美濃部正

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美濃部 正
生誕 1915年
死没 1997年6月12日
所属組織 大日本帝国海軍航空自衛隊
軍歴 1937 - 1970
最終階級 少佐(帝国海軍)、空将(航空自衛隊)
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美濃部 正(みのべ ただし、旧姓:太田(おおた)、1915年 - 1997年6月12日)は、旧日本海軍軍人航空自衛官である。愛知県出身。海兵64期。最終階級は海軍において少佐、自衛隊において空将

生涯[編集]

1915年愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる[1]刈谷中学を経て、1937年(昭和12年)3月23日海軍兵学校64期卒業、少尉候補生。1937年11月5日軽巡洋艦「由良」乗組。

偵察機搭乗員[編集]

1938年7月28日第31期飛行学生拝命、1939年3月4日卒業。三座水上偵察機の水上偵察機搭乗員となる。3月9日館山空。1939年8月10日佐世保空。二座水上偵察機の操縦を学ぶ。11月1日水上機母艦「千歳」乗組。1940年11月1日軽巡洋艦「名取」、分隊長。ベトナムのタクシーに乗って仏印(ベトナム)駐留のフランス軍基地に潜入して、航空兵力の調査を行った。1941年9月10日軽巡洋艦「阿武隈」乗組、分隊長。1941年(昭和16年)11月美濃部貞功の娘篤子と結婚して婿養子となり、美濃部姓になる[1]

遠景からの沈没するハーミス、美濃部が撮影したものかは不明

1941年12月太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。真珠湾爆撃の写真を日本へ運ぶ[2]。1942年4月第一航空艦隊が英空母「ハーミス」を撃沈した時に、「阿武隈」から美濃部を機長にした九四水偵が発進して、十時間飛行しながら沈没する「ハーミス」の写真を撮った[3]。遠景からの1枚に美濃部が撮影したものもある。

1942年6月にAL作戦に参加、美濃部はアッツ島上陸作戦の偵察任務を命じられたが、偵察飛行中にアメリカ軍兵士の姿や軍事施設を発見できなかったため、美濃部は水上機から降りると、数名の陸軍兵士とともにチャチャコブ港 英語版に上陸した。当時のアッツ島にはアメリカ軍兵士は1名もおらず、気象観測員チャールズ・フォスター・ジョーンズと教師をしていた妻のエタ・ジョーンズのアメリカ人2名と、アレウト族の原住民42名が居住していたが、チャールズは日本軍の上陸を確認すると、慌てて自宅にある無線機で「Japs coming Japs coming」と打電したのを阿武隈が傍受している。その後、美濃部は兵士を連れてアンテナが立っているチャールズの家を訪ねると、出てきたエタが命乞いをしてきたので、美濃部は笑顔で心配は要らないと声をかけて、日本軍の情報を発信できないよう無線機の使用だけを禁じてチャールズ邸を後にした。任務を終えた美濃部は、この後上陸した陸軍部隊が、罪のないジョーンズ夫妻やアレウト族の住民をどう扱うつもりなのか嫌な思いを抱えながらアッツ島を離れたとしている[4]。しかし、妻のエタの記憶によれば、上陸してきた日本軍兵士は、まず、チャールズ邸の壁に小銃を撃ち込んできたのちにチャールズ邸を占拠し、チャールズとエタを取り押さえて連行したという経緯で、美濃部の記憶とは食い違っている。連行後にチャールズは日本軍の尋問を受けたが、尋問の途中で死亡している。エタは日本軍からチャールズが尋問中に手首を切って自殺したと説明を受けているが、日本軍はチャールズをスパイと疑っており、拷問の上に殺害した可能性も指摘されている[5]。エタはアレウト族の住民と一緒にそのまま捕虜として横浜に連行されて、終戦まで日本本土の捕虜収容所で拘束されることとなったが、アレウト族の住民は栄養失調や病気などにより16人が死亡している[6]

AL作戦従事後に日本本土に帰還した美濃部は1942年7月20日小松島空分隊長を拝命。基礎課程を終えた海軍飛行予科練習生に水上機の実戦運用についての訓練を施している。美濃部はこの小松島で結婚後殆ど一緒に生活する機会がなかった妻篤子と、ようやく落ち着いた家庭生活を営むことができた[7]。この頃に連合艦隊司令長官山本五十六大将から、海軍士官に広く斬新な戦法や兵器についての意見募集があり、美濃部は、8機の彗星を搭載可能な大型潜水艦を50隻建造、1年間の訓練ののちに、アメリカ本土東海岸沖まで進出し、合計400機の艦載機でアメリカ本土の航空機生産工場を粉砕して、アメリカの航空機生産を中断させて戦局の打開をはかるべきとする斬新な意見を提出したが、採用されることはなかった。しかし、この美濃部の意見は図らずも、極秘裏に進められていた伊四百型潜水艦によるアメリカ本土やパナマ運河への攻撃計画と同じような内容であった[8]

夜襲部隊[編集]

1943年10月20日ソロモン諸島方面に展開する第983海軍航空隊の飛行隊長に着任。美濃部はマラリアに感染して1944年1月に復帰。零式水上偵察機が1機で夜間にニュージョージア島の米軍飛行場への爆撃に成功したことで、美濃部は人材豊富な水上機搭乗員を零戦に搭乗させて、アメリカ軍基地に夜襲をかけるべきという、のちの芙蓉部隊につながる戦術を考えた。美濃部はさっそく南東方面艦隊司令部に、美濃部の考案した戦術に基づき、水上機部隊である第983海軍航空隊に零戦の配備を上申したところ、成功経験に基づく上申であったので、司令長官草鹿任一中将名で水上機部隊に零戦を配備するという異例の発令がなされた[9]。しかし、せっかく配備された零戦5機は、2月17日トラック島空襲によって全機が空中と地上で失われて計画は頓挫したが、2日間に及ぶ猛攻で270機の航空機を撃破し、停泊していた41隻の艦船を沈めたアメリカ軍機動部隊の猛威は美濃部の心中に深く刻まれ、アメリカ軍機動部隊への対抗策を考えさせる大きな要因にもなった[10]。配備された零戦を失った美濃部は、上官の第二六航空戦隊司令長官酒巻宗孝中将に支援を要請したところ、草鹿と同様に酒巻は美濃部の夜間襲撃部隊構想に理解を示して、航空機補充のため日本本土に帰国する手配をしてくれた[11]

1944年(昭和19年)2月、戦地から帰国した美濃部は軍令部に出頭、実兄で軍令部情報部に勤務していた太田守中佐の計らいで、軍令部作戦第1課の航空作戦部員で真珠湾攻撃の立役者源田実中佐に直接面談して零戦の補充をうったえた。源田は「水上機部隊に零戦は渡せない。10日で(水上機搭乗員を)零戦への転換なんてできるわけがない」とはじめは美濃部の構想に否定的であったが[12]、美濃部は「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と熱心に説き、最後は源田が折れて、水上機部隊に零戦を補給することは認めなかった代わりに零戦の新しい飛行隊(戦闘316飛行隊)を編成して、飛行隊長に美濃部、分隊長に熟練の水上機搭乗員を任命する発令をしてくれた[13]。1944年2月25日に美濃部は301空戦闘316飛行隊長着任した。戦闘316飛行隊には、美濃部の希望通り、分隊長をはじめ熟練水上機搭乗員多数が配属された。美濃部は気心知れた熟練水上機搭乗員の分隊長を通じて、自分の構想通りの猛訓練を行い、人生で一番の充実感を味わったが[14]、戦闘316飛行隊が配属されていた第301海軍航空隊は局地戦闘機雷電を主力とする対戦闘機の要撃任務が主であり、司令の八木勝利中佐は戦闘316飛行隊に「グラマンとの空戦をやってくれ」と要求したのに対して、あくまでも301空所属は便宜的なものであり「夜間攻撃隊の目標は空母です」と譲らない美濃部の対立は決定的となり、運用方法の相違から美濃部は戦闘316飛行隊隊長を解任された[15]

厚木海軍飛行場の第302海軍航空隊所属の月光隊

行き場がなくなりマラリアのぶり返しで40度の高熱を出して寝込み、海軍の除隊まで考えていた美濃部を第302海軍航空隊司令の小園安名大佐がひろった。小園は美濃部の夜襲部隊編成構想に理解を示し、5月25日付で斜銃を搭載したB-29 邀撃を任務とする夜間戦闘機月光で編成された第2飛行隊長に任命された。月光隊にはラバウルで小園の下で活躍した遠藤幸男大尉が分隊長として所属していたので、B-29邀撃任務の指揮は遠藤に任せて、美濃部は夜襲部隊の再編に注力した[16]。美濃部の対アメリカ軍機動部隊への戦術は「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」という特攻戦術であり[17]、戦闘316飛行隊と同様に第302海軍航空隊でもその準備を行っていたが、1944年7月4日に硫黄島父島を襲撃したアメリカ軍機動部隊に対して、その夜襲戦術を始めて活かす機会に恵まれ、美濃部は、7月5日未明に索敵に月光6機、攻撃隊として月光1機と零戦2機の3機小隊6個の合計18機(含む偵察機で24機)を出撃させたが、アメリカ軍機動部隊とは接触できずに、2機が未帰還、2機が大破するという損害を被り、初戦にて夜間の洋上進攻の困難さを思い知らされることとなった[18]

