陸奥 (戦艦)

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Japanese battleship Mutsu.jpg
1926年改装後の陸奥
艦歴
計画 八八艦隊計画
建造所 横須賀海軍工廠
起工 1918年6月1日
進水 1920年5月31日
就役 1921年10月24日
もしくは11月22日
その後 1943年6月8日に爆発、沈没
位置 北緯33度58分 東経132度24分 / 北緯33.967度 東経132.400度 / 33.967; 132.400
除籍 1943年9月1日
性能諸元(竣工時)
排水量 基準:32,720トン
全長 215.80m
全幅 28.96m
吃水 9.14m
機関 ロ号艦本式専焼缶15基
同混焼缶6基
艦本式タービン4基4軸 80,000馬力
最大速 26.7ノット
航続距離 16ノット / 5,500海里
乗員 1,333名
兵装
(新造時)
45口径41cm連装砲4基
50口径14cm単装砲20門
40口径7.6cm単装高角砲4門
53cm魚雷発射管8門
兵装
(改装後)
45口径41cm連装砲4基
50口径14cm単装砲18門
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm連装機銃10基
装甲 水線305mm
甲板75mm
主砲前盾305mm
主砲天蓋152mm
副砲廓152mm

陸奥(むつ)は、かつて日本海軍に所属した戦艦[1]。艦名は青森県から福島県にかけての旧国名・陸奥国を名前の由来に持つ[2][3]。日本海軍の象徴として日本国民から親しまれたが、1943年(昭和18年)6月に主砲火薬庫から爆発を起こして沈没した。

概要[編集]

軍艦 陸奥長門型戦艦の2番艦[4]八八艦隊計画二番手である。1番艦「長門」と共に、日本の力の象徴として戦前の国民に長く愛された[5]。 また竣工当時は世界に7隻しか存在しなかった40cm砲搭載戦艦として『世界七大戦艦』と呼ばれた[6]。 長門型戦艦2隻(陸奥、長門)は交互に連合艦隊旗艦の任にあったため、知名度は高かった[7][8]。戦前の学校の教科書に描かれたり、男子がイメージする軍艦といえば、当時の連合艦隊旗艦である「長門、陸奥」であった[9]。『陸奥と長門は日本のほこり』といういろはがるたも作られている[10]海軍兵学校でも「陸奥、長門の四〇センチ砲が太平洋を睨んでいればアメリカは攻めてこない」と語り継がれた程である[11]陸奥湾に入泊した際には多くの青森県民が見学に訪れた[12]。陸奥艦内神社岩木山神社の御分神を祀っていたため[13]、乗組員も岩木山神社に参拝した[12]

第二次世界大戦中には他の戦艦部隊(大和、長門、伊勢、日向、山城、扶桑)等と共に温存されていたものの、1943年(昭和18年)6月8日、原因不明の爆発事故を起こし柱島沖で沈没した。戦後に浮揚作業が行われ、1970年(昭和45年)には艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で本艦の装備が展示された。大戦末期にアメリカ軍の攻撃で沈没し、終戦後に浮揚され解体処分された他の日本軍艦と異なり、艦体の一部が2011年現在も沈没場所に残っている。

艦歴[編集]

軍縮条約下での扱い[編集]

「陸奥」は姉妹艦「長門」より1年遅れた1917年(大正6年)に八四艦隊案の一艦として加賀型戦艦天城型巡洋戦艦と共に予算が承認された[14]。同年8月20日、戦艦1隻(横須賀海軍工廠で建造予定)、軽巡洋艦2隻にそれぞれ「陸奥、球磨多摩」の艦名が与えられた[1]。8月23日、「陸奥、球磨、多摩」及び江風型駆逐艦「江風」、峯風型駆逐艦峯風澤風」、楢型駆逐艦「楢、桑、椿、槇、欅、榎」は艦艇類別等級表に登録された[15]

本艦は1918年(大正7年)6月1日に横須賀海軍工廠で起工された[16][17]1920年(大正9年)5月31日に進水[18][17]横須賀港で行われた進水式には貞明皇后皇太子裕仁親王(昭和天皇)以下、多数の皇族や政財界・陸海軍の主要人物も立ち会った[19]。 建造途中の1921年(大正10年)、ワシントン海軍軍縮条約における「未完成艦は廃艦とする」との条件に含まれたことでイギリスアメリカは「陸奥」の廃棄を主張したが、日本側は完成艦であるとして存続を主張する[20]。「陸奥」の完成は書類上10月24日とされているが[17]、実際には測距儀など備品装備が間に合わず、公式試験を省略し、半完成のまま海軍に引き渡されている[21]。1921年(大正10年)11月22日、引渡し式が行われ軍艦籍に入った[22]。佐世保鎮守府に入籍。ただし、12月5日に横須賀で艤装中の陸奥に第三分隊長として着任した大西新蔵(海軍大尉)は、この時点でも完成度85%程度と述べている[23]。これに対してイギリス、アメリカの調査が行われているが、接待などを装った日本側の妨害工作により、未完成である確証を掴むことが出来なかった。最終的に「陸奥」の保有は認められたが、アメリカはコロラド級3隻(1隻は廃棄)の建造変更と建造続行を、イギリスは後のネルソン級となる戦艦2隻の新造を認められた[24]。一連の経緯を経て竣工した16インチ砲搭載戦艦の7隻(長門、陸奥、コロラド (BB-45)メリーランド (BB-46)ウェストバージニア (BB-48)ネルソンロドニー)は世界のビッグ7(世界の七大戦艦)と紹介された[25]この件に関して 山本五十六大将は「陸奥一隻のためにアメリカとイギリスを強くしすぎた」と語っている。[要出典]

新造時[編集]

1921年(大正10年)10月19日の全力公試では排水量33,750トン、87,479馬力で26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力を発揮した[26]。「長門」とは後橋や艦橋指揮場の形状が異なり、艦首フェアリーダーの位置がやや先端に向かっている。艦首は連繁式1号機雷の連繁索を乗り切るための形状となっている[27]。菊花紋章は「長門」よりもやや高い位置にあった[28]。これは、最終時まで変わらない区別点となった。

新造時には「長門」が舷側に備える魚雷防御網ブームも新造時の「陸奥」は装備しておらず、主砲塔の測距儀も、「長門」は従来型の波式6メートルから新式の武式8メートルという2メートルほど大型化したものに変更されている[29]。高速時の艦体震動のため、四番砲塔の測距儀は信頼性が低かった[30]。「長門」と同じく、当時は艦橋に吹き込む煙突の排煙・排熱処理が問題となった[31]。「長門」のものよりも太いファンネルキャップが取り付けられたがあまり効果はなく、1924年(大正13年)3月に屈曲煙突に改装された[32]。この屈曲煙突は長門型戦艦の特徴として知られていた[33]。艦橋の10m測距儀の測距精度が向上し、煙突改造の結果は良好だったという[30]

