零式艦上戦闘機

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三菱 A6M 零式艦上戦闘機

ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型 (A6M3)

ソロモン諸島上空を飛行する零戦二二型 (A6M3)

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、第二次世界大戦期における日本海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機零戦(ぜろせん)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。試作名称は十二試艦上戦闘機。連合軍側のコードネームは『ZEKE(ジーク)』。

支那事変から太平洋戦争初期にかけて、2,200 kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能を生かして、米英の戦闘機に対し優勢に戦い、米英のパイロットからも「ゼロファイター」と呼ばれた。太平洋戦争中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立やF4UコルセアF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の大量投入で劣勢となったが、後継機の開発の遅れによって、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用された。また、用途も拡大して、戦闘爆撃機特攻機としても使われた。

開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の約10,000機[1]

各型の零戦の詳細については、「零式艦上戦闘機の派生型」を参照

特徴[編集]

名称[編集]

当時の日本の軍用機は、採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。零戦の「零式」との名称は、制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、その下2桁が「00」であるためである[2][注釈 1]

「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。一部に「(戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから、)『零戦』を『ぜろせん』と読むのは誤り」という主張もある。その他、“ゼロファイター”の和訳が戦後一般化したという根拠が不明瞭な説もある。しかし、戦時中の1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際も「荒鷲などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されている。

当初、発動機の換装は一号、二号、機体の改修は一型、二型と表されていたが、1942年夏に連続した二桁の数字(最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す)で示すように変更されたため、既存の一号一型/一号二型は一一型/二一型と改称、二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された。後に武装の変更を示す甲乙丙を付与する規定が追加されている。またこの派生型式名はそれぞれ「いちいちがた」「にーいちがた」「さんにーがた」「にーにがた」「ごーにがた」のように各桁を独立した数字として読む。「にじゅういちがた」「ごじゅうにがた」のように二桁の「数」とする誤読が散見されるが、前述のとおりそれぞれの桁の数字は異なる意味が持たせられており、単なる連続した二桁の「数」ではない。漢数字表記の慣用からも「にじゅういち」と読む場合には「二十一」と表記するのが通例である。また最近は「にいちがた」「ごにがた」のような読み方も見受けられるが、一般には読みやすさのために音引きを挿入して読まれる。

連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)。だが米軍側の将兵もZero(ゼロ)と呼ぶことが多かった。ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームがつけられた。

構造[編集]

零戦は、最大速力、上昇力、航続力を満たすため、軽量化にこだわっている[3]。軽量化は極端なものであったが、計算され、逆に材質に強度を与えていた[4]。もっとも、ボルトねじなど細部に至るまで徹底した軽量化を追求したため、初期の飛行試験では、設計上の安全率に想定されていない瑕疵が、機体の破壊に直結している。1940年(昭和15年)3月に、十二試艦戦二号機が、昇降舵マスバランスの疲労脱落によるフラッタにより空中分解して墜落し、テストパイロットの奥山益美が殉職、さらに1941年(昭和16年)4月には、二一型百四十号機と百三十五号機が、バランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより急降下中に空中分解、墜落した百三十五号機を操縦していた下川万兵衛大尉が殉職する事故が発生し、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな対策工事が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している[5]。 また、軽量化のため機体骨格に多くの肉抜き穴を開けたり、空気抵抗を減らすために製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、大量生産には向かない設計となっている。これは当初、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さは許容されたという面があったためである。実際、後のP-51と比較すると零戦の生産工数は3倍程度となっている。

零戦二一型の鹵獲機体の調査に携わったチャンスヴォートのエンジニアから、V-143戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が大戦中のみならず現在でも一部海外で存在するが、この説は開発開始時期の相違により否定されている。外見や寸法が似ているグロスターF.5/34(降着装置が半引き込み式で、尾部のとんがりが少々長いが、外形、寸法、各種数値は酷似)をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。またグロスターF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造であり、コピー説は否定されている。

零戦には九六式艦上戦闘機から引き継がれた技術として、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽などがある。主翼と前部胴体の一体化構造は、陸軍の九七式戦闘機に採用された技術で、フレーム重量を軽減する反面、翼が損傷した場合の修理に手間取るという欠点も内包している。

引き込み式主脚

飛行時車輪を機体内に格納して空気抵抗を削減する仕組であり、日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機についで2番目に採用され、作動方式は油圧式である。形式としては翼から胴体側に折りたたまれる構造であり、翼の構造がやや複雑になる反面、強度や安定性に優れており安全性は高い。また、零戦では、尾輪も引き込み式となっている。

定速回転プロペラ

恒速回転プロペラとも呼ばれる。プロペラの回転数を一定に保つために、プロペラピッチ変更[注釈 2]を自動的に行うもので、操縦席にあるプロペラピッチ変更レバーにより任意でのピッチ変更も可能である[注釈 3]。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目に装備された。なお零戦に使用されたのは米国ハミルトン製の油圧方式を住友金属工業がライセンス生産したものである。

超々ジュラルミン

住友金属で開発された新合金超々ジュラルミンを主翼主桁に使用している。後に米国でも同様の合金が実用化されている。日本・英語圏ともESDと呼ばれるが、日本では「超々ジュラルミン」の英訳である「Extra Super Duralumin」の略であるのに対し、英語圏では「E合金」と「Sander合金」をベースに作られた「Duralumin」という意味の略号である。ちなみに現在のJIS規格では、7000番台のアルミ合金に相当する。

剛性低下式操縦索

人力式の操舵では操縦装置を操作した分だけ舵面が傾く。高速飛行時と低速時では同一の舵角でも舵の利きが全然異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変更しなければならない。そこで、零戦では操縦索を伸び易いものにし、高速飛行時に操縦桿を大きく動かしても、舵面が受ける風の抵抗が大きいため操縦索が引っ張られて伸び、結果的に適正な舵角を自動的に取れるようにしている。全ての操縦索に採用されたと誤解されがちであるが、採用されたのは昇降舵につながる操縦索のみである。

光像式照準器(九八式射爆照準器、俗称OPL)

海軍では1932年(昭和7年)にOPL製照準器を試験的に輸入して以来、慣例的にOPLと呼称していた光像式照準器を日本の戦闘機で最初に採用した。従来の照準器は「眼鏡式」と呼ばれ、照準用の望遠鏡が前面キャノピーから突き出していたため空気抵抗が大きくなり、搭乗員はスコープを覗き込むため窮屈な姿勢を取らねばならずその際は視界も制限された。これに対し光像式照準器は、ハーフミラーに遠方に焦点を合わせた十字を投影するもので、キャノピー内に配置されるので、空気抵抗を低減できる上に照準操作もしやすく、また望遠鏡式とは異なって照準器を覗き込まないので、視界が狭くなることもない。九八式照準器は輸入したハインケルHe112に装備されていたレヴィ2b光像式照準器をコピーしたものであるが、大戦後半には、輸入したユンカースJu88に装備されていたレヴィ12C光像式照準器をコピーした四式射爆照準器に更新されている。

発動機
翔鶴から発進準備中の零戦二一型 (A6M2b)
練習航空隊の零戦三二型 (A6M3)
出撃準備中の零戦五二型丙 (A6M5c)

