小笠原諸島
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| 英名 | Ogasawara Islands | ||
| 仏名 | Iles d’Ogasawara | ||
| 面積 | 7,939 ha | ||
| 登録区分 | 自然遺産 | ||
| IUCN分類 | Unassigned | ||
| 登録基準 | (9) | ||
| 登録年 | 2011年 | ||
| 公式サイト | 世界遺産センター(英語) | ||
| 使用方法・表示 | |||
小笠原諸島(おがさわらしょとう)は、東京都特別区の南南東約1,000kmの太平洋上にある30余の島々である。日本の国土で、東京都小笠原村の区域と完全に一致する。総面積は104km2。南鳥島、沖ノ鳥島を除いて伊豆・小笠原・マリアナ島弧(伊豆・小笠原弧)の一部をなす。
目次
概要[編集]
父島・母島は小笠原村に属しており、一般の住民が居住し、住民登録を受け付けられている。父島には海上自衛隊横須賀地方隊の父島基地分遣隊が常駐している。
硫黄島には、海上自衛隊の硫黄島航空基地隊等と、航空自衛隊の硫黄島基地隊が所在している。 南鳥島には、海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊が常駐して飛行場施設などを管理している。また、国土交通省の気象庁及び関東地方整備局なども施設を設け、その職員等に限り、業務目的で常駐している。
硫黄島と南鳥島両島の常駐者の住民税は、「居所」として東京都小笠原村に納付している[1]。選挙の際は、小笠原村職員が、常駐者等が元々住民登録されている自治体(神奈川県綾瀬市及び埼玉県狭山市)からの職員及び補助要員として訪島し、期日前投票等を行う。
これらを除く島は無人島である。ちなみに、小笠原群島は小笠原諸島の一部の名称であるが、時折混同され、小笠原群島の意味で小笠原諸島と言うことがある。
小笠原諸島は以下の島々からなる。
歴史[編集]
年表[編集]
- 古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[2]。
- 北硫黄島には先史時代(1世紀頃)のものとみられる石野遺跡がある[3]。父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが詳細な時代は不明である。
- 1543年10月(天文12年9月) - スペインのルイ・ロペス・デ・ビリャロボス(Ruy López de Villalobos)が指揮するガレオン船サン・ファン号(San Juan)によって、火山列島が発見される [4]。この時母島も発見されたという説もあるが不確実である[5]。
- 1593年(天正20年) - 信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼が伊豆諸島南方で3つの無人島を発見する。しかしその根拠となる『巽無人島記』の記述には、父島の大きさが実際よりもはるかに大きく書かれている上、オットセイが棲息しているなど亜熱帯の島ではありえない記述もみられるため信憑性は低い[6]。また異説として貞頼という人物の存在自体を否定する説[要出典]もある。
- 1639年7月21日(寛永16年8月17日) - マティス・クワスト(Matthijs Quast)が指揮する、オランダ東インド会社所属のエンゲル号(Engel)とフラフト号(Graft)が2つの無人島を発見する。それぞれエンゲル島、フラフト島と命名され、エンゲル島は母島、フラフト島は父島と比定される。なおこの艦隊の副官は、後にタスマニア島とニュージーランドへ最初に到達したヨーロッパ人となる、アベル・ヤンスゾーン・タスマン(Abel Janszoon Tasman)であった[7]。
- 1670年4月9日(寛文10年2月20日) - 紀州を出港した阿波国の蜜柑船が母島に漂着する。その後、長右衛門ら7人は八丈島経由で伊豆国下田に生還し、島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告される。2016年現在では、この報告例が日本人による最初の発見報告と考えられている[8]。
- 1675年(延宝3年) - 漂流民の報告を元に、江戸幕府が松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣する。調査船富国寿丸は36日間にわたって島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置した。これらの調査結果は、将軍をはじめ幕府上層部に披露され[9][10]、これ以降、小笠原諸島は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた。
- 1702年(元禄15年) - スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号 (Nuestra-Senora del Rosario) が西之島を発見し、ロザリオ島 (Isla de Rosario)と命名する。
- 1722年(享保7年) - 伊豆国の代官、山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申する[11]。
- 1727年(享保12年) - 貞頼の子孫と称する浪人の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出る[12]。「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。また小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである[13]。
- 1728年(享保13年) - 南町奉行大岡忠相より、貞任に対して無人島渡航の許可が下りたため、先遣隊が無人島へ派遣されるが、鳥羽を出発したまま行方不明となる[12]。
- 1735年(享保20年) - 奉行所が再度調査した結果、最終的に貞任の訴えは却下され、探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定された。このため、貞任は詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けた[14]。
- 1774年(安永3年)3月 - 八丈島の地役人服部源六、山下輿総らが幕府の命令を受けて無人島探検を行うが、鳥島近海で暴風に遭い、土佐国に漂着したため失敗に終わる[15]。
- 1779年(安永8年) - ジョン・ゴア(John Gore)が指揮する、イギリス軍艦レゾリューション号(HMS Resolution)とディスカバリー号(HMS Discovery)が火山列島を望見する[4]。
- 1785年(天明5年) - 林子平の『三国通覧図説』に「小笠原島」という名称が現れる。ただし林子平は小笠原諸島を訪れていない。
- 1810年(文化7年) - 天文方高橋景保が『新訂万国全図』に「無人島」を記入する。[16]
- 19世紀に入ると欧米の捕鯨船が寄港するようになる。
- 1817年(文化14年) - フランス人ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat)が、『三国通覧図説』から無人島に関する地図を添えてボニン諸島をフランスのアカデミー誌に紹介する。
- 1823年(文政6年)9月 - イギリスブリストルの捕鯨船トランジット号(Transit)が母島に来航し、母島をフィッシャー島(Fisher island)、沖港をポートコフィン(Port Coffin)と命名する。トランジット号は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である[17]。