1925年(大正14年)4月27日午前9時30分、貞明皇后沼津御用邸へ赴くため神奈川県江ノ浦村から水雷艇で「陸奥」に乗艦した[34]。「陸奥」は皇后を静岡県沼津港まで送り届けた[35]

改装[編集]

1926年(大正15年)年、「長門」と共に第一次改装が決定されている。「長門」の艦首は波切りが悪く、飛沫により砲塔光学装置が曇ってしまうなど問題があり、また艦首被弾時に大浸水を招く恐れがあるため、「長門」に先んじて「陸奥」の艦首部分の形状変更が行われた[36]。このため「陸奥」の艦首は横から見ると鋭角となったが、予定通りの効果が出なかったため、「長門」は艦首形状を変更していない。

第二、第三主砲塔の測距儀は10メートル型に換装し、高角砲も従来型の8センチ砲から八九式12.7センチ四〇口径連装4基、ヴィッカース式40ミリ連装機銃2基に変更した。機関は屈曲式の煙突へと変更されている。このほか艦橋前部にも予備指揮場を設けた。羅針艦橋の拡張など、細かな改良は暫時行われた[37]

「陸奥」には1934年(昭和9年)9月5日から1936年(昭和11年)9月30日まで大改装が施された。バルジの装着、艦首部分延長水平防御改善、主砲、高角砲の仰角上げ、注排水区画を増やしている。主砲砲身は廃棄艦となった加賀型戦艦2隻(加賀土佐)で用いられた砲身と仰角を伸ばした41センチ砲を改良した物を装備した[38]

艦橋部にも変更が加えられ、前檣楼と呼ばれる前部艦橋は、最上部に九四式方位盤照準装置を配置、その下が主砲射撃所となり、以降下に向かって戦闘艦橋、副砲指揮所、副測的所、上部見張所、主砲前部予備指揮所、羅針艦橋、副砲予備指揮所、司令塔艦橋下部艦橋と続くようになった[39]。「陸奥」の副砲予備指揮所はガラスがない開放式で、「長門」のガラス付きと異なっている[40]

蒸気缶は艦本式21基から8本に減少したことで煙突は1本となった。燃料搭載量は増加、航続力も16ノットで8,650海里に増えたが、速力は25ノットに低下した。

1935年(昭和10年)の改装で取り外された41センチ連装砲の4番砲塔は、教材として江田島にある海軍兵学校に持ち込まれており、同地が海上自衛隊の第1術科学校・幹部候補生学校となってからも、主砲弾と共に展示されている[41]

1940年(昭和15年)初頭、イギリス海軍艦艇はしばしば日本近海に出没した。1月21日には軽巡洋艦「リヴァプール」による客船「浅間丸」の臨検・ドイツ人乗客逮捕連行事件(浅間丸事件)が発生している。これらの英国艦艇の動きがしつこい場合、軍令部の下令により横須賀に停泊していた「陸奥」が出動し、追い払うこともあったという[42]。同年、土佐沖で戦艦「長門」等と夜間演習に参加中、駆逐艦が発射した訓練魚雷のうち、本来ならば艦底を通過するはずの1本が陸奥左舷に命中、110トンの浸水被害を受けた[43]

太平洋戦争[編集]

待機と前線[編集]

太平洋戦争大東亜戦争)序盤は広島湾周辺で他の戦艦ともども温存された。真珠湾攻撃の際、山本五十六連合艦隊司令長官は戦艦部隊(長門、陸奥、日向、伊勢、扶桑、山城)、空母(鳳翔瑞鳳)、第一水雷戦隊(時雨白露有明夕暮)等を率いて出撃、小笠原諸島近海まで進出した。1941年(昭和16年)12月11日、「陸奥」は舵故障を起こして旋回しつつ艦隊から落伍、約15分に復旧したが、宇垣纏連合艦隊参謀長は『敵潜あらば絶對の襲撃機會なり』と懸念している[44]

本格的な作戦参加は1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦であった。だが、第一戦隊(大和、長門、陸奥)は南雲機動部隊後方を航海していたため、戦局への寄与はなかった。機動部隊壊滅後に主隊は反転、本艦には第4駆逐隊(野分)から空母「赤城」の生存者が移乗した[45]。6月14日に呉へ帰投した。

その後、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸したことから迎撃のため8月9日に近藤信竹中将指揮下の前進部隊(第二艦隊:旗艦愛宕)に編入される[46]。乗組員達は久しぶりの出撃に喜び、前祝いをやったという[47]。「陸奥」は旗艦「愛宕」や軽巡「由良」(第四水雷戦隊)各艦と共に8月11日に日本を出港、8月17日にトラック泊地に進出した[48][49]。8月21日、前進部隊の一員としてトラック泊地を出港、24日-25日の第二次ソロモン海戦に参加したがアメリカ軍と交戦することはなかった[48]高雄型重巡洋艦(第四戦隊)、妙高型重巡洋艦(第五戦隊)、最上型重巡洋艦(第七戦隊)、利根型重巡洋艦(第八戦隊)、金剛型戦艦(第十一戦隊)等から編成される高速艦艇がアメリカ軍機動部隊を追撃するにあたって、最大速25-6ノットの「陸奥」は第2駆逐隊の白露型3隻(村雨五月雨春雨)とともに艦隊から分離されてしまったのである[50][51]。27日、艦隊に接触するアメリカ軍飛行艇に対し「陸奥」は主砲を発射、アメリカ軍機は爆弾を投棄して退避した[52]

9月2日、トラック帰還[53]宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日記戦藻録に『二艦隊は三戦隊の代りに同艦の同行を要望せるも果して其結果や如何に』と著したが[53]、その後も本艦が最前線でアメリカ軍と交戦することはなかった。前進部隊から除かれた後、主力部隊・第一戦隊二番艦となる[54]。10月中旬の南太平洋海戦、11月の第三次ソロモン海戦のいずれにも参加せず、戦艦大和」とともに後方で待機した。このため「燃料タンク」や「艦隊旅館」と呼ばれることもあった[55]。第三次ソロモン海戦では、事前に「大和、陸奥」から出動艦艇に食糧を補充した[56]。また陸奥航海長が近藤中将指揮する第二艦隊旗艦・重巡洋艦「愛宕」の臨時航海長を務めてアメリカ軍の新型戦艦2隻(サウスダコタワシントン)と交戦している[57]。同海戦で金剛型戦艦2隻(比叡霧島)、重巡「衣笠」、駆逐艦3隻(夕立綾波)が沈没、輸送船団も壊滅した。第十一戦隊司令官阿部弘毅少将は駆逐艦「雪風」に座乗したのち、18日トラック泊地にて「陸奥」に移動し同戦隊解隊手続きにはいった[58]

陸奥爆沈[編集]

1943年(昭和18年)1月7日、「陸奥」は空母「瑞鶴」、重巡「鈴谷」、駆逐艦5隻(有明夕暮磯波天霧)と共にトラックを出発、内地へ回航される[59]。瑞鶴隊は呉へ向かい[60]、陸奥隊は12日に横須賀に到着した後、本艦は内地待機が続いた[48]。2月15日、駆逐艦3隻(山雲旗風野風)に護衛されて横須賀を出発、呉へ回航された[61][62]