零戦の性能向上が果たせなかった原因として挙げられるものに、発動機換装による馬力向上の失敗がある。先に述べたように雷電・紫電の穴埋めとして零戦の武装・防弾の強化及び高速化を図った五三型 (A6M6) と呼ばれる性能向上型の開発が開始された。五三型には水メタノール噴射装置(混合液を気化器周辺へ噴射し冷却を行い酸素濃度を高める仕組み)の追加によって出力向上を図った栄三一型(離昇1,300馬力を予定)の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580 km/h台までの向上が可能と試算されていた。栄三一型の開発は比較的順調に進み、五三型試作一号機を用いて実用審査が行われていた。しかし、1944年(昭和19年)秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の原因が栄二一型の減速遊星歯車の強度不足であることが判明し、対策を必要とする零戦(五二型系列約300機)の改修に海軍の栄三一型審査担当者が追われることになったため、栄三一型の審査は一時中断された。そしてこの問題が解決するかどうかのうちに始まったフィリピン戦に対応するため、審査未了で生産に移行できない栄三一型の代わりに栄二一型が零戦に装備されることになり、審査と平行して生産されていた栄三一型用の調整が困難かつ実効がほとんど認められないどころか性能低下の一因ともなる水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになった。この結果、大量生産された零戦五二型丙 (A6M5c) は栄二一型装備のまま武装・防弾のみを強化したため正規全備重量が3,000kg近くまで増加、その代償として速度・上昇力が大きく低下している。この混乱が治まった後に栄三一型の審査は再開されたものの、審査終了が終戦間際であったため、栄三一型装備の零戦が多数配備されるまでには至らなかった。

零戦に栄より大馬力を期待できる金星を装備するという案は、十二試艦戦の装備発動機選定以降も繰り返し浮かび上がっている。まず、零戦二一型の性能向上型であるA6M3の装備発動機を検討する際に栄二一型と共に金星五〇型が候補として挙がったが、最終的には栄二一型が採用されている。次に1943年(昭和18年)秋に中島飛行機での増産に伴って栄の減産が計画されたため、零戦にも金星六〇型への発動機換装が検討されたが、航続距離の低下とより高速重武装の雷電二一型 (J2M3) の生産開始が近いと考えられていたことから中止になっている。1945年(昭和20年)になり、中島飛行機において誉のさらなる増産に伴い、中島での栄の生産を中止することになったため、再び零戦の金星六二型への発動機換装が計画された。零戦五四型 (A6M8) と呼ばれる発動機換装型は、艦上爆撃機彗星三三型のプロペラとプロペラスピナーを流用した極めて間に合わせ的な機体だが、発動機換装により正規全備で3,100kgを超える機体に零戦各型で最速となる572.3km/hの速度と五二型甲 (A6M5a) 並みの上昇力を発揮させることに成功した。もっとも、航続距離は大幅に低下し、局地戦闘機的な性格が強い機体となっていたが、戦線の後退もあってさほど問題にはならなかったようである。性能向上型としては成功したように思える五四型だが、試作一号機が1945年(昭和20年)4月に完成する数ヶ月前に、金星を生産する三菱の発動機工場がB-29スーパーフォートレスの爆撃によって壊滅しており、結局、試作機2機が完成したに過ぎず、結果として零戦は最後まで栄を搭載せざるを得なかった。

また開戦前の海軍は栄二一型に換装した性能向上型の零戦、後の零戦三二型に期待しており、三菱の他にライセンス生産を行う中島飛行機でも三二型を大量に生産する計画が立てられていた。しかし、所謂「二号零戦問題」と栄二一型の不調もあって、中島飛行機での零戦三二型のライセンス生産は中止され、1944年(昭和19年)前半まで零戦二一型の生産を続けている[注釈 4]

設計者の堀越は昭和19年9月の社内飛行試験報告において軍へ工作精度の低下および劣悪な燃料から生産機は設計値から25%ほどの性能低下を起こしている、とした試算および実験報告を行っている。米軍が安定してオクタン価100以上の航空燃料を使っていたのに比し、日本軍は現代のレギュラーガソリン以下のオクタン値しか持たない燃料しか使えなく、末期には松根油なる代替燃料にすら困窮していた状況があった。

機銃

零戦初期型には、20mm機銃2挺(翼内)と7.7mm機銃2挺(機首)が搭載されていた。

九七式七粍七固定機銃

7.7mm機銃は当時のイギリス軍の歩兵銃、また日本海軍でも国産化していた留式七粍七旋回機銃と同じ7.7x56R弾(.303ブリティッシュ弾)を用いるものであった。これは輸入した複葉機の時代から搭載されていたもので、この歩兵用の重機関銃を航空機用に改良したヴィッカースE型同調機銃を、毘式七粍七固定機銃(後に九七式固定機銃)として国産化したものであった。

また、双発以上の敵攻撃機を一撃で撃墜可能とするため、当時としては大威力の20mm機銃の搭載が求められていた。

九九式一号二〇粍機銃(上)、九九式二号二〇粍機銃(下)

零戦に搭載された20mm機銃はエリコンFFをライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃及び両者の改良型であり、初速は一号銃 (FF) が600m/s、二号銃 (FFL) が750m/s、 携行弾数は60発ドラム給弾(九九式一号一型・一一型 - 三二型搭載)/100発大型ドラム弾倉(九九式一号三型または九九式二号三型・二一型 - 五二型搭載)/125発ベルト給弾(九九式二号四型・五二型甲以降搭載)となっていた。

多くの搭乗員は20mm機銃の大威力を認めているが、その反面60発しかない携行弾数(初期型)の少なさ(二斉射で全弾消費するパイロットもいた)[6]、7.7mmとの弾道の違い、旋回による発射G制限も欠点として指摘されている。これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。大戦中盤からは一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになった。

7.7mm機銃と20mm機銃(1号銃)の弾道

九九式一号銃の初速では、弾丸の信管の不具合もあってB-17フライングフォートレスの防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍が鹵獲した実物で確認しており、高初速の二号銃の採用は、弾道改善のためだけではなく貫通力改善の意味合いも強かった。先行して信管の改良も実施されている。

携行弾数については、特に初期の60発ドラム弾倉は決して多いとは言えないが、改良によって最終的にはベルト給弾化により125発まで増加した。なお、エリコンFFシリーズは弾倉が機銃の構造の一部であったため、ベルト給弾化は困難といわれており、本家スイスのみならず技術先進国といわれたドイツでも実施されておらず、日本の九九式二号四型が唯一の事例であった。

九九式20mm機銃は「照準が難しく、修正しているうちに弾がなくなる」ため、戦闘機との格闘戦においては使い難いという欠点があった。特に一号銃に顕著だったという。だが、「照準さえ良ければ一撃でノックアウト可能」な大威力を活かして開戦直後から、主要部に重厚な防弾装甲を施されたB-17フライングフォートレスをも撃墜し、米軍に大きな脅威を与えた。それでも用兵側にとっては不満が残り、ミッドウェー海戦で沈んだ空母「加賀」の直掩隊は、さらなる威力増大を求めている[7]

大和ミュージアムに展示される三式13.2mm機銃

また、大戦後期にアメリカ軍が12.7mm機関銃6 - 8門を装備したF6FヘルキャットP-51ムスタングを投入してくると、機首の九七式7.7mm機銃二挺に替えて、三式13.2mm機銃を1 - 3挺(機首1、翼内2)搭載した型も登場した。

