大淀 (軽巡洋艦)

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大淀
1943年6月、呉軍港に停泊と推定される大淀。
1943年6月、呉軍港に停泊と推定される大淀。
基本情報
建造所 呉海軍工廠[1]
運用者  大日本帝国海軍
種別 二等巡洋艦[2]
艦級 大淀型
母港 横須賀
経歴
計画 1939年[2](マル4計画)
起工 1941年2月14日[1]
進水 1942年4月2日[1]
竣工 1943年2月28日[1]
除籍 1945年11月20日[3]
最後 1945年7月28日横転擱座[4]
その後 1948年解体[5]
要目
基準排水量 8,164英トン[1] または8,168英トン[6]
公試排水量 計画 9,980トン[1]
実際 10,416.556トン[7]
満載排水量 計画 10,990トン[6]
実際 11,433.373トン[7]
全長 192.00m[1]
水線長 189.00m[1]
垂線間長 180.00m[1]
全幅 16.60m[1]
深さ 10.60m[1]
吃水 計画
公試平均 5.95m[1][8]
満載平均 6.36m[8]
実際
公試平均 6.100m[8]
満載平均 6.500m[8]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付)6基[1]
主機 艦本式タービン4基[1]
推進 4軸[1]
出力 計画 110,000shp[1]
公試成績 110,430shp[9]
速力 計画 35.0ノット[1]
公試成績 35.199ノット[9]
燃料 計画 重油 2,445トン[1]
実際 重油 2,452.910トン[7]
航続距離 計画 8,700カイリ / 18ノット[1]
公試成績 10,315カイリ / 18.282ノット[10]
乗員 計画乗員 782名[1]
兵装 三年式15.5cm3連装砲2基[11]
九八式10cm連装高角砲4基[11]
25mm機銃 連装6基[12]または3連装6基[13](竣工時)
同 3連装12基、単装11挺(1944年8月)[14]
同 3連装12基、単装16挺[15]または21挺[13](最終時)
爆雷6個(竣工時)[16]
装甲 計画[17]
機関室舷側60mmCNC鋼、甲板30mmCNC鋼
弾薬庫舷側75mmCNC鋼、甲板50mmCNC鋼
舵取機室舷側40mmCNC鋼、甲板20mmCNC鋼
舵柄室舷側、甲板20mmCNC鋼
搭載艇 竣工時:11m内火艇2、12m内火ランチ2、9mカッター2[17]
改装後:12m長官艇1、11m内火艇2、12m内火ランチ2、9mカッター2[18]
搭載機 計画:一四試高速水偵(紫雲)6機[19]
実際:瑞雲または零式三座水偵2機[20]
レーダー 21号電探1基[21]
22号電探2基(1944年3月装備)[22]
13号電探1基(1944年10月装備)[22]
ソナー 零式水中聴音機1基[23]
九三式三型探信儀1組[23]
水中信号機[24]
その他 竣工時:二式1号射出機10型1基[19]
改装後:呉式二号射出機五型1基[19]
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大淀(おおよど/おほよど)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦(二等巡洋艦 大淀型)[25][26]。 その艦名は、宮崎県下の最大河川である大淀川から因んで名付けられた[27]。大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦でもある。昭和十四年度に着手された第四次軍備充実計画(通称マル4計画)により巡洋艦乙[28]阿賀野型軽巡洋艦)と共に巡洋艦丙[28]として計画され建造された[29]

概要[編集]

軍艦大淀」は、日本海軍の軽巡洋艦[26][30]潜水艦作戦を支援するため新型水上偵察機(紫雲)の運用を可能とし、艦体中央部に航空機格納庫、艦後部に大型カタパルトを装備した。1943年(昭和18年)2月28日に竣工したが、紫雲の性能不足と太平洋戦争における戦局から潜水艦作戦に投入されることはなく、輸送作戦に従事した[30]1944年(昭和19年)3月、水上機格納庫を会議室に改造して5月上旬より連合艦隊旗艦となり、豊田副武司令長官が座乗する[30]。連合艦隊司令部が慶應義塾大学日吉キャンパスに移転する9月29日まで旗艦任務についた[30]。その後は再び最前線に投入され、レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)、礼号作戦北号作戦等、フィリピン方面で活動した[30]1945年(昭和20年)2月下旬に内地帰投後は呉練習戦隊に編入され瀬戸内海(呉)に停泊し、7月28日の呉軍港空襲で大破横転、沈没した[30]

建造経緯[編集]

太平洋戦争開戦前、海軍の対アメリカ戦計画では潜水艦部隊による敵主力艦隊の漸減邀撃が予定されていた。だが、広大な太平洋上を潜水艦単独で敵艦隊と接触交戦するのは困難であった。そこで潜水艦部隊の旗艦として新型の高速水上偵察機を搭載し、これにより最前線で強行偵察を行うことを目的とした偵察巡洋艦の建造が計画された[31]。航空搭載能力が重視され、軍令部の当初の要求は主砲も魚雷発射管も搭載しないものだった[32]。しかし、その後の技術会議では最上型から降ろして余っている15.5cm砲を最低2基搭載、魚雷発射管も装備した方が良いとの意見が出た[32]。これにより主砲は前部に装備、魚雷発射管は重量、場所共に余裕が無いため装備しないことになった[33]。計画では同型2隻(第136号艦《大淀》、第137号艦《仁淀》)が建造される予定であったが太平洋戦争勃発のため「仁淀」は建造中止となった[34]。なお、「仁淀」の艦名は後に海上自衛隊の護衛艦「によど」として陽の目を見る事になる。

艦形[編集]

基本構造[編集]

大淀の船体形状は平甲板型船体である。全備排水量は1万600トンに達し、阿賀野型軽巡洋艦の7700トンと比較しても非常に大きく重巡洋艦クラスの船である[35]。強く傾斜したクリッパー・バウから艦首甲板上に主砲の「三年式 15.5cm(60口径)砲」を三連装砲塔に収めて背負い式に主砲塔計2基を配置した。この15.5cm砲は最上型軽巡洋艦が重巡洋艦に改装された時に降ろした15.5cm砲塔を流用している。大淀型の他には、大和型戦艦の副砲にも使用された。対空戦闘では、10cm高角砲と共に1万メートル付近の米軍12機編隊に撃ちこんで8機撃墜を主張しており、用兵側は有効性を評価している[36]