- 1826年(文政9年) - イギリスの捕鯨船ウィリアム号(William)が父島の湾内で難破する。乗組員のほとんどは別の捕鯨船で父島を去るが、船員2名が父島に残留し、初めての定住者となる[18]。
- 1827年(文政10年)6月 - イギリス軍艦ブロッサム号(HMS Blossom)が父島に来航する。艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチー(Frederick William Beechey)は新島発見と思い違いし、父島をピール島(Peel island)、二見湾をポートロイド(Port Lloyd)、母島をベイリー島(Bailey island)と命名し、領有宣言を行った[19]。しかし、この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかった[20]。
- 1828年(文政11年)5月 - フョードル・ペトロヴィッチ・リュトケ(Фёдор Петрович Литке)が指揮するロシアの探検調査船セニャービン号(Сенявин)が父島に来航する。ウィリアム号の船員2名もこの時父島を後にした[21]。
- 1830年6月26日(文政13年5月10日) - ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら白人5人と太平洋諸島出身者25人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植する[22]。
- 1835年(天保6年) - 駐マカオ貿易監督官であるチャールズ・エリオット(Charles Elliot)が、イギリス政府に対して父島へ軍艦を派遣し、当地を占領するよう要請する[23]。これは清朝に対するイギリスの根拠地を求めたため[23]であり、この要請を受けて、イギリス海軍は軍艦ローリー号(HMS Raleigh)の派遣を決定する[23]。
- 1835年(天保6年) - 父島のリチャード・ミリチャンプ(Richard Millichamp)がロンドンに一時帰国[23]し、イギリス政府に小笠原移住民の保護を請願する[24][23]。
- 1837年8月2日(天保8年7月2日) - ローリー号が父島に来航し、各種の調査を行う。また当時の父島の人口を42名と報告している[25]。この調査の結果はイギリス政府に報告されたが、3年後に勃発したアヘン戦争とそれに伴う南京条約の結果、イギリスは香港を獲得したため、小笠原諸島の占領は見送られた[25]。
- 1839年(天保10年) - 蛮社の獄により、渡辺崋山ら11名が小笠原諸島渡航を企てた罪で捕縛される。その後の取り調べで小笠原諸島渡航に関しては疑いが晴れるが、4名が獄死し、5名が押込となった。高野長英は永牢(終身刑)となり、渡辺崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、蟄居を命じられる[26]。
- 1840年(天保11年) - 陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞ら6名は2か月かけて船を修理したのち、下総国銚子に帰還する[27][28]。
- 1846年(弘化3年) - 出島のオランダ商館長ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン(Joseph Henrij Levijssohn)が長崎奉行に対し、小笠原諸島の実効支配を行うよう忠告するが、幕府はこれを黙殺する[29]。
- 1847年(弘化4年) - ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航。後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになる。
- 1849年(嘉永2年)9月 - 父島が海賊の襲撃を受け、数人の島民女性が拉致された上、家畜、食糧、医薬品や現金2000ドルを強奪される[30]。
- 1853年(嘉永6年)6月 - アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが日本へ行く途中、琉球を経て父島二見港に寄港する。島民のために牛、羊、山羊や野菜の種子を与え、石炭補給所用の敷地を購入したほか、3条13項から成るピール島植民地規約を制定し、自治政府設置を促す[31]。
- 1853年(嘉永6年)8月28日 - ピール島植民地規約に基づき、ピール島植民政府が設立され、ナサニエル・セイヴァリーが首長となる[31]。
- 1857年(安政4年) - モットレー一家が母島(沖村)に居住する。
- 1862年(文久元年) - 幕府は外国奉行水野忠徳、小笠原島開拓御用小花作助らに命じアメリカから帰還したばかりの咸臨丸(艦長は小野友五郎)で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣[32]し、測量を行う。また、居住者に日本領土であること、先住者を保護することを呼びかけ同意を得る。同年6月(文久2年5月)駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告[32]。
- 1863年9月(文久2年8月) - 八丈島から38名の入植が開始される。
- 1864年6月(文久3年5月) - 生麦事件によって日英関係が悪化したことを受け、日本人移民が父島から撤収した[33]。
- 1864年(元治元年) - ハワイの宣教師船であるモーニングスター号(Morning star)が南鳥島を発見する[34]。
- 1866年(慶応2年) - フレデリック・ロース、母島(沖村)に居住。
- 1875年(明治8年)11月 - 明治政府が小笠原回収委員を明治丸で父島へ派遣する。
- 1876年(明治9年)3月 - 小笠原島の日本統治を各国に通告(日本の領有が確定)。内務省の管轄となる。日本人37名が父島に定住。内務省出張所設置。
- 1877年(明治10年) - 帆船による年 3回の定期航路開設。
- 1878年(明治11年) - 父島北袋沢に内務省勤農局出張所設置。
- 1879年(明治12年) - 日本人6名が母島に定住。
- 1880年(明治13年)10月8日 - 東京府の管轄となる[35]。
- 1880年(明治13年)10月28日 - 父島に、東京府小笠原出張所を設置。
- 1882年(明治15年) - 東京府出張所の行う行政に協議権をもつ会議所を設置し、議員15人を公選した。欧米系住民が全て日本に帰化した。
- 1886年(明治19年)11月4日 - 小笠原出張所を小笠原島庁へ改称。
- 1891年(明治24年)5月 - 東京府が、小笠原島各村に世話掛を公選させる。
- 1891年(明治24年) - 火山列島を小笠原島庁の所管にいれ、硫黄島を正式に日本領とした。
- 1893年(明治26年)11月 - 小笠原諸島の警察が、警視庁の管轄となる。
- 1898年(明治31年) - 南鳥島が小笠原島庁の所管となる。
- 1911年(明治44年)6月 - 父島に、府立小笠原修斉学園を開設。
- 1920年(大正9年)8月 - 陸軍築城部が父島支部設置。以降、砲台などの陸軍施設が建設されていく。
- 1925年(大正14年)3月15日 - 府立小笠原修斉学園廃止。
- 1926年(大正15年) - 小笠原島庁は、郡制の廃止とともに、東京府小笠原支庁に改称(北硫黄島ほか数島は小笠原支庁の直轄として残る)。
- 1927年(昭和2年) - 昭和天皇が戦艦「山城」で父島・母島を行幸し、母島の御幸之浜で海洋生物の調査を行う。
- 1928年(昭和3年) - 東京府東京市下谷区上野で「東京大正博覧会」開催。『小笠原館』で小笠原住民が"陳列"される。
- 1931年(昭和6年) - 沖ノ鳥島が小笠原支庁の所管となる。
- 1940年(昭和15年)4月1日 - 父島、母島、硫黄島に町村制が施行され、大村、扇村袋沢村、沖村、北村、硫黄島村が発足する。(ほか数島は小笠原支庁の直轄として残る)。
