朝雲 (駆逐艦)

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Asagumo-1.jpg
艦歴
計画: マル2計画
起工: 1936年12月23日
進水: 1937年11月5日
就役: 1938年3月31日
その後: 1944年10月25日戦没
除籍: 1945年1月10日
性能諸元
排水量 基準:約2,000t、公試:2,400t
全長 118.00m
全幅 10.386m
吃水 3.71m(平均)
機関 オール・ギアードタービン2基2軸
艦本式ロ号重油専焼缶3基
52,009hp(公試)
最大速力 34.70kt(公試)
航続距離 18ktで5,190浬
燃料 重油580t
乗員 230名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 Ⅱ×2
(または13mm機銃 Ⅱ×2)
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九〇式魚雷16本)
九一式爆雷×36

朝雲(あさぐも)は[1]日本海軍駆逐艦一等駆逐艦朝潮型(満潮型)の5番艦である[2]スラバヤ沖海戦第三次ソロモン海戦ビスマルク海海戦キスカ島撤退作戦など太平洋戦争の数々の海戦に参加。1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦で西村艦隊に所属してスリガオ海峡へ突入、米艦隊の砲撃で撃沈された。艦名は海上自衛隊やまぐも型護衛艦3番艦「あさぐも」に継承された。

艦歴[編集]

神戸川崎造船所で建造予定の駆逐艦「朝雲」は、1936年(昭和11年)10月22日に命名[1]。同日附で姉妹艦「山雲」、工作艦「明石」も命名されている[1]。同年12月23日に起工、1937年(昭和12年)11月5日進水、1938年(昭和13年)3月31日に竣工[3]。同時に第41駆逐隊に編入された。同年12月15日、第三予備艦となり横須賀海軍工廠蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機調事件)。1939年(昭和14年)11月15日、所属の第41駆逐隊が第9駆逐隊となった。1940年(昭和15年)11月15日、第9駆逐隊は第2艦隊・第4水雷戦隊(司令官西村祥治少将、旗艦「那珂」)に編入された。

太平洋戦争緒戦[編集]

太平洋戦争開戦時には、同型艦「山雲」「夏雲」「峯雲」と共に第9駆逐隊(司令佐藤康夫大佐)に属し、ビガンリンガエン湾上陸作戦を支援した。12月下旬、「山雲」は触雷して損傷、第9駆逐隊と分離して日本本土へ回航された。1942年(昭和12年)1月よりタラカンバリクパパン等の攻略作戦に加わり、2月にマカッサル攻略作戦に協力。

2月27日、第9駆逐隊第1小隊(朝雲、峯雲)は第四水雷戦隊各艦と共にスラバヤ沖海戦に参加。両艦は日本艦隊の勝利に貢献したものの、「朝雲」は一時航行不能となる損害を受けた[4]。第五戦隊(那智足柄)・第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊)・第四水雷戦隊各隊が遠距離砲戦雷撃戦に終始する中、第9駆逐隊(朝雲、峯雲)のみ距離6000mまで肉薄して魚雷を発射、重巡エクセターを掩護しようとした駆逐艦2隻(実際はエレクトラ、エンカウンター、ジュピターの3隻)と距離3000mで砲撃戦となる[5]。「朝雲」はエレクトラの砲撃を受けて一時航行不能となるも、「峯雲」と共同でエレクトラを撃沈した[5]。速力12ノットとなった「朝雲」は「峯雲」に護衛されて人力操舵で避退、南緯6度38分 東経111度43分 / 南緯6.633度 東経111.717度 / -6.633; 111.717地点で投錨して応急修理を行い、片舷航行可能24ノット発揮可能となる[6]。28日、「朝雲」「峯雲」は第四水雷戦隊および輸送船団と合流、駆逐隊司令艦は「夏雲」に変更され、「朝雲」はバリクパパンに回航された[7]。なお第9駆逐隊の戦果報告は『軽巡1隻撃沈』であり、戦果検討の席上で異存を唱える者に対し佐藤司令は「遠くに逃げていた奴になにがわかる」と怒鳴り、第五戦隊は第9駆逐隊の報告を受け入れざるを得なかったという[8]

