(昭和18年)11月1日、それまで輸送作戦の任務についていた本艦に出撃が命ぜられた[41]。当時の「阿賀野」以下第十戦隊各艦は『ろ号作戦』にともなう第一航空戦隊航空隊の基地物件を輸送して、ラバウルへ進出中だった[42]。連合艦隊司令部は「阿賀野、初風、天津風、大波、巻波、長波、若月、風雲」を南東方面部隊に編入した[42]。だが駆逐艦3隻(天津風巻波風雲)はラバウル未到着のままだった[42]。このあと第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊が編制され、本隊(大森少将直率:第五戦隊《重巡妙高羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:軽巡川内、第27駆逐隊《時雨五月雨白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:軽巡阿賀野、駆逐艦《長波初風若月》)、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:駆逐艦《天霧文月卯月夕凪水無月》)という戦力が揃った[43]

11月2日00時45分、「時雨」の敵艦隊発見報告をきっかけに、アーロン・S・メリル少将率いるアメリカ艦隊(巡洋艦4隻・駆逐艦8隻)との約2時間におよぶ夜戦がはじまった(ブーゲンビル島沖海戦[44][41]。当時の日本艦隊は、主隊(妙高、羽黒)が中央、第一警戒隊(川内、時雨、白露、五月雨)が主隊左前方、第二警戒隊は(阿賀野、長波、初風、若月)の順番で主隊右前方を航行していた[44]。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、「妙高」と「初風」の衝突を招いた[45][41]。主隊(妙高、羽黒)が射撃を開始したのは時雨の報告から26分後の午前1時16分であり、主隊(妙高、羽黒)の右側にいた第二警戒隊(阿賀野、長波、若月)も戦局にまったく貢献できなかった[45]。本海戦は日本艦隊の完全敗北でおわった。日本側はアメリカ軍輸送船団の撃滅に失敗、アメリカ軍上陸拠点の排除に失敗し、「川内」と「初風」を喪失した[45][41]。阿賀野以下日本艦隊は11月2日午前9時以降、順次ラバウルへ帰投した[46][47]

11月5日と11日、連合軍の空母機動部隊(サラトガプリンストン)はラバウル停泊中の帝国海軍艦艇に空襲を敢行する(ラバウル空襲)。11月5日の空襲直前、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の遊撃部隊(重巡7隻《愛宕高雄摩耶鳥海鈴谷最上筑摩》、軽巡《能代》、駆逐艦5隻《玉波涼波藤波早波島風》)がラバウルに進出(またはラバウル近海で行動)[48]。まとめて空襲に曝された遊撃部隊・連合襲撃隊・第二水雷戦隊は、大打撃を受けた。「阿賀野」は高角砲を使用不能にされた[49]

11月11日の空襲では、「阿賀野」の艦尾に魚雷1本が命中[50]。艦尾から艦体10m程をもぎとられ、4軸スクリューのうち内側の2軸も喪失した[51]。最大発揮可能速力18ノットに低下[52]。 他に駆逐艦「涼波」が沈没、「長波」が大破[53]、「浦風、若月」が若干の被害を受けた[54]。また機銃掃射により阿賀野座乗の大杉司令官は重傷を負った[55]。これを受けて草鹿任一南東方面艦隊司令長官は水上艦艇のトラック回航を下令[54][56]。同日午後2時、「阿賀野」は第17駆逐隊の駆逐艦「浦風」に護衛されてトラック泊地へむかった[54][55]。舵がないため、スクリューの回転数を調整して針路を変更したという[57]。12日、トラック南西40浬を航行中の阿賀野はアメリカのガトー級潜水艦スキャンプ (USS Scamp, SS-277) の二度にわたる魚雷攻撃を受けてしまう[55]。艦橋下部に命中した魚雷により前部缶室は浸水、機械も停止して航行不能となった[58]。戦死者90名を出し、大杉司令官は「阿賀野」から「浦風」へ移乗し、旗艦を「浦風」に変更した[59]

