大鳳 (空母)

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大鳳
Japanese aircraft carrier Taiho 02.jpg
タウイタウイに停泊する大鳳(1944年5月)[1]
基本情報
建造所 川崎重工業艦船工場[2]
運用者  大日本帝国海軍
種別 航空母艦[3]
艦級 大鳳型[4]
前級 翔鶴型航空母艦
次級 雲龍型航空母艦
改大鳳型航空母艦 (計画のみ)
建造費 予算 101,175,000円[5]
母港 舞鶴[6]
経歴
計画 昭和十四年度海軍軍備充実計画[7](1939年)
起工 1941年7月10日[8]
進水 1943年4月7日[8]
竣工 1944年3月7日[8]
除籍 1945年8月31日[9]
最後 1944年6月19日沈没
北緯12度05分 東経138度12分 / 北緯12.083度 東経138.200度 / 12.083; 138.200 (沈没地点)
要目(計画)
基準排水量 計画 29,300英トン[10]
公試排水量 計画 34,200トン[10]
実際 34,753トン[11][注釈 1][注釈 2]
満載排水量 計画 36,808.7トン[12]
実際 37,268トン[11]
全長 260.60m[10] または260.5m[13][注釈 3]
水線長 253.00m[10]
垂線間長 238.00m[10]
全幅 33.6m[13]
水線幅 27.70m[10]
深さ 22.00m(飛行甲板側線まで)[注釈 4]
または 22.10m[10]
飛行甲板 257.50m x 30.00m[10]
装甲部:150m x 約20m[14]
エレベーター2基[15]
吃水 公試平均 9.67m(計画)[10][注釈 5]
満載平均 10.15m(計画)[10]
ボイラー ロ号艦本式ボイラー(空気余熱器付[8]) 8基[16]
主機 艦本式タービン(高中低圧[8]) 4基[16]
推進 4軸 x 300rpm、直径4.300m[16]
出力 160,000shp[10][注釈 6]
速力 計画 33.3ノット[10] または 33.1ノット[15]
公試成績 33.4ノット[13]
1944年5月調査 33.69ノット[17]
燃料 計画 重油 5,700トン[10]
1944年5月調査 5,825トン[17]
航続距離 計画 10,000カイリ / 18ノット[10][注釈 7]
1944年5月調査 10,977カイリ / 18ノット[17]
乗員 計画乗員 1,649名[18][注釈 8]
竣工時定員 2,038名[11]
搭載能力 魚雷:九一式48本[19]
爆弾:800kg72個、500kg72個、特250kg144個、60kg144個[20]
軽質油:990トン(飛行機用)[21] または1,200トン[8]
兵装 10cm連装高角砲6基12門[22]
25mm3連装機銃17基51挺[22][注釈 9]
同単装機銃25挺(移動式)[23]
爆雷6個[19]
装甲 計画[24]
飛行甲板:20mmDS+75mmCNC鋼
機関室舷側 55mmCNC鋼、甲板16mmDS+32mmCNC鋼
軽質油タンク舷側 50-65mmCNC鋼、甲板 50mmCNC鋼
または、飛行甲板75mmCNC+25mmDS、舷側55mm~165mmCNC
甲板16mmHT+32mmCNC[25]
搭載艇 12m内火艇3隻、12m内火ランチ3隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター3隻、13m特型運貨船2隻[26]
搭載機 計画(常用+補用)[20]
一七試艦戦 24機
十六試艦攻 24+1機
一七試艦偵 4機
計 常用52機、補用1機
レーダー 計画 電探1基[27]
竣工時 21号電探2基[23](、13号電探1基[注釈 10])
ソナー 水中聴音機1組、探信儀2組[27]
その他 着艦識別文字 タ[要出典]
カタパルト2基(計画のみ)[20]
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大鳳(たいほう)[28][29]は、日本海軍航空母艦。日本の空母としては初めて飛行甲板に装甲を張るなど技術的に最も発達をとげた艦であったが、1944年(昭和19年)6月19日、初陣のマリアナ沖海戦で米潜水艦の雷撃により航空機燃料が漏洩、引火して爆発・沈没した。わずか3カ月の艦歴だった。

開発経緯[編集]

第二次大戦前、航空機の発達と共に海軍先進国(遠海への出撃を見越していた日英米)においては、艦隊決戦の主役は戦艦ではなく、より遠距離から攻撃できる航空機、すなわち空母が重要視されるようになっていた。しかし、空母は飛行甲板に1発でも爆弾が命中すると機能を失い、爆弾が飛行甲板を貫通して爆発すると致命傷となりうるという大きな欠点を抱えていた。例えば昭和10年頃の日本にある海軍大学校では、艦隊航空戦力の運用の一環として「航空アウトレンジ」に関する研究[30]と同時に、飛行甲板の被弾によって機能不能となる空母の脆弱性も、深刻な問題として受け止められていた[31]。このような状況下で開発が開始されたのが、大鳳型航空母艦である。

大鳳型の原型は1939年(昭和14年)に策定された第4次充実計画(通称マル4計画)において計画された排水量27000トン級航空母艦「W102」である[30]。完成するまでは紆余曲折があった。昭和13年の大蔵省説明資料での初期案は、15.5cm砲6門を搭載する、かつて計画された「蒼龍原案」のような仕様であった[31]。大鳳型が単独で前方に進出し、味方攻撃隊の中継基地になるという構想のため、敵艦隊との水上戦闘を考慮する必要があった為である[31]。しかし航空機の高性能化に伴い、中継基地として使用する案は破棄され、通常の艦隊型空母として開発されることになった。この時点で船体は翔鶴型航空母艦を基にしつつ、それに装甲を張り巡らせた重防御を持つと構想された。大鳳型以前の日本空母の飛行甲板は、同時期のアメリカ海軍空母と同様にほとんど無防御だった。急降下爆撃機の発達により、爆撃によって空母の発着能力が容易に奪われてしまうことを憂慮した日本海軍は航空母艦の飛行甲板には装甲防御が必須であると考えられたが、航空機の大型化と高威力化する爆弾に対する限界も指摘され、その防御方法の検討には混乱を伴った[32]。この考えに基づき建造された本艦は、日本海軍が待望久しかった飛行甲板に装甲を施した空母、装甲空母でもあった。

なお、装甲空母としては1940年(昭和15年)にイギリス海軍が先んじてイラストリアス級航空母艦を竣工させている。

構造[編集]

船体[編集]