「朝雲」は3月2日から18日までボルネオ島バリクパパンで応急修理したのち、工作艦「山彦丸」を護衛。その後、内地へ向かった。3月29日、横須賀に到着し修理を行う[9]。5月15日、「山雲」は第9駆逐隊から除籍される[10]。第9駆逐隊は3隻編制(朝雲、夏雲、峯雲)となった。同時期、第四水雷戦隊旗艦「那珂」も長期修理のため四水戦から除籍、軽巡洋艦「由良」が新旗艦となった。 修理を終えた「朝雲」は6月のミッドウェー海戦に攻略部隊として参加した。 南雲機動部隊の壊滅後、第5戦隊(妙高羽黒)、第9駆逐隊、給油艦「玄洋丸」は牽制部隊としてウェーク島近海で行動する[11]。ウェーク島の基地航空隊と連携し、偽電を交信するなど米軍機動部隊の誘引を試みたが、特に成果はなかった[12]。6月14日より北方部隊に編入され、補給部隊(峯雲、玄洋丸)と合流して北上した[13]アリューシャン方面に転じてからは第5戦隊に加えて戦艦「金剛」、第一水雷戦隊(旗艦「阿武隈」)、第21戦隊(木曾多摩)等と行動を共にする[14]。北方での任務終了後の7月20日、第9駆逐隊第1小隊(朝雲、夏雲)は重巡洋艦「鳥海」(第八艦隊旗艦)のラバウル進出を護衛して桂島を出発したが、途中で第16駆逐隊第1小隊(雪風、時津風)と交代する[15][16]。8月1日、クェゼリン環礁に立ち寄り練習巡洋艦「香取」と合流、8月8日に横須賀へ到着した[17]

ソロモン諸島の戦い[編集]

不時着した二式飛行艇の捜索にむかった「夏雲」(19日トラック着)を除く第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は第4戦隊(愛宕/第二艦隊旗艦、高雄)を護衛してトラック泊地へ進出、24日-25日の第二次ソロモン海戦に参加する[17]。その後、9月20日からガダルカナル島輸送に9回従事した。10月5日、第9駆逐隊僚艦「峯雲」は空襲により損傷、戦線から離脱した。10月12日、サボ島沖海戦の損傷艦救援にむかった第9駆逐隊僚艦「夏雲」が空襲を受け沈没、「朝雲」は同艦乗組員の救助を行う。10月25日、第四水雷戦隊旗艦「秋月」が被弾して中破、「秋月」以前の旗艦だった軽巡洋艦「由良」も沈没した。高間完第四水雷戦隊司令官は一時「村雨」に将旗を掲げたのち、10月31日から旗艦を「朝雲」に変更した。

11月中旬、第四水雷戦隊旗艦「朝雲」は第2駆逐隊(村雨五月雨夕立春雨)・第27駆逐隊(時雨白露夕暮)を指揮し、第11戦隊(司令官阿部弘毅少将:戦艦比叡霧島)を中核とする『挺身艦隊』に所属して第三次ソロモン海戦に参加する。挺身艦隊は悪天候の中で何度も反転したため四水戦の陣形は崩れ、警戒隊として先行するはずだった「朝雲」及び第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)は第11戦隊本隊と同行する事になり、第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)のみ艦隊前面に突出する格好となった[18]。このような状況下ではじまった13日第一夜戦で、挺身艦隊は駆逐艦「」沈没、戦艦/旗艦「比叡」操舵不能、駆逐艦「夕立」航行不能、「」「天津風」中破、「村雨」「春雨」損傷という損害を受ける。 午前1時、「朝雲」は炎上する「夕立」に接近[19]。高間司令官は「夕立」乗組員に艦を放棄してガダルカナル島へ向かうよう命令した[20][21]カッターボートを降ろした「朝雲」は「夕立」を残して離脱していった[22]。その後、「五月雨」が救援のために到着し、夕立乗組員を救助している[23]。「朝雲」は戦艦「霧島」を護衛して戦闘海域を離脱した。第一夜戦で「朝雲」は主砲88発・魚雷8本を発射、敵駆逐艦1隻撃沈を記録した[24]。一方、「雪風」、「照月」、「時雨」、「白露」、「夕暮」に護衛されていた「比叡」は空襲を受けて損傷が進み、13日夕刻になって放棄され沈没した。