同時刻、第二水雷戦隊(阿賀野型姉妹艦/旗艦能代、駆逐艦《藤波早波五月雨風雲若月》)は、潜水母艦「長鯨」とラバウル空襲で大破した重巡洋艦「摩耶」を護衛してトラック泊地にむかっていた[60]。二水戦(能代、藤波、早波)は摩耶護衛を中断して阿賀野救援におもむき12日夜半着、「能代」は「阿賀野」の曳航を開始した[55]。トラック泊地からも軽巡「長良」と秋月型2隻(初月涼月)が救援にむかい、13日中に合流した[55]。14日、波浪により能代~阿賀野間の曳索が切断したため、「長良」が阿賀野曳航を行うことになる[55]。15日20時30分、阿賀野護衛部隊はトラック泊地に帰投した[55]。 12月下旬、第十戦隊に姉妹艦「矢矧」が編入された[61]。ただし「矢矧」は内地にあって訓練中であった。

この時点での本艦被害の状況は3番主砲の直後で船体が切断し後部を喪失、舵と内側の推進器が2軸とも無かった[62]。 また右舷船底、艦橋と煙突の中間付近に長さ約12m、幅は最大約7mの魚雷による破口があり缶室を破壊、更に中央隔壁にスプリンターによる穴があり、反対舷の缶室まで浸水していた[注釈 4]。 このため吃水は上甲板まで1mもなく、沈没寸前の状況だった[62]。 工作艦「明石」による応急修理は、ケーソンを当てて破口を塞いで缶室を排水、艦尾の切断部分には仮の舵を左右に1枚づつ装着し、航空機用デリックのウインチのドラムまでワイヤを伸ばして順回転で面舵、逆回転で取舵に操舵できるようにした[62]。 その他に前部艦底には浮力確保のため空のドラム缶400個を収納した[63]。 機関は5号、6号缶2基と前部機械室の主機を使用して外軸の推進器を回し、1944年(昭和19年)2月14日の試運転では14ノットまで航行可能と確認された[62]

沈没[編集]

1944年(昭和19年)1月上旬、第十戦隊旗艦は「阿賀野」から秋月型駆逐艦「秋月」に指定された[64]。本艦は先の損傷を内地(佐世保)において本格修理することになった[65]。2月15日、「阿賀野」は駆逐艦「追風」、第28駆潜艇に護衛されてトラック泊地を出発する[66]。直後の2月16日午後4時45分、アメリカのバラオ級潜水艦スケート(USS Skate, SS-305)が「阿賀野」を雷撃した(アメリカ側によれば、『加古型重巡洋艦』に対し魚雷4本を発射して3本命中)[67]。「阿賀野」は敵潜水艦を発見して蛇行航行を行おうとしたが人力操舵ワイヤが切断して転舵不能となり、そこにスケートの魚雷が右舷に2本命中したという[68]。「追風」が接舷を試みたが波浪により危険とみなされ、カッターボートによる移動となった[68]。炎上した「阿賀野」は[69]2月17日午前1時45分に沈没した[70]。地点北緯10度10分 東経151度40分 / 北緯10.167度 東経151.667度 / 10.167; 151.667[71]。阿賀野型軽巡洋艦最初の沈没艦となった。

なお、「阿賀野」の救援に向かっていた第十四戦隊旗艦の川内型軽巡洋艦那珂」も[72]、17日にアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された[73][74]。阿賀野生存者を救助した駆逐艦「追風」も18日にトラック島空襲により撃沈され、多数の阿賀野生存者が戦死した[75]。また、このトラック島空襲では練習巡洋艦「香取」と第十戦隊所属の駆逐艦「舞風」も撃沈され[76]、僚艦の「野分」はアイオワ級戦艦2隻(ニュージャージー、アイオワ)に砲撃されつつ辛うじて退避した[77]。駆潜艇28号に救助されていた阿賀野生存者は工作艦「明石」に便乗、回航部隊(波勝春雨秋風藤波)等と共にパラオへ向かった[75]。 2月23日、第十戦隊旗艦は「矢矧」に変更された[78]。結局、「阿賀野」と「矢矧」が合流する事はなかった。