防弾

防弾装備の追加は、防弾タンクや自動消火装置の実用化が遅れていたことや、開戦から一年も経たずにガダルカナル島で始まった連合国軍の反撃に対応するため、改修による生産数や飛行性能の低下が許容できず先送りされた。ただし1943年(昭和18年)末生産開始の五二型後期生産型から翼内タンクに炭酸ガス噴射式の自動消火装置を、翌1944年(昭和19年)生産開始の五二型乙から操縦席に50mm防弾ガラスを付加、更に五二型丙からは座席後方に8mm防弾鋼板を追加し、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式にしているが、結局終戦まで十分な防御装備を得ることができなかった。

零戦は徹底した軽量化による機動性の向上を重視して開発されたため、防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置などが搭載されておらず、F4Fワイルドキャットなど同世代の米軍機に比べ、被弾に弱かった。後述のように初陣から防弾の不備は搭乗員から指摘されており、その後の改修でもしばらく防弾装備は後回しにされていたが、五二型以後は装備されるようになった。 ただ、零戦は涙滴型の風防を備えており、特に後方視界が広く取れたため、同時期の他国戦闘機と比して後方警戒がしやすい利点があった。運動性能と視界の良さを生かして、攻撃を受ける前に避けるという方法で防御力の弱さをカバーするパイロットも多かったが、それには熟練の技術が必要で、また限界もあった。防弾を増設する場合も、他の能力が失われてかえってパイロットが危険になるため、難しい問題だった。

設計者堀越二郎は、開発時に防弾を施さなかったことは、優先順位の問題であり、戦闘機の特性上仕方がないと語っている[8]。当時大馬力エンジンがなく、急旋回等で敵弾を回避することもできる戦闘機では、防弾装備は他性能より優先度が低いため、海軍からも特に注文もなかったという。防弾装備が必要とされたのは搭乗員練度の低下によるもので、分不相応なものだったと回想している[9]。技術廠技術将校岸田純之助は、パイロットを守るために速力や上昇力、空戦性能を上げて攻撃を最大の防御にした、防弾タンクやガラスを装備すれば敵に攻撃を受けやすくなる[10]、日本の工業力から見ても零戦の設計が攻撃優先になったのは仕方ない選択、日本は国力でアメリカに劣っていたため、対等に戦うにはどこか犠牲にしなければならない、防御装備には資金がいるので限られた資源でどう配分するか常に考える必要があったと語っている[11]

通信装置

零戦には前作の九六式艦戦同様に無線電話・電信機が標準装備されており、当初は九六式空一号無線電話機(対地通信距離100km、電信電話共用)を搭載していた。ミッドウェー海戦の戦訓は「直衛機は電話を工用し、制空隊・直衛隊の電波を同一となすの要あるものと認む」と述べている[12]。大戦後半はより高性能の三式空一号無線電話機(対地通信距離185km、電信電話共用)に変更している。アメリカ軍は、アリューシャンで鹵獲した二一型に装備されていた九六式空一号無線電話機を軽量化のため最小限の装置のみを搭載していると評価し、マリアナで鹵獲した五二型に装備されていた三式空一号無線電話機を自軍の無線機に匹敵する性能を持っていると評価している。但し、取付方法や防湿対策に問題があるとも評価していた。事実、信頼性が低く故障のために手信号が多用されたため、軽量化(40kgほど軽量化になる)のために電話系無線機を取り外すベテランも多かった。

この他に艦上機型である二一型からは、単座機では困難な洋上航法を補助する装置として無線帰投方位測定器が新たに搭載されている。これはアメリカのフェアチャイルドが開発したものを輸入・国産化したもので、輸入品はアメリカでの呼称そのままにク式(クルシー式の略)無線帰投方位測定器と呼ばれ、後に国産化されたものは一式空三号無線帰投方位測定器と呼ばれた。

同時期の多くの単発戦闘機と同様、電探は装備されていない。

性能[編集]

格闘性能

高い運動性能を持ち、他国の戦闘機よりも横、縦とも旋回性能がズームを除いて格段に優れていた。20mm機銃2挺の大火力を併せ持つ。気化器が多重の弁(0Gバルブ/中島製)を持つために、マニュアル上背面飛行の制限がない[13]。これは戦闘機にとっては非常に重要な点で、急激な姿勢変化に対するエンジンの息継ぎを考慮しないで済むため、機体の空力特性=旋回性能限界としての操縦が可能である。ただし、持続的なマイナスG状態での飛行では米軍機同様のエンジンストールが発生することが米軍の鹵獲機試験で判明しており、大戦後期の攻略戦法に取り入れられている。初期の米国戦闘機に「ゼロとドッグファイトを行なうな」という指示があったのは、同じ姿勢変化を追随して行なうとエンジン不調が発生する確率が高まるからでもあった。一方で、低速域での操縦性を重視して巨大な補助翼を装備したため、低速域では良好な旋回性能が得られた反面、高速飛行時には舵が重く機動性が悪かった。

零戦は操縦が極めて容易であり、運動性がよく、すわりもよかった。そのため、空戦に強く、射撃命中がよく、戦闘機搭乗員の養成、戦力向上が比較的短時間に行えた[14]

零戦の格闘性能は、後継機にも影響を与えた。烈風(当時は十七試艦戦)の研究会において、花本清登少佐(横須賀航空隊戦闘機隊長)は実戦で零戦が敵を制しているのは速度だけではなく格闘性能が優れているためで、次期艦戦でも速度をある程度犠牲にしても格闘性能の高さに直結する翼面過重を低くすべきと主張し、空技廠飛行実験部の小林淑人中佐もこれを支持している[15]

速力

軽量化による高い余剰馬力のため、500km/h (270kt) を超える最高速度を持つ。急降下に弱く、徹底した軽量化により機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度は、F4Fワイルドキャットなどの同世代の米軍機よりも低い629.7km/h (340kt) であった。試作二号機や二一型百四十号機と百三十五号機が急降下試験の際に空中分解事故を起しており、これらの事故の原因解析の結果を受けて、以降の量産機では、主翼桁のシャープコーナーの修正・昇降舵マスバランスの補強・主翼外板厚の増加などの対策が施され、急降下性能の改善が図られた[5]。五二型以降では更に外板厚増加などの補強が行われ、急降下制限速度は740.8km/h (400kt) まで引き上げられている。

航続力

艦隊防空を主任務とする艦戦は、常に艦船上空に滞空させて対空監視(戦闘哨戒)を行う必要がある。零戦が開発された1936年(昭和11年)当時、レーダーは実用段階まで至っていない。艦戦が運用される航空母艦は、陸上基地とは異なり早期警戒のための対空見張り網を構築できないためである。このような運用を前提とする場合、滞空時間が長ければ長いほど、交代機が故障で上がれないなどの突発的な事態において防空網に穴が空きにくいという利点がある。第二次世界大戦初期において、長航続距離を以って遠隔地まで爆撃機を援護し同時侵攻することができた数少ない単発単座戦闘機。陸軍の一式戦闘機隼も長航続距離を持つが、実戦では零戦の方が長距離の作戦に投入されることが多かった。