日本海軍は艦隊の再編を行い、戦力を整えた。第一夜戦に参加した「朝雲」、「五月雨」、「照月」は近藤信竹中将(旗艦「愛宕」)の指揮下に入り、再びガダルカナル島へ向かう。これを米軍第64任務部隊(司令官ウィリス・A・リー少将)の米新鋭戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)が迎撃し、第三次ソロモン海戦第二夜戦が生起する。「朝雲」は秋月型駆逐艦「照月」に対し魚雷戦を命令[25]。「朝雲」は酸素魚雷4本を発射して2本命中を確認[26]、他艦と共同によりノースカロライナ級戦艦1隻撃沈と記録した[27]。同様に「愛宕」「高雄」も多数の酸素魚雷を発射して米戦艦撃沈を報告したが、実際には米駆逐艦の残骸に命中するか自爆しており、米戦艦に命中した魚雷は1本もなかった。結局「愛宕」、「高雄」、「霧島」、「朝雲」、「照月」は米戦艦に決定的損害を与えられず、逆に「霧島」がワシントンに撃沈された[28]。戦闘終了後、駆逐艦3隻(朝雲・五月雨・照月)は沈没直前の「霧島」に接近して救助活動を実施[29]。「朝雲」は「霧島」の乗員618名を救助しトラックに帰投する。本海戦において「朝雲」が受けた被害は無かった。 11月下旬、四水戦旗艦は軽巡洋艦「長良」に変更された。12月中旬、「朝雲」「時雨」は横須賀からトラック泊地へ進出する空母2隻(龍鳳冲鷹)と駆逐艦2隻(時津風卯月)をサイパン附近まで出迎える予定であったが[30]、「龍鳳」は12日の米潜水艦の雷撃で中破、横須賀へ避退した。「冲鷹」「卯月」のみ横須賀からトラックへ向かい、「朝雲」「時雨」はサイパン北西で2隻と合流した[31]。この後も「朝雲」「時雨」は空母「冲鷹」の横須賀~トラック往復を護衛した。 1943年(昭和18年)1月21日、米潜水艦シルバーサイズの雷撃で撃沈された輸送船「明宇丸」救援のため「朝雲」はトラック泊地を出発し、「明宇丸」の乗員を救助した[32]

1943年(昭和18年)2月上旬、「朝雲」はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)参加した。当初は支援部隊として行動していたが、第一次撤収作戦(2月1日)で第31駆逐隊「巻波」が大破、第10駆逐隊「巻雲」が沈没、その代艦として「朝雲」と「五月雨」は撤収部隊に編入され、ガダルカナル島方面に進出する。第4駆逐隊「舞風」が損傷した第二次撤収作戦(2月4日)、第17駆逐隊「磯風」が損傷した第三次撤収作戦(2月7日)の両方に参加したが、被害はなかった。 2月中旬、「朝雲」は第9戦隊(北上、大井)、第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、「五月雨」、「皐月」、「文月」、「長月」と共にウェワク輸送船団を護衛した[33]。2月28日、第3水雷戦隊(木村昌福少将:旗艦/第11駆逐隊「白雪」)・第8駆逐隊(荒潮朝潮)・第9駆逐隊(朝雲)・第16駆逐隊(雪風時津風)・第19駆逐隊(浦波敷波)は陸軍輸送船団を護衛されてラバウルを出撃、速力9ノットで西方へ向かう[34]。3月2日、B-17爆撃機による爆撃で輸送船「旭盛丸」が沈没、「朝雲」と「雪風」は船団に先行してラエへ向かい、「旭盛丸」の人員や物資を揚陸すると再び船団へ戻った[35][36]

