マリアナ沖海戦

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マリアナ沖海戦
Japanese aircraft carrier Zuikaku and two destroyers under attack.jpg
アメリカ軍の攻撃を受ける空母瑞鶴と駆逐艦2隻
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1944年6月19日~20日
場所マリアナ諸島周辺海域
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
小沢治三郎
栗田健男
角田覚治
レイモンド・スプルーアンス
マーク・ミッチャー
戦力
航空母艦9
戦艦5
重巡洋艦11
軽巡洋艦2
駆逐艦20
航空母艦15
戦艦7
重巡洋艦8
軽巡洋艦12
駆逐艦67
損害
航空母艦3沈没
油槽船2沈没
航空母艦1中破
航空母艦3小破
戦艦1小破
重巡洋艦1小破
艦載機378機
航空母艦2小破
戦艦2小破
重巡洋艦2小破
艦載機123機
マリアナ・パラオ諸島の戦い

マリアナ沖海戦(マリアナおきかいせん)は、太平洋戦争においてあ号作戦として1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われた日本海軍アメリカ海軍空母機動部隊の海戦。アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦(Battle of the Philippine Sea)である。アメリカ側の作戦名は、海上作戦を含むサイパン島攻略作戦全体についてフォレージャー作戦(「掠奪者作戦」の意味)と命名されていた。

マリアナ諸島に侵攻するアメリカ軍を日本軍が迎撃した本作戦では、日本はアウトレンジ戦法による航空作戦を行うが、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄されるほどの一方的な敗北となり、日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカの手に陥ちた。

あ号作戦[編集]

立案[編集]

日本軍は太平洋戦争の短期決着に失敗し、戦力の多くを失った。そのため、1943年中期から日本海軍は戦力を極力温存して、基地航空部隊、空母航空部隊の充実を図り、アメリカ軍侵攻正面をマーシャル方面に想定し、総力をもってアメリカ空母機動部隊を迎撃、撃滅を目的とした「Z号作戦」を計画する。しかし、「ろ号作戦」で予定の戦力が投入され、計画を変更せざるを得なくなり、決戦想定正面をマリアナ諸島もしくはカロリン諸島に変更して「新Z号作戦」となった。

1943年9月30日、絶対国防圏の設定を発令[1]。アメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、11月にはギルバート諸島タラワ環礁マキン環礁を占領、1944年2月にはトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻し占領した。さらに3月にはパラオ大空襲で日本の在泊艦艇および基地施設に多大な損害を与え、4月にはニューギニア島ホーランジア、アイタペに上陸した。この状況を受けて、アメリカ軍による決戦想定方面への侵攻は5月から6月にを行うものと判断した。

1944年3月31日パラオ大空襲の際、海軍乙事件で「あ号作戦」の元になる「新Z号作戦」計画書など最重要軍事機密がアメリカ軍の手に渡った。アメリカ軍は把握した日本海軍の兵力、航空機や艦船の数、補給能力等の重要情報をもとに約1ヶ月をかけて用意周到な作戦を練り上げた。日本海軍は「新Z号作戦」計画書がアメリカ軍に渡った事を知らなかったため、作戦名を「あ号作戦」と改めるなど多少の作戦変更しか行っていない。あ号作戦の「あ」はアメリカの頭文字に由来する。作戦は第一想定正面であるパラオ近海において防衛を行うこととした。そのためにグアムサイパンテニアンの兵力を強化して敵をパラオ方面へ誘い込み、空母機動部隊である第一機動艦隊第一航空艦隊を主力とする基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。

あ号作戦の立案は、連合艦隊司令部、作戦参謀長井純隆、航空参謀淵田美津雄、潜水艦参謀渋谷龍穉、情報参謀中島親孝が中心となって軍令部と連絡を取って行った。4月14日、15日、21日、22日に軍令部との打ち合わせがあった。4月24日、連合艦隊で参謀長以下で連合艦隊作戦計画を作成した[2]。1944年5月3日、大本営は「あ」号作戦に関する総長指示を発令。同日連合艦隊司令長官に豊田副武大将が親補され、連合艦隊は「あ」号作戦命令を発令した[3]

問題は、アメリカの侵攻正面であり決戦海面としては小笠原諸島、マリアナ諸島、西カロリンを考えていたが、敵情判断、また現状のタンカー保有量不足から近場が望ましく「西カロリン」を選定した[4]。あ号作戦の計画方針では決戦方面にマリアナも含まれていたが、ほぼ考慮はされていなかった。軍令部第一部長中澤佑によれば「マリアナにいずれは来るであろうが、六月に来るとは思っていなかった。これに対し西カロリン、二ューギ二アには逐次連携しながら来攻する、マリアナは比島作戦が大体目鼻がついてからと考えていた。六艦隊司令部も敵がマリアナに来ると判断しておれば、サイパンに進出しなかったと思う」という。軍令部作戦課長山本親雄によれば「マリアナには全然来ないとは思わなかったが、あれほど早く来るとは考えていなかった。マリアナには陸軍兵力が入り、相当自信があるのでまず大丈夫と考えていた」という。軍令部航空部員源田実によれば「あ号作戦計画においては、敵のマリアナ攻略はほとんど考えていない。敵の来攻方向は比島を目標とする西部ニューギニアと西カロリンであり、マッカーサーとニミッツの兵力が同時に別の方向に来攻するとは考えず、ニミッツの艦隊はマッカーサーの攻略部隊に応じるであろうと判断していた」という[5]。陸軍はマリアナにおける防衛に強い自信をもって回答しており、この方面の作戦計画をした主務参謀晴気誠は海軍に対して、たとえ海軍航空が無くなっても第四十三師団が到着するから敵を絶対に叩き出せるという説明を行った[6]

また、連合艦隊はマリアナに来攻した場合の処置に関して、基地航空部隊は「第三集中配備」としてこの処置を定めているが、その他では作戦方針に示しているだけで、水上部隊の作戦では全然触れられていない[7]。連合艦隊作戦長井純隆参謀は「あ号作戦計画を作成した当時タンカー問題は未解決で、敵マリアナ来攻の場合わが機動部隊は同方面に進出不可能であった。その後発令直前にタンカー問題が解決し作戦命令を訂正すべきであった。基地航空部隊作戦担当参謀は訂正したが他は訂正することなくして終わった」という。連合艦隊参謀長草鹿龍之介は「敵がサイパンに来攻した場合は、同地をしっかり確保している間にゆっくり準備を整え作戦できるように考えていた」という。連合艦隊先任高田利種参謀は「命令の変更を出したかどうか記憶していないが訂正を必要としなかったのではないか。実際の場合は、タンカーの解決で機動部隊の作戦限度線(マリアナ列島付近)を定めてあり、これで機動部隊の作戦を適宜指導するつもりであった」という[8]