水雷戦隊旗艦として建造された阿賀野型軽巡洋艦は、結果的にその本領を発揮する場を与えられず相次いで戦没することとなった。その高性能とは裏腹に時代に合わぬ用途を背負わされてしまった艦の悲劇とも言える。3月31日、「阿賀野」は艦艇類別等級表と帝国海軍籍から除籍された[79]。トラック島空襲で沈んだ「那珂、香取、舞風、追風」等も「阿賀野」と同日附で除籍された[80]

艦歴[編集]

  • 1940年6月18日 阿賀野型1番艦として佐世保工廠で起工。
  • 1941年10月22日 進水。
  • 1942年
    • 10月31日 竣工。
    • 12月1日 トラック島に入港。
    • 12月2日 第10戦隊の旗艦となる。
  • 1943年
    • 6月23日 呉において電探装置を受領。
    • 11月1日 ブーゲンビル島沖海戦に参加。
    • 11月11日 ラバウルのシンプソン湾に停泊中、米艦上機の雷撃を受け、修理の為トラック島へと回航。
    • 11月12日 回航中、敵潜の雷撃を受け航行不能。長良、浦風に曳航されトラックへ向かう。また、この損傷で第10艦隊旗艦の任を解かれる。
  • 1944年
    • 2月15日 トラックにて応急修理を受け、本修理の為、本土回航。
    • 2月16日 夕刻、トラック島北方沖にて米潜水艦スケートの魚雷2本が艦中央部に命中、炎上。
    • 2月17日 午前1時45分、沈没。
    • 3月31日 除籍。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』171-173頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 中川浩 大佐:1942年2月15日 -

艦長[編集]

  1. 中川浩 大佐:1942年10月31日 -
  2. 松原博 大佐:1943年8月5日 -
  3. 松田尊睦 大佐:1943年11月17日 - 1944年2月18日戦死

同型艦[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b #JapaneseCruisersp.590, TABLE 11.23, Speed Trial of the Agano-Class Cruisersによると1942年10月21日の公試に於いて、排水量7,839トンでの10/10全力で、101,300馬力、35.45ノットを数値もある。
  2. ^ a b #JapaneseCruisersp.571によると、竣工時には後部マスト直前の構造物上に13mm連装機銃を左右1基ずつ装備。
  3. ^ #JapaneseCuisersp.593による。計画では9mカッター1を加えた計6隻だが、その9mカッターは煙突左舷に「阿賀野」と「能代」が一時的に搭載したのみという。
  4. ^ #明石工作部の思い出329-330頁の原文(抜粋)は「艦橋と煙突の中間の右舷船底には魚雷による大破口があり(中略)第一缶室と第三缶室がやられ、反対舷の第二缶室、第四缶室まで浸水していました。」とある。しかし第一缶室(右舷側に1号缶、左舷側に2号缶を設置)には中央隔壁が無く左右両舷に渡り、右舷側のみは第二缶室(3号缶)、第四缶室(5号缶)で左舷側は第三缶室(4号缶)、第五缶室(6号缶)。原文通りの被害状況は考えられず、缶の番号と部屋の番号を混同するか何かの錯誤があると思われる。

出典[編集]