3月3日、ラエ輸送中にダンピア海峡ビスマルク海海戦が起こり、輸送船団はクレチン岬南東沖でアメリカオーストラリア軍機の空襲を受けた(ダンピール海峡の悲劇)。空襲により輸送船は全隻沈没[37][38]。また護衛の駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)も沈没した[39]。「朝雲」は「雪風」、「浦波」、「敷波」および救援のために駆け付けた「初雪」と共に救助活動を行う[40]。485名を救助。最後まで救助活動を行った「朝雲」、「敷波」、「雪風」は3月5日にカビエンに帰投した。 同日、コロンバンガラ島輸送作戦に従事していた駆逐艦「村雨」と第9駆逐隊「峯雲」は米艦隊の奇襲により一方的に撃沈される(ビラ・スタンモーア夜戦)。「峯雲」の喪失により第9駆逐隊は「朝雲」1隻となったが、4月1日附で駆逐艦「薄雲」「白雲」が編入されて戦力を回復した[41]。なお朝潮型ネームシップ「朝潮」の沈没にともない、同日附で朝潮型駆逐艦は『満潮型駆逐艦』に改定された[42]。 その後、「朝雲」はコロンバンガラ島輸送作戦に従事、3月8日(朝雲、雪風、長月、敷波、浦波)、3月13日(朝雲、雪風、長月)[43]。4月1日(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)、4月5日(五月雨、朝雲、夕雲、秋雲)[44]。4月6日をもって「朝雲」は外南洋部隊からのぞかれ、北方部隊に編入された[44]。13日は「雪風」、16日には第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)が外南洋部隊からのぞかれ、代わりに第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、「海風」、「萩風」が同部隊に編入された[44]

太平洋戦争中盤以降の戦い[編集]

4月13日「朝雲」は横須賀に帰投し、第5艦隊第1水雷戦隊に編入される。5月21日にアッツ島に向かうが、予定を変更し幌筵島方面の掃海に従事した。7月29日、キスカ島撤退作戦に加わり、以降10月末まで千島方面海域で対潜哨戒、船団護衛に当たった。9月1日、第9駆逐隊に満潮型「」が編入されて4隻編制(朝雲、霞、白雲、薄雲)となる[45]

10月31日、「朝雲」は第9駆逐隊から除かれ、第3艦隊・十戦隊の第10駆逐隊に編入された[46]。ミッドウェー海戦時の第10駆逐隊は「夕雲」、「巻雲」、「風雲」、「秋雲」の4隻編制だったが、「夕雲」「巻雲」を喪失して「風雲」「秋雲」の2隻となっており、「朝雲」の編入で3隻編制となった。「朝雲」は横須賀で整備を行った後、内地からリンガ泊地間を第1航空戦隊、戦艦「大和」などを護衛し、1944年(昭和19年)3月15日にリンガ泊地に到着した。第10駆逐隊は輸送船団護衛や空母「大鳳」の発着艦訓練等に従事。4月11日、駆逐艦「秋雲」が米潜水艦レッドフィンの雷撃で撃沈され、同隊は「風雲」「朝雲」の2隻となってしまった。5月30日以降、第10駆逐隊(風雲・朝雲)は戦艦「扶桑」の護衛として渾作戦に参加した。 6月8日、第10駆逐隊司令艦「風雲」が米潜水艦ヘイクの雷撃で撃沈されて駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐が戦死、「朝雲」は乗組員の救助を行った[47]。また駆逐艦「」、「秋霜」も風雲乗組員救助のために派遣されている[48]。6月下旬のマリアナ沖海戦には機動部隊本隊に加わり、24日柱島泊地に帰投した。7月10日、第10駆逐隊は解隊されて「朝雲」は第4駆逐隊野分満潮山雲)に編入、同隊は定数4隻を回復した[49]。「山雲」は開戦時の第9駆逐隊所属艦である。