船体は翔鶴型航空母艦に準じているが、飛行甲板の装甲化による重心上昇を防ぎ復元力を確保するため、艦内甲板は1層減らされており、艦内の容積は翔鶴型より小さくなっている[33]。全長は翔鶴型とほぼ同じ長さだが、海面から飛行甲板までの高さは公試状態12.4m、満載状態で12m程度で飛龍型に近い低いものであった[33]。格納庫は従来の日本の正規空母同様、上下二層であるが、艦内甲板が一層減った居住空間分を格納庫の周囲に回さざるを得なかったため、格納庫は二層とも狭く、艦の中央部、前後の昇降機の間、装甲飛行甲板の下のみの広さとなった。ゆえに格納庫は開口部をほとんど持たない密閉性の高いものとなったが、舷側には翔鶴型同様の、爆風によって鋼板が外れ、そのまま爆風を逃がすという構造がとられた[34]。(しかし、この舷側爆風対策は翔鶴型同様、実戦では役に立つことは無かった[35])艦首のバルバス・バウは翔鶴型に準じており、大和型戦艦のような前方突出型ではない[36]

防御力[編集]

機関室は、高度3000mからの800kg爆弾と距離1200m~20000mでの6インチ砲弾に耐えることが求められた[37]。また弾薬庫は高度3000mからの1000kg爆弾と距離1200m~20000mでの8インチ砲弾に耐えることが求められた[37]。このため主要部には16mm高張鋼と32mmCNC鋼鈑による水平防御と、160mm~55mmのCNC鋼鈑による垂直防御が施された[38]。水平鋼鈑が薄いのは飛行甲板の装甲も加味されているためである。水中防御としては主要部を3重底とするとともに、液体層と空気層を組み合わせた合理的な防御構造が導入され、TNT換算で300kgの炸薬をもつ魚雷を防御することが想定された[38]。ただしアメリカ海軍が使用していたMK13航空魚雷トーペックス系炸薬を使用した場合TNT換算で400kgを超える威力となっており、必ずしも万全とは言い難かった[39][40]。林勇(大鳳発着兵器担当)によれば、川崎重工業の工員達は「この艦(大鳳)は魚雷の10本や20本受けても、びくともしない」と聞かされたという[41]

機関[編集]

機関は翔鶴型航空母艦に準じたものが搭載された。艦本式ロ号缶は1基ずつ分離された防水区画に搭載されて2列に並び8基搭載され、その後方に同じく左右に2例に4基のタービン室が配置され、16万馬力を発揮した[36]。蒸気圧30キロ平方センチ、蒸気温度350度も翔鶴型と同様であるが、スクリューは翔鶴型より若干サイズの大きい4.3mのマンガン鋼製3枚羽ものが使用され、最高毎分300回転で駆動した[36]。舵は大和型戦艦と同様に副舵と主舵の2枚を前後に分離設置した[36]

飛行甲板[編集]

軍令部は本型の飛行甲板に対し、800kg爆弾の急降下爆撃に耐えられる装甲を求めていた。しかし艦政本部は翔鶴型航空母艦と大差ない排水量では実現不能と判断した[42]。仮に要求どおりの重防御を施すと艦が4万トンを超える大型艦となり他艦種の建造を圧迫するという予算上の問題が生じ、昭和13年9月7日の丸四計画正式商議にて、前述の艦主要部分重防御に加え、高度700mからの500kg急降下爆撃に耐える装甲で飛行甲板の50%(エレベーターとエレベーター間)を覆うという防御案で本型の建造計画は承認された[37]。排水量を3万トン級に抑え、その範囲内で防御を施すという妥協策がとられた[43]

初期の素案では60mmの装甲で前後の昇降機の間の飛行甲板(全長の1/2にあたる)を覆い、戦闘機の発艦距離を確保するというものであった[44]。しかし各種爆弾実験を実施したところ装甲60mmでは防御力不足と判断され、最終的に20mmのDS鋼板上に75mmのCNC甲板を装着した構造に落ち着いた[43]。しかし素案より装甲の厚みが増したので、装甲範囲の全長は飛行甲板の1/2のままであるものの全幅が短縮され、全幅を装甲する計画は艦中央部でも格納庫の天井部分を覆う幅20mのみの装甲とされた[33]。これにより結果的に重い装甲甲板を支える支柱間隔を縮めることができ、前述のように翔鶴型より艦内甲板を一層減らした分を格納庫の両サイドに回すこともできた。

飛行甲板の表面仕上げは、従来の空母同様に木張りであったとされるが[36]、ラテックス仕上げであるという異論もある。改大鳳型(G15 改マル5計画)の図面でも木の甲板の使用を裏付ける記述があり、最近発見された大鳳艦上で撮影されたと思われる写真には木甲板が映っている[45][46]。 また現存する複数の中央切断図面でも飛行甲板は45mmの木板を張る仕様になっている。一方、ラテックスを飛行甲板に施工したという公式文書・図面・証言資料は全く存在しない。『製造所である川崎神戸で、戦後福井静夫らの監修のもとに製作された模型がラテックス張りの状態で作られていた』ことがラテックス説の根拠のひとつであるが[36]、木甲板では、爆弾が装甲飛行甲板の表面で爆発した場合、やはり発着が困難になるという予想から、従来信じられていた「多少打たれても耐えうる前線の中継基地としての装甲空母」という概念がもうひとつの根拠になっていたと考えられる。

飛行甲板への着艦艤装は、最新式の三式制動装置が設置された[47]。三式制動装置は油圧式で流星などの大型機に対応した制動装置で、大鳳が初の装備であった[48]。工期短縮と部品未納入のため、遮風柵自体の装備が省略されて竣工したが、竣工後の写真では遮風柵の存在が確認できる。無稼動状態で装備され、後日の工事で稼動状態とされる予定であったと推測される[48]

また艦橋が煙突と一体化した大型のものであったので、それとの重量バランスをとるために、飛行甲板は後方で左舷側に寄せられている。

昇降機・カタパルト[編集]

昇降機は新型艦上機に対応した大きさであり、25mmのDS鋼板を二枚重ねて合計50mmの装甲を形成した[38]。これにより昇降機の重量は100トンに達したが、作動スピードは他艦と遜色ないものとされた[38]カタパルト(射出装置)を2基装備する予定であったが、開発が間に合わず後日装備とされた。

ハリケーン・バウ[編集]

