龍鳳 (空母)

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大鯨 / 龍鳳
Japanese aircraft carrier Ryūhō.jpg
改造完成した「龍鳳」(1942年11月)[1]
経歴
運用者  大日本帝国海軍
建造所 横須賀海軍工廠[2]
種別 潜水母艦[3]航空母艦
計画 昭和8年度(マル1計画の)追加計画[4](1933年)
起工 1933年4月12日[2]
進水 1933年11月16日[2]
竣工 1934年3月31日潜水母艦として[2]
1942年11月30日空母へ改装完了[5]
除籍 1945年11月30日[6]
その後 1946年4月2日から9月25日解体[7]
母港 横須賀 → 呉 → 舞鶴[8]
建造費 建造時予算 11,948,600円[4]
改名 大鯨[9] → 龍鳳[10]
要目 (空母改装時)
基準排水量 13,260英トン[11][注釈 1]
公試排水量 計画 15,200トン[11][注釈 2] または15,221トン[12]
最終時 15,278トン[5]
満載排水量 16,700トン[要出典] または 16,280.10トン[13][注釈 2]
全長 215.65m [11]
水線長 210.00m[11] または 212.074m[12]
垂線間長 197.30m[11]
全幅 船体最大幅 20.00m[11]
水線幅 19.58m[11] または 19.784m[12]
深さ 11.30m[11]
吃水 公試平均 6.64m[11] または 6.664m[12]
満載平均 7.00m[11][注釈 2]
最終時:6.68m[5]
ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付[14])4基[15]
主機 艦本式タービン(高中低圧[14])2基[15]
推進 2軸 x 300rpm、推進器直径4.000m[15]
出力 52,000hp[11]
速力 計画 26.5 ノット[11]
最終時 26.2ノット[5]
燃料 重油 2,400トン[11]
最終時 2,906トン[16]
航続距離 計画 8,000カイリ / 18ノット[11]
最終時 11,340カイリ / 10.5ノット[5]
乗員 (仮)計画乗員 785名[17]
989名[要出典]
搭載能力 九一式魚雷 12本[18]
爆弾 800kg24個、250kg24個、60kg192個[19]
飛行機用軽質油 230トン[13]
兵装 改装時[20]
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm3連装機銃10基
(爆雷)手動投下台1組[18]
九一式爆雷6個[18]
1945年[12]
40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm3連装機銃10基
25mm連装機銃4基
25mm単装機銃23挺
13mm単装機銃6挺
移動式単装機銃 25mm1挺、13mm12挺
爆雷6個
12cm28連装噴進砲6基
搭載艇 計画 12m内火艇2隻、12m内火ランチ1隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、6m内火通船1隻、13m特型運貨船1隻[21]
最終時 12m内火艇2隻、14m運貨艇1隻、9mカッター1隻[22]
搭載機 計画(常用+補用)[19]
零式艦上戦闘機18+6機
九七式艦上攻撃機6+1機
計24+7機
(内訳詳細は艦載機の項に記述)
飛行甲板 改装時 長さ:185.0m x 幅:23.0m[11]
最終時 長さ約200.0m[23] または206m[5]
エレベーター(13x12m)2基[21]
レーダー 1945年
二号一型 1基
一号三型 1基
電波探知機(逆探)2基[24]
ソナー 最終時 水中聴音機2台、探信儀1台[22]
その他 スペリー式転輪安定儀1基(計画のみ)[21]
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新造時の潜水母艦「大鯨」(後の空母「龍鳳」)。1935年春頃、呉[25]

龍鳳(りゅうほう/りゆうほう)は、日本海軍航空母艦。公式類別では瑞鳳型航空母艦に属する[注釈 3]潜水母艦大鯨(たいげい)として竣工し、後に航空母艦へ改装された。「大鯨」とは巨大なという意味[26]

潜水母艦「大鯨」[編集]

計画[編集]

1930年(昭和5年)4月22日に調印されたロンドン海軍軍縮条約で、日本は主力艦に続いて補助艦艇の保有を大きく制限された。そのため海軍は、制限がなかった10,000トン以下の潜水母艦給油船などを、あらかじめ戦時にいつでも航空母艦に改造できるように設計、建造した。こうして、潜水母艦「大鯨」、高速給油艦「剣埼(祥鳳)」、「高崎(瑞鳳)」が建造されることとなった。この3隻は全て横須賀海軍工廠で建造された[27]

後述のように船体構造に溶接を広く採用、日本海軍では小型の敷設艦「八重山」で建造の経験があったが[28]、大型艦では初めての試みであった[29]。また主機にはディーゼルエンジンを大型艦艇で初めて採用、航空母艦へ改造した際は煙路の問題と航続距離の伸延に有利となるはずだった[30]

予算[編集]

昭和6年度(1931年)に決定したマル1計画では最終的に航空母艦1隻、潜水母艦1隻が除外された[4]。しかしこの種の艦は急遽建造が必要であるとされ、第1状態は潜水母艦として、有事の際には速やかに第2状態の航空母艦に改造できるような、ロンドン条約制限外の潜水母艦1隻を建造することにした[4]。これが後の「大鯨」である。同じくマル1計画で除外された300トン型駆潜艇2隻(後の「第1号駆潜艇」「第2号駆潜艇」)とともに昭和8年度(1933年)予算に計上し、同年度1年限りとして第64回帝国議会で成立した[4]

基本計画時の要目[編集]

計画当初、第1状態としての潜水母艦の要目は以下のようであった[31]

  • 公試排水量:10,500トン
  • 全長:215.0m
  • 水線長:211.120m
  • 垂線間長:197.3m
  • 水線幅:18.070m
  • 平均吃水:5.330m
  • 深さ:19.50m
  • 補助缶:ロ号艦本式ボイラー2基
  • 主機:11号10型ディーゼルエンジン4基
  • 出力:14,000馬力
  • 速力:20ノット
  • 航続距離:10,000カイリ / 18ノット
  • 兵装:12.7cm連装高角砲 2基、40mm連装機銃 2基、13mm4連装機銃 2基
  • 搭載機:水偵3機、カタパルト2基

潜水母艦としては一等潜水艦3隻で編成された潜水隊3隊、計9隻に補給できる母艦としての要求であった[32]。主機は1基8,000馬力のディーゼルエンジン4基を搭載しフルカンギアに接続して2軸とし、出力を制限して、ロンドン海軍軍縮条約に従うよう速力20ノット以下とする計画だった。

また空母改造時にはディーゼルエンジンを合計8基とし、出力70,000馬力、公試排水量9,600トンで速力33ノットの計画で、この速力のために水線長は210mを必要とした。艦載機は九〇式艦上戦闘機9機、八九式艦上攻撃機21機を計画した。

就役まで[編集]