  1. ^ #艦艇写真集巡洋艦176頁。
  2. ^ a b c #JapaneseCruisersp.594.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #昭和造船史第1巻784-785頁。
  4. ^ a b #写真日本の軍艦第9巻p.103。
  5. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の計画値「註.上記ノモノハ昭和十四年十月十三日艦本機密決第五三八号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」。
  6. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」29頁、「註.2.上記現状ハ昭和17年10月19日施工ノ重心公試(佐廠)成績書ニ依ル」。
  7. ^ a b 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」2頁の現状欄。
  8. ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」22頁。
  9. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」4頁。
  10. ^ a b c 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」6頁。
  11. ^ 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」20頁。
  12. ^ a b c 梅野和夫#阿賀野型の航空兵装
  13. ^ a b #JapaneseCruiserspp.579,594.
  14. ^ a b #達昭和16年9月p.19『達第二百八十三號 佐世保海軍工廠ニ於テ建造中ノ巡洋艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十六年九月二十日 海軍大臣 及川古志郎|二等巡洋艦 阿賀野(アガノ)』
  15. ^ #艦艇類別等級表(昭和17年12月31日)p.2『艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|二等|阿賀野型|阿賀野、能代、矢矧』
  16. ^ ただし、福島県を流れる部分の名称は阿賀川である。
  17. ^ #内令昭和16年9月(3)p.36『内令第千九十一號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十六年九月二十日 海軍大臣 及川古志郎|軍艦、巡洋艦二等「利根型」ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |阿賀野型|阿賀野| 』
  18. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制p.4『第四艦隊|第九潜水戦隊|《阿賀野》、《第四十五潜水隊》、《第五十五潜水隊》、《第六十五潜水隊》』
  19. ^ #昭和17年度帝国海軍戦時編制・潜水隊他p.2『昭和十七年度戦時潜水隊編制豫定表 |横須賀|第四十五潜水隊|《呂百》、《呂百一》、《呂百二》|第九潜水戦隊|・|呉|第五十五潜水隊|《呂百三》、《呂百四》、《呂百五》|・|第九潜水戦隊|・|佐世保|第六十五潜水隊|《呂百六》、《呂百七》|第九潜水戦隊|』
  20. ^ #内令昭和16年10月(3)p.32『内令第千二百七十七號 軍艦 阿賀野 伊號第四十九潜水艦 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル|昭和十六年十月二十二日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  21. ^ #内令昭和17年10月(5)p.19『内令第千九百九十一號(略)呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野 右警備艦ト定メラル(略)昭和十七年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  22. ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.49『十九日1919機動部隊指揮官(宛略)機動部隊機密第191919番電 機動部隊電令作第24号(1520発令) 一.第一航空戦隊(翔鶴瑞鶴欠)及第十六駆逐隊ノ二小隊ハ二十一日呉発作業地ニ回航ス/二.熊野及び第十七駆逐隊一小隊ハ二十二日呉発、阿賀野及第十七駆逐隊二小隊ハ二十二日豊後水道発夫々「トラック」ニ進出スベシ 右行動中第十七駆逐隊一(二)小隊ハ熊野艦長(阿賀野艦長)ノ指揮ヲ受クベシ(以下略)』
  23. ^ #戦隊行動調書p.10『17.11.20 長良ヲ除キ阿賀野ヲ加フ』
  24. ^ a b #戦藻録(1968)253頁
  25. ^ a b c #軽巡二十五隻336-337頁『阿賀野型 阿賀野(あがの)』
  26. ^ #戦隊行動調書p.10『17.11.20照月→12.1阿賀野』
  27. ^ a b #叢書83ガ島戦474-476頁『マダン、ウエワク攻略作戦』
  28. ^ a b #機動部隊(朝日)150-151頁
  29. ^ #S1711七戦隊日誌(5)p.36『十四日0813第八艦隊司令長官(宛略)第八艦隊機密第14081353番電「ム」号作戰ニ関スル外南洋部隊ノ要旨左通リ 一.兵力部署(区分指揮官兵力)主隊直率 鳥海/支援隊 第七戰隊司令官 第七戰隊/R方面護衛隊 第十八戦隊司令官 第十八戰隊(竜田欠)/「ウエワク」攻略部隊 第十駆逐隊司令 第十駆逐隊(秋雲欠)清澄丸/「マダン」飛行場攻略部隊 愛國丸船長 駆逐艦四隻 愛國丸護國丸/母艦航空部隊 第二航空戰隊司令官 第二航空戰隊(飛鷹欠)第十戰隊(駆逐艦欠)駆逐艦三隻/二.各部ノ任務 (イ)主隊及支援隊ハ敵情ニ應ジ出撃作戰支援 (ロ)RZ方面護衛隊 x+2日「ラボール」発「アドミラウテイ」島北方ケイマンヲ迂回シ1800及2100頃夫々「ウエワク」「マダン」ニ入泊揚陸ヲ開始X+1日出迄ニ揚陸完了出港 (ロ)母艦航空部隊ハ「ウエワク」北方海面ヲ機宜行動「ウエワク」攻略部隊ノ上空直衛ニ任ジ状況ニ依リ「ウエワク」敵軍ヲ攻撃』