重心上昇を防ぐため大鳳の甲板は他の空母より一段少なくなっており、結果、乾舷(海面から飛行甲板までの距離)が艦の大きさに対し低くなっている(満載時で、飛龍とほぼ同じ12メートル)。そのため艦首が波を被っても浸水しないよう、また昭和10年の第四艦隊事件の教訓を生かし[49]、同時期のイギリス空母や現代のアメリカ空母のように艦首外板を飛行甲板まで延長するハリケーン・バウ(エンクローズド・バウ)という形式をとり、艦首部と甲板が一体化していた[36]。日本海軍では初の試みであり、複数の案が検討された[36]。ハリケーン・バウには、翔鶴型より一層、甲板が少ない分を補う居住空間がとれるというメリットもあった。

アイランド(傾斜煙突)[編集]

大鳳型(大鳳)は隼鷹型航空母艦飛鷹隼鷹)と同様に、煙突と艦橋を一体化したアイランドを右舷に有していた。日本海軍は、空母の煙突から出る排煙の処理に悩み、最初の空母鳳翔三段空母時代赤城加賀など、各空母で試行錯誤を繰り返していた。通常の煙突では飛行甲板の気流を妨げる結果となるため、湾曲煙突のような工夫が必要となる。しかし、重防御によって重量配分上、飛行甲板が低くなることが明らかとなっており、飛行甲板下に従来の湾曲煙突を設けた場合、位置が低すぎて先端が海面に接近・浸水が懸念された[43]。そこで、重量バランスの面から不利であるにもかかわらず、敢えて上方排煙の煙突としてアイランド側に纏められた。

空母の艦橋を大型化するならば、煙突と艦橋とを反対舷に置く方が、重量バランスの観点から有利である[50]。ところが改装後の空母赤城、新造艦の飛龍で右舷に煙突、左舷に艦橋という方式を試したところ、煤煙が艦橋に流れ込み、気流が乱れて着艦しづらくなる等のデメリットが生じた[51]。日本海軍は飛龍以降、艦橋と煙突を同じ舷に設置するようになる。

大鳳の煙突は飛行甲板から17メートルの高さにあり、当初直立させる予定であったが、風洞実験の結果気流を乱す恐れが指摘され、外側に向かって26度傾斜して設置された[33]。この形式の煙突は商船を改造した飛鷹型航空母艦で実験したのち、大鳳と大和型戦艦3番艦改造の空母信濃に採用されている。アイランドトップには二式二号電波探信儀一型を前後に合計2基設置していたが、13号電探については装備に否定的な意見が多いとされる[40]

対空火器[編集]

大鳳型は日本空母中唯一六五口径九八式一〇糎高角砲(65口径10cm高角砲)を装備していた。しかし65口径10cm高角砲は飛行甲板の装甲化(重量増加)の代償として、翔鶴型の16門から12門に減じられた[43]。それを補うために高角砲は左右両舷に射撃可能とするはずであったが、アイランドの大型化によってそれも不可能となり中止され、オーソドックスな配置に落ち着いた[33]。65口径10cm高角砲は艦隊防空を担う秋月型駆逐艦に搭載されたものと同種で、1発あたりの危害半径は小さいものの毎分19発と発射速度が速く(89式12.7cm高角砲は毎分14発)、これを各舷に3基ずつ設置、左右1基の94式高射装置で管制していた[40]。25mm3連装機銃は当初8基の予定であったが、建造中に増強されて17基となり、加えて単装25mm機銃が移動式として25基搭載予定であった[40]。これは普段は格納庫壁面に収納され、航空機の発艦後に昇降機によって飛行甲板に運び飛行機固定用の金具を利用して固定するものである[40]

弾薬庫・軽質油タンク[編集]

800kg爆弾72発、500kg爆弾72発、250kg爆弾144発、60kg爆弾144発、91式航空魚雷改48本、他艦載機の補給用に別に250kg爆弾144発が搭載を計画していた[43]。軽質油タンクは前後の昇降機近くの海面下に配置され、前後で合計990トンの航空機燃料を搭載する計画となっており[43]、標準的な搭載量であった。被弾時の被害軽減のため、計画量は搭載していなかったと思われる[48]

居住区[編集]

兵員室はハンモックではなく、天井収納式の複数段ベッドが備えられた(乗艦者記憶では2~3段式)

搭載機[編集]

大鳳。後方に翔鶴型航空母艦を望む。

大鳳型の艦載機の搭載数は当初十七試艦上戦闘機常用24、十六試艦攻24(補用1)、十七試艦上偵察機常用4の52機(補用1)を予定していた[43]。資料によっては61機。これは、翔鶴型や連合国大型空母が70~90機前後なのに比べるとやや控え目であるが、マリアナ沖海戦時には、艦上戦闘機20機(零式艦戦五二型)+艦上爆撃機18機(彗星一一型九九式艦爆)+艦上攻撃機13機(天山一二型)+艦上偵察機3機(彗星一一型《艦偵型》)の合計54機を搭載していた[52]。ただし、これはマリアナ沖海戦当日の機数であり、実際は事故で失った機数を含んでいない。また空地分離によって艦載機と空母の関係が変化しており、その時の搭載機数が最大搭載機数ではない。六〇一航空隊の航空機は、第一航空戦隊3隻(大鳳、瑞鶴、翔鶴)に分かれて搭載された。

搭載する航空燃料は1,000tで、翔鶴型航空母艦の496tの倍となっている。これは、零式艦戦(21型で機体内燃料搭載量が525リットル)や九九式艦爆等より、燃料搭載量の多い烈風(機体内燃料搭載量が912リットル)・流星・彩雲の運用を前提にしたが故の増大と見られる[53]

搭載機数について[編集]

排水量の割りに搭載機数が少ないのは、飛行甲板装甲化による重心低下のため艦内容積が減少し、格納庫を大きくとれなかったためであり、これは、イギリス海軍イラストリアス級航空母艦と同様である。格納庫は翔鶴型航空母艦と同じ2層を備え、中間にエレベータがないので、エレベータを除いた格納庫全長は翔鶴型と遜色はない[54]。しかし上述のとおり、飛行甲板の装甲化面積が広くとれないため、その下部の格納庫面積も小さくなり、上層格納庫の幅が狭くなってしまった。ただし、艦上戦闘機烈風・艦上攻撃機流星といった大戦後期の大型艦載機を基準に計算されているがために、翔鶴型より定数が少なくなっているのであり、零戦・彗星・天山なら合計70機以上を運用可能とする資料もある[48]。またミッドウェー海戦に於いて、弾薬庫大爆発により致命的損傷をこうむった空母加賀から生還した天谷孝久中佐/加賀飛行長の意見により、艦爆と爆弾の搭載機数・搭載量を減らし、艦上戦闘機を増やす方向で軍令部や軍務局と調整したという背景もある[43]