潜水母艦「大鯨」は横須賀海軍工廠にて1933年(昭和8年)4月12日に起工され、(当時、船体全てを溶接すると言う点においては、世界初の試みであった)[要出典]電気溶接を使用して建造された。当時、日本海軍の軍艦で溶接が適用されていたのは、横隔壁や上部構造のような船体の縦強度計算に関係のない部分に限られていた。それを一挙に縦強度にもおしひろげ、シャフトブラケットやスターンチューブ、スターンフレームなども全て鋼板と打物とを溶接で組み合わせられた。また、溶接ブロック方式が考案、実行されたため全体の溶接工事量は膨大であった。そのため溶接工が急速に養成され、最初は70人程度だったものが最終的に200人以上になる(その大部分が三級溶接工であった)。[33]

こうして建造されていくが、溶接の過程で歪みが発生。有効な解決策がないまま船体への溶接が上部に進むに従って、キール前後端の歪みがますます大きくなっていった。そのため船殻工事が完成した頃には艦首端でキールの上昇歪みが150ミリ、艦尾のカットアップで100ミリほどになってしまう。この歪みのためにスクリューシャフト取付に必要な軸心見透しができなかった[34]。また、日中の太陽の熱で暖められた上甲板が、夜になり冷えてくると収縮し船体の前後端が上方にひっぱられ、鋼板がきしみ夜泣きのようにキーンと甲高く響いていたという。この歪みを解消するためいくつかの方法が試みられるがうまくいかず、ついに船体の切断が行われる。艦尾を自重によって下降させようやく歪みを矯正。この切断部はリベットにより連結された[35]。これらの努力により起工後わずか7ヶ月という短期間で進水した[36]。しかしこの時、「大鯨」はまだスクリューシャフトを通していなかった。こうまでして急がなければならなかったのには理由があった。当時、「大鯨」の進水式の日程が昭和天皇に知らされていて、日程を変更できなかったからである。「大鯨」は11月16日に進水した[2]

進水直後にドック入りしてふたたび軸心見透しを行った結果、歪みの除去が十分でなく、船体の切断箇所を中甲板まで広げて同一箇所で再切断、また艦首部にも切断箇所を設けリベットにより再結合された[34]。起工翌年の1934年(昭和9年)3月31日に「大鯨」は竣工し横須賀鎮守府籍となった[6]が、それは予算上の問題のための形式上のものであり、居住設備の艤装が一部未了、電気配線が一部仮設のまま、主機の運転も済んでいなかった[37]。このため、そのまま予備艦となって引き続き工事を続行し、同時に友鶴事件の対策工事も行い、固定バラストの搭載などを行った[37]。空母改造を秘匿するために最上甲板(空母時の飛行甲板)に搭載の予定だった短艇類は一部を残して艦尾に移動させた[38]。補給用真水タンクも同所に設置予定だったが[38]、後部機械室に予定された箇所へ移動した[39]。同年7月1日に呉鎮守府へ転籍、11月15日に練習艦となり[6]、11月20日に実質的に竣工した[40]。ただし細部の艤装は未決定の部分があり翌年春頃まで呉海軍工廠で艤装工事を行ったという[25]

基本計画時の公試排水量10,500トンは、竣工時計画で公試排水量10,717トンにまで増えていたが、友鶴事件の対策で更に固定バラスト1,000トンを搭載し計画で公試排水量11,717トンとなった[41]。また実際の排水量は公試排水量12,662トン、満載排水量14,282.5トンとなっていた[41]。兵装は機銃、射出機、高射装置などがまだ未装備であり[42]、探照燈も未装備だった[43]。高角砲は1935年(昭和10年)春頃までは12cm連装高角砲2基を搭載しており[44]、同年秋頃には12.7cm連装高角砲に換装されていた[45]。水偵は一四式水上偵察機が搭載されていた[25]

日本海軍の大型艦艇に初めて採用されたディーゼルエンジンは問題が多く、発煙も多く故障が続出し出力は予定の半分の馬力がせいぜいであり、根本的な欠陥を示した。同年9月18日に行われた公試では18,254馬力で20.1ノットだったという[43][46]。当時潜水艦用の主機としてディーゼルエンジンは成功を収めており、ドイツ海軍の「ドイッチュランド」がディーゼルエンジンを採用したことから、日本海軍も大型水上艦用ディーゼルエンジンの試作を1932年(昭和7年)から始めていた[38]。しかし、ドイツの場合でも実用化には約10年かかっており、「大鯨」への採用は日本海軍関係者の一部でも無謀とされていた[38]

また竣工翌年9月には第四艦隊事件が発生、「大鯨」も第4艦隊に編入しアメリカ軍戦艦と想定されて参加した[47]。本艦は後部防水扉の破損により舵取機室昇降口から海水が流入、電動機の故障により舵がきかなくなり、台風の中で人力操舵を余儀なくなされた[48]。横須賀入港後の調査では、船体溶接部分に亀裂が見つかり、応急修理を受けたあと呉に向かった[49]1936年(昭和11年)1月、再び横須賀に戻り[50]、同年2月から翌年7月まで主機換装と性能改善工事を行う[40]。またこの時、二・二六事件に遭遇している[51]

日華事変の勃発により一旦工事を終えて、1937年(昭和12年)8月に第3艦隊に編入し中国方面へ出撃、同年10月には再度予備艦となって工事を再開した[46]。第四艦隊事件対策後に空母改造を再検討した結果、更に船体の補強やバルジの装着、固定バラストの追加などが必要となっていた[30]。これらは1938年(昭和13年)夏に大臣決裁を得て、同年度中に工事を終了したという[30]。この時点で高射装置と右舷に射出機1基を搭載、更に船体側面にはディーゼルエンジン吸気口と思われる構造物が追加されている[44]。第4艦隊事件の対策として艦尾甲板を1甲板分上げたのもこの時とされる[46]

これらの問題解決に時間を費やした結果、実際の就役は大幅に遅れて1938年(昭和13年)9月5日に第1潜水戦隊旗艦として、ようやく艦隊に編入されたのであった[46]

要目[編集]