一方、軍令部五課(米大陸情報課)部員実松譲によれば「当時五課の判断は通信情報だけでなく諸種の状況から判断しておリ、特に参考になったのは捕虜訊問で、それによって敵の作戦の習性を調べていた。敵機の来襲状況と月日の関係を図表にしてみると、おおむねその準備状況が判明した。またアメリカ軍のやり方と記念日との関速、主将の性格特にその発表のやり方(マッカーサーは政治的、ニミッツは正直)等を参考としている。昭和19年2月23日のマリアナ空襲時にアメリカはリンカーンデーのプレゼントと発表した、これを聞き、直感的に次はマリアナではないかと考えた。四月に入り高高度偵察に来たのでこの考え方は強くなった。更に五月に入ると来襲回数も増し、低高度の偵察があり(アメリカ軍はこの後潜水艦によって日本軍の陣地を調べ、最後に潜水艦で海上偵察を使うのが常である)その後通商破壊に関係のない潜水艦の出現によりマリアナ来攻を確信するに至った。 当時軍令部の作戦課は通信情報を重視して五課の判断をほとんど聞き入れなかった」という。連合艦隊の中島親孝情報参謀によれば「マーシャル来攻時の通信状況によってニミッツの攻略に対する実力を知り、古賀長官時代の連合艦隊司令部はアメリカ軍が二本槍で侵攻して来ると考えていた。しかし、四月以後の新連合艦隊司令部は中央の判断に基づいており、自分とは状況判断が異なっていた。通信上はニミッツの線が非常に高まり、北方に偽電があるころビアクに来攻、通信上はニミッツと全然関連がないので、攻勢はパラオではなくカロリンの線より北側との判断がはっきりした」という。しかし、大本営では五月下旬の五課の判断以外はマリアナを考えておらず、連合艦隊司令部でも中島が五月末のビアク来攻でマリアナと判断した以外は決戦方面は南寄りと判断していた[9]

敵艦隊導入方策は、基地航空部隊を秘匿・集中して敵に戦力を下算させること、特令で一部兵力をウルシー・パラオに進出待機させ誘出すること、機動部隊主力のフィリピン南からの進出を秘匿すること、以上を計画していた[10]

攻撃計画は、機動部隊は敵機動部隊へ先制攻撃のちアウトレンジ戦法で反復攻撃、戦闘爆撃機で空母を封殺し、次に本攻撃に移る。黎明を狙ったのち、昼間にアウトレンジ戦法だけで攻撃を行う。基地航空部隊には索敵に期待しており、哨戒圏を利用して接敵し、翼側から攻撃、協力困難なら縦深配備とする[11]。航空参謀田中正臣は「小澤長官が強調された戦法で400浬~450浬から発艦し、全速力で敵方に突き込み飛行機隊を収容して反復攻撃を行う方法である。この遠距離からの攻撃が可能であるかどうか検討され、新機種(彗星、天山)ならば可能であるとの結論になった。この戦法は当然の策であり、この戦法でなければ勝算はないものと考えていた」という[12]

また、停泊した米機動部隊に特四式内火艇で奇襲する竜巻作戦をあ号作戦で実行する案もあり、4月26日本作戦について中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将は情勢に適応しないとの理由で反対を表明しているが、連合艦隊司令部は既定の計画に従って5月3日「あ」号作戦命令の一部として発令した。しかし、特四式内火艇にエンジンの轟音、低速、キャタピラが小石で破損するなど性能上の欠陥があることが分かり、5月12日本作戦の実施は不可能と判断し、中止された[13]

準備[編集]

5月16日、リンガ泊地にあった小沢治三郎中将麾下の第一機動艦隊は、予定戦場に近いタウィタウィ泊地へ進出した。タウィタウィで訓練の仕上げを行う計画であったが、日本側の行動を予期していたアメリカ潜水艦多数が待ち伏せていたため、泊地外での空母の訓練行動は危険でできなくなってしまった。タウイタウイ泊地は狭いうえ、赤道に近く無風状態であるため、泊地内では航空機の発着訓練は困難だった。対潜掃討のために駆逐艦が出撃したが、逆に4隻(6月6日水無月、6月7日早波、6月8日風雲、6月9日谷風)が撃沈された。このため十分な洋上訓練が行えず、航空機搭乗員の練度不足はあ号作戦に影響を及ぼした。泊地周辺に展開したアメリカ潜水艦は日本艦隊にとって貴重な給油艦をも襲い、そのうちの2隻を撃沈した[14]

5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」開始を発令した。同日、小沢治三郎中将は旗艦「大鳳」で訓辞を行った。

  1. 今次の艦隊決戦に当たっては、我が方の損害を省みず、戦闘を続行する。
  2. 大局上必要と認めた時は、一部の部隊の犠牲としこれを死地に投じても、作戦を強行する。
  3. 旗艦の事故、その他通信連絡思わしからざるときは、各級司令官は宜しく独断専行すべきである。
  4. もし、今次の決戦でその目的を達成出来なければ、たとえ水上艦艇が残ったにしても、その存在の意義はない。

ただし、三番目の訓示に関して、艦載機搭乗員の中には、その様な訓辞は聞いてもいないし、知りもしないと証言している者もいる[15]

日本海軍は、アメリカ艦隊の行動を探るため、多数の潜水艦をアドミラルティ諸島北方の「ナ散開線」などアメリカ艦隊の予想進路上に、散開線配備した。ところが、これらの日本潜水艦は、同様の任務に就いていたアメリカ潜水艦と異なって戦果を上げることができず、逆にアメリカの対潜掃討艦艇に発見されて呂一〇〇型潜水艦多数などを撃沈されてしまった[16]

5月27日、アメリカ陸軍主体の連合軍は西部ニューギニア沖合のビアク島へ上陸を開始した。本来、この方面は絶対国防圏からも外れ、作戦命令方針にも一致しなかったが、連合艦隊が独自の判断で、この方面の迎撃に決戦兵力の第三攻撃集団を投入してしまった[17]。マリアナ方面に備えていた第一航空艦隊のうちヤップ所在の約90機がビアク支援に転用され、29日に連合艦隊は大本営に対して渾作戦が提案され承認後、さらに連合艦隊はマリアナ方面に配備されていた第二攻撃集団をハルマヘラ島方面に移動させた[18]

連合艦隊の多田篤次航空参謀は「当時連合艦隊司令部では豪北についてはほとんど考えておらず、また「あ」号作戦自体も自主的にわが希望する決戦海面に導入する方策が欠けていた。私は敵がビアクに来た時第一機動艦隊をもってこれに対応すべきであると主張し、先任参謀と激論した。その理由は1.第一機動艦隊はタウイタウイで訓練もできず海上機動戦の練度不足である。2.ビアクに対応することにより敵を刺激して誘致の目的にかなう、すなわち従来の敵のやり方からみて有力部隊をもって対応しなければ深くわが希望海面に入って来ないということである」と語っている。連合艦隊情報参謀中島親孝によれば「豊田艦隊司令部では豪北方面に対する関心がほとんどなく、ビアクに対しても認識は十分とはいえなかった。ところが現実にビアク島に上陸され、だれかが急に騒ぎ出して「ビアクには飛行場適地が多く大基地群ができる」ということで、一部航空兵力を増強するに至ったものであろう。私の印象では一航艦兵力の投入も、渾作戦も共にビアク確保が主目的で、これは当時何回も聞いており「ビアクを取られたら大変だ」ということである」という[19]