6月8日、「陸奥」は広島湾沖柱島泊地に停泊していた。早朝から降っていた霧雨がやみ、無風で霧が泊地を覆っていたという[63]。周囲には姉妹艦の「長門」、戦艦扶桑」、重巡洋艦最上」、軽巡洋艦「大淀龍田」、駆逐艦「若月、玉波」等が停泊していた[64]。 この日、本艦は柱島泊地に向かう「長門」に旗艦ブイを譲るため午後1時から繋留替えをする予定になっていた。三好輝彦(陸奥)艦長は、前日に着任したばかりの鶴岡扶桑艦長(三好とは海軍兵学校同期)を訪ねて「扶桑」で歓談し、正午前には「陸奥」に戻った[65]。「陸奥」では昼食が終わり「煙草盆出せ」の命令があって休憩時間だった[66]。 一方、「長門」は「陸奥」の右舷前方で一旦停止する[67]。航海科員が錨地変更作業の準備をしていた12時10分ごろ、「陸奥」は三番砲塔~四番砲塔付近から突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、船体は四番砲塔後部甲板部から2つに折れた[68][69]。艦前部は右舷に傾斜すると、爆発後すぐに沈没した[70][69][71]。この時、360tもの重量がある三番砲塔が艦橋とほぼ同じ高さまで吹き飛んだという目撃証言もある[72]

「長門」は陸奥轟沈を米潜水艦の雷撃によるものと判断し、増速して現場を離れると、救助艇を発進させた[73]。爆発を目撃した「扶桑」も救助艇を派遣する[65][74]。同じく呉鎮守府も潜水艦の襲撃と判断し、対潜水艦配備を行う[75]。陸奥艦後部は爆発後しばらく艦尾部分を上にして浮いており、長門短艇が接舷して救助作業を行っている[76]。艦尾部分は午後5時ごろまで浮いていたが、約四時間後(日没後)に沈没した[68]。乗員1,474人(定員1,343名、予科練甲飛第十一期練習生と教官134名が艦務実習で午前11時から乗艦)のうち助かったのは353人で、死者のほとんどは溺死でなく爆死だった[77]。三好(陸奥)艦長の遺体は艦長室で発見された[65]。大野小郎(陸奥副長)大佐は戦艦「比叡」沈没時の副長だったが、今度は「陸奥」と共に殉職した[78]。他に機関長、砲術長、主計長、軍医長、運用長(福井周夫と交替したばかりの末武政治中佐)など、艦主要幹部も軒並み殉職している[79]。沖原秀也中佐(陸奥航海長)は南太平洋海戦で大破した重巡「筑摩」航海長からの転任だったが、陸奥爆沈時の負傷が元でのちに病死した[78]

生存者約350名の大部分は下士官兵で、昼食後に甲板で食器を洗っていた新兵が多かったという[69]。多くは南洋諸島に送られて戦死したという[80]。また特技章を持っていた者はそのまま「長門」に配属された[69]。陸奥衛兵司令だった中村乾一大尉は呉鎮守府での打ち合わせのため「陸奥」を離れていて無事であり、のちに長門高射指揮官としてレイテ沖海戦等を戦った[69]。「陸奥」と共に戦死した予科練練習生達の葬式も、所属していた土浦海軍航空隊で行われることはなかった[81]。同航空隊においても、「陸奥」から生還した者や、「扶桑」に乗艦して助かった者に対して厳重な箝口令がしかれている[82][83]。陸奥爆沈時の第一艦隊司令長官であった清水光美中将は責任をとらされる形で予備役に編入された。沈没地点には赤浮標が設置されており、1944年にこれを見た宇垣纏第一戦隊司令官が陸奥爆沈を回想している[84]

「陸奥」の南南西約1,000m(扶桑艦長の回想では2000m)に停泊していた「扶桑」は「陸奥爆沈ス。一二一五」と発信、以後本艦に関する一切の発信は禁止され、付近の航行は禁止された。死亡した乗員の家族には給料の送金を続けるなど、陸奥爆沈は一般には秘匿され、国民は戦後になるまでこの事件を知らされなかった。1943年(昭和18年)は山本五十六連合艦隊司令長官が戦死(6月5日に日比谷公園で国葬)、アッツ島玉砕など暗いニュースが連続しており、国民に親しまれた「陸奥」が戦わずして爆沈という最悪のニュースを内外に報道することができなかったという事情もある[85]。もっとも連合艦隊各艦にはニュースが通達されており、陸奥爆沈直前に病気療養のため退艦・転勤した福地周夫は、着任先の海軍兵学校教官達から「君は幽霊ではないか」と驚かれたという[86]。さらに休暇上陸後に国民から「陸奥が爆沈した」と教えられたと証言する戦艦武蔵の乗組員もいる[87]。呉でも陸奥爆沈の情報は確証を持って語られていたという[88]。 終戦後の1945年(昭和20年)12月9日、GHQNHKラジオ第1放送第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で陸奥沈没を『航空母艦信濃雲龍瑞鶴千代田、及び戦艦奥陸(陸奥)は何時、何處で撃沈されましたかお知らせ下さい』という題で放送した[89]

爆発の原因[編集]

日本海軍は、戦艦「三笠筑波河内」、防護巡洋艦「松島」等を火薬庫の爆発によって喪失している[90]。他にも戦艦「日向」や「榛名[91]も主砲爆発事故を起こしている。春日型装甲巡洋艦日進」で起きた火薬庫爆発事故は、不満を持っていた乗組員の放火によるものだった。陸奥爆沈の場合も爆発事故直後に査問委員会(委員長塩沢幸一海軍大将)が編成され、事故原因の調査が行われた[68]。検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされる[92]1970年(昭和45年)9月13日発行の朝日新聞は四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じ、この説は一般にも知られるようになった[93]。この時、窃盗の容疑を掛けられていた人物と同じ姓名が刻まれた印鑑が同時に発見されている[94]。だが、真相は未だに明確になっていない。謎めいた陸奥の最期はフィクションの題材にもなった。この他、爆発の原因はスパイの破壊工作、三式弾の自然発火による暴発、また、上記時人為的爆発の背景としては、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火などが挙げられている[95]。たとえば作家の梶山季之によれば週刊文春1959年(昭和34年)6月1日号で「陸奥爆沈は共産主義者(コミンテルン)の工作」という説を唱え、日本共産党から抗議された[96]

三式弾の自然発火は原因調査前に最も疑われた事故原因のひとつだった[68]。だが、扶桑艦長鶴岡信道大佐以下、陸奥爆沈目撃者は爆発直後に発生した爆発煙を、ニトログリセリンと綿火薬が主成分の主砲弾用九三式一号装薬によるものだったと述べ、原因調査の際に行われた目撃者に対する火薬煙の比較確認実験でも、同様の証言が残されている。査問委員会が実施したこの実験は、約300万円を計上して呉工廠亀ヶ首砲熕実験場内に陸奥第三砲塔弾薬庫と全く同じ構造の模型を建造し、陸奥生存者立ち会いのもとで各種の実験を行うという本格的なものだった[68]。この実験でも、三式弾の劣化等による自然発火は発生しないことが確認された[68]