実質的な竣工である1938年(昭和13年)時の要目を示す(特記の無い場合は計画要目)。

  • 公試排水量:14,400トン[52]
  • 全長:215.65m[52]
  • 水線長:211.00m[52]
  • 水線幅:19.58m[52]
  • 最大幅:20.0m(最上甲板)[52]
  • 深さ:19.50m(第1最上甲板まで)[52]
  • 吃水:6.53m[52]
  • 推進:2軸[52] x 250rpm、直径3.500m[53]
  • 補助缶:ロ号艦本式缶2基[54]
  • 主機:11号10型内火機械4基[54]
  • 出力:計画 25,600馬力[52]、実際 13,000馬力[54]
  • 速力:計画 22.2ノット[52]、実際 18.5ノット[54]
  • 航続力:計画 10,000カイリ / 18ノット[52] または12,200カイリ/ 18ノット[55]
  • 燃料:重油 1,897トン[52] または補給用を含めて3,570トン[54][56]
  • 補給物件:重油 1,070トン(うち730トンはバラスト用[52])、真水186トン、魚雷72本、同実用頭部120個[55]
  • 乗員:竣工時定員 430名[57]、1937年6月1日付定員 442名[注釈 4]。その他に潜水戦隊定員 准士官以上78名、下士官兵308名[55]
  • 兵装:40口径八九式12.7cm連装高角砲 2基、毘式40mm連装機銃 2基、保式13mm4連装機銃 2基[52]、11式機銃[56]
  • 航空機:九四式水上偵察機3機、呉式2号5型射出機1基[54]
  • 搭載艇:12m内火艇3隻、12m内火ランチ2隻、9mカッター2隻、8m内火通船1隻、6m通船1隻[55]

この時点での航空母艦改造計画は、ディーゼルエンジンを8基搭載し公試排水量15,200トン、出力は56,000馬力、速力27ノットになった[52]。兵装は12.7cm連装高角砲4基を搭載[58]、機銃は25mm機銃18挺の要求だったが重量の問題で連装機銃6基12挺とした[30]。搭載機は九六式艦上爆撃機18機、同補用6機、九六式艦上攻撃機(偵察用)4機、同補用1機を予定[58]、原計画より速力が低下したために飛行甲板の長さを20m延長する計画だった[30]

空母改装[編集]

1938年(昭和13年)の艦隊編入後は、北支方面や南洋方面で進出し隷下潜水艦と共に活動した。1940年(昭和15年)11月15日に第6艦隊第1潜水戦隊へ編入、更に翌1941年(昭和16年)4月10日には第6艦隊第2潜水戦隊へ編入された。そのまま第2潜水戦隊旗艦としてクェゼリン環礁に進出していたが開戦直前の12月4日呉港に帰港した。

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が勃発したが大鯨は12月20日より横須賀海軍工廠で航空母艦への改装に着手した。この改装工事は3ヶ月以内に完了するはずだったが、工事には思っていた以上に時間がかかり、結局工事が完了したのは1942年(昭和17年)11月のことだった。工事が遅れたことには次のような理由がある。

ドーリットル空襲で大鯨に爆弾を命中させたのはエドガー・E・マックエロイ中尉機であり、右舷に縦8メートル、横15メートルの破孔が生じ修理に4ヶ月を要した[59]。 また、5月には横須賀鎮守府在籍の空母翔鶴珊瑚海海戦で大破している。母港(横須賀海軍工廠)は大鯨改造工事等で手一杯のため、呉に回航されるという一幕もあった[60]。様々な不運に見舞われた大鯨であったが、1942年11月28日に航空母艦への改装を完了した。11月30日に「龍鳳」と命名され[10]、航空母艦としての道を歩み始めた。

航空母艦龍鳳[編集]

瑞鳳型との相違点[編集]

龍鳳と同時期に改造された瑞鳳型航空母艦とは外観は類似しているが同型艦ではない。瑞鳳型との主な相違点は以下の通り。

  • 船体が瑞鳳型と比べると若干大きく、排水量も2000tほど多い。
  • 最大速力が瑞鳳型が28ノットなのに対し、龍鳳の速力は26.5ノットと低速になっている。
  • 龍鳳は飛行甲板が強度甲板で伸縮継ぎ手がない。一方瑞鳳型は上部格納庫甲板が強度甲板で、飛行甲板に伸縮継ぎ手が設けられている。
  • 龍鳳の飛行甲板の長さが瑞鳳型より5m長い。
  • 後部エレベーターの位置が瑞鳳型よりも後方にあり、遮風柵は前方にある。
  • 着艦標識の形状が異なる。
  • その他、前部飛行甲板支柱の位置などに違いがある。

艦載機[編集]

竣工時 - マリアナ沖海戦

マリアナ沖海戦後

  • 艦載機32機(「零戦」21機+「天山」9機+予備2機)

ここに書かれている搭載機数はあくまで計画値であり、マリアナ沖海戦で大量の艦載機と大勢の搭乗員を失った後は、ほとんど空荷の状態だったという。

戦歴[編集]

航空母艦への改装を完了した龍鳳は、ただちに第三艦隊に編入された。12月上旬、大鷹型航空母艦冲鷹及び護衛駆逐艦2隻(時津風卯月)と共にトラック泊地への進出が決定する[61][62]。搭載航空機は日本陸軍の九九式双発軽爆撃機だった[62]。 龍鳳が第4水雷戦隊に護衛艦について問い合わせると[63]、第9駆逐隊朝雲と第27駆逐隊「時雨」が指定されたとの報告があった[64]。ところが冲鷹で故障が発生し出港が遅れる見込みとなったため、龍鳳、時津風が先行して出発することになった[65]。11日、龍鳳、時津風は横須賀を出発した[62]。だが12月12日午前9時10分、八丈島東160浬で米潜水艦に雷撃され、右舷中部に魚雷1本が命中した[66]。単独航海こそ可能であったがトラック泊地へ向かう事はできず、時津風に護衛されて出撃したばかりの横須賀へ引き返した[67]。この潜水艦は、昭和17年4月に水上機母艦瑞穂を撃沈したドラム(USS Drum, SS-228)であった。結局、龍鳳の1942年は損傷の修理をするだけで終わった。なお龍鳳が運ぶはずだった陸軍機は瑞鶴によりトラック泊地へ輸送された。

1943年(昭和18年)には航空機輸送任務や訓練に従事した。6月上旬、日本本土の第二航空戦隊飛鷹)、第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)はトラック泊地への進出を命ぜられていた[68]。航空機を南方へ輸送すると共に、跳梁する米軍潜水艦を航空機によって排除しようと企図したのである[69]6月10日、先行して出港した飛鷹が米潜水艦の雷撃で大破、軽巡五十鈴に曳航されて横須賀に戻る[70][68]。飛鷹航空隊はそのまま龍鳳航空隊に転用された[71]。ただし、龍鳳は小型のため飛鷹航空隊を全て搭載することができず、一部部隊は空輸によりトラック泊地へ向かった[68]6月12日附で龍鳳は第二航空戦隊に編入、旗艦となる[68]6月16日、第三戦隊(金剛榛名)、第七戦隊(熊野鈴谷)、空母龍鳳、大鷹冲鷹、五十鈴、第27駆逐隊、第7駆逐隊、雪風、浜風、谷風、新月等は横須賀を出港、南方へ進出した[72][68]。航空隊は陸上基地に配備された[73]。7月2日、龍鳳飛行隊(零戦21、艦攻9)はラバウルを経てブーゲンビル島ブインに進出したが、約1ヶ月で半数を失った[71]。7月中旬、戦力を喪失した龍鳳航空隊は解散し、現地の第204海軍航空隊に吸収された[71]