もともと海軍はトラック、ビアク、メレオンを絶対防衛線から外すことを事前に決め、陸軍にも伝えていた[20]。しかし、決戦兵力を動かした連合艦隊が渾作戦を要求したことで軍令部もそれを承認し、陸軍の許諾も得て実施した。軍令部第一部長中沢佑によれば「渾作戦の目的はビアク島確保が第一であり、敵機動部隊を誘致し決戦を生起させるチャンスもあると考えていたが、その後の経過は次第に後者の方を重視する傾向が強くなってきた」という[21]

決戦方面は依然マリアナの公算もあったが、従来の「あ」号作戦計画にとらわれたこと及び渾作戦の進展に伴い同方面への関心が強くなったことから、大勢はニミッツ攻勢がニューギニア作戦に協力するか、またはマッカーサー作戦と策応して西カロリン攻略があるという見方が強くなった[22]。しかし、6月11日から米機動部隊である第58任務部隊がサイパン・テニアン・グアムのマリアナ方面各島に対して連日空襲したことを受け、連合艦隊は敵にマリアナ攻略の企図があるという見方を強くする。大本営は機動空襲のみで攻略企図はないと考えていたが、連合艦隊は11日に第二攻撃集団をヤップに戻し、13日に決戦用意発令を行い、渾作戦を中止した[23]。連合艦隊の中島親孝情報参謀は「ビアク来攻時、マッカーサーの部隊とニミッツの部隊と通信上全然関連がないので、近くニミッツによる攻略作戦がカロリン諸島より北方に行われるであろうと判断していた。その後一時北方の通信状況が活発となり小笠原諸島など北寄りに来攻するのではないかとの判断もあったが、六月十日ごろにはこの兆候もなくなりマリアナとの判断になった。そして十一日米機動部隊の来襲により、いよいよマリアナ攻略に来たぞと判断した。当初は司令部の作戦担当者は必ずしも私の判断を全幅信用していなかったため渾作戦の処置から見れば矛盾はあるが、十一日には私の判断を司令部は信頼して長井作戦参謀が決戦用意の発令について軍令部と何回も電話連絡していたのを記憶している」という[24]。軍令部課長山本親雄によれば「軍令部は単なる機動空襲との判断が強く、燃料の関係から慎重に対処するべきであると考えていた。十三日連合艦隊司令部が決戦用意を発令した時も軍令部はなお懐疑的であった」という[25]。決戦用意発令は連合艦隊司令部の強行であり、軍令部は燃料の問題から慎重で賛成ではなかった[26]

発動[編集]

6月13日、サイパン現地から明後日中に敵上陸開始の見込みとの報告が届き、豊田長官は「あ号作戦決戦用意」を発令。第一機動艦隊はすでにギマラス泊地への前進を決めていたが、渾作戦も中止となって渾作戦参加部隊も機動艦隊と合流するよう指示された。なお、ビアク守備隊は孤立しつつも勇戦して抵抗を続け、アメリカ上陸軍がビアク島の諸飛行場を制圧して陸軍航空戦力を展開できるようになったのは本海戦の終了後であった。

6月15日、アメリカ軍はサイパン島へ上陸を開始。同日、豊田長官もあ号作戦発動を命令した。第一機動艦隊はギマラス泊地を出撃し、翌16日に渾作戦部隊と合流した。だが、艦隊に協力すべき基地航空隊は、ビアク救援作戦に振り回されて消耗しており、すでにマリアナ所在の戦力はほぼ壊滅状態になっていた。 第一航空艦隊はビアク・ハルマヘラ方面に転進した部隊をヤップやグアムへ戻したものの、転進先での戦闘のほか、搭乗員のマラリアデング熱感染、頻繁な移動に伴う事故などで戦力は大きく低下していた。

アメリカ艦隊は、6月15日のうちには日本艦隊の出撃を知っていた。米潜水艦フライングフィッシュサンベルナルディノ海峡を通過する日本艦隊を発見して報告し、同じくシーホースも16日にスリガオ海峡沖を北上する日本艦隊を追尾していた[27]。スプルーアンス提督は、日本艦隊への攻撃を決意した。17日、スプルーアンスは、ミッチャーに対し、第58任務部隊は敵空母の撃破を第一の目標とするよう指示した[28]

機動部隊先任参謀大前敏一は小澤長官から距離を500浬にもっていくようにいわれたという[29]

戦闘の経過[編集]

6月18日まで[編集]

6月18日、小沢機動部隊は40機以上にのぼる索敵機を発進させ、三段索敵を行った[* 1][30]。昼過ぎ、前衛艦隊索敵機が3群で編成された米機動部隊を発見[31]。前衛部隊の軽空母から攻撃隊が発進した[32]。ところが夜間攻撃を危惧した機動部隊司令部からの命令で攻撃中止となり[31]、攻撃隊は爆弾を捨てて着艦態勢に入った[33]。技術未熟だった攻撃隊は満足に着艦すら出来ず、数機が事故で失われた[32]。旗艦愛宕の艦橋は重苦しい空気に包まれた[33]

日本の基地航空隊の反撃としては15日、トラックから天山11機、ヤップから第一次攻撃隊零戦9機、彗星3機。第二次攻撃隊として零戦5機、銀河10機が出撃するが、戦果なし。15機未帰還。16日、グアムから天山6機出撃するが、戦果なし。全機帰還。17日、ヤップから零戦31機、彗星19機が出撃し、米護衛空母ファンショー・ベイを小破・揚陸艦1隻小破という戦果をあげるも、24機喪失。22機がグアムに着陸し、残4機は不明。トラックから天山5機出撃し、揚陸艦1隻を撃沈するも1機未帰還。18日、ヤップから59機が出撃しタンカー2隻を少破させるも22機を失う。残り37機はグアムに着陸。19日グアムから爆戦3機出撃。

アメリカ艦隊は、日本の機動部隊の所在を見失った状態で警戒していた。スプルーアンスは日本艦隊が攻略船団だけを狙った一撃離脱を試みることをおそれ、東方への航行を続けた[34]

6月19日[編集]

戦闘機雲を眺める第58任務部隊の兵士
空母バンカーヒルに急降下爆撃を行う日本の爆撃機(1944年6月19日)

19日朝、依然として日本艦隊を発見できないアメリカ機動部隊は、グアム島の日本軍基地航空隊の殲滅を図った。グアムには前日までにヤップから移動してきた日本の基地航空部隊が展開していた。午前8時30分ころからの激しい空中戦の末、グアム上空の制空権はアメリカ軍が掌握した。これは、その後、日本機動部隊のグアム基地を利用した攻撃計画を狂わせる効果を生んだ[34]