10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊(満潮、朝雲、山雲、野分)は分散配備され、「野分」のみ栗田艦隊・第十戦隊旗艦「矢矧」及び第17駆逐隊(浦風、浜風、雪風、磯風)と行動を共にする。第4駆逐隊3隻(満潮/司令艦、朝雲、山雲)は戦艦「山城」「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)に所属してレイテ湾突入を目指した。10月25日、西村艦隊はスリガオ海峡に突入したものの「時雨」を残して全隻撃沈された。「満潮」「山雲」に続く三番手に位置していた「朝雲」は、米軍駆逐艦の魚雷攻撃により艦首を喪失、低速で反転離脱を開始する[50]。午前4時頃、撤退中の重巡「最上」(大破炎上中)に追い抜かれた[51]。だが2隻は追撃してきた米艦隊の砲撃を受け、砲雷撃を受けた「朝雲」は炎上[52]。「最上」は米艦隊をふりきったものの、「朝雲」は軽巡洋艦デンバーコロンビアの2隻にとどめを刺された[53]。総員退去後、「朝雲」は米巡洋艦及び駆逐隊の集中射撃を受けて沈没した[54]。さらに米駆逐艦は「朝雲」から脱出した内火艇も撃沈、乗組員は漂着して捕虜となった[55]。約200名が戦死し、また生存者25名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録が残っている[56]。 なお栗田艦隊に所属していた「野分」も重巡「筑摩」救援中に撃沈され、第4駆逐隊所属艦は1日で全隻を喪失した。

1945年(昭和20年)1月10日、「朝雲」は 満潮型駆逐艦[57]、 帝国駆逐艦籍[58] のそれぞれから除籍された。全滅した第4駆逐隊も解隊された[59]

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 森可久 中佐:1937年12月1日[60] - 1938年3月31日[61]
駆逐艦長
  1. 森可久 中佐:1938年3月31日[61] - 1938年8月1日[62]
  2. 柳川正男 少佐/中佐:1938年8月1日[62] - 1938年12月15日[63]
  3. (兼)山田鐵夫 少佐:1938年12月15日[63] - 1938年12月20日[64] (本職:峯雲駆逐艦長)
  4. 中村謙治 中佐:1938年12月20日[64] - 1939年8月1日[65]
  5. (兼)有馬時吉 少佐:1939年8月1日[65] - 1939年9月1日[66] (本職:山雲駆逐艦長)
  6. (兼)山田鐵夫 少佐:1939年9月1日[66] - 1939年10月10日[67] (本職:峯雲駆逐艦長)
  7. 脇田喜一郎 中佐:1939年10月10日[67] - 1940年11月15日[68]
  8. 有近六次 中佐:1940年11月15日[68] - 1941年8月20日[69]
  9. 岩橋透 中佐:1941年8月20日[69] - 1943年6月9日[70]
  10. 柴山一雄 中佐:1943年6月9日[70] - 1945年1月10日[注釈 1]

注釈[編集]