  30. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.20『十三日2145AdB指揮官(宛略)2Fキデ132145 AdB電令作第92号 GF電令作第413号ニ依リ一時南東方面部隊ニ編入スベキdヲ磯風浜風及2dg(春雨五月雨欠)ニ指定ス AdB軍隊区分中ヨリ2sf(飛鷹欠)10S(dg欠)17dg2D及2dg(春雨五月雨欠)ヲ除ク』
  31. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.20『十三日1520(長官)GF(宛略)GFキデ131520 GF電令作第413號 2sf(飛鷹欠)10S(dg欠)AdB d×3愛國丸護王丸及清澄丸ヲ一時南東方面部隊ニ編入ス』
  32. ^ a b c #叢書83ガ島戦476-477頁『実施』
  33. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.67『一六(天候略)一.夕暮0630ショートランド帰着/二.村雨1030トラック出撃(隼鷹警戒)|一.春雨1500横須賀第四船渠ニ入渠』
  34. ^ #S1711七戦隊日誌(5)p.41『二十日1815前進部隊指揮官(宛略)前進部隊機密第20181532番電 前進部隊電令作第100号 一.第二航空戰隊(飛鷹欠)ヲ以テ前進部隊航空部隊ヲ編成シ第十戰隊(駆逐隊欠)第二駆逐隊(春雨五月雨欠)第十駆逐隊(秋雲欠)磯風舞風ヲ前進部隊本隊ニ編入ス/二.第十駆逐隊(秋雲欠)ハ当面ノ任務終了次第「トラック」ニ回航スベシ』
  35. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.30『二〇日1855(指揮官)AdB(以下同文)』
  36. ^ a b #叢書83ガ島戦518-519頁『六号輸送(第六師団のボーゲンビル島進出)』
  37. ^ a b #叢書83ガ島戦551-553頁『前進部隊の作戦』
  38. ^ #S1801二水戦日誌(1)p.24『31日|二.0630前進部隊警戒隊(神通朝雲五月雨陽炎大波時雨敷波)「トラック」出撃。0800ヨリ1045迄北口外方海面対潜掃蕩|三.900前進部隊本隊及同航空部隊「ケ」号作戦ノ為「トラック」出撃|四.1050警戒隊同右ノ直衛配備ニ就ク|五.1030親潮「トラック」帰着|六.野分初風、機動部隊ニ編入』
  39. ^ #叢書83ガ島戦562頁『第二次撤収(二月四日)』
  40. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)373頁
  41. ^ a b c d #軽巡二十五隻309-310頁
  42. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後388-390頁『タロキナへの逆上陸輸送計画の生起』
  43. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後390-391頁『第二回出撃-輸送隊の反転帰投』
  44. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後391-394頁『ボーゲンビル島沖海戦・その一』
  45. ^ a b c #図説太平洋海戦史第3巻66-67頁
  46. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後394-395頁『ボーゲンビル島沖海戦・その二』
  47. ^ #S1701八戦隊日誌(8)p.4『(ハ)友軍ノ状況 5Sヲ基幹トスル聯合襲撃部隊ハ十一月一日ヨリ二日ニカケ「ガゼレ」湾外ニ於テ敵大部隊ト交戰又二日「ラバウル」ニ対スル敵ノ大空襲ニ對シ11AF及3F航空兵力ハ大ナル戰果ヲ収ム』
  48. ^ #S1701八戦隊日誌(8)p.3『(ロ)十一月一日敵ハ「ボーゲンビル」「タロキナ」方面ニ上陸作戰ヲ開始シ「ブカ」方面ニ之ガ波及ノ徴アリ遊撃部隊〔4S、2sd(能代32dg島風)7S(鈴谷最上)8S(筑摩)ハGF電令作第七八四號ニ基キ直ニ出撃準備ヲ完成ス』(鳥海、涼波は輸送船救援のため未着)
  49. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後394-395頁『米空母機による第一次被空襲と被害 - 十一月五日』
  50. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.49『十一日0725(司令官)10S|十一日0725|我艦尾ニ魚雷命中舵機故障』
  51. ^ #軽巡二十五隻35,211頁
  52. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.51『十一日1347(司令官)10S(宛略)阿賀野艦尾垂下部切断セリ發揮シ得ル最大速力十八節此ノ位置ヨリ「トラック」ニ向フ浦風ハ速ニ阿賀野ニ合同スベシ阿賀野一二三〇ノ位置「デユークオブヨーク」島北端針路三二〇度速力十八節』
  53. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.52『(二)被害 沈没 駆逐艦一隻(涼波)/撃破 駆逐艦一隻(長波)/其ノ他 被害ナシ』
  54. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後414-415頁『邀撃空戦と艦艇の被害』