一方、小沢機動部隊は早朝の3時30分から頻繁に索敵機を発進し周囲の捜索を開始した。6時半頃、サイパン島西部にアメリカ機動部隊を発見した。

7時25分に空母千歳千代田瑞鳳から前衛の部隊として64機(零戦14機、爆装した零戦43機、天山7機)と、7時45分に甲部隊(空母大鳳翔鶴瑞鶴)から128機(零戦48機、彗星53機、天山29機)の第一次、第二次攻撃隊を発進させた。瑞鳳はレーダーで接近する飛行機群をとらえた。7時40分、甲部隊の攻撃隊は味方の前衛部隊上空を通過。この時、日本軍攻撃隊80機を米軍機と判断した前衛部隊の誤射で被害を受け、3機が撃墜された[* 2][35]

双方の攻撃隊は2時間から3時間をかけて米第58任務部隊に到達していった。第一次攻撃隊は9時35分にアメリカ艦隊への攻撃を開始したが、レーダーで日本海軍攻撃隊の接近を既に探知しており、万全の防空体勢を敷いていたアメリカ海軍に次々と撃墜され、全体の2/3にあたる41機(零戦8機、零戦爆戦31機、天山2機)を失った。第一次攻撃隊の戦果は戦艦と重巡をそれぞれ1隻ずつ小破させたのみであった。10時45分にアメリカ艦隊への攻撃を開始した第二次攻撃隊も、戦艦サウスダコタ、空母バンカーヒル重巡洋艦ミネアポリスを小破させるに留まり、全体の3/4以上にあたる99機(零戦33機、彗星43機、天山23機)もの航空機を失うという大損害を被った。

8時10分、大鳳が米潜水艦アルバコアの雷撃に遭い、発射された6本の魚雷のうち1本が命中した。大鳳の損傷そのものは軽微(前部エレベーターの陥没)であったため、当初は戦闘続行可能な状態であった。

9時15分、乙部隊(空母隼鷹飛鷹龍鳳)から第二波の第三次攻撃隊49機(零戦17機、零戦爆戦25機、天山7機)が発進するが、別働隊と誘導機が進路(目標)変更の受信を逃した上、本隊も米第58任務部隊を発見できずに引き返し、7機(零戦1機、零戦爆戦5機、天山1機)が未帰還となった。10時15分には第四次攻撃隊50機(零戦20機、九九式艦爆27機、天山3機)が発進した[36]。第四次攻撃隊は米艦隊を発見できなかった。攻撃後にグアム島ロタ島経由でヤップ島へ向かうように指示されていたため、グアム島に向かったところ、付近で戦闘機の迎撃を受け26機(零戦14機、九九式艦爆9機、天山3機)が撃墜された[37]。阿部大尉の彗星隊はグアム島で燃料補給を受け、翌日隼鷹へ帰艦するよう命じられている[38]。10時45分、彗星9機・零戦6機が発進したが、発進直後に彗星2機・零戦1機が故障で引き返し、さらに索敵中に彗星1機・零戦3機が行方不明となった[39]。この隊は偶然アメリカ軍機動部隊を発見したが、ヘルキャットの迎撃で落ち着いて狙うどころではなく、阿部は1時間ほどヘルキャットに追跡されてロタ島へ不時着した[40]

大鳳の修理作業の後、10時28分に大鳳、翔鶴、瑞鶴から第五次攻撃隊18機(零戦4機、零戦爆戦10機、天山4機)が発進したものの、米第58任務部隊を発見できず、ほとんどが引き返し、一部は不時着、9機(零戦爆戦8機、天山1機)が未帰還となった。10時30分、乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)から第六次攻撃隊15機(零戦6機、彗星9機)が発進し、本隊8機が13時40分頃に米艦隊を発見、空母を目標に攻撃した。しかし、全く戦果を上げられず、9機(零戦4機、彗星5機)が撃墜された。第六次攻撃隊の彗星隊と第四次攻撃隊の九九艦爆隊の共同攻撃を企図したという証言はあるが、連絡や指示された証拠はない。

11時20分には、日本機動部隊に接近した米潜水艦カヴァラが空母翔鶴へ向け4本の魚雷を命中させた。翔鶴も致命的な損傷を受け、14時10分に沈没した。14時32分には大鳳が突如大爆発を起こし、16時28分に沈没した。この大爆発の原因は魚雷のダメージにより気化した航空燃料が艦内に漏れており、艦載機の着艦の衝撃で気化燃料に引火したものとされる。

17時10分、日本機動部隊は虎の子の正規空母を2隻も失い、送り出した攻撃隊の大半が未帰還となったことから、小沢中将は立て直しのために北上を命じた。日本機動部隊はそれまでに6次にわたる攻撃隊を送ったが、その全てが部隊の大半を失う致命的な損害を喫した。一方、米艦隊の艦艇は被害らしい被害を受けずに日本側攻撃隊の大半を撃墜し、自軍は空戦で29機の戦闘機を損失したに留まった。一連の動きとは別に、18時07分、第五一潜水隊所属「呂115」が爆雷攻撃に耐えつつにワスプ型米空母[41]に対し全搭載魚雷4発を発射したが[42]、命中を確認できなかった。

6月20日[編集]

対空砲火によって撃墜された日本軍の機体

小沢艦隊は20日の夜明け前から活動を再開し、4時40分に索敵機を発進させるが、米機動部隊を発見することはできなかった。12時、小沢中将は旗艦を羽黒から瑞鶴に移した。

第58任務部隊は15時40分にようやく日本機動部隊を発見し、16時過ぎになってその戦力を確認した。マーク・ミッチャー中将は日本機動部隊までの距離が米艦載機の航続可能範囲の限界付近であることや、帰還が夜になってしまうことを覚悟の上で216機(F6F戦闘機85機、SB2C急降下爆撃機51機、SBD急降下爆撃機26機、TBF雷撃機54機)の攻撃隊を出撃させた。17時30分、米第58任務部隊から発進した攻撃隊が日本艦隊上空に来襲した。零戦が迎撃に向かったが23機が撃墜され、空母飛鷹が沈没、他の空母瑞鶴、隼鷹千代田も損傷してしまった。給油艦2隻も航行不能となり、自沈処分された。米攻撃隊は20機が撃墜され、ほかに80機が燃料切れの不時着や着艦失敗で失われた。

空襲を受ける前の16時15分には日本軍側も米艦隊を発見しており、17時25分に甲部隊唯一の空母瑞鶴から7機の雷撃機を発進させ、前衛の栗田中将に夜戦のため東進を命じた。日本側の薄暮攻撃隊は3機未帰還・4機不時着で全損に終わった。

上記の空襲を受けた後、小沢中将は残存空母を率いて夜戦のため東進を続けたが、小型艦艇では燃料不足が懸念されはじめた[43]。19時40分頃、連合艦隊長官豊田副武大将から離脱が命じられ、21日、小沢中将は「あ号作戦」を中止し撤退した。前衛艦隊は米機動部隊と水上戦闘を行うべく24ノットで東進していたが[44]、突入命令中止を受けて北西に変針した[45]

アメリカ艦隊は、20日真夜中から西方に針路を変えて追撃を試みたが、21日午後9時20分に中止した。サイパンへの帰路、脱出・不時着した友軍搭乗員59人を収容した。

影響[編集]