異説として、大高勇治(第七駆逐隊司令部付通信兵)による爆雷誤爆説がある[97]。陸奥爆沈の約1年半前の1941年(昭和16年)12月30日、対潜水艦哨戒出撃準備中の駆逐艦」は起爆点を水深25メートルにセットしたままの爆雷1個を陸奥爆沈地点に落としたとされる[98]。その際は爆発せず、引き上げられもせず放置された。落とした事実は上級士官に報告されなかった[99]。この付近は水深25メートル前後であり、「陸奥」移動時のスクリューの回転により何らかの波動が発生して爆雷が爆発したのが陸奥沈没の原因であると結論づけている[100]。大高は人為説に対して、戦艦の弾薬庫管理は厳重であること、鍵は当直将校が首にかけていること、弾薬庫には不寝番衛兵がいることなどを指摘し、仮に陸奥艦長が敵国のスパイであったとしても、火薬庫に侵入・放火することは不可能だとして否定的である[101]。長門副砲手として陸奥爆沈を目撃した田代軍寿郎(海軍一等兵曹)も、弾火薬庫常備鍵を持った陸奥副直将校が鍵箱ごと遺体で回収されたこと、予備鍵は艦長室にあることを理由に挙げ、弾薬庫不審者侵入説を強く否定している[102]。しかし警備が厳重な弾火薬庫扉を経由せず、昼間は無施錠となっていた砲塔から換装室を経由し火薬庫へ侵入するルートがある事を指摘する声もある[103]。空母「千歳、瑞鳳、瑞鶴」の艦長を勤めた野元為輝(少将)も「そんなのすぐ鍵やってる。砲術が悪い」と海軍反省会で証言している[104]

引き揚げ[編集]

爆沈直後から海軍は「陸奥」の引き上げを検討した。可能であれば3ヶ月の工期で再戦力化したいという希望を持っていたが、調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されたため、浮揚計画は放棄された。1944年(昭和19年)7月、陸奥燃料庫から重油の回収作業が行われ約600トンを回収した(竹作業)。終戦後の浮揚作業は、占領下の監視の為に行われなかったが、1948年(昭和23年)に西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始する。この際、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こり、作業は中断した。

1970年(昭和45年)から深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)主導によるサルベージが再開され、山口県大島郡周防大島町陸奥記念館では、引き揚げられた艦首部分や武装の一部、乗員の遺品などが展示されている。引き揚げ当初は1500tクレーンによって艦尾引き揚げを試みたがワイヤーが切れて断念、その後1971年(昭和46年)3月15日に艦尾の浮揚に成功した[105]。同様に第四砲塔が引き揚げられ、内部から数点の遺骨が回収された。沈没場所は浅い瀬戸内海であるが、潮流が速く、視界も悪いため潜水するのは危険な場所である。

2007年現在は艦体の約75%が浮揚され、艦橋部と、艦首部等を除く艦の前部分などが海底に残っている。

2007年(平成19年)4月7日第六管区海上保安本部は測量船くるしまのマルチビーム探測機を用いて「陸奥」の船影を捉え、一般公開した[106]

なお、陸奥船体に使われていた鉄は戦後の鉄と違ってコバルト60を含まないことから、日本各地の研究所、原子力発電所、医療機関における放射能測定において環境放射能遮蔽材などに用いられており、「陸奥鉄」の名で重宝されている[107]

引き揚げ展示品と展示場所[編集]

陸奥記念館の入り口に置かれる主錨
船の科学館に展示される主砲
主砲尾栓部
聖博物館の主砲
難波八阪神社内主砲抑気具記念碑
陸奥記念館山口県周防大島町
主錨、錨鎖、スクリュー、14cm副砲、艦首先端部
靖國神社遊就館東京都千代田区
小錨、14cm副砲
船の科学館東京都品川区
41cm主砲身
聖博物館長野県東筑摩郡麻績村
41cm主砲身、ボイラー蒸気通送管、錨鎖、舷窓など
立命館大学国際平和ミュージアム京都府京都市北区[108]
舷窓
高野山奥の院和歌山県伊都郡高野町
第4砲塔の基部、および推進機軸の先端部を慰霊碑の一部として使用
日植記念館岡山県津山市
41cm主砲(一部)、12.7cm連装高角砲、副錨
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)(広島県呉市
41cm主砲身、主錨、スクリュー、主舵
入船山記念館(広島県呉市)
スクリュー、舷窓、錨鎖の一部
海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校(旧海軍兵学校広島県江田島市
菊御紋章、主砲第四砲塔
大山祇神社愛媛県今治市
錨鎖の一部
大谷霊園(愛媛県今治市
14cm副砲
福齊寺長崎県長崎市
主砲装甲一部および、引き揚げられた部材(慰霊の鉄兜となっている)

年表[編集]

  • 1917年(大正6年)8月20日 - 命名[1]。8月23日附で戦艦に類別[15]
  • 1918年(大正7年)6月1日 - 八八艦隊計画の2号艦として、横須賀海軍工廠で起工
  • 1920年(大正9年)5月31日 - 進水
  • 1921年(大正10年)10月24日 - 竣工。佐世保鎮守府に入籍
  • 1927年(昭和2年)1月 - 艦首形状変更工事
  • 1927年(昭和2年)10月25-30日 - 海軍特別大演習(横浜沖)に昭和天皇御召艦として参加[109]
  • 1927年(昭和2年)10月30日 - 大演習観艦式(横浜沖)に御召艦として参加[110]
  • 1928年(昭和3年)12月4日 - 御大礼特別観艦式(横浜沖)に参加[111]
  • 1930年(昭和5年)10月26日 - 特別大演習観艦式(神戸沖)に参加[112]
  • 1933年(昭和8年)8月25日 - 大演習観艦式(横浜沖)に参加[113]
  • 1934年(昭和9年)6月 - 横須賀鎮守府へ移籍。
  • 1934年(昭和9年)9月5日 - 二カ年計画の大改装工事開始
  • 1936年(昭和11年)9月30日 - 大改装工事完了
  • 1936年(昭和11年)10月29日 - 特別大演習観艦式(神戸沖)に参加。
  • 1937年(昭和12年)8月 - 支那事変小松島から出撃。
  • 1940年 (昭和15年) 10月11日 - 紀元二千六百年特別観艦式に参加。
  • 1941年 (昭和16年) 12月8日 - 真珠湾攻撃にともなう南雲機動部隊支援のため出撃、13日帰投。
  • 1942年(昭和17年)5月29日 - ミッドウェー海戦に参加。アメリカ軍と交戦することなく、6月14日に帰投
  • 1942年(昭和17年)8月11日 - トラック島に進出する。第二次ソロモン海戦に参加するも、アメリカ軍と交戦せず
  • 1943年(昭和18年)1月12日 - 日本本土に戻る
  • 1943年(昭和18年)6月8日 - 柱島沖で爆沈を遂げる
  • 1943年(昭和18年)9月1日 - 除籍
  • 1963年(昭和63年)6月9日 - 靖国神社で初の慰霊祭を実施[93]

