那智 (重巡洋艦)

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那智
Heavy cruiser Nachi.jpg
基本情報
建造所 呉海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 重巡洋艦
級名 妙高型重巡洋艦
艦歴
発注 大正12年度艦艇補充計画
起工 1924年11月26日
進水 1927年6月15日
就役 1928年11月26日
最後 1944年11月5日、米空母レキシントンII」艦上機の攻撃により沈没
除籍 1945年1月20日
要目
基準排水量 10,902トン
公試排水量 13,281トン
全長 203.76 m
水線長 201.63 m
垂線間長 192.48 m
最大幅 19 m
水線幅 17.86 m
吃水 10.97 m
主缶 ロ号艦本式12基
主機 艦本式タービン4基
出力 13,0000馬力
最大速力 35.6ノット
航続距離 7,000(14ノット時)
乗員 竣工時定員704名[1]
搭載機 水偵3機(射出機:呉式2号1型1基、後に呉式2号5型2基)
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那智(なち)は、日本海軍重巡洋艦妙高型重巡洋艦の2番艦である[2]那智級と表記された事もある[3][4][5]。命名の由来は和歌山県那智山に依る[6]艦内神社熊野那智大社から分祀された。

艦歴[編集]

1924年(大正13年)11月26日、呉海軍工廠にて起工[7]。当初、進水は1926年(大正15年)10月中旬を予定していた[8]1927年(昭和2年)6月15日、梨本宮守正王列席のもと進水[9]1928年(昭和3年)11月26日竣工[10]。起工は妙高より1ヶ月遅れたが、竣工は8ヶ月早まった事になる[11]佐世保鎮守府所属[12]

同年12月4日、横浜沖での御大礼特別観艦式に参加する[13]。那智は最新鋭1万トン級巡洋艦として世界に紹介された[14]。那智の栄誉は続いた。1929年(昭和4年)5月下旬〜6月上旬、東京(横須賀)、八丈島、大島、和歌山、大阪、神戸、東京(横須賀)を昭和天皇が行幸する事になり[15]、その御召艦として那智と戦艦長門が指定される[16]。当時の那智には高等官27名、判任官159名、兵566名、計752名が乗艦していた[17]。5月28日午前10時、横須賀軍港にて昭和天皇が那智に乗艦し、午後6時に八丈島にて戦艦長門に移乗した[18]。以後、6月8日の神戸出港まで那智は御召艦長門の供奉艦として行動を共にした[19]

1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖で行われた特別大演習観艦式(御召艦霧島、先導艦足柄、供奉艦妙高、那智、羽黒)に参加[20]

1932年(昭和7年)には第一次上海事変で警備に従事する。

日中戦争では1937年(昭和12年)8月20日から24日まで上海上陸作戦に参加した。

太平洋戦争[編集]

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、第五戦隊司令官高木武雄少将は妙高を旗艦とし、同戦隊の妙高型重巡3隻(妙高、那智、羽黒)は比島部隊(第三艦隊、司令長官高橋伊望:旗艦足柄)に所属していた。パラオへ進出後、ダバオ攻略作戦を支援する 1942年(昭和17年)1月4日、比島部隊の主力艦(第五戦隊、神通、那珂、長良、瑞穂、千歳、雪風等)はダバオのマララグ湾に集結していた[21]。そこへB-17型重爆8機が襲来、被弾した妙高は中破(戦死20、戦傷40余)[21]。妙高は佐世保へ回航され、第五戦隊旗艦は那智となった[21]。その後もメナドアンボン島マカッサル攻略作戦に従事。 2月17日スターリング湾を出撃しチモール島デリークーパン攻略を支援。22日スターリング湾に帰投した。

2月24日正午、ジャワ島攻略作戦支援のため第五戦隊(那智、羽黒)と駆逐艦2隻(山風江風)はスターリング湾を出撃した[22]。第一護衛隊(第四水雷戦隊)及び輸送船団と第二水雷戦隊と合流し、ジャワ島クラガン目指して南下中の27日、28日スラバヤ沖でカレル・ドールマン少将率いるABDA連合軍艦隊と交戦する(スラバヤ沖海戦[23]。那智、羽黒は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》、臨時編入艦《潮、漣、山風、江風》)・第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦那珂、第2駆逐隊《村雨、五月雨、春雨、夕立》、第9駆逐隊《朝雲、峯雲》)を率いて海戦当初から連合国軍艦隊と交戦、第三艦隊旗艦足柄は妙高、雷、曙を率いて海戦後半(3月1日)から参戦した。3月1日昼戦では、那智は砲弾を節約しつつ発射、さらに使用可能な水偵1機に30kg爆弾を搭載して敵駆逐艦を攻撃させた。