その後も龍鳳は航空機輸送任務に従事し、最前線でアメリカ軍と交戦する機会は訪れなかった。

1944年(昭和19年)3月上旬、空母瑞鳳と共にサイパン・グアム方面への輸送任務を命じられる。当初「龍鳳」が輸送部隊を指揮することになっていたが、艦長交替に伴い瑞鳳が指揮を執ることになった[74]。軽巡洋艦能代、駆逐艦雪風初霜山雲が護衛に就いた[75]。横須賀から出港した空母瑞鳳等と合流後、輸送部隊は南下。31日、能代が艦隊から分離してパラオへ向かう[76]4月1日、龍鳳は駆逐艦初霜と共に艦隊から分離、グアムに向かう瑞鳳と別れてサイパンへ向かった[77]。同地ではアメリカ軍艦隊出現の報告があったものの各艦損害を受けることはなく、4月8日に呉へ戻った。

6月下旬、マリアナ沖海戦に参加した。龍鳳は航空母艦飛鷹隼鷹と共に第二航空戦隊(司令官城島高次少将)に所属し、戦艦長門、重巡洋艦最上、第2水雷戦隊(第27駆逐隊《時雨五月雨》、第2駆逐隊《秋霜早霜》)、第10戦隊(第4駆逐隊《満潮野分山雲》、第17駆逐隊浜風)と共に小沢機動部隊乙部隊を編成していた。19日、攻撃隊を発艦させたがこの攻撃は失敗に終わった。同日、機動部隊主隊(甲部隊)は米潜水艦の雷撃により大鳳翔鶴の2空母を喪失してしまう。20日、甲部隊、乙部隊、前衛部隊、補給部隊は同一海面に集合、混乱をきたしたところをアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受ける[78]。この時、龍鳳に第27駆逐隊の時雨が随伴していた[79]。時雨は龍鳳を目標として接近するTBFアベンジャー雷撃機の一群を発見、対空砲火で龍鳳を守った[80]。時雨は戦闘詳報の中で「敵急降下爆撃機ばかりに気を取られて、雷撃機への警戒が足りない」と提言している[81]。本戦闘で飛鷹と油槽船清洋丸。玄洋丸が沈没、瑞鶴、隼鷹、千代田、榛名、摩耶、速吸が損傷を受け、龍鳳にも至近弾により若干の被害があった[82]。第二航空戦隊の航空機損害は79機(自爆6、未帰還47、不時着26)であった[83]。結局、このマリアナ沖海戦は龍鳳が機動部隊として参加した最初で最後の戦いとなった。

マリアナ沖海戦後は艦載機の不足により、輸送艦として用いられた。11月7日、空母雲龍より第一機動艦隊旗艦(司令長官小沢治三郎中将、参謀長古村啓蔵少将)を引き継ぐが、11月15日に第一機動艦隊及び第三艦隊は解散[84]。龍鳳は日本海軍機動部隊最後の旗艦となった。1944年12月下旬、龍鳳、第二水雷戦隊旗艦矢矧、第17駆逐隊(雪風浜風磯風)、時雨はヒ87船団に加入し、台湾方面への輸送作戦を下令される[85]。19日の連合艦隊電令時点で時雨は編制に加えられていないが、同艦は護衛中の空母雲龍(搭載貨物「桜花」)が米潜水艦に撃沈されたあと佐世保に戻っており[86]、21日の電令で作戦参加が決定した。龍鳳の積荷は雲龍と同じく有人ロケット特攻機桜花58機であった。だがフィリピンに向かった雲龍が撃沈されたことにより、急遽龍鳳の目的地は台湾に変更されたという経緯があった。龍鳳及び護衛艦は出撃準備を進めたが、矢矧は補充兵の内地訓練が必要として連合艦隊より作戦参加を免除され[87]、「雪風」は機関部に故障が見つかり作戦不参加を余儀なくされた[88]

12月31日、龍鳳はタンカー9隻[注釈 5]、駆逐艦4隻(浜風、磯風、時雨、旗風)、海防艦4隻(御蔵、屋代、倉橋、第13号海防艦 )とヒ87船団を編成し、門司港から台湾に向かった[注釈 6]1945年(昭和20年)1月3日、アメリカ軍機動部隊第38任務部隊の台湾空襲が開始され、船団は舟山群島北方泊地へ退避した[89]。さらに商船が空襲を受けているとの情報を受けて神威より龍鳳、時雨、浜風、磯風に退避命令が出た[90]。4日12時過ぎ、龍鳳以下は船団を離脱して嵊泗列島の泗礁山泊地に向かった[91]。4隻は約1日避退したのち、6日11時にヒ87船団本隊と合流する[92]。 7日11時27分、船団は米潜水艦ピクーダから襲撃されてタンカーの宗像丸が損傷を受けた[93]。輸送船団の1隻海邦丸からは、龍鳳が時雨を率いて船団から離脱したように見えたという[94]。実際には船団指揮官の命令によるものである。13時、龍鳳、時雨、第17駆(浜風、磯風)は船団から先行するよう命じられ、船団に先行して台湾の基隆港へ向かった[95]。基隆到着をもって時雨、浜風、磯風は龍鳳の護衛任務を終え、龍鳳と分離して船団護衛に戻った[96][97]。翌日、浜風は海邦丸と衝突[98]、さらに馬公市に向かう途中座礁して窮地に陥り、かろうじて本土に戻った[99]。また予定どおり高雄港に向かったヒ87船団は、第38任務部隊艦載機の空襲や米潜水艦の攻撃で大損害を受けた。高雄で時雨と磯風は分離した[100]。引き続きヒ87船団を護衛していた時雨も1月24日に米潜水艦ブラックフィンSS-322)の雷撃で撃沈されている。

11日午前、磯風と海防艦御蔵が基隆に戻った[101]。龍鳳の出港が遅れていたため、磯風が引き続き同艦の護衛にあたることになった[102]。12日6時45分、龍鳳はタモ35船団護衛として基隆を出港[103]。17日12時、日本本土近海でタモ35船団と分離したのち、15時5分に磯風は龍鳳と分離すると先行して呉へ向かった[104]

本土帰還後は練習空母となったが、3月下旬アメリカ海軍機動部隊による呉軍港空襲に遭遇した。ロケット弾や爆弾数発が命中して中破。爆風により飛行甲板は中央部で2m隆起し、50mにわたって大亀裂が生じた[105]。4月20日、予備艦に指定される[106]。その後は空母天城、葛城、戦艦榛名、伊勢、日向、巡洋艦利根、青葉、大淀と共に、浮砲台として呉軍港に係留された。乗組員は艦の修理を行うと同時に、農園の手入れにも従事した[107]。7月下旬の呉軍港空襲では、繋留された状態ながら対空戦闘を行う。24日空襲では12.7㎝高角砲81発、25mm機銃1376発、12.7㎝噴進砲(ロケット砲)15発を発射[108]。28日空襲では高角砲12発、機銃252発を発射[109]。30日、呉鎮守府長官は龍鳳及び空母鳳翔の周辺に25mm機銃を配備して対空陣地を築くよう命じる[110]。さらに空襲で大破着底した巡洋艦利根大淀からも両艦が装備していた25mm単装機銃及び乗組員が龍鳳と鳳翔に派遣された[111]。龍鳳は防空砲台となった状態で終戦を迎えた。1946年(昭和21年)4月2日に呉工廠にて解体を開始し、9月25日に完了した。