2番主砲塔の基部から上部構造物が始まり、その上に司令塔を前方に組み込み、頂上部に測距儀とレーダーを乗せた塔型艦橋が立っている[37]。艦橋の後方にトラス構造の前部マストが立ち、船体中央部に集合煙路式の1本煙突が立ち、左右甲板上が艦載艇置き場となっていた。副武装の「九八年式 10cm(65口径)高角砲」は秋月型駆逐艦大鳳型空母に搭載されたものと共通で、艦載艇置き場を前後に挟み込むかのように片舷2基ずつ計4基を配置していた[38]。煙突の後方には大型の箱型格納庫が設けられ、上部にトラス構造の後部マストが立っていた。格納庫後部の右舷側に水上機を運用するためのクレーンが1基が配置されており、後部甲板上の中心部に位置する44.5mの巨大なカタパルトがあった[35]

機関は翔鶴型航空母艦で採用された高温高圧缶を6基装備し、これを1缶1室に分けて6室に搭載した[39]。タービンはその後部に4基設置され、これも1基1室にわけて搭載された[39]。いわゆるシフト配置ではないが、この配置によって煙突を1本に纏めることに成功している[39]。公試では35.5ノット(内田航海長によれば36ノット突破)[40]、39-40ノット発揮の証言も残る[41][42]。旋回性能・操舵性能も抜群だっという[43]

本型には冷暖房も完備されており、居住性はよい[35]。居住区には簡易組み立て式の三段ベッドと、不足分のハンモックがあった[44]第三次ソロモン海戦で沈没した戦艦比叡の元乗組員が多く、訓練や制裁は厳しかったという[45]宮崎神宮から分神した神社が艦橋直下・主砲発令所の近くにあった[46]

用兵評価[編集]

「大淀」は1944年(昭和19年)3月に水上機格納庫を改装して司令部施設とした。格納庫を三段に仕切り、上段に幕僚寝室、中段に作戦室と幕僚事務室、下段に司令部付の事務室や倉庫があった[47]。当時の連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐は大淀の司令部施設について、鉄板で仕切り防火塗料を塗っただけで気持ちの良い部屋ではなかったが広さは充分で使いやすかったと回想している[47]。連合艦隊長官室と参謀長室は艦橋の真下にあり、作戦室と居室の往復には露天甲板を移動する必要があった[47]。また航海中は艦橋直下の小さな作戦室を使用していたという[47]。碇泊中、前甲板には常に天幕がはられて長官や幕僚が休憩し、軍楽隊の演奏を聴きながら食事をとった[48]

艦隊指揮を行う事を専門に建造された艦すなわち指揮専用艦としては、同時期にアメリカ海軍が運用したアパラチアン級揚陸指揮艦英語版と同コンセプトと言える。だが、艦隊旗艦としては司令部施設が狭く、マリアナ沖海戦後に連合艦隊司令部・第二艦隊・第三艦隊指揮官幕僚が集まって行われた報告および研究会は、「大淀」ではなく大和型戦艦2番艦「武蔵」で開かれた[49]。 またレイテ沖海戦後の戦闘詳報では、用兵側から「司令部旗艦」について不満点が列挙されている。まず司令部旗艦としては攻撃力・防御力も劣り、通信能力が限定的であることから「旗艦不適トセラレアリ、中途半端ニテ何レトモツカザル存在ニナリ」と評し、司令部施設を廃して四連装魚雷発射管2基の増設を希望している[50]

搭載レーダーには不具合があった。レイテ沖海戦時の大淀は三式一号電波探信儀三型(13号電探)を装備していたが、最大測定距離は瑞鶴の242kmに対し、大淀は200kmであった[51]二式二号電波探信儀一型(第21号電探)と仮称二号電波探信儀二型(第22号電探)に関しては15.5cm主砲射撃の衝撃で故障が頻発するため使い物にならず、13号電探も無線電話・電波と混信するため測定不能となることがあった[52]

艦のバランスも問題となった。司令部施設の改装と共に安定性が失われ[53]、最大速力発揮時に転舵すると傾斜15-20度に達し『相当注意ヲ要スルモノアリ』という状態になった[53]。この傾斜になると、高角砲の揚弾機が停止することも改善を要する点だった[54]。戦闘詳報では、次の改装時にバルジを装備して安定性を改善することを求めている[50]。だが戦局の悪化から、根本的な解決策がとられることはなかった。

艦歴[編集]

建造経緯[編集]

1941年(昭和16年)2月14日、呉海軍工廠第3船台で起工[55]。 1942年(昭和17年)3月10日に大淀と命名[26]。同年4月2日、造船部工員や陸岸繋留中の各艦乗組員、合計約5000名が見守る中で進水[55]。同日附で横須賀鎮守府所属と定められた[56]。 12月31日、日本海軍は田原吉興大佐(12月17日まで長良型軽巡洋艦1番艦長良艦長[57]。後任の長良艦長は篠田勝清大佐)に対し、大淀艤装員長および青葉型重巡洋艦1番艦青葉艦長(サボ島沖海戦で大破、呉で修理中)の艦長兼務を命じた[58]荒木伝大佐は重巡2隻(青葉、筑摩)艦長兼務を解かれ、筑摩艦長のみとなる[58]

1943年(昭和18年)1月20日、田原(大淀艤装員長、青葉艦長)は兼務を解かれる(後日、阿賀野型軽巡洋艦2番艦能代初代艦長、扶桑型戦艦2番艦山城艦長。同艦で病死)[59]。同日附で、軍令部課長富岡定俊大佐が大淀艦長(初代)に補職された[59]2月28日、竣工[60][30]。 竣工したものの、搭載される予定であった水上偵察機紫雲が期待されたほどの性能を発揮できず不調に終わり、潜水艦部隊による敵艦隊の漸減という戦局もなく、潜水戦隊旗艦としての能力は無意味となった。魚雷発射管がなく、主砲の門数も少ない(ただし、対空兵装は新型高性能の長10cm高角砲(連装)を4基装備し、その火力は秋月型駆逐艦に匹敵する)上に同型艦もいない大淀が活躍出来る場面はなく、連合艦隊内で浮いた存在となっていた。