  55. ^ a b c d e f g #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)430頁
  56. ^ #S1806二水戦日誌(6)pp.49-50『十一日0930(長官)NTF(宛略)一.本十一日敵空襲ニテ艦船被害調査中ナルモ阿賀野舵故障涼波沈没長波航行不能/二.取敢ズ能代阿賀野摩耶長鯨浦風若月風雲等ヲ速ニ「トラック」ニ回航セシム/三.21sf基地員輸送用駆逐艦ヲ派遣アリ度』
  57. ^ #軽巡二十五隻36頁
  58. ^ #軽巡二十五隻37頁
  59. ^ #軽巡二十五隻214頁
  60. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.49『11日将旗2sd/艦N1702/直衛配備ヲ左ノ通定ム 能代ノ左右70度摩耶ノ左右90度長鯨ノ180度距離2粁前方ヨリ右側若月風雲、左側早波藤波、後方五月雨』
  61. ^ #戦隊行動調書p.11『18.12.27 矢矧10Sニ編入』
  62. ^ a b c d #明石工作部の思い出329-335頁。
  63. ^ #軽巡二十五隻215頁
  64. ^ #戦隊行動調書p.11『19.1.1所在艦|秋月→1.1←阿賀野』(註:秋月はカビエン輸送任務中)
  65. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.18『kdB機密第151700番電 機動部隊電令作第142號 阿賀野ハ應急修理完成次第内地ニ回航入渠整備ニ従事スベシ』
  66. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.19『四根機密第161817番電 第四根信電令第16號 阿賀野雷撃二本基点ノ三五六度一七〇浬追風二十八號駆潜特務艇護衛中那珂出撃』
  67. ^ #軽巡二十五隻200頁
  68. ^ a b #軽巡二十五隻216頁
  69. ^ #S1812十戦隊日誌(3)pp.19-20『阿賀野機密第162135番電 一六四五地点10°10′N151°40′Eニ於テ雷撃三(二艦中部命中)ヲ受ケ一二三四五缶室並ニ一缶室前方下甲板ニ満水浸水ハ一部中甲板ニ及三缶室火災航行不能今ノ所傾斜右ニ一〇度相当浮力アルモ危険ナル状態ニ瀕ス』
  70. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.6『(リ)十六日阿賀野「トラック」発佐世保回航中一六四五北緯十度十分東経百五十一度四十分ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ二本命中十七日〇一四五沈没』
  71. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.18『追風機密第161650番電 阿賀野雷撃二本命中航行不能北緯十度十分東経百五十一度四十分』
  72. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.19『UNB機密第161842番電 UNB信電令第37號 一.十四戰隊司令官ハ那珂ヲ率ヰ準備出来次第出港阿賀野ノ救難ニ任ズベシ/二.第四工作部長ハ救難隊ヲ那珂ニ乗艦セシメ右救難ニ関シ十四戰隊司令官ノ指揮ヲ受ケシムベシ/三.四根司令官ハ艦艇航空機ヲシテ之ガ警戒ニ任ゼレムベシ』
  73. ^ #軽巡二十五隻81頁
  74. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)623頁
  75. ^ a b #軽巡二十五隻219頁
  76. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.6『(ヌ)4dg(舞風野分)赤城丸香取護衛十七日「トラック」発内地回航中「トラック」礁外ニ於テ敵機並ニ敵戦艦部隊ト交戦舞風沈没野分退避野分ハ「サイパン」ニ於テ浅香丸船團ニ合同爾後横須賀迄之ガ護衛ニ任ズ』
  77. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.20『野分機密第171255番電 我戰艦ノ砲撃ヲ受ケツツアリ』
  78. ^ #S1812十戦隊日誌(3)p.6『(ル)二十三日旗艦ヲ矢矧ニ変更ス』
  79. ^ #内令昭和19年3月(5)p.21『内令第百九十九号 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等ノ部注「川内型」ノ項ヲ、同阿賀野型ノ項中「阿賀野、」ヲ、同練習巡洋艦ノ項中「香取、」ヲ削ル|驅逐艦一等峯風型ノ項中「峯風、」「太刀風、」ヲ、同神風型ノ項中「追風、」ヲ、同卯月型ノ項中「文月、」ヲ、同初雪型ノ項中「白雲、」ヲ、同白露型ノ項中「海風、」ヲ、同不知火型ノ項中「舞風、」ヲ削ル|驅潜艇、第十四号型ノ項中「第二十二号、」「第四十号、」ヲ削ル』
  80. ^ #内令昭和19年3月(5)p.41『内令第五百十三号|横須賀鎮守府在籍 軍艦 那珂 軍艦 香取|呉鎮守府在籍 軍艦 阿賀野|右帝國海軍籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 舞風|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 峯風 驅逐艦 追風 驅逐艦 文月 驅逐艦 海風|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 太刀風|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 第四十號驅潜艇|佐世保鎮守府在籍 第二十二號驅潜艇|舞鶴鎮守府在籍 第二十九號驅潜艇|右帝國驅潜艇籍ヨリ除カル|昭和十九年三月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』