艦歴[編集]

呉軍港で大破した龍鳳

潜水母艦大鯨[編集]

  • 1933年(昭和8年)4月12日 - 横須賀海軍工廠で起工。
  • 1934年(昭和9年)3月31日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。そのまま予備艦となり工事続行。
  • 1937年(昭和12年)8月 - 日中戦争により一時的に第3艦隊付属となり上海方面に進出する。
  • 1938年(昭和13年)9月5日 - 第1艦隊第1潜水戦隊に編入。
    • 10月 - 中国方面進出。
  • 1939年(昭和14年)3月 - 中国方面進出。
  • 1940年(昭和15年)11月15日 - 第6艦隊第1潜水戦隊に編入。
  • 1941年(昭和16年)4月10日 - 第6艦隊第2潜水戦隊に編入。
    • 11月 - 南洋方面進出。
    • 12月4日 - 呉入港
    • 12月20日 - 予備艦となり横須賀工廠で空母への改装工事に入る

航空母艦龍鳳[編集]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』67-69頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

潜水母艦大鯨[編集]

艤装員長[編集]

  1. 鋤柄玉造 大佐:1933年10月20日 -

艦長[編集]

  1. 鋤柄玉造 大佐:1934年3月23日 - 11月15日
  2. 高須三二郎 大佐:1934年11月15日 - 1936年11月16日
  3. (兼)茂泉慎一 大佐:1936年11月16日 - 12月1日
  4. 蓑輪中五 大佐:1936年12月1日 -
  5. 森徳治 大佐:1937年11月15日 -
  6. 中里隆治 大佐:1938年5月25日 -
  7. 原田覚 大佐:1938年12月15日 -
  8. 中邑元司 大佐:1939年11月15日 -
  9. 大倉留三郎 大佐:1941年4月10日 -
  10. 木山辰雄 大佐:1941年11月10日 -
  11. 相馬信四郎 大佐:1942年4月23日 -
  12. 亀井凱夫 大佐:1942年11月1日 -

航空母艦龍鳳[編集]

艦長[編集]

  1. 亀井凱夫 大佐:1942年11月30日 -
  2. 松浦義 大佐:1944年3月16日 -
  3. 高橋長十郎 大佐:1945年1月20日 -
  4. 佐々木喜代治 大佐:1945年4月28日 -

注釈[編集]

  1. ^ 阿部安雄「航空母艦、水上機母艦、潜水母艦、水雷母艦要目」#海軍艦艇史3p.331によると基準排水量13,300英トン。また13,360英トンを採用している文献もあるが、「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.2によると転輪安定儀を搭載した場合の値。
  2. ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.2によると転輪安定儀を搭載した場合、公試排水量15,300トン、満載排水量16,380トン、公試平均吃水6.64m、満載平均吃水7.03m。
  3. ^ 昭和18年9月25日付 海軍内令 第1985号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070180900 で閲覧可能。龍鳳だけではなく、千歳千代田の2艦も含めて、公式類別上は瑞鳳型に属する。同じように神鷹海鷹大鷹型に属する。
  4. ^ #海軍制度沿革巻十の2p.758、昭和十二年四月二十三日(内令一九六) 海軍定員令中左ノ通改正セラル (中略)本令中定員ノ増減又ハ変更ト為ルベキモノハ昭和十二年六月一日ヨリ之ヲ施行ス。同書p.771、第五十八表 潜水母艦定員表 其ノ四。士官21人、特務士官4人、准士官11人、下士官107人、兵299人。
  5. ^ 黒潮丸、辰和丸、海邦丸、さらわく丸、光島丸、天栄丸、宗像丸、松島丸、神威 (水上機母艦)(海軍給油艦)
  6. ^ この時、龍鳳が艦載機を搭載していたかは不明。

脚注[編集]