1943年の行動[編集]

1943年(昭和18年)2月28日の竣工後[61]、横須賀鎮守府内戦部隊に編入され、横須賀で訓練に従事した[30]。 5月上旬、「大淀」は秋月型駆逐艦5番艦「新月」や第五十航空戦隊(鳳翔龍鳳)と共に内海西部にあった[62]アッツ島の戦いが生起すると、機動部隊(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)等と共に横須賀方面で待機する。 5月29日、アッツ島の日本軍守備隊は玉砕。 5月31日、第一航空戦隊(翔鶴瑞鶴瑞鳳)、巡洋艦2隻(大淀、最上)、駆逐艦部隊(秋月型《新月、涼月初月》、第27駆逐隊《時雨有明》)は横須賀から西日本へと向かう[63][64]。巡洋艦2隻(大淀、最上)は柱島泊地に到着後、戦艦部隊(長門扶桑)と共に停泊したが、これにより6月8日の長門型戦艦2番艦「陸奥」の爆沈に遭遇することになった。

7月10日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が指揮する空母4隻(翔鶴瑞鶴瑞鳳冲鷹)、重巡洋艦3隻(利根筑摩最上)、軽巡洋艦2隻(大淀阿賀野)、水上機母艦「日進」、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月初月》、夕雲型駆逐艦《玉波》)は横須賀を出撃[65][66]。各艦は、マーシャル諸島ソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や軍需物資も搭載していた[67][68]

7月19日、大型艦5隻(利根、筑摩、最上、大淀、日進)と第十戦隊(阿賀野、萩風、嵐、磯風、涼月、初月)は更にトラック泊地を経てラバウルへ進出した。7月21日、第十戦隊司令官大杉守一少将は阿賀野から一時的に萩風へ移乗、旗艦を変更した[69]。利根は嵐、筑摩は萩風、大淀は磯風に接舷しそれぞれ補給を受けた[70]。準備完了後、4隻(水上機母艦《日進》、不知火型3隻《萩風、嵐、磯風》)はラバウルを出撃、ブーゲンビル島ブインへと向かうが、ブイン直前でアメリカ軍機70機以上の攻撃を受け「日進」が沈没した。 このあと、第4駆逐隊(萩風、嵐)のみソロモン諸島に残ることになった。他艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投した[71]。7月26日にトラックへ戻る。 8月31日、吹雪型駆逐艦「」駆逐艦長等を歴任した篠田勝清大佐(8月16日まで長良艦長[72])は、富岡大佐の後任として大淀艦長に補職される[73]。 10月17日にクェゼリン環礁へ進出、10日ほど警備したあとトラックに戻った。

11月下旬、連合軍はブーゲンビル島ニューブリテン島に対する攻勢を強め、ラバウル方面の防衛線は崩壊寸前だった。そこで日本軍はニューアイルランド島アドミラルティ諸島方面の兵力を増強するため、増援部隊を内地から最前線へ輸送することになった[74]。12月17日、連合艦隊は内地~トラック泊地~カビエンへの輸送作戦を『戊号輸送作戦』と命名し、その実施を各部隊に下令した[74]。戊号作戦輸送部隊編成は以下の通り[75][74]

  • 戊一号輸送部隊(内地~トラック泊地、大和艦長大野竹ニ大佐)
 戦艦大和、(19日附で第10駆逐隊秋雲は輸送部隊より除かれた[76])、第17駆逐隊谷風、第4駆逐隊山雲
  • 戊二号輸送部隊(トラック泊地~カビエン、第五戦隊司令官橋本信太郎少将)
 第五戦隊(妙高羽黒)、重巡洋艦利根、第27駆逐隊(白露時雨藤波に変更)
  • 戊三号輸送部隊第一部隊(第7戦隊司令官西村祥治中将)[77]
 第七戦隊(熊野鈴谷)、駆逐艦谷風、満潮
  • 戊三号輸送部隊第二部隊(第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将)
 第二水雷戦隊能代、駆逐艦秋月、山雲

12月25日、戊一号輸送部隊(大和、谷風、山雲)はトラック泊地に到着[78]。この時の「大和」はトラック泊地入港直前にアメリカの潜水艦スケートから雷撃され小破した状態であった。26日、大淀以下戊三号輸送部隊第二部隊は「大和」に横付けし、同艦が日本本土から輸送してきた宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を受け入れた[79]。各艦の搭載区分は、能代人員400名・物件650トン、大淀500名・1000トン、山雲50名・100トン、秋月150名・50トン[80]。12月29-30日、戊三号輸送部隊第二部隊は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦能代)の指揮下、軽巡洋艦2隻(能代、大淀)、駆逐艦2隻(秋月、山雲)の計4隻でカビエンへ向かった[81]。1月1日4時45分、カビエン着[82]

同地カビエンで物資揚陸作業完了直後、輸送部隊はアメリカ軍機約100機(85機とも)に襲撃された[83][84]。第2水雷戦隊戦闘詳報では『作戦ニ影響セル事項』として「大淀の揚搭作業が他艦より約2時間遅れた」・「基地航空隊による哨戒が不足していた」事を指摘している[85]。搭載物件が多く、重砲を引き渡すまで行動を起こせなかったのが原因だった[86]。カビエン基地航空隊(陸上基地派遣第二航空戦隊《空母龍鳳飛鷹》所属の戦闘機36)が上空掩護を行う筈であったが敵機を排除しきれず、米軍機は第2部隊に殺到した[87][88]