- 1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制の施行により東京都の管轄となる。
- 第二次世界大戦時に硫黄島は激戦地となり、父島なども日本軍により要塞化が行われた(父島要塞)。
- 1944年(昭和19年)7月 - 住民6,886人(残留者825人)は本土へ強制疎開(ただし、そのうち20余人が引揚のとき事故で死亡)。
- 1944年(昭和19年)9月2日 - アメリカ軍による日本軍の父島無電塔爆撃の際、ジョージ・H・W・ブッシュ中尉らの搭乗した雷撃機が日本軍により撃墜される。ブッシュは友軍部隊により救助され、後の1989年にアメリカ合衆国大統領になる。
- 1945年(昭和20年)2月19日~3月26日 - 硫黄島の戦いが行われ、日本兵18,375名と米兵6,821名が戦死する。
- 1945年(昭和20年) - 父島の日本軍守備隊によるアメリカ軍捕虜の処刑(人肉食については意見の相違あり)が発生(小笠原事件)。
- 1945年(昭和20年)9月3日 - アメリカ軍駆逐艦ダンラップ号(USS Dunlap (DD-384))にて、小笠原の日本軍降伏を調印。
- 1946年(昭和21年)1月26日 - 連合軍総司令部がSCAPIN-677を指令し、日本の小笠原諸島への施政権が停止される。
- 1946年(昭和21年)10月 - 連合軍総司令部が欧米系の旧島民とその家族135人のみに帰島を許可する。うち129人が駆逐艦欅で帰島し、ボニン諸島評議会(Bonin island council)と五人委員会が設立される。
- 1946年(昭和21年) - 小笠原支庁・村役場が東京都下谷区下谷小学校に移転する。
- 1947年(昭和22年)7月 - 旧島民たちによって、小笠原島・硫黄島帰郷促進連盟が設立される。
- 1948年(昭和23年) - 小笠原支庁・村役場が港区に移転する。
- 1948年(昭和23年) - ボニン諸島貿易会社(Bonin Islands Trading Company 略称:BITC)が設立される。
- 1951年(昭和26年) - 日本の気象庁がアメリカ政府の委託を受け、南鳥島で気象観測業務を行う[34]。
- 1952年(昭和27年)4月28日 - サンフランシスコ講和条約の発効により、小笠原諸島がアメリカの施政権下に置かれる。また、小笠原支庁及び上記5村が廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。
- 1956年(昭和31年) - ラドフォード提督初等学校(Admiral Radford Elementary School)が設立される。
- 1963年(昭和38年) - 南鳥島ロランC局が完成する。これを受け、南鳥島にアメリカ沿岸警備隊が駐留し、日本の気象庁職員は撤収する[34]。
- 1965年(昭和40年) 5月 - 第1回墓参団が渡島する。
- 1967年(昭和42年)11月16日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)により、小笠原諸島の日本への返還が決まる。
- 1967年(昭和42年)12月 - 日本政府に小笠原復帰準備対策本部を設置。
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年) - 本土と小笠原を結ぶ無線電話回線が開通した。
- 1970年(昭和45年) - 小笠原復興計画が閣議決定。
- 1972年(昭和47年) - 東京電力が小笠原父島内燃力発電所の操業を開始(120V/60Hzから100V/50Hzへ)。
- 1972年(昭和47年) 10月16日 - 小笠原諸島を国立公園に指定。小笠原支庁母島出張所および小笠原村役場母島支所の設置
- 1974年(昭和49年) - 父島および母島の全域を都市計画区域に指定。小笠原復興計画(改定10箇年計画)が閣議決定。
- 1976年(昭和51年) - 時雨ダムが完成。父島ケーブルテレビが開局。
- 1979年(昭和54年) 3月31日 - 小笠原諸島復興特別措置法が、小笠原諸島振興特別措置法と改正される。
- 1979年(昭和54年) 4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙。
- 1979年(昭和54年) 4月23日 - 小笠原村が真の自治体として発足し、村政が確立する(それまでは東京都小笠原支庁長が村長職務執行者であった)。
- 1981年(昭和56年) 12月24日 - 小笠原村基本構想を議決。
- 1983年(昭和58年) 6月21日 - 通信衛星による電話のダイヤル即時通話開始。
- 1984年(昭和59年) - 小笠原諸島振興特別措置法延長・改正。
- 1984年(昭和59年) 10月1日 - 小笠原諸島周辺海域の海難救難・外国漁船密漁取締りなどの目的で、全国52番目の海上保安署として小笠原海上保安署が開設。
- 1989年(平成元年) - 小笠原諸島振興特別措置法が小笠原諸島振興開発特別措置法と改正。村政確立10周年。父島と母島から考古学調査始まる。
- 1990年(平成2年) - 国土利用計画法の監視区域(200m2以上)に指定。北硫黄島の考古学調査。
- 1991年(平成3年)7月 - 北硫黄島で遺跡調査が行われ、石野遺跡が発見される。
- 1993年(平成5年) - 南鳥島ロランC局の施設が海上保安庁に引き渡され、アメリカ沿岸警備隊が撤収する[34]。
- 1994年(平成6年) - 天皇・皇后が小笠原諸島を行幸啓する。小笠原諸島振興開発特別措置法の一部改正。
- 1995年(平成7年) - 国土利用計画法の監視区域 (500m2) に再指定。
- 1996年(平成8年) - テレビ地上波放送開始。
- 2002年(平成14年) - アメリカ大統領退任後のジョージ・H・W・ブッシュが父島を訪問し、自らの乗機撃墜時に戦死した同僚を悼み、記念植樹を行う「小笠原村民だより」No.457 2002年7月1日号 (PDF) (日本語)。
- 2011年(平成23年) - 小笠原諸島がユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録される。日本国内の自然遺産は白神山地(青森県・秋田県)、屋久島(鹿児島県)、知床(北海道)に続く4か所目。東京都初の世界遺産であり、唯一の自然遺産でもある。
- 2011年(平成23年) 7月2日 - インターネット接続用の通信回線を、通信衛星経由による接続から海底光ケーブルを利用した接続へ切替工事を実施。同日の午前 5時より高速インターネット接続サービスの提供を開始。
- 2013年(平成25年)3月31日 - 父島・母島に、NHKのラジオ第1、ラジオ第2、FM放送の3波の中継局が設置され[36]、漸く小笠原での放送を開始する。[37]
入植の歴史[編集]
19世紀初頭林子平の『三国通覧図説』から小笠原諸島がボニン・アイランズ(Bonin Islands)としてヨーロッパへ紹介されると、各国の船舶が小笠原諸島へと寄港するようになった。
1827年イギリス海軍のブロッサム号を率いるフレデリック・ウィリアム・ビーチーが現在の父島二見港から上陸すると、前年行方不明となったイギリスの捕鯨船ウィリアム号の乗組員 2人と遭遇し、他国の船も来航していることを知ったビーチーは、領有宣言板を島内の木に打ち付け島を離れた。ビーチーより小笠原諸島の存在の報告を受けた在ホノルルイギリス領事は、ボニン・アイランズへの入植計画を進め、1830年欧米人5人と太平洋諸島出身者25人による入植団をつくり、現在の父島へ入植を果たした。この後も各国の船舶は、水や食料を確保したり病人を下船させるなど、様々な目的で頻繁に小笠原諸島に寄港した。
小笠原に漂着し外国船に助けられた日本人から伝わる情報や、ペリーの「小笠原諸島に関する覚書」におけるこの地への評価から、小笠原諸島は幕府首脳の関心を引いた。1861年江戸幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告した。1862年1月(文久元年12月)外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に赴き、外国人島民に日本が管理することを告げた。その後八丈島から日本人の入植者が送りこまれ開拓が始まった[38]。