また、長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦などは、当時の常識からすると空母なしでは実施不可能な距離があったが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。ただし自動操縦装置や充分な航法装置のない零戦で大航続力に頼った戦術は搭乗員に過度の負担と疲労を与えた。また洋上を長距離進出後に母艦へ帰還するには、搭乗員が高度な技量と経験を持つ必要があった。

航続力において二一型は傑出していると言われるが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62Lの2倍を超える135Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことである。これと同じ条件、即ち落下式増槽を含む全燃料タンクを満載にした状態での航続距離を比較すると、燃料タンクの小さい三二型や栄より燃費の悪い金星を搭載した五四型を除く零戦後期型(二二型や五二型各型)と二一型の間に大きな差はなく、三二型でも二一型の85%程度となる。また、二一型以前の零戦は機体内燃料タンクを満載にした状態では飛行制限があるが、三二型や二二型、五二型にはそういった制限はない。三二型は開戦からおよそ半年後に配備が開始されたが、この時期はガダルカナル戦の開始直前にあたり、二一型より航続距離の短い三二型はガダルカナル戦に投入できず、せっかくの新型機がラバウルで居残りになっていた。このため、この時期のラバウルの現地司令部は上層部に二一型の補充を要求している。また、これは海軍上層部でも問題となって、海軍側の三二型開発担当者が一時辞表を提出しただけには止まらず、零戦の生産計画が見直されるほどの事態となっている。

零戦はそれまでの単座戦闘機とくらべて長大な航続力を得たため、長距離飛行の技術が操縦員に求められた。単座戦闘機搭乗員にとって、誘導機なしの戦闘機のみの洋上航法は、ベテランでも失敗の危険が高い習得困難な技術だった。しかし1940年(昭和15年)の龍驤戦闘機隊分隊長の菅波政治大尉、1941年(昭和16年)の瑞鶴戦闘機隊分隊長の佐藤正夫大尉らは、単座戦闘機の洋上航法の技量に優れ熱心だった[16]。当時の洋上航法は、操縦しながら航法計算盤[注釈 5]を使って計算し、海面の波頭、波紋の様子を観察してビューフォート風力表によって『風向、風力』を測定して[注釈 6]、風で流された針路を『偏流修正』し、『実速』(実際の対地速度、当時の呼称)を計算し飛行距離、飛行時間を算出予測する航法だった。その航法精度は、洋上150海里を進出して変針し、そののち方向、時間を距離計算して帰投し、その地点からの矩形捜索によって晴天目視で母艦艦隊位置確認可能な誤差範囲(例えば20海里)におさめる程度の精度だった。単座戦闘は複座・多座の攻撃機爆撃機に比較して無線電信電話機能も弱く、ジャイロ航法支援機器もなかったが、実戦で母艦に単機帰投した例も多かった。

歴史[編集]

十二試艦上戦闘機[編集]

翔鶴から離艦する零戦二一型 (A6M2b)
零戦二一型の操縦席
飛行中の零戦三二型 (A6M3)
1941年、中国戦線における零戦一一型 (A6M2)
1941年12月7日、真珠湾攻撃のため赤城を発艦する零戦二一型 (A6M2b)
1942年7月、アリューシャン列島アクタン島で鹵獲された零戦二一型 (A6M2b)
アメリカ軍に鹵獲後、テストされる零戦二一型 (A6M2b)
1942年10月26日、南太平洋海戦において九九艦爆と共に空母翔鶴からの発艦に備える零戦二一型 (A6M2b)
1942年10月26日、南太平洋海戦において空母翔鶴から発艦する零戦三二型 (A6M3)
1943年2月、ポートダーウィン空襲
1943年9月、占領されたニュージョージア島ムンダ飛行場に放棄された零戦三二型 (A6M3) の残骸
1944年10月25日、捷一号作戦で出撃する神風特別攻撃隊「敷島隊」の零戦
1944年10月25日、捷一号作戦(レイテ沖海戦)で護衛空母ホワイト・プレインズに突入する「敷島隊」の零戦
1945年5月14日、菊水六号作戦で空母エンタープライズに突入する「第六筑波隊」の富安俊助中尉の零戦六二型 (A6M7)

零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている[17]

「昭和十一年度 航空機種及性能標準」
機種:艦上戦闘機
使用別:航空母艦(基地)
用途:1. 敵攻撃機の阻止撃攘/2. 敵観測機の掃討
座席数:1
特性:速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること
航続力:正規満載時全力1時間
機銃:20mm1 - 2。1の場合は7.7mm 2を追加。弾薬包は20mm 1につき60、7.7mm 1につき300
通信力:電信300浬、電話30浬
実用高度:3,000m乃至5,000m
記事:1. 離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内/2. 増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること/3. 促進可能なること/4. 必要により30kg爆弾2個携行し得ること

開発は1937年(昭和12年)10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。

「十二試艦上戦闘機計画要求書」[18]
1.用途:掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え、要撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの
2.最大速力:高度4000mで270ノット以上
3.上昇力:高度3000mまで3分30秒以内
4.航続力:正規状態、公称馬力で1.2乃至1.5時間(高度3000m)/過荷重状態、落下増槽をつけて高度3000mを公称馬力で1.5時間乃至2.0時間、巡航速力で6時間以上
5.離陸滑走距離:風速12m/秒で70m以下
6.着陸速度:58ノット以下
7.滑走降下率:3.5m/秒乃至4m/秒
8.空戦性能:九六式二号艦戦一型に劣らぬこと
9.銃装:20mm機銃2挺、7.7㎜機銃2挺、九八式射爆照準器
10.爆装:60㎏爆弾又は30㎏2発
11.無線機:九六式空一号無線電話機、ク式三号無線帰投装置
12.その他の装置:酸素吸入装置、消化装置など
13.引き起こし強度:荷重倍数7、安全率1.8

「十二試艦上戦闘機計画要求書」は1937年5月に原案がメーカーに提示されており、10月に正式な文書として交付された。そのため、変更点もあって内容が微妙に違うものも残っている[19]。「目的」が「攻撃機の阻止撃攘を主とし尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり」というものもある。堀越二郎によれば、5月のものに比べて特に航続距離の要求が強くなったという[20]。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものであり、ライバルの中島飛行機が途中で辞退した。このような経緯から、零戦は三菱単独での開発となった。三菱では、前作である九六式艦上戦闘機に続いて堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ。

1938年(昭和13年)1月17日、十二試艦戦計画要求に関する官民研究会で、支那事変から帰還した第二連合航空隊航空参謀源田実少佐が飛行機隊の集団使用、遠距離進出などの新境地を開拓した経験から実戦での96式艦戦や95式艦戦の働きを説明して格闘性能と航続距離の必要を訴える[21]

1938年4月10日、三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した堀越二郎は、3日後(4月13日)に開かれた十二試艦戦計画説明審議会において、格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望した。すると横須賀航空隊飛行隊長の源田実には支那事変の実戦体験から「どれも基準を満たしてもらわなければ困るがあえて挙げるなら格闘性能(空戦性能)、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」と返答された。一方で、航空廠実験部の柴田武雄には実地経験から「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」と返答された。どちらも平行線ながら正論であり、堀越は真剣な両者の期待に応えることにした[22]

1938年秋、前線の戦闘機部隊である12空から提出された意見は、速力・航続力よりも軽快な運動性に重点をおくこと、機銃口径は10mmないし13mmを適度とし、初速の小さい翼上20mm機銃は戦闘機に百害あって一利なしというものであり、大航続力、20mm機銃に伴った機体の大型化にも反対だった[23]