第302海軍航空隊では見るべき成果を挙げることもできずに、在任わずか1か月半となる1944年7月10日に第一航空艦隊第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊長に異動となりフィリピンに着任した。美濃部は第一航空艦隊の司令部のあるダバオに出頭し、かつて美濃部の海軍兵学校時代の教官であり、現在は第一航空艦隊主席参謀となっていた猪口力平中佐と面談したが、敵が目前まで迫っているにも関わらずその緊張感のなさと[19]、対空警戒能力、哨戒能力への関心の低さに呆れている[20]。戦闘901飛行隊には8月半ばには待望の零戦5機と月光7機が補充され、美濃部は第302海軍航空隊に引き続いて、アメリカ軍機動部隊への夜襲を目指して夜間哨戒を強化したとしているが[21]、猪口によれば、この頃の美濃部は、激化していたアメリカ軍のB-24による夜間爆撃に対する邀撃任務に熱心であり、猪口ら第1航空艦隊幕僚に「探照灯で敵を捕捉してさえくれれば、一撃のもとに撃墜してみせる」と強気な発言をし、その発言を実行するため、毎夜明け方まで自ら月光に搭乗して目標機となって、防空隊の探照灯訓練に協力している。そんな指揮官の様子を見ていた戦闘901飛行隊の中川義正一飛曹は、9月5日に夜間爆撃に来襲したB-24に体当たり(対空特攻)を敢行、幸運にも中川の月光は損傷しただけで無事帰還し、体当たりされたB-24はバランスを崩して墜落したが、この対空特攻がのちの特別攻撃隊編成の機運を盛り上げることになったと猪口は記憶している[22]

その後も戦闘901飛行隊は苦しい戦いを強いられた。美濃部は構想通り、未明や黎明でのアメリカ軍機動部隊への夜襲を目論見、哨戒を強化するも、得意なはずの夜間戦闘で逆にアメリカ軍艦載戦闘機に一方的に撃墜されることもあり、9月10日には索敵中の月光3機を一挙にF6F ヘルキャットに撃墜されて6名の搭乗員が戦死している。9月21日には薄暮に索敵攻撃任務中の月光4機がアメリカ軍空母を攻撃し、250㎏爆弾を1発命中させたが(アメリカ軍の記録で1944年9月21日に該当の被害記録なし[23])、月光1機が撃墜され、零戦1機も未帰還となり、この日をもって戦闘901飛行隊は壊滅状態に陥った[24]。機体の損失に加えて、搭乗員の損失が壊滅的であり、分隊長ら士官は全員戦死しパイロットも当初の1/3になるまで消耗してしまった[25]。美濃部は逆境下でも、夜襲隊の構想を諦めず、海軍省功績調査部に「今次数度の戦闘において丙戦(主に夜間戦闘機のこと)訓練と用法により新しき戦闘方策を樹立せるを実証せり。即ち、敵空母に対し未明発艦前の敵飛行機を甲板上に破壊し、爾後わが昼間戦闘を有利にす」といいう戦闘日誌を提出している[26]。9月下旬に美濃部はニコルス飛行場いたが、そこで、クラーク基地の指揮を執っていた第二六航空戦隊司令官有馬正文中将より「美濃部君、君の主張する夜戦隊の夜襲計画は極めてよい」と声をかけられて、美濃部が構想していた夜襲部隊の編制についての支援を得られることとなり、美濃部は水上機搭乗員10名を連れクラーク基地で水上機から零戦への機種転換訓練を行うことになった[27]

10月始めに沖縄や台湾を攻撃してきたアメリカ軍第38任務部隊に対して、日本陸海軍の航空機が協同で攻撃をおこなった(台湾沖航空戦)。計画では、日本軍航空部隊は、日本本土に接近してくる台風の荒天に紛れてアメリカ軍機動部隊を攻撃することなっていたが、初回の出撃日となった10月12日には、台風は付近にはなかった[28]。日本軍は有馬や美濃部の主張と同様に、もはや常套手段では、アメリカ軍機動部隊の捕捉は困難で、荒天もしくは夜陰に紛れての奇襲攻撃でしかアメリカ軍空母に打撃を与えることができないと認識しており[29]、その厳しい状況でもアメリカ軍空母を攻撃可能なT攻撃部隊を編成し周到に準備していた。T攻撃部隊には、夜間でもアメリカ軍艦隊を捕捉できるように、機上レーダー(三式空六号無線電信機)を装備した特別機も30機以上配備され、アメリカ軍のレーダーを避けるため、夜間でも海面をかすめるような100m以下の高度で飛行できるように猛訓練も行われていたが[30]、このT攻撃部隊を投入し、アメリカ軍機動部隊への夜間攻撃をおこなうこととした。しかし、夜間の敵機動部隊攻撃は日本軍の想定以上に過酷で、特別に訓練したT攻撃部隊でも敵艦隊に接触することすら困難であり、接触できてもアメリカ軍軽空母インディペンデンスに配属された、夜間戦闘機部隊VF(N)-41のF6F ヘルキャットの夜間戦闘機型F6F - 5Nに迎撃され[31]、敵艦隊にたどり着いたわずかな攻撃機も近接信管を含めた、アメリカ軍艦艇の激しい対空砲火に次々と撃墜されて、多大な損害を被ったのにも関わらず戦果はなかった[32]。しかし、攻撃して離脱することも困難な夜間攻撃ではまともな戦果確認は不可能であり、攻撃機搭乗員のあやふやな報告に基づき、推定により空母1隻撃沈、1隻撃破の戦果を挙げたと認定された[33]

過大戦果認定により、攻撃が相当な効果を挙げていると誤認した大本営は、翌13日にも薄暮や夜間に攻撃を続行して、また多大な損害を被った。重巡洋艦キャンベラ(CA-70)に魚雷を命中させて大破させ、正規空母フランクリンも急降下爆撃で損傷させたものの、戦果らしい戦果はこれだけだったのにも関わらず[34]、12日と同様に過大な戦果報告が行われた。日本軍が苦心してレーダーに探知されないように低空飛行を行っても、アメリカ軍はすでに日本軍の攻撃3時間前から攻撃を察知して、十分な迎撃態勢をとって日本軍攻撃隊を迎え撃っており[35]、日本軍が入念に計画し、美濃部や有馬もフィリピンで準備していた、アメリカ軍機動部隊への荒天や夜間での襲撃は初めから机上の空論であったことが、この2日間の攻防で明らかとなった。そして、正確な戦果確認がほぼ不可能な夜間攻撃では、過大な戦果報告となってしまうのは、美濃部自身も戦果確認任務で飛行したソロモンで痛感させられていた[36]

この2日間の過大戦果報告で、アメリカ軍機動部隊は大損害を被って敗走中と誤認した大本営は、10月14日に、今まで九州、沖縄から攻撃していた第2航空艦隊に加えて、フィリピンの第1航空艦隊にも追撃を命じた[37]。10月15日に、有馬は第1航空艦隊の総力を挙げて、ルソン島東方海上に現れた敵機動部隊を攻撃することとし、第1次攻撃隊には零戦25機(うち250㎏爆弾を搭載した爆戦6機)、第2次攻撃隊として一式陸上攻撃機13機、零戦16機を出撃させたが[38]、有馬は「戦争では年とったものが早く死ぬべきである」との日ごろの主張通り[39]、「指揮官にはおれが行く」といって一式陸攻の一番機に搭乗して出撃した[40]。美濃部の意見に同調し、美濃部に夜襲部隊編成と訓練を命じていた有馬であったが、この日の出撃は白昼となり、アメリカ軍機動部隊の150㎞前方でレーダーで発見されて、艦載戦闘機の迎撃で一式陸攻隊は全滅し、有馬は敵艦隊に達することなく戦死した[41]。クラーク基地からの全力出撃で、水上機搭乗員の訓練に尽力していた美濃部も有馬から「武人は死ぬべきときに死なぬと恥を残す。もう訓練しているときではないよ」と出撃を打診された。美濃部は所属部隊である153空の許可を得るためマニラに飛んだが、クラーク基地に帰ってきたときにはすでに有馬は出撃した後だった[42]。美濃部は、有馬をのちの芙蓉部隊誕生の恩人としているが、その恩人と一緒に出撃することはできなかった[43]