本海戦は日本軍の大勝で終わったものの、想定外の事態が多数発生した。重巡部隊や水雷戦隊が発射した酸素魚雷は多数が自爆、のちに艦政本部が調査委員会を設置する大問題となった[24]。那智の場合、27日第一次昼戦では魚雷発射管故障報告のため魚雷戦を実施しなかったが、実はヒューマンエラーだった[25]。圧炸空気を送る塞止弁が既に開いているのに、命令に従って弁を開こうとするもハンドルが動かず、艦橋に「発射管故障」と報告された[25]。27日第一次夜戦では、搭載水上偵察5機を回収しようとして那智、羽黒が洋上に停止していたところ、敵巡洋艦を味方艦隊と誤認して2隻とも「ワレ飛行機揚収容中」の識別信号を送る[26]。砲撃されて敵艦と気づいたが砲撃戦準備は全く出来ておらず、数斉射を浴びつつ退避に成功した[26]。最後の那智水偵は放置寸前で『運よく吊り上げられた』[27]。 28日第二次夜戦では、那智は上記の理由で魚雷を発射していなかったので、那智が8本、羽黒が4本を発射、ABDA艦隊旗艦デ・ロイテルジャワを撃沈した[28]。ところが司令部や艦乗組員のほとんどが轟沈するデ・ロイテル、ジャワに気をとられてしまい、南西方向(バタビア方面)へ離脱した巡洋艦2隻(ヒューストンパース)を見失った[29]。慌てて東方海面(スラバヤ方面)を捜索したが、見つかるはずもなかったという[29]

砲戦に関して、第五戦隊砲術参謀末国正雄中佐は戦史叢書に「五戦隊が怪我をしたら輸送船団が危険なので、アウトレンジ砲撃を行いつつ魚雷戦で片づけるつもりだった」という主旨の回想を述べている[25]。那智主砲発令所長の萱嶋によれば、敵1番艦に主砲を斉射したところ着弾前に第二目標を狙うよう下令があり、この弾着前に第三目標を狙うといった事を繰返していたという[30]。那智艦橋にいた大尉は「司令部はすっかりあがっていた」「五戦隊砲術参謀は落第」と述べている[31]。 3月1日昼戦では、オランダの病院船オプテンノールを護送するため駆逐艦が航行していたところ、重巡エクセターをオプテンノールと誤認、砲撃された[32][33]。オプテンノールの護送任務は駆逐艦の天津風が行っており、曙に与えられた命令は誤ったものだった[32][34]。那智では曙や第三艦隊(足柄)から発せられた信号が正しいのか疑いを抱き、足柄の位置を問い合わせている[35]

戦闘終了後、20cm砲10門の那智残弾は主砲治門につき7発(定数一門200発)・残魚雷4本、羽黒は主砲一門につき19発・残魚雷4本であった[36]。なお2月27日昼戦で駆逐艦エレクトラ、エンカウンター、ジュピターと交戦しエレクトラを撃沈した第9駆逐隊(朝雲峯雲)の駆逐隊司令佐藤康夫大佐は、軽巡洋艦1隻撃沈を報告[37]。戦果検討の席上で指摘されると佐藤司令は「遠くへ逃げていた者に何がわかる」と怒鳴ったという[37]

北方での活動[編集]

3月10日、那智は蘭印部隊から北方部隊に編入、第五戦隊旗艦は妙高に移った[38]。3月17日に佐世保到着、修理・改造を実施する[39]。4月7日佐世保発[40]、4月11日厚岸に入港し第五艦隊旗艦となった。5月26日アリューシャン作戦のため大湊を出航、以後那智は北方海域で行動した。

1943年(昭和18年)3月7日から13日、アッツ島への輸送作戦に参加。22日、2度目の輸送作戦で幌筵島を出撃。27日には重巡摩耶、軽巡阿武隈、第6駆逐隊()、第21駆逐隊(若葉初霜)と共にアッツ島沖海戦に参加し、米重巡洋艦ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25)、軽巡リッチモンド、駆逐艦4隻(ベイリー英語版コグラン英語版モナハンデイル)と交戦する。だが、ソルトレイクシティの攻撃を受け小破(戦死11名、負傷21名)、米艦隊の撃破にも失敗した。被弾により主砲射撃盤が故障したため各砲塔の照準器による各個射撃となったが、日本海軍は砲側照準による射撃訓練を実施しておらず、遠距離砲撃の命中率は更に悪くなったという。海戦後、第五艦隊長官細萱戊子郎中将は更迭された。本海戦の結果はアッツ島の玉砕の遠因となり、さらにキスカ島撤退作戦に発展した。