対空戦闘開始時、4隻(能代、大淀、秋月、山雲)は旗艦能代を中心にして、能代右舷4kmに「秋月」、能代左舷3kmに「山雲」、能代後方8kmに「大淀」という陣形をとっていた[89]。早川少将は「大淀」直衛に「秋月」を派遣したため、戊三号輸送部隊は第一群(能代、山雲)と第二群(大淀、秋月)に分離[90]。アメリカ軍機は二手にわかれると、比較的大型の巡洋艦2隻(能代、大淀)を主として狙った[91][88]。一方日本側も2隻ずつ二手に分かれたことにより、各艦が全速を発揮しての回避運動を行うことが可能になった[92]。主砲発令所勤務だった小淵は、主砲射撃盤の自速計が45ノットを示していたと述べている[93]。 「大淀」は8時42分に射撃を開始して9時19分に砲撃を停止[94]。本艦は規定対空用主砲弾300発を撃ち尽くし、水上弾や演習弾まで発砲したという[95]。戦闘詳報による各艦消費弾数は、大淀主砲194・高角砲240・機銃4640、能代主砲283・高角砲29・機銃1612、秋月主砲190・機銃1260、山雲主砲94・機銃1230[96]。「大淀」は煙突近くに50kg爆弾1発が命中(不発)、至近弾と機銃掃射より2名が戦死、4名が重軽傷、他に「能代」が直撃弾1と至近弾5で中破、「山雲」が損傷を受けた[97][98][88]。零戦隊は撃墜24(不確実14)機を報告し、未帰還機6(第二航空戦隊所属4)機を出した[88]

戦闘終了後、第二水雷戦隊司令部(能代)は「大淀」に対し搭載高速水上偵察機によるアメリカ軍機動部隊捜索を指示する[99]。しかし大淀搭載の水上偵察機は空襲時に損傷を受けており応急修理も間に合わず、結局能代は『一.飛行索敵ハ行ハズ 二.飛行機待機ハ昼間ノミトス』と下令した[100]。1月4日、2隻(大淀、秋月)は米潜水艦の魚雷攻撃を受けた輸送船清澄丸救援に向かったため、2隻(能代、山雲)に2日遅れてトラック泊地に到着、輸送任務を終えた[101][84]。なお「清澄丸」は軽巡「那珂」(第十四戦隊)に曳航されトラック泊地に到着した。

その後、本艦は訓練に従事し1944年2月のトラック島空襲によりトラック泊地が壊滅する直前に退避し日本本土へ戻った(2月16日より横須賀で整備)[30]。2月24日、日本を出撃し、サイパン島へ物資を輸送する[102]

連合艦隊旗艦大淀[編集]

1944年春に撮影された大淀。1番主砲塔は右舷を指向している。

1944年(昭和19年)3月6日、「大淀」を連合艦隊旗艦とする改装がはじまった[103]。太平洋戦争では、日清・日露戦争のように艦隊決戦で連合艦隊司令部が第一戦隊を直率して艦隊の先頭に立つような事態は起こらず、後方で全体指揮を取る状態であり、日本海軍最強の大和型戦艦長門型戦艦が所属する第一戦隊をむざむざ後方で遊ばせる事態に陥った。そこで海軍は潜水戦隊旗艦用として設計された「大淀」の通信能力に着目し、大型射出機を撤去して従来型の射出機と水上偵察機を搭載、格納庫を改装して司令部施設に変更、連合艦隊の旗艦とした[104]。 なお工事中の3月31日、パラオ大空襲から退避するため二式飛行艇2機に分乗した連合艦隊司令部が、悪天候により遭難[105][106]。1番機に搭乗していた古賀峯一連合艦隊司令長官は殉職[106]。不時着した2番機に搭乗していた福留繁連合艦隊参謀長はゲリラの捕虜となり、生還したものの[107]、暗号書や作戦計画書を含む機密書類を没収された[30]

この事件により、連合艦隊司令長官は古賀長官から豊田副武大将となった[108]。本艦の工事は5月1日に完了、5月3日に豊田連合艦隊司令長官を迎えて将旗をあげた[109]。旗艦任務は5月4日から9月29日である[30]。豊田長官は「大淀」の防御力の低さを懸念して、万一戦死したら「まるで日本海軍の足元を見られるようで、嫌だな」と渋ったという[104]。「戦死するなら、武蔵か大和のデッキで死にたい。こんな船の上ではいやだ」だったとも伝えられる[110]高田利種参謀副長は、大淀の対空防御力や通信力を説明して豊田をなだめている[104]5月6日、篠田勝清大佐(大淀艦長)は扶桑型戦艦2番艦山城艦長に補職される(スリガオ海峡夜戦で同艦沈没時に戦死)[111]。第8駆逐隊司令や第10駆逐隊司令を歴任した阿部俊雄大佐が、後任の大淀艦長となった[111]

改装後の初任務はマリアナ沖海戦での柱島(あ号作戦発令は木更津沖、5月23日より柱島)からの直接指揮だった。予想作戦海域の電波状況が悪かったため小笠原諸島に進出することも検討されたが、完全な電話施設を持った浮標を持つ柱島泊地からの指揮が望ましいとされたためである[112]。 しかしこのような処置は間に合わせのものであり、連合艦隊司令部は陸上にあって後方指揮を取るのが望ましいとされた。中央(東京)と連絡をつけやすく、作戦部隊作戦地域に近く、かつ作戦全体の指揮も可能という候補地を求めた結果、第一候補地・神奈川県日吉台慶応大学附近、第二候補地・台湾高雄(高雄警備府司令部所在地)と決定され、昭和天皇の勅許を得た[113]。第一候補地については、大淀改装完了以前から日吉台(横浜市港北区日吉)に海軍の部隊が移駐しており、1944年3月には軍令部第三部(情報)が慶應義塾大学日吉キャンパスに移転、同じ頃川崎市蟹ヶ谷には海軍通信隊が地下壕を建設しており、軍令部三部の地下壕は7月15日に建設開始、連合艦隊司令部の地下壕は8月15日に建設が開始された。 通信室、作戦室、居住施設の順番で建設を開始、徐々に機能を移し9月29日に豊田長官は将旗を移動、連合艦隊司令部は丘に上がった[114]。「大淀」は連合艦隊旗艦の役目を解かれて、ただの軽巡洋艦という立場に戻った。規則のうるさい連合艦隊旗艦任務にうんざりしていた乗組員は逆に安堵し[115][116]鈴木孝一大淀砲術長も前任の戦艦武蔵主砲発令所長勤務より「連合艦隊司令長官護衛任務はずっと難しかった」と回想している[117]