日本軍航空機から攻撃されているアメリカ軍PTボート

台湾沖航空戦のあと10月20日にアメリカ軍がフィリピンのレイテ島に侵攻し、レイテ島の戦いが始まった。10月25日には新たに着任した第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎の発案により、初の神風特別攻撃隊が出撃し、アメリカ軍護衛空母撃沈を含む大きな戦果を挙げた。その夜、第一航空艦隊の航空隊指揮官が集められ、跳梁する敵のPTボート対策について話し合われた。司令部に有効な対策なく、大西は参加した指揮官らに意見を求めた。誰も発言しないなかで、先輩に遠慮して発言を控えていた美濃部が「やります。敵の懐セブ島に進出します。オルモック湾までわずか60キロ。昼間は飛行機をジャングルに隠し、夜間に出撃します」と自分の部隊に任せてほしいと発言すると、大西は「うむ、よし。魚雷艇は153空に任す、634空の水爆隊も協力せよ」とPTボート対策を、美濃部の夜間戦闘機隊と、江村日雄少佐率いる第六三四海軍航空隊の水上機瑞雲 に任せることとした[44]

1944年10月末に901飛行隊は零戦4機、月光3機の稼働機全機をもってセブ島の基地に進出し、11月1日より零戦2機ずつをPTボート狩りに出撃させた。PTボートは高速航行するので、航跡でヤコウチュウの光が帯となり上空からは容易く発見でき、またガソリンエンジンで発火しやすいため、エンジンを狙って機銃を撃ちこめば簡単に炎上・爆発すると美濃部は考え[45]、PTボート狩りに出撃する零戦搭乗員に「思い切って肉薄せよ、一撃でよい。」と低空飛行でPTボートに肉薄し弱点であるエンジンに銃撃せよと命じている。美濃部の指示通りPTボートを攻撃した零戦隊は、11月1日~7日のわずか1週間の間で6隻の撃沈を報告し、美濃部は、この多大な損害によりアメリカ軍PTボートは鳴りを潜め、日本軍の夜間の損害は激減したと主張している[46]。この成功体験が美濃部の夜襲部隊構想に対する自信に繋がり、のちの芙蓉部隊編成のきっかけともなったが[47]、実際にはアメリカ軍に該当するPTボートの被害記録なく、11月初旬のアメリカ軍PTボートの戦闘損失としては、11月6日にPT-320が1隻だけ日本軍の攻撃で撃沈されているが、これは水平爆撃の爆弾が命中して全損したもので[48][49]、美濃部が指示したエンジンを銃撃されての沈没ではないため、戦闘901飛行隊の戦果ではない。また、901飛行隊がセブ島に進出する直前の10月26日にPT-132、27日にPT-523がいずれも急降下爆撃による被弾で損傷し、13人が戦死、オーストラリア軍従軍記者を含む多数が負傷しているが、これも戦闘901飛行隊がPTボート狩りを始める前の損害且つ、爆撃による損傷なので、爆装していない901飛行隊の零戦による戦果ではない[50][51]

アメリカ軍の記録によれば、第二次世界大戦中に(ヨーロッパ戦線、太平洋戦線両戦域で)敵航空機の機銃掃射で撃沈されたPTボートは、1942年4月9日にフィリピンセブ島で撃沈されたPT-34のたった1隻にすぎず、爆撃を含む航空攻撃で撃沈されたPTボートもわずか7隻で[注 1][52]、美濃部の想定とは異なりPTボートが航空機の機銃掃射に脆いということはなかった。美濃部が制圧に成功したと考えていたPTボートの動きも、引き続き活発で、フィリピンの戦い全般にて、日本軍艦艇への魚雷攻撃、日本軍の補給路の寸断、特攻艇の破壊やゲリラ支援任務などで活躍し日本軍を苦しめた[53]。日本軍は特攻機でもPTボートを攻撃してPT-300、PT-323を撃沈したが、焼け石に水で、大量のPTボートは、駆逐艦卯月、駆潜艇、哨戒艇、輸送哨戒任務用の小型帆船多数を撃沈するなど大暴れしている[54]

美濃部ら戦闘901飛行隊がセブ島に進出していたころ、レイテ島に上陸したアメリカ軍はタクロバンに飛行場を整備し、多数の航空機を配備して日本軍の脅威となっていたため、第1航空艦隊は航空機によるタクロバン飛行場攻撃を計画したが、正攻法では飛行場に近づくのも困難であるため、夜陰に紛れての零戦の夜間戦闘機による夜襲をかけることにした。これは、美濃部が構想して実際に部隊編成や訓練を行ってきた戦術そのものであったが、美濃部の戦闘901飛行隊には出撃の声がかかることはなく、 同じセブ島に配属されていた戦闘第165飛行隊の零戦12機が夜間に出撃し、戦艦武蔵の艦長として武蔵と運命を共にした猪口敏平中将の息子猪口智中尉機を含む11機が、黎明の攻撃で未帰還となっている[55]

戦闘901飛行隊の活躍を聞きつけた第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎は、11月10日に美濃部を司令部に呼び出した。大西は美濃部に多号作戦で輸送艦隊の脅威となっている、コッソル水道のアメリカ軍飛行艇とPTボート基地の攻撃を命じたが、美濃部が月光で基地攻撃は困難であると反論すると大西は「特攻ではどうか?」と切り返してきた[56]。美濃部は「特攻以外の方法で長官の意図に副えるならば、その方がすぐれているわけです。私は、それに全力を尽くすべきと思います。」「だいいち、特攻には指揮官は要りません、私は指揮官として自分の方法を持っています。私は部隊の兵の使い方は長官のご指示を受けません」と安易な特攻依存をはねつけた[57]。気性の激しい大西であったが、美濃部のことばに怒ることもなく「それだけの気概と抱負をもった指揮官であったか、よしすべて君に任せる」と特攻しないことを容認した[58]

芙蓉部隊[編集]

芙蓉部隊隊員の集合写真、前2列目中央無帽の人物が美濃部、ソロモンでアメリカ軍捕虜から譲り受けた革製のフライトジャケットを着用している。
芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山

大西は美濃部の夜襲隊に理解を示し、1944年11月25日に再度美濃部を司令部に呼び出すと「君の所の夜襲隊はよくやっている。至急内地に帰って夜襲隊を錬成し、来年1月15日までに(フィリピンに)再進出せよ」と命じている。美濃部は部下を残していくことに抵抗を感じたが、大西の「中央には夜襲隊の育成について配慮するように手配する」と有無を言わさない命令であったため[59]、戦闘901飛行隊は、戦力の再編成のため内地の752空に編入されることとなり、美濃部はフィリピンを離れて12月1日に第三航空艦隊司令部のある木更津に帰還した[60]。901飛行隊は戦力補充後、1945年1月にフィリピンに再進出することとなっていたが、752空は元々陸上攻撃機主体の航空隊であり、夜間戦闘機隊の扱いには慣れていなかったこともあり、901飛行隊は美濃部にほぼ一任された[61]。752空は既に攻撃3隊と偵察1隊を擁しており、木更津基地には901飛行隊を受け入れる余裕がなかったため、美濃部はまず自分らの基地探しから始めなければならなかった。美濃部は自ら零戦に搭乗し基地探しをしたが、空中から見つけた海軍建設中の藤枝基地が適地と考えて、基地司令の市川重大佐に直談判し快諾を得た。美濃部は根拠地となった静岡県藤枝基地から見える富士山にちなんでこの部隊を芙蓉部隊と命名した。美濃部は第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将に、芙蓉部隊という部隊名使用の許可と隊旗の揮毫を願い出てて了承された。寺岡筆の隊旗は以後藤枝の指揮所に掲げられた[62]

美濃部の部隊再建のため、編成や機材など軍令部作戦課が担当して取り掛かった。機材について美濃部は、使い慣れた月光の配備を希望したが、すでに生産が中止されており、十分な数が揃わないことが判明、次に新鋭陸上攻撃機銀河を希望したが、20機ぐらいしか準備できなかったので、整備が困難で、各隊が使いたがらなかった水冷エンジン彗星12型が大量に余剰している事を聞きつけ、彗星12型を主力機とすることにした。美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の地上人員も人事局から厚遇された[63]

1945年2月に入るとフィリピンより脱出してきた夜間戦闘機隊812飛行隊と804飛行隊も藤枝基地に配置されたが、901飛行隊と合わせて3個飛行隊が美濃部に委ねられた。美濃部の肩書は3個飛行隊の最先任飛行隊長に過ぎず、形式上の指揮官は関東空司令となっていたが、第3航空艦隊司令寺岡の方針もあり、美濃部が実質的な指揮官となっていた。この指示は口頭で伝えられており、大戦末期の海軍の部隊編成は混乱を極めていた[64]。美濃部は藤枝基地で、昼夜逆転生活、夜間洋上航法訓練、座学といずれも夜襲に特化した猛訓練を行い、やっと離着陸ができるようになった経験の浅い搭乗員でも、往復約1,700km、約5時間にも及ぶ夜間飛行が可能となるまで鍛え上げた[65]。美濃部は訓練中に、「貴様ら、うまくやれないと、特攻隊に入れるぞ」と隊員を脅すこともあった[66]