主要目一覧[編集]

要目 新造時
(1920年)
大改装後
(1936年)
排水量 基準:32,720t
常備:33,800t
基準:39,050t
公試:43,400t
全長 215.80m 224.94m
全幅 28.96m 34.60m
吃水 9.08m 9.46m
主缶 ロ号艦本式専焼缶15基
同混焼缶6基
ロ号艦本式大型4基
同小型6基
主機 オールギアードタービン4基4軸
軸馬力 80,000shp 82,000shp
速力 26.5ノット 25.28ノット
航続距離 5,500海里/16ノット 8,650海里[114]/16ノット
燃料 石炭:1,600t
重油:3,400t
石炭:50t
重油:5,600t
乗員
主砲 四一式40.6cm連装砲4基
副砲 四一式14cm単装砲20門 同18門
高角砲 8cm単装4門 12.7cm連装4基
機銃 三年式3挺 7.7mm3挺
40mm連装2基
25mm連装10基
(後日40mmに代わって装備)
魚雷 53cm水中発射管4本
同水上4本
なし
その他兵装
装甲 水線305mm
甲板75+70mm
主砲前盾305mm
主砲天蓋152mm
副砲廓152mm
水線305mm
甲板75+127mm
主砲前盾457mm
主砲天蓋250mm
副砲廓152mm
搭載機 なし 3機
カタパルト1基

※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。

公試成績[編集]

項目 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
竣工時 34,116t 87,494shp 26.728kt 1921年(大正10年)
大改装後 82,578shp 25.28kt 1936年(昭和11年)

歴代要員[編集]

※『艦長たちの軍艦史』30-32頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

艦長[編集]

  • 小牧自然 大佐:1921年(大正10年)3月1日 -
  • 黒瀬清一 大佐(海兵26期):1921年(大正10年)12月1日 -
  • 寺岡平吾 大佐(海兵27期):1922年(大正11年)12月1日 -
  • 原敢二郎 大佐(海兵28期):1923年(大正12年)12月1日 - 1924年11月10日
  • 米内光政 大佐(海兵29期):1924年(大正13年)11月10日 -
  • 池田他人 大佐(海兵30期):1925年(大正14年)12月1日 -
  • 枝原百合一 大佐(海兵31期):1926年12月1日 -
  • 堀悌吉 大佐(海兵32期):1927年(昭和2年)12月1日 -
  • 吉田善吾 大佐(海兵32期):1928年(昭和3年)12月10日 -
  • 阿武清 大佐(海兵33期):1929年(昭和4年)11月30日 -
  • 毛内効 大佐(海兵33期):1930年(昭和5年)12月1日 -
  • 菊野茂 大佐(海兵34期):1931年(昭和6年)12月1日 -
  • 和田専三 大佐(海兵34期):1932年(昭和7年)5月10日 - 1932年11月1日
  • 安藤隆 大佐(海兵34期):1932年(昭和7年)11月1日 -
  • 糟谷宗一 大佐(海兵35期):1933年(昭和8年)11月15日 -
  • 細萱戊子郎(海兵36期):1934年(昭和9年)11月15日 -
  • (兼)春日篤(海兵37期) 大佐:1935年(昭和10年)11月15日 - 1935年12月2日
  • 桑折英三郎 大佐(海兵37期):1935年12月2日 - 1936年11月16日
  • (兼)後藤英次 大佐(海兵37期):1936年(昭和11年)11月16日 - 1936年12月1日[115]
  • 後藤英次 大佐(海兵37期):1936年(昭和11年)12月1日 -
  • 高木武雄 大佐(海兵39期):1937年(昭和12年)12月1日 -
  • 五藤存知 大佐(海兵38期):1938年(昭和13年)11月15日 -
  • 保科善四郎 大佐(海兵41期):1939年(昭和14年)11月1日 -
  • 小林謙五 大佐(海兵42期):1940年(昭和15年)11月1日 -
  • 小暮軍治 大佐(海兵41期):1941年(昭和16年)8月11日 -
  • 山澄貞次郎 大佐(海兵44期):1942年(昭和17年)6月20日 -
  • 三好輝彦 大佐(海兵43期):1943年(昭和18年)3月10日 - 6月8日殉職