ところが9月6日20時56分ごろ、大湊から幌筵島に向かっていた那智に向けてアメリカの潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) が魚雷3本を発射し、うち2本が那智の後部煙突直下と艦尾に命中した。しかしこの魚雷は2本とも不発に終わり、へこみと若干の浸水が生じたこと以外は何もなかった。

1944年(昭和19年)6月上旬、マリアナ沖海戦で日本海軍は大敗。サイパンの戦いはアメリカ軍の勝利(マリアナ諸島の占領)という形で終わりつつあった。そこで神重徳連合艦隊参謀は戦艦山城、巡洋艦那智、足柄、多摩木曽、阿武隈等の第五艦隊サイパン島突入作戦を発案、アメリカ軍に対し陸上砲撃をおこなう計画を提案した。第五艦隊は内地に戻り出撃準備を行うが、作戦は実施されなかった。

レイテ沖海戦[編集]

1944年(昭和19年)10月14日、台湾沖航空戦での過大な戦果報告により、大損害を受けた(と思われる)米機動部隊攻撃のため、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊(第五艦隊、司令長官志摩清英中将、通称志摩艦隊)に対し台湾東方へ進出し、「好機をとらえて敵損傷艦の捕捉撃滅及び搭乗員の救助に当れ」と命令、豊田副武連合艦隊司令長官も『敵機動部隊はわが痛撃に敗退しつつある。基地航空隊と第二遊撃部隊は全力を挙げて残敵を掃討せよ』と命じる[41]。15日、志摩艦隊旗艦那智は重巡足柄などとともに瀬戸内海を出撃した。一方、アメリカ軍のハルゼー提督は暗号解読により日本艦隊(志摩艦隊)が出撃したと知ると、損傷巡洋艦2隻に空母を含む護衛部隊をつけ、偽装電報を発信して日本艦隊を誘因しようとした[42]。しかし日本艦隊の動きが鈍い事を知ると、艦隊戦闘に向けての準備をやめ、レイテ上陸支援に専念するよう命じた[43]。16日、連合艦隊司令部はアメリカ軍機動部隊が健在である事にようやく気付き、志摩艦隊に台湾の馬公に入港するよう命じる[44]。17日、志摩艦隊(那智)は奄美大島薩川湾に入港、18日出航、20日馬公に進出した[45]。翌21日、第二航空艦隊長官から駆逐艦3隻派遣の要請を受け、第二航空戦隊の高雄〜マニラ輸送に協力するよう命じられていた志摩長官は第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)を派遣し、これにより志摩艦隊戦力は那智、足柄、阿武隈及び駆逐艦4隻(第7駆逐隊《》・第18駆逐隊《不知火》)に減少してしまう[46]。志摩艦隊は連合艦隊南西方面艦隊の命令に振り回されており、その指揮系統は非常に複雑であった[47]。同日、志摩艦隊はレイテ湾に来襲したアメリカ軍攻撃のため出撃。23日夕刻にコロン湾に到着すると、24日午前2時に出港、西村艦隊の後を追うようにスリガオ海峡に向かったが、指揮系統の違う両艦隊の間で情報の交換は全く行われなかった[48]

25日日付変更直後、那智以下志摩艦隊はスリガオ海峡に突入。当初は、曙、潮が2km先行して並列して進み、後方中央に那智、足柄、阿武隈、不知火、霞が単縦陣を形成して26ノットを発揮していた[49]。午前3時頃、西村艦隊と米艦隊との戦闘音や閃光を視認する[49]。直後、アメリカ軍魚雷艇の攻撃により第一水雷戦隊旗艦阿武隈が3時24-25分に被雷落伍した[50]。那智、足柄及び駆逐艦4隻は単縦陣を成形して航行し、4時10分に海峡中央部で炎上する艦艇2隻(艦によっては3隻)を発見するが[51]、それは分断された西村艦隊の戦艦扶桑であった[49]。炎上する最上も4つの炎上艦艇を視認している[52]。西村艦隊は米艦隊の砲撃雷撃の集中攻撃により戦艦山城、扶桑、駆逐艦満潮山雲を撃沈され、重巡最上と駆逐艦朝雲が大破して微速退避中、中破した時雨は舵故障と修理を繰返しながら撤退中で、健在艦は一隻も残っていなかった。 海峡へ向かう志摩艦隊は時雨から艦名を問われて『われ那智』と返答する[53]。志摩長官は『那智の後に続け』と命じたが[54]、時雨は『舵故障中』と返答して[55]、単艦で避退していった[53]。4時15分、那智のレーダーが方位25度、距離11kmに敵艦らしき目標2つを探知、那智、足柄は各艦魚雷8本を発射した[53][56]。アメリカ軍はヒブソン島で日本軍の魚雷2本を発見しているため、那智、足柄は島に向けて魚雷を撃ったとみられるが、雷跡を視認して報告したアメリカ軍駆逐艦部隊も存在する[53]