  1. ^ #海軍艦艇史3p.140
  2. ^ a b c d e #S12-6-1内令提要追録機密保護画像2
  3. ^ #海軍制度沿革巻八p.96、昭和八年五月二十三日(内令一八八) 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦、潜水母艦ノ部中迅鯨型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | (空白) | 大鯨 |
  4. ^ a b c d e #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.413-415
  5. ^ a b c d e f #軍艦龍鳳引渡目録p.2
  6. ^ a b c 伊達久「『潜水母艦』行動年表」#写真日本の軍艦第13巻p.112
  7. ^ 運輸省海運総局掃海管船部管船課「日本海軍終戦時(内地)艦艇処分状況」1948年3月20日現在、#終戦と帝国艦艇資料2、pp.17-54
  8. ^ 伊達久「『潜水母艦』行動年表」#写真日本の軍艦第13巻p.112、(略)|昭和9.3.31|横須賀鎮守府に編入される|(略)|昭和9.7.1|横須賀鎮守府籍より呉鎮守府籍に転籍|(略)|昭和17.10.20|呉鎮守府籍より舞鶴鎮守府籍に転籍|(以下略)
  9. ^ #海軍制度沿革巻八pp.366-367、潜水母艦大鯨及第一號第二號驅潜艇命名ノ件 昭和八年五月二十三日(達五九) 艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ製造ニ著手ノ潜水母艦一隻驅潜艇二隻ニ左ノ通リ命名ス 横須賀海軍工廠ニ於テ建造 潜水母艦 大鯨 タイ ゲイ 浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 第一號驅潜艇 株式會社石川島造船所ニ於テ建造 第二號驅潜艇
  10. ^ a b #昭和17年達11月(2)画像48、「達第三百二十三號|軍艦大鯨航空母艦ニ改造完了ニ付左ノ通命名セラル|昭和十七年十一月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦 龍鳳(リユウホウ)」
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.2
  12. ^ a b c d e #終戦時の日本海軍艦艇p.18
  13. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.50
  14. ^ a b #昭和造船史1pp.780-781
  15. ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.33
  16. ^ #軍艦龍鳳引渡目録p.3
  17. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.40
  18. ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12
  19. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.29
  20. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.6
  21. ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.44
  22. ^ a b #軍艦龍鳳引渡目録p.5
  23. ^ #海軍艦艇史3p.324、航空母艦飛行甲板比較図、7龍鳳(昭19.延長後)
  24. ^ #軍艦龍鳳引渡目録p.4
  25. ^ a b c #海軍艦艇史3p.290の写真解説
  26. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.142『艦名考:魚類の名に採る。迅鯨と同じく巨大なる鯨の意。』
  27. ^ #日本軍艦集2600年版p.60『建造所横須賀海軍工廠-同じ工廠で造られた剣埼、高崎(共に12.000噸-建造中)と共に昭和年代に出来た新しい潜水母艦である。』
  28. ^ #海軍造船技術概要p.800
  29. ^ #日本潜水艦物語p.236
  30. ^ a b c d e #海軍造船技術概要p.783
  31. ^ #海軍造船技術概要p.781
  32. ^ #海軍造船技術概要p.776
  33. ^ #軍艦開発物語142-146項
  34. ^ a b #海軍造船技術概要p.782
  35. ^ #軍艦開発物語147-150項
  36. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.142『船體に電気溶接法を採用し、起工後僅に7ヶ月にして進水せしのみならず、ディーゼル機械を推進軸としたる最初の大艦なり。』
  37. ^ a b #海軍造船技術概要p.778
  38. ^ a b c d #写真日本の軍艦第13巻p.96
  39. ^ #海軍造船技術概要p.780
  40. ^ a b 中川努「主要艦艇艦歴表」p.6、#日本海軍全艦艇史
  41. ^ a b #海軍造船技術概要p.786
  42. ^ 東清二「図で見る『潜水母艦』変遷史」#写真日本の軍艦第13巻p.97
  43. ^ a b #海軍艦艇史3p.288の写真および解説
  44. ^ a b #日本海軍特務艦船史p.56
  45. ^ #日本海軍特務艦船史p.57
  46. ^ a b c d #写真日本の軍艦第13巻p.97
  47. ^ #海軍艦艇史3p.289
  48. ^ #海軍生活427頁
  49. ^ #海軍生活429-430頁
  50. ^ #海軍生活439頁
  51. ^ #海軍生活442-443頁
  52. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #海軍造船技術概要p.784
  53. ^ #海軍造船技術概要p.1684
  54. ^ a b c d e f #写真日本の軍艦第13巻p.98
  55. ^ a b c d 「潜水母艦及び特設潜水母艦補給施設など比較表」#海軍艦艇史3pp.345-346
  56. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第四その一「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦、駆逐艦」
  57. ^ #海軍制度沿革巻十の2p.717、昭和八年十一月十六日(内令三六五)。同書pp.728-729、昭和九年四月一日(内令一二二)。士官23人、特務士官7人、准士官12人、下士官100人、兵288人。
  58. ^ a b #海軍造船技術概要p.785
  59. ^ 柴田武彦、原勝洋、『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』、アリアドネ企画、2003年、ISBN 4-384-03180-7、107ページ
  60. ^ #昭和17年5月五航戦日誌令達報告等(2)p.3『11日2200軍務局長/翔鶴船体工事ニ約三ヶ月(揚錨機械新築ヲ要スル場合ハ十月末完成)ヲ要スル見込ナル時横須賀ハ大鯨改造工事其ノ他ノ工事輻輳セルニ付同艦ノ修理促進上呉ニ於テ修復致度内海水道通過ノ際ハ曳船ヲ派遣スル等保安ニ関シ万全ヲ期セシメラルル予定』
  61. ^ #昭和17年12月~4水戦日誌(1)p.30『4日0850GF長官→各隊GF電令作第405号/一.龍鳳、冲鷹ハ龍鳳艦長之ヲ指揮シ大海機密第201059番電(11月ニ依ル陸軍航空部隊及航本機密第021622番電ニ依ル飛行機ノ輸送ニ従事スベシ。二.龍鳳ヲ右輸送期間中主隊ニ編入ス。三.左ノ各指揮官ハ指定駆逐艦ヲシテ龍鳳艦長ノ指揮ヲ承ケ第一輸送ノ護衛ニ従事セシムベシ 外南洋部隊卯月横須賀「トラック」間、機動部隊駆逐艦1隻横須賀「サイパン」間、前進部隊駆逐艦2隻「サイパン」「トラック」間。四.日進(以下略)』
  62. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)216-217頁「航空母艦による航空機輸送」
  63. ^ #昭和17年12月~4水戦日誌(2)p.11『10日0930竜鳳→4sd/発竜鳳艦長 AdBキデ091410番電ニ依ル貴隊派遣駆逐艦右至急知ラサレ度(略)』
  64. ^ #昭和17年12月~4水戦日誌(2)pp.12-13『10日1622将旗4sd→各艦/4sd電令作第1号 AdB電令作第90号ニ依ル4sdノ2艦ヲ朝雲 時雨ニ指定 9dg司令ハ朝雲時雨ヲ率ヒ12日以後便宜「トラック」発 14日1200地点ヤカワ41ニテ竜鳳 冲鷹ニ合同シ「トラック」迄之ガ護衛ニ任ズ』
  65. ^ #昭和17年12月~4水戦日誌(2)p.16『11日1116龍鳳→各隊/発竜鳳艦長 一.竜鳳ハ時津風ヲ率ヒ竜鳳キデ101301番電通行動ス。二.冲鷹ハ主給水ポンプ故障ノ為出港ヲ延期シ12日復旧後卯月ヲ率ヒ艦長所定ニ依リ行動セシム。三.朝雲時雨ハ15日1200竜鳳ニ会合予定ノ通警戒ニ任ズ』
  66. ^ #戦藻録(九版)263頁
  67. ^ #昭和17年12月~4水戦日誌(2)p.17『12日1058竜鳳→各隊/右舷中部ニ浸水アルモ単独航行ニ差支ナシ横須賀ニ引返ス 警戒ニ関シ御手配ヲ乞フ』
  68. ^ a b c d e #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)341-342頁『飛鷹の損傷と第二航空戦隊等のトラック進出』
  69. ^ #昭和18年5月~第4水雷戦隊日誌(2)p.5『11日AdB信令第315号ニ依リ「トラック」方面敵潜水艦ノ跳梁大ナルニ鑑ミ飛行機ニ依ル対潜哨戒掃蕩ヲ厳ニセラル(以下略)』