マリアナ沖海戦の敗北、それに伴うあ号作戦の失敗は、日本の戦争継続に大きな影響を及ぼした。全力をあげての決戦で、機動部隊は3隻の空母(内2隻は正規)、搭載機、搭乗員の多くを失い再起不能となった。基地航空部隊も壊滅して作戦継続不能の判断のもと、被害防止対策、特攻使用などの打開策が必要になり、当分反撃戦力を有しない状況となった。マリアナビアクの失陥は連合軍にフィリピン、沖縄進攻の重要拠点を与える結果になった。アメリカのマリアナ基地獲得は大型機による日本本土空襲を可能にし、潜水艦も活発に前進できるようになり、フィリピン進攻に必要な要地攻略が容易になった。さらにあ号作戦の失敗で東条英機内閣の総辞職が行われた[46]

勝利したアメリカ軍側では、スプルーアンスの作戦指揮について、消極的であるとの批判がされた。6月18日に攻勢に出なかったことや、20日になるまで西方への進撃を行わなかったことなどが指摘され、航空戦の専門家でないスプルーアンスが指揮官だった点も問題視された[47]。 これに対し戦史家のサミュエル・モリソンはスプルーアンスの戦術指揮は正しかったと主張する。サイパン攻略の支援という任務を負っていたことから、日本の航空部隊により大きな打撃を与えることは困難であった。また、西進していれば、何隻かの艦艇が失われる結果になっただろうと反論している[47]。 モリソンによれば、どちらかといえば19日に夜間索敵が行われず、日本艦隊発見が遅れたことを問題視する。19日夜の段階で日本艦隊を発見できれば、翌20日に早朝から攻撃が可能であったはずだと指摘する。ただ、ミッチャーが夜間捜索をしなかったのは、搭乗員の疲労が激しかったことへの配慮に基づくものであったと擁護する[47]

勝敗の要因[編集]

小沢治三郎司令部[編集]

指揮官の能力[編集]

本作戦の敗因の一つに機動部隊の長官である小沢治三郎中将の能力不足、気運などに批判がある。 機動部隊の田中正臣航空参謀によれば、小沢中将には飛行機に対する知識が絶対的に不足しており、艦長が持っている程度の知識であり、訓練や性能の意味もよく知らなかったうえ、それを補佐すべき幕僚には小沢中将に意見できるような人物がいなかった[48]。また、小沢中将は本作戦の際に旗艦に軍楽隊を乗せ、どう間違っても勝ち戦だと確信している気運があったという[49]。二航戦の奥宮正武航空参謀は、同海戦の敗北後に小沢司令部の高級幕僚から「勝敗は時の運」という言葉を聞き、それが当時の小沢司令部の空気だったという[50]。また、「マリアナ沖海戦での小澤司令長官の戦法(アウトレンジ戦法)は良かったが、飛行機隊の実力がこれに伴わなかったという説があるが、私はこれに賛成出来ない。第一線部隊の指揮官の最大の責務は戦闘に勝つか、払った犠牲にふさわしい戦果を挙げることであるからである」と述べている[51]。 

アウトレンジ戦法[編集]

本作戦で小沢長官が採用したアウトレンジ戦法は、成果をあげずに多大な犠牲を払うこととなり、連合軍からは「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される結果になった。

しかし、この戦法に対しては反対意見もあった。航空本部部員角田求士は「海戦後ある搭乗員から出撃前の打ち合わせ会で「現在の技量では遠距離攻撃は無理だと司令部と議論をした」という話を聞いた」という。軍令部部員源田実は「自分はアウトレンジには反対でリンガに出張した時、第一機動部隊司令部に忠告してきた。その理由は、航空攻撃の時発進後適当なウォーミングアップが必要で、発進後三十分ないし一時間が適当である。これより早くても遅くても不適当である。従って発進距離は200浬、多くとも250浬以内が適当である」という。第二航空戦隊参謀奥宮正武は「大鳳の打ち合わせでアウトレンジに対する反対意見を述べた。それは当時の練度では自信がなかったからである。ただし意見を述べただけで議論はしなかった」という[52]。奥宮参謀は敢えて議論をしなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている[53]

一方で、機動部隊司令部は反対意見の存在を否定している。小沢長官は戦後、防衛庁戦史室でのインタビューに「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた。」と語っている[54]。先任参謀大前敏一も反対意見を聞いたことがないという[55]

しかし、実際はアウトレンジ戦法を否定する結果になった。 まず、太平洋の真っ只中において作戦する母艦から発艦した艦載機が、敵艦隊攻撃後、再び母艦に戻ってくることは、敵を攻撃する以上に難しかった。特に単座機である爆装零戦は、搭乗員が攻撃や爆撃だけでは無く航法をも担当する為、負担が大きく、それ故に独力で戻ってくることは難しかった。そのため、アメリカ側に撃墜されただけでなく、洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰投できなかった母艦機も相当数あったと考えられる[56]。 長距離飛行により生ずる時間経過によって、索敵機が発見した目標位置の誤差が拡大し、未錬成の搭乗員では目標を発見し難い恐れがあった。これを避ける為に、二航戦の奥宮航空参謀は、攻撃隊の前方に前路索敵(誘導)機を先行させた。この誘導機は攻撃終了後、再び攻撃隊を母艦まで誘導することも期待されたが、結果的には、それらの効果は認められず、多数の未帰還機を出すのみに終わった。[57]。 母艦の索敵機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に乙部隊を中心とした100機近い航空機を差し向けてしまった。これらの攻撃隊は、米艦隊に会敵できず引き返したが、それでも少なからず未帰還機を生じた。また、一部はロタ島等にある日本軍飛行場に着陸する直前に攻撃されたりして損害を出した。 以上の事も、艦載機が損耗する一因となった。

第一機動艦隊に所属する母艦艦載機は、タウイタウイ入泊後の各種訓練がほぼ実施できなかった。編成の早かった一航戦艦載の第601海軍航空隊搭乗員は、リンガ泊地・シンガポール付近で約一ヶ月程の訓練を行ったが、タウイタウイ入泊後は2回しか訓練出来無かった。その原因としては、タウイタウイ近辺に、全艦載機を挙げて訓練する飛行場がなかった事、そもそも泊地自体が第一機動艦隊が全艦入泊した時点で一杯になり、泊地内で空母が母艦機の訓練を行なう事が出来無いほど狭かった事、タウイタウイ島周辺に米潜水艦が多数出没した為、泊地から出て訓練ができなかった事が挙げられる。[* 3]

編成が遅れた二航戦の第652海軍航空隊、三航戦の第653海軍航空隊は、内地で満足に訓練が出来無いままタウイタウイに直行した為、僅かに回航中に1回、入泊後5月18日と同31日の2回しか訓練を行えなかった。その為、二航戦の奥宮正武航空参謀は「タウイタウイでは”如何に練度を上げるかではなく””如何にしてこれ以上、練度を下げないようにするか”に腐心した」という[58]。363空飛行長の進藤三郎は「その頃の搭乗員の練度は何とか着艦ができる程度、洋上航法や空戦はやっとこさ というくらいで、とても『アウトレンジ戦法』どころではなかった」という[59]