雷撃後の那智は炎上中の西村艦隊の重巡最上の前方を通過しようとしたが、停止したと思われていた最上は速力8ノットで前進しており、両艦は同航体勢で衝突した[57]。最上は那智に対しメガフォンで舵故障と艦長副長戦死の状況を伝達した[53]。衝突による最上の損傷は軽微だったものの、那智は艦首を損傷し[58]、最大速力約18-20ノットに低下してしまう[59]。志摩長官は突入中止を決定、4時25分に『当隊攻撃終了、一応戦場を離脱して後図を策す』と打電する[53]。那智、足柄は扶桑の残骸のそばを通過、再び時雨と遭遇して合流を指示したが、時雨は続行できなかった[60]。また、最上に対しては曙が護衛についた[61]。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将以下司令部は阿武隈より霞に移乗し、阿武隈は潮の護衛下で退避した[62]。夜が明けると、志摩艦隊と西村艦隊残存艦はアメリカ軍魚雷艇群、アメリカ軍水上艦艇、アメリカ軍機動部隊艦載機、アメリカ軍基地航空隊の反復攻撃を受け、西村艦隊の駆逐艦朝雲が米艦隊の砲撃で沈没、最上も空襲により25日午後1時に、阿武隈も26日の空襲で沈没した。一方那智以下志摩艦隊はマニラを目指して避退中、志摩長官は栗田艦隊(第一遊撃部隊)から落伍・航行不能となっていた重巡洋艦熊野を発見し、足柄、霞に救援を命じた[63]。那智、不知火は14時にコロン湾に着、熊野、足柄、霞は16時28分にコロン入泊を果たした[64]。だが不知火は第十六戦隊(鬼怒浦波)救援のためコロンを出撃、両艦捜索中に空襲を受け撃沈された。

サミュエル・モリソンは著書「モリソンの太平洋海戦史」の中で本海戦について『日本海軍がこの戦闘で何をもって慰めとするかの答えはむつかしい。彼らの雷撃の技量は1943年の標準に及ばず、砲撃の効果もきわめて小さかった。シーマンシップさえ低下したことは那智と最上の衝突が示している。戦闘全体を通じて最も知的な行為は、志摩長官が避退命令を出したことだった。』と評している[65]。栗田艦隊、志摩艦隊、小沢機動部隊、基地航空隊の連繋は機能せず、その中で扶桑型戦艦2隻を投入しての局地夜戦は、第三次ソロモン海戦の失敗を繰り返して終わった[66]

沈没[編集]

レイテ沖海戦の敗北後、第五艦隊所属艦はマニラを拠点に敵制空権下での輸送作戦(多号作戦)に従事することになる。マニラ湾には10月23日の米潜水艦の雷撃で大破していた重巡青葉(第十六戦隊)も停泊しており[67]、28日には熊野と駆逐艦沖波も入湾した[68][69]。 10月29日、マニラはアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け那智、熊野、青葉も目標となってしまった[68]。那智の飛行甲板に小型爆弾が命中[70]。魚雷2本が誘爆し、那智に損傷を与えた[71]。マニラの状況を受けて熊野は台湾への退避準備をはじめた[68][72]

艦首がもぎとられ、第四砲塔付近から船体をへし折りながら沈没する那智

10月31日、小沢機動部隊に所属してレイテ沖海戦に参加したのち奄美大島に停泊していた軽巡大淀と駆逐艦若月がマニラに到着、大淀乗組員達は艦首のない那智の姿を目撃した[73]。 11月1日、那智の水上偵察機はセミララ島に擱座した駆逐艦早霜(栗田艦隊所属)を発見、不知火の最後を聴き出した[74]。11月5日早朝、重巡熊野、青葉はマタ31輸送船団と共にマニラを出発、接岸航路で北上を開始した[68][75]。午前7時40分、熊野、青葉はマニラ上空にアメリカ軍機数十機を認める[76]。また、大淀も南西方面艦隊司令部と相談の結果、5日未明にマニラ湾を発ちボルネオ島へ向かっていた[77]