この頃の「大淀」では人事異動があった。8月15日阿部俊雄大佐(大淀艦長)は大和型戦艦3番艦改造空母「信濃」艤装員長に補職され、牟田口格郎大佐が後任の大淀艦長となる[118]。横須賀に停泊中の大淀からは、阿部大佐が艤装員長[118]および初代艦長[119]となった「信濃」の艤装工事を見ることが出来た[120]。また、当時横須賀方面に配備されていた雲龍型航空母艦1番艦「雲龍」の対空射撃訓練に、大淀艦載機が協力した[121]。 その後のレイテ沖海戦礼号作戦北号作戦に参加した[30]

レイテ沖海戦[編集]

10月5日、大淀は小沢治三郎中将指揮する第三艦隊第一機動部隊に編入された。 10月12日、3隻(軽巡《大淀》、秋月型駆逐艦《霜月、冬月》)は横須賀を出発。途中、アメリカの潜水艦トレパン (USS Trepang, SS/AGSS-412) の雷撃により冬月が損傷しレイテ沖海戦に参加できなくなった。瀬戸内海に到着後、爆雷を投下してを調達[122]第三航空戦隊(正規空母《瑞鶴》、軽空母《千代田千歳瑞鳳》)、第四航空戦隊航空戦艦2隻(伊勢日向)、軽巡洋艦3隻(大淀多摩五十鈴)、駆逐艦8隻(第61駆逐隊《初月若月秋月》、第41駆逐隊《霜月》、松型駆逐艦4隻《》)と行動を共にすることになる[123]。10月20日、日本を出撃した[124]。「大淀」は第一駆逐連隊、第三十一戦隊旗艦、兼艦隊予備旗艦である[125]。なお当初は「大淀」が艦隊旗艦の予定であったが、小沢中将が「やはり機動部隊と名前がつくからには瑞鶴に乗ってやろう」と決めた為、「瑞鶴」が旗艦となったという[126]

10月25日、小沢機動部隊はウィリアム・ハルゼー提督が率いるアメリカ軍機動部隊の空襲を受けた。午前8時20分頃、アメリカ軍機100機以上が艦隊上空に到達、対空射撃を開始する[127]。午前8時35分、小型爆弾2発が四番高角砲付近に命中、機銃掃射により戦死8名、負傷14名を出した[128]。小火災が発生したが、すぐに鎮火に成功している[129]。午前8時50分、「大淀」の周囲では「秋月」が爆沈し、「瑞鶴」が被弾速力低下、「千代田」が沈没しかけていた[130]

午前8時53分、傾斜した「瑞鶴」は「大淀」に無線代行を依頼、午前9時30-44分には『旗艦を大淀に変更す』の信号により瑞鶴に接近する[131]。しかし小沢司令部が移乗する前に第二波攻撃隊が接近し、大淀は瑞鶴から離れた[132][133]。第二波攻撃終了後、小沢司令部移転のため大淀カッターボートを派遣するが、この付近に燃料切れになった零式艦上戦闘機が不時着[134][135]。救助できた搭乗員は1名だけだった[136]。実際には、さらに数名が救助されたと見られる[137]。 午前10時54分、被雷・被弾炎上した瑞鶴から小沢中将以下司令部が移乗している[138]。午後2時40分、「瑞鶴」が沈没した[139]。続いて「瑞鳳」も沈没し、大淀は主砲1門につき50発あった対空弾が238発を消耗し、定数2割程度(残68発)になるほど奮戦した[140]。夜間、軽巡「五十鈴」、秋月型駆逐艦2隻(若月初月)がアメリカ軍重巡洋艦部隊と交戦し、「初月」が水上砲戦の末に沈没した[141]。小沢中将は本艦を含めた残存艦隊を率いて艦隊決戦のために南下したが会敵できず[142]奄美大島に向かって北上、戦場を離脱した[143]。「大淀」は10月27日に奄美大島に入港した[144]。大淀はアメリカ軍機撃墜27機を主張[145]。さらに作戦そのものについて、戦闘詳報では「敵軍上陸して数日を経過し敵の防御体勢累整備し居る港湾に何等の術策を用いず単純一突入する事は将に自殺的行為と云ふを得べく」と厳しく批判している[146]

なおレイテ沖海戦直前の10月19日、小沢機動部隊各艦に報道班員が乗艦していた。旗艦・瑞鶴にカメラマン2人(飯島正一・大鹿栄太郎)と記者2人(村岸正雄、尾高光)、瑞鳳に竹内宏一、大淀に山根重視、秋月に西本良之介である[147]。瑞鶴乗艦の報道班員は全員戦死、大淀の山根カメラマンは無事、瑞鳳の竹内カメラマンも桑に救助され生還した[148]。山根、竹内両カメラマンが撮影したフィルムは編集されて「比島沖海戦」と題され、1944年11月9日の「日本ニュース・第232号」に収録されて全国公開された[149]。前半部分は竹内カメラマン(瑞鳳)が撮影したもので、杉浦(瑞鳳艦長)の訓示、攻撃隊の発進、瑞鳳被弾の様子が撮影されている[150]。後半部分は山根カメラマン(大淀)が撮影したもので、瑞鶴及び同艦攻撃隊発進の遠景、対空射撃を行う伊勢型戦艦の遠景、大淀甲板上の対空戦闘、零戦搭乗員救助の様子が公開された[151]

フィリピンの戦い[編集]