米軍占領下の小笠原[編集]
米軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は 1か月に 1回グアム島からの軍用船によって行われた。欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められ、その多くは米軍施設で働いた。島民の自治組織として五人委員会が設けられた。島の子供たちは、軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で軍の子弟と一緒に学び、高等教育はグアム島で行われた。米軍によって戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められたことは、日本返還後も効率的な開発の都合から踏襲され、戦前の土地所有者との補償交渉で揉める[9]こととなった。後に、日本政府の意向を無視して父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことがアメリカの情報公開によって知れ渡った[9]。軍政時代に数基の核弾頭が保管されていた[9]という。1950年代にも国務省が小笠原の日本返還を検討したが、アメリカ海軍を始めとする国防総省が反対したため、頓挫[9]した。その理由は核兵器の保管が理由[9]だったという。返還後、欧米系住民の子弟は、日本語教育の困難な問題により米国に移住した者もいた。
文化[編集]
言語[編集]
欧米系住民が話していた英語やハワイ語の語彙と日本語八丈方言(八丈語)、日本語共通語が混合された独特の言語(「小笠原方言」などと呼ばれるピジン言語・クレオール言語[39][9])が存在する。
民謡[編集]
伊豆諸島の系統を引く大和民族的なものと、南洋諸島に移住した島民などから伝えられたミクロネシア系民族の影響を受けたものが共存する。後者の民謡は『南洋踊り』と呼ばれ、2000年に東京都指定無形民俗文化財となった。
食[編集]
固有の植物や海産物が多く採れ、ボニンコーヒー、海亀肉、島魚を使った焼き物・煮物・島寿司・味噌汁・ピーマカ(魚の酢漬け、ビネガーの転訛)、パッションフルーツ・マンゴー・パパイヤ・グァバなどを用いたデザートやリキュール、ダンプレン(ダンプリング、欧米系住民の食文化)などがある。
産業[編集]
小笠原の就業者のうち公務員が 3割を占め[9]、観光業や飲食業などを加えて第三次産業従事者が 7割超である。以下第一次産業が 1割、第二次産業が 2割[9]となっている。
パッションフルーツ、レモン、マンゴー、コーヒー(日本では沖縄諸島と小笠原のみ)の栽培のほか、はちみつ、塩、ラム酒の製造も行い、土産のほか本土にも出荷される。サツマイモやアサガオなど一部の農産物や植物は本土には存在しない害虫の移出を防ぐため、諸島外への持ち出しに厳しい制限があり、消毒などの手続きを要する。
他国のサンゴ密漁での密航船が増加し、衝突などを恐れて漁を控える漁船が相次ぎ、地元漁業へ近年問題化している。
自然[編集]
1972年(昭和47年)10月16日に一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。小笠原諸島は生物地理区の区分上において、日本で唯一オセアニア区に属している[40]。また、形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。しかし、人間が持ち込んだ生物や島の開発などが原因でオガサワラオオコウモリやオガサワラノスリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロなどの動物やムニンツツジ、ムニンノボタンといった植物など、いくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。1980年(昭和55年)3月31日に国指定小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積5,899ha、うち特別保護地区1,331ha)。周辺の海域では鯨やイルカが生息しており、それらを見るために島を訪れる人も多い。また陸上では、人間が持ち込み野生化したヤギも生息している。
2011年には世界遺産に登録された。その範囲は小笠原諸島の自然#世界遺産を参照のこと。
気候[編集]
| 父島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 南鳥島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は小さい。春 - 初冬にかけて台風の接近・影響を受けることが多い。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[41]。
気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所( 2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[42]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報が発表されていなかった[43]。ただし、小笠原諸島周辺海域は2017年現在でも地方海上予報区[44]の区域外であり、海上警報も発表されない。
教育[編集]
父島に小笠原村立小笠原小中学校と東京都立小笠原高等学校、母島に小笠原村立母島小中学校があり、初等教育および中等教育の教育機関は揃っているが、高等教育を受けるために島を離れる子供は多い。孤島ゆえに教員の数も不足しがちと記載されている書物もあるが[9]2009年現在のところ定員確保はされている。NHK学園・放送大学などの通信教育を積極的に活用するなど質の高い教育を維持するための模索が続いている。21世紀になってから小笠原でも生涯学習機関設置の要望が高まってきており[9]、どのようにすべきか検討している。
ショッピング[編集]
本土からの物資輸送は定期船「おがさわら丸」入港日に商店に品物が入荷されるため、その直前は販売品が少ない。小笠原諸島では曜日に関係なく船の入港日に合わせた活動が行われている事例があり、船が島に停泊していない(船が東京に戻り、観光客も大半がいない)日は閉まっている店舗も少なくない。都では生活必需品に限り運送費を補助し、価格の安定化を図っている。
物流面の制約からファーストフード店やコンビニエンスストアといったチェーン店は存在しないが、個人経営の食堂や商店などはあり、食料品や日用品も販売している。書店はなく、購入できるのは商店で売っているごく限られた雑誌や本のみである。新聞の宅配もなく、おがさわら丸の入港時に一週間分の新聞をまとめて商店に並べる。
父島[編集]
スーパーマーケット(レジ袋は有料)、レストラン、薬局などは揃っている。父島の農協(JA)直売所では諸島内で収穫される亜熱帯果物が手に入る。現金自動預け払い機(ATM)は東京島しょ農業協同組合(JA東京島しょ)小笠原父島支店と小笠原郵便局、信組系カードは七島信用組合小笠原支店で利用可能。かつては富士銀行が存在した(東京都小笠原出納事務所があったころ(1987年 - 2000年)、それに付随する東京都公金取扱金融機関として富士銀行本店公務部小笠原出張所が存在し公金の出納業務のみ扱った)。クレジットカードなどによる現金引き出しはゆうちょ銀行ATMでのみ利用可能。
母島[編集]
飲食店、商店がJA・漁協売店を含めて数軒、鮮魚店とガソリンスタンドが各 1軒存在する。「飲み屋」を除いては概ね午後 6時までの営業である。定休日は農協売店がおがさわら丸出港日翌日、漁協売店が日曜日、個人経営の商店も日曜日、但し、おがさわら丸入港中は日曜日も営業となっている。鮮魚店は平日午前 8時から 2時間の営業。理髪店は無い。