その頃、マニラでは那智以下多数の艦艇がアメリカ軍機の空襲を受けていた。那智は米空母レキシントン(USS Lexington, CV-16) からの艦上機による空襲を受け多数の爆弾、魚雷の命中により沈没していった[78]。乗員807名が戦死し、220名が救助された。志摩長官以下第五艦隊司令部は陸上にいて無事だった。

なお那智救援中の曙も被弾して炎上し、霞、初春、初霜、潮は救援活動に従事した[79]、6日に曙を浅瀬へ曳航し擱座させた[80]。 11月11日、那智の水上偵察機は発進に失敗し、水没して喪われた[81]。 11月13日、マニラはアメリカ軍艦上機の空襲を受け、軽巡木曾、駆逐艦4隻(曙、沖波秋霜初春)は大破着底状態となってしまった[82]。同日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、)はマニラを出港した[83]。初霜には第五艦隊司令部が便乗しており、ブルネイ着後は足柄に移乗して将旗を掲げた[84]

エピソード[編集]

兵装[編集]

(新造時)

  • 50口径3年式20cm連装砲5基 10門
  • 45口径10年式12cm高角砲 6基
  • 留式7.7mm単装機銃 2基
  • 13式水上固定発射管 12門 (魚雷:8年式2号61cm 24本)

(最終時)

  • 50口径3年式II号20cm(20.3cm)連装砲5基 10門
  • 40口径89式12.7cm連装高角砲 4基
  • 96式25mm連装機銃 10基 同 単装 28基
  • 92式4連装発射管 2基 (魚雷:93式酸素魚雷61cm 16本)
  • 2号1型電探 1基
  • 2号2型電探 2基
  • 1号3型電探 1基
  • E-27 逆探 (搭載数不明)

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』98-100頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 新山良幸 大佐:1928年5月21日 - 1928年9月10日

艦長[編集]

  1. 新山良幸 大佐:1928年9月10日 - 1929年11月30日
  2. 大西次郎 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  3. 平田昇 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  4. 田畑啓義 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  5. 大和田芳之介 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  6. 祝原不知名 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  7. 小松輝久 大佐:1934年11月15日 - 1935年12月2日
  8. 戸塚道太郎 大佐:1935年12月2日 - 1936年11月16日
  9. 福田良三 大佐:1936年11月16日 - 1937年12月1日
  10. 岩越寒季 大佐:1937年12月1日 - 1939年10月10日
  11. (兼)佐藤勉 大佐:1939年10月10日 - 1939年11月15日
  12. 八代祐吉 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月15日
  13. 高間完 大佐:1940年11月15日 - 1941年8月20日
  14. 清田孝彦 大佐:1941年8月20日 - 1942年11月16日
  15. 曽爾章 大佐:1942年11月16日 - 1943年9月10日
  16. 渋谷紫郎 大佐:1943年9月10日 - 1944年8月20日
  17. 鹿岡円平 大佐:1944年8月20日 - 1944年11月5日戦死