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c #達大正6年8月p.7『達第九十七號 軍備補充費ヲ以テ本年度建造ニ着手スヘキ戦艦及二等巡洋艦ニ左ノ通命名セラル|大正六年八月二十日 海軍大臣 加藤友三郎|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 戰艦 陸奥 ムツ|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 二等巡洋艦 球磨 クマ|三菱合資會社長崎造船所ニ於テ建造 二等巡洋艦 多摩 タマ』
  2. ^ #第670号寄贈品に関する件p.3
  3. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.112『陸奥(むつ) 艦種:戦艦 長門と姉妹艦なり。 艦名考:國名なり、東山道陸奥國に採る。 艦歴:本艦は華府軍縮會議開催中竣工し、其の廃案に關して米國の主張に對し、國論を沸騰せしめ熱烈なる國民の支援により残置せらる。當時世界中40糎砲を装備したる戦艦は我が長門・陸奥の二艦のみ。大正14年皇后陛下非公式に御乗艦あらせらる。(略)起工 大正7-6-1/進水 同9-5-31/竣工 同10-11-22』
  4. ^ #艦艇類別等級(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|軍艦|戰艦|長門型|長門、陸奥』
  5. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.11『戰艦"長門 ながと" 全要目{排水量32,720噸 速力23節 備砲40糎砲8門 14糎砲20門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管6門 起工大正6年8月 竣工大正9年11月 建造所呉海軍工廠}長門は40糎砲と云ふ巨砲を世界で初めて搭載した戰艦であり、艦型に於ても従來のものを完全にノツクアウトして列強海軍をして瞠着たらしめた艦である。日本人の頭脳で完成した本艦は、従來先進列強にとかく後塵を拝せしめられてゐた帝國をして一躍彼等をリードする日本人たることを證明したのである。戰艦は云ふまでもなく艦隊の根幹であり、その價値は搭載する主砲の威力と防禦設備如何によつて決定される。主砲は敵主力艦隊撃滅に備ふるものであり、副砲は主として夜戰用、即ち夜間来襲する敵の輕快部隊に備へるものである。尚世界の七大戰艦とは、我が"陸奥"及びこの"長門"。英の"ネルソン" "ロドニー" 米の"ウェスト・ヴアジニア" "コロラド" "メリーランド"の各40糎砲搭載戰艦である。』
  6. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.10『戰艦"陸奥 むつ" 全要目{排水量32,720噸 速力23節 備砲40糎砲8門 14糎砲20門 12.7糎高角砲8門 魚雷發射管6門 起工大正7年6月 竣工大正10年10月 建造所横須賀海軍工廠}陸奥は世界七大戰艦の一であり、姉妹艦長門と共に我が海軍の至寶的存在である。こゝに七大戰艦と云ふのは、その排水量の大を指すのではなく、搭載主砲の40糎砲を指すのである。(40糎はこの級の出現した直後のワシントン條約で制限された主砲口徑の最大限である)故にこの陸奥級の出現によつて齎された第一の偉観は従來の36糎砲から40糎砲への躍進である。第二に擧ぐべきは前檣の三脚を脱却してヤグラ式に考案されたことである。40糎主砲8門を前後各二個の砲塔内に収め、副砲10門づヽを兩舷に12.7糎高角砲8門は中部甲板附近に備へてゐる。尚この寫眞で艦の前部やヤグラマストの下方、煙突の兩側に白く連つて見えるのは乗組員の洗濯被服である。全長201.35米、幅28.96米、平均吃水9.14米。(長門も同様)』
  7. ^ #連合艦隊戦艦12隻を探偵する210頁
  8. ^ #ポケット海軍年鑑(1937)p.10『戰艦"陸奥 むつ" 全要目(略) 陸奥は世界七大戰艦の一であり、姉妹艦長門と共に我が海軍の至寶的存在である。世界の七大戰艦は、排水量を指すのではなく、搭載主砲の口徑を云ふのである。(40糎はワシントン制限條約の主砲口徑の最大限であった))故にこの陸奥級の出現によつて齎された第一の偉観は従來の36糎砲から40糎砲への躍進である。第二に擧ぐべきは前檣が三脚を脱却してヤグラ式に考案されたことであつた。40糎主砲8門を前後各二個の砲塔内に収め、副砲10門づヽを兩舷に12.7糎高角砲8門は中部甲板附近に備へてゐる。全長201.35米、幅28.96米、平均吃水9.14米。(長門も同様)昭和十一年度海軍特別大演習直前に改装終了し晴れの観艦式に参加した。殆ど長門と同様の形で、煙突は一本になつた。"陸奥"は昭和12年度は長門と共に聯合艦隊旗艦として活躍することになつている。如斯"陸奥" "長門"が同時に艦隊に編入されたことはこゝ10年來絶えてなかつたところである。』
  9. ^ 超精密3DCG戦艦長門 (双葉社 2005年)、#歴群15長門型等参照
  10. ^ #連合艦隊戦艦12隻を探偵する234頁
  11. ^ #海軍反省会4p.147、野村実(大尉、兵学校71期)談。
  12. ^ a b #松永、ネイビーp.94
  13. ^ #第670号寄贈品に関する件p.9『…且ツ岩木山神社ノ分霊ヲ祀リアル由承リ…』
  14. ^ 「海軍艦艇製造沿革」p.2
  15. ^ a b #達大正6年8月p.16『達第百號 艦艇類別等級表中戰艦ノ欄「長門」ノ次ニ「、陸奥」ヲ、巡洋艦二等ノ欄「龍田」ノ次ニ「、多摩、球磨」ヲ、驅逐艦一等ノ欄「谷風」ノ次ニ「、江風、峯風、澤風」ヲ、同二等ノ欄「檜」ノ次ニ「、楢、桑、椿、槇、欅、榎」ヲ加フ|大正六年八月二十三日 海軍大臣 加藤友三郎』
  16. ^ 「軍艦陸奥製造一件(1)」p.40
  17. ^ a b c #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.2『陸奥|(艦要目略)|横須賀工廠|大正7-6-1|9-5-31|10-10-24|(艦装備略)』
  18. ^ 「23.軍艦陸奥進水式参列ニ関スル件」p.6
  19. ^ #陸奥命名進水式(2)p.54『軍艦陸奥命名式拝観席案内圖』
  20. ^ #歴群15長門型p.164
  21. ^ #歴群15長門型p.165
  22. ^ 「軍艦陸奥製造一件(2)」pp.57-58
  23. ^ #海軍生活放談pp.240-241
  24. ^ #歴群15長門型pp.166-167
  25. ^ 『海軍とは何ぞや? : 附録・空襲と防空』p.50、『海軍読本』p.84、『平易に説いた陸海軍の知識』海軍の巻p.18等
  26. ^ 「軍艦陸奥製造一件(2)」p.44
  27. ^ #歴群15長門型p.154
  28. ^ #歴群15長門型p.25
  29. ^ #歴群15長門型p.153
  30. ^ a b #横山一郎回顧録17頁
  31. ^ #連合艦隊戦艦12隻を探偵する206頁
  32. ^ #歴群15長門型pp.155、163
  33. ^ 『平易に説いた陸海軍の知識』p.145
  34. ^ #皇后陸奥行啓p.25『14.4.27前10-0陸奥発10-30着 第一艦隊司令長官海軍大臣「皇后陛下午前九時三十分御乗艦十時出動ス」天候良好海上静穏』
  35. ^ #皇后陸奥行啓p.26『14.4.27后3-55陸奥発5-59着 第一艦隊司令長官海軍大臣「午後三時沼津着三時五十分御機嫌麗ク御退艦アラセラル」無事任務終了ス』
  36. ^ 「軍艦陸奥艦首改造の件」p.4
  37. ^ 「軍艦陸奥羅針盤橋一部拡張の件」pp.8
  38. ^ #歴群15長門型p.52
  39. ^ #歴群15長門型p.158
  40. ^ #歴群15長門型p.159
  41. ^ 世界の艦船2009年7月号
  42. ^ #波濤と流雲と青春と163頁
  43. ^ #波濤と流雲と青春と246頁
  44. ^ #戦藻録(九版)45頁
  45. ^ #ミッドウェー海戦従軍記p.115
  46. ^ #S1708二水戦日誌(1)p.29『GF司令長官:9日1155/GF電令作戦第203号 陸奥ヲ主力部隊ヨリ除キ前進部隊ニ編集ス』
  47. ^ #愛宕奮戦記114頁
  48. ^ a b c #歴群15長門型p.163
  49. ^ #愛宕奮戦記115頁
  50. ^ #S1708二水戦日誌(3)p.48、#S1707七戦隊日誌(4)p.41『前進部隊指揮官24日1715/前進豚本隊(陸奥 2dg欠)ハ機動部隊ノ攻撃ニ策応今夜残敵ヲ捕捉下撃滅セントス(前進部隊本隊1500地点「ケリテ33」針路170度速力28節)』
  51. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)577頁