  1. ^ 柴山駆逐艦長については、1944年10月25日付で一度は戦死による海軍大佐への進級があった(昭和20年7月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1856号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072106100 で閲覧可能)が、戦後になって生存が確認されたため遡って進級が取り消されており(昭和20年10月1日付 海軍辞令公報 甲 第1936号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072107800 で閲覧可能)、失官を含む新規発令も無いため艦の除籍日に自動解職となる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c #達昭和11年p.11『達第百六十四號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十一年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻工作艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十一年十月二十二日 海軍大臣永野修身|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝雲(アサグモ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 山雲(ヤマグモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 工作艦 明石(アカシ)』
  2. ^ #昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3p.8『驅逐艦|一等|朝潮、満潮、荒潮、大潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』
  3. ^ #昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲p.20『朝雲|(艦性能略)|川崎造船所|11-12-23|12-11-5|13-3-31|(艦兵装略)』
  4. ^ #昭和17年2月~四水戦戦闘詳報(6)p.24『(三)我ガ方被害 朝雲(被弾ノタメ機械故障) 峯雲(若干ノ被害アルヤモシレズ)』
  5. ^ a b #戦史叢書26海軍進攻作戦454-456頁『第二次昼戦(自一八五〇至一九五〇)』
  6. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦456-457頁『第一次夜戦(自二〇五〇至二一一〇)』
  7. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦460頁『輸送船団クラガン入泊』
  8. ^ #巡洋艦戦記142-143頁
  9. ^ #昭和17年3月~第4水雷戦隊日誌(2)p.37『(一)麾下艦船部隊ノ行動』
  10. ^ #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』
  11. ^ #昭和17年6月~五戦隊日誌(1)p.16『5S(那智欠)9dg玄洋丸ハ6月9日以来牽制部隊トシテ「ウェーキ」島近海ニ行動中ナリシ處6月14日牽制部隊解隊…』
  12. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)26頁(山雲は5月15日に9dgより除籍済)
  13. ^ #昭和17年6月~五戦隊日誌(1)p.18『(1)自昭和17年6月14日至同年6月20日(略)兵力|5S(妙高、羽黒) 9dg(朝雲、夏雲、峯雲) 玄洋丸』
  14. ^ #昭和17年6月~五戦隊日誌(1)p.27『第二支援隊ハ6月28日1230第一支援隊ニ引続キ阿武隈、9dg、5S、21S、金剛、玄洋丸ノ順ニ出港作戦海域ニ向ケ陸奥海湾ヲ出撃ス…』
  15. ^ #昭和17年9月~第8艦隊日誌(1)p.43『7月29日1306 直衛(1D/9dg)ハ1D/16dg(雪風、時津風)ト交代、1D/9dgハ反転横須賀ニ向フ』
  16. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)71頁
  17. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)97頁『その他の各隊の進出』
  18. ^ #昭和17年10月~4水雷詳報(2)p.11『…2D/2dgハ11S及10Sノ前程ニアルコトヲ得タルモ朝雲及1D/2dgハ次回反転後ハ本隊ノ右正横附近ニ位置スル状況トナレリ』
  19. ^ #夕立戦闘詳報p.12『0100|夕立|4sd司令官|我夕立航行不能|朝雲附近ニ来ル打方待ツ』
  20. ^ #夕立戦闘詳報p.12『0110|4sd司令官|カッター二送ルニ付乗員ハ陸上ニ行ケ』
  21. ^ #昭和17年10月~4水雷詳報(2)p.16『之ヨリ先「サボ」島ノ」108度5浬附近ニ於テ航行不能前部ヨリ大火災ヲ起シツツアリタル夕立ニ対シテ近接状況ヲ調査セルモ被害大ニシテ戦場離脱不能ト認メタルヲ以テ0017乗員ノ救難用トシテ朝雲ノ「カッター」二隻ヲ送リ乗員ハ機宜陸上ニ避難スベキヲ命ズ』
  22. ^ #夕立戦闘詳報p.12『0110|夕立|4sd司令官|片舷機復旧ノ見込アリ火災ハ鎮火シツツアリ|朝雲西方ニ去ル』
  23. ^ #夕立戦闘詳報p.12『0150|夕立|五月雨|万策盡キタルヲ以テ本艦ニ横付ケ乗員ヲ救助サレタシ|五月雨救援ニ来ル 消火復旧ノ見込ナシ』
  24. ^ #昭和17年10月~4水雷詳報(4)p.33『12日夜戦|朝雲|駆逐艦(マハン型)1隻撃沈|距離3000乃至4000米ヲ以テ約6分間砲撃(発射弾数八八)ニ依リ大火災ヲ生ゼシメ爾後大爆発ヲ起シ沈没セリ雷撃(発射雷数八)ヲ行ヒシモ敵転舵ノ為前方通過セルモノト認ム』
  25. ^ #昭和17年10月~4水雷詳報(2)pp.21-22『朝雲2154一四〇度方向約10000米ニ敵ラシキ艦影ヲ認ム之ノ敵ニ近接シ愛宕ノ照射ニ依リ戦艦2隻ナルヲ認メ2202朝雲照月ニ対シ右魚雷戦ヲ令シ朝雲ハ同時刻砲撃開始』
  26. ^ #昭和17年10月~4水雷詳報(2)p.22『2203発射(右魚雷戦反航発射雷数四)約三分後命中魚雷2本ヲ認メ4S及霧島ノ砲雷撃トニ依リ之ヲ撃沈ス(照月ハ発射セズ)』
  27. ^ #昭和17年10月~4水雷詳報(4)p.34『14日夜戦|朝雲|戦艦(ノースカロライナ型)1隻撃沈|雷撃(発射雷数4)ニ依リ2本命中ヲ與ヘ友軍ノ砲雷撃トニ依リ撃沈ス』
  28. ^ #モリソンの太平洋海戦史205頁
  29. ^ #昭和17年10月~4水雷詳報(2)pp.22-23『0120ニ至リ霧島ハ左舷ニ急速傾斜ヲ始メ間モナク転覆沈没セルヲ以テ引続キ三艦ヲ以テ0230迄ニ人員ノ救助ヲ終リ0235現場発北方ニ避退ス』
  30. ^ #昭和17年12月~4水戦日誌(2)pp.12-13『10日1622将旗4sd→各艦/4sd電令作第1号 AdB電令作第90号ニ依ル4sdノ2艦ヲ朝雲時雨ニ指定 9dg司令ハ朝雲時雨ヲ率ヒ12日以後便宜「トラック」発 14日1200地点ヤカワ41ニテ竜鳳 冲鷹ニ合同シ「トラック」迄之ガ護衛ニ任ズ』
  31. ^ #昭和17年12月~4水戦日誌(1)p.13『…朝雲時雨ハ9dg司令之ヲ率ヒ沖鷹警戒任務ノ為13日1530「トラック」出撃15日1445「サイパン」北西海面ニテ沖鷹卯月ニ合同、18日0750「トラック」着…』
  32. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)272頁
  33. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)244頁
  34. ^ #戦場の将器59頁
  35. ^ #昭和17年9月~第8艦隊日誌(6)p.30『朝雲、雪風ハ「ラエ」先行第51師団司令部其ノ他兵力約800「ドラム」罐110ヲ揚陸ス0045終了』
  36. ^ #戦場の将器60頁
  37. ^ #戦場の将器66頁
  38. ^ #モリソンの太平洋海戦史226頁
  39. ^ #昭和17年9月~第8艦隊日誌(6)p.31『被害 輸送船7(含野島)、朝潮、時津風、白雪、荒潮』
  40. ^ #戦場の将器65頁
  41. ^ #内令昭和18年4月(1)p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