藤枝で再編成を進めていた芙蓉部隊であったが、戦局の悪化により、フィリピン再進出は中止された[67]。本土防衛のため錬成途中の芙蓉部隊であったが、硫黄島にアメリカ軍機動部隊が侵攻してくると、その迎撃のため、美濃部は1945年2月17日に芙蓉部隊に出撃を命じた。その出撃で美濃部は部下に特攻を指示し、別れの盃(別盃)が交わされている。美濃部は、対敵機動部隊の戦術として「敵の戦闘機隊が十分な行動ができない未明に、まず芙蓉部隊機が敵空母甲板上の敵機をロケット弾で攻撃し、発艦前に打撃を与えて友軍特攻機突入を援護する。最後には、芙蓉部隊機も搭乗員諸共敵空母甲板上に特攻し、敵空母甲板上の艦載機を一掃する。」との特攻主体の戦術を考案しており[68]、硫黄島に来襲したアメリカ軍機動部隊に実践するつもりであった。出撃を命じられた鞭杲則少尉の記憶では「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」という命令で、搭載機の破壊と発艦阻止、特攻機突入による火災で味方機に敵の位置を知らせるという狙いがあったという[69]。河原少尉の記憶では、指揮所に行くと、特攻は本人の志願という建前であったのにも関わらず[70]、志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿の中にあり、美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者に「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じている。河原らは美濃部と基地司令の市川大佐とひとりひとり握手を交わして決死の出撃をしたが、結局出撃した全機が敵を発見できず引き返した。帰還した攻撃機を美濃部と市川が迎えたが、着陸後まもなくアメリカ軍艦載機が来襲し、帰還したばかりの芙蓉部隊の彗星6機と零戦1機を撃破した。美濃部と市川は間一髪のところで防空壕に飛び込み無事であったが、一度に7機もの作戦機を喪失した芙蓉部隊は再出撃することができなくなった[71]

空襲の後始末に追われる芙蓉部隊の隊員の間に、芙蓉部隊が第二御盾隊との名称で特攻出撃するという噂が広まった。2月17日に美濃部が特攻命令を下したことにより、他の航空隊での特攻隊編成指示の話を一部の隊員が早合点して、芙蓉部隊に特攻命令が下ったとの噂が広まったものだと思われた。芙蓉隊員らは激情と不安を抑えきれず、酒宴を開いて夜の基地内に大きな歌声を響かせた。その騒ぎを巡検の当直士官も鎮めることができなかった。そこで、この噂の原因ともなった特攻命令を下した美濃部は、騒ぎを鎮めるため、搭乗員を集合させると「俺はお前らを特攻で絶対に殺さん」と約束している。美濃部の約束を聞いてまもなく芙蓉部隊の騒ぎは収まったが、坪井飛曹長は「すごいことを言う人だと思ったが、同時に気が抜けた」と証言している[72]。第二御盾隊は第六〇一海軍航空隊で編成され、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が硫黄島を支援するため出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガ大破、死傷者800名超など大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団を力づけることとなり[73]梅津美治郎陸軍参謀総長及川古志郎軍令部総長から昭和天皇にその戦果が上奏された[74]

木更津会議[編集]

美濃部が特攻に対して自説を主張したとされる、三航艦による沖縄戦の「研究会」もしくは連合艦隊主催の「作戦会議」が開催された木更津航空基地(現木更津駐屯地

硫黄島まで連合軍が侵攻してきたことで、沖縄への侵攻の可能性も高まり、1945年2月下旬、三航艦司令部があった木更津基地において、三航艦は所属9個航空隊の幹部を招集して沖縄戦の研究会を実施した。軍令部の方針で練習機の投入などが決まっており、三航艦は特攻を主体とするという説明があった。司令代行として参加した美濃部は、劣速の練習機を投入しても敵戦闘機の多重の防御陣を突破することは不可能であると反論した。意外な反論を受けたある参謀は「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけたが、美濃部は「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と反駁したという[75]。美濃部が反駁したとされる参謀は、美濃部自身の著作『大正っ子の太平洋戦記』の記述では連合艦隊主席参謀黒岩少将という人物で、美濃部は黒岩という人物が主張する「戦場も知らぬ狂人参謀の殺人戦法」に怒りを覚えたと強く批判しているが[76][77]、この美濃部が反駁したとされる参謀の官姓名を特定していない出典が多い[78][79][80][81][82][83]。これは、当時の連合艦隊参謀と日本海軍将官に黒岩なる人物は実在しなかったからだと思われる[84][注 2][85]。また、第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将が会議後に美濃部の肩を叩いて、「お前のやり方でやれ」と美濃部を支持したとの指摘もあるが[86]、宇垣は2月14日に鹿屋に着任以来、硫黄島に来襲したアメリカ軍艦隊の迎撃などでずっと九州に滞在しており、木更津で2月下旬に開催されたとする会議に出席したという事実はない[87]

この『研究会』については、出典によって状況が大きく異なっている。美濃部が終戦直後にまとめた芙蓉部隊の公式報告書『芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日』によれば、美濃部がこの研究会で主張したのは特攻のことではなく、敵攻撃により地上で撃破される作戦機が多かったことから、作戦機の秘匿について「この(作戦機の)秘匿に対して不眠不休の熱意と責任感があるのか?如何なる妙戦法も机上だけでは成立しない」という自説を主張したことになっている。美濃部の主張に対し、居並ぶ三航艦の司令や飛行長は悠然と煙草をくわえて特に反応もなかったので、美濃部は三航艦幕僚や各指揮官らに対して「我は航空の権威者なりと自負せし不忠者ばかりなり」という非難を心に秘めたとしている[注 3][88]

また、美濃部が自説を主張したのは三航艦の『研究会』ではなく、連合艦隊主催の作戦会議とする出典もある[89][注 4][90]。連合艦隊からの「いよいよ決定的段階に至ったので、次期作戦には実用機と練習機とを問わず、あげて全て特攻作戦に参加せしめる」との説明に対し、他の航空隊指揮官が反感を抱きつつも概ね支持していたが、美濃部だけが「当芙蓉部隊においても、死を恐れる搭乗員は一人もいません。しかし、一命をなげうって国に殉ずるためには、それだけの目的と意義を有する作戦に参加して死に甲斐のある戦い方をしたいと考えています。ところが、特攻作戦の実態は、敵の上空に到達する見通しすらつかないような若年搭乗員に未熟な攻撃を行わせ、必ずしも死に値する戦果をあげていないように思われます。これでは無駄な死であって有効な攻撃にならない。単なる精神力の空念仏では勝利を得ることも出来ず、心から喜んで前線に出撃することは出来ないのです。同じ死ぬなら有効な攻撃ができるという確算のある作戦計画を樹立していただきたい」と意見を述べた[91]。この会議には、台湾で特攻作戦推進中の第一航空艦隊司令長官の大西も出席していたが、大西は美濃部の意見を聞くと「美濃部少佐、君はここにいる指揮官のなかでは一番若いように思われるが、その若い指揮官が特攻を忌避する態度を示すようでは、皇国の前途は案じられるがどうかね?」と訊ねたのに対し[92]、美濃部が「いや、長官。私は特攻を拒否すると言っているのではありません。特攻の命令が下ればいつでも部下を出します、しかし、現在わが芙蓉部隊の現況をみるに、古い搭乗員は着艦訓練もとっくに終わり、夜間航法、夜間攻撃も可能です。しかし、若い搭乗員は、鹿児島から沖縄へゆく航法もろくに出来ない程度です。指揮官としては、ベテラン搭乗員は予定通り、夜間の進攻制圧と特攻の直援に使用し、若い搭乗員は今しばらく腕を磨かせたいと思うのです。」と要望している。その要望に対し連合艦隊参謀長の草鹿龍之介は納得したが[注 5][93]、すでに部下を特攻に出していた航空隊指揮官らの反感のあるなかで、直属の上司となる三航艦司令長官寺岡も美濃部を支持した[94]

以上の通り、出典によって会議の出席者、美濃部の主張内容、主張した相手方は異なるが、連合艦隊や三航艦司令部などに芙蓉部隊の訓練の様子を視察させるなどの美濃部の努力も実を結んで[95]、芙蓉部隊は美濃部の希望通り、特攻に参加せず、通常航空作戦に従事することとなった[96]。この芙蓉部隊の特攻除外が異例の判断であったと指摘されることもあるが[97][98]、沖縄戦における、海軍航空隊出撃機の延べ機数は、特攻機1,868機に対し、制空戦闘機3,118機、偵察機1,013機、通常攻撃機3,747機、通常作戦機合計7,878機(含芙蓉部隊)[99]、陸軍航空隊も第6航空軍のみで、特攻機711機に対し、制空戦闘機612機、飛行場攻撃に重爆100機、双発軽爆撃機80機、襲撃機11機、戦闘爆撃機3機を出撃させているなど[100]、特攻機の延べ出撃数を大きく上回る通常作戦機が沖縄に出撃しており、芙蓉部隊のみが異例で特攻を免除されたというのは事実誤認である[注 6][101]。また、美濃部が自分の意見具申の結果、九三式中間練習機の沖縄への特攻出撃は見送られ、本土決戦のため拘置されたとも主張しているが[102]、7月28日に宮古島から沖縄に九三式中間練習機で編成された神風特攻隊「第3龍虎隊」が出撃し、駆逐艦キャラハン を撃沈、カシンヤング(駆逐艦) 英語版を大破させるなどの戦果を挙げており、事実とは異なる[103]