この艦載機数の不足については他の空母に補完させるという案もあった。すなわち、防御力の高い大鳳型が危険な前方に進出し、より安全な後方に控えた他の空母の艦載機を受け入れ、補給の上で再出撃させるという「洋上の補給基地」的な運用法である。現代の空中給油にも通じる航空機の行動距離の延長策だが、これは基礎研究段階(G12 大鳳原案)での一案に過ぎず、実際にこのような運用がなされたことはない[37]。計画初期に艦政本部が提案したこの案に軍令部や海軍航空本部は反対しており、マル4計画の概要が決定する以前の昭和13年始めには捨て去られ、大鳳は従来の航空母艦と同じ運用法を前提にして計画されている。海軍兵器の基本構想を採否する海軍技術会議の席上でも航空本部側の「現有空母の防御薄弱なるを強化するが主眼。『飛び石』的用法を主目的にするものにあらず。従って将来空母は皆、このような重防御のものとする考えなり」との発言が採択されている。実際、マリアナ沖海戦において、採られた戦法はむしろ「前線の洋上基地」とは反対で、敵艦載機の航続距離外から、攻撃するというアウトレンジ戦法であった。「前線の洋上補給基地案」は、その後、大和型戦艦の重防御が反映されている信濃型航空母艦で再び提起され、一度は本命視されたので、戦後、大鳳にも刺激的な構想として当てはめられて、広まってしまったのだと推測されている[55]

予定搭載機[編集]

  • 一七試艦戦(烈風):18機(補用1機)
  • 一七試艦偵(彩雲):6機
  • 一六試艦攻(流星):36機
  • 合計:常用60機、補用1機、計61機

注)艦偵6機、艦攻7機は露天繋止

あ号作戦時搭載機[編集]

  • 零式艦戦五二型:19機(6/13に2機事故喪失)
  • 彗星一一型:17機
  • 天山一二型:14機(6/13に1機事故喪失)
  • 彗星一一型(艦偵型): 3機
  • 九九式艦爆: 1機(6/13に2機事故喪失)
  • 合計:54機

補足)1944年(昭和19年)3月7日出航時に搭載されていた艦載機は主翼折り曲げ式だった(機種については乗艦者記憶あいまい)。

第六〇一航空隊(大鳳 翔鶴 瑞鶴 に搭載)[編集]

  • 零式艦戦五二型:78機(6/13に2機事故喪失)
  • 零式艦戦二一型(戦爆型):11機
  • 彗星一一型:53機
  • 天山一二型:37機(6/13に1機事故喪失)
  • 彗星一一型(艦偵型):17機
  • 天山一二型(電探装備型): 5機
  • 九九式艦爆: 7機(6/13に2機事故喪失)
  • 合計:208機(大鳳:54機 翔鶴:77機[56] 瑞鶴:77機)[57]

艦歴[編集]

建造[編集]

大鳳は1941年(昭和16年)7月10日川崎重工業神戸造船所にて起工された[58]。仮称艦名「第130号艦」[59]。同社が建造した空母としては、加賀型戦艦1番艦改造空母加賀(船体部分のみ)、翔鶴型航空母艦2番艦瑞鶴に続く3隻目となった。1943年(昭和18年)秋頃に進水予定であったが、起工から半年後に太平洋戦争が起こり工期繰上げが要求される[33]1943年(昭和18年)3月5日、正式に『大鳳』と命名された[28]。同日附で夕雲型駆逐艦11番艦藤波秋月型駆逐艦7番艦霜月等も命名された[60]。 さらに3隻(大鳳、藤波、霜月)等は艦艇類別等級表に登録された[3]。 同年4月7日高松宮宣仁親王皇族軍人、海軍大佐)臨席のもと午前8時30分に「大鳳」は進水した[59][61]8月15日隼鷹型航空母艦2番艦飛鷹艦長を務めていた澄川道男大佐は大鳳艤装員長に任命された[62]。12月23日附で、大鳳の艤装員長は菊池朝三大佐(前職瑞鶴艦長)に交代した[63]。菊池大佐は、空母鳳翔艦長、瑞鶴艦長(1943年6月20日[64]~12月18日[65])を務めた経歴を持つ[66]

1944年(昭和19年)1月19日、呉海軍工廠で建造中の雲龍型航空母艦3番艦葛城が、高松宮宣仁親王昭和天皇実弟、海軍大佐)臨席のもとで進水する[67]。1月20日、高松宮は神戸川崎重工業を訪問し、大鳳を見学する[68]。 2月上旬、大鳳は神戸港から備讃瀬戸来島海峡を通過して呉軍港に移動、2月3日から呉海軍工廠第四船渠に入渠して最終的な艤装が施される[61]。 2月15日、吉岡保貞(予備役中将、川崎重工業専務取締役)は高松宮(軍令部大佐)に「大鳳の完成を3月10日に繰り上げ」と報告する[69]。 約8ヶ月分の工事量を約5ヶ月に短縮(日数換算40%)、艤装予定を約3ヶ月短縮して3月7日に大鳳は竣工した[70][71]。同時附で正式に舞鶴鎮守府所属[6][66]。菊池艤装員長も制式に大鳳初代艦長となった[72]。3月10日、第一航空戦隊に編入される[73]。瀬戸内海で訓練を実施する[74]。3月28日、『陸攻の神様 海軍の至宝』と謳われた入佐俊家中佐が大鳳飛行長に任命され、同時に第六〇一海軍航空隊司令を兼職することになった[75][76]

回航と訓練[編集]

1944年(昭和19年)3月28日[74]、大鳳は兵員輸送を兼ねて秋月型駆逐艦2隻(初月若月)に護衛されてを出航した[77]。航空機は601空の零戦・彗星・天山のほか、司偵・月光零式水上観測機零式水上偵察機、計64機を搭載した[78]。4月4日シンガポールセレター軍港に入港する[79]。入港直前に舵取装置が故障し、さらに配電盤火災となり一時操舵不能となるが復旧に成功した[80]。月光や水偵、兵員を陸揚げした後、4月9日リンガ泊地に回航され、4月15日より第一機動艦隊旗艦(司令長官小沢治三郎第三艦隊長官)となる[73][74]。リンガ泊地では第一航空戦隊(翔鶴瑞鶴)や第十戦隊所属各艦とともに着陸訓練を主に行った。