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 昭和2年6月15日付 海軍内令 第203号改正、海軍定員令「第40表 一等巡洋艦定員表 其1」。
  2. ^ #昭和16年12月31日現在艦艇類別等級p.2『軍艦|巡洋艦|一等|妙高型|妙高、那智、足柄、羽黒』
  3. ^ #軍艦模型制作許可願の件p.1、#20糎砲塔搭載の件p.1『那智級用二十糎砲塔ヲ…』
  4. ^ #日本軍艦集 : 2600年版p.26『(足柄は)妙高と同型。世界に誇る那智級一萬頓重巡の最後に出来上つた艦である。』
  5. ^ #敦海軍会議一件 第五巻/経緯、その他(3)p.2『軍艦建造計畫 補助艦補充計畫(昭和四年完成)(総額?億?千萬圓)巡洋艦 一万噸四隻(那智級) 七千百噸四隻(加古級) 驅逐艦廿一隻 潜水艦廿八隻』
  6. ^ #寄贈品受領の件p.4『昭和弐年五月十日 和歌山県知事清水徳太郎→海軍大臣岡田啓介殿/目下海軍工廠ニ於テ建造中ニ係ル軍艦那智ハ其ノ艦名ヲ本県下熊野「那智」ノ地名ヲ選択セラレタルハ當ニ本県ノ誇リトスルノミニナラス大ニ光栄トスル所ニシテ県民等シク感謝措ク能ハサル次第ニ在之候(以下略)』
  7. ^ #第2233号艦艇建造工程表交換の件p.2
  8. ^ #軍艦那智工事予定概括表の件p.10
  9. ^ #軍艦那智命名式次第書の件p.2、#守正殿下御行勤御予定の件p.8
  10. ^ #軍艦那智工事予定概括変更の件p.19『呉鎮守府司令長官→海軍大臣(三.一一.二六)/那智竣工 今二十六日午前十時三十分授受ヲ了ス。』
  11. ^ #ポケット海軍年鑑:日英米仏伊独軍艦集.1937,1940年版p.31
  12. ^ #艦艇特務艦艇籍一覧表p.1
  13. ^ #大礼参列艦船並に航空機p.1
  14. ^ #御親閲当日式場の光景pp.1-2『(前略)第四列には世界最新の航空母艦たる加賀、第一航空戦隊旗艦赤城、同航空母艦鳳翔続いて最新式一万頓級巡洋艦那智其他第五戦隊旗艦衣笠以下巡洋艦八隻ヲ列シ(以下略)』
  15. ^ #行幸に関する件pp.1-2
  16. ^ #行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)pp.1-2
  17. ^ #行幸海軍艦名及乗員数に関する件(1)p.10
  18. ^ #行幸に関する件p.3
  19. ^ #八丈島〜大阪行幸関係2(1)pp.15-17
  20. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.242『昭和五年特別大演習式場圖』
  21. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦117-118頁
  22. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦43頁
  23. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦448頁『敵有力水上部隊出現(二月二十七日)』
  24. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦470-471頁
  25. ^ a b c #戦史叢書26海軍進攻作戦458-459頁
  26. ^ a b #巡洋艦戦記143-146頁『恐るべきウェーキ』
  27. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦456頁『第一次夜戦(自二〇五〇至二一一〇)』
  28. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦457頁『第二次夜戦(自〇〇三〇至〇一〇〇)
  29. ^ a b #巡洋艦戦記152-153頁『長蛇を逸す』
  30. ^ #巡洋艦戦記127-128頁
  31. ^ #巡洋艦戦記136頁
  32. ^ a b #第二氷川丸の航跡61頁
  33. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.58『1144|曙|我敵巡ト交戦中』
  34. ^ #S1703五戦隊日誌(2)pp.22-23『2-28|(略)(4)1630頃蘭国病院船1隻上陸泊地附近ニ航行中ナルヲ認メ夕立之ヲ臨検次テ天津風之ヲ「バウエアン」島北方ニ抑留ス』
  35. ^ #S1703五戦隊日誌(1)pp.22-23『…1144駆逐艦曙ヨリ『我敵巡ト交戦中』ノ報アリ1150(将旗)3Fヨリ(将旗)5S曙ニ「敵ヲ我ニ誘致セヨ1145」ノ令アリ次デ1151(将旗)3Fヨリ更ニ「我敵巡ト交戦中」ノ報アリタルモ之ニ疑問(註 敵発見時間モナク通報アリシ足柄位置ヨリ判断シ甚シク相違アル為疑ヒヲ生ジ改メテ足柄ノ一ヲ照会セリ)アリシヲ以テ重ネテ位置知ラサレ度旨電報彼我ノ関係位置ヲ確認スルコトトセリ』
  36. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦463頁
  37. ^ a b #巡洋艦戦記140-143頁『猛進駆逐隊』
  38. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.4『(3)三月十日GF軍隊区分ノ一部変更発令アリ那智ハ蘭印部隊ヨリ除カレ北方部隊ニ編入セラレタルタメ1300旗艦ヲ那智ヨリ妙高ニ変更ス』
  39. ^ #S1703五戦隊日誌(1)p.5『那智ハ1500「マカツサル」発新任務(5F旗艦)ニ應スル修理改造ノ為馬公経由佐世保佐世保ニ回航(3月17日佐世保着)ス』