ATMはJA東京島しょ小笠原父島支店母島店(2006年10月までは「小笠原母島支店」があったが統廃合により「小笠原父島支店」に統合された)があり、外国の金融機関を除く金融機関のキャッシュカードやクレジットカードが使用できる(稼動時間:平日午前 8時30分から午後 4時まで)。郵便局のキャッシュカードは農協に併設されている簡易郵便局窓口を使用すれば、手数料無料で利用できる(窓口開設時間:平日午前 9時から午後 2時30分まで)。
通信など[編集]
郵便[編集]
- 父島と母島に 1局ずつ設置されている。 2局とも風景印が配備されている。
- 小笠原郵便局 - かつては、小笠原村全域を郵便区とする集配普通郵便局であった。営業時間は特定郵便局と同じ扱いであり、他の普通局より短い。ゆうちょ銀行ATMは小笠原局と二見港の船客待合所内に設置されている。2007年(平成19年)3月5日付けで無集配局化され、これまで行ってきた集配業務は新東京郵便局(民営化後は郵便事業新東京支店)に継承された。
- 母島簡易郵便局 - JA東京島しょ小笠原母島店が簡易郵便局業務を受託している。かつては局内の私書箱へ住民が取りに来る方式だったが、1997年(平成9年)からはJAが配達業務も受託している[45](以前は年内に年賀状を受け取ることができたが、2009年以降は内地同様1月1日に配達される)。また、ATMが設置されているが、本土に比べ稼働時間が短い(平日午前 8時から午後 4時まで)。
宅配便[編集]
自社による宅配便事業を行っているのは、日本郵便(ゆうパック)の 1社のみである。他の宅配便業者は基本的に小笠原海運を通して、地元にある運送会社に連絡運輸(他業者差込)という形をとっている。なお、「おがさわら丸」が宅配便を扱う事実上唯一の交通手段になるため配達には相応の時間を要する。また、期日指定が出来ないほか、各社ともクール便の取り扱いはしていない。
上記の理由により通信販売は制約が生じる場合がある。ニッセンなど小笠原諸島への取り扱いを行っていない業者もあるほか、特に依頼すれば不可能ではないものの通常の配送体系ではなく島内の運送会社への連絡運輸になるため高額な別料金(離島料金)が発生するケースや、別料金になることを断わった上で通常の契約業者ではなくゆうパックで発送するケースもある[要出典]。また、商品の発送については代金引換の対応を行わなかったり銀行振込による代金先払いを要請する業者もあるという[46]。それでも、小笠原諸島の住民にとって通信販売は日用品を得る貴重な手段である。
小笠原諸島は、ヤマト運輸の宅急便のサービスが日本で最後(1997年11月)に営業を開始した地域である。同社はサービス開始当初、新聞の 1ページ全面広告で最後の営業開始地域が東京都である旨を見出しにして、全国100%がサービスエリアであることをPRした。なお、父島にあった宅急便センターは後に撤退している[47]が、運賃体系は引き続き通常のものが適用している。
電話[編集]
小笠原の電話は、戦前に本土 - 小笠原 - グアム間の海底ケーブルがあり、1905年(明治38年)に本土との公衆電話が開通している。戦後は1969年(昭和44年)に父島から銚子無線電報局を相手に短波回線により運用を開始したことに始まり、1983年(昭和58年)まで短波帯多重無線による電話が行われていた。当時は回線が数回線しかなく、オペレーターに通話を申し込む方式で電話が殺到すると待たされることも多かったようである。電波障害により雑音が交じり、通信が困難になることも多かった。1983年(昭和58年)からは通信衛星を利用した本土とのダイヤル即時通話が始まった。しかし衛星を利用しているため音声が若干遅れる。
母島において戦後、一般加入電話は1983年(昭和58年)まで小笠原村役場母島支所、小笠原島農業協同組合母島支店(当時)、小笠原母島漁業協同組合の 3回線のみであった(東京都小笠原支庁母島出張所は行政無線、五洋建設は独自に短波帯に無線回線を持っていた)。
携帯電話は1999年(平成11年)から父島と母島の一部でNTTドコモの音声通話のみ使えるようになったが、当初はi-modeが使えなかった。FOMAは2006年(平成18年)6月8日よりFOMAプラスエリアとして父島と母島の一部地域で使えるようになり、movaでは利用出来なかったi-modeとデータ通信も含め、FOMAの全サービスを利用出来るようになった。利用可能機種はFOMAプラスエリア対応機種に限られる(iPhone3G、3GS、4のSIMフリー版は、正式には対応していないが、FOMAプラスエリア周波数帯を受信出来るため、利用可能である)。
KDDIのauは2007年(平成19年)3月末までに父島の一部地域からサービスを開始し、EZwebも利用可能。母島は2012年(平成24年)7月よりサービスを開始した[48]。
SoftBankは2011年9月6日に父島、2011年11月上旬には母島にて 3Gハイスピードのサービスを開始した[49][50]。
インターネット[編集]
※ 特記無い場合は父島・母島。
- 固定
- 小笠原村により父島・母島のほとんどの世帯に光ファイバーケーブルが敷設されている。従来は本土との間で衛星回線を使用して接続していたため一般契約者の諸島外との通信速度は決して速くはなかったが、定額料金で利用できる。また衛星回線を大量に確保し、それを束ねることによって、本土と小笠原村役場間の回線のみ1Mbpsの回線が確保される運用も行われていた。一般利用ができる高速回線は「小笠原村情報センター」(父島)にあり、持込または備付のパソコンが使用できる。
- 2011年7月2日午前 5時より従来の衛星電話回線を父島・母島内IPネットワークのバックボーンとして利用したインターネット接続サービスから、海底光ファイバーケーブルを利用した高速インターネット接続サービスへ切り替え工事が実施され、名実ともに父島・母島内でブロードバンドインターネット接続サービスが利用できるようになった。これに併せて衛星回線経由によるサービス提供時には通信ポート制限を行なっていたが同日のバックボーン切り替え以降、通信ポートの制限は撤廃された。運用保守はNTT東日本。
- なお、宇宙航空研究開発機構は2009年11月15日から24日の間、超高速インターネット衛星「きずな」 (WINDS) による初のブロードバンドインターネット接続利用に向けた実証実験を父島にて行なった[51]。
- 移動体
- NTTドコモの携帯電話では、FOMA開始によりパケ・ホーダイを利用して定額でi-mode経由によりインターネットも使えるようになった。2007年3月1日、パケ・ホーダイフルが開始(PC用のウェブサイトを含め定額で閲覧可能)。
- 同年10月、PC向け定額インターネット「定額データプラン」が開始された(同サービスは利用出来るプロトコルや一部のサイトが閲覧できないなどの制限がある)。
- 同年12月22日、au(KDDI)が開始したPC向けデータ定額プランが利用可能になった。2009年1月27日にNTTドコモもパケ・ホーダイダブルがPCおよびPDAでのデータ通信に関しても定額対象とし、従前のFOMA定額サービスとは異なり利用するサービス(動画観覧、FTPなど)に制限無くPCによる定額データ通信が可能になった。
- 前述のとおりSoftBankは2011年9月6日に父島、2011年11月上旬には母島にて3Gハイスピードのサービスを開始した。
- また、ウィルコムが提供する、FOMA回線(MVNO)を利用したWillcomCORE3Gサービスを開始し、端末・サービス限定ではあるが、利用可能である。
- イー・モバイル、ウィルコム(PHS)、UQコミュニケーションズ(WiMAX)はサービスエリア外である。
アマチュア無線[編集]
アマチュア局に対してJD1で始まる(プリフィクスという)コールサインが本諸島地域へ指定される(本土及び伊豆諸島とは別地域扱いされる)ことから、このコールサインを使用した交信を行うべくアマチュア無線の運用を目的とする旅行者も存在する。 父島にアンテナなどの設備一式を備えた宿(民宿「境浦ファミリー」)があり、貸し出してくれるため簡単に運用することが可能である。