  52. ^ #愛宕奮戦記135頁
  53. ^ a b #戦藻録(九版)182頁
  54. ^ #戦藻録(九版)186頁
  55. ^ #翔鶴海戦記143-144頁
  56. ^ #戦藻録(九版)228頁
  57. ^ #愛宕奮戦記232頁
  58. ^ #11戦隊詳報(4)pp.44-45『13日0550比叡ヨリ雪風ニ移乗/18日0700トラック帰着 陸奥ニ移乗 自18日至30日トラックニ在リテ解隊準備事務ニ従事』
  59. ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.18『7日0800第三艦隊司令長官/瑞鶴陸奥鈴谷有明夕暮磯波(天霧電6日)「トラック」発』
  60. ^ #S1801佐伯防備隊日誌(2)pp.11-12『1月11日0900呉防備司令官→瑞鶴鈴谷天霧夕暮有明迅鯨伊良湖|一.瑞鶴鈴谷天霧有明夕暮12日0900沖ノ島通過北上ノ豫定沖ノ島迄ノ針路335度/二.迅鯨12日0800沖ノ島通過、伊良湖同日0700深島通過北上ノ予定』
  61. ^ #S1712呉防備隊日誌(5)p.9『16|陸奥山雲旗風野風|37ch由利島|入泊針路(沖ノ島ヨリ30浬)』-p.22『14日0130(略)一.陸奥山雲旗風野風、左ノ點ヲ通過横須賀ヨリ桂島ニ回航ノ豫定 2月15日横須賀発(略)』
  62. ^ #翔鶴海戦記147頁
  63. ^ #歴群15長門型p.182
  64. ^ #続海軍くろしお物語p.92、#歴群15長門型p.183
  65. ^ a b c #佐藤 艦長(文庫)9-12頁『「陸奥」爆沈の目撃者』
  66. ^ #長門七分隊115-116頁『陸奥と共に沈んで-仁科繁生(機銃員)』
  67. ^ #歴群15長門型p.184
  68. ^ a b c d e f #戦史叢書海軍戦備(2)109頁『戦艦陸奥の爆沈』
  69. ^ a b c d e #長門七分隊66頁
  70. ^ #歴群15長門型p.186
  71. ^ #戦艦十二隻(2014)283-284頁
  72. ^ #歴群15長門型p.188
  73. ^ #歴群15長門型p.184
  74. ^ #戦艦十二隻(2014)280-281頁
  75. ^ #S1805呉鎮守府日誌(2)p.23『呉防戦機密第081911番電/内海ニ敵潜水艦侵入ノ疑アリ桂島對潜配備ニ就ケ』
  76. ^ #歴群15長門型p.185
  77. ^ #海軍美談177-178頁
  78. ^ a b #続海軍くろしお物語p.91-92
  79. ^ #海軍美談180-181頁
  80. ^ #戦艦十二隻(2014)285-286頁
  81. ^ #門司257-258頁『陸奥と共に沈んだ練習生』
  82. ^ #海軍美談182-183頁
  83. ^ #戦艦十二隻(2014)286-287頁『艦務実習生古屋一彦上飛曹の証言』
  84. ^ #戦藻録(九版)p.365
  85. ^ #歴群15長門型p.189
  86. ^ #翔鶴海戦記148-149頁(6月15日、海軍兵学校教官)
  87. ^ 佐藤太郎『戦艦武蔵』(河出書房、1975)48頁。当時、武蔵は木更津沖に投錨中。
  88. ^ 橋本廣『機動部隊の栄光』255頁
  89. ^ #真相はかうだp.15『航空母艦信濃は、昭和十九年十一月の二十九日本州南方で、アメリカの潜水艦の爲撃沈されました。航空母艦雲龍は昭和十九年十二月の十九日東支那海で同じく、アメリカの潜水艦の爲撃沈され、航空母艦瑞鶴は昭和十九年十月二十五日、ヒリツピン諸島ルソン島北方洋上で、アメリカの雷撃機の爲轟沈されました。航空母艦千代田は、瑞鶴と同じ時昭和十九年十月二十五日、同じ場所ルソン島西方洋上で、アメリカの雷撃機並びに艦隊の爲撃沈されました。最後に戦艦陸奥は昭和十八年六月の八日に廣島湾で、爆発事故により沈没しました。』
  90. ^ #連合艦隊戦艦12隻を探偵する
  91. ^ #戦艦十二隻(2014)97頁(大正9年9月、一番主砲右砲騰発事故)
  92. ^ #連合艦隊戦艦12隻を探偵する236頁
  93. ^ a b #続海軍くろしお物語p.94
  94. ^ #陸奥爆沈(新潮文庫1979版)p.241
  95. ^ #海軍生活放談pp.259-260
  96. ^ #連合艦隊戦艦12隻を探偵する239頁
  97. ^ #第七駆逐隊p.166
  98. ^ #第七駆逐隊p.165
  99. ^ #第七駆逐隊p.165
  100. ^ #第七駆逐隊pp.166-168「陸奥爆沈の珍事実」
  101. ^ #第七駆逐隊p.167
  102. ^ #歴群15長門型pp.188-189
  103. ^ #陸奥爆沈(新潮文庫1979版)p.202
  104. ^ #海軍反省会4p.46
  105. ^ #続海軍くろしお物語p.98
  106. ^ 六管プレスリリース http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/7_osirase/kisyareku/070424.html
  107. ^ "戦艦陸奥"現代への数奇な道のりNHKニュースおはよう日本2013年8月15日2015年6月24日閲覧
  108. ^ 不定期展示品として
  109. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実pp.238-239『御召艦一覧表』
  110. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.239『観艦式一覧表』
  111. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.241『昭和三年 大禮特別観艦式式場圖(其ノ一)』
  112. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.242『昭和五年 特別大演習式場圖』
  113. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.242『昭和八年 特別大演習観艦式式場圖』
  114. ^ 昭和12年度海軍省年報による。福井静夫の著作では16ノットで10,090海里との数値もある。
  115. ^ 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 石丸藤太 訳『米国より観たる日米争覇戦』(二松堂書店、1926年) 「第5章 戦艦陸奥の復活」
    • 平田晋策 著『海軍読本』(日本評論社、1932年)
    • 黒木文四郎 著『海軍とは何ぞや? : 附録・空襲と防空』(鶴見文千堂[ほか]、1933年)
    • 国防科学研究会 編『平易に説いた陸海軍の知識』(二松堂書店、1934年)
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』 海軍研究社、1935年5月。
    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』 海軍研究社、1937年2月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『日本軍艦集 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
    • 連合軍総司令部民間情報教育局編 『連合軍最高司令部民間情報教育局編 ラヂオ放送「眞相箱」の再録 眞相はかうだ 第一輯』 総合プレス社、1946年8月。
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A09050126900「海軍艦艇製造沿革」
    • Ref.C08021547600 『軍艦陸奥命名進水式一件(1)』。
    • Ref.C08021547700 『軍艦陸奥命名進水式一件(2)』。
    • Ref.C08021547800 『軍艦陸奥命名進水式一件(3)』。
    • Ref.C08021547900 『軍艦陸奥命名進水式一件(4)』。
    • Ref.C08021548000 『軍艦陸奥命名進水式一件(5)』。
    • Ref.C08021548100 『軍艦陸奥命名進水式一件(6)』。
    • Ref.C08050171800「軍艦陸奥製造一件(1)」
    • Ref.C08050171900「軍艦陸奥製造一件(2)」
    • Ref.C04015804000「軍艦陸奥人員数調査表の件」
    • Ref.C04015121100「軍艦陸奥艦首改造の件」
    • Ref.C04015157600「陸奥前部水中発射管室及隣接区画浸水の件」