5月6日に航空機をすべて収容し、5月11日(12日とも)リンガ泊地を離れ[74]、内地からの第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)、第三航空戦隊(千歳千代田瑞鳳)と合流するためにタウイタウイへ移動、14日に到着した[81]。タウイタウイ泊地では、周囲に大きな陸上飛行場がなく、泊地の中では発着艦訓練を実施できなかった[82]。またアメリカ軍潜水艦が出没するために、泊地の外に出ての発着艦訓練もできず、航空隊の技量も充分とは言えなかった[83][84]。また潜水艦の雷撃により駆逐艦多数(谷風風雲水無月早波)等が逆に撃沈されたほどである[81]。 6月13日、陸上基地を利用して搭乗員の訓練をおこなうべく、フィリピン中部のギマラスに向かった[85][86]。同海域では対潜哨戒をしていた天山が着艦に失敗、着艦のやり直しをしようとしたが失速し、大鳳の飛行甲板の九九艦爆に追突し炎上[74]、零戦2・九九艦爆2・天山1を喪失、天山1大破・九九艦爆1小破、搭乗員1名・整備員7名が戦死した[87][88]。この事故と火災は大鳳関係者だけでなく周囲の艦にも目撃され、乗組員達に不吉な予感を与えたという[89]。同日、アメリカ軍のサイパン攻略公算大としてあ号作戦決戦用意が発令される[85]。6月14日ギマラスに入泊し燃料を補給した[85]。6月15日、ギマラスを出航しマリアナ沖に向かった[85]

参戦[編集]

1944年(昭和19年)6月18日以降、マリアナ沖海戦に参加する。小沢機動部隊甲部隊(旗艦・大鳳)の戦力は、第一航空戦隊の大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)、 第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の重巡2隻(妙高羽黒)、第十戦隊(司令官木村進少将)の旗艦/軽巡洋艦矢矧と麾下の駆逐艦7隻(第10駆逐隊《朝雲》、 第17駆逐隊《磯風浦風》、第61駆逐隊《初月若月秋月》、秋月型《霜月》)だった。彗星(大鳳所属機)がアメリカ軍機動部隊を発見し前衛艦隊は攻撃隊発進を開始したが、攻撃隊の帰還は夜間となるため夜間着艦の危険性を考慮され、この日の攻撃は見送られた[90]。 6月19日、午前6時30分、軽巡洋艦能代所属水偵がアメリカ軍機動部隊を発見した。午前7時45分より大鳳以下第一航空戦隊は128機の攻撃隊を放った[91]。大鳳の攻撃隊は42機(零戦16、彗星17、天山9)[88]。7時58分には予定どおり発艦作業が終了し、小沢機動部隊には楽観的気運さえ漂った[92]。艦のほとんどの者が甲板に上がって攻撃隊を見送っており、対潜警戒がおろそかになっていた可能性も指摘される[93]。 そのころ、ガトー級潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218) が小沢艦隊を追跡していた[94]。アルバコアは望ましい発射点に付く事を諦め、北緯12度22分 東経137度04分 / 北緯12.367度 東経137.067度 / 12.367; 137.067地点に於いて、やや遠距離から6本の魚雷を発射した(アメリカ軍記録時間8時9分)[94]。大鳳上空では発艦した第一次攻撃隊が編隊を組みつつあったが、彗星1機(搭乗員 操縦:小松幸男兵曹長/偵察:国次萬吉上飛曹)が編隊に加わろうとせず、右に旋回して海に突入した[95][96]。母艦から右5000mくらいの海面だったという[97]。これは同機が雷跡を発見し、自爆突入して魚雷を阻止しようと試みたものである[98]。また、大鳳の右舷に配置されていた秋月も雷跡を視認したという[99]。 大鳳の見張員は雷跡を直ちに報告[100]、当時28ノットで直進中であり取舵一杯が下令されたが[101]、午前8時10分に1本が大鳳の右舷前部に命中した[102][103]

この時点で前部がやや沈下し速力は26ノットとなったものの内務科・補機分隊による左舷後部への注水によって艦首沈下は是正され、戦闘続行可能状態であった[104]。だが前部昇降機(揮発油タンク直上)が下部の戦闘機格納庫から1mほどのところで、零戦を乗せたまま前側に傾いて停止した[105][103]。昇降機(エレベーター)の重量は100トンあるため、艦内作業での修理は不可能だった[100]。小沢長官の命令により、工作兵が総動員で作業にあたる。艦内にあった応急処置用の丸太をかき集め、停止した昇降機の上に食堂の椅子や机を櫓状にくみ上げて昇降機の穴(14m四方)を塞いだ[106][107]。9時20分頃、作業完了[108]。攻撃隊指揮官の小野大尉がその強度を確認し、搭載していた魚雷や燃料を降ろして軽くした零戦1、彗星1、天山4-5機が発艦し瑞鶴に移動した[109][103]。午前10時30分、第一航空戦隊(小沢部隊)から第二次攻撃隊が発進している[110]

しかし、被雷直後より下部格納庫の前部昇降機付近よりガソリンの湧き出しが始まっていたという証言がある[40]。魚雷命中の衝撃で破壊されたガソリンタンクから漏出したガソリンが、周囲の浸水によって格納庫にまで押し上げられていたと考えられた[40]。気化したガソリンは艦内に充満しつつあり、まず揮発油タンクのすぐ後ろの区画(弾薬庫)はガス侵入のため退去を余儀なくされた[107]。続いて第二格納庫も出入りが困難になるほどの状況になった[103][108]。また缶室との距離も短いために、ガソリンそのものの流出抑制作業を並行して行うも、気化したガソリンを吸入して失神する乗員が続出[111][108]。火花を恐れて工具の使用が憚れたなどの理由により、作業は捗らなかった[111]。12時頃には「気化ガス充満、タバコ禁止、火花が出るような作業も禁止」との伝達が艦内各部署になされた[111]。格納庫の側面の扉はすべて開かれたがそれでも換気が追いつかず、舷窓や[108]、格納庫の側壁の鋼鈑を故意に破壊して穴を開けている[111]。後部昇降機も下げられる[112]。発電室などの扉も開放するなど[113]、必死の換気作業が行われた。大鳳への着艦は、以上の状況により上空警戒の戦闘機と緊急を要するものに限定されたが、翔鶴がアメリカの潜水艦カヴァラ(USS Cavalla, SS-244)の雷撃により落伍したため(午前11時20分魚雷4本被雷、午後2時頃に沈没[114])第一次攻撃隊の収容も担当することになった[109]。午後12時20分以降に小沢艦隊第一次攻撃隊が帰還してきたが、アメリカ軍の反撃により膨大な未帰還機が発生しており、大鳳から発艦し戻ってきた機は4機(零戦3、偵察彗星1)だった。