  42. ^ #内令昭和18年4月(1)p.20『内令第五百六十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年四月一日海軍大臣嶋田繁太郎|驅逐艦、一等ノ部中「白雪型」ヲ「初雪型」ニ改メ同項中「白雪、」ヲ、同白露型ノ項中「、村雨」ヲ削リ同「朝潮型」ヲ「満潮型」ニ改メ同項中「、朝潮、大潮」「、「荒潮」「、峯雲」ヲ、同陽炎型ノ項中「時津風、」ヲ削ル(以下略)』
  43. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後77-78頁『その他の三月中の中部ソロモン方面輸送』
  44. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後132-133頁『中部ソロモン方面増援輸送』
  45. ^ #内令昭和18年9月(1)p.26『内令第千八百十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年九月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「白雲」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ』
  46. ^ #内令昭和18年10月(5)p.38『内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、」ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「風雲」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ』
  47. ^ #昭和19年6月~10戦隊日誌p.7『朝雲 七日迄ノ経過風雲ト同断、八日風雲遭難ニ際シ乗員救助…』
  48. ^ #昭和19年5月~日栄丸日誌(2)p.17『6月8日響艦長/響、秋霜救助ノ為メ出動ス』
  49. ^ #内令昭和19年7月p.13『内令第八三八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年七月十日海軍大臣|第四驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、朝雲」ヲ加フ|第十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  50. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.13『○0230頃 満潮(左舷機械室命中)次テ朝雲(三番艦)一番砲下ニ命中、当時右前方ニdヲ認ム|○朝雲ハ約十二節ニテ「パナオン」島東側ヲ南下ス、北方ニ山城ノ砲撃聞ユ(扶桑ハ早クヨリ沈没)』
  51. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.13『○0400頃 後方ヨリ最上(火災ヲ認ム)ノ南下ヲ認メ、之ニ追及セントシタルモ速力及バズ』
  52. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.13『○次テ朝雲艦尾ニ命中火災、更ニ後部ニ魚雷ヲ受ケタルモ、9ktノ速力ヲ維持シ得タリ』
  53. ^ #モリソンの太平洋海戦史328頁
  54. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.13『○夜明頃火災強マリ、総員退去、内火艇ニ移乗ス|○夜明後、籠「マスト」ヲ認ム、次テ20~30隻艦隊南下シ来リ、朝雲ニ対シ集中射撃ヲ実施シ、遂ニ沈没ス』
  55. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.14『○d×2近接シ来リ、内火艇ヲ砲撃撃沈ス。爾後漂流ス|○午後「カッター」ノ漂流ヲ見、之ニ移乗シ、半島ノ南ニ漂流ス(何処カワカラナイ)次テ島民ニ連行サレル』
  56. ^ #10月18日以降増援兵力p.3『地区:マニラ|所轄:朝雲|進出期日(編制期日)1944.10.25|員数25』
  57. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.2『内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル 驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「 島風」ヲ削ル(以下略)』
  58. ^ #秘公報昭和20年1月(2)pp.8-10『内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦厳島|呉鎮守府在籍 軍艦八十島|舞鶴鎮守府在籍 軍艦神鷹|右帝国軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風、驅逐艦 島風|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風、驅逐艦 卯月、驅逐艦 夕月、驅逐艦 初春|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波、驅逐艦 濱波、驅逐艦 沖波、驅逐艦 岸波|右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣』
  59. ^ #秘公報昭和20年1月(2)p.7『昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』
  60. ^ 昭和12年12月1日付 海軍辞令公報 号外 第99号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072072700 で閲覧可能。
  61. ^ a b 昭和13年3月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第159号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072073600 で閲覧可能。
  62. ^ a b 昭和13年8月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第219号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072074200 で閲覧可能。
  63. ^ a b 昭和13年12月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第273号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072074800 で閲覧可能。
  64. ^ a b 昭和13年12月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第276号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072075000 で閲覧可能。
  65. ^ a b 昭和14年8月3日付 海軍辞令公報 (部内限) 第365号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072076200 で閲覧可能。
  66. ^ a b 昭和14年9月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第375号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072076300 で閲覧可能。
  67. ^ a b 昭和14年10月10日付 海軍辞令公報 (部内限) 第389号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072076400 で閲覧可能。
  68. ^ a b 昭和15年11月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第555号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072079400 で閲覧可能。
  69. ^ a b 昭和16年8月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第695号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072081800 で閲覧可能。
  70. ^ a b 昭和18年6月11日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1142号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072091500 で閲覧可能。