    • Ref.C04016686900「軍艦陸奥羅針盤橋一部拡張の件」
    • Ref.C05034646500「横廠機密第110号 10.2.9 軍艦陸奥後部左舷14糎弾庫火災報告」
    • Ref.C08051333800 『皇后陛下軍艦陸奥行啓』。
    • Ref.C05021562600 『第670号 6.3.2 寄贈品に関する件』。
    • Ref.C08030095600 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030095800 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(3)』。
    • Ref.C08030767500 『昭和17年7月1日〜昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(4)』。
    • Ref.C08030051700 『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030769100 『昭和18年1月1日~昭和18年1月31日 第7戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030402500 『昭和18年1月1日~昭和18年1月25日 佐伯防備隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030367500 『昭和17年12月1日~昭和18年5月31日 呉防備隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
    • Ref.C08030327500 『昭和18年5月1日~昭和18年8月31日 呉鎮守府戦時日誌(2)』。
    • Ref.C13071974300 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。
    • Ref.C13072003500 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿2.3』。
    • Ref.C12070072400 『大正6年達完/8月』。
  • 青山淳平『海市のかなた 戦艦「陸奥」引揚げ』(中央公論新社、2001年) ISBN 4-12-003162-4
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書 第九版』 原書房、1968年1月。
  • 大高勇治 『第七駆逐隊海戦記 生粋の駆逐艦乗りたちの戦い』 光人社NF文庫、2010年ISBN 978-4-7698-2646-0
  • 大西新蔵 『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。ISBN 031-40870-6945。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 小林健ほか 『リバイバル戦記コレクション 証言・昭和の戦争 戦艦「大和」主砲指揮所に地獄を見た』 光人社、1989年ISBN 4-7698-0478-4
    • 戦艦「陸奥」ミッドウェー海戦従軍記 若き水兵がみた日本海軍最悪の大海戦顛末記―佐々木確治
  • 小板橋孝策 『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』 光人社NF文庫、2008年ISBN 978-4-7698-2560-9
  • 日本海軍艦艇写真集 戦艦 大和 長門 長門 陸奥 (光人社) ISBN 4-7628-0771-6
  • 小林昌信ほか 『戦艦十二隻 国威の象徴"鋼鉄の浮城"の生々流転と戦場の咆哮』 光人社、2014年8月。ISBN 978-4-7698-1572-3
    • 元軍令部作戦課長・海軍大佐大前敏一『第二次大戦と日本戦艦十二隻の生涯 国家の興亡を賭けて建造された主力艦隊の生々流転と最後
    • 元大本営海軍参謀・海軍中佐吉田俊雄『日本海軍の象徴「戦艦長門」栄光の生涯 国民の艦、国威の象徴、連合艦隊旗艦として親しまれた鋼鉄の浮城の最後
    • 元「陸奥」運用長・海軍中佐福地周夫『悲劇の戦艦「陸奥」桂島水道に死す』
    • 元「扶桑」乗組砲術指導官付・海軍中尉高橋嘉夫/元甲飛十一期艦務実習生・海軍上飛曹古屋一彦『私は陸奥爆沈の決定的瞬間を見た 桂島泊地の第一艦隊を震撼させた謎の一大火柱の真相
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年ISBN 47698-2009-7
    • 武運と幸運と <戦艦「扶桑」艦長・鶴岡信道少将の証言>(太平洋戦争時、北上艦長、扶桑艦長、第3護衛団司令官、第31戦隊司令官等)
  • 五月会 『波濤と流雲と青春と 第二期二年現役海軍主計課士官 四十周年記念文集』 朝雲新聞社、1980年4月。
    • 宇野芳夫「軍令部・海兵団・戦後処理」(昭和14年9月~昭和15年3月 軍令部第三部《部長宇垣纏少将》七課《課長山田定義大佐》勤務)
    • 加藤齋「われ戦わざるの記」(昭和15年5月~9月 陸奥主計課勤務)
  • 『世界の戦艦 弩級戦艦編 BATTLESHIPS OF DEADNOUGHTS AGE』 世界文化社、1999年ISBN 4-418-99101-8
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 戸高一成編 『[証言録] 海軍反省会4』 PHP研究所、2013年1月。ISBN 978-4-569-80915-1
  • 七分隊長門会 『長門七分隊 機銃群隊員の鎮魂記録』 原書房、1982年8月。
  • 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』(光人社、2001年) ISBN 4-7698-1028-8
    著者は第一航空艦隊司令部信号下士官。著者の弟は「陸奥」信号兵として爆沈時に戦死。
  • 半藤一利秦郁彦戸高一成 『連合艦隊・戦艦12隻を探偵する』 株式会社PHP研究所、2011年12月。ISBN 978-4-569-80045-5
  • 福地周夫 「戦艦陸奥の爆沈に生き残る」『空母翔鶴海戦記』 出版共同社、1962年6月。
    福地は1942年11月「陸奥」運用長着任。1943年3月、病気のため退艦。
  • 福地周夫 「武運長久なれかしと祈りて 戦艦「陸奥」の栄光と最後」『続・海軍くろしお物語』 光人社、1982年ISBN 4-7698-0179-3
  • 福地周夫 「戦艦「陸奥」爆沈秘話 ナゾにつつまれていた悲劇の真相」『海軍美談よもやま話』 光人社、1985年ISBN 4-7698-0287-0
  • 超精密3DCG戦艦長門 (双葉社 2005年) ISBN4-5-47737-0
  • 不二美術模型出版部編『戦艦長門・陸奥 -艦船模型の制作と研究-』(出版共同社、1977年)
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』 朝雲新聞社、1971年9月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書88 海軍戦備(2) 開戦以後』 朝雲新聞社、1975年10月。
  • 松永市郎 『思い出のネイビーブルー 私の海軍生活記』 光人社NF文庫、1994年2月。 -松永は少尉候補生時、「陸奥」配属。
  • 「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0451-2
  • 門司親徳 「第3章 予科練の土浦航空隊へ」『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』 光人社、2012年(原著1978年)。ISBN 978-4-7698-2098-7
  • 横山一郎 『海へ帰る 横山一郎海軍少将回想録原書房、1980年3月。
    1923年、「陸奥」着任。副砲発令所長-分隊長心得-測的長。
  • 吉村昭 『陸奥爆沈』 新潮文庫、1979年6月。ISBN 4-10-111707-1
    陸奥爆発の原因検証を試みたノンフィクション
  • 歴史群像太平洋戦史シリーズ15 『長門型戦艦 帝国海軍のシンボル「長門」「陸奥」の激動の軌跡を詳解!』 学習研究社、1997年ISBN 4-05-601684-4
    • 田代軍寿郎「長門副砲射手が見た陸奥の悲劇」

陸奥を描いたフィクション[編集]

陸奥引き上げを記録したノンフィクション[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]