アメリカ無線中継連盟 (ARRL) が発行するDXCCというアワードにおいては、日本は南鳥島、南鳥島以外の小笠原諸島、小笠原諸島以外の3つのエンティティに分けられている。 南鳥島については他の陸地と大きく離れており、別のエンティティとされる。 南鳥島以外の小笠原諸島は、日本本土との最短距離が177マイル で距離に関する規定の225マイル以上は満たさないが、行政上の扱いによる規定により、日本復帰時に「小笠原が本土と異なるコールサインを使う」との条件により、日本アマチュア無線連盟が郵政省に折衝し、JD1のプリフィクスのコールサインを指定することで本土とは別のカントリー(当時の呼称、1998年改称)になった。 なお、QST(ARRL機関誌)1949年3月号のカントリーリストによると日本復帰前のコールサインは米国のKG6IA-IZ(太平洋諸島信託統治領の一部)が指定されていた。 1972年の沖縄県の本土復帰にあたっては小笠原のようなコールサインの指定が行われなかったため、沖縄県は本土と同じエンティティとして扱われている(復帰前の沖縄はKR6(米軍関係)およびKR8(琉球人))。
また、電話の項に記述しているが、以前は本土との有線系電話が非常につながりにくかったことや、父島と母島間の通話が困難だったことからかなりの島民が開局していたが、有線系電話回線の改善によりその数は減少した。開局していた島民の大部分は単に日常通信手段としてアマチュア無線を使っていたためで、2014年3月31日現在、島民による島外向け運用は父島・母島(小笠原村で住民登録できるのは父島・母島のみ)あわせても一桁程度で、JD1のアマチュア局が聞こえていても、その運用のほとんどが旅行者によるものである。
放送[編集]
日本国内向けの衛星放送(BS・CS放送[52])は視聴できるので、ここでは地上系による放送に限って記述する。
テレビ[編集]
地上波テレビ放送はアナログ放送のみ放送されていたが、2011年7月24日正午をもって地上波中継を停止し、以降は村が敷設した光ファイバーケーブルによる小笠原村ケーブルテレビ経由となっている。
地上波中継停止前のテレビチャンネル[編集]
| 局名 | 父島 | 母島 |
|---|---|---|
| NHK BS1 | 9ch | 10ch |
| NHK BSプレミアム | 11ch | 12ch |
| TOKYO MX | 47ch | 48ch |
| NHK Eテレ | 49ch | 50ch |
| NHK総合 | 51ch | 52ch |
| 日本テレビ放送網 | 53ch | 54ch |
| TBSテレビ | 55ch | 56ch |
| フジテレビジョン | 57ch | 58ch |
| テレビ朝日 | 59ch | 60ch |
| テレビ東京 | 61ch | 62ch |
沿革[編集]
小笠原のテレビ放送は1976年に父島、1977年に母島にケーブルテレビ局が開局し、本土から船便で送られたテレビ番組を 1日数時間放送したことに始まる(後述のBS実用化放送開始により廃局)。この方法ではニュース番組が生放送できないため、共同通信が自社の船舶向けファクシミリ通信で、小笠原向けニュース配信を行っていた。
本土と変わらないテレビ放送としては、1984年のNHK-BS実用化放送開始により、小笠原でもBSの番組が視聴できるようになったことに始まる。1996年から、東京都による「難視聴対策用衛星中継回線」の運用が始まった。 江東区青海にあるテレコムセンターにて、東京タワーから発射されるNHKや民放の放送を受信し、デジタル圧縮を行い、信号のスクランブル化を施し、SHF波(Ku-band 14GHz帯)に変換した後、電波を通信衛星JCSAT-3号に送信(アップリンク)していた。
地上波をわざわざスクランブル化とデジタル圧縮を施していた理由は、衛星回線を使用しているため、小笠原地域以外(本土や近隣諸国など)でその電波を傍受される可能性があり、再送信目的の放送を他地域で視聴されるのを防止するためである。スクランブル方式は「小笠原向け方式」と云われる独自の方式で、このスクランブルを解読するデコーダーは、一般では入手出来なかった。
衛星ではCバンド(4GHz帯)に周波数変換され、父島と母島にある地上局でそれぞれ受信(ダウンリンク)、スクランブルを解読(デスクランブル)し、上表のUHF波に変換した上で、島内設置の送信所からUHF再送信していたが、一部の地区では共聴受信により、東京タワー本局とほぼ同じチャンネルで受信できるようにチャンネル変更していた(ただしTBS 4ch、TOKYO MX 5ch、日本テレビ 6chとなっていた。NHK-BSは上表と同じ)。衛星回線の使用には年額 4億円もの莫大な費用がかかることから、この放送の視聴のため島民から毎月3,000円を「テレビ放送受信費」として徴収し、NHKや在京民放各社も費用を出していた。
天候変化に弱いマイクロ波の衛星回線を使用しているため、大雨時などの際に受信障害が発生していた。
2011年7月のアナログ放送終了による地上デジタル放送への移行について、衛星回線経由と海底光ファイバーケーブル経由が検討されていたが、インターネットなどの通信事業と併せて、都が主体で情報基盤が整備されることとなり、小笠原向けの地上デジタル放送の伝送は「統合情報基盤光ケーブル」と称される海底ケーブル経由で行われることとなった[53]。報道によると、2009年内に業者選定および工事発注を行い、2011年7月の地上アナログ放送終了までには整備を終わらせる予定とのことである[54]。
また、父島・母島両島内での地上デジタル放送の伝送方法については、現行の中継局設置ではなく、既設の小笠原村営光ファイバーケーブルによる小笠原村ケーブルテレビを利用することとなった[55][56]。
2011年5月18日、統合情報基盤光ケーブルと小笠原村ケーブルテレビを通じ、在京各社の地上デジタル放送の試験放送が開始された。放送開始までの間は、TOKYO MXを除き、地デジ難視対策衛星放送(BSセーフティーネット/標準画質放送)によって、地上デジタル放送が受信できる地域に指定されていた[57]。統合情報基盤光ケーブルでの放送波の伝送ルートは、八丈島にある八丈中継局を同島内で受信し、ここから父島および母島に向けて海底伝送される[58]。
ラジオ[編集]
小笠原諸島には長らくNHK、民放を含めてラジオ中継局が存在しなかったため、超短波(FM)放送は異常伝播時以外は全く聴くことができず、中波放送も一部地域を除き電離層に反射して届く夜間に限り聴くことが出来る状態で、直接受信で終日聴取可能な国内放送はスターデジオ等CSラジオ各局、BSデジタルラジオの放送大学、短波放送のラジオNIKKEIだけであった。
国外向けの短波放送、NHKワールド・ラジオ日本が受信される場合もある(短波のほかNHKワールドのテレビ放送で使用している衛星を用いたデジタルラジオ放送も行われているが、こちらは国外衛星放送受信装置とCバンドのLNB、パラボラアンテナ(国内衛星放送より大きめのサイズ)を用意すれば終日、安定した電波、テレビ・FMラジオ並みの高音質で聴取可能)。
NHKの国内放送に関しては、放送法で「協会は、中波放送と超短波放送とのいずれかおよびテレビジョン放送が、それぞれあまねく全国において受信できるように措置をしなければならない」と定められているため、中波放送(NHKラジオ第1・第2)または超短波放送(NHK-FM)のどちらかの中継局は必ず設置し、終日聴取できるようにしなければならない義務があるものの、長らく開局の目処が立っていなかったが、2013年3月31日から、父島・母島の両地区にあったアナログテレビ放送の中継局を再利用する形で、NHKラジオ第1・第2・FM放送の3波すべてで中継局が設置された。なお、中波のNHKラジオ第1・第2は、外国波による混信対策のため、FM波での送信である。
| 局名 | 父島 | 母島 |
|---|---|---|
| NHK東京 FM |
79.6MHz | 79.6MHz |
| NHK東京 第1 |
82.6MHz | 82.6MHz |