  70. ^ #昭和18年5月~第4水雷戦隊日誌(2)pp.37,86『有明、夕暮、2sf(飛鷹)ト共ニ1053横須賀着』
  71. ^ a b c #零戦の攻防124-125頁
  72. ^ #昭和18年5月~第4水雷戦隊日誌(2)p.9『16日、27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ3S(指揮官)ノ指揮下ノ下ニ3S、7S(最上欠)、2sf(龍鳳)、五十鈴、雲鷹、冲鷹、7dg、16dg(雪風)、浜風、谷風、涼風、清波、新月等ト共ニ横須賀初、21日「トラック」着』
  73. ^ #昭和18年5月~第4水雷戦隊日誌(2)pp.39-40『2F機密第171750番電/TOB電令作第一号中2sf司令部及龍鳳v隊ノ「マーシャル」方面進出要領ヲ左ノ通改ム(中略)三.2sf司令部及龍鳳v隊26日以後2sf司令官所定ニ依リ「ウヲツゼ」ニ進出』
  74. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(3)p.29『3月20日1200/艦長交替す。連合艦隊電令作第996号に依る輸送部隊の指揮を瑞鳳艦長に譲渡』
  75. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(3)p.10『能代、山雲、雪風、初霜にて瑞鳳、龍鳳をサイパン及グアムに護衛』『0755横須賀発グアムに向ふ(瑞鳳護衛)/1655龍鳳と合同す』
  76. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(3)p.10『31日/能代解列パラオに向ふ』
  77. ^ #昭和18年12月~第4駆逐隊日誌(4)p.3『4月1日/龍鳳 初霜解列 サイパンに向ふ』
  78. ^ #戦藻録(九版)357頁
  79. ^ #昭和19年6月~第27駆日誌(3)p.22『龍鳳飛行機発進ニ随伴ス』
  80. ^ #昭和19年6月~第27駆日誌(3)p.20『1757 舟右ニ敵雷撃機8機竜鳳ニ対シ雷撃姿勢ニテ突込ミツツアルヲ本艦対空射撃ニ依リ撃攘ス、雷撃ヲ受ケ面舵一杯ニテ回避ス(浅深度魚雷2本舟尾舵至近ノ距離ヲ通過ス)』
  81. ^ #昭和19年6月~第27駆日誌(3)p.25『所見(ロ)敵急降下爆撃ニ拘泥セラレ雷撃機ニ対スル顧慮少キガ如シ、避退運動中ノ敵機ト誤認シ易キヲ以テ対空戦闘中特ニ注意ノ要アルモノト認ム』
  82. ^ #あ号作戦日誌(1)pp.62-64『(ロ)被害(一)艦船被害 6月20日戦闘(略)4.竜鳳 至近弾ニ依リ小被害アリ 但シ戦闘航海ニ支障ナシ』
  83. ^ #あ号作戦日誌(1)p.65『2.二航戦 総計 自爆6、未帰還47、不時着26、戦死者15、行方不明65、戦傷者6』
  84. ^ #第1機動艦隊戦時日誌p.10『10月30日 将旗ヲ雲龍ニ移揚|11月7日 将旗ヲ龍鳳ニ移揚|11月15日 将旗ヲ撤ス』
  85. ^ #昭和19年11月~2水戦日誌(1)pp.47-48『19日1103GF/聯合艦隊電令第576号 一.龍鳳、第17駆逐隊ハ龍鳳艦長之ヲ指揮シ24日頃呉発台湾方面作戦輸送ニ従事スベシ』-『21日1741GF/聯合艦隊電令電令579号 一.龍鳳、矢矧、第17駆逐隊ハ台湾方面作戦輸送ヲ実施スベシ。右作戦輸送ノ行動ニ関シテハ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ承ケ輸送物件ハ内地ニ於テハ大海戦力補給部ノ指定、台湾方面ニ於テハ高警長官ノ指定ニ依ル|二.矢矧、時雨ハ龍鳳隊ノ船団(30日頃門司発)同行「カムラン」方面ニ進出、第二水雷戦隊ニ合同スベシ。右進出中矢矧、時雨ハ新浜発ヨリ「カムラン」附近迄ノ行動ニ関シ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ受クベシ』
  86. ^ #昭和19年11月~2水戦日誌(1)p.59『12月19日0947時雨舵機(電磁弁)故障ノ為佐世保ニ向フ|52駆、時雨護衛中ノ雲龍被雷沈没、時雨対潜戦闘』
  87. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(2)p.18『矢矧251510/本艦今朝補充交代(40%以上)ニ伴ヒ是非基礎訓練ヲ必要トスルニ付29日早朝門司集合今ノ事ニ御配慮ヲ得度シ』-『GF261145/GF電令作第579号中矢矧ヲ削除ス、矢矧ハ1月中旬迄内海西部ニアリテ訓練ン整備ヲ実施スベシ』
  88. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(2)p.19『17dg司令官301740/準備出来次第司令駆逐艦ヲ浜風ニ変更シ艦船番号序ヲ浜風、磯風、雪風トス』-『雪風202320→17dg、神威、龍鳳、時雨、旗風、磯風/検査ノ結果亀裂ニ非ザル模様ナルモ現状ニテハ使用不能、応急修理上一昼夜以上ヲ要スル見込ミ、明日呉ニ回航(一軸運転)修理ノ事トス』
  89. ^ #昭和19年4月~第7護衛船団(3)p.27『1月3日0600比島東方海面ニ敵機動部隊数群探知ノ報アリ|0900台湾全土空襲警報発令ノ報アリタルタメ船団反転舟山群島北方泊地ニ向フ』
  90. ^ #昭和19年4月~第7護衛船団(3)p.28『1月4日1140頃現地錨地南方90浬附近ニテ敵機ト交戦中ノ商船アリトノ報ニ接シ竜鳳ヲ十七駆逐隊時雨ヲシテ護衛セシメ泗礁山方面ニ避退セシム』
  91. ^ #昭和19年4月~第7護衛船団(3)p.28『1月4日1210竜鳳17駆時雨ノ避退為泊地出港』
  92. ^ #昭和19年4月~第7護衛船団(3)p.29『1月6日1100山方面ニ避退中ノ竜鳳、十七駆、時雨、船団ニ合同定位置ニ就ク』
  93. ^ #昭和19年4月~第7護衛船団(3)p.31『7日1127 宗像丸前部ニ魚雷命中、直ニ船団強速トナシ緊急左四十度一斉回頭トスル』
  94. ^ 佐々木晃『学徒兵の航空決戦日本の名機とともに生きた青春』(光人社、2006)196頁。著者は海邦丸に乗船した陸軍士官。
  95. ^ #昭和19年4月~第7護衛船団(3)p.32『7日1300船団速力12節トナス。竜鳳ヲ17駆時雨ヲシテ護衛セシメ基隆ニ先航セシム』
  96. ^ #昭和19年4月~第7護衛船団(6)p.4『7日1420竜鳳護衛任務終了、浜風時雨ト共ニ船団ヲ追及ス』
  97. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(3)p.5『1月7日 1130宗像丸被雷 1225船団ト分離龍鳳基龍ニ先行ス(龍鳳基龍ニ入港) 1445龍鳳ト分離 1520宗像丸警戒ニ戻ル』
  98. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(6)p.5『1月8日 二.0513海邦丸、浜風ト衝突ス(司令駆逐艦ヲ磯風ニ変更ス)』
  99. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(3)p.10『1月25日1505呉着』
  100. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(6)p.22『1月9日 屋代ノ船長戦死舵機故障修理ノ要アリ、磯風御蔵ノミ基隆ニ回航ス』
  101. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(6)p.23『11日09120将旗17dg/磯風、御蔵 基隆着』
  102. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(6)p.24『運航指揮官12日→0833磯風/竜鳳出港遅レタルニ付キ磯風基隆島附近ニ於テ之ニ合同船団ニ追及セヨ、尚海防艦2隻残シアリ』
  103. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(6)p.6『1月11日一.0920基隆着岸壁横付|12日 一.0645タモ35船団護衛門司ニ向ケ基隆発』
  104. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(6)p.17,26『1月17日 二.1205船団ト分離、竜鳳ト共ニ先行ス 三.1505竜鳳ト分離、先行ス』-『17日竜鳳→15015磯風/列ヲ解ケ』
  105. ^ #軍艦龍鳳引渡目録pp.9-10『船體及艤装』
  106. ^ #昭和19年11月~第17駆日誌(9)pp.35-36『帝国海軍戦時編制左ノ通リ海底ノコトニ手續中 四月二十日時 (六)天城、龍鳳、隼鷹ヲ戦時編制ヨリ除キ予備艦入』
  107. ^ #昭和20年7月龍鳳日誌p.5『7月8日 艦内大掃除、農園手入』
  108. ^ #昭和20年7月龍鳳日誌p.17『24日1811龍鳳艦長/龍鳳戦闘概報 発射弾数(残弾数)|12.7糎高角砲81(719)、25粍機銃1376(21424)、12.7糎噴進砲15(321) 戦果不明被害ナシ』
  109. ^ #昭和20年7月龍鳳日誌p.20『28日1655龍鳳艦長/龍鳳戦闘概報(7月28日)発射弾数(残弾数)|12.7糎高角砲20(699)、25粍機銃252(21172)、戦果不明被害ナシ』
  110. ^ #昭和20年7月龍鳳日誌p.22『30日1310呉鎮長官/一.呉海軍々需部長ハ現在庫25粍機銃ヲ速カニ鳳翔、龍鳳ニ各十門ヲ貸與スベシ|二.鳳翔、龍鳳艦長ハ右機銃ヲ以テ各艦至近ノ陸上ニ本日中ニ装備シ防空對勢ヲ強化スベシ』
  111. ^ #昭和20年7月龍鳳日誌p.22『31日呉鎮長官→31日1215大淀利根鳳翔龍鳳/一.大淀利根艦長ハ速カニ使用可能ナ25粍単装機銃(陸上装備ノモノヲ含ム)ヲソレゾレ龍鳳鳳翔ノ錨泊地ニ派遣(兵員トモ)同艦ノ特設防空ニ従事セシムベシ|二.龍鳳鳳翔艦長ハ右機銃陣地ノ構築ニ協力スベシ』