艦攻等は攻撃が訓練の主体なので列機は指揮官機の後ろについて行く考えが強く、指揮官機が墜とされると、もうどちらへ行ってよいのかわからないものが多かった。練度は3分の2が通常の任務遂行に支障なく、残りの3分の1も平易な状況下で作戦可能であったが、特に練度が高くて距離的にも心配のないのは全部のうち二ないし三組だけであった[60]。652空飛行隊長岩見丈三によれば、分隊長以上の指揮官で訓練を補おうとしていたようだが、実際はうまくいかず、戦術行動などは机上訓練であったという。田中航空参謀によれば、タウイタウイでやるはずだった必要なウォーミングアップができずに戦闘指向が上がらなかったことが最大の原因であるという。奥宮二航戦参謀によれば、練度が落ちて索敵に自信がなく、発見しても命中できるかどうか疑問であったという[61]

戦力の格差[編集]

航空戦力[編集]

航空戦力に決定的な差があり、日本側498機に対しアメリカ側901機、しかも戦闘機だけでも445機もの差があった。

母艦部隊は1943年末から1944年初頭までに南東作戦で消耗しており、訓練もほぼ実施できなかったので本作戦を行うには練度不足であった[62]。一方、母艦部隊の練度自体は、海軍が新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成にもかなりの努力を払ったので、本海戦に参加した全母艦搭乗員の平均飛行時間は、開戦時~南太平洋海戦までと比べてもあまり遜色ないレベルであったという指摘もある[63]

もう一つの航空戦力である基地航空部隊の第一航空艦隊は作戦前の消耗戦でその多くを失い、練度も芳しくなかった。 一航艦は将来の主戦力として期待されて錬成が続けられていたものだが、練成途中にクェゼリン、ルオットの玉砕が起こり、1944年2月15日に連合艦隊への編入が決められた[64]。さらにトラック被空襲によって一航艦の実戦投入が早まった。一航艦整備参謀山田武中佐によれば「トラック被空襲により予定外の五三二空、一二一空等の実動全力のマリアナ方面投入が命ぜられたが、それまでの内地における訓練の実体は各隊訓練のみで、航空艦隊設立の主旨である大兵力の機動集中は一部の部隊(二六一空、七六一空)のみで実施されていた状況である。全般の練度については、一航艦のマリアナ展開が時期過早と考えられ、五二一空、一二一空に至ってはマリアナに出ていってから訓練する方針であり、自分は訓練状況をよく知り過ぎていた関係からとても自信を持ち得なかった」という[65]

第一航空艦隊は2月23日マリアナ進出時にマリアナ諸島空襲を受けた。淵田美津雄参謀は、戦闘機が不十分なこと、進出直後で攻撃に成算がないこと、消耗を避けることを理由に飛行機の避退を一航艦長官角田覚治に進言したが、角田長官は見敵必戦で迎撃を実施し、最精鋭でもあるほぼ全力の90機を失った[66]。その後も増援された戦力の消耗を続けた。

直前の渾作戦によって攻撃集団(一航艦)の集中が遅れ、基地航空部隊は逐次消耗し、決戦に策応できなかった[67]。5月27日、米陸軍主体の連合軍はビアク島へ上陸を開始、この方面は絶対国防圏からも外れ、作戦命令方針にも一致しなかったが、連合艦隊が独自の判断で決戦兵力の第三攻撃集団を投入した[68]。29日、渾作戦が実施され、決戦兵力の第二攻撃集団もハルマヘラ島方面に移動させた[69]。5月11日マリアナ空襲を受け、連合艦隊は第二攻撃集団をヤップ島に戻したものの、第一攻撃集団はパラオ空襲の被害が大きく、第二攻撃集団ではデング病が蔓延、第三攻撃集団はすでに消耗し、第一航空艦隊はすでに作戦協力が不可能な状態にあった[70]。一連の戦いで稼動機を全て失った第732海軍航空隊戦闘詳報で「小兵力を駆って徒に無効なる攻撃を続け、兵力を損耗し尽くすに及んで已むに至るが如き作戦指導は、適切とは称し難し。耐久的戦勢に於いては、見敵必戦策なき無理押しを反覆せず、兵を養い機を見て敵の虚に乗じ、戦果を発揚する如くすべきなり」と評した[71]。この様な事情から第一航空艦隊で作戦に参加できたのは100機程度であり、邀撃戦を少数かつ分散した状況で実施し、期待されていたような総合威力を発揮することはできなかった。

迎撃態勢[編集]

米機動部隊に艦載されていた戦闘機はF6Fであり、日本の零戦に優位はなく、陸上攻撃機も性能不足で、空襲への迎撃態勢も米軍がレーダーや無線電話で戦闘機を有効活用し、対空射撃にVT信管も使用していたが、日本では進歩していなかった。これは潜水艦など他にも言えることで、全般的に兵器進歩、要員練度で日本軍はアメリカ軍に劣っていた[72]

アメリカ海軍機動部隊は、レーダー航空管制を用いた防空システムを構築していた。潜水艦からの報告で日本艦隊の動向を掴んでいたアメリカ機動部隊・第58任務部隊は、初期のレーダーピケット艦と言える対空捜索レーダー搭載の哨戒駆逐艦を日本艦隊方向へあらかじめ約280km進出させておいて、日本海軍機の接近を探知した。そしてエセックス級航空母艦群に配備されていた方位と距離を測定するSKレーダーと高度を測定するSM-1レーダーの最新型レーダーで割り出した位置情報に基づいて日本側攻撃機編隊の飛行ベクトルを予測し、400機にも及ぶF6F ヘルキャットを発艦させて前方70~80kmで、日本側編隊よりも上空位置で攻撃に優位となる高度約4,200mで待ち受けさせた。

第58任務部隊旗艦のエセックス級航空母艦レキシントン Ⅱ戦闘指揮所(Combat Information Center)には、進出させた哨戒駆逐艦や他空母など自艦と同じ最新型レーダーを搭載した艦を含む傘下各艦隊、それと早期警戒機早期警戒管制機の元祖といえる高性能レーダーと強力な無線機を搭載している特別なTBMが戦闘空域近くを飛んでいて、それらから各々探知した日本機編隊の情報が伝えられた。

VT信管(MARK53型信管)

当時のCICは、まだ戦闘に関する情報をほとんど完全な手動で処理、統合、分析を行なうだけで、戦闘機誘導所がCICからの情報をもって空中待機中の戦闘機隊を無線で、向かってくる日本機編隊ごとに振り分けその迎撃に最も適した空域へ管制し、交戦開始後は各戦闘機隊の指揮官が現場指揮を執って、逃げ惑う日本機を追いかけ回した。

また1943年の末頃から、対空砲弾が命中しなくても目標物近く通過さえすれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。この結果、従来の砲弾に比べて対空砲火の効果は数倍に跳ね上がった。アメリカ軍は概ね3倍程度と評価している。なお、マリアナ沖海戦におけるアメリカ艦隊の対空砲火のスコアは、戦闘機の迎撃を突破して艦隊上空に到達できた日本機が少なかったこともあり、VT信管弾や40mmボフォースなど全てを合計しても19機(アメリカ側確認スコア。当然誤認を含むと思われる)に過ぎなかった。また1943年に開発されたばかりのVT信管はマリアナ沖海戦時点では製造が間に合っておらず、アメリカ艦隊が発射した全高角砲弾のうちVT信管弾が占める割合は20%程度であった。