1939年(昭和14年)3月16日A6M1試作一号機完成。4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行。試作2号機までは瑞星13型だったが出力不足で試作3号機からエンジンを換装した。5月1日栄12型を装備した三号機をA6M2とした。翌1940年(昭和15年)7月24日A6M1零式一号艦上戦闘機一型が11型として正式採用された。

支那事変[編集]

1940年(昭和15年)7月15日、大陸戦線(中国戦線)にて101号作戦のために第十二航空隊(司令官山口多聞少将、参謀長大西瀧治郎[要出典]横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。零戦はまだ実用試験中のもので、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱に陥り焼けつくおそれがあった。またGが大きくなると脚が飛び出すこと、Gがかかると20mm機銃が出なくなることがまだ未解決であった。そのため、技術廠から飛行機部の高山捷一技術大尉、発動機部の永野治技術大尉がそれにあたり、技術者、整備員、搭乗員が一体となって解決した[24]

最初の出撃は8月19日の九六式陸上攻撃機護衛任務だったが、会敵しなかった[25]。翌日にも伊藤俊隆大尉指揮のもと出撃したが会敵せず、悪天候のため出撃は翌月に延ばされた。なお、第一回出撃時に燃料補給のため宣昌飛行場に着陸する際、1機(藤原喜平二空曹)が着陸に失敗し転覆。これが事実上最初の喪失となった。

9月12日、ようやく三度目の出撃となり、重慶上空に1時間も留まったが、これも会敵しなかった。基地に戻ると、敵は交戦を避け、去った後に大編隊を飛ばせて日本軍機を追い払っているように見せているということが判明した[26]。進藤大尉はこれを逆手に取り、翌日再び出撃、ようやく敵機の大編隊と遭遇した。相手は日本機を初撃墜した中国空軍の精鋭である第四大隊(志航大隊、指揮官・鄭少愚少校)、および第三大隊率いる戦闘機34機(I-15×19、I-16×15、I-15、I-16とも初飛行が1933年で、零戦より旧式機)で、うち1機がこの直前急激な発進による故障のため帰還しており実際に戦闘に参加したのは33機である。初陣で動揺していた日本軍とは対照的に、経験豊富だった中国軍は奇襲で撃墜されてもすぐさま編隊を立て直し奥地へ誘い込もうとしたが、やがてスピード・火力ともに優れた新鋭機の前に圧倒され次々と撃墜されていった[27]

この戦闘で初陣を飾った13機の零戦は、味方機に損失を出さずに、機銃が故障した白根斐夫中尉以外の12機全てが一機以上を撃墜する戦果を上げた。進藤大尉はそれぞれの戦果を加味した結果、撃墜は27機と判断した[28]。マスコミはこの戦果を一斉に報じた。ただし実際の中国側記録によると、被撃墜13機、被撃破11機(うち10人戦死、負傷8人)である。また、零戦隊は13機中3機(大木芳男二空曹、三上一禧二空曹、藤原喜平二空曹)が被弾、また一機(高塚寅一一空曹)が主脚故障のため着陸に失敗し転覆した[29]。 この際、パイロットたちから防弾について「攻撃機にあるような防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、高山捷一技術大尉は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し、効果を発揮するべきと説明した。大西瀧治郎はそれに対し「ただ今の議論は技術官の言う通り」と言って収めてパイロットたちは黙った[30]

その後も大陸戦線での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年(昭和16年)8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機[31]のみで、空戦による被撃墜機は無いまま、 太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった[32]

太平洋戦争緒戦[編集]

太平洋戦争緒戦において零戦は、空戦性能において卓越し、グラマンF4Fワイルドキャットなどに対し、1942年8月連合国によるガダルカナル侵攻まで連戦連勝で優勢だった[33]。また、零戦は2200キロの航続距離を持っていたが、当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し帰ってくることは夢物語であった[34]。零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力のほとんどを撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって連合軍将兵の心の中に零戦は「無敵」という神話をうえつけた[35]

当時、主に交戦した米海軍機のグラマンF4Fワイルドキャットは零戦より、速度・上昇力・旋回性能のすべてにおいて劣っていた[36]。海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年(昭和16年)12月8日から、1942年(昭和17年)3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機すなわち83%を占めた。太平洋戦争のはじめの一カ月の全作戦中、陸上基地・空母からの零戦による敵の損害は65%であった。日本軍の全戦略はこの飛行機の成功にかかっていた[37]

開戦劈頭の真珠湾攻撃は奇襲であったため、アメリカ軍戦闘機との空戦の機会の少なかった零戦は、主に飛行場への機銃掃射で活躍した。その直後のフィリピン爆撃では、台湾から出撃する陸攻隊を掩護しフィリピンを攻撃するという単座戦闘機として未曾有の長距離作戦を成功させ、短期間の内にフィリピンのアメリカ陸軍航空隊を壊滅させた。南太平洋においてもラバウルから長駆ガダルカナル島ニューギニアへの攻撃に活躍。緒戦における零戦の戦闘能力は高く、零戦の優位は日米双方の記録にあるように明らかであった。

オーストラリアのポートダーウィン侵攻時(日付記載なし)、英国連邦軍(イギリス空軍オーストラリア軍)のスピットファイアに対する零戦の圧勝。その空戦での零戦の損失2スピットファイアの損失は17、被撃墜比率2対17。これに対してフライングタイガーズの司令官だったクレア・シェンノート将軍は「英空軍の戦術はカルワザ的な日本軍に対しては自殺行為だった」と発言[38]

太平洋戦争初期の1942年(昭和17年)3月までの米陸軍航空部隊のジャワ作戦での壊滅と零戦の圧勝、同部隊のオーストラリアへの撤収があった[39]。ラエ基地では1942年(昭和17年)の5・6・7月の間、ほとんど連日空戦があったという。ラエの零戦隊は連戦連勝していた。相互の機数では零戦が劣勢であった[40]

1942年5月8日の珊瑚海海戦がある。米軍第17任務部隊は空母「ヨークタウン」と「レキシントン」上空の戦いで、日本軍機動部隊攻撃隊69機(零戦18機・九九式艦上爆撃機23機・九七式艦上攻撃機18機)に対し零戦22機・艦爆11・雷撃機31機を直掩航空隊(F4FワイルドキャットSBDドーントレス爆撃機)と対空砲火で撃墜したと記録している[41]。日本軍機動部隊に帰投した機は46機で、零戦17機が帰投するも1機が不時着した[42]。この戦闘における戦果は日本側も過大に見積もっており、グラマン戦闘機32機、カーチス爆撃機17機撃墜を記録したが、実際の損害はF4F 6機、SBD 15機喪失である[43]

「1942年(昭和17年)6月におこなわれたミッドウエー海戦における米陸海軍戦闘機への零戦の圧勝ないしは優勢[44]」。「当時ブリュースター・バッファロー とグラマンF4Fワイルドキャットが使用されていた[45]」。

米国戦略空軍司令部作戦部長補佐代理ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアやラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に熟練した操縦士だった。我々は最優秀の敵と戦っているのだということを一時も疑ったことはなかったと回想している[46]