10月28日、第三十一戦隊司令部が退艦し、「大淀」は旗艦任務を解かれた[152]。10cm高角砲弾のみ「霜月」から補充を受けている[153]。10月29日、2隻(大淀、若月)と共に出撃し、フィリピン方面に向かう[154][155]。10月31日、マニラ湾に到着して補給を受けたが、主砲弾は未だ補充されていない[156]。牟田口艦長は南西方面艦隊司令部から空襲の危険性を告げられ、ミリ泊地への移動を決意する[157]。11月5日の出港直後、マニラ湾はアメリカ軍機動部隊の空襲をうけ、停泊していた重巡那智(第五艦隊旗艦)が沈没した[158]。紙一重の差だった[159]。 ミリ泊地へ移動後、停泊・総員洗濯中にB-24爆撃機3機の爆撃を受けたが、「大淀」の被害はなかった[160]。ブルネイ泊地にて、大破した重巡高雄や第二遊撃部隊の残存艦・重巡足柄と合流する[161]。11月11日、栗田健男中将の第二艦隊がブルネイに入港し、「大淀」は「大和」(同艦副砲は15.5cm砲)から15.5cm砲対空砲弾を譲り受けた[162]。11月18日、戦艦3隻(伊勢、日向、榛名)、重巡洋艦2隻(足柄、羽黒)、駆逐艦2隻(霞、朝霜)とリンガ泊地へ移動する[163]

その後も大淀以下第二遊撃部隊はサンジャック湾やカムラン湾を転々としていた。12月14日からは第二水雷戦隊旗艦となる[164]。12月21日、第二水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮のもと、礼号作戦参加が決定する[165]。12月24日、妙高型重巡洋艦3番艦足柄、駆逐艦部隊(霞(旗艦)朝霜清霜)と共にカムラン湾を出撃、ミンドロ島へ向かう[166]。12月26日、艦隊はアメリカ軍大型爆撃機に発見された[167]。「大淀」は搭載水上偵察機2機を発進、その後、B-25爆撃機から夜間空襲を受ける[168]。この攻撃で爆撃を受けた「清霜」が沈没、被弾のB-25が体当たりした「足柄」が損傷した[169]。午後9時1分、「大淀」に250kg爆弾2発が命中、2発が至近弾となったがいずれも不発で、軽傷者1名が出た。直撃弾1発目は一番砲塔から10m前方を貫通・左舷喫水線上を突き破り、2発目は煙突右から中甲板を貫通・罐室に飛び込んだ[170]。仮に起爆していた場合、轟沈していた可能性もあった[171]。この被弾により1号罐室が使用不能、3号罐室から蒸気が噴出、最大発揮速力32ノットに低下する[172]。このときの不発弾は後日シンガポールの海軍基地に送られ不発処理をされ、艦内の大淀神社に祭られた[39]。2隻(大淀、足柄)はアメリカ軍魚雷艇の雷撃を全て回避し、午後11時から1時間ほどサンホセ港や飛行場を砲撃した[173]。「大淀」は距離14000mから輸送船3隻を砲撃、火災を発生させたと記録した[174]。艦隊は12月28日にカムラン湾へ戻った[175]。「大淀」は15.5cm通常弾42発、徹甲弾31発、照明弾25発、高角砲弾61発を発砲[176]、輸送船2隻大破、魚雷艇1隻撃破、飛行機2機撃墜を主張している[177]。実際の戦果は、貨物船1隻が着底した程度だったとされる。

1945年(昭和20年)1月1日、第二水雷戦隊旗艦は「大淀」から朝潮型駆逐艦9番艦「」に変わった[178]。二水戦司令官も1月3日附で木村少将から古村啓蔵少将へ交代[179]。 2月10日、北号作戦に参加した[180]。輸送部隊(完部隊)は第四航空戦隊伊勢型戦艦日向伊勢》、軽巡洋艦大淀》)、第二水雷戦隊(駆逐艦《二水戦司令官古村啓蔵少将座乗》、朝霜初霜)で構成されており、部隊を第四航空司令官松田千秋少将(旗艦「日向」)が指揮した[181][182]。 これに先立って、「大淀」は格納庫を改造して設置されていた司令部区画を改造して物資輸送庫とした[39]。輸送庫にドラム缶を満載し、そのうえに防弾の意味もふくめて天然ゴムを積んでシンガポールを出港する[183]。軍令部は「半分の艦が日本本土に戻れれば上出来で、全滅の可能性もある」と予測したが「伊勢、日向、大淀は運が強いからどんな作戦でも成功する」とする意見もあった[184][180]。2月20日、参加艦艇は全艦無事に日本本土・呉軍港に到着した[185]。索敵に投入した大淀偵察機2機も無事に母艦へ戻っている[186][187]。 だが呉に到着したものの、作戦行動する燃料もなく、2月25日附で呉練習戦隊に編入された[188]。同日附で、牟田口格郎大佐(大淀艦長)は伊勢型戦艦1番艦伊勢艦長[189]へ転任(呉軍港空襲で同艦大破時に戦死)[190]。空母伊吹艤装員長松浦義大佐が、大淀艦長に補職される[189]。3月、大淀水上機搭乗員および整備員は阿賀野型軽巡洋艦3番艦「矢矧」(当時第二水雷戦隊旗艦)に配属される[191]。大淀乗組員の間では大和の沖縄水上特攻に参加することも噂されていた[192]が、その機会はなかった。

着底大破[編集]

転覆した大淀。

3月19日、呉をアメリカ軍機動部隊の艦載機が襲撃した。日本軍は当初友軍機編隊と判断していたため反応が遅れた[193]。「大淀」は艦中央部右舷への至近弾により艦底を破損し、浸水して右舷に傾斜した[39]。また直撃弾1発が煙突付近に命中して罐室を破壊、2発目が第二機関室を破壊して喫水線上部に大孔をあけ[194]、機関科員を中心に戦死者52名を出した[195]。この被害によって6基の缶のうち4基が使用不能となった[39]。ドックに入って舷側の穴を塞ぐなどの応急修理は行われたが、破損した機関部の補修など抜本的な修理は実施されず対空火器も一部破損したままであった[39]

5月15日、松浦(大淀艦長)は詫間海軍航空隊司令へ転任[196]陽炎型駆逐艦8番艦「雪風」初代駆逐艦長、秋月型駆逐艦4番艦「初月」初代駆逐艦長等を歴任した田口正一大佐(当時、海軍航海学校教官)が、後任の大淀艦長に補職される[196]。その後江田島湾に曳航されて迷彩塗装やカモフラージュの偽装が施され、浮き砲台となった[39]。すぐ近くには同じく曳航されて浮き砲台となった利根型重巡洋艦1番艦「利根」の姿があった[39]