第3航空艦隊司令の寺岡は、美濃部が指揮をとりやすくなるよう、3月5日に芙蓉部隊の901飛行隊と812飛行隊の2個飛行隊を752航空隊から131航空隊に編入し、美濃部を131空の飛行長に任じた。飛行長の肩書がつくと、航空隊の飛行機と整備科の地上指揮をとれるので、これまでの最先任飛行隊長という立場と比較すると格段に権限が強化された。3月20日には804空も131空に編入され、芙蓉部隊の3個飛行隊が正式に同一航空隊となり、名実ともに芙蓉部隊が統一運用されるようになった。131空の司令は浜田武夫大佐であったが、浜田が芙蓉部隊を指揮することはなく、芙蓉部隊の3飛行隊は131空から実質的に独立し指揮は美濃部に一任された [104]。美濃部は、海軍省人事局や海軍航空本部からも厚遇されて、若い優秀な搭乗員を優先的に芙蓉部隊に配置してもらっている。そのため芙蓉部隊は補充人員が定員を大幅に上回ることとなり、指揮官の美濃部が新入隊員を把握できないほどであった[105]

沖縄戦[編集]

1945年3月26日、連合軍が慶良間諸島に上陸を開始し沖縄戦が開始されると、3月30日と31日に美濃部は、芙蓉部隊のうちで熟練した隊員らを零戦15機と彗星25機とともに、鹿児島県鹿屋基地へ進出させた。引き続き訓練が必要な搭乗員らや予備戦力は藤枝基地に残ることとなったが、訓練拠点を維持することにより、藤枝で鍛え上げられた搭乗員と前線で消耗した搭乗員とを随時交代させるという、当時の日本軍としては他に例を見ないシステムを確立することができた[106]

沖縄戦では第5航空艦隊の命令で、敵飛行場、敵艦隊に対する夜間攻撃、敵艦隊の索敵などの多様な任務をこなしたが、特に菊水二号作戦以降は、特攻援護のため陸軍航空隊第6航空軍の重爆撃機と協力しての敵飛行場夜間攻撃が主任務となった[107]。アメリカ軍飛行場は強力な対空砲火と、レーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“ヘルキャット”とP-61“ブラックウィドー”などの夜間戦闘機により固く守られており、特に夜間戦闘機が芙蓉部隊最大の障害で[108]、多数の芙蓉部隊機が未帰還となったが、地道に任務を継続していった。指揮官の美濃部が特攻を拒否して通常攻撃任務を通したいきさつもあって、美濃部は隊員らに常に戦果を求めていた[109]菊水作戦発令前の偵察任務で、彗星に搭乗していた偵察員鈴木昌康中尉が潜水艦らしき艦影を発見し、操縦員の坪井飛長に接近を命じたところ、退避する様子もなかったため、味方艦と判断し帰投した。その報告を聞いた美濃部は烈火のごとく怒り、「ばかもの!この時期に味方の艦艇がうろうろしているわけがない、敵に決まっている」と決めつけ「なぜ接近して機銃でも撃ちこまん」と激しく叱責した。鈴木はこのことを気にしてか、一週間後の特攻機誘導任務では深入りし未帰還となっている[110]。また、不調で引き返した機体については、美濃部が自らエンジン音を確かめて不調ではないと判断すると、すっかりと陽がのぼっていたのにもかかわらず再出撃を命じている。その機は無事に帰還することができたが、その搭乗員は後に「あのときほど指揮官(美濃部)がうらめしく、怖かったことはない」と述べている[111]。このような美濃部の任務に対する厳正な姿勢もあり、芙蓉部隊の損害は他の通常攻撃の部隊より大きいものとなった[112]

美濃部が考えたアメリカ軍航空基地への攻撃法は、「夜間、黎明に超低空で敵基地に接近、零戦は機銃で敵地上機を掃射し、彗星は超低空から三式一番二八号ロケット爆弾などを使用した必中爆撃」であり、菊水作戦開始当初はこれに基づいて、零戦や彗星が低空飛行での精密攻撃を行っていたが[113]、激烈なアメリカ軍航空基地の対空砲火で多大な損害を被ったことにより、大幅な作戦変更に追い込まれた。美濃部がソロモンで夜襲部隊の構想を抱いてからもっともこだわってきた零戦夜間戦闘機による敵航空基地への夜襲は、損害ばかりが増えて効果は乏しかったため断念し[114]、彗星による爆撃も、敵対空砲火が濃密な高度2,000m以下での精密爆撃を諦めて、高度4,000mで敵航空基地に接近後急降下し、高度3,000mで投弾するという戦術に切り替えざるを得なかった[115]。 急降下爆撃の投弾高度については、日本海軍は様々な実験で導かれた「800m以上(の投弾)にては命中率著しく低下する」という急降下爆撃の投弾高度の分析で[116]、急降下爆撃基準投下高度を700mと定め[117]、さらに太平洋戦争に突入すると、それまでの戦訓により「高度2,000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾」とさらに投弾高度を引き下げており[118]、芙蓉部隊の投弾高度3,000mでは明らかに高すぎて効果的な爆撃は望むべくもなかった。芙蓉部隊は主要兵装として海軍中央の反対を押し切ってまで採用した、命中率が高い三式一番二八号ロケット爆弾も射程500mに過ぎず[119]、使用できなくなっている。超低空からの必中攻撃で多くの未帰還機を出した4月中と比べると、3,000mからの爆撃が主となった5月以降は、芙蓉部隊機の出撃機数に対する損失率は減少しており、美濃部の対策が奏功することとなったが、逆に戦果報告も具体性を欠くものが多くなっている[120]

芙蓉部隊の航空基地があった岩川の側を流れる菱田川、岩川飛行場の滑走路には菱田川の川底からすくった砂利を敷き詰めた

芙蓉部隊が所属していた鹿屋基地は、海軍航空隊特攻の最大基地であったため、特攻に苦しめられたアメリカ軍から目の敵にされ、B-29が日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、 鹿屋基地などの九州の航空基地の攻撃に転用されるなど[121]、激しい攻撃を受けるようになったので、美濃部はたまりかねて、5月中旬、芙蓉部隊を鹿屋から約27kmに離れた岩川海軍航空基地に移動させた[122]。この岩川の移動については、美濃部は自ら車で相応しい基地を探して回った際に見つけて、美濃部が主導したと記憶しているが[123]戦史叢書の記述によれば、5月13日~14日にかけて九州を襲ったアメリカ軍機動部隊に有効な反撃ができなかったのを重く見た、第5航空艦隊司令部主導での兵力再配置の一環であり、芙蓉部隊の岩川への移動は司令部からの命令であったとされており、美濃部の記憶とは食い違っている[124]

美濃部は岩川基地で、飛行場を農地に見せかける完璧なカムフラージュを施させ、夜になると完璧な灯火管制を実施することにより、アメリカ軍から飛行場を隠すことに成功し攻撃を継続した[125]。カムフラージュは美濃部の拘りで徹底したものとなり、移動式の家屋4棟に樹木10数本と牛10頭と大量の草や枝葉を準備し、航空機が離着陸したあとは、滑走路上に草を散布し、家屋や樹木や牛を設置して牧場に見せかけている。散布する草や樹木は、常に青々としたものを準備するため、農民に2万円(2017年当時で3,000万円)を支払って草刈りや枝葉の収集を依頼していた[126]。岩川基地周辺を通過して、沖縄から出撃したB-25ミッチェルなどが宮崎・鹿児島などの南九州を空爆していたが、基地の露見を恐れた美濃部は迎撃を禁止していた。周辺の住民は「戦闘機隊なのになぜ上がらないのか」「逃げ隠れしているのか」と不満を抱いており、芙蓉部隊搭乗員も、何の妨害も受けず我が物顔で基地上空を通過していく敵機を見て口惜しさを募らせていたが、美濃部が迎撃を許可することはなかった[127]

任務には厳しい美濃部であったが、部下へはよく気を配っていた。芙蓉部隊が岩川に移動していた同じ時期に、菊水七号作戦が発令され、第5航空艦隊と陸軍の第6航空軍は、5月24日深夜から沖縄戦開始以降最大規模で沖縄の敵飛行場に攻撃をかけることとし、多数の爆撃機と飛行場への空挺特攻部隊義烈空挺隊を投入したが[128][129]、今まで飛行場攻撃を主要任務としてきた芙蓉部隊は、24日は岩川基地に移動完了した日であり、美濃部は移動で疲労した搭乗員を気遣って、この日は作戦会議開催等の名目で出撃を回避している。美濃部は搭乗員らが今でいうエコノミークラス症候群にならないよう按摩の手配までする気遣いぶりであった[130]。出撃休息日となった芙蓉部隊に対して、陸海軍の爆撃機と義烈航空隊は、アメリカ軍の激烈な迎撃で多大な損害を被ることとなったが[131]、読谷飛行場で航空機38機を完全撃破もしくは大破、20名の死傷者、ガソリン70,000ガロン焼失、半日飛行場使用不能、嘉手納飛行場で一時使用不能、伊江島飛行場で60名の死傷者を出させるなど、沖縄戦での日本軍による飛行場攻撃で最大の戦果をあげている[132][133]