沈没[編集]

午後2時過ぎて間もなく翔鶴が沈没した(前述)。その頃、小沢艦隊第二次攻撃隊がアメリカ艦隊を発見できず、損害もないまま艦隊上空に戻ってきた。この隊を収容中の午後2時32分(被雷から約4時間後)、気化したガソリンに引火し大鳳は大爆発を起こした[102][115]。大鳳艦橋に勤務していた近藤敏直少尉によれば、最初の着艦機が胴体着陸した直後に爆発が発生したという[116]。瑞鶴整備下士官は、大鳳甲板上に駐機していた機に着艦失敗機が突入した直後、大火災が発生したと回想している[117]。第二次攻撃隊前路偵察の天山1機、二航戦の零戦4機を収容したところ、5機目の零戦が着艦せず通過、直後に爆発が起きたともいう[109]。発電機室の後方にあった缶室にガソリンが拡散して爆発した可能性や、換気用モーター、運転中モーターの過熱など、他にも様々な原因が指摘されている[118]。第二次攻撃隊は大鳳への着艦が不可能となり、瑞鶴に着艦した[119]

爆発の原因が何であれ、損傷は重大だった。エレベーターを塞ぐ作業を終えて大鳳艦橋で休憩していた塩山技術大佐は、関東大震災のような揺れで、アメリカ軍重爆の大型爆弾の直撃と直感した…と回想している[120]。厚い装甲板を張った飛行甲板が飴板のように盛り上がり、前部飛行甲板は瞬時に炎に包まれた[120]。大鳳の入佐飛行長は、おそらく飛行甲板上で爆発に巻き込まれ行方不明となった(戦死認定)[121]。大鳳の後方に位置していた重巡洋艦羽黒艦橋からは、大爆発と共に火柱が大鳳側面の隔壁を突き破り、艦載機や乗組員が吹き飛ばされる光景が目撃された[122]。大鳳では航海士が艦橋後部に設置されている遠隔操作の消火装置を作動させたが、鎮火しなかった[113]。 大鳳は急速に速度を落とし停止、艦橋の将校達や機関部は爆発時の火炎によって全滅したと判断している[123][124]。これは爆発の衝撃で潤滑油を送る注油ポンプの管接手が外れ、機械が焼損するに至ったからである[125]。 また機関部との連絡がつかないため消防管のバルブが開けられず、消火活動は全くはかどらなかった[106][113]。昇降機周辺や甲板上にいた乗員も爆発の衝撃で吹き飛ばされて多数の死傷者を出した[120]。周囲の艦(羽黒、若月等)は接近を命じられたが、爆発が続くため接近できない[122]。 小沢司令長官は大鳳に残るつもりだったが、周囲に説得されて退艦を決意[126]。小沢長官や古村啓蔵参謀長は艦橋が盾になったため爆風を免れた唯一のカッターボートに乗り、駆逐艦若月に移動した[127][115]、その後16時6分に羽黒へ移った[128][115]

大鳳では小爆発が連続し、駆逐艦磯風初月等が脱出者の救助にあたった[129][130]。最終的に磯風が大鳳艦尾に接艦して乗組員を救助している[131][132]。大鳳は左舷に大きく傾斜し、爆発から約2時間後の午後4時28分に沈没した[102][125]。大鳳爆発時に搭載していた零戦5機、九九艦爆1機、彗星4機、天山3機も共に失われている[133]。沈没位置(北緯12度5分 東経137度12分 / 北緯12.083度 東経137.200度 / 12.083; 137.200[134][125]。小沢中将以下司令部は20日になり瑞鶴へ移動し、以降の航空戦の指揮をとった[135]。22日、大鳳の生存者は沖縄の中城湾で瑞鶴に移乗し、日本本土へ向かった[136]。結局、大鳳が母港の舞鶴港へ帰港する事は一度もなかった。また大鳳の沈没を含めマリアナ沖海戦の敗北は、サイパンの戦いに決定的な影響を与えることになった[137]

1945年(昭和20年)4月30日、昭和天皇米内光政海軍大臣に対し、米潜水艦に空母2隻(大鳳、翔鶴)が撃沈された件について「『あ号作戦』はあの辺に敵潜水艦の出没せることは判って居ながら之を強行して失敗に了ったが、あれは連合艦隊長官がさせたのか、機動部隊長官が自ら決行したのか」と下問している[138]

喪失原因[編集]

大鳳の沈没は、魚雷被弾後に胴体着艦をした戦闘機の衝撃で格納庫内に充満した気化燃料(ガソリン)に引火、爆発したことが原因だった。これは閉鎖式格納庫が持つ弱点が最悪の形で現れたものだったが、たった1発の魚雷で沈没に至るまでにはいくつかの不幸な積み重ねが存在した。

  • タンクからのガソリン漏れは被雷の衝撃で継ぎ目がはずれたために生じたが、この継ぎ目の溶接に不具合があったと言われている[139]。大鳳には電気溶接も部分的に取り入れられていたが、当時の電気溶接には強度に問題があった[140]。空母のガソリンタンクは元々装甲板で防御されていた。ミッドウエー海戦後は、さらにタンク周囲の空所に注水されるようになった。大鳳の教訓としてその外周の空所に水ではなく、鉄筋を組んだ上にコンクリートを充填するようになった(信濃雲龍など)。また格納庫の通風装置も強化された。
  • 日本の工業力の限界により使用部品の精度や材質劣化に悩まされ、さらに優秀な技能工が次々に召集されたため、未熟な徴用工の手で建造されていた[141]
  • 被雷の衝撃で、前部エレベーターが甲板下1mのところで故障・停止してしまったが、作戦続行のため、急遽エレベーター上に机などを積み上げて応急処置をし、飛行甲板の開口部を塞いでしまった。舷側の開口部、換気扇とも全開にしたが、艦内には気化したガソリンが充満し、目を開けるのも辛い状態となった。さらに攻撃隊が帰艦してきたため、後部エレベータもまた上げ下げで換気の役割は十分に果たせなかった。戦闘継続を放棄して前部、後部のエレベータとも換気のために開放すれば、気化燃料を[112]、あるいは万一引火したとしても爆風を、開口部から逃がすことができたかもしれなかった[35]
  • 格納庫の天井は全面10ミリの鋼板、その上が95ミリの装甲で覆われていたため、他の空母なら上に抜けるはずの爆圧までが下部に強く向かった。ゆえに機関部などより大きい被害を受けることとなった。
  • 大鳳はエレベーターもまた格納庫上を覆っているという理由から、エレベーターにも装甲が施されその重量は100tにもなったが、これは一度故障すると(停止した原因は昇降用ワイヤーの滑車からの脱落)艦内作業ではとても修理しかねるものであった。
  • 艦内の工作兵がエレベーター開口部を塞ぐことに総動員されたため、揮発油タンクの修理があとまわしにされた[106]
  • ガソリンの臭気を抜くため総てのベンチレーター(換気扇)を全開にしたが、かえって揮発性ガスが閉鎖された艦内に充満、爆発が艦全体に及び致命的損傷を受けた[122]
  • 竣工してわずか3カ月であり、また従来にない新機軸を盛り込んだ艦であったので乗組員が不慣れであった。
  • 大型空母3隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴)を擁しながら護衛する駆逐艦は7隻(磯風、浦風、秋月、若月、初月、霜月、朝雲)、巡洋艦も3隻(羽黒、妙高、矢矧)のみで、対潜警戒に難があった[142]