米軍の公式記録によれば、大戦初期の零戦対連合国軍機(主に英国連邦軍と中国軍並びに義勇軍)とのキルレシオは12:1とされている。対米軍機でいえば、太平洋戦争開戦時からミッドウェー海戦までの零戦対F4Fワイルドキャットとのキルレシオは1:1.7であった。

零戦鹵獲後[編集]

1942年(昭和17年)6月、アメリカ軍はアリューシャン列島ダッチハーバーに近いアクタン島の沼地に不時着した零戦(アクタン・ゼロ[注釈 7])をほぼ無傷で鹵獲することに成功した。この機体の徹底的な研究により、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能を持つ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があること[注釈 8]が明らかとなり、アメリカ軍は「零戦と格闘戦をしてはならない」「背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない」「上昇する零戦を追尾してはならない」という「三つのネバー (Never)」と呼ばれる勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。また、不要な装備を除きなるべく機体を軽くするように指示した[47]。弱点を衝いた対抗策として優位高度からの一撃離脱戦法と「サッチウィーブ」と呼ばれる編隊空戦法がアメリカ軍に広く普及することになった。一撃離脱戦法サッチウィーブが徹底された1942年年間の零戦とF4Fのキルレシオは1:5.9とされたが、この数字はアメリカ軍によるもので実際はこの通りであるか不明である。

1942年8月からガダルカナル島の戦いが始まる。前進基地が整備されるに従い、三二型もガダルカナル戦に投入可能となった。32型は翼幅を1m切断して最高速度1.5kt向上し、増産も簡易化したが、他の性能が低下したため、操縦性、格闘戦の上から改悪であると周防元成藤田怡与蔵坂井三郎といったパイロットを始め、ガダルカナル攻防戦で航続力、空戦性能の劣化に対して反対の声が上がった。結局、翼は元に戻され、左右に45リットルタンク各1を増設することになった[48]

1942年12月までにはスピットファイアを含む英陸軍航空部隊は、西南太平洋戦域で零戦によって壊滅されていた[49]

1943年(昭和18年)にオーストラリアのダーウィンにてスピットファイアMk.Vとの戦闘が数度生起している。この一連の戦闘では、一式陸攻を援護して単発機の限界に近い長距離を進攻する零戦隊を自隊の基地近くで待ち伏せし迎撃するというスピットファイアMk.V隊に有利な状況であったが、零戦隊が優勢に戦っている。戦闘は一般に零戦有利といわれる低空に限らず高高度でも行われ、また当初格闘戦であったスピットファイア隊の戦闘スタイルも一撃離脱へと切り替えられたが、最後まで零戦隊の優勢は変わらなかった。 ジョン・ベダー著『スピットファイア』によると、初期の戦闘においては大きな差はなかったものの、次第に零戦が優位に変わり、また、スピットファイアには燃料切れやエンジントラブルで帰投できない機体が相次いだという。また、豪英空軍の証言として「エンジンの出力低下が激しかった」「機関砲が凍結した」などがあり、スピットファイアが南太平洋の環境に適応できず、次第に劣化していったと記載されている[50]

しかしながら、こうした機械トラブルは攻撃側の零戦隊にも発生しており、事実、エンジン不調で途中帰還する機体もあった。なお、零戦隊を率いていた鈴木少佐はスピットファイアの優秀性を認めており、侵攻に際しては飛行時間1,000時間以上のベテランパイロットのみで隊を編成したとの談話を残している。最終的にこの一連の戦闘における喪失機の総計は零戦5機(未帰還機は3機)に対し、スピットファイア42機(未帰還機は26機)となり、零戦隊の圧倒的な勝利で終わっている[51]。ただし、1942年当時スピットファイアはMk. XIIまで改良が重ねられていたが、当時インド洋の制海権は日本軍が握っていたために改良型の供給が不可能であり、オーストラリア軍は改良前のMk.Vを継続して使用していた。

零戦が終局を迎えるはじまりは、1942年(昭和17年)の末の大型・高速・重武装の米陸軍機ロッキードP38ライトニングの登場からであった。ライトニング出現の直後に米海兵隊と米海軍はチャンスヴォートF4Uコルセアを使い始めた。1943年(昭和18年)米海軍はグラマンF6Fヘルキャットを使い始めた。さらに1943年の夏以降になると前線が伸び切り補給が行き届かなくなった日本とイギリス、アメリカ、オーストラリアなどの連合国軍の形勢は逆転し、その結果零戦の優位は逆転し劣勢となった[52]

これに先立つ1943年4月に連合艦隊長官山本五十六大将のもとで、連合艦隊、軍令部、航空本部、航空隊などが揃って行った「い号作戦」研究会での戦訓には、零戦の優秀性を認めつつも「戦闘機と言えど将来においては防御を考慮すべき。被撃墜の大半は火災による。火災を防止できれば戦闘能力は驚異的に向上する」というものも含まれていた。そのため重量と効果の問題など研究が進められ、1943年末生産の五二型には翼内燃料タンクに自動消火装置が装備され、五二型乙には風防前部に防弾ガラス、座席後部に防弾鋼板を装備するなど、この頃から零戦に防弾が導入されていった。

また五二型配備後の機材補充の要求には二一型を要求するものはなく、激戦が行われていたラバウル方面の基地戦闘機隊には、二一型ではなく高速・大火力かつ高速域の横転性能が改善された三二型・二二型・五二型などの新型零戦が優先的に配備されていた。大戦中盤以降になると空戦の形態が単機同士による巴戦から複数機による一撃離脱へと変化しており、それに対応して一気に大量の弾丸を叩き込めるように改修された新型機(特に五二型丙)は、一般に流布している評価とは異なり、搭乗員からの評価は悪くなかった。しかし対戦相手であるアメリカ軍やイギリス連邦軍が次々に新型機を配備し、新戦術・新技術を実施している状況では、すでに零戦自体が旧式となっていた。[要出典]

1944年前半に連合国軍とサイパン島で戦った藤田怡与蔵によれば「操縦性、格闘力は何といっても二一型が優れていたので、二一型に若いパイロットたちを乗せ、五二型には自分たち古参のパイロットが乗って邀撃戦を展開した。その効き目は予期以上だった。空中でやられたのは五二型に乗っていた歴戦のベテランばかりで、その反対に、何機落とした、おれは二機だ、などと鼻息荒く帰投してくるのは、二一型で戦ってきた若い操縦者たちだった」という[53]

マリアナ沖海戦ではレーダーにより管制された多数の戦闘機と新兵器近接信管(VT信管)(ただし近年ではこの海戦でのVT信管の効果は疑問視されている)を配備した対空砲(VT信管使用率20%)に阻まれ大きな戦果をあげるには至らず、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来する新型爆撃機、ボーイングB-29スーパーフォートレスの迎撃戦においては零戦の高高度性能に不足があったため撃墜は困難であったため、他の戦闘機で迎撃が行われることがほとんどであった。

1944年10月20日最初の神風特別攻撃隊が零戦によって編成され、それ以降も終戦まで零戦は特攻に使用された。大型爆弾用懸吊・投下装置を追加した末期型は代用艦爆(戦爆)として、また特別攻撃隊(神風特別攻撃)にも用いられ、レイテ沖海戦硫黄島の戦いでは空母を撃沈破するといった戦果を挙げている。沖縄戦では、特別攻撃隊に対応してさらに強化された連合国軍の警戒網を突破するために日本側も戦術を工夫して突入を成功させ、空母を含む艦船を撃破したものの、艦隊到達前に撃墜される機も多く、アメリカ海軍やイギリス海軍、オーストラリア海軍などからなる連合国軍の艦隊を撃退するまでには至らなかった。