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C13071997700 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3(防衛省防衛研究所) 巻3追録/第13類 艦船(1)』。
    • Ref.C12070100800 『昭和11年達 完』。
    • Ref.C12070162800 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。
    • Ref.C12070176200 『昭和18年1月~4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。
    • Ref.C12070180400 『昭和18年9月~10月 内令4巻/内令昭和18年9月(1)』。
    • Ref.C12070181500 『昭和18年9~10月 内令4巻/内令昭和18年10月(5)』。
    • Ref.C12070195500 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。
    • Ref.C12070503600 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。
    • Ref.C08030111100 『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)/「スラバヤ」沖海戦戦闘詳報』。
    • Ref.C08030111700 『昭和17年3月1日~4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030043900 『昭和17年6月1日~昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030022500 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030051800 『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030051900 『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030773000 『昭和17年11月12日 駆逐艦夕立戦闘詳報 第3次「ソロモン」海戦』。
    • Ref.C08030115400 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。
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    • Ref.C08030116000 『昭和17年12年1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
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    • Ref.C08030050400 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(5)』。
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    • Ref.C14061105800 『捷1号作戦に於ける2YBの作戦経過概要 5F水雷主務参謀 中佐 森幸吉記憶』。
    • Ref.C14061098700 『第1表/2.1944年10月18日以降増援兵力』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』 光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6
  • サミュエル・モリソン大谷内一夫訳 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9
  • 「丸」編集部編 「萱嶋浩一 重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』 光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9

関連項目[編集]