迷彩[編集]

大鳳には、戦争後期の日本空母と同じく迷彩が施されていたという。「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)直前、2日がかりでゴム系の塗料で迷彩が施されたという証言があるが、写真などの資料は現在まで見つかっておらず、迷彩のデザインや塗装を担当した高塚義雄士官らは大鳳とともに戦死した[143]。迷彩のデザインは謎となっている。 

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』69-70頁、『日本海軍史』第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 澄川道男 大佐:1943年8月15日[62] - 1943年12月23日[63]
  2. 菊池朝三 大佐:1943年12月23日[63] - 1944年3月7日[72]

艦長[編集]

  1. 菊池朝三 大佐:1944年3月7日[72] - 7月1日。7月10日附で第二十五航空戦隊司令官[144]
キスカ島撤退作戦でキスカ島から生還後大鳳勤務となった近藤敏直少尉によれば、大鳳の菊池艦長は大鳳と運命を共にするつもりだったという。近藤からあるだけのタバコを貰い、「沈むまで何日もかかるだろうから、それまで吸う」と笑った[116]。菊池艦長は磯風を見送ったのち、後部デッキにハンモックの紐で身体を固定した[145]。だが、大鳳の沈没の衝撃で縄が切れたようで[145]意識不明の状態で救助された[146]