日本軍でもアメリカ艦隊の対空防御能力を「敵艦艇の対空火力は開戦初期はパラバラ、その後火ぶすまに変わり、今やスコールに変わった」として、これまでのような方法でアメリカ空母を攻撃しても成功は奇蹟に属すると考えるようになった[73]

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

第一機動艦隊(正規空母3、改造空母6 搭載機零戦225機、彗星艦爆99機、九九艦爆27機、天山艦攻108機、九七式艦上攻撃機二式艦上偵察機、498機との説あり。)

ほとんどヤップ島、グアム島の航空部隊でサイパン島、テニアン島の航空部隊は空襲で壊滅した。
    • 守備隊30000人

アメリカ軍[編集]

第5艦隊
海兵隊
アメリカ陸軍
  • 第27歩兵師団(増援部隊) 司令官:ラルフ・C・スミス陸軍少将 → スタンフォード・ジャーマン陸軍少将 → ジョージ・W・グライナー陸軍少将

損害[編集]

日本軍[編集]

沈没[74]
  • 空母:大鳳、翔鶴、飛鷹
  • 油槽船:玄洋丸、清洋丸(雪風の雷撃処分)
損傷
  • 戦艦:榛名(直撃弾1、火薬庫漏水。小破)
  • 空母:隼鷹(中破[* 4])、龍鳳(小破)、千代田(直撃弾1、小破)、瑞鶴[* 5]
  • 重巡:摩耶(直撃弾1、小破)
  • 油槽艦:速吸(小破)
潜水艦

出撃21隻に対し損害8隻

この時期の潜水艦喪失17隻の詳細(公刊戦史による)

  • あ号作戦前の5月下旬の大量喪失5隻(呂104、105、106、108、116)
  • ほかマーシャル方面で偵察、輸送任務に当たっていた3隻の喪失(伊16176183
  • 北方艦隊の伊180の喪失(ただし、アリューシャン方面)
  • あ号作戦中の邀撃任務に出た21隻のうち8隻の喪失(伊184,185、呂36,42,44,111,114,117)

20隻の内訳(公刊戦史「潜水艦史」による)
5月3日「あ号作戦計画」発令
5月14日「あ号作戦配備」発令 各潜水艦は邀撃任務のため担当散開線に向かう
イ176(5月16日没)、イ16(5月19日没)
5月20日「あ号作戦計画開始」発令
ロ106(5月22日没)、ロ104(5月23日没)、ロ116(5月24日没)、ロ108(5月26日没)、ロ105(5月30日没)

6月13日「あ号作戦決戦用意」発令 潜水艦部隊はマリアナ東方海域に急行
6月19~20日 水上戦闘
6月21日 展開潜水艦部隊に帰還指令 
この間での未帰還 イ184、イ185、ロ36、ロ42,ロ44、ロ111、ロ114,ロ117

孤立したマリアナ諸島への物資輸送、通信連絡、パイロット・第六艦隊司令部収容任務での未帰還
イ5イ6イ10イ55、ロ48
7月27日を以ってア号作戦中部太平洋潜水艦作戦中止

損失航空機

艦載機と水上機や基地など476機

死傷者

航空搭乗員戦死445名、艦乗組員戦死と失踪3000名以上

その他

アメリカ軍[編集]

損傷
  • 戦艦:サウス・ダコタ、インディアナ
  • 空母:バンカーヒル、ワスプ
  • 重巡:ミネアポリス、ウイチタ
損失航空機

撃墜43機、着艦失敗や不時着など87機

死傷者

航空搭乗員戦死76名、艦乗組員戦死33名

注釈[編集]

  1. ^ ミッドウェー海戦の際にはわずか7機であったものを、戦訓により索敵力を強化したものである。
  2. ^ 「昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)」第11-12画像、安永弘『死闘の水偵隊』344頁、筑摩所属偵察機乗員。山本佳男『巡洋艦高雄と共に』135頁、三連装機銃射手。
  3. ^ タウイタウイに閉じ込められた原因としては潜水艦の跋扈が上げられる。泊地を出た途端雷撃される事もあり、そのため、護衛の駆逐艦が損耗した。そもそもタウイタウイ島と、その周辺海域は、南シナ海で通商破壊を行なう米潜水艦航路の途中にあった。 (しかし、タウイタウイは結局不運な選定であったことを証明した。当時、ニューギニアにおいて入手した、日本側書類によって、新しい日本の航空艦隊の出現とその進出位置が明らかになると、米潜水艦が大挙してセルベス海やフィリピン諸島周辺に集中行動したので、小澤部隊は訓練や演習の為に錨地外に出動することが殆ど出来無くなった。)ニミッツの太平洋海戦史 太平洋戦争と潜水艦 269p/372p~375pより
  4. ^ アイランドの煙突に命中するも、航行に支障無し。
  5. ^ 500ポンド爆弾を艦橋後部のマスト付近に命中したとしているが乗組員の回想では被弾無し、至近弾によるスプリンターを直撃弾と勘違いした可能性有り。

出典[編集]