搭乗員の藤田怡与蔵は「零戦は戦闘機として必須のあらゆる特性を一身兼備、一千馬力から100パーセントの効率をしぼり出して再現したようなバランスのよくとれた高性能を持っていた。特に昇降舵操舵に対してはどこまでも滑らかで崩れず、いかなる速度と迎え角においても、ピシッときまる天下一品の応答をしてくれた。調教の行きとどいた駿馬とでもいったふうにパイロットの動かす通りに動いてくれた」と語っている[54]

登場時こそ高性能を誇った零戦であるが、後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発がうまくいかず、零戦は終戦まで主力機として使用され、性能でもアメリカやイギリスの新鋭機に敵わなくなった。零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機(J2M1。後の雷電)の開発を指示している。しかし、試算により十四試局戦の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電 (J2M2) の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機(艦上戦闘機ではない)として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機 (N1K1) の局地戦闘機化(後の紫電一一型、紫電二一型(紫電改))を許可している。しかし、雷電が数々のトラブルで早期の戦力化が不可能、紫電一一型・二一型の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機種の代替として零戦の武装・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまった。戦争中盤以降アメリカ軍は2,000馬力級エンジンを装備するF6FヘルキャットF4Uコルセアなどの新型戦闘機を投入するようになっていったが、雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れをとった日本海軍は零戦の僅かな性能向上型[注釈 9]でこれらに対抗せざるを得なかった。

アメリカ軍によると、1941年12月から1945年8月までの太平洋戦争全体を通じた零戦とF4Fワイルドキャットのキルレシオは1:6.9。零戦(及びその後継機)対F4Uコルセアのキルレシオは1:11。またF6Fヘルキャットとのキルレシオは1:19とされている。ただしこれはあらゆる戦闘でのF6Fヘルキャットの損失約270機に対し、あらゆる機種を含む日本機の撃墜戦果5156機が基になっていると考えられる。[要出典]また、米国戦略爆撃調査団が戦後作成した報告書によれば、アメリカが対日戦で喪失した航空機は約27,000機であり、日本が太平洋戦争で喪失した航空機は約50,000機とされている。この数字をそのままキルレイトに換算すると1:1.85となり、アメリカ陸海軍の戦果報告による零戦に対するキルレイトは過大であると考えられる。なおこの対日戦での日本の喪失機数には、イギリス軍機、オーストラリア軍機、ニュージーランド軍機、中国軍機、オランダ軍機やソ連軍機等に撃墜されたものまでも含まれており、日米両軍に限ると実際のキルレイトはより接近したものになると考えられる。

このことから、アメリカにおいても日本をはじめとする列強と同様、「空戦における過大戦果報告」が蔓延していたことが推察される。アメリカ人航空史研究家Henry Sakaidaも自著『Japanese Army Air Force Aces1937-1945』の中で「お得意の過大戦果報告」という表現によりアメリカ軍戦闘機隊を評している。

諸元[編集]

出典: 野沢正 編著『日本航空機総集 第一巻 三菱篇』(出版協同社、1981年改訂新版) p189

零式艦上戦闘機二一型 (A6M2b) 三面図
遊就館に展示されている零戦五二型 (A6M5)
カリフォルニア州に復元されている飛行可能な二二型 (A6M3)
制式名称 零式艦上戦闘機二一型 零式艦上戦闘機五二型 零式艦上戦闘機五四型
機体略号 A6M2b A6M5 A6M8
全幅 12.0m 11.0m
全長 9.05m 9.121m 9.237m
全高 3.53m 3.57m
翼面積 22.44m² 21.30m²
自重 1,754kg 1,856kg 2,150kg
正規全備重量 2,421kg 2,733.51kg 3,150kg
翼面荷重 <注1> 107.89 kg/m² 128.31 kg/m² 147.89 kg/m²
発動機 栄一二型(離昇940hp) 栄二一型(離昇1,130hp) 金星六二型(離昇1,560hp)
最高速度 533.4km/h (288kt)<注2>
@高度4,700m
565km/h (305kt)
@高度6,000m
572.3km/h (309kt)
@高度6,000m <注3>
上昇力 6,000mまで7分27秒 6,000mまで7分1秒 6,000mまで6分50秒
降下制限速度 629.7km/h (340kt) 666.7km/h (360kt) 740.8km/h (400kt)
航続距離 巡航3,350km(増槽あり)/巡航2,222km(正規)
全速30分+2,530km(増槽あり)/全速30分+1,433km(正規)
全力30分+2,560km(増槽あり)
/1,921km(正規)
全力30分+1200km(増槽あり)<注4>
/850km(正規)
武装 翼内20mm機銃2挺(携行弾数各60発) <注5>
機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各700発)
翼内20mm機銃2挺(携行弾数各100発)
機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各700発)
翼内20mm機銃2挺(携行弾数各125発)
翼内13.2mm機銃2挺(携行弾数各240発)
爆装 30kg又は60kg爆弾2発 250kg爆弾1発
500kg爆弾1発
30kg小型ロケット弾4発
以上より選択
試作機完成 1940年7月 1943年4月 1945年4月
  • 注1:正規全備時の値。
  • 注2:主翼外板増厚後の数値。制式化当時は同高度で509.3km/h (275kt)。
  • 注3:高度5,600mの最高速度は563km/h (304kt)。
  • 注4:増槽分の航続距離は三菱重工業による試算値。
  • 注5:後期生産型は携行弾数各100発に増加。

派生型[編集]

型の変遷
派生型
発動機 型式 主翼
栄一二 一一 翼端折り畳みなし
└→ 二一 四一(計画のみ) 翼端折り畳みあり
栄二一 └→ 三二 翼端切り落とし(角型)
└→ 二二 二二甲 翼端折り畳みあり
栄二一
栄三一甲
栄三一乙
└→ 五二 五二甲 五二乙 五二丙 六二 翼端切り落とし(丸型)
栄三一 ├→ 五三 六三
金星六二 └→ 五四 六四
装備 九九式一号機銃 九九式二号機銃 20mm機銃の形式
60発 100発 125発ベルト給弾 20mm機銃の弾数
九七式7.7mm機銃 三式13.2mm機銃 副兵装
防弾装備なし 防弾装備あり 防弾装備
小型爆弾のみ 250kg 500kg 爆装

この他、引き込み式主脚の代わりにフロートを付けた水上戦闘機型の「二式水上戦闘機」や複座練習機型の「零式練習戦闘機」、胴体に20mm斜銃1挺を追加した夜間戦闘機型(通称「零夜戦」)がある。また、陸上基地での運用を前提に、二二型の翼端折り畳み機構と着艦フックを廃止した「零戦一二型」と呼ばれる型が存在していたとする説が雑誌「丸」において発表されている。その他にも、翼内の九九式20mm機銃を二式30mm機銃に換装した試験機が数機試作され、ラバウルにおいて実戦テストに投入されている。

各型の生産推移[編集]

現存する零戦[編集]

以下に現存する零戦の実機を日本国内と日本国外のものに分けてに掲載する。

国内の現存機[編集]