参考文献[編集]

    • 海軍有終会編 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』 海軍有終会、1935年11月。
    • 海軍研究社編輯部 編 『日本軍艦集 2600年版』 海軍研究社、1940年7月。
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C13071971700 『昭和12年6月1日現在 10版 内令提要追録第2号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護』。
    • Ref.C12070115700 『昭和17年1月~12月 達/11月(2)』。
    • Ref.C13120038800 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/3.令達報告等(2)』。
    • Ref.C08030116000 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030116100 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。
    • Ref.C08030117000 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030145500 『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030145600 『昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030036200 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030039800 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。
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    • Ref.C08030040000 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030040100 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)』。
    • Ref.C08030148400 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030102400 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030147100 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030147200 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030147500 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
    • Ref.C08030142000 『昭和20年1月1日~昭和20年3月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。
    • Ref.C08030707700 『昭和19年4月9日~昭和20年1月19日 第7護衛船団司令部戦時日誌戦闘詳報(3)』。
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    • Ref.C08030584100 『昭和20年7月1日~昭和20年7月31日 軍艦龍鳳戦時日誌』。
    • Ref.C08011345100 『昭和20年10月5日現在 軍艦龍鳳引渡目録』。
  • 秋元実・編 『ウォーターラインガイドブック 日本連合艦隊編』改訂版 (静岡模型教材協同組合、2007年10月改訂) JANコード 4945187990224
  • 秋本実編 『伝承・零戦空戦記2 零戦の攻防 [母艦部隊の激闘]ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ガ島戦』 光人社、2010年3月。ISBN 978-4-7698-1459-7
    元龍鳳飛行隊長・海軍大尉 岡嶋清熊「龍鳳戦闘機隊ソロモン戦記」(124-125ページ)
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録 明治百年史叢書 第九版』 原書房、1968年1月。
  • 『海軍制度沿革 巻八』明治百年史叢書 第180巻、海軍省/編、原書房、1971年10月(原著1941年)。
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  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 『日本海軍特務艦船史』世界の艦船 1997年3月号増刊 第522集(増刊第47集)、海人社、1997年3月
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
  • 丹羽徳蔵 『海軍生活 ある下士官の回想記』 光和堂、1980年7月。 丹羽は1935-1936年まで「大鯨」探照灯担当。
  • 『昭和造船史(第1巻)』明治百年史叢書 第207巻、(社)日本造船学会/編、原書房、1981年(原著1977年10月)、第3版。ISBN 4-562-00302-2
  • COMPILED BY SHIZUO FUKUI (1947-04-25). JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR. ADMINISTRATIVE DIVISION, SECOND DEMOBILIZATION BUREAU. (COMPILED BY 福井静夫『終戦時の日本海軍艦艇』第二復員局、1947年04月25日)
  • 福井静夫『日本の軍艦』(出版共同社、1957年) ISBN 4-87970-015-0
  • 福井静夫 『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』 光人社、2011年1月(原著1961年)。ISBN 978-4-7698-1488-7
  • 福井静夫 『写真集』 ベストセラーズ、1970年1月
  • 福井静夫 『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』 KKベストセラーズ、1982年4月ISBN 4-584-17023-1
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』 ベストセラーズ、1994年ISBN 4-584-17054-1
  • 福井静夫 『日本潜水艦物語』福井静夫著作集第9巻、光人社、1994年ISBN 4-7698-0657-4
  • 福田列ほか『軍艦開発物語』(光人社、2002年) ISBN 4-7698-2342-8 (矢田健二 世界最初の電気溶接艦「大鯨」の誕生)
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』戦史叢書第31巻、朝雲新聞社1969年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 『海軍造船技術概要』 牧野茂福井静夫/編、今日の話題社、1987年5月ISBN 4-87565-205-4
  • 写真日本の軍艦 第4巻 空母II』 雑誌『』編集部/編、光人社、1989年10月ISBN 4-7698-0454-7
  • 写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』 雑誌「」編集部/編、光人社、1990年8月ISBN 4-7698-0463-6
  • 官報
  • 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]