  1. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦付録
  2. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦331頁
  3. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦304-305頁
  4. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦336頁
  5. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦323-325頁
  6. ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文春文庫128頁、戦史叢書12マリアナ沖海戦326-327頁
  7. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦353頁
  8. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦354頁
  9. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦324-325頁
  10. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦353頁
  11. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦388-389頁
  12. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦390頁
  13. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦432-433頁
  14. ^ モリソン(2003年)、286頁。
  15. ^ NHK『証言記録 兵士たちの戦争「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」』
  16. ^ モリソン(2003年)、287頁。
  17. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦479頁
  18. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦451頁
  19. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦480頁
  20. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦327-328頁
  21. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦484頁
  22. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦515頁
  23. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦524-525頁
  24. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦530頁
  25. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦530頁
  26. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦538頁
  27. ^ モリソン(2003年)、284-285頁。
  28. ^ モリソン(2003年)、290-291頁。
  29. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦389-390頁
  30. ^ 草鹿 1979, p. 260.
  31. ^ a b 「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」第35画像
  32. ^ a b #小板橋見張員p.84、著者は当時愛宕航海部操舵手。
  33. ^ a b #小板橋見張員p.85
  34. ^ a b モリソン(2003年)、292-293頁。
  35. ^ 『いざゆけ!ゼロ戦 最強の戦闘機、激闘の伝説 スーパー戦闘機で知る太平洋戦争 ゼロ戦は無敵だった!』(KKベストセラーズ、2007年)230頁によると、「8時20分、前衛部隊の戦艦大和艦橋で第1次攻撃隊127機が高度4000メートルで前衛部隊に近づいてくるのを発見したが、無線封鎖中の前衛部隊ではこの100機を超える編隊が敵か味方か、判別できなかった。日本海軍では飛行機は味方軍艦上空を飛ばないことになっており、重巡高雄が味方識別合図を要求するため高角砲4発射ち上げたが、編隊は無反応のまま艦隊の真上に向かって距離1万5千メートルまで接近。大和は敵編隊とみなして全艦に左45°一斉回頭と対空射撃の緊急命令を出し、各艦は回頭と発砲を始めた。日本機編隊は慌てて翼をバンクさせて味方だと知らせたのだが、4機も被弾して落ちていった。」
  36. ^ #艦爆隊長p.168
  37. ^ #艦爆隊長p.169
  38. ^ #艦爆隊長p.170
  39. ^ #艦爆隊長p.171
  40. ^ #艦爆隊長p.176
  41. ^ 「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」第1画像
  42. ^ 「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」第11-12画像
  43. ^ 池田清『最後の巡洋艦矢矧』(新人物往来社、1998)、85頁
  44. ^ #小板橋見張員p.88
  45. ^ #小板橋見張員p.89
  46. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦636-638頁
  47. ^ a b c モリソン(2003年)、298-299頁。
  48. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫314-315頁
  49. ^ 吉田俊雄『指揮官たちの太平洋戦争』光人社NF文庫316頁
  50. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』学研M文庫頁289-290頁
  51. ^ 『太平洋戦争と十人の提督』(617頁より)
  52. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦390頁
  53. ^ 『真実の太平洋戦争』『太平洋戦争と十人の提督』より。
  54. ^ 田中健一「マリアナ沖海戦 作戦指導批判に異論あり」『波濤』110号 1994年1月
  55. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦390頁
  56. ^ NHK『証言記録 兵士たちの戦争「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」』
  57. ^ 『真実の太平洋戦争』(第二章 数多い誤認と誤解 2 夢に終わったアウトレンジ戦法より 157-158頁)
  58. ^ 『日本はいかに敗れたか 上』より
  59. ^ 神立尚紀『零戦最後の証言2』光人社NF文庫、pp.113f
  60. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦379頁
  61. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦379-380頁
  62. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦636-638頁
  63. ^ 川崎まなぶ著『マリアナ沖海戦 母艦搭乗員 激闘の記録』(308~309頁 飛行時間の計算)
  64. ^ 戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期207頁
  65. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦411頁
  66. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦55、78頁
  67. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦636-638頁
  68. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦479頁
  69. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦451頁
  70. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦524-525頁
  71. ^ 内藤初穂『戦艦大和へのレクイエム 大艦巨砲の技術を顧みる』(グラフ社、2008)185頁
  72. ^ 戦史叢書12マリアナ沖海戦636-638頁
  73. ^ 戦史叢書 41 P.110
  74. ^ 「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」第49-51画像

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030710900「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(1)」
    • Ref.C08030711000「戦闘詳報.第1機動部隊 あ号作戦(653空.第1機動艦隊司令部.千歳.千代田)(2)」
    • Ref.C08030573900「昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(1)」
    • Ref.C08030574000「昭和19年6月1日~昭和19年11月15日 軍艦利根戦時日誌戦闘詳報(2)」
    • Ref.C08030713100「昭和19年6月20日 軍艦利根戦闘詳報 第7号(あ号作戦中対空戦闘に対する分)」
    • Ref.C08030150500「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(1)」
      内容は、第六一駆逐隊戦闘詳報、第五一潜水隊「あ号作戦戦闘詳報」
    • Ref.C08030150600「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(2)」
      内容は、呂号第百十五潜水艦「あ号作戦戦闘詳報(ワスプ型空母襲撃)」他
    • Ref.C08030150700「昭和19年6月20日~昭和19年7月10日 第61駆逐隊戦闘詳報(3)」
      内容は、特設運送船あづさ丸戦闘詳報、特設運操船玄洋丸戦闘詳報、他
  • NHK戦争証言プロジェクト 「マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法」『証言記録 兵士たちの戦争(2)』 NHK出版、2009年。
  • 阿部善朗 『艦爆隊長の戦訓 体験的/新説太平洋海空戦』 光人社、1997年ISBN 4-7698-0834-8(隼鷹彗星操縦員)
  • 奥宮正武『真実の太平洋戦争』(PHP文庫、1988年) ISBN 4-569-56383-X
  • 奥宮正武『日本はいかに敗れたか』上(PHP研究所、1993年) ISBN 4-569-54182-8
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』(学研M文庫、2001年) ISBN 4-05-901045-6
  • 奥宮正武『太平洋戦争と十人の提督』上、下(学研M文庫、2001年)
ISBN 4-05-901078-2、下 ISBN 4-05-901079-0 (新装版)
  • 奥宮正武淵田美津雄 『機動部隊』 学研〈M文庫〉、2008年 ISBN 978-4-05-901222-1
  • 江戸雄介『激闘マリアナ沖海戦―日米戦争・最後の大海空戦』 光人社〈NF文庫〉、2000年 ISBN 4-7698-2264-2
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』(海防艦顕彰会・原書房、1982年)
  • 学研編集部(編) 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ8 マリアナ沖海戦』 学習研究社、2001年 ISBN 4-05-401264-7
  • 川崎まなぶ『マリアナ沖海戦―母艦搭乗員 激闘の記録』 大日本絵画、2007年 ISBN 978-4-499-22950-0
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』(図書出版社、1977年)
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』(図書出版社、1983年)
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』(図書出版社、1986年)
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』(図書出版社、1994年)
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになったアメリカ軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 源田實『海軍航空隊始末記』(文春文庫、1996年) ISBN 4-16-731003-1
  • 小板橋孝策 『戦艦大和いまだ沈まず 「大和」艦橋見張員』 光人社、1983年ISBN 4-7698-0224-2
  • 小林昌信ほか 『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』 光人社、1995年ISBN 4-7698-2087-9
    • 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず』(戦闘機整備科員)
  • 佐藤和正『レイテ沖の日米決戦 日本人的発想VS欧米人的発想』(光人社、1988年) ISBN 4-7698-0374-5
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 51人の艦長が語った勝者の条件』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0445-8
  • サミュエル・E・モリソン 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年。
  • 志柿謙吉 『空母「飛鷹」海戦記 「飛鷹」副長の見たマリアナ沖決戦』 光人社、2002年2月。ISBN 4-7698-1040-7
  • シーパワー編集部(編)『海軍機動部隊』 軍事研究1992年7月号別冊 ISSN 0533-6716 雑誌 03242-7
  • ピーター・C・スミス著、地主寿夫訳 『天空からの拳 艦爆の神様・江草隆繁』 PHP研究所、2009年ISBN 978-4-569-77149-6
  • C・W・ニミッツ & E・B・ポッター 著\実松譲 & 冨永謙吾 訳『ニミッツの太平洋海戦史』(恒文社、1992年新装版) ISBN 4-7704-0757-2 英題『THE GREAT SEA WAR』
  • 写真 太平洋戦争 第四巻』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0416-4
  • 防衛研修所戦史室編戦史叢書 12 マリアナ沖海戦』 朝雲新聞社、1968年
  • 防衛研修所戦史室編 『戦史叢書 41 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 朝雲新聞社、1970年

外部リンク[編集]