7月24日、呉がアメリカ軍機動部隊艦載機の襲撃を受けた際に「大淀」は500ポンド爆弾3~4発が命中、右に傾斜して着底した[197]。駆けつけた住民(漁船)も消火に協力し(田口艦長によれば消火には効果がないが、死傷者運搬に活躍)、26日夕方になり鎮火に成功した[198]。また排水作業によって傾斜も復旧された[39]

7月28日、ふたたびアメリカ艦載機による空襲(呉軍港空襲)を受けた[199]。午前10時ごろ艦橋近くの被弾によって大規模な浸水が発生し右に傾斜した。大淀の田口正一艦長は傾斜を防ぐために注水弁開けを指示したが[39]、次々に命中する爆弾による浸水のために転覆を防ぐことは出来ず、12時ごろ右に横転した。現場は浅い海岸だったので、船体の一部のみ海面に出した状態で完全に船体は横倒しとなり、艦橋も左に大きく根元から歪んだ[39]

24日と28日の戦闘による大淀戦死者は223名、負傷者は180名だった[200]。転覆後もさらに攻撃がおこなわれ、舷側に爆弾が命中している[39]

8月15日終戦の日)、田口(大淀艦長)は職務を解かれた[201]。大淀は同年11月に除籍された。戦後、アメリカ軍による被害調査が行われた[39]。至近距離で炸裂した爆弾の水圧によって広範囲にわたって艦底が陥没している様子や、空中発射のロケット弾によって0.5インチの鋼板が貫通している様子などが写真に残されている[39]

「大淀」の損傷程度や転覆地点の状況などが比較的良好のため、完全浮揚してから解体されることになり[202]1947年(昭和22年)に船体の引き起こしと浮揚作業が行われた[203]。 浮揚後は播磨造船所呉船渠(旧呉海軍工廠)の第4船渠に入り[204]1948年(昭和23年)1月6日から解体に着手し[5]、その後第3船渠に移り[204]、8月1日に解体を完了した[5]

同型艦[編集]

  • 第137号艦:予定艦名仁淀[205]。大淀と同様にマル4計画の巡洋艦丙[28]として計画され、呉海軍工廠で建造予定だったが、開戦直前に起工取り止めとなった[206]

この他、昭和12年~16年頃に大淀型とほぼ同様の船体を持つ防空巡洋艦(65口径10cm連装高角砲12基を装備)が計画されていたが、建造コストの高さからペーパープランに終わっている[207]

歴代艦長[編集]

※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』176-178頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. (兼)田原吉興 大佐:1942年12月31日[58] - 1943年1月20日[59] (本職:青葉艦長)

艦長[編集]

  1. 富岡定俊 大佐:1943年1月20日[59] - 1943年8月29日[73]
  2. 篠田勝清 大佐:1943年8月29日[73] - 1944年5月6日[111]
  3. 阿部俊雄 大佐:1944年5月6日[111] - 1944年8月15日[118]
  4. 牟田口格郎 大佐:1944年8月15日[118] - 1945年2月25日[189]
  5. 松浦義 大佐:1945年2月25日[189] - 1945年5月15日[196]
  6. 田口正一 大佐:1945年5月15日[196] - 1945年8月15日[201]

参考文献[編集]