また、岩川には、美濃部が木更津の会議で戦力にならないと批判した、練習機白菊で編成された西条海軍航空隊の特攻隊も進出してきた。岩川基地の庶務の管轄は九州海軍航空隊であったが、特攻の西条空に対して芙蓉部隊は、支給される食材の質に大きな差をつけられ、副食が昆布ひじきあらめといった海藻類ばかりになっていた[134]。美濃部らが藤枝にいた頃、基地主計課の竹田という下士官が、物資不足のなかで基地のありったけの砂糖を集めて汁粉作ったが、藤枝の食糧事情をよく認識していなかった美濃部は、出された汁粉が砂糖不足で甘くなかったので「こんなものが飲めるか」と怒鳴って突き返し、竹田を涙ぐませたことを悔いており[135]、美濃部は食事内容の格差の原因は芙蓉部隊が「特攻隊ではないから」から差別されていると考えて、管轄の九州海軍航空隊を飛び越えて、直に第5航空艦隊司令部に食事内容改善の要求を行っている[136]。第5航空艦隊は美濃部の要求を受けると佐世保鎮守府に調査を依頼、鎮守府の調査団が速やかに岩川に調査に来たが、手違いで岩川基地を整備していた海軍設営隊の3214施設隊と同じ食糧基準となったいたことが判明したため[137]、調査後ほどなく潜水艦乗組員用の最高級の食材を満載した貨物列車が岩川駅に到着した。そのなかには、コーヒーや紅茶といった嗜好品や、当時の日本では超贅沢品であったコンビーフも大量に入っていた。また、官給品の食糧の他にも自給自足を標榜していた芙蓉部隊には、周囲の農家から大量の鶏卵や農産品の差し入れがあり、牛が一頭差し入れられたときには、みんなでステーキに舌鼓を打つなど[138]、美濃部の奔走により、戦時中とは思えない様な豊かな食生活となった。

芙蓉部隊の活躍を見ていた第五航空艦隊司令長官宇垣は、岩川基地を視察した1945年(昭和20年)7月23日(廿三日)の『戦藻録』に、美濃部について「芙蓉部隊長は水上機出身なるがよく統率して今日迄の活躍は目覚ましきものなり」と記述している[139]。 第五航空艦隊司令部は持病のマラリアで定期的に高熱で寝込んでいた美濃部の指揮能力を懸念しており、人事局に美濃部の交代要員を望み、座光寺一好少佐が第九〇一海軍航空隊から芙蓉部隊に異動してきたということがあったが[140]、美濃部は芙蓉部隊指揮官を更迭されることを拒否、司令長官である宇垣に引き続き芙蓉部隊の指揮をとることを直談判し、宇垣は美濃部からの要請を受け入れて「岩川基地指揮官を芙蓉部隊岩川派遣隊指揮官に指定す」(天航空部隊命令第45号)という、一部関係者にしか理解不能な辞令を発令、司令部の方針に反して、引き続き美濃部が岩川の芙蓉部隊の指揮官であることを保障[141]、座光寺は美濃部の副官格として藤枝に異動させるなど[142]、美濃部を評価していた。岩川基地の視察のさいに宇垣は「この辺は米軍上陸の矢面となろう。この地は君に委ねる。多くの部下を抱えて大変だろうが、よろしく頼む。もう再び会うことはないかもしれんなぁ」と美濃部に親しげに語りかけている。美濃部は宇垣の思いやりで胸が熱くなり「ご心配をおかけします。未熟者ですが精いっぱいやります」と答えるのが精一杯であった[143]。美濃部は、宇垣を「芙蓉部隊作戦の理解と応援者」のひとりとして感謝している[144]。宇垣もこの視察はよほど満足したようで、かろうじて空の明るさが残る19時まで岩川に滞在し、暗くなる前にようやく鹿屋への帰路についている[145]

沖縄戦は司令官の牛島満大将らが自決した6月23日に一応の終結を見たが、その後も芙蓉部隊は終戦まで沖縄への出撃を続けた。出撃回数81回延べ786機が出撃、未帰還機43機(零戦16機、彗星37機、計53機とする出典もあり[146])延べ機数に対する損失率は5.5%、搭乗員戦死者は89名、総戦死者103名(搭乗員戦死者92名、整備員戦死者13名、総戦死者105名とする出典もあり[147])と特攻隊に参加せずと宣言しながら決して少なくはない損害を被った[148]。敵をほとんど発見できなかった索敵任務を除き、飛行場攻撃や特攻機誘導などの戦闘任務だけを見れば損失率は跳ね上がり、延べ341機の出撃で37機を喪失し損失率は10.9%にもなっている[149]。芙蓉部隊の元整備兵慎田崇宏も、戦後の静岡新聞の取材に対し、『全軍特攻』の世相の中で『夜間攻撃』を選択した美濃部の選択を正しかったが、多くの戦果を挙げた分だけ、他の部隊より多くの犠牲者を出してしまったと振り返っている[150]。大きな犠牲と引き換えに、芙蓉部隊があげた総合戦果は、潜水艦1隻撃沈[151](アメリカ軍に該当の被害記録なし[152])、戦艦1隻撃破、巡洋艦1隻撃破、大型輸送船1隻撃破[153](戦艦撃破については芙蓉部隊の戦闘詳報には記録なく[154]、アメリカ軍記録にも該当の被害記録なし。巡洋艦、大型輸送艦についても芙蓉部隊が撃破したと報告した4月6日にアメリカ軍に該当の被害記録なし[152])、敵機夜戦2機撃墜(うちP-61の1機は該当するアメリカ軍の損害記録なし[155])、飛行場大火災3回、飛行艇1機炎上、テント1個炎上を報告している[156]

美濃部は決号作戦本土決戦)で、あたためていた対機動部隊用の特攻戦術を実践するため[157]、最終出撃に加わる24機分の編成表を作り上げた。芙蓉部隊は日本軍の他の部隊と異なり、出身別の軋轢や階級別のわだかまりも少なかったので、特攻出撃の搭乗員名簿は兵学校出身者、予備士官予科練出身者が分け隔てなく選抜されていた。美濃部は常に指揮官率先を主張しており、最後の特攻には自身も出撃するつもりであった[158]。残された整備員たちは、上陸してきたアメリカ軍戦車隊を志布志街道で迎え撃ち、樹上に吊り下げた航空爆弾の投下と、山上から航空燃料のドラム缶に火をつけ戦車に向けて転がして攻撃し、最後はたこつぼ塹壕に潜んだ志願者が爆弾を抱えて戦車に自爆体当りをするという特攻戦術を実施する計画であった[159]

終戦[編集]

ラバウルでの小園安名(左)

1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送を聞き、多くの兵士や国民は終戦を知った。玉音放送後、美濃部を評価し支援してきた第5航空艦隊司令の宇垣が、中津留達雄大尉以下11機の彗星を連れて終戦後の私兵特攻に出撃し死亡した[160]。芙蓉部隊隊員は玉音放送を聞いた隊員と聞いていない隊員に分かれており、整列して聞いたと証言する隊員もいる中で[161]、指揮官の美濃部は、芙蓉部隊にはラジオがなかったので、玉音放送は聞いていないと記憶しており[162]、午後2時に通信科から新聞電報で知らされると、「本当に陛下の言葉なのか?東京方面で一部が策動したのではあるまいか、信じがたい」と疑った[163]。そこで情報収集を図ったところ、徹底抗戦を掲げていた厚木海軍航空隊司令の小園が玉音放送後に全軍に向けて打電した「日本は神国で、絶対不敗なのに、降伏の声明を発するのは、重臣閣僚が(昭和天皇の)聖明を覆った結果である。従ってこのような命令は聞けない、実施部隊としてあくまで戦う」[164]とする檄文を妄信してしまい(厚木航空隊事件)、「やはりそうだったか。ようしそれなら断固死突あるのみ」と思い込み、「302空に呼応し、芙蓉部隊も九州において起つ」という電文を全軍に向けて打たせている。勝ち目のない戦争と知りながら、軍の命令とは言え「いずれ後からいく、それまで待っていてくれ」と多数の部下を送り出し、その百余名を戦死させてしまったのに、今さら戦争中断とは酷い話だという美濃部の思いも、徹底抗戦という判断を後押しした[165]

美濃部は全搭乗員を集めると「座して神州が汚されるのを見るより、むしろ武人の節を全うして死のう。指揮官の意思に従う者はついてこい!」と訓示した[166]。第5航空艦隊司令部も混乱しており、芙蓉部隊に何の指示や命令もないなかで、美濃部は8月16日と17日に20機の彗星と零戦を戦闘準備させ、南九州沖に索敵攻撃に出撃を命じているが、両日ともにアメリカ軍との接触はなく全機無事に帰還している[167]。この出撃について美濃部は著書に、上級司令部からは何の指示もなく、指揮官である自分には部隊内に相談できる相手もいないため、降伏の方法が定められていない日本軍の戦陣訓などの伝統に縛られたせいであったと記述しているが[168]、徹底抗戦を部下に訓示する美濃部に対して、飛行隊長の徳倉正志大尉は「(抗戦は)止めた方がいいですよ、もうアカンでしょう。」と諫めている[169]