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030357500 『昭和19年3月1日~昭和19年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。
    • Ref.C08030050300 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030050400 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(5)』。
    • Ref.C08030036200 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030711400 『昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(1)』。
    • Ref.C08030711500 『昭和19年6月13日~昭和19年6月22日 あ号作戦戦闘詳報(サイパン島西方海面に於ける戦闘)(2)』。
    • Ref.C08030039800 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030039900 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030040000 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030040100 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030724100 『昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第10戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08051686600 『昭和19年6月(あ号作戦)601空 飛行機隊戦闘行動調書』。
    • Ref.C12070118400 『昭和18年1月~8月 達/3月』。
    • Ref.C12070175800 『昭和18年1月~4月内令1巻/3月(1)』。
    • Ref.C12070194700 『自昭和19年1月~至昭和19年7月 内令/3月(1)』。
    • Ref.C13071953500 『昭和18年3月31日 10版 内令提要 巻3/第13類 艦船(1)』。
  • 井上理二 『駆逐艦磯風と三人の特年兵』 光人社、1999年9月。ISBN 4-7698-0935-2
  • 岩崎剛二海と空の八人の武人の生涯 最前線指揮官の太平洋戦争』 光人社NF文庫、2003年4月(原著1995年1月)。ISBN 4-7698-2379-7
    • 見敵必殺の闘魂を秘めて 海軍の至宝と謳われた入佐俊家少将の信条
  • 小沢提督伝刊行会編 『回想の提督 小沢治三郎』 原書房、1971年3月。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員激闘の記録』(A5版ハードカバー)大日本絵画社 2007年
  • 川崎まなぶ『日本海軍の航空母艦 その生い立ちと戦歴』(大日本絵画、2009年) ISBN 978-4-499-23003-2
  • 小林昌信ほか『証言・昭和の戦争 戦艦大和檣頭下に死す』(光人社、1995)
    渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず』(瑞鶴戦闘機整備科員)
  • 雑誌「世界の艦船」『日本航空母艦史 1994年5月号増刊 No481』 海人社、1994年
    • 『日本航空母艦史』世界の艦船 2011年1月号増刊 第736集(増刊第95集)、海人社、2010年12月
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第六巻 昭和十八年 二月~九月』 中央公論社、1997年ISBN 4-12-403396-6
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人 『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日』 中央公論社、1997年7月。ISBN 4-12-403397-4
  • 『昭和造船史(第1巻)』明治百年史叢書 第207巻、(社)日本造船学会/編、原書房、1981年(原著1977年10月)、第3版。ISBN 4-562-00302-2
  • 『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』明治百年史叢書 第242巻、(社)日本造船学会/編、原書房、1978年(原著1975年)、四版。
  • 長谷川藤一 『軍艦メカニズム図鑑 日本の航空母艦』 グランプリ出版、1998年12月(原著1997年9月)、第3刷。ISBN 4-87687-184-1
  • 原勝洋 「「大鳳」の誕生とその最期 空母「大鳳」」『猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史』 文春文庫、2000年8月。ISBN 4-16-745602-8
  • 福井静夫 『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』 KKベストセラーズ、1982年4月ISBN 4-584-17023-1
  • 福井静夫 『日本空母物語』福井静夫著作集第7巻、光人社、1996年8月ISBN 4-7698-0655-8
  • 『軍艦基本計画資料』 福田啓二/編、今日の話題社、1989年5月ISBN 4-87565-207-0
  • 福田幸弘 『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6
    福田は羽黒の主計科所属。大鳳の爆発と沈没を羽黒艦橋で目撃した。
  • 古村啓蔵回想録刊行会編 『海の武将-古村啓蔵回想録』 原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1
  • 文藝春秋編 『完本・太平洋戦争(上)』 文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345920-0
    • 千早正隆(元海軍中佐)『戦果ゼロ・マリアナ沖海戦』
    • 塩山策一『新鋭空母大鳳の最期』
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』戦史叢書第31巻、朝雲新聞社1969年
  • 『海軍造船技術概要』 牧野茂福井静夫/編、今日の話題社、1987年5月ISBN 4-87565-205-4
  • 雑誌「丸」編集部『写真|日本の軍艦 第3巻 空母Ⅰ』光人社、1989年
  • 雑誌「丸」編集部『軍艦メカ2 日本の空母』(光人社、1991年)ISBN 4-7698-0562-4
  • 雑誌「丸」編集部 『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』 光人社、2010年7月。
    • 当時第一機動艦隊司令長官・海軍中将小沢治三郎『昭和20年10月16日/小沢長官が米軍に語った証言記録-質問者/米海軍R・A・オフスティ少将 「あ」号作戦の疑問に答える』
    • 当時海軍技術大佐塩山策一『大鳳と瑞鶴で見たマリアナ沖海戦』
    • 元第一機動艦隊参謀・海軍大佐大前敏一『あ号作戦・レイテ沖海戦に散る 小沢機動艦隊の最後』
    • 当時隼鷹乗組・元海軍二等兵曹吉川亘『マリアナ沖の明暗 二航戦旗艦隼鷹で戦ったわが初陣』
  • 『丸 2011年6月号(通巻782号) 「特集スーパーキャリア 大鳳」』 潮書房、2011年6月。
  • 山本平弥ほか 『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』 潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6
    • 当時「秋月」二代目艦長・海軍中佐緒方友兄『二代目艦長が綴る駆逐艦「秋月」の奮戦 被雷損傷修理をおえ新艦長を迎えて前線復帰した後の精鋭艦の航跡
    • 当時「初月」艦長・海軍大佐田口正一『遙かなり防空直衛駆逐艦「初月」の航跡 初陣の潜水艦戦からマリアナ沖海戦まで勇猛艦長の東奔西走の日々
    • 戦史研究家落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
  • 『空母大鳳・信濃』〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ Vol.22、学研編集部/編、学習研究社、1999年7月ISBN 4-05-602062-0
  • 学研編集部 編『歴史群像 太平洋戦史シリーズ8 マリアナ沖海戦』(学習研究社、1995年6月) ISBN 4-05-401264-7
  • 雑誌「歴史群像」編集部『「歴史群像」太平洋戦史シリーズ45・帝国海軍 真実の艦艇史」学習研究社、2005年、ISBN 4-05-603412-5
  • 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」「一般計画要領書」
  • U.S.Naval Technical Mission to Japan (1945-11). Surface Warship Hull Design. Charcteristica of Japanese Naval Vessels, Article 3(S-01-3). 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 基準28,564、公試33,800トン(#軍艦基本計画資料Sheet11、同Sheet79等)や、35,300トン(同Sheet43)、満載36,602トン(同Sheet79)の値もある。
  2. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45には公試34,600トン、満載37,270トンの値もある。
  3. ^ 「一般計画要領書」や#空母大鳳・信濃pp.89-90掲載の大鳳艤装大体図では全長260.60mと記載、#USNTMJ-S-01-03p.45や#空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の線図に記載のフレームスペースの数値などから計算すると250.50m
  4. ^ #空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の正面線図、Aとされている線図では飛行甲板側線までの深さは22.000m、飛行甲板のキャンバー0.100mで計22.100m。大鳳の線図は2種類残されており、もう一方のBと仮称されている正面線図では飛行甲板側線まで22.100mとなっている(キャンバーは同一の0.100m)。Aは1944年5月8日付の完成図、Bは終戦後復元された図面の1つということなのでここではAに依った。#USNTMJ-S-01-03p.45、#昭和造船史1pp.780-781では22.00mとしている。
  5. ^ #海軍造船技術概要p.296では9.59mになっているが、#空母大鳳・信濃ワイド折り込み(7)掲載の線図によるとこれは1WL(基本計画公試状態の吃水線)の値。
  6. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45によると180,000shp
  7. ^ #USNTMJ-S-01-03p.45によると8,000カイリ/18ノット
  8. ^ 「一般計画要領書」p.41の130号艦(大鳳のこと)の計画欄には士官75(15)、特務士官46(5)、准士官61(1)、下士官(兵を含むと思われる)1467(77傭)で「括弧内は司令部定員ヲ示ス」と注があり、合計すると1649(98)。ただし、計の欄に1651(101)と書かれており、更に総計と思われる1,751の値も書かれているが何れも合計値と合わない。
  9. ^ #海軍造船技術概要p.296では3連装22基、表A「あ号作戦前の空母対空兵装(昭和19年5月現在)」#日本空母物語p.417では3連装18基となっているが、#日本海軍艦艇図面集図22の一般配置図では17基しか確認できない。
  10. ^ #日本の航空母艦p.294では13号電探を信号檣に搭載という。

出典[編集]

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  3. ^ a b #内令昭和18年3月(1)pp.44-45『内令第三百九十三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年三月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ部中龍鳳ノ下ニ、大鳳ヲ加フ|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中涼波ノ下ニ、藤波ヲ、同秋月型ノ項中若月ノ下ニ、霜月ヲ加フ|潜水艦、二等呂三十五型ノ項中呂號第四十ノ下ニ、呂號第四十一ヲ、呂號第四十二ノ下ニ、呂號第四十三ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中隠岐ノ下ニ、六連ヲ加フ|驅潜艇、第十三號型ノ項中第四十四號ノ下ニ、第四十五號、第四十八號ヲ加フ』
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     秦は大鳳に乗艦していた大前敏一参謀の談話として紹介。
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  129. ^ 「第10戦隊戦時日誌」pp.8、pp.12
  130. ^ #秋月型(潮2015)91-93頁『高価な犠牲あ号作戦』
  131. ^ #駆逐艦磯風と三人の特年兵158頁、阿部三郎『特攻大和艦隊』単行本161頁
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  133. ^ #あ号作戦戦闘詳報(2)pp.31、#あ号作戦戦時日誌(1)pp.64
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  135. ^ #空母機動部隊(2010)198頁『瑞鶴乗艦/作戦室で見た悲喜劇』
  136. ^ #あ号作戦戦時日誌(1)pp.38『6月22日1500/本隊中城湾着 午後大鳳(瑞鶴) 翔鶴(摩耶 601空ハ瑞鶴) 飛鷹(隼鷹)乗員ノ移乗ヲ実施ス』
  137. ^ #高松宮日記7巻496頁『六月二十日(火)曇、雨 〇八三〇軍令部。戦況詳カナラズ。好マシカラザルモナルハ明カナリ。殊ニ「サイパン」ノ問題ハ致命的ノコトナリ。夜、総長、次長、作戦課方針打合。二二〇〇皈。ニュース映画間ニ合ハズ、御所オ誘ナシ。』
  138. ^ #回想の提督64頁
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  141. ^ #猛き艨艟199頁
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     海軍兵学校第七十三期 英霊譜(艦船)昭和19年 あ号作戦[1]
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]