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  • 小淵守男 『少年水兵の太平洋戦争 巡洋艦「大淀」16歳の海戦』 光人社NF文庫、2011年11月。ISBN 978-4-7698-2713-9
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
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  • 歴史群像太平洋戦史シリーズ62 帝国の艦船』(学習研究社、2008年) ISBN 978-4-05-605008-0
  • 桂理平 『空母瑞鳳の生涯 われ等かく戦えり』 霞出版社、1999年10月。ISBN 4-87602-213-5
  • 木俣滋郎 『日本空母戦史』 図書出版社、1977年7月。
  • 木俣滋郎 『日本軽巡戦史』 図書出版社、1989年3月。
  • 『日本巡洋艦史』世界の艦船 2012年1月号増刊 第574集(増刊第101集)、海人社、2011年12月
  • 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行者 『高松宮日記 第六巻 昭和十八年 二月~九月』 中央公論社、1997年ISBN 4-12-403396-6
  • 戸高一成編 『[証言録] 海軍反省会4』 PHP研究所、2013年1月。ISBN 978-4-569-80915-1
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 中島親孝 『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』 光人社NF文庫、2008年10月ISBN 4-7698-2175-1 中島は連合艦隊情報参謀として大淀に乗艦した。
  • 庭田尚三 「1.巡洋艦の巻」『元海軍技術中将 庭田尚三述 建艦秘話』 船舶技術協会、1965年9月。
  • 『日本海軍艦艇公式図面集2 軽巡大淀新造時+改装後』 畑中省吾/編 戸高一成/監修、発行プレアデス出版、発売 国文社、2005年ISBN 4-7720-0894-2
  • 原為一ほか 『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』 潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8
    • 当時大淀第三分隊士・海軍中尉足立之義『大淀乗員が見た小沢オトリ艦隊の悲惨 左舷高角砲指揮官が敵空襲下で体験したエンガノ岬沖海戦の現実
    • 当時五十鈴工作科・海軍一等工作兵曹須藤岩夫『防空巡五十鈴の脈動がわが胸に響くとき 満十七歳の秋、血の海に戦い生還した工作兵の血涙の戦場体験
    • 当時五十鈴通信長・海軍大尉芝山末男『防空巡洋艦五十鈴エンガノ岬沖の血戦 主砲を撤去して高角砲六門に対空機銃と電探。大改装後の通信長の回想
    • 当時阿賀野・大淀設計主務・海軍技術大佐大薗大輔『私が設計した阿賀野&大淀の真価と秘密 凌波性と耐波性と機動性にとむ理想の名艦生みの親が語る造艦秘話』(香取で得た貴重な教訓)
    • 当時大淀航海長・海軍中佐内田信雄『艦隊司令部用旗艦大淀の航跡 連合艦隊旗艦としても栄光をになった名艦の生涯を綴る航海長の手記
    • 当時大淀艦長・海軍大佐田口正一『防空砲台「大淀」江田島湾の死闘 燃料欠乏から呉軍港に釘づけにされた艦長が綴る鎮魂の手記
    • 戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • 日向会事務局 『航空戦艦の活躍 軍艦日向栄光の追憶』 日向会事務局、1977年7月。
  • 福井静夫 『海軍艦艇史 2 巡洋艦コルベット・スループ』 KKベストセラーズ、1980年
  • -海軍造船技術概要別冊- 海軍艦艇公式図面集』 福井静夫/編、今日の話題社、1987年ISBN 4-87565-212-7
  • 福井静夫 『福井静夫著作集第8巻 世界巡洋艦物語』 光人社、1994年ISBN 4-7698-0656-6
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』 朝雲新聞社、1969年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
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脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t #昭和造船史第1巻784-785頁。
  2. ^ a b #日本巡洋艦史148頁。
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  65. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.18『…翌十日機動部隊指揮官指揮ノ下ニ第八戦隊ヲ率ヰ0600同地發1230沖ノ島出撃「トラック」ニ回航15日着急速補給ヲ完了機動部隊第一部隊(8S 61dg)及第三部隊(日進)ヲ率ヰ14S(那珂)ヲ併セ指揮シ16日早朝「トラック」發ニテ搭載人員ヲ「ミレ」方面ニ輸送ノ予定ナシリ所…』
  66. ^ #S1709日進詳報(2)p.38『七月三日一八二五機動部隊指揮官|8S 10S外日進|KdB機密〇三二一一〇番電 一.略/二.冲鷹日進玉波(日進艦長ノ命ヲ受ケ日進警衛ニ任ズ)ハ便宜各所在地發七月十一日一二〇〇迄ニ當部隊ニ合同セヨ|無電』-『七月十日〇五三〇日進(宛略)日進玉波〇五〇〇「トラック」ニ向ケ發|無電』-『七月十四日〇五〇〇瑞鶴|艦隊|日進冲鷹玉波嵐ハ列ヲ解キ日進艦長所定ニ依リ概ネ當隊ニ續行「トラック」ニ入泊スベシ|信号』
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  71. ^ #S1701八戦隊日誌(6)p.40『…出撃前日(23日附)4dg南東方面部隊編入ノGF電令ニ接シタルヲ以テ不取敢第一部隊ヨリ除キ第十戦隊司令官所定ニ依リ磯風ノ魚雷弾薬等ヲ同隊ニ移載ノ上第一部隊ハ24日0915「ラバウル」ヲ出撃セリ…』
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  77. ^ #S1812二水戦日誌(2)p.5『戊第一号輸送部隊ヲ以テ「トラック」迄輸送セル陸軍部隊及物件ヲ引続キ「カビエン」迄輸送セントス 之ガ為戊三号輸送部隊編成セラル軍隊区分左ノ通』
  78. ^ #S1812第十戦隊日誌(1)p.41『25 1500(宛略)大和谷風山雲トラック着』
  79. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.71『26日0512戊三号輸送人員物件搭載ノ為大和ニ横付物件搭載ヲ初ム/0742大和ヨリ横付ヲ離ス』
  80. ^ #S1812二水戦日誌(2)pp.40-41『(イ)第一部隊終了後令ニ依リ巡洋艦及駆逐艦ノ順序ニ輪番大和ニ対スル横付舷ヲ左ノ通定ム 大和ノ右舷、能代・山雲 同左舷、大淀・秋月|(ロ)搭載区分』
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  84. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後463頁『作戦輸送の実施』
  85. ^ #S1812二水戦日誌(2)p.21『(イ)能代、秋月、山雲ハ0630迄ニ揚搭完了セシモ大淀ハ0845ニ至リ漸ク終了シ為ニ全軍避退ノ時機ヲ遅延シ敵機ノ来襲ヲ受クルニ至レリ|(ロ)東正面ニ対スル飛行哨戒不充分ニシテ早期ノ敵空母ヲ確認シ得ザリシコト』
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  89. ^ #カビエング沖対空戦闘詳報p.8
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  91. ^ #S1812二水戦日誌(2)p.10『0855 敵機ハ二群ニ分離シ来襲 主トシテ能代大淀ニ雷爆銃撃ヲ行フ』
  92. ^ #S1812二水戦日誌(2)p.36『(一)今回ノ「カビエン」ニ於ケル対空戦闘ニ於テハ立上リヨリ能代山雲及大淀秋月ノ2組ニ分散シ其ノ間隔概ネ7粁ナリシモ終始運動上相互ニ危険ノ考慮ヲ感ゼズ 対空戦闘ニ於テハ支援並ニ回避運動上概ネ5粁ノ間隔ヲ有スルヲ適当ト認ム』
  93. ^ #大淀生涯、196頁
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  97. ^ #カビエング沖対空戦闘詳報pp.9-13
  98. ^ #S1812二水戦日誌(2)p.34『戦果及被害 (二)大淀(1)船体兵器機関 極メテ軽イ (2)人員 戦死2・重軽傷4・計6』
  99. ^ #S1812二水戦日誌(2)p.14『1158 敵機動部隊ノ動静以前不明ニシテ現針路ノ続行ニ対シ梢々不安ナリ、大淀ノ高速水偵ヲ以テ索敵セシメントス 2sd→大淀「為シ得レバ飛行機ヲ発進シ敵空母ノ西進中ナルヤヲ確メ「カビエン」又ハ「トラック」ニ帰投セシメヨ、空母ノ位置0845ニソ四ソメ針路320度速力25節』
  100. ^ #S1812二水戦日誌(2)p.14『1430将旗2sd→大淀/大淀ハ飛行機1機応急修理完成次第第15分間待機トナセ』-『1552 大淀ノ飛行機ハ被空襲時ノ応急修理完成セズ、敵機動部隊ノ来襲ノ算減少ニヨリ索敵ニ使用セザルコトトス』
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  206. ^ #軽巡阿賀野型・大淀p.38。
  207. ^ 福井静夫『日本巡洋艦物語』光人社 341~346頁 「日本海軍の防空巡洋艦構想」
  208. ^ 昭和19年8月1日(発令8月1日付)海軍辞令公報(甲)第1550号 p.10』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100300 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]