参考文献[編集]

  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書』 原書房、1968年1月。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 『日本海軍艦艇写真集 巡洋艦』 呉市海事歴史科学館/編、ダイヤモンド社、2005年ISBN 4-478-95059-8
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年ISBN 47698-2009-7
    • 沈着冷静 <駆逐艦「有明」艦長・吉田正一大佐の証言>(昭和18年8月~昭和19年6月まで浦風駆逐艦長)
  • 『造船官の記録』 造船会/編、今日の話題社、1991年ISBN 4-87565-210-0
    • 小倉竜明 『明石工作部の思い出』、322-352頁。
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 原為一ほか 『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』 潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • 当時「阿賀野大淀」設計主務・海軍技術大佐大薗大輔『私が設計した阿賀野&大淀の真価と秘密 凌波性と耐波性と機動性にとむ理想の名艦の生みの親が語る造艦秘話
    • 当時「阿賀野」補機長・海軍機関兵曹長笠倉重雄『新鋭「阿賀野」ラバウル湾口の悪夢を語れ 轟音と炎暑に充ちた艦底で体験した機関科員の凄絶なる戦闘記録
    • 当時「阿賀野」通信科員・海軍一等兵曹中村卓司『損傷艦「阿賀野」紅蓮の炎のなかの絶叫 ブーゲンビル島沖海戦からラバウル大空襲そして被雷沈没の最後
    • 当時「川内」水雷長・海軍少佐浅野市郎『俊鋭軽巡「川内」タロキナ岬沖の悲運 速力三十五ノット五五〇〇トン最終発展型軽巡のブーゲンビル島沖海戦
  •  淵田美津雄奥宮正武 『機動部隊』 朝日ソノラマ、1992年12月。ISBN 4-257-17269-x
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 朝雲新聞社、1975年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』 雑誌『』編集部/編、光人社、1990年ISBN 4-7698-0459-8
    • 梅野和夫 『阿賀野型の航空兵装』、112-113頁。
  • 『昭和造船史(第1巻)』第207巻、(社)日本造船学会/編、原書房〈明治百年史叢書〉、1981年、第3版。ISBN 4-562-00302-2
  • 「二等巡洋艦 一般計画要領書 附現状調査」
  • Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所
    • Ref.C08051772000 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
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    • Ref.C08030101400 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
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    • Ref.C08030048800 『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(7)』。
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    • Ref.C08030050000 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)』。
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関連項目[編集]