藤枝基地の芙蓉部隊でも、8月17日に302空の戦闘機がばら撒いた「国民諸子二告グ」とする小園起草の決起を促す檄文ビラ[170]を見た隊員らに動揺が広がりつつあったが、その様子を見た指揮官の座光寺が士官らをガンルーム(士官次室)に招集し、天井に拳銃を拳銃を2~3発発射したのち「ともかく戦争に負けた。このさい軽挙妄動は禁物である。連合軍がどのような措置をとるかは分からないが、子孫にわれわれの精神を受け継がせよ。きさまたちが海軍の伝統をけがすような行動に出たら、即刻射殺するぞ!」と強い口調で訓示した。この座光寺の強い意志と訓示で、藤枝の不穏な空気は一掃されて、動揺する岩川の美濃部や芙蓉部隊隊員より先に復員作業を開始して、50機の所属機はそのまま藤枝基地に残された[171]

第5航空艦隊の司令官は前連合艦隊参謀長の草鹿となったが、草鹿は、第5航空艦隊参謀長の横井俊之少将から宇垣による特攻の一部始終を聞かされると、宇垣に続くものが多数出てくることを懸念した。草鹿は第5航空艦隊での自分の役割を、昭和天皇の終戦の意思をくみ、連合軍の進駐を無血裡に終わらせるため、不穏な動きを全て封殺することと考えて[172]、草鹿は横井に、東京の海軍省まで事情を聞きに行かせて、第5航空艦隊幕僚や現場指揮官に説明させることとし、8月18日正午に各航空隊指揮官を大分の第5航空艦隊司令部に招集した[173]。横井は招集した美濃部ら部隊指揮官や、呼ばれてもいないのに押しかけていた尉官達に、海軍省で聞いてきた詔勅が出たいきさつを説明した。草鹿は、横井が一通り説明を終わると「貴官らの気持ちはよくわかるが、今はただ、陛下の思し召しに副い、皇軍の潔さを米国軍民に示すべきではないか、私は5航艦の総力をもって終戦平和に努力する決意である。不都合と思う者があれば、この私をまず血祭りにあげてからにせよ」と身を挺して諭した。すると、室内に満ちていた呻きがやがてすすり泣きに変わり[174]、ある若手士官が「長官のお話によって、われわれはのぼせがすっかりさめました。私にも数十人の部下がおりますが、私がかならずまちがいのないように掌握いたしますから、その点どうか安心ください。」と申し出て、ほかの参加者も同意した。草鹿は会議参加者に酒をふるまい、全員で日本海軍軍人として最後の大元帥陛下万歳の乾杯をして、大きな混乱もなく会議は散会となった[175]。美濃部も草鹿と横井の説得で、他の指揮官同様ようやく抗戦を諦めて基地に帰ったが、美濃部に徹底抗戦と焚きつけられていた隊員たちは「なぜやめるんだ!これだけの飛行機があるじゃないか」と憤慨した。美濃部は部下を指揮所前に整列させると、「芙蓉部隊は陛下の部隊である。詔勅が出た以上、もはや私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ」と草鹿が美濃部らを諭したときと同じように身を挺して隊員をなだめた[176]。隊員の説得を終えると、美濃部も張りつめていたものが切れて、丸一日ベッドで寝込んでいる[177]

美濃部は、この第5航空艦隊の会議に参加していた勅使の軍事審議官井上成美大将から、会議後にひとりだけ呼ばれて、直々に「君の部隊はこれまでよく戦った。今になって降伏とは腹にすえかねよう。しかし、聖断が下った今、若い者が多く大変であろうが自重してもらいたい」と声をかけられたと記憶しているが[178]、井上は終戦直後の8月16日の昼から、米内光政の海軍大臣留任のために、軍事参議院で意見調整するなど奔走したのちも東京の海軍省におり[179]、8月21日には、緑十字機マニラに飛び、ダグラス・マッカーサー司令部と終戦事務処理の打ち合わせしてきた杉田主馬書記官から海軍省内で報告を受けており、大分で開催された第5航空艦隊の8月19日の会議に井上が参席していたという事実はない[180]。井上が九州入りしたのは、終戦事務を進めていた第5航空艦隊で一部混乱が生じていたことを懸念した海軍大臣米内が、井上に9月10日付官房第409号で第5航空艦隊の査閲を命じる訓令を出してからであり[181]、井上はこの訓令により9月14日から24日まで大分、松山美保を廻り、終戦事務の査閲を行っている[182]。査閲のさいに井上は各指揮官と面談し、統制ある終戦処理を推進して帝国海軍の有終の美を飾るよう説いているので[183]、その際に美濃部と井上が面談した可能性は高い。

昭和天皇に拝謁するため東京に向かった草鹿に部隊の復員作業を一任された横井は[184]、急な敗戦で気が立っている特攻隊員と進駐軍の不測の衝突を避けるべきとの考えで、8月20日、各部隊に「24時間以内に基地から2km圏外に離脱し、隊員はすみやかに復員せよ」という急な命令をおこなった。公共交通機関は麻痺状態にあり、また「搭乗員は米軍に逮捕される」という噂も広まり隊員に動揺が見られたため、美濃部は早急な復員を実現すべく、隊員たちが部隊の飛行機を用いて復員することを許可した[185]。勝手に航空機を動かすことは後日問題となる可能性もあったが、美濃部は自分が責任を取ればいいと考えた[186]。部隊の飛行機による復員は、特攻機桜花などで特攻作戦を推進した第七二一海軍航空隊(通称神雷部隊)など他の部隊でも行われている[187]

8月21日の朝に鹿児島に進出以来初めてとなる合同慰霊祭を開催、慰霊祭が終わった後で美濃部が最後の訓示を述べた。「この戦争は敗れた。だが10年たてば、ふたたび国を立てなおす可能性が出てくるかも知れない。この間、自重し、屈辱に耐えてがんばってもらいたい。10年ののち、ここにもう一度集まろう」、訓示の後、正午に、日の丸や機体番号などが塗りつぶされ武装を取り外した零戦と彗星が引き出され発進準備を進めたが[188]、皆がなかなか出発しようとしないなか、美濃部や残留者が「早くいけ」と急き立てた[189]。離陸した各機は、別れのあいさつ代わりに翼を振ってから上昇していき、美濃部は各機が見えなくなるまで右手を振り続けたので、全機が出発するまで2時間を要している[190]

岩川での再会の約束が果たされたのは、戦後33年経過した1978年に、岩川基地跡地に戦没者を慰霊する「芙蓉之塔」が建立され、美濃部ら元隊員や関係者・遺族100名以上が集まって式典が開催されたときとなった[191]

戦後[編集]

美濃部が航空自衛隊退官後に就職した日本電装学園(現デンソー工業学園)の母体株式会社デンソー本社

戦後は海軍を引き継いだ第二復員省の斡旋で、名古屋地方人事部(愛知県庁)で戦没者の遺族対策をしていた。その間、朝日新聞に就職活動し内定までもらっていたが、GHQによる公職追放で旧軍人の美濃部はマスコミへの就職を断念せざるを得ず、持病のカリエスの悪化により、名古屋地方人事部も退職した[192]。その後は、他の多くの旧軍人と同様に、保険の外交員、電球の行商、喫茶店の経営など様々な職に就いたが、長続きせず安定した収入が確保できなかった[193]。美濃部の実家太田家は、戦前は広大な農地を所有する豪農であったが、GHQによる農地改革で多くの農地を失い、美濃部は仕方なくわずかに残った太田家の農地と、賃借した農地をあわせて農業を始めた。しかし借地を含めても最低採算が確保できる面積の半分にも満たず、農作業も美濃部と元々海軍将官の令嬢で野良仕事の経験など皆無であった妻篤子の2名でおこなったので、美濃部が慣れない篤子に「もっと早くできんのか」と怒声を浴びせることもしばしばで[194]、農家ながら配給の小麦粉[195]、近所の逢妻川で魚とりして食いつなぐといった赤貧生活であった[196]

その後始めた養鶏業もうまくいかなかったので、1953年に旧海軍の伝手を頼って海上警備隊に入隊、1954年に発足したばかりの航空自衛隊に転籍した。始めは、パイロットを目指して飛行学生となったが、航空自衛隊発足当初の飛行教官はアメリカ空軍の士官であり、英語も達者ではなかった美濃部は教官と衝突し飛行学生をクビになってしまった[197]。その苦い経験でパイロット育成のための英語教育が不可欠と痛感し、1955年に再度操縦訓練を再開、教官過程も無事終了し、9月には第2操縦学校の初代訓練課長となった。部下の教官の中には芙蓉部隊の隊員であった藤澤保雄1尉もいた[198]。その後も空幕運用課長、統幕学校教育課長、第12飛行教育団司令などの要職を歴任したが、1959年の春に胃がんにより胃を切除する手術を受けることとなり、一命はとりとめたが、この後体調不良に悩まされ3回も手術を受けることとなる[199]。美濃部もこの大病を経験し「私は栄達を放棄して、上司におもねず家庭重視型の幹部となった」としている[200]。1966年7月16日輸送航空団司令兼美保基地司令。1969年4月1日航空自衛隊幹部候補生学校長。栄達を放棄したと言いながら、航空自衛隊最高位の空将まで昇進したのち、1970年6月30日に55歳の誕生日を前にして依願退職した[201]。退職後は、防衛産業各社からの再就職の誘いがあり、その中で退職自衛官を積極的に雇用していた日本電装株式会社(現デンソー)運営の訓練学校日本電装学園(現デンソー工業学園)の学園長を選択して再就職し[202]、今に続くデンソー工業学園の基礎を作り上げて、61歳となる1976年に退職した[203]