| NHK東京 第2 |
84.6MHz | 84.6MHz |
ラジオ放送の再送信[編集]
NHK東京第1放送とTOKYO FMは、小笠原村が村営光ケーブル回線を利用して実施している防災行政無線の戸別受信機により、モノラルで聴くことができる。
両局以外の放送については、在京の民放ラジオ各局(TOKYO FMおよび東京隣県FM3局含む)がインターネットラジオ「radiko」により、NHKのラジオ第2・FM放送(東京第1放送含む)は、2011年9月1日に運用開始されたインターネットラジオ「NHKネットラジオ らじる★らじる」により配信しており、PCやスマートフォンからインターネット経由で聞くことができる。
医療[編集]
父島と母島にそれぞれ村営診療所があり医師と歯科医師がそれぞれ常駐している。問診のみならず、一般的な血液検査機器(自動血球計算器、自動生化学測定器など)および、超音波画像診断装置、上部消化管内視鏡、単純X線撮影装置、X線透視装置、ヘリカルスキャンCT装置が両島に配備されている。これは特に母島診療所においてこの規模の離島としては国内に類を見ない設備[59]である。これを補完するために専門医による診療は定期的巡回診療の際に行われる。
診療所で対応困難な急病人が発生した場合は村役場からの連絡を受け、東京都知事が海上自衛隊に出動要請を行って海上自衛隊機で搬送することになる(後述)。慢性疾患や出産により島民が長期の離島を余儀なくされるケースは多く、中には今後の健康上の問題から、本土の病院に運ばれたまま退院後の帰島を諦めざるを得ない人もいるという。
急患搬送[編集]
本土から小笠原諸島へは非常にアクセスしにくいため、島内で急を要する重病が発生した場合、海上自衛隊硫黄島航空基地所属のヘリコプターにより硫黄島を経由して海上自衛隊や航空自衛隊の航空機によって本土に搬送されるか海上自衛隊岩国基地に本部を置く第31航空群第71航空隊の厚木分遣隊(海上自衛隊厚木基地に常時1機が待機)所属の飛行艇で本土までの搬送を行っている。以前は小笠原のヘリポートに夜間照明が設置されていなかったため「夜間に発病すると手遅れ」とも言われていた[9]が、現在は夜間でも搬送ができる。
交通[編集]
父島と母島以外の島には公共交通機関またはそれに準ずる一般客向け輸送機関が存在しない。
本土から父島[編集]
- 小笠原海運「おがさわら丸」(通称:おが丸)
- 東京港(竹芝桟橋)と父島(二見港)を結ぶ貨客船(所要時間24時間、おおむね観光シーズンは 3日に 1便、オフシーズンは 6日に 1便就航)。片道運賃は等級によって異なり、2万2570円 - 5万6490円、夏期 2万5100円 - 6万2790円)。2016年(平成28年)7月から新造船である 3代目おがさわら丸の就航により所要時間が約 1時間30分短縮された。
- テクノスーパーライナー (TSL)「SUPER LINER OGASAWARA」(最高時速約70km、総トン数1万4500トン、乗客数740人)が2006年春以降に就航する計画があり、実現できれば所要時間は約17時間に短縮される見込みだった。しかし、現在のおがさわら丸に比べ接岸時には悪天候に弱く、また高速航行でエネルギー効率(燃費)が悪く(船は速度が上がるにつれて造波抵抗の影響でエネルギー効率が悪くなる)、燃油価格の高騰も理由として、小笠原海運は2005年8月にTSLの就航中止を発表した。
- 共勝丸「第二十八共勝丸」
母島のアクセス[編集]
- 伊豆諸島開発「ははじま丸」
- 父島二見港と母島沖港を結ぶ貨客船。1日0.5 - 1往復就航(所要時間 2時間、休航日あり)。おがさわら丸入出港日は接続するダイヤを組む(片道運賃 1等7,560円、 2等3,780円)。平成28年7月に新造船の就航が予定されている。
- 共勝丸「第二十八共勝丸」
- 東京港と母島を乗り換え無しで結ぶ唯一の船便。父島 - 母島間は所要約 3時間(東京 - 母島間の片道運賃 2万円、父島 - 母島間の片道運賃2000円)。
父島内[編集]
父島には小笠原村営バスが運行されている(東京都シルバーパス使用可)。他には観光タクシー、レンタカー、レンタルスクーター、レンタサイクルがある。諸島外から自家用車やバイクを持ち込む場合は貨物扱いとなり、125cc以下のバイクはチッキ(受託手荷物)扱いとなる。
母島内[編集]
母島には定期公共交通機関がない。レンタカー、レンタルスクーターがある。レンタカー、レンタルスクーターの取り扱い店は共に 1軒であり、それぞれ保有台数は少ない。予約をしておらず、当日朝の先着順で貸し出しを行っている。その他、島内各地へは有償運送(乗合タクシー)を行っている。母島発遊覧・遊漁船が運行している。
空港建設問題[編集]
かつて父島には洲崎地区に旧・日本軍の飛行場があったが戦後飛行機が発着できる場所がない。 空港のない父島列島には以前から民間航空路線開設の要望がある。防衛省の報道資料「急患輸送実績について」の通り、現在でも海上自衛隊岩国基地所属の飛行艇US-1A、US-2が父島に飛来することがあるが、急病人および東京都知事や閣僚など要人の搬送を目的とする場合に限られている。
下記の都議会予算特別委員会などで今までに父島洲崎(1000m級滑走路)、兄島(1600m級滑走路)、父島時雨山(しぐれやま)を予定地とする空港建設がそれぞれ検討された。しかし滑走路が短すぎる(洲崎候補地)、父島との交通手段を確保する必要がある(兄島候補地)などの困難を伴うことや世界で唯一の植物群落などの貴重な動植物の保護の必要があることから空港建設のめどは立っていない。羽田空港からの民間飛行艇による運航や自衛隊硫黄島航空基地を経由した大型ヘリコプターによる運航、同じく硫黄島から船便での運航など空港を父島列島に建設しなくてすむ方法も検討されているが、結論は出ていない。
古くからの住民の多くは空港建設を熱望している一方で、小笠原の自然に惚れ込んで移住した新住民の多くは秘境らしさを残したいために空港建設に消極的であるなど、島民の意見もまとまっていないといわれる[60]。
2000年には横浜港と小笠原(兄島)との間を飛行艇で定期航空路を開設する計画を横浜国際航空が発表したが、実現していない。
2005年、東京都知事石原慎太郎はテクノスーパーライナーの就航断念を受け、空港が「地域振興に極めて必要である」として、環境に配慮しながらも最低限の第三種空港を建設する意欲を明らかにした[61]。 その方法として、羽田空港D滑走路建設で検討されながらも採用されなかった「メガフロート」と地上滑走路の併用を考えていることを明らかにした。2006年3月15日の都議会予算特別委員会で石原都知事は「(かつて旧日本軍が建設した飛行場があった)父島洲崎地区を(空港として)利用したい」旨、表明した[62]。想定している滑走路の長さは、最大でリージョナルジェットが運行可能な長さを想定している。
なお、伊豆諸島間を結んでいる東京愛らんどシャトルで使用しているシコルスキーS-76C(航続距離約800km)は、父島 - 八丈島空港約700kmを3時間前後で飛行できるが、定期便を開設する、2機ある機体の内予備機を急患輸送に利用するなどの案はみられない。 実際に利用する場合は、シコルスキーS-76Cでは航続距離に余裕が無いため、「警視庁航空隊も保有しているAW139(航続距離約1250km)など、より航続距離の長い機種を使用する」、「途中の青ヶ島で給油する」などの検討が必要となる。
主な機関[編集]
父島[編集]
- 国
- 東京都
母島[編集]
- 東京都小笠原支庁母島出張所
- 小笠原警察署母島駐在所(警視庁管内で最南端の駐在所)
- 小笠原村役場母島支所
南鳥島[編集]
- 気象庁南鳥島気象観測所
- 海上自衛隊南鳥島航空派遣隊
※ 海上保安庁南鳥島ロランC局は、2009年(平成21年)12月をもって運用を終了している。
脚注・参照[編集]
- ^ 地方税法第294条の規定による。
- ^ 東京都・土地分類基本調査「父島・母島」1992
- ^ 小田静夫・水山昭宏編集『発掘された小笠原の歴史 (Ogasawara Archaeology and History)』小笠原村教育委員会発行、2002年)