海外の現存機[編集]

零式艦上戦闘機を主題とした作品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ なお日本陸軍(以下、陸軍)では同じ年に採用した兵器を一〇〇式と命名している(例:一〇〇式司令部偵察機一〇〇式重爆撃機一〇〇式輸送機)。
  2. ^ 自動車のギヤシフトに相当する。
  3. ^ プロペラピッチの変更は29-49度の間で変更が可能である。
  4. ^ 1944年(昭和19年)頃になると中島製二一型は訓練や防空、爆撃などの任務に用いられることが多く、マリアナ沖海戦でも爆戦として投入されている。
  5. ^ 円盤を2枚重ねた円形対数計算尺と、横風成分計算用の長方形とを組み合わせた円形計算尺で、現在も航空免許で使用される。en:E6B参照。
  6. ^ 洋上飛行では、視界内に陸地の断片がなければ、飛行している高度の実際の風速風向を知る手段はない。
  7. ^ 搭乗員の古賀忠義一飛曹は頭部を強打して死亡していた。
  8. ^ 珊瑚海海戦で急降下からの引き起こしで分解する零戦をF4Fのパイロットは目撃し、零戦の急降下性能が低いことをすでに知られていた。
  9. ^ 武装強化や防弾装備の追加等を行ったが、その重量増加に見合う発動機出力の向上ができなかったため、最高速度や上昇力などの飛行性能を大幅に向上させることができなかった。

出典[編集]

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  1. ^ 河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社38頁
  2. ^ 堀越二郎『零戦』光人社1970 148頁
  3. ^ NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫137-138頁
  4. ^ NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫125-126頁
  5. ^ a b 柳田邦男『零式戦闘機』(文藝春秋、1977年) ISBN 4-16-334100-5
  6. ^ 「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.8「20mm機銃の携帯弾数は不足にして一銃少なくとも100発を要するものと認む」
  7. ^ 「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.19「20mm機銃携行弾数及弾丸威力を更に増大するの要を痛感す」
  8. ^ 堀越二郎『零戦―その誕生と栄光の記録 (カッパ・ブックス―名著復刻シリーズ)』光文社215-217、225-233頁
  9. ^ 堀越二郎『零戦』1970 216-217頁
  10. ^ NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫139-140頁
  11. ^ NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫146-147頁
  12. ^ 「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」pp.19、49
  13. ^ アメリカ軍機には背面飛行を数秒以上行うとエンストするとの制限が飛行マニュアルにあった。
  14. ^ 戦史叢書95海軍航空概史130頁
  15. ^ 柳田邦男『零戦燃ゆ (飛翔篇)』文藝春秋441-445
  16. ^ p.494-495, 海軍戦闘機隊史
  17. ^ 学習研究社『零式艦上戦闘機2』P.106
  18. ^ 戦史叢書95海軍航空概史128-129頁
  19. ^ 清水政彦『零式艦上戦闘機』新潮社39頁
  20. ^ 清水政彦『零式艦上戦闘機』新潮社40頁
  21. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫156-157頁、堀越二郎『零戦』光文社1970 56頁
  22. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫145頁、堀越二郎『零戦―その誕生と栄光の記録 (カッパ・ブックス―名著復刻シリーズ)』光文社79-82頁
  23. ^ 堀越二郎『零戦の遺産』光人社NF文庫107-108頁、柳田邦男『零戦よもやま物語』光人社228頁
  24. ^ 戦史叢書79中国方面海軍作戦(2)昭和十三年四月以降156頁
  25. ^ 牧島『炎の海』113頁
  26. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』304頁
  27. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』298頁
  28. ^ 牧島『炎の海』116頁
  29. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』303頁
  30. ^ 前間孝則『戦闘機屋人生 元空将が語る零戦からFSXまで90年』講談社113–114頁
  31. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』314頁
  32. ^ 『日米航空戦史 零戦の秘密を追って』88ページから92ページ、『日本軍用機航空戦全史第5巻 大いなる零戦の栄光と苦闘』104ページから116ページ
  33. ^ 『日本軍用機航空戦全史第5巻 大いなる零戦の栄光と苦闘』118ページから156ページ、『零戦の秘術』68ページ
  34. ^ 『零戦 - 日本海軍の栄光』36ページ
  35. ^ 『零戦 - 日本海軍の栄光』37ページ
  36. ^ 『零戦の秘術』130ページ
  37. ^ 『零戦 - 日本海軍の栄光』127ページ
  38. ^ 『零戦 - 日本海軍の栄光』151ページ
  39. ^ 『日米航空戦史 零戦の秘密を追って』270ページから274ページ
  40. ^ 『零戦の秘術』74ページ
  41. ^ #暁の珊瑚海(文庫)495頁
  42. ^ #暁の珊瑚海(文庫)483頁
  43. ^ #暁の珊瑚海(文庫)484頁
  44. ^ 「日米航空戦史 零戦の秘密を追って」336ページ
  45. ^ 「日米航空戦史 零戦の秘密を追って」322ページ
  46. ^ 『日米航空戦史 零戦の秘密を追って』306ページから307ページ
  47. ^ 堀越二郎『零戦の遺産』光人社NF文庫107-108頁
  48. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫274-275頁
  49. ^ 『日米航空戦史 零戦の秘密を追って』238ページから262ページ
  50. ^ ジョン・ベダー著/山本親雄訳『スピットファイア』(サンケイ新聞社出版局第二次世界大戦ブックス、1986年)、147、150、151頁。ISBN 4-383-02472-6
  51. ^ 大日本絵画『Scale Aviation』2009年1月号 40~42頁
  52. ^ 『零戦 - 日本海軍の栄光』191ページから195ページ
  53. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫275頁
  54. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫275-276頁
  55. ^ 学習研究社『零式艦上戦闘機2』より
  56. ^ Flying Heritage Collection 館内の当該機体の説明板の記載による。
  57. ^ Flying Heritage Collection 館内の当該機体の説明板の記載による
  58. ^ Flying Heritage Collection 館内の当該機体の説明板の記載による

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030040500「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」(軍艦加賀戦闘詳報)
  • 秋本実『日本軍用機航空戦全史第5巻 大いなる零戦の栄光と苦闘』グリーンアロー出版社、1995年
  • 堀越二郎『零戦』(光人社、1970年)
  • 堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫
  • 牧島貞一『炎の海 報道カメラマン空母と共に』(光人社、2001年) ISBN 4-7698-2328-2
    著者は日映カメラマン。零戦の初陣を取材、9月13日には陸攻から零戦を機上撮影した。
  • 前間孝則『戦闘機屋人生 元空将が語る零戦からFSXまで90年』(講談社、2005年) ISBN 4-06-213206-0
  • 森史朗 『暁の珊瑚海』 文春文庫、2009年ISBN 978-4-16-777315-1
  • 加藤寛一郎著『零戦の秘術』講談社、1991年
  • マーティン・ケイディン著、中条健訳『日米航空戦史 零戦の秘密を追って』経済往来社、1967年
  • マーティン・ケイディン著、加登川幸太郎訳『零戦 - 日本海軍の栄光』サンケイ新聞社 1971年
  • 矢吹明紀/嶋田康宏/市ヶ谷ハジメ カラー版徹底図解 零戦のしくみ 62頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]