  40. ^ #S1703五戦隊日誌(3)p.4『(註)那智ハ4月7日出動準備完了同日厚岸ニ向ケ佐世保発北方部隊ノ任務(3月10日附北方部隊ニ編入)ニ就ケリ』
  41. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか75頁
  42. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか59頁
  43. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか61頁
  44. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか77頁
  45. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか130頁
  46. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか132頁
  47. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか141頁
  48. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか195頁
  49. ^ a b c #捷号作戦はなぜ失敗したのか250頁
  50. ^ #阿武隈詳報(捷号)p.4『0325|魚雷第七兵員室直下ニ命中(略)速力10節以下ニ減速針路概ネ200度』
  51. ^ #霞詳報(捷号)p.4『0418 砲雷同時戦容易 視界内炎上中ノ艦船三、島影ヨリ敵ノ赤色曳跟弾味方部隊ラシキ発砲ノ閃光ヲ認ムルモ敵艦影ヲ認メズ』
  52. ^ #最上詳報(捷号)p.10『此ノ時北方遠距離ニ炎上セルモノ2隻(戦艦ナリヤ商船ナリヤ確認シ得ズ)南方ニ2隻(扶桑及朝雲ト認ム)ヲ認ム。扶桑ノ近傍ヲ南下セルニ黎明直前舟尾方向ヨリ突然猛射ヲ受ク初弾ヨリ夾叉セリ…』
  53. ^ a b c d e f #捷号作戦はなぜ失敗したのか251頁
  54. ^ #時雨詳報(捷号)p.37『0441|那智|三部隊|那智ノ後ニ就ケ』
  55. ^ #時雨詳報(捷号)p.37『0445|時雨|那智|我舵取機械故障』
  56. ^ #那智武蔵日誌(捷号)p.11『水雷科|九三式魚雷一型改二|八|戦斗ニ依リ消耗』
  57. ^ #最上詳報(捷号)p.10『0415 2YBノ突入ヲ認ム 那智ハ最上ヲ炎上停止セルモノト認メ北方ニ向ケ発射後面舵反転最上ノ前方ヲ脱過セントセルニ最上ノ右舷前部ニ同航對勢ニテ觸衝セリ(直ニ離ル)』
  58. ^ #那智武蔵日誌(捷号)p.9『10.25|艦首水線部外鈑/揚錨機室/二番高角砲波除及旋回盤外鈑|約15米切断湾曲/浸水/破壊|「レイテ」湾夜戦ニテ最上ト衝突|11.2.103工作部ニテ応急修理完了/11.2排水完了/現状ノ儘』
  59. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.7『0430頃最上艦首ニテ那智左舟首ヲ觸接(交角約10度)足柄ハ外側ヲ避航、那智ハSp18ktニ減退、揚錨機室浸水舟首材大破、尚舵室ニ浸水アリ』
  60. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか252頁
  61. ^ #最上詳報(捷号)p.11『湾口ニテ2YBヲ発見(将旗)那智ヨリ曙ヲ護衛艦トシテ派遣セラル』
  62. ^ #霞詳報(捷号)p.5『0705阿武隈ニ横付司令部移乗|阿武隈ニ潮、最上ニ曙護衛』
  63. ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.10『1330|霞足柄《2YB》ハ熊野ニ合同警戒ニ當ル』
  64. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか406頁
  65. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか265頁
  66. ^ #阿武隈詳報(捷号)p.34『一.戦艦ヲ局地夜戦ニ使用スルコトノ不可ナルコトハ既ニ「サボ」島沖海戦ニ於テ経験済ナルガ捷一号作戦ニ於テ漫然此ノ過誤ヲ繰リ返セルハ誠ニ遺憾千萬ナリ』
  67. ^ #S1907十六戦隊日誌(2)p.25『23日(天候略)青葉「マニラ」湾外ニ於テ対潜水艦戦斗ニ依リ被雷1本第十六戦隊「マニラ」着|鬼怒ハ「マニラ」湾内迄青葉ヲ曳航セリ』
  68. ^ a b c d #巡洋艦戦記191-196頁『満身創痍の北帰行』
  69. ^ #S1905熊野日誌(4)p.39『10.28|0730|本→大臣総長呉鎮(略)「熊野沖波「マニラ」着」』
  70. ^ #S1905熊野日誌(4)p.40『10月29日|1540頃|F6F SB2C約40機発見約半数ハ「キャビテ」在泊艦船(本那智青葉)攻撃 那智飛行甲板爆弾命中火災F6F×6本艦ヘ急爆スルモ2機ヲ激津(確実)他撃退被害ナシ魚雷1本投棄ス』
  71. ^ #那智武蔵日誌(捷号)p.10『10.29|飛行甲板(破孔3)/発射甲板(破孔1)/飛行科倉庫3.飛行科軽質油庫1(全壊)/水雷科倉庫3.被服庫.後部見張所(全壊)/後部機銃員待機所.後部電信室.飛行科倉庫1(焼失)/後部電信室.内務科倉庫3(小破)|50瓩程度爆弾ノ直撃及魚雷2本誘爆|現状ノ儘』
  72. ^ #S1905熊野日誌(4)p.40『10月29日|1645|敵機撃退空襲状況ニ鑑ミ高雄回航ヲ決意急速回航準備作業開始』
  73. ^ #16歳の海戦317頁
  74. ^ #S1909一水戦日誌(3)p.11『11月1日|那智飛行機|0630カヒデ弯カナカオ基地発駆逐艦不知火ノ捜索ヲ実施ス/1015セミララ弯ニ擱座セル駆逐艦早霜ヲ発見着水不知火消息ヲ尋ネタル處セミララ島西方1000米ニテ沈没セルコト判明セリ|戦果:早霜発見、不知火ノ消息判明』