- ^ a b 歴史:硫黄島 « 小笠原村 公式サイト (日本語)
- ^ 田中 p17
- ^ 田中 pp10-12
- ^ 田中 pp17-18
- ^ 田中 pp2-7
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o ダニエル・ロング『小笠原学ことはじめ』 南方新社、2002年(ISBN 9784-9313-76762)
- ^ 田中 pp7-9
- ^ 田中 p9
- ^ a b 田中 pp9-10
- ^ 田中 p15
- ^ 田中 pp12-13
- ^ 田中 p68
- ^ 松尾[2014:220]
- ^ 田中 p35
- ^ 田中 p26
- ^ 松尾[2014:220]
- ^ 田中 p29
- ^ 田中 p26
- ^ 最初の入植者である25人の出身地は、欧米人はアメリカ人2名、イギリス人2名、デンマーク人1名で、太平洋諸島出身者はハワイ諸島出身者7名をはじめ、マリアナ諸島、カロリン諸島のポンペイ島、ギルバート諸島、マルキーズ諸島、タヒチなど、ポリネシアやミクロネシア各地からの出身者で構成されていた。 田中 pp41-42, p62
- ^ a b c d e 田中 p57
- ^ 松尾[2014:221]
- ^ a b 田中 pp61-65
- ^ 田中 pp85-87
- ^ 松尾[2014:221]
- ^ 接触と変容の諸相 : 江戸時代漂流民によるオセアニア関係史料
- ^ 田中 pp74-75
- ^ 田中 pp49-50
- ^ a b 田中 pp94-95
- ^ a b 15.「咸臨丸風波ノ図」 (日本語) - 外務省
- ^ 田中 pp205-206
- ^ a b c d 歴史:南鳥島 « 小笠原村公式サイト (日本語)
- ^ 明治13年太政官布告第44号 (日本語) - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 父島中継局・母島中継局とも、ラジオ第1・ラジオ第2はFM波に変換して、FM放送はそのまま放送。
- ^ NHKのウェブサイトには掲載していないが、小笠原村の広報誌「小笠原村民だより 平成25年3月1日付(小笠原村総務課発行)[1] (日本語)」に開局情報を掲載している。
- ^ 田中弘之 『幕末の小笠原』 中央公論社、1997年。ISBN 4121013883。
- ^ ダニエル・ロング「小笠原諸島における言語接触の歴史」『日本語研究センター報告』6号、1998年、[2]
- ^ 世界遺産条約暫定リスト 環境省、林野庁
- ^ お天気Q&A (日本語)
- ^ 気象レーダー観測の概要について|気象庁 (日本語) - 2010年10月16日閲覧
- ^ 気象庁・報道発表 (日本語)
- ^ 気象庁・地方海上予報区 (日本語)
- ^ 「わたしたちの小笠原」(小笠原村教育委員会発行・小学生用副読本)
- ^ 第2章 島の生活>7 インフラ (日本語) - 小笠原暮らし(窪田悦子、TactPlanning)
- ^ 最寄店検索 (日本語)でセンターが検索されず、既に撤退していることが確認できる。
- ^ auサービスエリアマップ (日本語)
- ^ 小笠原村観光協会トピックス (日本語)
- ^ ソフトバンクピンポイント検索 (日本語)
- ^ “超高速インターネット衛星「きずな」 (WINDS) による初のブロードバンド・インターネット実利用に向けた実証実験について” (プレスリリース), 宇宙航空研究開発機構, (2009年11月2日) 2011年7月3日閲覧。
- ^ 「小笠原地域におけるブロードバンド化促進に関する検討会」報告書 1-2-5 (PDF) よりスカパー!は小笠原の地上波で使用している衛星と同じ衛星 (JCSAT-3A)を使用して放送を行っている。スカパー!のサービスエリアはJCSAT-3Aの衛星カバーエリア(Kuバンド)を参照。
- ^ 東京都建設局・小笠原の情報基盤整備について (日本語)
- ^ 日刊建設工業新聞 2009年7月17日報道 - 2009年8月1日閲覧
- ^ これは、放送中継局の設置に莫大な予算費用と工事期間を要するためである。
- ^ 総務省関東総合通信局・東京都小笠原村への海底光ファイバーケーブル敷設に補助金交付決定≪医療画像伝送や超高速インターネットの利用及び地デジ視聴が可能に≫ (日本語) - 2010年2月5日閲覧
- ^ ただしTOKYO MXは、海底ケーブルによる地上デジタル放送の試験放送開始まで、本土から船便で送られたテレビ番組を3週遅れの内容で丸1日放送していた。
- ^ 地上デジタル放送の送信チャンネルは八丈中継局と同じ。
- ^ 小笠原100の素顔〜もうひとつのガイドブック〜 東京農業大学出版会
- ^ 2008年7月5日付 東京新聞夕刊
- ^ “小笠原・父島に空港検討 超高速船代替で石原都知事”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2005年10月28日). オリジナルの2011年10月25日時点によるアーカイブ。
- ^ “小笠原空港は父島・洲崎に 石原都知事”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2006年3月15日). オリジナルの2013年5月12日時点によるアーカイブ。
- ^ [立川飛行場 → 父島片道1010キロ 平成12年11月18日 http://www.geocities.co.jp/Technopolis/2415/chronology06.html] (日本語)
関連書[編集]
- 田中弘之『幕末の小笠原--欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』 中央公論社、1997年、ISBN 4121013883
- 石原俊『近代日本と小笠原諸島--移動民の島々と帝国』 平凡社、2007年、ISBN 9784582428025
- 石原俊『<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』 弘文堂(現代社会学ライブラリー 12)、2013年、ISBN 9784335501333
- 松尾龍之介『小笠原諸島をめぐる世界史』 弦書房、2014年、ISBN 978-4-86329-100-3
関連項目[編集]
- 伊豆諸島
- 伊豆・小笠原海溝
- 五人委員会
- 村政審議会
- 日本の秘境100選
- 本土復帰
- 白洲次郎 - サンフランシスコ講和会議での吉田首相の演説原稿に小笠原諸島などの施政権返還を内容に入れさせた。
- 東京都の観光地
外部リンク[編集]
官公庁・公共的機関など[編集]
- 小笠原村 公式サイト (日本語)
- 小笠原ブログ (日本語)
- 小笠原海上保安署 (日本語) - 海上保安庁 第三管区海上保安本部
- 小笠原村社会福祉協議会 (日本語)
- 小笠原高齢者在宅サービスセンター (日本語) - 社会福祉法人 明老会
観光など[編集]
- 小笠原村観光協会 (日本語)
- 小笠原母島観光協会 (日本語)
- 小笠原ホエールウォッチング協会 (日本語)
- 小笠原海洋センター - NPO法人 エバーラスティング・ネイチャー
メディア[編集]
- 小笠原新聞社 公式サイト (日本語)
- 小笠原チャンネル (日本語) - ※ ポータルサイト
資料[編集]
- 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)(データベース『世界と日本』) - 東京大学 東洋文化研究所(田中明彦研究室ほか)
- “「小笠原地域におけるブロードバンド化促進に関する検討会」報告書”. 総務省 関東総合通信局 (2006年11月). 2010年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月23日閲覧。
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