日本電装学園退職後は家庭菜園などをして悠々自適な生活を送っていたが、1985年にがんが再発し9時間にも及ぶ大手術をうけており、このころから体力が急激に衰え始めた[204]。元号が昭和から平成に改まった頃に、戦死した部下らへの鎮魂と、21世紀を生きる子供や孫の世代への教訓を残したいという目的で、自分の人生を振り返る手記『大正っ子の太平洋戦記』を執筆を開始した。美濃部はその本で、多くの旧日本海軍の高級軍人らを名指しで激しく非難、太平洋戦争を「太平洋戦争の悲劇は日本民族全員の罪であり反省すべきものである」「日本民族が自国中心の国家体制を最善と考え、アジア諸国に強要した独善性の過ち」と糾弾し[205]、平成の日本人に対し「グルメあさりに浮かれる日本人が、世界は仲良くしようと訴えるだけで通ると思うのか」「平成の若者よ。心から平和安定を願うなら、日本人の生活を50%切り下げよ。そのお金で飢餓民族を支援せよ。今の日本人にその覚悟と実行力なくして世界平和を唱える資格はない」と苦言を呈している[206]。『大正っ子の太平洋戦記』を8年かけて執筆を終えたころには、体重が40kgをきるほど衰弱していたが、延命治療を断り、死亡確認された際は、自分の遺体を献体とするよう覚書をしたためている[207]。1997年6月9日時点では口がきけないほど衰弱していたが、訪ねてきた孫とひ孫に筆談で意思表示すると、3日後の6月12日に81歳と11か月でこの世を去った[208]。美濃部が三女に遺したたった一つの遺言は「二度とあのばかな戦争を繰り返してはいけない」であった[209]

特攻に対しての考え[編集]

美濃部は、特攻に反対した人物として知られており、戦時中は、特攻のことを「つまらぬ作戦だ」と切り捨てていたり[210]、1992年に取材に訪れた作家の保阪正康に対して、「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている(中略)あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解しなければならない」「私は、若い搭乗員に特攻作戦の命令を下すことはできなかった。それを下した瞬間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ。」と語っているが[211]、美濃部は、日本軍が航空機特攻を本格的に検討する前の、マリアナ沖海戦前の戦闘316飛行隊長だった時点で、対敵機動部隊への攻撃法として「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」という特攻戦術を考案し[212]、実際にその戦術を実践するため、硫黄島の戦い中の1945年2月17日に、志願もしていない隊員に「機動部隊を見つけたら、そのままぶち当たれ」と特攻を命じており、安易な特攻への依存について否定していただけで、十分敵を引き寄せて確実に敵を補足し効果が望めるのならば、特攻命令も辞さない考えであったが[213]、芙蓉部隊による機動部隊への攻撃は全て空振りに終わったため、実践する機会がなかったに過ぎない[214]。芙蓉部隊隊員の元戦闘機搭乗員渋谷一男も「美濃部さんは特攻自体を完全否定していたわけではない。代案がなければ『やむなし』と思っていた。」と証言している[215]。芙蓉部隊の公式報告書「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日」においても「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」と戦機に応じて特攻は出すべきものとしていた[216]。また、美濃部は自らの著作にも「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と記述している[217]

美濃部が特攻に対して批判的だった一番の理由は、日本海軍は伝統的に「指揮官先頭」を標榜しながら、特攻に関しては「司令、飛行長、隊長といった指揮官が編成から除外されていたことであった」と戦後直後にまとめた『芙蓉部隊天号作戦々史』という芙蓉部隊の公式報告書に記述している[218]。美濃部は指揮官先頭を常に意識しており、出撃する芙蓉部隊員に「いずれ後からいく、それまで待っていてくれ」と最後は戦死した百余名の部下の後を追うと約束し[219]、実際に決号作戦本土決戦)における芙蓉部隊の作戦計画『芙蓉部隊決号作戦計画』においては、美濃部が指名した部下熟練搭乗員と共に、自らが先頭に立って敵機動部隊に特攻し、残される整備兵などの地上要員に対しては、一兵たりとも後退を禁じて、敵上陸軍を道連れに周辺住民もろ共、地雷や航空爆弾で自爆攻撃を命じる計画を立てており[220]、芙蓉部隊の指揮官である自分は「降伏なき皇軍には、今や最後の指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民にお詫びするとき」が来たと考えて、部下だけ送り出して自分らは出撃しない特攻隊の指揮官らとは違い、最後は自ら特攻で戦死すると決めていた[221]。最後の特攻を決心していた美濃部は、沖縄での敗戦が明らかになった頃には、軍高官らに「これ以上戦っても勝算がありません」と切腹して天皇にお詫びするべきだったと痛烈な言葉を投げかけている[222]

しかし、終戦直後の第5航空艦隊の草鹿や横井からの指示や[223]、復員状況査閲の前海軍次官井上の説諭で[224]、戦死した部下らの後を追って特攻するという考えを改めている。軍高官らは全員切腹して天皇や国民にお詫びすべきという考えも変わり、戦後に、美濃部をフィリピンで評価した大西と、沖縄で様々な支援を行った宇垣がともに自決したが、美濃部は「自らの裁断、行動を正当化する自己満足ではなかったか」と逆に批判している。特攻兵器桜花を運用し特攻を推進した神雷部隊司令岡村基春大佐の自決に対しては、岡村が美濃部の義父と家族ぐるみの付き合いがあったとしながら「哀れを留めた」「やや思慮に欠けるが」「苦しい中に世間の風も冷たかった」「桜花特攻推進強行は天も恐れざる所業ではなかったか」と更に辛辣な評価をしている[225]。岡村の自決は戦後しばらく経った1948年の出来事で、遺書もないことから動機は不明であるが、美濃部と同様に、出撃する神雷部隊隊員に「お前たちだけを行かせやしない。俺も必ず行く」と言って送り出しており[226]、第一回目の桜花の出撃で、指揮官の野中五郎少佐の代わりに自分が出撃しようとしたが野中に拒否された結果、野中ら桜花隊は全滅し自分が死に損なったことを終生悔やんでいたこと[227]復員庁勤務時に自費で神雷部隊基地であった鹿屋や、船を借りて南海の島を特攻隊員の慰霊巡りしていたことが、死後に判明している[228]

著書[編集]

  • 『まぼろしの戦斗部隊史』高知県防衛協会、1969年
  • 『大正っ子の太平洋戦記』美濃部篤子、1999年

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 機銃掃射によるPT-34、爆撃によるPT-117, 123, 164, 320 特攻によるPT-300, 323の合計7隻
  2. ^ 境克彦は著書「特攻セズー美濃部正の生涯」で、黒岩少将とは当時の連合艦隊参謀であった神重徳大佐のことではないかと推測しているが、美濃部は著書「大正っ子の太平洋戦記」で他の人物は実名の名指しで強く批判しており、神だけ偽名とする理由は不明としている
  3. ^ 美濃部がこの非難を実際に発言したかは不明
  4. ^ 美濃部自身も晩年に記述した著書「大正っ子の太平洋戦記」では連合艦隊主催の会議と記述している
  5. ^ ここで草鹿が美濃部のいう『黒岩少将』なる人物と同じように美濃部を「貴様は何を言うか。必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、これを阻むものがあるか」と怒鳴りつけたとする出典もある。
  6. ^ 実例としては、芙蓉部隊最大の出撃となった4月27日(零戦8機 彗星20機 合計28機出撃)には、芙蓉部隊以外の通常航空作戦機として、芙蓉部隊と同じ飛行場攻撃に天山艦上攻撃機4機、陸軍重爆撃機5機、艦船攻撃26機、偵察・哨戒3機、合計38機(除偵察機35機)が出撃している。

出典[編集]

  1. ^ a b 保阪正康『昭和戦後史の死角』朝日新聞社258頁
  2. ^ テレビ愛知『芙蓉部隊、特攻せず 戦後60年目の証言』2005年5月
  3. ^ 御田重宝『特攻』講談社145頁
  4. ^ 境克彦 2017, p. 168
  5. ^ "The lone civilian: One Alaska war hero's unique place in history"
  6. ^ "FOSTER & ETTA JONESBy Cheri Ensley "
  7. ^ 境克彦 2017, p. 178
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