  75. ^ #S1905熊野日誌(4)p.43『11月5日|0100頃|高雄ニ向ケ「マニラ」発/0400頃|船団及本艦青葉終結/0500頃|「マニラ」湾口通過接岸北上始ム實速8節』
  76. ^ #S1905熊野日誌(4)p.43『11月5日0740頃/F6F×2ヲ発見引続キ「マニラ」上空方面ニ戦爆数十機ヲ認ムルモ来襲セズ』
  77. ^ #16歳の海戦319-320頁
  78. ^ #S1909一水戦日誌(2)pp.9-10『(2)4日「マニラ」帰着司令部ハ主トシテ陸上ニ在リ第四次「レイテ」島増援輸送計画ノ為各部トノ折衝打合セニ従事シ居タルトコロ5日朝来敵艦上機群「マニラ」逐ニ来襲敵ハ折カラ湾内避退行動中ノ那智ニ攻撃ヲ集中同艦危機ニ瀕シ次デ沈没…』
  79. ^ #S1909一水戦日誌(2)pp.9-10『…之ガ護衛警戒ノ為急遽出撃セル曙亦被弾火災航行不能トナレルヲ以テ敵上機最終引揚ノ機ヲ計ヒ1630所在麾下兵力〔霞、二十一駆(初春、初霜)、潮〕ヲ率ヰ出港之ガ救援ニ任ズ』
  80. ^ #S1909一水戦日誌(2)pp.9-10『…職員ノ不撓ノ消火作業ト潮ノ決死的横付消火作業奏功火勢鎮マリタルヲ以テ翌朝ノ出撃ヲ考慮霞ハ先行帰投スルコトトセルモ第四次輸送出撃延期トナリタルヲ以テ再度曙潮ノ附近ニ至リ之ヲ警戒6日未明「マニラ」港着曙ハ天明後浅所ニ曳航擱座セシム』
  81. ^ #那智武蔵日誌(捷号)p.13『(一)航空機ノ損耗及補給 11月11日零水1機(一號機)「スリガオ」海峡夜間偵察ノタメ「セブ」基地発進ノ際機体大破沈没』
  82. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11『(4)…翌13日朝来敵艦上機群及反復来襲「マニラ」港及「キャビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦艇全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜中破木曾大破〕ノ被害アリ…』
  83. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11『敵情尚翌14日来襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊[霞(将旗)、七駆(潮)《応急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部旻女王》三十一駆(朝霜)及竹ヲ率ヰ13日2330「マニラ」ヲ出撃セリ』
  84. ^ #S1911五艦隊日誌(1)p.9『(二)自11月1日至11月30日第二遊撃部隊麾下艦船部隊ノ行動一覧表 (5F司令部)』

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 福永恭助 『増補 軍艦物語』 一元社、1934年11月。
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編纂部 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1940年3月。
    • 海軍研究社編纂部 『日本軍艦集 : 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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    • Ref.C04015551600 『守正殿下御行勤御予定の件』。
    • Ref.C04015551700 『軍艦那智命名式次第書の件』。
    • Ref.C04016182600 『軍艦那智工事予定概括表の件』。
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    • Ref.C04016556100 『行幸の際貴地に入港予定の海軍艦名及乗員数に関する件(1)』。
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 朝雲新聞社、1969年5月。
  • 小淵守男 『航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯今日の話題社1990年ISBN 4-87565-136-8
    • 小淵守男 『巡洋艦「大淀」16歳の海戦 少年水兵の太平洋戦争』 光人社、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9(1990年単行本の文庫版)
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 三神國隆 「第1章 スラバヤ沖海戦とオプテンノール号」『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』 光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2
  • 左近允尚敏 『捷号作戦はなぜ失敗したのか レイテ沖海戦の教訓中央公論社、2010年10月。ISBN 978-4-12-004169-3
  • 「丸」編集部編 「萱嶋浩一 重巡「那智」神技の砲雷戦を語れ」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』 光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9

関連項目[編集]